行脚怪談袋 芭蕉翁備前の森山を越ゆる事 付 猅々の難に逢ふ事
三の卷
芭蕉翁備前の森山を越ゆる事
付猅々の難に逢ふ事
ばせを京郡を立ちて播州へ越え、一國を執行(しゆうぎやう)せんとなして、備中を過ぎて夫れより備前に懸り、同國岡山にしるべの俳人ありければ、是へ越えんが爲めに、其の道すがら、同所森山(もりやま)の麓を通りけるが、此の所は東は遙かの谷、西は何丈とも知れぬ高き山なり。日も未だ高きゆゑに、ばせをは何の心も付かず、此の所を越える。然るにばせをが被り居たるもじの頭巾、風もふかぬに遙かの谷へ落ちて、二丈計り下の木の枝にかゝりたり。芭蕉是を見て、常々被りたる頭巾、此の儘失はん事本意なき事と思ひ、何れにも谷へ下りとり來らんと、山がつのふみ分けし道にや、少し平かなる所有りける所を、つたひつたひやうやうかの木一本へ至て、頭巾を取らんとすれども、小高き木の枝なりしかな下より取る事あたはず、登り取らんには谷際なれば、あぶなからん事をあやぶみ、詮方なき儘、かたはらなる枯木を手折りて、我がつゑヘ羽織のひもをもつてくゝり付け、是を棹として、件(くだん)の枝へ懸りし頭巾を取らんとなせども、いかゞ枝へ懸りけん、兎角して取られざりしが、芭蕉棹を取直し彼の枝をしたゝかに打ちて、ふるひをとさんとなしける。枝うつ音かしこへ聞えける所に、遙かにあなたの木の茂みより、こだまに響きて、うんとうなる聲聞えしが、芭蕉は心得ぬ事に思ひ、既に頭巾をも取りたりければ、暫し立休らひて、又森詠(なが)め居りけるが、俄かにさしも生茂りし大木の、悉く梢迄ゆらぐと見えしに、右の木のすき間より、其のさま三尺許りの首を出す、その面(おもて)の赤き事(こと)朱のごとし、眼(まなこ)は血をそゝぎたるが如く、眞半(まはん)なるまぶち、大き成る目の玉をいからし、ばせををちらりと見る。口と覺しきも耳元迄さけ、眞黑なる牙をはみ出(だ)し、暫しはためらひ居たりしが、惣身はまがふべくもなき大いなる猿なれども、其の丈け七尺に餘る。からだの毛黑く白まじりて班(ぶち)なりし、なほなほ芭蕉をにらめ守り至る。ばせをは今更大いに驚き、是かならず惡獸(あくじう)の類ならん。近々(ちかぢか)とならば決して彼れが爲めに害せられんと、頭巾を片手に持ちながら、身を替して、上の麓の方へいつさんによぢ登る、かの變化(へんげ)は是を見て森を飛出で追(おひ)かけしに、ばせをの運(うん)や強かりけん、かの化物(けもの)とある木の根にまろび、遙かの谷底へ落入りしかば、ばせをはからき命を拾ひ、右の獸(けだもの)谷へ落入りし事、諸天善神の我れをすくひ給ふ處なり、獸もし谷へ落入らずんば、我れ彼れが爲めに害せられ、此の處の土と成るベきに、げにもあやふき事なりと、猶もいそぎ上の麓に上り、何時(なんどき)にやと日足(ひあし)を見れば、今だ晝八つ頃の樣子なれば、是より岡山の方へ懸らん、道法(みちのり)六里と聞けり、日の有る内に急がんと、猶も獸の追來らんかと跡を見歸り急ぎけり。其の後は變化も來らず。兎や角なす内に、六里を經て人里へ出でたり、是岡山へ取付く里也。此の所にて日も漸う西の山にかたむきぬ。芭蕉は大いに悦び急ぎ岡山の城下へぞ至りける。その後ばせをは當城下のしるべのの者、俳人眞田玄蕃(さなだげんば)が方へいたる。此の玄蕃評(ひやう)とくを荊口(けいこう)と云へり[やぶちゃん字注:「荊」の(くさかんむり)は底本では(へん)の上につく。以下、同じ。]。玄蕃ばせをを來(きた)ると聞きて、舊友のよしみを思ひ、急ぎ迎へて對面し、足下には竹馬の同樣の友、吾妻(あづま)にて別れしより、再び逢ひ見る事もあとふまじきやと思ひしに、能くも遙々御尋ねに預かる事、有難さよと申しければ、芭蕉是を聞きて、諸國俳道執行の爲めに出でし由を語る、荊口も是を聞きて、然れば頃日(このごろ)の旅の御つかれも御座有るべし。先づ我が方に落着(おちつか)れ草臥(くたびれ)をも休め給へと、わりなく申しければ、ばせをかれが方に敷日逗留す。頃は春の半ばにて、殊に雨ふりつゞき、庭前(ていぜん)の靑柳に雨のたゝまる風情いと興有るにより、ばせをは主の荊口と諸とも、緣先に酒盛して四方山(よもやま)の物語りをなす。此の時芭蕉同國森山にて異形(いぎやう)の變化に出あひ、あやふき目(め)をなせし由を語りける。荊口是を聞いて其の異形の物かならず世に云ふ猅々(ひゝ)なるべし。我等も先年(せんねん)京都(きやうと)より、此所へ立越えんが爲め、森山へ通り懸りしに、日もいまだ白晝(はくちう)なれば、心をゆるめてとある岩角(いはかど)に腰打懸(うちか)け、腰より火打を出したば粉(こ)をくゆらし居たる所に、遙か後(あと)の方より、其の丈一丈計りの人の如き物、白き衣類を着し近付き來る、我れは人かと思ひしが、其の樣のすごくすさまじさ、心付傍なる木陰に隱れ、右のものを能く能く窺ひ見るに、白き衣類とおもひしも衣類にあらず變化の色なり。夫れのみにあらず、面の赤き事紅(べに)のごとし、われらも大きにおどろき、若し姿を見せば、必らず彼れの爲めに害せられんと心付き、急に茂りし大木に上り、枝葉のこもりたる所に隱れ、身を縮め息をつめて遁(のが)れん事を思ふ所に、程なくかの變化右のあたりへ間近く來(きた)り、大(だい)の眼(まなこ)を血をそゝぎたる如くに見開き、我が隱れし傍にあなたこなたとうかゞひ、若(も)し見付からばひと嚙みになさん氣色(けしき)にて、其のあやふき事云ふばかりなかりしが、されども、我が運の強き處にややよりけん。彼の變化終にわれを見付け出さずして、またむかふの方をうかゞひたりしが、とかうして先ヘ行過(ゆきすご)す、我れ見付られん事を恐れ、猶も深く隱れて、良(やゝ)しばらく其の所に在りしが、いつ迄隱れあるべきにもあらず、されば氣味惡けれども、そろそろかの木のうへより下り立ち、かたはらをうかがひみるに、彼の變化は何(いづ)れへか行きしやらん見えず。其の所にをらざれば、扨は己れが住家(すみか)へ歸りしものならんと悦び、彼(か)の物の先へ行過ぎたれば、我れもまた先へ行かん事然るべからずと、夫れより元來る道へ引返し、前夜に一宿なせしか嘉笛(かてき)と云へる里へ至り、則ちその宿へ行く、宿の亭主も不審顏してとひけるは、旅人には今朝岡山へ至らんと立ち給ひしが、かの處へは行き給はず、また此の所へ立歸り給ふ事不思議さよと云ふ。我等答へて申すは、ふしぎの所尤もなり、我等今朝此の所を立ちて、今日中(こんにちぢう)に岡山の城下へ到らんと、森山の山道を急ぐ所に、か樣のものに出合ひ、まづかくの次第なる體(てい)にて、あやふき場所をのがれたり。かの者先の方(かた)へ行過ぎし故、我れかれに又も逢はん事をおそれ、先へは行かずして此の所ヘ歸りしと語りしに、亭主是を聞いて扨々夫れはひあひな目に逢ひ給ふものかな、右の變化は、猅々と申す猿の二千歳を經て通力(つうりき)を得たる獸ならん。其のゆゑは彼の森山には、至つて猿の澤山なる所故、同所のもの是をからんが爲めに、六七人かの山にわけ入りて、右の獸を見て、はうはうの體(てい)にて逃歸(にげかへ)り、所の老人に此の由を告げるに、夫れは猅々なるべしと申したり。貴所の逢ひ給ふもかならず其のたぐひに候べし、されども此の獸は快朗のせつは出でざるよしなれば、貴意所もし氣床惡敷く思ひ給はゞ、四五日此の處に逗留あり、曇(くも)らざる日を待ちて岡山へ越え給へと申すに付、某其詞に隨ひ、二三日ち過ぎてくわいらうの日、嘉笛(かてき)の宿を立ちて當所へ至り候に、森山の途中にてあやしき事なかりき、我れの猅々に出合ひし物語りと芭蕉翁のあひ給ひし事と、その危(あやふ)き事相似たりと語りしかば、芭蕉是を聞きて思はず手を打ち、扨々我等兩人ともに右のごとくは、佛神(ぶつじん)に請(う)けられたりと申すべし。何れにも悦ばしき次第と、ばせを盃をあげ、春雨(はるさめ)の題ぞ取りて、
噺しさへ調子あひけり春の雨 ばせを
と一吟をなし、その外逗留數(す)日の内、種々(しゆじゆ)の物語りをなし、其の後芭蕉は荊口に暇乞ひし、岡山を立ちて、夫れより備後伯耆の方へ廻國せられぬ。そのとき餞別に
千金の春も一兩日に成りけり 荊口
■やぶちゃんの呟き
・「猅々」「ひひ」。猅々猿(ひひざる)。猿の老成した巨怪。
・「ばせを京郡を立ちて播州へ越え」芭蕉は西国を行脚していない。但し、芭蕉には「奥の細道」を究め、中部地方も概ね経巡ったことから、西国遍歴を企図していたことは間違いないから、芭蕉もこれには微苦笑することであろう。
・「執行(しゆうぎやう)」修行に同じい。
・「森山」現在の岡山の東北十七キロメートルほどの位置にある、岡山県岡山市東区の標高三百五十一メートルの大森山附近のことか。ここなら後で「岡山の方へ」「道法(みちのり)六里」というのとも概ね合致するからである。
・「もじの頭巾」「もじ」とは夏の衣や蚊帳などに使う「綟」「綟子」か(但し、だとすると歴史的仮名遣は「もぢ」である)。麻糸で目を粗く織った布で出来た頭巾。
・「二丈」六メートル強。
・「晝八つ頃」不定時法であるが、後に「春の半ば」と出るので午後二時半前頃に当たる。
・「眞田玄蕃(さなだげんば)」不詳。全体がトンデモ仮構であるから架空の人物であろう。最後の句の「荊口」の私の注も参照のこと。
・「評(ひやう)とく」「表德號(へうとくがう(ひょうとくごう)」のこと。本来は高徳の人の徳行を表わす号や雅号を指すが、近世では通人めかして号をつけることが流行した。ここでは単に俳号の謂いである。
・「再び逢ひ見る事もあとふまじきやと思ひしに」「あとふ」は「能(あた)ふ」の転訛。再び相見(まみ)ゆることも叶うまいなあ、と思うておったところが。
・「わりなく」ここは中世以後の用法で「親しく」の意。
・「雨のたゝまる」「雨の疊(たた)まる」で雨が積み重なる、しきりに降り注ぐ、の謂いであろう。
・「嘉笛(かてき)」とても素敵な地名であるが、不詳。識者の御教授を乞う。かの大森山近くでは、少し似た感じがする風流な地名として現在の岡山県備前市香登(かがと)がある。また大森山周辺には現在、「可」を頭に持つ地名も散在する。
・「ひあひな目」「非愛な目」で危険な目の謂いであろう。但し、だとすれば歴史的仮名遣は「ひあい」で誤りである。
・「噺しさへ調子あひけり春の雨」芭蕉の句ではない。「續猿蓑」の「卷之下」の「春之部」の「春雨 附 春雪 蛙」のパートの、
物よわき草の座とりや春の雨 荊口
咄さへ調子合けり春のあめ 乃龍
春雨や唐丸(たうまる)あがる臺どころ 游刀
なにがし主馬が武江の
旅店をたづねける時
春雨や枕くづるるうたひ本 支考
はる雨や光りうつろふ鍛冶が鎚 桃首
淡雪や雨に追るるはるの笠 風麥
行(ゆき)つくや蛙の居る石の直(ロク) 風睡
の三句目、乃龍(ないりゅう:事蹟不詳)なる人物の句である。前が荊口の句であるのはやはり偽書であることを暗に示すポーズのようにも思われる。
・「千金の春も一兩日に成りけり」不詳。
・「荊口」蕉門の俳人には宮崎荊口なる人物が実在する。本名は宮崎太左衛門で、大垣藩百石扶持の藩士であった。一家で蕉門に入り、七部集に出る「此筋(しきん)」・「千川(せんせん)」・「文鳥(ぶんちょう)」というのも皆、荊口の宮崎荊口息子たちである。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 93 大垣入り』を見て戴くと分かるが、「奥の細道」の最終局面に当たる「大垣入り」で芭蕉は、「露通も此(この)みなとまで出むかひて、みのゝ國へと伴ふ。駒(こま)にたすけられて大垣の庄(しやう)に入(いれ)ば、曾良も伊勢より來り合(あひ)、越人(ゑつじん)も馬をとばせて、如行(じよかう)が家に入集(いりあつま)る。前川子(ぜんせんし)・荊口父子(けいこうふし)、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる」と述べており、そこにはこの宮崎一家が立ち並んで、かの死をさえ賭した旅からの師の帰還、生還を拝むが如く、出迎えているのである。