芥川龍之介 手帳3―34~40
《3-34》
○歓樂極まつて哀傷を生じ 功名成つて災害來る 歡樂を寫して哀傷を寫さざるものは Romanticism なり 哀傷を寫して歡樂を寫さざるは Naturalismなり 歡樂を写寫して歡樂を忘れしめざるもの夫 Classicism の大道乎
[やぶちゃん注:我鬼子、言い得て妙たり!]
○The Mystery of Dr. Fu-Manchu.
[やぶちゃん注:イギリス、バーミンガム生まれの作家サックス・ローマー(Sax Rohmer 一八八三年~一九五九年)が『ストーリー・テラー』誌に一九一二年から一九一三年に十回に亙って連載した最初の「怪人フー・マンチュー(傅満洲)博士」シリーズ“The Mystery of Dr. Fu Manchu”。ウィキの「サックス・ローマー」によれば、『元ロンドン警視庁のデニス・ネイランド・スミス卿と彼の友人である化学者ペトリー博士が、東洋人による世界征服と帝国建設を目指して暗躍する怪人フー・マンチュー博士と対決するスピード感あふれる物語』とある。ウィキの「フー・マンチュー」によれば、フー・マンチュー博士を主演とした映画は数多く製作されており、『最初に映画化されたのは』一九二三年の『イギリス、ストール社によりハリー・A・ライアンズ(Harry Agar Lyons)主演で「フー・マンチュー博士の謎(The Mystery of Dr. Fu Manchu)」が映画化される。この作品は日本でも「倫敦の秘密」の題名で』大正一三(一九二四)年に『公開された。またライアンズは翌年の「The Further Mysteries of Fu
Manchu」にも主演している』とあるから、芥川龍之介は或いは映画も見ているかも知れない。]
〇The Devil Doctor
[やぶちゃん注:同じく「フー・マンチュー」シリーズの第二弾で一九一六年の作。アメリカ版は“The Return of Dr Fu-Manchu”と改題。]
○The Si-Fon Mysteries
[やぶちゃん注:ウィキの「フー・マンチュー」によれば、「フー・マンチュー」シリーズの初期のフー・マンチューは「シ・ファン(Si-Fan)」という首魁『配下の暗殺者であったが、急速に頭角を現して、秘密結社の長に上り詰めた』とあるので、初期の作を集めた選集かも知れない。]
○The Yellow Claw
[やぶちゃん注:「黄色い爪」一九一五年作の犯罪物。怪盗アルセーヌ・ルパンの子という設定のガストン・マックス物の一つ。]
○The Golden Scorpion by Sax Rohmer
[やぶちゃん注:一九一九年作のガストン・マックス物。]
○Best Psychic stories compiled by J. L. French
[やぶちゃん注:一九二〇年刊のアメリカの作家で編集者であったジョセフ・ルイス・フレンチ(Joseph Lewis French 一八五八~一九三六年)“The
Best Psychic Stories”(「ベスト心霊譚集」)。]
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《3-35》
○大阪西區靭上通り二丁目 あぶら屋
[やぶちゃん注:「靭上通り」「うつぼかみどおり」と読むか。現在の大阪府大阪市西区靱本町(うつぼほんまち)内と思われる。ウィキの「靱」によれば、『豊臣秀吉がお供を従えて市中巡視をした際、町で魚商人たちが『やすい、やすい』と威勢のよい掛け声で魚を売っていたのを聞き、『やすとは靱(矢を入れる道具。矢巣とも言った)のことじゃな』と洒落たことからその名が付いた。また別説として、永代浜の形が、その矢巣の形に似ていたからというものもあるが、海部堀川が開削されたのは大坂の陣後で、もともと天満の鳴尾町に居た魚商人たちが船場へ移転した際に靱町』(後の本靱町で現在の中央区伏見町一丁目に相当)『がすでに見える』とある。]
○細川忠興夫人の自殺 自殺と聞いて悲觀してゐたクリスチアン 他殺と聞いてよろこぶ
[やぶちゃん注:細川忠興正室で明智光秀三女であった細川ガラシャ(明智珠(玉) 永禄六(一五六三)年~慶長五(一六〇〇)年)こと「秀林院」の侍女であった小侍従(こじじゅう 生没年不詳)が記した形をとる擬古文小説「糸女覚え書」の構想メモ。
「細川忠興」(ほそかわ ただおき 永禄六(一五六三)年~正保二(一六四六)年)は豊前小倉藩初代藩主で、足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と時の有力者に仕えて肥後細川家の基礎を築いた大名。
「夫人」ウィキの「細川ガラシャ」によれば、天正一〇(一五八二)年六月の本能寺の変の後(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となる。忠興は天正十二年(一五八四年)まで彼女を丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉する。この間の彼女を支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原マリア(公家清原枝賢の娘)らの侍女達だった』。『珠の幽閉先とされる場所であるが、丹後味土野の山中(現京丹後市弥栄町)に天正十年九月以降に幽閉されたことは史実である。しかし一方、「丹波史」には丹波味土野に珠が隠棲していたとの伝承「丹波味土野説」がある。この伝承が事実とすると、本能寺の変直後には、細川忠興は珠をまず明智領の丹波味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後味土野に屋敷を作って珠を幽閉したとも考えられる』。『天正十二年(一五八四年)三月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻し、厳しく監視した。この年に興秋が生まれている。それまでは出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していた珠だったが、忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると、その教えに心を魅かれていった。もっとも忠興の前ではそ知らぬ風を装っていた』。『天正十四年(一五八六年)、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。天正十五年(一五八七年)二月十一日(三月十九日)、夫の忠興が九州へ出陣すると(九州征伐)、彼女は彼岸の時期である事を利用し、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会に行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。珠はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、彼女の身なりなどから高い身分である事が察せられたので、洗礼は見合わされた。細川邸の人間たちは侍女の帰りが遅いことから珠が外出したことに気づき、教会まで迎えにやってきて、駕籠で珠を連れ帰った。教会は一人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知った』。『再び外出できる見込みは全くなかったので、珠は洗礼を受けないまま、侍女たちを通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいた。この期間にマリアをはじめとした侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせている。しかし九州にいる秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意。ただしラテン語名に関して、ローマ・バチカン式発音により近い片仮名表記は「グラツィア」)という洗礼名を受けた』。『それまで、彼女は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったという』。『バテレン追放令が発布されていたこともあり、彼女は夫・忠興にも改宗したことを告げなかった』。『九州から帰ってきた忠興は五人の側室を持つと言い出すなど、ガラシャに対して辛く接するようになる。ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けた。キリスト教では離婚は認められないこともあり、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得した』。慶長五(一六〇〇)年七月、『忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた』。『この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出』、『兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。『細川家記』の編著者は、彼女が詠んだ辞世として「散りぬべき
時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」と記している』。『ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長六年(一六〇一年)にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した。他にも、京都大徳寺塔中高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがある』。『なお、細川屋敷から逃れた婦人のなかには、ガラシャの子・忠隆の正室で前田利家の娘・千世もいたが、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を勘当・廃嫡した(忠隆子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している)。彼女の死後、忠利が興秋を差し置いて家督を相続、不満を抱いた興秋が大坂の陣で豊臣側に与する原因となった』。『ガラシャが死を選んだことによる他家への影響は非常に大きく、西軍に味方するものが減り、東軍に恭順するものを増やした原因となっている』。『一般には上記の通り』、彼女は『キリシタンの戒律及び夫の命を守り、自害することなく、少斎の手にかかって死亡したとされている。しかし太田牛一の『関ヶ原御合戦双紙』蓬左文庫本では、彼女が自ら胸を刺した、とあり、河村文庫本ではさらに、十歳の男児と八歳の女児を刺殺した後に自害した、とある』。「言経卿記」(ときつねきょうき:公家の山科言経による日記)の『慶長五年七月十八日条にも「大坂にて長岡越中守女房衆自害。同息子十二才・同妹六才ら、母切り殺し、刺し殺すなりと云々。」とあり、玉子の子供たちの犠牲について、当時噂になっていたことが伺える。また、侍女らが全員脱出した、との点に関しても』、「慶長見聞集」には『「御内儀竝子息弐人、供の女三人自害」とあり、少斎の他にも殉死者がいたとの噂は広がっていたようである』とある。]
○金鼎藥 靈犀角 碧桃枝 山花白 古蕨翠
[やぶちゃん注:「金鼎藥」文字列から当初、漢方処方薬と踏んだが、どうも違う。気になるのは最後の「藥」で、一般的には漢方処方では末尾に「藥」はつかないことである。しかし「金鼎」では中華料理店の店名ばかりが挙がってくる。なお、「金鼎藥局」といった台湾や成都に同名の薬剤製造会社や薬局が検索では一番に掛かってくるが、無関係であろう。そこではたと気がついて、推理方針を変えた。これは実際の漢方生薬調剤名ではなく、仙薬ではないか? それなら「藥」を末尾に持つのは少しも異例ではない。道士が懐から徐ろに出すそれに「金鼎藥」と書かれているのは、如何にもそれらしいではないか!
「靈犀角」「犀角」(さいかく)は動物のサイ(脊椎動物亜門哺乳綱獣亜綱奇蹄目サイ科 Rhinocerotidae に現生種五種)の角で、中国医学における生薬や、それから派生した漢方薬などとして古くから使用されている。角質化した皮膚の一種であり、成分の大半はケラチンである。処方としては粉末を、一日宛二~四グラムを使用すると、麻疹の解熱薬として顕著な効果があるとされるが、科学的な薬効は実はほぼないと断定されている。それでも現在でも角は工芸品や犀角の材料として珍重され、乱獲が進んでおり、五種総てが絶滅の危機に瀕している。「靈」はありがちな霊妙の謂いの接頭辞であろう。サイの角の形状と言い、希少性と言い、仙薬に相応しい。
「碧桃枝」「碧樹」は実在する木ではなく、青い宝玉で出来ているという伝説上の仙木であり、その種を示すような「桃」も、その辺にあるただの桃(もも)じゃあなくて、「西遊記」で孫悟空が過剰に食って千年も寿命が延びてしまった上にとんでもない霊力を身につけてしまうところの、謂わば「仙桃」を実らせるところの「宝碧樹」の「枝」、これだけのパワーを持った霊木である以上、その「枝」はただの枝ではない。当然の如く、仙薬である。
「山花白」この文字列から直ちに想起するのは私の好きなモクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン亜科モクレン属ハクモクレン(白木蓮)Magnolia
heptapeta の花だ。あの花、如何にも女仙の霓裳羽衣(げいしょううい: 虹のように美しい裳(も:腰から下に纏う衣服)と羽衣(はごろも)で天人や仙女などの着る衣)で、仙薬っぽいではないか。
「古蕨翠」まずは「こくゑつすゐ(コケツスイ)」と音読みしておく。「古」は熟成された仙薬の接頭辞としてはずし、「蕨翠」を調べる。するとひっくり返した「翠蕨」(スイケツ)が中文の植物百科サイトのここで引っ掛かる。「翠蕨」はHemionitidaceae(これは和名でイヌアミシダ科のことであるが、同科をイワガネゼンマイ属Coniogramme
とする別分類説もある)の Anogramma microphylla (Hook.) Diels とする。即ち、これはシダ植物の一種で、まず一つ分類説を示そうなら、
シダ植物門シダ綱ウラボシ目イヌアミシダ科(或いはイノモトソウ科Pteridaceae)アノグランマ属アノグラマ・ミクロフィラ(翠蕨(スイケツ))Anogramma
microphylla
を名指すと言える。参照したそのページに載る草体画像を見よ! いや! 団扇のような擬葉は如何にも仙薬っぽいぞ! なお調べると、「翠云(「雲」の簡体字)蕨」というのも見出せる。而してこれは、
ヒカゲノカズラ植物門ミズニラ綱イワヒバ目イワヒバ科イワヒバ属コンテリクラマゴケ Selaginella uncinata
である(ヒカゲノカズラ植物門は広義のシダ植物群に含まれる)。ウィキの「コンテリクラマゴケ」によれば、『この類では比較的大柄で、それに青みを帯びた葉が美しいので栽培される。中国原産だが、日本では野生化している地域もある』とあって、本邦にも自生していることが判る。『和名は葉の表面が紺色で光沢があることから。漢名は翠雲草と言い、これも同じ理由である』とある。『中国南部から西南部に分布する。日本には観賞用に持ち込まれ、あちこちで野生化している』が、実際には『この種は中国からまずヨーロッパに入った。日本へ入ったのが明治初年頃』(一八七〇年前後)『のことで、ヨーロッパかあるいはアメリカからとされる』。『その美しさから観賞用に栽培される。よく繁茂し、温室などでは勝手に床一面に広がることも多い』。『また、薬草として解毒、利尿などの効果があるとされる』とある。こちらは名実ともに漢方薬である。シダを美味そうに食う仙人というのは如何にも絵になる。これも仙薬に相応しい!]
○利休の話 human 新體
[やぶちゃん注:千利休は個人的には生臭く胡散臭くて大嫌いだが、彼の数奇な生活史については精神分析的興味は強い。読んでみたかった一つではある。]
○宗由――小幅
[やぶちゃん注:不詳。識者の御教授を乞う。芥川龍之介の同時代の香道家で蜂谷宗由(はちやそうゆう 明治三五(一九〇二)年~昭和六三(一九八八)年)なる人物がいるが、龍之介より十歳も若く、家元継承は龍之介の死後の昭和六(一九三一)年であるから違うだろう。]
○女男を愛す
○畫家田舎ずみの話
[やぶちゃん注:図のキャプション。右上「大槻」、上中央「円山」、下道角「■座」、左下「京阪電車」。「■」は「本」か「事」か「車」か? 識者の御教授を乞う。]
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《3-36》
○山形県五色温泉 宗川旅館
[やぶちゃん注:「五色温泉」(ごしきおんせん)は現在の山形県米沢市にある、約百二十年の歴史をもつ宗川旅館一軒宿の温泉である。同旅館の公式サイトの「五色温泉の歴史」によれば、大正一三(一九二四)年に『日本最初のスキーロッジとして皇族のための六華倶楽部が建設されました。宗川旅館が建築された後、六華倶楽部が管理運営をしてき』た、とあることから、新全集編者のこの手帳の推定記載の下限大正十二年はもう一年ずれるのではないかと思われる。大正一四(一九二五)年には、ここで日本共産党第三回大会が非公式秘密裡に開催されているが、『当時、弾圧されていた日本共産党が組織再建のため、大会を開催し』たが、『参加者は身分を隠すためばらばらに来館したため、当時の主人も』一年後に『警察からの事情を聴』かれる『まで全く分か』らなったとある。龍之介没後ながら、昭和四(一九二九)年には『竹下夢二が女性同伴で訪れ』、『スケッチブック2冊を残して行』ったとある。龍之介がここに行った形跡はない。]
○板谷(奥羽線 福島乘換)
[やぶちゃん注:山形県米沢市大字板谷(いたや)であるが、これは以下の記載から駅名と考えてよく、現在の板谷駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)奥羽本線の駅として無人乍ら現存する。「山形線」の愛称区間にあり、相対式ホーム二面二線を有する地上駅。かつてスイッチ・バック駅であった頃に、ポイントを豪雪から守るために設置されたシェルターの中に現在の駅のホームは置かれている(但し、スイッチ・バックは一九九〇年九月に廃止され、ホーム位置も移動している。以上はウィキの「板谷駅」に拠った)。ここも芥川龍之介が行った形跡はない。彼は結構、鉄ちゃんだったかも知れない。]
○あひびき
○平塚とJ
○菅藤君の love
[やぶちゃん注:「菅藤」不詳。読みも「すがふじ・すかふじ・すがとう・すげとう・すげふじ・かんとう・かんどう」などがあるが、全国の姓の中ではかなり珍しい部類の姓ではある。]
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《3-37》
○半藏の城門見れば思ふかな幕府時代のさまや如何にと
[やぶちゃん注:「半藏の城門」江戸城(現・皇居)の半蔵門。城の西端に位置し、真っ直ぐに甲州街道(現・国道二十号)に通ずる。大手門とは正反対の位置にあり、住所は東京都千代田区麹町一丁目。ウィキの「半蔵門」によれば、『この門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされた。現在は吹上御苑と呼ばれ、御所(今上天皇の住居)、吹上大宮御所(かつての香淳皇后の住居)、宮中三殿、生物学御研究所、天皇が田植えをする水田などがある。天皇及び内廷皇族の皇居への出入りには、主にこの門が用いられている。他の皇族は乾門を使用することが多い。一般人の通行は認められていない。太平洋戦争で旧来の門は焼失し、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したものである』。『半蔵門の名称については、この門の警固を担当した徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するとする説と、山王祭の山車の作り物として作られた象があまりにも大きかったために半分しか入らなかったことに由来するとする説がある』。『定説は前者であり、服部家の部下』(与力三十騎・伊賀同心二百名)が『この門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる甲州街道』(現在の国道二十号及び通称「麹町大通り」と「新宿通り」)『沿い一帯が旗本屋敷で固められていたことに由来するという』。『半蔵門は江戸城の搦手門にあたる』とある。]
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《3-38》
○藤森氏
[やぶちゃん注:これは高い確率で小説家・劇作家の藤森成吉(せいきち 明治二五(一八九二)年~昭和五二(一九七七)年)のことであろう。長野県上諏訪生れで東京帝大独法科卒(芥川龍之介(彼は英文科)と同期で年齢も同じ。彼の文壇志向は多分に龍之介らのデビューに刺激されたものである)。大正三(一九二八)年発表の処女長編「波」(後に「若き日の悩み」と改題)で認められ、後に社会主義に傾倒、昭和三(一九二八)年には全日本無産者芸術連盟(ナップ:同連盟のエスペラント語表記“Nippona Proleta Artista
Federacio”の頭文字を発音し易く「NAPF」と組み替えたもの)初代委員長。戦後は共産党に入党。作品に戯曲「磔(はりつけ)茂左衛門」「何が彼女をさうさせたか」・歴史小説「渡辺崋山」などがある。]
○窓べに煤煙の火の子見えそむる日暮
○日暮るゝ大根畠ひとろし土を掘る一人
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《3-39》
○新菊 森松 米菊
[やぶちゃん注:芸妓の源氏名っぽい。]
○海原に光はうすしむらむらと鋸山はなか空に見ゆ
○海原は今は音なしいちにんの女の顏は黃に照らひ居り
○もろむきに笑む黃顏のありどころ海は煙りて居たりけるかも
○峯々は ゆうべ奇(クス)しき 夕波の涯(ハテ)に生き物すむと誰かしらめや
○蒸暑き曇り久しき水平にのぼりもあへず月古りんとす
○蒸暑き曇よどめる 波 海の涯(はて)はまどけき月の上り久しも
[やぶちゃん注:私は二〇一〇年に「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を公開しているが、手帳類はその採録対象としていない(俳句はしている)ので、これは総て削除乍ら、かなり纏まった短歌草稿の初電子化ということになる。さっと見ても、その後の短歌類に類型相似歌は、ない。]
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《3-40》
○漬物にまぢる竹の枯葉なり含みたり
○年のくれこの夜うどんをたべ勞れがでる
○我が厭や厭やお飾をこしらへてをる也
○お飾をしとる俺をいふ妻のこゑ
[やぶちゃん注:孰れも、音数律の意識的変調や表現語句の口語性などが認められ、当時、流行った新傾向俳句傾向を持った句(若干の自由律の影響も見受けられる)と断定してよい。]
○相馬原の町元町一丁目 小泉屋
[やぶちゃん注:かの東北大震災と津波及び深刻な原発事故で甚大な被害を受けた現在の南相馬市原町区本町は旧原町市本町(もとまち)であり、現在も原町区旭町にあるJR東日本常磐線の駅である原ノ町駅(はらのまちえき)は「ノ」が入る。ここも芥川龍之介が訪れた形跡はない。]