人間通行止 梅崎春生
遠足バスで学童が即死するという事件がおきた。窓から顔を出していて、電柱に頭をぶつけたのである。何という悲惨な事故だろう。
新聞の報道によると道幅が二・八五メートルしかないのに、バスの幅が二・四メートルで、ギリギリだったそうだ。引き算をすると余地は〇・四五メートルになり、両側だから片方二十二センチ強ということになる。人はおろか犬も通れない。
そんなところに大型車を乗り入れるなんて、無茶もはなはだしいと思うが、警視庁交通部の意見によると、観光バスの通行を規制する手は今のところないのだそうである。
つまり観光バスが通る時は、人は通るなということらしい。自動車専用道路じゃあるまいし、ずいぶん人間を踏みつけにした話だ。
観光バスだけでなく、路線バスも狭い道をのっしのっしと横行している。
警視庁の調べでは、路線バスのコースで、道幅がせまくて危険なところが二十七箇所もあるそうだ。私がよく利用するバスにも、それがある。
私の家は練馬だが、練馬から中野を経由して新宿に出るバスがある。それが沼袋の商店街を通る。
このバスはバスの中でも大型車で、夜前燈をたくさんつけて近づいてくる姿は、まるで花魁(おいらん)道中を連想させる。それに反して沼袋の街幅はせまい。すれ違うどころか、一台でいっぱいになってしまう。
だから沼袋の通行人は、バスが乗り込んでくると、右往左往して逃げまどい、商店の軒下に身体を小さくして、ひたすらバスのお通りを待つのである。
三年ほど前に、ついに事故がおきた。女車掌さんが車体と電柱に頭をはさまれて死んだのだ。
なにしろせまい道なので、ちょっと下手な運転をするとぶつかるおそれがある。車掌が首を出して、オーライとかストップとか絶えず叫んでいなければならない。
その車掌さんもそれをやっていたのだが、うしろに眼がないのであっという間にはさまれてしまったのである。
それからしばらくして、そのバスの路線が変更になった。商店街はさけて他のひろい道を走って中野に向かう。商店街の方は入口に杭を打って、車の乗り入れ禁止となった。
通行人の人権を尊重し、かつ危険防止のための措置かと考えていたら、近頃それがそうでないことが判った。車禁止は商店街舗装のためのものであり、この間舗装が完了したら、杭は坂り外されて、またバスがそこを通ることになったのだ。
私はあきれた。折角広い道があるのに、何故せまい道にゴリ押しに乗り込んで、同じ愚をくり返そうとするのか。
このやり方がバス会社の意向なのか、商店街の利益のためなのか、私は知らない。
前者だとすれば、通行人を犠牲にしてバスを通そうとする会社のエゴイズムを憎むべきだし、後者なら客へのサービスを忘れた卑しい商魂を難ずべきだろう。
そうすることで迷惑するのは通行人だけでなく、バスの乗客も大迷惑をしているのである。
せまいからバスやタクシーやオート三輪が輻輳(ふくそう)する。ラッシュ時になると私設の整理員が出て、叫んだり旗を振ったりしているが、それでも二百メートルばかりの街を通り抜けるのに、二十分か三十分かかることもある。
通行人を逃げまどわせ、乗客をいらいらさせてまで、せまい道に乗りこむ資格が、大型バスにあるのだろうか。
また道の側からすれば、あんなのを乗り込ませる資格が、沼袋商店街にあるのだろうか。どちらにもその権利も資格もない。
今からでも遅くない。大型バスは路線を変更すべきだし、道もその非を悟って人間が歩行する本来の道に立ち返るべきだろう。
この間題についてあれこれ談義があったが、朝日新聞の天声人語子は、
「ただでさえせまい道が電柱によってさらにせまくなる。とりあえずの応急策としては、こんな電柱は取り除くべきだ」
と書いている。電柱で頭を打ったんだから電柱を取り除け、というのは筋が通っているようだが、現場の感覚から程遠い。
私も時々沼袋に買いものに行くが、あんなせまい道では電柱は、通行人にとって有力な楯となるのである。
向うからバスがやって来る。あぶない、と思ったら電柱のかげに飛び込めばいい。バスが通過したら飛び出して次の電柱まで小走りに走る。
こんな意味でせまい道の電柱は、空襲時における防空壕のような役目を果たしているのだ。もし電柱を除去すると、通行人はバスと商店にはさまれて、身体ごとつぶされる危険にさらされることになり、事故も今よりふえるだろう。
バスやトラックは年々歳々大型になって行くようだ。大型の方が効率がいいからだ。
先日多摩川に草つみに行ったら、丁度じゃりトラがジャリを取っている現場にぶつかった。ごしごし積み込んで号笛一声さっと引き上げて行く。
じゃりトラは他の自動車やバスから恐れられているのだそうである。無鉄砲な運転とその重量のためである。
人間はバスやタクシーをこわがり、バス、タクシーはじゃりトラをこわがる。じゃりトラは自動車界において、憲兵みたいな存在らしい。
そいつが河原から引き上げて行くと、あとにぽこりと穴がある。見渡すと穴だらけで、河原の風情もはちの頭もない。
あの河原のじゃりは誰の所有なのか知らないけれど、年年景色が損じて行くのはかなしいことであり、怪(け)しからんことだ。いくらビル建築、道路工事などでじゃりが必要だとしても、風景を毀損するまでに無茶取りをする権利は、誰にもない筈である。
この現象は東京だけでなく、各地におこっているようだ。福岡県博多湾は海の中道という細長い腕のような岬でかこまれている。
その海の中道がじゃりトラのためにちょん切れかけているという。
あそこは玄海国定公園に含まれているので、外海の砂をとると自然公園法に引っかかるし、内海の砂は港湾法に引っかかる。
まん中の部分は私有地で、所有者が砂の採取権をある業者に売ってしまった。業者はそれっどばかりじゃりトラをあつめて、どんどん砂を運び出した。
もし木が生えていたら、営林署や県知事の許可が必要だが、それも生えていない。ことごとく法の盲点をついたやり方で、取り締りようがないのだそうだ。
海の中道のその部分は、四百メートルぐらいの幅しかない。そこをどんどん掘ったものだから、直径百五十メートルぐらいの大穴が出来、水がたまって池になってしまった。
放って置けばその穴はますます拡り、ついには外側と内側の砂浜だけになって行くだろう。砂浜は自分自身では保ち切れず、雨や風に流されて、ちょん切れてしまう。
折角の名勝をちょん切ってしまうなんて、言語道断である。ちょん切られる前に、早く手を打て!
[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第五十五回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年五月七日号掲載分。
「沼袋」東京都中野区の北部で現在、沼袋一丁目から沼袋四丁目までがある。地図上で見ると、確かに、西武池袋線練馬駅とJR新宿駅との最短直線上に沼袋が位置していることが判る。
「はちの頭もない」私はこの慣用表現を五十九になる現在まで口にしたことがない。「~ももへちまもない」という謂い方なら使ったことがある。「はち」と「へちま」は何となく発音が似ているから、用法としては同源であろう。小学館の「日本国語大辞典」には「はちの頭」で『何のやくにもたたないもの。つまらないもののたとえ。へちまのかわ。』とある。そこで今度は「へちまのかわ」を引いた。すると「へちまの皮」の三番目に『つまらないもの。役にたたないものもたとえ。へちまの皮のだん袋。へちまの根。』と出、用例に浄瑠璃やが引いてあり、「へちまの皮のだん袋」では発句集や仮名草子が用例として出る。さらに戻って「へちまの皮」の四番目には『「へちま(糸瓜)の皮とも思わず」の略。』とあって浮世草子・浄瑠璃が例示されてあった。「へちまの皮とも思わず」を見ると、『つまらないものとさえ思わない。少しも意に介しない。何とも思わない。へちまとも思わない。へちまとも思わず。へちまの皮。へちとも思わず。』とより徹底的に無視する意向がありありと出、浄瑠璃の他に、かの「醒睡笑」からも例文を引いている(時に言っておくが、私が「日本国語大辞典」を引く場合は本物の書籍版からの手打ちであって、お手軽コピー・ペーストの電子版ではないのでお断りしておく)。「大辞林」を見ると、主に「~も蜂の頭もない」「~だの蜂の頭だの」などと使って、『ある言葉や考え方を真っ向から否定するときに使う言葉』で「論理も蜂の頭もあるものか」と用例が出る。ネットで検索すると、Q&Aサイトの答えで私と同様に「あたま」と「へちま」の発音が似ているとし、或いは「~も糸瓜も~」という言い方が先にあって、それがさらにゴロの良さから「~も糸瓜も、蜂の頭もあったもんじゃない!」などと使ったのではないか、『「しかし」も案山子(かかし)もあるか!」』という言い方もあるとあって腑に落ちた。この回答者は全くの自分の推測としつつ、「へちま」は実がぶら下がっているさまが「ぶらぶらしている」ことから、「役立たず」の意味に充てられたのではないかとされ、他にも「~もへったくれも~」「~もくそも~」などあり(これらは確かに私もよく使う)、「へったくれ(つまらないと思うものや価値を認めないものをののしっていう語)」「糞」の孰れも「役に立たないもの」で何かしら共通点が見られるとあり、眼から鱗。その方も先の「日本国語大辞典」と同じように浄瑠璃(但し、こちらは知られた名作二篇)を引かれ、『遣りたい暇もやり難い義理も糸瓜も一つ書』(「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」/二代目竹田出雲・三好松洛・初代並木千柳合作/寛延二(一七四九)年初演)、『イヤ、白狀も糸瓜もゐらぬぞ』(「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)/菅専助(すがせんすけ)作/安永五(一七七六)年初演)であるから、これらの「へちま」の根は深く、かなり古くから用いられた口語(当時の)表現であることが判った。また、とある別な記載では、何故、「蜂の頭」なのかというに、多くの虫は口で嚙みつくが、蜂は尻(針)で刺す、だから「蜂の頭」は大して役に立たないという意味だという解があった。実際にはスズメバチのような大型の蜂類は尻の針以上に巨大な顎で蜜蜂などを襲って捕食するけれども、これはこれで面白いし、一考に値する解釈であって、先の御仁風にここも「河原の風情も、糸瓜(へちま)も、蜂の頭も! これ、あったもんじゃねえヤイ!」と口に出して言い直してみると、実に全否定よりも、春生の憤懣の気分が滲み出てくるではないか!
「海の中道のその部分は、四百メートルぐらいの幅しかない。そこをどんどん掘ったものだから、直径百五十メートルぐらいの大穴が出来、水がたまって池になってしまった」地図で計測してみると、砂洲幅と池の直径から、これは現在のカモ池であることが判る。]