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« 芥川龍之介 手帳3―15 | トップページ | エゴイズムに就て   梅崎春生 »

2016/07/18

芥川龍之介 手帳3―16

《3-16》

○平和祭の上場の時壁に錦繪を貼る 主人公 日本へ來た事のある Doctor

[やぶちゃん注:「上場」は「じやうぢやう(じょうじょう)」で、ここは上演の意であろう。]

 

             {prose

〇近松門左衞門を詰問する文{手紙

             {prose

[やぶちゃん注:「prose」散文体の意とも思えない。以下の内容(手紙の筆者の心的状況)から「平凡・単調」の謂いであろう。これは以下に全文を示す未定稿「河内屋太兵衞の手紙」の構想メモである(底本は岩波旧全集を用い、新全集と校合した)。なお、新全集の後記によればこの原稿は総ての欄外に『中央公論小説四』の印が捺されており、『「中央公論」に発表を予定しながら、何かの都合でみあわされたものであろう』とあり、底本には『(未完』『(大正十一年頃)』とあるものの、元版全集には『(大正十年頃)』とあるとする。さても、前項《3-15》に「×三月十日〆切 中央公論」とあったのと(「×」に着目)、これは関係するのかも知れぬ

   *

 

   河内屋太兵衞の手紙

 

 まだお目にかかつた事はありませんが、是非ともあなたの御所存を承りたいと存じますから、失禮をも顧ず、この手紙を差上げる事にしました。勿論近松門左衞門樣と申せば、日本六十餘州の中にも、隱れのないあなたの事ですから、かう云ふ手紙をお受けとりになるのも、珍らしい事ではありますまい。しかしどうかこの手紙は、うるさいなどと思召さず、兎に角御披見を願ひたいと存じます。その上もし御差支へなければ、折り返し御意見をお聞かせ下さい。あなたにこんな事をお願ひするのは、勿論僭上の沙汰とは存じてゐますが、何しろ下にも申し上げる通り、これはわたし、河内屋太兵衞の命にも關る一大事なのです。いや、或は大阪を始め、津々浦々の若いものの命にも關る一大事なのです。ですから虫の好いお願ひにもしろ、わたしの心をお察しの上、どうか一概に却けないで下さい。

 恥を申さなければわかりませんが、わたしはこの一二年、曾根崎の茶屋津の國屋の小まんと云ふ白人に、深い馴染みを重ねて來ました。あなたに聞いて頂きたいのも、實はこの小まんとわたしとの、二人の間に持ち上つた、泣いたらば好いか、笑つたらば好いか、方返しのつかない出來事なのです。と云つても格別自慢さうに、一々二人の睦じさ加減を吹聽する次第でもないのですから、その邊は御心配には及びません。わたしが小まんと馴れ染めたのは、――そのいきさつを申し上げる前に、わたしの身の上はどうなつてゐるのか、それを一通り書いて見ませう。さもなければ肝腎の話も、なぜさう云ふ始末になつたか、はつきりしない惧がありますから。

 わたしの父、河内屋德兵衞は、わたしが七つ、弟の與兵衞が四つの時、故人の數へはひりました。その後母へ入夫をしたのが、今の父の德兵衞です。それから母はもう一人、お近と云ふ妹を儲けました。現在はわたしだけ順慶町に、あとは皆ずつと本天滿町に、どちらも油屋を渡世にしてゐます。いづれお近にでも婿を取れば、親讓りの見世はそちらに渡し、與兵衞はやはりわたしのやうに、分家する事になるのでせう。

 わたしは順慶町に見世を持つた時、お種と云ふ女房を貰ひました。お種は美人ではありません。が、素直な、技巧のない、その代り多少子供じみた、云はば善良な女房なのです。わたしは世帶を持つた當座、この正直すぎる位、無邪氣な所が氣に入つてゐました。いや、今でも其處だけは、何にも換へられないと思つてゐます。確か祝言をすませてから、一月とたたない頃だつたでせう。まだ風の寒い時分でしたが、お種は買ひ物に行つた歸りに、牡丹を一枝買つて來ました。輪の大きい、薄い紅をさした、目のさめるやうな寒牡丹です。わたしは時候が時候ですから、これは安い價段では賣るまい、どの位とられたと尋ねて見ました。するとずゐぶん高うございました、二十何匁とか云ふではありませんか? わたしもさすがに驚きました。このせち辛い世の中に、いくら里の母に貰つた、小遣ひが殘つてゐるにしても、そんな金を使ふやうでは、さき行きも氣づかはれると云ふものです。しかしお種が嬉しさうに、その花を活けてゐるのを見ると、小言を云ふ氣になるよりは、まづ頰笑んでしまひました。本天滿町の父や母は、鼻紙一枚使ふのにさへ、二つに切らなければ使ひません。それがかう云ふ所を見たら、どんな顏をするだらうと思つたのです。同時に人の思惑などには、善かれ惡しかれ氣のつかないお種が、(つけば悄氣てしまふのですが、)妙に可憐な氣がしたのです。お種も今では子持ちですから、如何に世間を知らないと云つても、その時程の事はありません。が、お種の善良さには、少しも變りは見えないのです。

 もう一つ次手に申し上げれば、丁度子供が生まれた年、――太吉は今年三つですから、もう一昨年になりますが、小さい頸や胸のあたりに、ひどい汗疹の出來た事があります。わたしはそれへつけてやるのに、天瓜粉を買へと云ひつけました。所が朝云ひつけたのに、夕方行水を使ふ時になつても、未に天瓜粉は買つてありません。わたしはお種に小言を云ひました。するとお種はあやまる所か、そんな事を仰有つても、外に手のある訣ではなしなどと、不服がましい理窟を並べるのです。わたしは腹が立ちましたから、二言三言云ひ合つた末、里へ歸れと怒鳴りつけました。その日はありふれた夫婦喧嘩のやうに、それぎり無事にすんだのです。が、ずつと後になつてから、もう彼是大晦日に間もない時分の朝の事ですが、例年通り神棚を淸めてゐると、ふと氏神の御札の陰に、扇を一本見つけました。しかもこの無地の扇は、何時か何處かへ見えなくなつた、わたしの古扇ではありませんか? わたしはお種に扇を見せながら、妙な事があるものだ、お前は知らないかと尋ねて見ました。しかしお種はどうしたのか、笑つてばかりゐるのです。勿論笑ふ所を見ると、お種の仕業には違ひないのですが、なぜ神棚へ隱して置いたのか、その訣はとんとのみこめません。それでも眞面目に問ひつめられると、お種はとうとう極り惡さうに、こんな事を白狀しました。「何時か夏天瓜粉の事から、出て行けと仰有つた事がございませう。あの時もしどうしても、此處へ置かないと仰有つたら、その扇を一本だけ、頂いて參るつもりで居りました。所があれぎりになりましたから、つい神棚へ載せて置いたなり、出し忘れてしまつたのでございます。」わたしはお種の話を聞きながら、つまらない事を思ひ出しました。それは丁度四年前に、お種と祝言をした時にも、この扇を持つてゐたと云ふ事です。

 もうこれだけ申し上げれば、わたしの女房はどう云ふ女か、大抵御推察がついたでせう。又わたしがかう云ふ女房に、何の不足も感じてゐないのは、格別不思議でもありますまい。ではなぜ小まんと深い仲になつたか、――あなたはさう仰有るでせう。いや、心中物の作者たるあなたは、そんな事を仰有るには、餘りに人間の本性を知り過ぎていらつしやるかも知れません。が、もし假にさう仰有つたとすれば、かうわたしは申し上げたいのです。成程お種自身には、何の不足も感じてゐません。しかし我々の夫婦暮らしは、時々退屈に感ぜられるのです。我々の、――これは我々ばかりでせうか? わたしはひとり我々に限らず、誰のでもさうらしい氣がするのです。なぜと云へばお種のやうに、不足のない女房を持つてゐてさへ、退屈さに變りはないのですから。

 わたしはこの退屈さの爲に、時々曾根崎へ遊びに行きました。これはわたしに云はせると、たとひ惡い事にしても、やむを得ない事だつたのです。しかし小まんに夢中になつたのは、のみならず飛んでもない人騷がせをしたのは、「やむを得ない」だけではすまされません。なぜわたしはああなつたか、わたしは忘れ難い一昨日の夜、小まんと二人歩きながら、その事ばかり考へてゐました。すると突然、――實際それは花火のやうに、突然心に浮んだのです。――わたしはずつとあなたの爲に、欺されてゐた事を發見しました。

 あなたに欺されてゐたと云ふのは、――その訣は少時お待ち下さい。わたしはまづ小まんの事から、申し上げなければなりません。小まんは前にも書いた通り、津の國屋の抱への白人です。これも美人ではありません。が、どう云ふ因緣か、小まんは殆ど何から何まで、わたしの女房とは反對なのです。お種がすらりと瘦せてゐれば、小まんは園々と肥つてゐる、お種が地味なつくりをすれば、小まんは派手なつくりをする、お種が技巧を知らなければ、小まんは技巧を知り過ぎてゐる、お種の右の頰に黑子があれば、小まんは左の頰に黑子がある、――あなたはまさか黑子まではと、お笑ひになるかも知れません。が、それもほんたうなのです。わたしは最初小まんを見た時、この何一つわたしの女房と、似てゐるもののない所に、人知れない興味を感じました。もし小まんに少しでも、お種と變らない所があつたら、たとひあなたに欺されたにしても、あれ程のぼせつめはしなかつたでせう。ああ、女房と裏腹な女に、どんな誘惑がひそんでゐるか、わたしはそれを考へると、常に變化を求めるのは、避け難い人間の宿命とは云へ、今更のやうに恐しい心もちがします。しかもこれはわたしばかりか、御前町の紙屋の主人、治兵衞もさうではありませんか? 紙治はやはり曾根崎の茶屋、紀の國屋の小春に通つてゐます。小春は瘦せた女ですが、治兵衞の女房を御覽なさい。あの位象のやうに大きい女が、一人でも外にゐるでせうか?……しかしそんな事は餘談です。

 ゎたしは小まんの誘惑が、大きかつた事を申し上げました。しかしその誘惑と一しよに、始終わたしを支配してゐたのは、恐しいあなたの噓の力です。ではその噓とは何だつたか、あなたはわたしと小まんとの、二人のいきさつをお聞きになる内に、自然とおわかりになるでせう。これは去年の秋ですが、わたしは掛け先を𢌞つた戾りに、生玉の社へさしかかりました。すると誰か後ろから、「たあ樣、たあ樣」と聲をかけるのです。わたしは編笠をかぶつたなり、聲のする方をふり返りました。と、出茶屋の床にゐるのは、投島田に結つた小まんです。「何だ、お前か?」――わたしはさう云つた時には、もう其處へ腰かけてゐました。聞けば小まんは田舍の客と、三十三番の觀音を𢌞り、あとは日暮らし酒にする爲、此處に來てゐると云ふのです。そんな話を聞いてゐる内に、わたしはだんだん色男らしい、しんみりした氣もちになつて來ました。あなたは勿論さう云ふ氣もちが、どんなものだかも御存じでせう。あの「曾根崎心中」の中に、丁度これと同じやうな、生玉の一場をお書きになつたあなたは。わたしは今考へれば、既にもうその時から、あなたの犧牲になつてゐたのです。しかしその時は小まんと二人、唯しみじみと寄り添つた儘、舌たるい話に耽つてゐました。いや、そればかりではありません。わたしは人目のないのを幸ひ、簾のかげに隱れながら、ちよいと小まんの口を吸ひました。と同時にわたしの口には、苦いものが一ぱいに擴がりました。何でもこの苦いものは、今し方胸の痛んだ爲、小まんの呑んだ熊の膽なのださうです。あなたはこんな事をお聞きになれば、お笑ひになるのに違ひありません。しかしわたしは笑ふ所か、氣の毒がる小まんの手をとつたなり、もう一度眞面目に話し出しました。この笑ひさへしなかつたのを見ても、如何にわたしが莫迦だつたか、容易に御想像が出來るでせう。

   *

私は……この続きを読むことが出来ないことを、心から残念に思う…………]

 

Cupid になつた女が love を得ない話 SSS五月號

[やぶちゃん注:「SSS」は「サンエス」という当時の日本の草分け的存在であった万年筆メーカーで、広告を兼ねた雑誌として『サンエス』を発刊、横光利一や小川未明も小説を発表している。これは芥川龍之介の作品構想ではなく、その『サンエス』に載った佐藤惣之助の散文作品のメモ書きである。これについては芥川龍之介は「野人生計の事」(大正一三(一九二四)年一月『サンデー毎日』)の「三 キュウピッド」で以下のように記している(リンク先は私の古い電子テクスト)。

   *

 

       三 キュウピッド

 

 淺草といふ言葉は複雜である。たとへば芝とか麻布とかいふ言葉は一つの觀念を與へるのに過ぎない。しかし淺草といふ言葉は少くとも僕には三通りの觀念を與へる言葉である。

 第一に淺草といひさへすれば僕の目の前に現れるのは大きい丹塗りの伽藍である。或はあの伽藍を中心にした五重塔や仁王門である。これは今度の震災にも幸と無事に燒殘つた。今ごろは丹塗りの堂の前にも明るい銀杏の黃葉の中に、不相變鳩が何十羽も大まはりに輪を描いてゐることであらう。

 第二に僕の思ひ出すのは池のまはりの見世物小屋である。これは悉く燒野原になつた。

 第三に見える淺草はつゝましい下町の一部である。花川戸、山谷、駒形、藏前――その外何處でも差支へない。唯雨上りの瓦屋根だの、火のともらない御神燈だの、花の凋んだ朝顏の鉢だのに「淺草」の作者久保田万太郎君を感じられさへすれば好いのである。これも亦今度の大地震は一望の焦土に變らせてしまつた。

 この三通りの淺草のうち、僕のもう少し低徊したいのは、第二の淺草、――活動寫眞やメリイ・ゴウ・ランドの小屋の軒を竝べてゐた淺草である。もし久保田万太郎君を第三の淺草の詩人とすれば、第二の淺草の詩人もない譯ではない。谷崎潤一郎君もその一人である。室生犀星君も亦その一人である。が、僕はその外にもう一人の詩人を數へたい。といふのは佐藤惣之助君である。僕はもう四五年前、確か雜誌「サンエス」に佐藤君の書いた散文を讀んだ。それは僅か數頁にオペラの樂屋を描いたスケッチだつた。が、キュウピッドに扮した無數の少女の𢌞り梯子を下る光景は如何にも潑剌としたものだつた。

 第二の淺草の記憶は澤山ある。その最も古いものは砂文字の婆さんの記憶かも知れない。婆さんはいつも五色の砂に白井權八や小紫を描いた。砂の色は妙に曇つてゐたから、白井權八や小紫もやはりもの寂びた姿をしてゐた。それから長井兵助と稱した、蝦蟇の脂を賣る居合拔きである。あの長い刀をかけた、――いや、かういふ昔の景色は先師夏目先生の「彼岸過迄」に書いてある以上、今更僕の惡文などは待たずとも好いのに違ひない。その後ろは水族館である、安本龜八の活人形である、或は又珍世界のX光線である。

 更にずつと近い頃の記憶はカリガリ博士のフイルムである。(僕はあのフィルムの動いてゐるうちに、僕の持つてゐたステツキの柄へかすかに絲を張り渡す一匹の蜘蛛を發見した。この蜘蛛は表現派のフィルムよりも、數等僕には氣味の惡い印象を與へた覺えがある)さもなければロシアの女曲馬師である。さう云ふ記憶は今になつて見るとどれ一つ懷しさを與へないものはない。が、最も僕の心にはつきりと跡を殘してゐるのは佐藤君の描いた光景である。キュウピッドに扮した無數の少女の𢌞り梯子を下る光景である。

 僕も亦或晩春の午後、或オペラの樂屋の廊下に彼等の一群を見たことがある。彼等は佐藤君の書いたやうに、ぞろぞろ𢌞り梯子を下つて行つた。薔薇色の翼、金色の弓、それから薄い水色の衣裳、――かう云ふ色彩を煙らせた、もの憂いパステルの心もちも佐藤君の散文の通りである。僕はマネジャアのN君と彼等のおりるのを見下しながら、ふとその中のキュウピッドの一人の萎れてゐるのを發見した。キュウピッドは十五か十六であらう。ちらりと見た顏は頰の落ちた、腺病質らしい細おもてである。僕はN君に話しかけた。

 「あのキュウピッドは悄氣てゐますね。舞臺監督にでも叱られたやうですね。」

 「どれ? ああ、あれですか? あれは失戀してゐるのですよ。」

 N君は無造作に返事をした。

 このキュウピッドの出るオペラは喜歌劇だつたのに違ひない。しかし人生は喜歌劇にさへ、――今更そんなモオラルなどを持ち出す必要はないかも知れない。しかし兎に角月桂や薔薇にフット・ライトの光を受けた思ひ出の中の舞臺には、その後もずつと影のやうにキュウピッドが一人失戀してゐる。……

   *

先のテクストで私は以下の注を附している。参考までに掲げておく(一部を本テクストに合わせてブラッシュ・アップした)。

   *

■「三 キュウピッド」やぶちゃん注

・「淺草」明治四五(一九一二)年二月に刊行された久保田万太郎の作品集の名。

・「サンエス」サンエスは当時の日本の万年筆メーカーの草分け的存在で、万年筆の広告を兼ねた雑誌として『サンエス』を発刊、横光利一や小川未明も小説を発表している。

・「砂文字」:砂絵とも言う。大道芸の一つ。五色に彩色した砂を手で握って指の間から落としながら絵や文字を描く。

・「佐藤君の書いた散文」詩人・作詞家であった佐藤惣之助は浅草オペラ誕生に関わるなど、浅草文士の一人である。岩波版新全集の石井和夫氏注解の「サンエス」の注(断っておくが、私の「サンエス」の前記注は別ソースで全く参考にしていない)の最後に、「サンエス」の『二〇年五月号に、佐藤の「白鷺」を掲載。』とある。その「白鷺」なるものが浅草オペラを素材としているという記載はないが、石井氏はこれが芥川がここで言う「散文」であると同定していると読める。[やぶちゃん注:太字傍線は今現在(二〇一六年七月十八日)の私が附した。]

・「白井權八や小紫」「白井權八」は「お若えの、お待ちなせえ」の名台詞で有名な歌舞伎「御存鈴ヶ森」の登場人物(もとは四世鶴屋南北「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなづま)」の一部)。浅草の繁華街の一角、花川戸が舞台となっている。本作は幡随長兵衛も登場する義侠ものであるが、この話には実話のモデルがある。寛文年間に鳥取藩を殺傷事件で脱藩した平井権八なる人物で、江戸に来て強盗を働いては吉原に通い、そこの遊女小紫と恋仲になるが、その遊興の為に百数十人の辻斬りに及んだが、最後は自首して磔刑となった。現在、目黒不動仁王門前の東昌寺跡に権八と後を追って自害した小紫が眠る比翼塚があるという(以上は「民俗学的歌舞伎鑑賞」なる頁の同外題の解説を参照させて頂いた)。

・「長井兵助」「ながゐひやうすけ(ながいひょうすけ)」と読む。江戸後期の香具師(やし)。安永(一七七二年~一七八一年)頃、江戸浅草蔵前に住み、近くの奥山・上野山下などで歯磨きや陣中膏がまの油なる民間薬を売ったり、簡単な口腔の治療等を施したりした。特に人集めのために演じた大太刀の居合抜きと四六の蝦蟇の口上で有名となった。生没年未詳であるがこの名は十一代、明治の中頃まで続いた。

・「安本龜八」(やすもとかめはち 文政八(一八二五)年~明治三三(一九〇〇)年)は熊本出身の人形師。仏師の家に生まれるも明治維新後の排仏毀釈運動の影響で、人形細工師として身をたてる。兄と共に上方・江戸と人形見世物を興行、「忠臣蔵」等を題材とした本物と見まごう活(いき)人形で好評を博す。明治八(一八七五)年には海外へ進出して上海興行も果たし、明治一〇(一八七七)年の内国勧業博覧会では等身大の艶麗な女性の活人形を出展して、活人形師としてはもう一人の名匠松本喜三郎と双璧であった(以上はウィキペディアの「安本亀八」を参照させて頂いた)。

・「珍世界のX光線」「珍世界」は興行館の名称。明治四〇(一九〇七)年元旦の「都新聞」に浅草の娯楽施設についての記事があって、そこには十二階・江川の玉乗り・珍世界・電気館・木馬館の名が挙がっていると「もう一つの木馬館」という記事にある。「X光線」は見世物興行の一つであると思われるが、不詳。多様な物をレントゲン撮影したフィルムを展示していたか、それとも怪しげな透視術か。

・『「彼岸過迄」に書いてある』夏目漱石「彼岸過迄」の第二パートに当たる「停留所」の中間部「十六」章以下に、長井兵助を初めとした浅草の景観が描かれている。

・「カリガリ博士」一九二〇年制作のドイツ映画。七十一分・モノクローム(部分的にフィルム自体のパート着色有)・サイレント。原題はDas Kabinett des Doktor Caligari「カリガリ博士の箱」。ローベルト・ヴィーネ監督(Robert Wiene 一八七三年~一九三八年)。今見ても極めて斬新、幻術的にして芸術的な二十世紀初頭の表現主義の名作である。個人的には大変好きな作品である。是非、一見をお薦めする。なお、本作は日本では大正一〇(一九二一)年五月にキネマ倶楽部封切とあるが、この時、芥川は中国行の最中であるので、帰国(七月二十日頃田端帰着)後の比較的早い時期に、浅草六区の活動写真館キネマ倶楽部での鑑賞と推定される。

   *]

 

○小さん一代記 新小説にあり

[やぶちゃん注:これは落語家三代目柳家小さん(安政四(一八五七)年~昭和五(一九三〇)年:生家は一橋家家臣)のそれであろう。「朝日日本歴史人物事典」の山本進氏の同人解説の参考文献によって『新小説』明治三六(一九〇三)年一月号に載ったものであるが分かったが、筆者は突き止められなかった。なお、2―8の注で述べた通り、芥川龍之介の落語への関心は極めて本格的なものであった。]

 

○夫婦共通の suffering あり 夫は落語家 Jokes を高座にて云ひ後それを聞きゐたる妻にあひ赤面す

[やぶちゃん注:「suffering難儀。前の「小さん一代記」にでも載る内容か?]

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