戦争が始まった日 梅崎春生
昭和十六年十二月八日の日記を左に記す。
「朝、便所にいたら、米国、総動員令を発したというラジオのニュースにつづいて、重大発表があるから、スイッチを切らないで待ってほしいという意味のラジオがきこえた。すぐ便所を出て、朝御飯をたべながら、そして、朝の新聞には、何も出ていない。
菊坂の煙草屋で、西太平洋において、日本は英米と戦争状態に入ったというニュースを聞く。
それから、研究所で、次々に、歴史的なニュースを聞く。
夜は道灌(どうかん)山でM君と飲み、E氏とあった。
かえり、ウエストヴァージニアを沈めたニュース」
心覚えのための日記だから、意味の通らないところもあるが、そのまま書き写した。
昭和二十年八月十五日の日記は、あちこちで発表されたようであるが、開戦の日の日記はあまり読んだことはない。開戦日記は終戦日記より意味がないということか。
私の日記は平々凡々で、何のへんてつもない。何を感じ、どう考えたかということも一切記してないが、私はその日烈しいショックを感じ、また非常に憂鬱であった。
というのは、私にはその三日前の十二月五日に陸軍(対馬(つしま)重砲隊)から召集令状が来ていたのである。英米と戦争を始めたからには、もう一生帰ることは出来ないだろう。その感じがまず私に来た。
当時私は二十六歳。紅顔の美青年。独身。本郷の下宿屋から勤め先に通っていた。月給は七十五円。下宿代は朝夕二食つきで二十五円くらいだったと思う。朝便所にいたら、というのは下宿の便所のことで、隣の家のラジオが聞えていた。
米国が総動員令を発した、ということの意味が、私にはよく判らなかった。何でものものしくあんな具合に放送しているんだろう、と私はいぶかった記憶がある。あの当時から私ははなはだかんが悪い。
だから本郷菊坂の煙草屋で聞いた、戦争状態に入ったというニュースは、かなりのショックで、これはたいへんなことになったとあわてた。
あの頃の新開や雑誌で、一部の文人歌人俳人などが、暗雲一時に晴れた感じがするなどと、威勢のいい文や歌などを発表していたが、私はそうは全然感じなかった。むしろ暗雲一時にかぶさって来たという感じがした。
今思うと、暗雲一時に晴れた連中はたいてい老人(あるいは中老)で、したがって戦争だからと言って銃をとる義務のない輩ばかりである。
こちらは直ちに銃をとらねばならぬし、まかり間違えば命を差出さねばならないのだから、一時に晴れたなどとうそぶいておれる立場ではなかった。実際大人というやつは、身勝手なものである。その身勝手な年齢に、今や私もなってしまったけれども。
勤め先は東京都(東京市だったかな?)教育局教育研究所というところで、上野の山の中にあった。
市政会館という建物の中で、現在その建物は竹ノ台高校が使用していると思う。私は毎日東大構内を通り抜け、不忍池の中道を渡り、上野の石段を登る。通勤路としては、静かで快適で最高の道であったが、その日はさすがに気持が屈して、快適というわけには行かなかった。
開戦の報を聞いた時、前途に対する強い不安(前途というのは個人の前途と共に国家の前途も含まれる)が先ず来たというのが、あの日の朝の一般日本人の気持じゃなかったかと、私は思っている。
もっともその不安は、あちこちで戦果が上ったために、何となくごまかされてしまった。軍部の方も、その不安が復活するのをおそれて、敗戦の報は一切国民に伝えない方針を取った。
天皇の放送も、その建物の中の一室で聞いた。皆が立ち上って首をうなだれたから、私もそうした。私の年代、それ以上の年代は、勅語などを聞く時には、条件反射的にそんな姿勢をとるように仕込まれている。
そういう姿勢をとっても、それは外見だけで、内心何を考えているか、それは各人各様であったが。
で、その日は、あまり仕事に手がつかなかった。割に暇な役所で、しかも私は公吏としてあまり有能でなかったから、責任あるような仕事は与えられていなかった。
あれで月給だけはちゃんと取っていたのだから、昔の役所はのんびりしていたと思う。ラジオを聞いているだけで、一日の勤務が終ってしまった。
役所が終ると、早速道灌山にかけつける。
まだその頃は物資がそれほど窮屈でなく、酒も店で充分に飲めた。実際窮屈になって飲屋に長い行列するようになったのは、昭和十八年以降である。
ただ一般的に酒が非常に薄くなって来ていた。醸造元から薄いのか、飲屋で水を割るのか、金魚酒なんて名前のついているのもあった。金魚を入れても生きているという意味だ。
その道灌山の飲屋では、そんな金魚酒なんか飲ませなかった。歯ごたえ、いや、咽喉ごたえのある酒を飲ませた。
よそで五本飲まなくちゃ酔わないのに、この店では三本で酔うから、われわれはこの店を格別ひいきにした。
この日もこの店は満員であった。飲まずにいられないようなものが、各人にあったのだろう。
私もそこで酔っぱらい、徒歩で本郷台町まで戻る途中、街角の交番の前で、ウエストヴァージニアを沈めたというラジオのニュースを聞いた。だから真珠湾の戦果は、夜になって発表されたのだと思う。
私の漠然たる記憶では、道灌山から下宿に戻る途中の街が、非常に暗かった。燈火管制をしていたんじゃないか、と今にして考えられる。
この日の日記はこれでおしまい。
翌日からどういうことになったかというと、昭和十六年の当用日記は、十二月八日で終っていて、あとは全部空白。
何故書かなかったのか、その理由は今どうしても思い出せない。召集のことが気になって、日記をつける気にならなかったのかも知れない。
ついでながら召集のことを書くと、召集日は翌年一月の十日であった。
私は九州に戻り、荒天下の玄海灘を押し渡り、対馬厳原(いずはら)についたのが真夜中で、それから部隊所在地の鶏知というところまで夜道の三里を、強行軍させられた。
船に酔ってくたくたになっていたから、その夜行軍はひどくつらかった。
夜が明けて、寒風が自由自在に吹き通る兵舎の中で、裸になって身体検査。たいへん寒くて、がたがた慄えた。今でも対馬を考えると、あの寒風のことを思い出す。
こんな荒涼たる島におれの青春を埋めるのかと、絶望的な気分になったが、辛か不幸か軍医の聴診器が私の軽微な胸部疾患を発見して、即日帰郷ということになった。何百人か召集されて、即日帰郷は五人か六人であった。
評論家の大西巨人君も私といっしょに召集され、彼は終戦まで四年間、この島で艱難辛苦をとげた。そのいきさつを新日本文学に「神聖喜劇」と題して、彼は書いている。
私は帰れてよかったと思う。
[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第三十六回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年十二月十八日号掲載分。
「昭和十六年十二月八日の日記」底本の同巻には梅崎春生の日記の一部が活字化されてある(敗戦の昭和二〇(一九四五)年の分(これも抄録)はこちらで電子化済)が、非常に残念なことに紙幅の都合から昭和一六(一九三一)年分は割愛されている。
「研究所」後に出る東京都教育局教育研究所(春生は東京市だったかと述べているが、底本年譜では『東京都』とある)。東京帝国大学文学部国文科(一年間自主的に留年。因みに、殆んど講義には出ていなかった)を卒業した昭和一五(一九四〇)年に就職した。但し、後で春生は、その場所を「市政会館という建物の中で、現在その建物は竹ノ台高校が使用していると思う。私は毎日東大構内を通り抜け、不忍池の中道を渡り、上野の石段を登る」とあるのであるが、これらの位置は現行の「市政会館」や都立「竹ノ台高校」とは一致しない。識者の御教授を乞う。
「道灌山」現在の東京都荒川区西日暮里四丁目にある高台。上野・鶯谷・田端・王子へ連なる台地の一際狭く、少し高い場所にある。名称は『江戸城を築いた室町時代後期の武将・太田道灌の出城址という説、鎌倉時代の豪族・関道閑(せきどうかん)の屋敷址という説がある』(ウィキの「道灌山」に拠る)。
でM君と飲み、E氏とあった。
「ウエストヴァージニア」アメリカ海軍戦艦ウェスト・バージニア (USS West Virginia, BB-48)。昭和一六(一九四一)年十二月八日の日本海軍による真珠湾攻撃(日本時間年十二月八日未明・ハワイ時間十二月七日)により大破(雷撃機からの最初の魚雷が同艦に命中したのは現地時間午前八時前)、着底して戦闘不能となり、その後に浮揚、改修工事をうけて一九四四(昭和十九年)年には太平洋艦隊に復帰しており、ウィキの「ウェストバージニア(戦艦)」によれば、同年十月二十五日の『深夜、レイテ沖海戦でのスリガオ海峡で、オルデンドルフ中将の指揮の下の艦隊に参加し、扶桑・山城をはじめとする日本海軍の西村祥治中将の艦隊を撃破している』とある。
「対馬厳原(いずはら)」現在の長崎県対馬市厳原対馬の島の南部にある対馬振興局(旧対馬支庁・旧対馬地方局)の所在地。
「鶏知」現在の対馬市美津島町(みつしまち)鶏知(けいち)で島の中南部の町。町役場も同地に置かれている。
「三里」十一・八キロメートル弱。
「大西巨人」福岡市出身の左派作家大西巨人(きょじん 大正五(一九一六)年~平成二六(二〇一四)年)。梅崎春生より一つ年下である。
「神聖喜劇」ウィキの「大西巨人」によれば、『兵隊経験を基に、日本軍を舞台にした全八部約四七〇〇枚の大長編小説『神聖喜劇』を約四半世紀を費やして著す。この作品には、野間の『真空地帯』が資本制経済下における階級社会の縮図としてある軍隊を描いていないという問題意識も反映している。最初は雑誌『新日本文学』に掲載されたが、大西が新日本文学会を退会したために、『文芸展望』『社会評論』(活動家集団思想運動機関誌)に移り、最後のほうは書き下ろしで』、昭和五五(一九八〇)年に『刊行が完結した。この題名は』ルネサンスの先駆者とされ、イタリア文学最大の詩人であるフィレンツェ出身のダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri 一二六五年~一三二一年)の「神曲」の原題である“La Divina Commedia”(同「地獄篇」は一三〇四年から一三〇八年頃に執筆されたと考えられおり、一三一九年には「地獄篇」「煉獄篇」が既に多くの人に読まれてダンテは名声を得ていた。「天国篇」は一三一六年頃から死の直前の一三二一年にかけて完成された。なおこの作品は当時に知識人が執筆に用いたラテン語ではなく、イタリア語トスカーナ方言で執筆されたことも多くの人に読まれた理由である。ここはウィキの「神曲」に拠った)『(神聖なる喜劇)から採ったものである』とある(同じくウィキの「神曲」によれば、現在の一般に知られる邦題「神曲」は森鷗外訳になるアンデルセンの「即興詩人」の中で用いられたもので、『その一章「神曲、吾友なる貴公子」において』“La Divina Commedia”の『魅力が語られ、上田敏や正宗白鳥ら同時代の文人を魅了し、翻訳紹介の試みが始まった』。これが本邦最初期の“La Divina Commedia”の紹介であって、『ダンテ作品の受容はここから始まったとも言える。故に、今日でもほぼ全ての訳題が』「神聖喜劇」ではなく「神曲」で統一されているとある)。ウィキの「神聖喜劇」によれば、この記事が書かれた昭和三五(一九六〇)年に『新日本文学』に掲載を開始していることが判る。]