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« 河畔に棲みて(十)~(十八)   杉田久女 | トップページ | 痛いものは痛い   梅崎春生 »

2016/07/22

河畔に棲みて(十九)~(二十七)   杉田久女 ~「河畔に棲みて」(完)

       十九

 

 翌日は朝から客などあつて房子は子猫の事は忘れてゐた。店へ行つた序に房子は子猫の爲めにイリボシを五錢程買つて歸つた。そして猫を探したが猫はどこにも見えなかつた。

 冷たい竃の中にやせた顏をうづめてこはばつて死んでゐる子猫を見出したのは其翌る朝だつた。

 房子の胸はいつぱいであの前々の夜間いたニヤアニヤアいふ鳴聲が耳について離れない。朝飯の時は皆子猫の死を語りあつてさすがに澄子も、その小さい目になみだを浮べるのであつた。竹の葉の靑々と吹き出した垣根の隅の土に透は小さい穴を掘つた。房子は、布でつつんだ子猫の亡骸を穴へ入れた。土をかぶせて地をならした上に、澄子は、野からとつて來た、色のあせかゝつた野菊や、赤のまんまをさした。[やぶちゃん注:「赤のまんま」ナデシコ目タデ科ミチヤナギ亜科 Persicarieae Persicariinae 亜連イヌタデ属イヌタデ Persicaria longiseta。]

 房子は二三日打沈んだ淋しい顏をして子猫の事を言ひ出しては、兄達に笑はれた。子猫の句がいつぱい手帖に認められた。[やぶちゃん注:杉田久女の初期秀句の一つと私の思うものにまさにこの時の一句「ひやゝかの竈に子猫は死にゝけり」がある。]

 自分の弱い赤ん坊の運命を暗示されてゐる樣な不安さをも感じたのであつた。

 さうかうしてゐる中透は、かの就職の事について某氏の女婿で或炭礦長をしてゐる人の所へ逢ひに行く日が來た。透は、ホクホク喜んで出かけた。先達(せんだつて)のまゝの服裝で。けれども透の歸宅後の談は、良三夫婦の豫期を裏切るものであつた。兄も甚だ興奮した面持で話した。何でも履歷書にかゝれた透の前會社に知人があつて人物をしらべたところ勿論反對派の人々ではありあゝして去つた會社故よく言ふ筈は決してない。何か兄に不利な報告があつたと見へ「實は相應に責任あるところへ、來て頂く心組なりしところ右前會社の言もありそれを承知で責任をおあづけする事は出來ぬ。しかし御懇談もありし事故兎に角一時炭礦の方の事務に來てはどうだ。外には一寸あきがない」との話であつた。

「何も法律上の罪惡を冒した譯ではなし僕の將來發展の道迄前會社から掣肘されるわけはない」と透は頗る激して言つた。今の話の口はまるでお話しにならない待遇で、「工夫したつて二十圓やそこいらはとれる。まあ工夫頭の樣な仕事ですからね。僕は斷然斷はらうかと思つたが、あなたから斷はつてもらふのが至當だと思つて其儘歸つて來た」

 透は酒や女位の爲め、自分は何も天地に恥じる事はないと言ひ張つた。そして暗に、良三が外の運動を中止してあまり某氏へ信賴し過ぎた爲め今に至つて行くべき道はとぎれてしまつたといふ憤りを諷刺した。倂し良三は格別それに對して怒りも辯解もしなかつた。

「炭礦と云ふ處はあまりよいとこではありませんね」かう良三は言つたが透の性質の或る缺點は認めてゐた。そして今後もいくら自分が骨折つても、又々こんな以前の事の爲めに、ぶちこはれる樣では誠に困つたものだと、つくづく思つた。あなたも惡いのだと良三には言ひ切れなかつた。

 たとへ法律上の罪惡でないにしろ前會社に對しての兄のすてばちな態度は惡いと妹も思つた。折角十中八九まで先方も好意を持つて成立しさうに成つてゐたものが破れたのは全く兄の性癖の爲めだと房子も思つたが夫婦ともそこをあからさまに口に出しては言へないのは苦しい立場だつた。

 房子はむしろ、夫の苦心を十も知りつゝ、

「あなたが八方へ手を出して、もうすこし多く口をかけなかつたからですわ」と、透の言ひたげな事を言つてしまつた。

 兄妹二人からかう言はれて自分の苦心は全く消えてしまつた良三は、心中大に憤慨に堪へない樣だつたが、唯口をつぐんで、さつさと寢床へ入つてしまつた。

 透も自分で床をのべて寢てしまつた。房子は夫に對して一言でも兄が感謝でもしてくれたらと、思つて、一人吐息をついた。

 

      二十

 

 玄海から吹き通して來る凄じい夜風はまつ暗な田を越えて野の中に建てられた電車の停留所に突當つてはヒユウヒユウと鳴る。トタン張の屋根をガタガタと搖するのであつた。邊りには家一軒もない。

 うす暗い街灯停留所の、小緣の樣なところに二三人縮まつてかけて居る人を辛じて照らす許りであつた。

「寒い晩だなあ」と呟く樣に言つたのは透であつた。並んでゐた良三は「兄さんあなた御寒いでせう。私のこれをお着なさい」と自分の着て居るマントを脱がうとするのを透はおしとめた。

「何、もうぢき乘るのだからかまひません。あなたこそ、下りて大分あるから僕は房さんから眞綿をドツサリきせて貰つたから、町へ出ればこんなに寒い事はないんでせう」とどうしても聞かない。停留所と云つても、唯だ屋根と壁一方のみで三方は吹き放しでこの海風を遮ぎる何物もないのであるから風は着物を透し隙間から吹き込んで體溫をすつかり奪ひ取つてしまふ。骨身にしみて、冷たい冷たい耳なし風とさへあだなされてゐる風であつた。二人とも銘々くつたくさうに默り込んで、痛い樣に顏に突き當る風を浴びてゐると、町の方からの電車が向うの高處を徐々として下りて來る。靑い灯の幅を暗い線路に藁屋根に草土堤に投げて、浮き出る樣な明るさを窓いつぱいに漂はしながら停留所めがけて走つて來た。二人は待ち兼ねた樣立ち上つた。[やぶちゃん注:「耳なし風」確認出来なかったが、強く冷たい風で体温の低い耳介部分の感覚が消失し、引き千切られて無くなってしまったかのような感じするという謂いの呼称であろう。モデル・ロケーションの北九州の小倉は、関門海峡を挟んで、対岸の安徳天皇や平家一門を祀った赤間神宮(山口県下関市内)に近く、ここを舞台としたかの「耳なし芳一」伝承との親和性もあり、腑に落ちる呼称のようには思われる。「くつたく」現行では概ね否定構文でしか持ちられなくなった名詞なので注記しておくと、「屈託」で、「気にかかることがあるために心が晴れないこと。心理的に一つの対象に拘ってしまってくよくよすること」 或いは「心身ともに疲れてあきあきすること」である。ここは漠然とした比喩であるから、後者の意でとる方が自然である。]

 電車が彼等の前で停ると二人許りの人が下りた。

ぢあ行つて參ります」と良三は洋服の男の後から乘り込んだ。

 電車は透一人を殘して直ぐ海岸の方の線路へかけ去つた。今下りた人達が凍てた樣な下駄の音をコツコツと川添の道に立てゝ遠ざかつて行くのが可成隔てゝ迄も尚ほ聞えて來た。身を切る樣な風は透一人に益々吹き荒んだ。暗い灯の中に腕組して突立つた彼れは何だか背中から首すぢへかけて折々水をあびせられる樣な寒さを覺えたが電車に乘りさへすればと格別氣にもしなかつた。狹い海を渡つて此寒い夜にわざわざ自分の勤め口を求める爲めに、一日の疲れをも厭はず出掛て呉れた妹聟が氣の毒な氣もした。やつれた樣な髮をしてせつせと縫ひつゝ自分の事や樣々の事を案じつゝ溜息でもついてゐる樣な妹の顏もちらついた。ここへ來てからもう三月に成るのにいまだに口も定らず、妹夫婦が何ものも捨ておいて朝に晩に重荷の樣にして焦せつて呉れるのも氣の毒に堪へない。どんなつまらない處でもよいから一時的なものなりと年内に勤め先を見附けたいものだと彼は繰り返しこんな事を思つては溜息をついた。

 ボーオと云ふ長い電車の笛がぢき野の隅の丘の彼方で鳴つた。そして段々近づいて來た。電車はパツと幅廣な靑い光線を濱邊の松原に投げていよいよ曲り角へ其明るい總體をあらはした。さうして長い長い間――唯の十五分ながら――寒風に吹きさらされてゐた透を明るい扉の中に吸ひ入れて、又町へと馳せ出した。電車はいつぱい混んで居たので彼は戸口に立つてゐた。寒氣は中々やまなかつたがしめ切つてある爲め堪へ難い惡感はなかつた。町の灯を縫つて走つた電車はやがて透の下りるべきB驛へ停つた。透は電車から下りて幅の狹い賑かい街をドンドン步いた。年の暮が近づいたので、店々は球灯やビラを下げて何となく活氣づいて居た。厚い毛皮の襟卷やマントを着た人や、流行の肩掛にくるまつた女達が買物のつゝみをぶらさげて景氣よささうに笑ひながら步いて來る。サツササツサと行き違つて行く人々は皆何等かの職業と、家と、日當とを持つて居る樣に眺められた。鼻緒のゆるんだ桐柾の下駄を引ずりながら外套一枚も羽織らないで寒い思ひに堪へつゝ就職口を賴みに行きつゝある自身を透は如何にもみすぼらしい樣にヒシヒシ感じてゐるのであつた。今年の樣な寒い冬を迎へた事はない。東京から早く外套の金を送つて呉れればよいのに……彼はこんな事を考へつゝ洋食屋の軒の下をくゞりぬけた。厨と覺しい窓からは物を煎りつけるバタの甘さうな香氣が、あふれる樣に透の鼻先へ突當つた。其二階には瓦斯が明るくついて花などさゝれたテーブルが窓から見上げられる。透は馬鹿らしい樣な心地に駈られつゝ急に薄暗い橫丁へ這入つた。チリンチリンとゴム輪の車が鈴を鳴らして走つてきた。車の上には派手な友染を着たお酌の人形の樣にぬりたてたあでやかな顏や、上半身が蠟燭の灯で浮き出す樣に透の眼に映つて直ぐ又消えた。[やぶちゃん注:「賑かい街」はママ。]

 

       二十一

 

 一丁許り行くと角に小ぢんまりした二階建のそばやがあつた。透は一寸立停まつて考へて居たが、ツツと暖簾をくぐつて這入ると「いらつしやい」と丸髭の若い女が迎へたが透の顏を見ると、

「おや岡本さん。さあさあお上りなさいまし」と愛想よく言つて、

「あなた。岡本さんですよ」と奧の方に聲をかけた。どてら姿のそこの養子が出て來て透は快よく二階に通された。[やぶちゃん注:杉田久女(旧姓と本名は赤堀久(ひさ))の母方の旧姓は「岡村」である。]

やあ、先日は失禮しました。丁度僕は湯に入つてゝね、歸つて來て、君が來られたつていふからなぜお通ししなかつたつて言つてやつたんです」主人は如才なくこんな事を親しげな口調で語つた。

「いやどうあんな町中でバツタリ君に逢はうなんて思ひもよらなかつたよ。僕は三月も前からK市(ここ)へ來てたんだが」と透が言ふと、

「ふしぎなもんですね。臺灣でお別れしてからもう十二三年ですな、でもあなたは相變らず若い。どうですな此節も矢張り俳句はおやりですか」と主人は聞く。

 この蕎麥屋の若い養子と透とは臺灣にゐたころ同じ鐵道部へ勤めて、文學趣味が合ふ處から非常に親しくしてゐた。別れてからは長い間音信もしなかつたが、つい先達透は町中で「やあ岡本さんぢやありませんか」と呼びとめられて、意外の邂逅に驚いたのであつた。遠い親類先にあたる此家に養子に來た彼は晝は或官邊へ雇員として通つてゐる。一度是非遊びに來給へと言つて其日は別れた。

「時に、お勤口が定りましたか」と養子は親切げに尋ねた。

「どうも一向ないんで困つちまいましたよ。例の方もだめになつたし、妹達も氣の毒な程あちこち探して呉れるんだけど、中々無くつてね。僕はもうかうしてぶらぶら遊んで居るのが苦痛だよ。炭鑛の石炭掘でも工夫でも、もう何でもいいから腕つかぎりやつて見たくなつた。實際親切にされゝばされる程、妹の家にいつ迄厄介になるのも居づらいしね」透はつくづくかう言つた。落附いた聲で。

「だけど君炭鑛なんかへうつかりふみこんだらそれこそもうだめですよ。僕も實はよそながら一二ケ處聞き合して見るつもりだ。焦らず探せば是丈澤山な會社だもの空のないと云ふ事はない」と透を慰めるのであつた。言ひ附けてあつたと見えて下から、前の丸髷に赤い手柄の、丸々した若主婦が德利だの、蕎麥だの一寸した煮付の樣なものをのせた塗膳を運んで來た。

やあもうどうぞ奧さん、そんな心配はおいて下さい」透はかう言つて、主婦さんと挨拶など取り交した。氣の毒さうに辭退する透の、飮(い)ける口なのを知つた亭主は盃をとり上げて度々注ぐのであつた。まだ何となく寒氣がしてたまらない透は種物の蕎麥に藥味をほり込んで熱いのを食べ、酒も二合の餘流し込んだせゐか、いゝ按排に寒氣がやんで何だかボーツと頬の邊がほてるのを覺えた。[やぶちゃん注:「種物の蕎麥」「たねもののそば」とは蕎麦の上に天麩羅・鴨肉・玉子とじなどの種(たね)、即ち、具を既に載せてある蕎麦を指す。]

いつかう上りませんね。何もないが、ゆつくり上つて下さい」

 友達は心から隔意なく透をあしらつて、透が東京時代の俳句のホラなど話すのに合槌打つのであつた。

 

      二十二

 

 透が郊外の家へ歸つてきたのはまだ十時前だつた。良三はまだ歸つてなかつた。蠟燭を持つて玄關へ迎へた房子は兄の元氣の無い顏色を見ると「どうかなさつたの」と氣遣はしげに聞いたが兄は「ウン」と大儀げに言つたまま帽子を柱にかけて電灯の間へ上つて行つた。「何だか馬鹿に寒氣がしていかん」と言ひながら透は右の袂からアンチピリンの包を出した。[やぶちゃん注:「アンチピリン」(antipyrine)はピリン剤の一つで解熱・鎮痛・鎮静剤。ピリン疹や血液障害の副作用があるため、現行の市販薬ではアスピリン(aspirin)に主流が移っている。]

「風邪だらうと思ふんだが、房さん一寸水を呉れ」と言ふ。房子が煮ざましを持つて來ると透は一服呑んで、

「良三さんはまだか。遲いなあ、友達のとこで酒と蕎麥をよばれたら其當座は大分暖まつてたが」

「薄着だからおかぜをめしたのでせう。早くお休みなさいな。私家の中で縫つてても隨分寒かつたんですもの」と房子は炬燵にかけてあつた透の寢卷を出した。寢床には炬燵の嫌ひな透の爲め湯婆(ゆたんぽ)が入れてあつた。透が床の中へもぐり込むと房子は枕許へ來て肩をつめたり裾の方へ座布團をのせたり、押入の鞄をあけて透の體溫器を出して、透に渡したりした。

 透の風邪は翌日も矢張り熱があつた。透は房子の煮て呉れたお粥を少し食べた許りで寢通してゐた。

「兄さん醫者に診て貰ふ方がいゝぢやありませんか」と勸めてもまあもう一日經過を見ようと、矢張買藥を呑んで居た。熱が下らないので町から醫者に來て貰つたが今のところでは風邪らしいとの事だつた。十二月ももう二十日過ぎたので或日は慌しい樣な短日の日ざしがパツと透の寢てゐる障子を染める事もあつたが灰色の密雲が松原の邊りへ凝固した樣に垂れ下つて夕方からチラリチラリと粉雪が降り出す日もあつた。房子は凍てた樣な朝も早くから起きて透の粥を煮たり藥取りに町まで行つたりその歸りには重い氷をさげて歸つた。

 良三は二十五日迄は每日學校の方へ出なければならなかつたので房子は子供らの春着や、自分達の直しものやら山程、師走の用事を抱へつゝ看護に掛つてゐた。

 十二月の初めから夫婦は透の就職口を何でもかんでも年内に見付けなければと、重荷の肩にある樣な責任觀念から、益々不健康な赤ん坊の體を顧る暇もなくその方に奔走してゐた。透の病氣は運惡く數日の後チブスらしいと言ふ醫者の宣告を受けた。神經の鋭敏な透はさう言われる二三日前からしきりに「熱の按排がどうも唯の風邪ではない樣だが」と氣にして、何度となく體溫器を枕元からとり上げては腋へはさむのであつた。房子もないないそれを心配してゐたが愈々と成ると是非入院しなくてはならないが困つたと思つた。[やぶちゃん注:「チブス」(ドイツ語:Typhus)ここは水や食物に混入した腸チフス菌によって起こる消化器系感染症で高熱が持続して全身が衰弱する腸チフスのこと。詳細は、ごく最近の私が芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 戀は死よりも強しの「チブスの患者などのビスケツトを一つ食つた爲に知れ切つた往生を遂げたりする」に附した注を参照されたい。]

「困つたなあ」醫者が歸つて行くと透はあふむきに天井をみつめたまま「僕だつてふだんならおいそれと入院するんだがどうも今の身では此上送金してもらふのもつらいし………」と聲をとぎらせるのであつた。熱にほてつた顏に淋しい屈託の色を浮べて當然の事を氣兼ねしてたゆたつてゐる兄の樣子を見て良三も房子も胸の痛い樣な氣がした。「でもね外の事とは違ひますもの、嚴しいたつてお父樣はきつと快よく出して下さるにきまつてますわ。心配なさらないで入院ときめませうよ。ねえ兄さん………」房子は慰める樣言つたが聲は打沈んでゐた。三人は思ひ思ひに沈默した。折角かうして賴まれながらまだ勤め口もない中に病人にしてしまつて申譯ない。多大な費用を更にまた送つて貰ふと言ふ事はいかにも言ひ難い氣の毒な事だと良三は思ひ詰めた。この郊外の村一帶はチブスの非常に多いところだ。ことに房子の井戸はどこからか汚水が流れ入つてよく濁る事もあつた。だが責任は食物の調理をする私にある。東京にも兄にも濟まない。と房子は房子で思ふのであつた。[やぶちゃん注:「たゆたつてゐる」躊躇(ためら)っている。この用法は今はあまり使わないので注しておく。]

 

       二十三

 

 遂々入院と定つた。だが氣丈な透は人力車で行くと言ひ張つた。[やぶちゃん注:「遂々」「たうとう(とうとう)」(到頭)と読む。当て字。]

 ふらふらする體を獨りで起き上つて房子の着せかけて呉れるシャツや綿入に手を通した。氷囊だの體溫計、手帳、そんなものを包んだハンカチを持つて、玄關へ下りた透は、良三と房子を見つめて「お二人とも大變お世話をかけました」と何だか暇乞の樣な言葉を殘して毛布にくるまつて俥に乘つた。外套を透に着せた良三は何も着ずに後の車に乘つた。

「兄さん氣を落さず御大事になさい」と房子はうるんだ聲でかう言つた。「さやうなら」と透も淋しげに見返つた。

 家の中へ這入つた房子は敷き放しの布團や、熱臭い襯衣(シャツ)などを兎に角一とまとめにしたり、埃をかぶつた藥瓶や、粉藥の袋を始末しつゝ今出しなに兄の殘して行つた言葉を思ひ出してホロリとした。催ほしてゐた雲は夕方から大きな牡丹雪をしきりに降らした。見る見る中に門前の苫船も河原の枯蘆も田も屋根も白く成つて行つた。兎に角大した異常もなく手順よく市立病院の隔離の一室へ落付いたと言つて良三が歸つて來たのはもう夕方近かつた。「行つて診察を待つ中何だか大變苦しくなつて見えてね。直ぐ部長が診てくれた。持つて行つた氷囊が役に立つて直ぐ落附いた。擔架で隔離の方へ行かれた」「兄さんは以前心臟が惡かつた事があるから熱がつゞくと心臟の方が心配だと部長が言つた」良三はせかせかと夕食を詰めつゝ話して又病院へ手續の爲め行かねばならなかつた。近處から十四五の男の子を賴んで來て透の敷いてた布團、新らしい寢卷、新聞紙其他ちよいちよいした入用の品を一まとめにして荷車にのせて病院へ行かせた。牡丹雪がどんどん降りつゝ日はもう暮れかけゐた。提灯や、蠟燭の用意をさせ、良三自身は電車で先へ行つて布團を受取るべく出掛けた。家の中は灯がついたが何だかそここゝに暗い隈がある樣で房子も子供らも非常な淋しさに襲はれた。子供らが皆寢てしまふと房子は、東京の兩親へこまごまと手紙を書いた(電報は既に良三から打つた)全く私の不注意から起ツた事で誠に申譯ない。と彼女は繰返し繰返し謝まつた。附添をつける事にしても、初めての病院の夜は淋しからうと思ひ遣つて房子は淚を流した。その日はもう元日が明後日といふさし迫つた夜であつた。正月の用意も餠搗も彼女の家ではする間がなかつた。

 翌日も朝から良三は病院に行つたり、東京へ自分も通知を出したり、入用の品物を買つて病院へ持つて行つたり、其暇々には、電車で郊外の家へ歸つて來て、正月の入用の物について、せめて〆飾(しめかざり)や餠位はと言ふので買ひ整へても來た。

 良三は昇汞水の手を嗅ぎながら「もう正月の仕度なんか此場合やめて、掃除もやめなさい。食器――兄さんの――類やすべて使はれたものは熱湯で消毒するんだね」[やぶちゃん注:「昇汞水」「しようこうすい(しょうこうすい)」は昇汞(塩化第一水銀)に食塩を加えて水に溶かしたもので毒性が強いが、かつてはよく消毒液として使用された。]

「なに僕は傳染なんかしない」

 かう言つて途中で買つて來た正宗を盃に二盃程飮んだ。今日たつた一日と言ふ今年最終の日をいか程あせつてもどうする事も出來ない。房子は、赤ン坊を背負つたまゝせめては臺處のガラクタでもしまつしようと思ひ立つて厨だけは心地よくすました。每年の年越の日は重詰も見事につくり活花もいけて打揃つて目出度く年を越すのであつたが今年は思はぬ透の病氣の爲め折角買つた木附(ぼくつき)の冬至梅も水仙も臺處の隅の瓶に浸けた儘だつた。

 夕方病院の拂ひを濟して歸つて來た良三は「お鏡餠だけは緣起直しに大きいのを買つて來た」と重いのに五升の重ね餠をさげて來た。

 兄さんはと聞くと「變つた事もないが何だか神經が興奮して種々氣にされるのが病氣に惡いね」と答へた。そして「兄さんにも淋しい正月だが小いお重ねを持つてつて上げる」と小餠の重ねを半紙に包んだ。水仙の花を持つて良三は出かけた。

 

       二十四

 

 敬神家の良三は小さいお神酒入れなども買つて來た。煮豆にお煮〆丈がやつと忙がしい中で煮られた。年越の夜ではあるが夫は病院が淋しからうと歸つて來ない。父を待ちくたびれた子達に夕飯をたべさして寢せて後房子は明け放つて掃除をした。雪はしんしんと暗い夜空に降つて積んで行つた。房子は寒さをも忘れて蠟燭の灯で緣をふいたり、玄關の叩きを洗ひ流したりした。それでもどうやらかうやら家中を氣持よく掃除し終つて床の間にはお供餠も飾られ梅も投込ながら插された。水引を掛けた根の附いた小松をコツコツと入口の柱に打附けた。晝の間に汲み込んで置いた風呂も焚きつけた。か樣にあれこれと働いた房子は、もう十時近い座敷の床に蠟燭をつけて、非常に敬虔な心持で八百よろづの神々へ祈をさゝげた。彼女には之と特別におん名を呼び上げて祈る程親しみの厚い神もなかつた。唯彼女の胸の中にある「神」に向つて、兄の病氣を祈り一家の無事を祈り、遠く父母の健康を祈つた。寒さは骨身にさす樣食事もせず十一時近く迄働き詰めてゐた房子の體中を包んだ。けれども彼女は燃える樣な熱誠を包んで、唯だ祈りをさゝげた。石膏のビーナスの胸像にも細い蠟燭が灯されてあつた。[やぶちゃん注:「彼女には之と特別におん名を呼び上げて祈る程親しみの厚い神もなかつた」久女や夫宇内(うない)がキリスト教に強く惹かれるようになるのは後の大正一〇(一九二一)年のことである(翌大正十一年二月に小倉メソジスト教会にて受洗した。同年十二月には夫宇内も受洗している)。「石膏のビーナスの胸像」画家で美術教師である夫のデッサン用のそれである。]

 彼女は夫の藝術的成功をビーナスの女神に祈りを捧げたのちしづかに、蠟燭を吹きけした。

 戸外の雪は餘程積つたと見えて庭前の樅の枝から折々ドサリと重い雪の塊がなだれ落つる音もした。

 外套の羽根も帽子もまつしろにして夫の歸つて來たのは夫れから間も無かつた。門口でコンコン下駄の齒をはたいた良三は「まだ起きてたのか。うん僕は病院で食べて來たよ」と言ひながら上つて「別に變つた事はないがどうも熱が非常に高い。檢鏡の結果愈々チブスと決定したが、正月でもあり發表は二三日のばしてもらふ事にした。何しろ心臟の事を醫者は非常に心配してゐる。だめだとは言はないが………」と沈んだ表情をして「あまりひどく東京へ知らせれば心配をよけいかけるし、かといつて萬一の事のあつた場合には申譯なし、輕率に來て貰ふのも遠方だから困るし……」

「意識はたしかなのですか」

「意識が確か過ぎて、行けば平常通り話されるし困るんだ。あの通り神經が鋭く成つてゐるから病人に餘り重く思はせ度くはなし」と良三は言つた。大變いゝ附添の婆さんだ、など話してた。良三は、「子供達に正月の羽根など買つてやらうと思つたんだが、可愛さうだから今から町へ行つて來る」と房子の留めるのも開かず、又外套をはおつて出て行つた。入れ違ひに東京から電報が來た。

 カネ五十オクルヨオダイシラセ大晦日と云ふのに兄重態入院の電報を突然受取つた兩親の驚きは如何許りであらう。病症が病症故にと房子は胸の痛くなるのを覺えるのであつた。房子一家はK市へ來てから唯の一度も入院する樣な大病を一家の中から出した事はなかつた。房子は衞生なんかといふ方は非常にさわいで氣を付ける方でもあつた。それに傳染病者を出して、この年の暮れのごたごたの中に弱い赤ん坊やヤンチヤな上の娘を抱へてこの心配の渦に飛入る事は何と思つてもまあとんだ大災難だとつくづく思つた。兄に萬一の事でもあつた時は猶更大變である。年老つた兩親が出て來る……色々な悲しい出來事……房子は本當の樣死を思つて思はず戰慄した。こんな遠方に漂浪して來て友も、妻も、家庭も皆すてゝ淋しい佗しい生活に堪へて來た兄が種々な佗しさを胸に疊んで死んで行くのかと思ふと彼女はたまらなく兄が可愛想で留度もなく淚が流れた。[やぶちゃん注:「留度」「留め處(ど)」。]

 

      二十五

 

 夫は十二時過ぎても歸つて來なかつた。電車は通はなくなつた。

 房子は晴い風呂場で火を焚きつゝ留度もなく泣いたり、父への手紙を書いたりした。兄はすつかり近來性格もぢみに變つて來た。今度こそ腕限り奮鬪すると言つてゐた。入院する時も父母へすまないと言つてためらつた位で、大熱で臥しつゝも父母の大恩を感謝しすまぬすまぬと言つてる兄をどうぞ可愛想だと思つて許して上げて下さい。萬一の場合あの佗しい心地の儘死なしては可愛想だ。一寸感動しても直ぐ熱の上る兄へ何卒ひどく叱つて下さるな、と彼女は淚にぬれつゝ美しい感情と淚とに充ちた長い手紙を書きつゞけた。

 戸をしめかゝつた、今年最終の夜の店々で子供達の喜ぶ玩具や、羽根や、美しいお菓子を買ひあつめた良三は電車が無いので半道の餘の暗い道をテクテク雪にまみれて歸つて來た。妻の房子はまだ起きて漸やう書き終つた手紙の上書をしてゐるところだつた。「遲いものだからもうどこの店もしめてるんだもの。でもよその子がお正月なのにうちの澄子だけしよんぼりしてゐるのも可愛想だからね」かう言つて風呂敷づゝみから種々取出した良三は袂からみ籖を出して「あまり今年は惡い年だしするから歸りにお祇園樣へおまゐりして祈願して來た。もう十二時過ぎて年は新たまつてゐるし本年の初參詣は僕だ」と珍らしく笑んで大吉と云ふみ籖を房子に渡した。

「だが考へ樣によつては僕等一家の危難を透さんが一人で背負つて下さつたのかも知れない。非常な打擊と心配と不幸を兄さんの爲め受けた樣思ふより我々は不幸中にも一家四人無事で怪我一つなく今年を終つた事を感謝しなくてはならない……」腕ぐみしてかう言つた良三の顏は大變嚴肅な引締つた目色であつた。二人の間に暫くおごそかな沈默がつゞいた。

「子供達を湯に入れてやらう」

 裸になつて、沸きすぎた湯を五六杯バケツでうめた良三は、眠い子供を抱いて房子が來ると一人づつ入れてやつた。湯殿の棚には蠟燭がゆらゆら燃えてゐた……

 正月の二日三日が一番危險とせられてゐた透の病氣も天佑か良三夫婦の熱誠が屆いたのか、正月の五日から、十數日目で初めて熱が下り初めた。一時は四十度三分などゝいふ高熱が續いた。危篤の電報さへ打てば兩親共直ぐ出立すると言ふ豫定だつた。良三の心痛ははたの見る目もいたはしい位で彼は責任と云ふ重い觀念を頭に漲らして出來る丈けの世話をした。透は少し熱が下がつて來ると高熱中の事はちつとも覺えが無かつた。熱は日每に順調に一分へり二分へり遲々として下つて行つた。倂し針の樣に尖つた神經が何事かに觸れる度又俄かに熱は、上つて行つたりした。流動物のみ攝取して、讀書は禁じられるし每日きつと午後から夕食の頃迄來て呉れる良三を待つのが何よりの樂しみだつた。

 房子は時々一人で病院に來ては蜜柑をもつて來て呉れたり枕元の椅子にかけて二時間位ゐ話して行つた。命がけで病んだ彼は、ひとりでに罪のすべてを許された。

「兄さんお父さんからお手紙でね、何も心配せず早く病氣を癒せつて言つて來ましたよ」と房子が來て言ふと彼れは鼻のみツンと高く瘠せ衰へた顏に皺を寄せるやう微笑したが目には淚がにじむ樣に光つた。姊や母からも、病人の心を興奮させぬ樣直接の音信は無かつたが度々手紙で案じて來たし、經費はをさめる期日におくれぬやうキチンキチンと送つて來た。例の蕎麥屋の養子も見舞に來た。房子からの細かい手紙で透の句兄弟某氏からも直ぐ見舞狀が來た。[やぶちゃん注:「句兄弟某氏」これが誰であるかは不詳であるが、モデルである、俳名を赤堀月蟾(げっせん)と称した久女の実兄は渡辺水巴門ではあった。]

 

       二十六

 

 妻のお芳も、良三の電報がつくと直ぐ兩親の許へ呼びよせられて病狀を語られたので看護に來たかつたがそれは許されず、非常に心痛しかつ良三夫婦に世話になつた禮をのべて來た。すべての狀態は圓滑になつて今は唯一日も早く透の快復を待つのみだつた。一體が至極強健な彼は快復期に入つては非常の早さであつた。妹から暮れに屆けてくれた水仙の花の淸淨さを透は朝に夕に眺め郊外の河畔の家がしきりに戀しくなると端書に病床中の有樣や、隣室の病人が昨夜死んで非常に貰ひ泣きしたとか窓の外に梅が咲いたとか云ふ樣な事を寢床の上で鉛筆の走り書きして附添婆さんに投函して貰つた。いかな雨の日も、寒い日も、雪の日も良三は入院中一日もかゝさず市外の家から電車で通つた。電車を下りてからまだ病院迄は十五六丁あつて道の泥濘でない日はめつたに無かつた。附添の婆さんへ心附けなども良三の手からとして出された。親切な附添の婆さんは實に行屆いた世話をまごゝろからして透はつひぞ一度も怒り度い事さへなかつた。

「全くよく命が助かつたものですね。僕は病前の禁酒や鰻などでウンと滋養物を取つたから身體が堪へられたと思ふ」と良三の來る度に透は語るのであつた。

 よい按排に某鐵工場の事務の主任にあきが出來たので世話し樣と言ふ人があつて、それこそ退院を大變せいて、一月の末には許された。郊外の電車を下りて房子の家迄一丁半許りを步いて、良三と歸つて來た透は疲れを覺えた。房子も子供も皆いそいそして彼れを出迎へた。六疊の間にはチヤンと布團が敷いてあつた。

「ほんとにお目出度うございました」と房子は言つたが目には淚がにじんでゐた。「伯父さんやせたのね」と澄ちやんもいたいたしさうに伯父を見てゐた。

「どうも今度はあなた方お二人に何とお禮を言つていゝか、僕は感謝してる」と透は言つた。

 明るい燈の下に、久し振りで、甦つた樣な透を取りかこんで一家は賑かな笑ひに充ちた。當分の中は服藥もし、天氣のよい暖い日は洋杖をついて、外套や首卷をし、母から送つてきた綿のドツサリ這入つた胴着や、羽織を着ぶくれて、そろりそろりと病院通ひする事もあり、町の潮湯へ行く事もあつた。

 こんな風で透は次第に快復しつゝあつたが房子の赤ん坊は、十二月の末から腸をこはしたり、輕い風邪を引いたりして、全くひよわな身體を冬枯の樣にいぢけさせて、肥るどころか次第次第に瘦せて來た。さすがに兩親とも氣附いたが、透の病院の騷ぎの爲め遂に哀れな赤ん坊は閑却されてゐた。絶えず腸をいためて粘液の樣なわるいわるい下痢をした。神經が鋭くなつて泣いては夜も目をさました。

「此子は死ぬのではないかしら」房子は每日かういふ怖れを抱いて居たが透も病院通ひも一人で出來、食物も、幾分手もかゝらなく成つて來たので、或日彼女は、町のお醫者樣へ連れて行つた。それはK市では指折りの小兒科醫で物質萬能のK市には珍らしい樣な高い人格者だつた。ストーブの焚かれてある診察室で、着物をぬがせた赤ん坊の、ほねぼねしい肋骨の邊や、蒼白な瘦せた皮膚の色。手も足も人形よりもつとしなしなと小い身入の惡いのを醫師は丁寧に診をはつて昨年來の容體を聞いてから「兎に角非常に御衰弱ですね。さうです。榮養不足です」お世辭もない醫師は信じた通り言つて滋養糖のこしらへかた、乳のうすめ方など、親切にこまごま教へて下さつた。眞綿でくるむ樣にして着物を着せ終つて、此病院の門を出た彼女は泣き度い樣な心地で無意識に電車通りを步いた。「此子はもう手遲れだ、死ぬかもしれない……」かう思ふと堪らなく可愛想で房子は、道行く人々がけげんさうに彼女の樣子を見て過ぎるのも知らず吐息をついた。藥屋でミルクや乳鉢や飴や、吸い口、ゴムの管の樣なものを買ひ揃へて房子は飛ぶ樣に家へ歸つた。

 

       二十七

 

「此子は助かるでせうか」房子はじつと灰色の雲を見詰めて言つた。「大丈夫。春が來て暖かくなれば屹度むくむく肥り出すよ」良三は信ずるやうかう言つた。「さうとも。命と言ふものは神の手で審判(さば)かれるものだ………」と透はひくい、倂し力の籠つた聲で同意するのであつた。

「快復の見込は充分ある」と信じ切つてゐる醫師からかう言はれたので房子は驚くべき熱心を以て、赤ん坊の不健康を癒す爲めに努力した。彼女は每日家の用事が一渡り片附くと家を締め、長女を連れて、おんぶ羽織をきて、電車で病院通ひをした。病院には病兒を連れた親達が、もうあふれるやう待つて居た。やつと自分の番が來て診察がすむと今度は藥取に暇がかゝつた。女中達に早く札を取らして置いておしやれしてゆつくり來て房子達より却つて先に、サツサと歸つてゆくやうな結構な身分の人達と違つて手の足りない中から何ものも投げ捨てゝ遠くから出て來る房子達には病院がよひが殆ど一日仕事であつた。そそくさと歸つて來て透の食事や、夕食の買物などにも、又步るかなければならなかつたが此場合そんな事は言つてられなかつた。飴やメリケン粉やをミルクに交ぜ合して丁度よいかげんに調合した光子の飮物を硝子器に入れてやると赤ん坊は口をコツクンコツクンと言はせて見てるまにクツクと吸ひへらして行くのであつた。赤ん坊の腸は藥と飮物の爲め次第に調へられては來たが、たまに一日でも藥を休むと翌日は必らず惡い徴候があつた。隔日每に出かけて二日分の藥をもらつては郊外へ歸つて來る房子はもう彼れ是れ一月近くなるのに格別好い方にも成らず、肥りもせないのがもどかしくてたまらなかつた。倂し此衰弱し切つた赤兒の腸を先づととのへてからではなくては肥ると云ふ點へはまだまだ遠い事で、一向效驗の見えない病人を約二月近く判を押したやう連れて行くと云ふ事は非常に根の入る仕事であつた。でも親切な醫師の盡力と房子の熱誠と、もう一つは自然の偉大な愛の力とに惠まれた爲め赤ん坊は一日は一日より、誠に遲々たる步みであつたが快癒の方へ向つて行つた。朝鮮人參なども殆ど每日のやうに小さい土鍋で、長火鉢の上に煎じ出されて、日に數回づゝ赤ン坊に飮まされた。[やぶちゃん注:底本では「腸を先づととのへてからではなくては肥ると云ふ點へはまだまだ遠い事で」の「ではなくては」の最初の「は」の右手に編者のママ注記があるが、私はそれほど奇異に感じない。]

 早く春が呉ればよい。暖くなつたら赤ン坊も肥り出すだらうと房子は春の復活のみ待つた。恐ろしく寒い日が又歸つて來て田の向うに見える貫(ぬき)足立(あだち)の連峰がまつしろになつたり、四五日は雪解の風が、郊外に吹きまくり電車へ辿る土堤はひどい泥濘になる事もあつたが、長い間寒冷に壓しつけられて地にくつつくやう矮さくなつてゐた庭先の菜は、目立つて綠色の葉を成長させた。そしてその間引きもせず、重なり合つた菜の葉の中にはどれも皆莟をもう潛めてゐるのであつた。春めいた何となく暖かい日が庭土に枯木の影を濃く落すやうな日が三四日も續くと此菜の赤ン坊とも云ふべき樣な菜は、一齊にめざめたやう、二三寸程の矮さい弱々しい薹をぬき出した。そして其細い莟の先には靑い莟をささげて、いかにも餘寒らしい淡い、小さい花辨を開く事もあつた。庭の隅にはいぢけたやうな蕗の薹がかたい顏を地上に現はしたりしてゐた。[やぶちゃん注:「貫(ぬき)足立(あだち)の連峰」現在の福岡県北九州市小倉南区の北端にある標高七一二メートルの貫山(ぬきさん)から同北九州市小倉北区にある標高五九七・八メートルの足立山(別名「霧が岳(きりがたけ)」)へ続く峰々のこと。「矮さく」「ちひさく(ちいさく)」(小さく)。]

 子供を背に負ぶつて川堤をブラブラしてゐると、頭を手拭でまいた漁師町の女達が手に手に食べる爲めの蘩蔞(はこべ)や芹などを携へて田圃の方から歸つてくる群れを見出した。磯の方から來る子供達の籠には砂まぶれの蜊(あさり)や、おごと言ふ藻や、靑海苔なんどが、いつぱいはみだすやう入れられてあつた。[やぶちゃん注:「おご」紅色植物門紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属エゴノリ Campylaephora hypnaeoides の方言名。福岡など名産である「おきゅうと」の原料。同じ紅藻綱で刺身のツマや寒天の材料にする(但し、石灰処理をしないものは有毒(毒素は複数説有り)なので注意)オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla とは全くの別種である。]

 まだ冷たい川水に股まで入れて網打つ人、土堤の上から見てゐる人々にも何となく春めいた日ざしが漂ふやうにも見られたが、枯薄の根や塀かげにいぢけて萌え初めた草にも、河深く泊まつてゐる漁旗のはためきにも、餘寒が漂つてゐるのであつた。

 透が、ボツボツ拔け初めた頭髮を氣にして、わざと短かく刈り込まず、今迄と變つて油などつけて橫撫でになでつけては、某鐵工場へ每日出勤する樣になる頃には、赤ン坊も次第に藥に遠ざかつて、小さい腮の邊も肉がつきそめ、愛らしい笑顏も洩れるやうになつて來た。早く暖かなほんとの春が來ればよい。「春になつたら東京のおばあ樣のとこへ連れてつて上げませう」房子は、甦(い)き得た愛子(あいし)を抱いては頰ずりした。

 河畔の家に住む彼等一家族は、長い間の苦勞から追放され、二つの甦つた肉體を守りつゝ、ほんとにまじめに、地上に春が復活する喜びの日を待ちつゝ暮すのであつた。

 

 

[やぶちゃん注:最終文の「追放」には編者によって右にママ注記が附されている。

 第「二十四」章の末尾を二十八歳(執筆投稿された大正八(一九一九)年年初)の久女は、こう書いている(読み易く読みを加え、読点を打ち、〔 〕で語を補助した)。

   *

……色々な悲しい出來事……房子は本當の樣(やう)〔に、まさに〕死〔といふもの〕を思つて思はず戰慄した。こんな遠方に漂浪(へうらう)して來て友も、妻も、家庭も皆、すてゝ、淋しい、佗しい生活に堪へて來た兄が、種々(いろいろ)な佗しさを胸に疊んで〔其の儘に〕死んで行くのか、と思ふと、彼女は、たまらなく、兄が可愛想で、留度(とめど)もなく淚が流れた。

   *

……この二十七年後……久女は昭和二一(一九四六)年一月二十一日、入院先であった福岡市郊外の大宰府にあった県立筑紫保養院に於いて、腎臓病(精神科医でもある俳人平畑静塔は当時の極度に悪い食糧事情での栄養失調或いは餓死と推察している(平成一五(二〇〇三)年富士見書房刊坂本宮尾著「杉田久女」一九八頁より孫引き))のため、肉親に看取られることなく(敗戦直後の劣悪な交通事情に拠る)亡くなっている。満五十五歳と八ヶ月余りであった…………

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