芥川龍之介 手帳3―15
《3-15》
〇×二つの情死 一つは成功し一つは失敗す love は同じ or 成功せる方少し
[やぶちゃん注:「×」があるが、私はこれも未定稿の「河内屋太兵衞の手紙」のプレ構想のような気がしてならない(同未定稿は次の《3-16》で示す)。]
○現在關係しつつある女の事をと初めて逢つた時の事を考へる さうしてその時の she の美しかつたのに驚く she はその時子供らしく今は動物的なり
[やぶちゃん注:これは構想というよりも、秀しげ子との関係の変化を示すものと一致する。「或阿呆の一生」の、
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二十一 狂人の娘
二台の人力車は人氣のない曇天の田舍道を走つて行つた。その道の海に向つてゐることは潮風の來るのでも明らかだつた。後(うしろ)の人力車に乘つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して戀愛ではなかつた。若し戀愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける爲に「兎に角我等は對等だ」と考へない譯には行かなかつた。
前の人力車に乘つてゐるのは或狂人の娘だつた。のみならず彼女の妹は嫉妬の爲に自殺してゐた。
「もうどうにも仕かたはない。」
彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或憎惡を感じてゐた。
二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。蛎殼(かきがら)のついた粗朶垣(そだがき)の中には石塔が幾つも黑んでゐた。彼はそれ等の石塔の向うにかすかにかがやいた海を眺め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉へてゐない彼女の夫を輕蔑し出した。………
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である。]
○×三月十日〆切 中央公論
[やぶちゃん注:不詳。これはこの辺りの記載の年が判る情報ではあるのだが。]
○ペンギン鳥悶絶す 白瀨中尉の芝居 七月
[やぶちゃん注:これはアフォリズム「貝殼」(大正十六(一九二七)年一月『文藝春秋』)の以下の章となる素材メモである(リンク先は私の古い電子テクスト)。
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五 失敗
あの男は何をしても失敗してゐた。最後にも――あの男は最後には壯士役者になり白瀨中尉を當てこんだ「南極探險」と云ふ芝居へ出ることになつた。勿論それは夏芝居だつた。あの男は唯のペングイン鳥になり、氷山の間を歩いてゐた。そのうちに烈しい暑さの爲にとうとう悶絶して死んでしまつた。
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「白瀨中尉」白瀬矗(しらせのぶ 文久元(一八六一)年~昭和二一(一九四六)年)は日本の陸軍軍人(最終階級:陸軍輜重兵中尉)で南極探検家。出羽国由利郡(現在の秋田県)金浦村の浄土真宗浄蓮寺住職白瀬知道とマキエの長男として生まれ、明治五(一八七二)年に近所の医師佐々木節斎の寺子屋で北極の話を聞き、探検家を志した。明治十二年に陸軍入隊、明治二十六年には千島探検隊に加わり、二年間を越冬している。日露戦争で負傷、中尉となり、明治四十二年、米国ペアリー隊が北極点初到着に成功したことを知り、目標を南極に変更、朝日新聞社が読者に呼びかけた寄金約五万円を中心に準備を整え、明治四三(一九一〇)年十一月に開南丸で芝浦沖を出帆した(現在から見れば大型漁船並のもの)。ノルウェーのアムンゼン、英国のスコット両隊との先陣争いを目指したが、大正元(一九一二)年一月に白瀬がロス海に入った時には既に両隊は極点に達していた(スコット隊は帰途に遭難)。白瀬隊はカラフト犬の橇で同年一月二十八日に南緯八〇度五分まで進み、そこを「大和雪原」と命名した。しかし帰国後は、多額の借金返済に二十年に亙って苦しみ、貧窮のうちに敗戦の翌年に病死した(ここまでは「朝日日本歴史人物事典」の武田文男氏の解説に拠った)。ウィキの「白瀬矗」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、同年『二月四日に南極を離れ、ウェリントン経由で日本に戻ることとなった。いざ南極を離れようとすると海は大荒れとなり、連れてきた樺太犬二十一頭を置き去りにせざるを得なくなった(そのうち六頭は生還)。このため、参加していた樺太出身のアイヌの隊員二名(山辺安之助と花守信吉)は犬を大事にするアイヌの掟を破ったとして、帰郷後に民族裁判にかけられて有罪を宣告されたと伝えられる』。『ウェリントンに戻ると、白瀬隊の内紛は修復出来ないほど悪化しており、白瀬と彼に同調するもの四名は、開南丸ではなく貨客船で日本に帰ってきた。他の者は開南丸に乗って六月十八日に館山に到着し、十九日に横浜へ回航、そして二十日に出発地である芝浦へ帰還した。約五万人の市民が開南丸の帰還を歓迎し、夜には早大生を中核とした学生約五千人が提灯行列を行った。帰国後、後援会が資金を遊興飲食費に当てていたことがわかり、白瀬は四万円(現在の一億五千万円)の借金を背負い、隊員の給料すら支払えなかった。自宅、家財道具、軍服と軍刀を売却して、転居につぐ転居を重ね、実写フィルムを抱えて娘と共に、日本はもちろん台湾、満州、朝鮮半島を講演して回り、二十年をかけて渡航の借金の弁済に努めた。南極地域観測隊第一次隊越冬隊長である西堀栄三郎は京都南座で白瀬の南極公演を聞いて、南極探検を志すに至っている。その時、西堀は白瀬が南極探検を志した年齢と同じ十一才であった』。『南極へ出発する当初、日本国中で「小さな漁船で南極へ向かうのは無謀」などと散々な罵声や嘲笑があったものの、白瀬ら全員が帰国した際は日本中が歓喜に沸いた。白瀬も皇太子との謁見や各地での歓迎式典が開かれたほか、学術的資料としても南極の気象や動植物の記録、ペンギンの胃から出てきた百四十個あまりの石の分類も行われた。昭和十一年(一九三六年)には東京科学博物館(現・国立科学博物館)にて「南極の科学」展が開かれ、白瀬はその講演で出席したほか、同十二年(一九三八年)には国から「大隈湾」「開南湾」命名による感謝状が手渡された』。『昭和二十一年(一九四六年)九月四日、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)の、白瀬の次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去。享年八十五。死因は腸閉塞であった。床の間にみかん箱が置かれ、その上にカボチャ二つとナス数個、乾きうどん一把が添えられた祭壇を、弔問するものは少なかった。近隣住民のほとんどが、白瀬矗が住んでいるということを知らなかった』。『白瀬の死後、遺族はその窮状を見かねた浄覚寺の住職が引き取った。奇しくも、後に第一次南極観測隊隊長となる永田武は、白瀬の遺族と同じ浄覚寺に疎開していた』とある。私はこの数奇な末期を今日まで知らなかった。ここに掲げて哀悼の意を表したい。]
○宿屋の亭主 女房はおしやく上り(農科大學生の子) 前に張り合つた男とまる 夫婦間の緊張