笑いんしゃい 梅崎春生
斜辺里丈吾さんは「酒」誌上で福岡の食べ物についていろいろ言いがかりをつけたが、その文章のさいごで博多の女の言葉使いに文句をつけている。読んでみると、いちいちごもっともで、かつおもしろいからここに紹介すると、まずかれは「たまげた」というのを博多女は「たまがあった」というのに驚いたそうである。
「タマがアッタ」とはなにごとか、というのである。
腹が立つことを「はらかく」。虫でもわいているかと思ったそうだが、なるほど、わが故郷の言葉ながら「はらかく」とは妙である。
好きなことを、
「スイトーットヨー」
よいことを、
「ヨカトットー」
はじめ耳にしたときは「トートット」ばかりが気になって、あわてたニワトリがけつまずいたような気がしてならなかったと書いているが、さもありなんと思う。なにしろ福岡は東京から三百里ぐらい離れているんだから、いくぶん鴃舌(げきぜつ)じみるのもむりはない。
デパートに行くと、
「東京のナニナニさま。お電話でございます」
と呼び出しがある。ここまでは東京と同じだが、そのあとの、
「ナニナニさま。もよりのお電話におかかりくださいませ」
がおかしい。電話なんざあ、よっかかったり、おっかかったりするものじゃなかろうと、斜辺里さんは怒っているのである。
でもこれは「電話をおかけくださいませ」という用語の受け身になるのだから、「おかかりくださいませ」でも論理に合っているように思うが、どうであろうか。
とにかくよその国へ行けば、よその言葉がおかしいのはあたりまえの話で、わたしははじめて熊本に行ったとき、若い女たちが自分のことを、
「おどん」「おどん」
というのにびっくりし、また幻滅を感じたことがある。おどんというのは、おれどもがなまったものだろうから、若い女性が使うのは幻滅もはなはだしい。でも熊本に四年いるあいだにそれもやがて耳なれて、その言葉使いに魅力さえ感じてきたから妙なものである。
福岡では「時計が急いでいる」という。わたしははじめて東京に出てよその家の時計を見て、
「あ。この時計は急いでいる」
と口走って大いに笑われたことがある。人間じゃあるまいし、時計が急ぐわけがあるものか、というのが東京人たちの笑いの種だったが、しかし、わたしはいまでもこの「時計が急いでいる」という表現は好きである。時計を擬人化して仲間あつかいするところに、福岡人の時計にたいするなみなみならぬ愛情がうかがわれてよきものではないか。
[やぶちゃん注:「南風北風」連載第十回目の昭和三六(一九六一)年一月十三日附『西日本新聞』掲載分。これもまた前回までの斜辺里丈吾氏の『酒』誌上の話を肴として美味く料理してある。梅崎春生は結構、こうした連載の連関的展開話法を自分自身、楽しんでいたのではないかと思わせる。
「鴃舌(げきぜつ)」「鴃」は鳥のモズで、モズが五月蠅く囀るような、訳の分からない言葉の意。「孟子」の「滕文公上」に「今也南蠻鴃舌之人、非先王之道。子倍子之師而學之、亦異於曾子矣。」(今や、南蠻鴃舌の人、先王の道を非とす。子、子が師に倍(そむ)きて之に學ぶは、亦、曾子に異なれり。)に基づく。「孟子」のこの箇所は今ならトンデモ・ヘイト・スピーチの類いとして指弾されるものであり、「鴃舌」なる語も差別用語として指弾される語であることは認識して使用すべきではあろう。]
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