芥川龍之介 手帳2―15
《2-15》
○Princess は無關係とし平太夫は人柱に立ちし童子の父親雅平の臣とす 雅平去って後 Princess 姫君平太夫を養ふ。要擊の事にて若殿の興味をひき姫君の臣とせしむ
[やぶちゃん注:未完の「邪宗門」(大正七(一九一八)年十月から十二月まで『大阪毎日新聞』連載)の設定メモ。作中、重要な役回りを演じる「姫君」の召使の老侍「平太夫」の初期設定として興味深い(決定稿の設定とは必ずしも一致しない)。]
○伊玖米天皇の子(垂仁) 1二能能入姫の命 2弟橘姫命 3大田牟別が娘布多遲姫 4大吉備建姫(吉備臣建日子の妹) 5玖々麻毛理姫 6或妃 ○七拳脛(Pantler)(久米直の祖)○御鉏友耳建日子
[やぶちゃん注:「伊玖米」「いくめ」と読む。「常陸国風土記」に見える第十一代垂仁(すいにん)天皇の呼称。
「二能能入姫の命」垂仁の娘の一人、両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)で、倭健の妃の一人。仲哀天皇の母に当たる。
「弟橘姫命」「おとたちばなひめのみこと」は倭建の妃の一人。既に注した通り、走水の海で倭健が遭難せんとした折り、自ら入水して彼を救った。
「大田牟別が娘布多遲姫」「おほたむわけがむすめふたじひめ」と読む。淡海安国造の祖の意富多牟和気(おおたむわけ)の娘で、倭健の妃の一人であった布多遅姫(ふたじひめ)のこと。「日本書紀」には不載。
「大吉備建姫」「おほ(おお)きびのたけひめ」は倭健の妃の一人。穴戸武媛(あなとのたけひめ)とも。
「吉備臣建日子」「きびのたけひこ」は第七代孝霊天皇皇子の稚武彦命(吉備臣祖)の孫又は子とされ、倭健東征の従者の一人。表記は「古事記」の記載のもの。吉備武彦。
「玖々麻毛理姫」「くくまもりひめ」は山代之玖々麻毛理姫(やましろのくくまもりひめ)でやはり倭健の妃の一人。
「或妃」「古事記」では以上の五人以外に今一人、妃がいたとする。
「七拳脛(Pantler)(久米直の祖)」倭健の東征に従ったとされる膳夫(かしわで:単に「膳」とも表記する。料理人のこと)七拳脛(ななつかはぎ)。「Pantler」は見馴れぬ単語であるが、貴族の邸宅に於いてパンや食料を管理する任に当たった執事を指す。「久米直」はウィキの「くめのあたい」と読み、久米氏の祖とされる集団。ウィキの「久米氏」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)、『古代日本における軍事氏族の一つで、「新撰姓氏録」によれば高御魂(タカミムスビ)命の八世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂(カミムスビ)命の八世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の二氏があった。久米部(「くめべ」と読む。来目部とも表記することもある)の伴造氏族』。『「日本書紀」神代下天孫降臨章一書には、大伴氏の遠祖の天忍日命が、来目部の遠祖である大来目命(天久米命)を率いて瓊瓊杵尊を先導して天降ったと記されており、「新撰姓氏録」左京神別中の大伴宿禰条にも同様の記述がある。このことから、久米直・久米部は大伴氏の配下にあって軍事的役割を有していたと考えられている』。『ただ、「古事記」には天忍日命と天津久米命の二人が太刀・弓矢などを持って天孫降臨に供奉したとあり、大伴氏と久米氏を対等の立場として扱っており、両氏の関係を考える上で一つの問題点となると思われる』。『また、神武天皇東征説話に見える来目歌、戦闘歌舞の代表といえる久米舞は、久米氏・久米部の性格を考える上で重要である』とある。
「御鉏友耳建日子」「みすきともみみたけひこ」と読む。「古事記」景行天皇段に吉備臣らの祖の「御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)」が倭健の従者として東征に遣わされたことが記されている(但し、これが先の「吉備臣建日子」と同一人物かどうかは定かでない、とウィキの「吉備武彦」にはある)。]