インチキの許容量 梅崎春生
「三幌のロース大和煮」のにせものから出た蝿一匹がもとになって、ほんものの方も中身が鯨と判り、更に三転して、すべての牛罐(かん)がわずか二社をのぞいて、中身が馬か鯨かということが判った。
まことに驚き入った話で、また悪質な話で、前号において現代のおやじとロース大和煮を同一視したことは、まことに私の短見だったと思う。
今のおやじたちは、おやじの実力をそなえようと心がけながら、いろんな悪条件で、心ならずもおやじの座からずれ落ちたのであって、その点が牛罐とは違う。
牛罐は牛肉の実力をそなえようと全然心がけず、儲けたい一心で世人をだまし、牛肉の座からずり落ちたのである。それをいっしょにしたら、おやじが可哀そうだ。
虎は死して皮を残すというが、あの一匹の蝿は死して、実に偉大なるいんちきをばくろして呉れた。あの蝿も、自分の死が犬死(?)でなかったことを知ったら、さぞかし満足することだろう。
それに反してかんづめ業者たちは、その蝿に対して、絶大の憎しみを感じていることだろう。八つ裂きにしてもあきたりない、と内心歯ぎしりしているに違いない。
近所の酒屋に聞いてみると、あれ以来牛罐の売行き、いや、牛罐のみならず、各種かんづめ類の売行きが、がた落ちだそうである。
画家の秋野卓美君が昨日遊びに来て、
「実にけしからん話ですなあ。もううちでは当分、かんづめ類を一切買わないことにしました。そのためにかんづめ業者の四軒や五軒、倒産してもやむを得ないです」
と、どこかで聞いたことがあるようなせりふで、しきりに憤慨していたが、大体それが消費者の気持だろう。牛罐の売行きががた落ちするのも当然で、まあお気の毒だが自業自得というべきだろう。
わが家でもあれ以来、かんづめ類の購買を手控えているが、この稿を書くために外出、牛罐を一箇買い求めて来た。
あけて見ると、一番上っ面にはいかにも牛肉牛肉とした肉が乗っているが、それを引き剝がすと少し品が落ちるのが乗っていて、それを引き剝がすと更に品が落ちるという具合で、一番底の方になると、何だか千切れたような、お粗末なのがごてごてと入っていた。道路舗装に似ている。
一番底はごろ石や砂利で、一番上がなめらかなアスファルト、あの構造にそっくりなのである。
で、一番底の方は、馬か鯨か、食べなかったから判らなかったけれど、食べてみても判らなかっただろう。
牛のエキスをかけた馬や鯨肉、それとほんものの牛肉の区別は、かなりむつかしいらしく、蛋白質の血清学的反応、化学反応、顕微鏡利用、その他さまざな方法で、総合的な検査が必要なのだそうである。
味わうだけでは判らない。それが一層消費者の憤激を買ったのだろう。
亭主のかりそめの浮気を知った女房の怒りと、亭主にずっと前からかくし女があって、しかも十を頭(かしら)に三人の子供まであることを知った女房の怒りとでは、怒り方が違うだろう。
不器用にだまされたのと、巧妙にだまされたのは、言うまでもなく後者の方の怒りがはげしい。
今度の消費者の怒りは、後者に近い。
しかし、今度の事件の被害者の最大は、馬であるかも知れない。人々は巧妙にだまされたとばっちりを、馬に向けている気配があるからである。
馬肉には口がないから弁解出来ないし、生きていても人語がしゃべれないから、ただ哀しげにひひんといななくだけだろう。
都会人はあまり馬肉を食わない。馬肉というと、眉をひそめる傾向すらある。馬は食うべきでないという意識は、どこから来るのか。
食牛にしても、豚や鶏にしても、彼等は人間の食用に供されるために育てられている。だから食べてもいいけれど、馬はそうでない。馬は農耕や乗用のためにある。
生きている間、散々その目的でこき使って置いて、その揚句に食べてしまうのは、情において忍びないし、感覚的にも反撥する。そういう気持だろうと私は推察している。
つまり犬の肉を食わないのと同じだ。もし犬肉が牛肉以上にうまかろうと、人々は犬肉を常食しないだろう。
なぜかというと、犬は食うために育てられているのではなく、他の目的、猟のためだとか泥棒よけとか、そのために飼われているからである。
しかし馬肉というのは、食べてまずいものではない。今夏私が行っていた田舎では、肉と言えばふつう馬肉を指すのである。店で肉うどんを注文すると、うどんの上に乗っているのはたいてい馬肉だ。
肉屋に行っても、豚肉、鶏肉、馬肉の三本立てで売っている。馬肉が一番安い。牛肉はほとんど売っていない。どういうものかあの地方の牛肉はかたくて、値段も安くないので、ほとんど店に置いてないのだ。
私もあの地方の牛肉よりも、馬肉の方を愛好する。馬肉の生(なま)を刺身にして、わさび醬油をつけて食うと、まぐろのような味がする。
だから今度の事件で、馬肉自身に責任はないのだ。馬を牛といつわった業者に責任があるのであって、主婦連が怒ってつるし上げたのも、まずまず当然の成行きだろう。
新聞の報道によると、つるし上げられたかんづめ協会理事の態度は慎重だったとあるが、テレビニュースで見た感じでは、そうでもなかった。
かなりの高姿勢で、教えさとすような口調で、
「これは数十年来の商習慣でございまして――」
などと弁解していた。
消費者に一言の相談もなく、一方的に商習慣を確立するなんて、まことにいんちきなものである。
でも、いんちきという点では、牛罐のみを責められない。
文芸春秋十月号の三鬼陽之助氏の「選挙違反大福帳」を読み(これは面白い読みものである)、選挙の内幕がいかにいんちきに充ち満ちているか、したがってそれで選ばれた政治家がいかにいんちきなものであるかを知って、あきれた。まさしくこれは牛罐以上である。
しかし私は、いんちきを全然否定するものではない。人間であるからには、多少のいんちきはあるだろう。
最も公正なるべきスポーツ界、今度のオリンピックなどでも、八百長があったそうである。人間のやることだから、仕方がないと思っている。
蒸溜水のような、全然いんちきのない世界は、かえって住みにくかろう。少しはいんちきがあった方が、刺戟にもなるし、生甲斐があるというものだ。
ただ問題はいんちきの許容量ということであって、何十分の一、何百分の一以下なら許せるが、それ以上になると困るという限界があるのだ。
つまり牛罐や政治家のように、オールいんちきじゃ困る、ということを言いたいのである。
[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第二十五回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年十月二日号掲載分。本文で言及される第二十四回は底本には不載。ウィキの「不当景品類及び不当表示防止法」の同法(この記事の二年後の昭和三七(一九六二)年五月十五日法律第百三十四号)が制定された経緯の項に、「一匹の蠅がきっかけになった法律」と言われるとして、まさにここで梅崎春生が取り上げている昭和三五(一九六〇)の『ニセ牛缶事件が契機となった。牛の絵が貼ってあった』「三幌(みほろ)ロースト大和煮」の缶詰に『蝿が入っていたとの報告が保健所に寄せられた』([やぶちゃん注:但し、外のネット記載を見ると、この蠅が入っていたのは当時知られていた人気の「三幌ロースト大和煮」にそっくりな偽せ缶詰であって、缶には牛の絵を印刷しながら、鯨肉を使っていたために摘発された。ところが、ためしに調べてみたところが本家も中身は鯨肉であった、ともある。])『東京都と神奈川県が調査を進めるうちに、当時、「牛肉大和煮」と表示していた』二十数社の商品のうち、牛肉百%のものは二社しかなく、『大部分は馬肉や鯨肉だったことが判明した(当時は馬肉や鯨肉は、安価であり牛肉よりも低級品と見なされていた)』。『事業者はこれらのニセ牛缶を大幅に安い価格で販売していたため、刑法の詐欺罪は適用できなかった。また消費者に健康被害をもたらすものでもなかったため、食品衛生法も適用できなかった』。『このような不当表示に対して、主婦連合会など消費者の批判が高まり、すでに消費者問題となっていた過大な景品類とあわせて、これらを規制する景品表示法が』制定されることとなった、とある。
「インチキ」ふと、気になった。この語源は何だろう? Q&Aサイトの答えなどによれば、この語はかなり新しく、昭和の初期に一般化した言葉であって、その語源や発生時期などは明確でないとしつつも、ものの本によっては、もともと明治期の賭博用語とし、不正手段を使った詐欺的賭博「イカサマ」から転訛したと記すものもある(「イン」は「イカサマ」の「イカ」から変化し、「チキ」は「高慢ちき」や「とんちき」など人の状態を表す接尾語「ちき」からとされるともある。「いか」は或いは「平家物語」などに既に出る、厳しく見えるように外装を凝らした「いかものづくり」(怒(厳)物作り)の「いか」が発祥ではないかと私などは思う)。しかし、江戸中期の旗本幕臣で有職故実家として知られた伊勢貞丈(さだたけ 享保二(一七一八)年~天明四(一七八四)年)の「安斎随筆」(成立年不祥)の中に、駿河国(現在の静岡県中部)小笠郡の方言に釣りの際にエサを使わず釣り針だけで魚を騙(だま)して釣る方法を「インチキ」と呼ぶと書かれているともあり、別の説では、福井県の方言で「人をごまかすこと」を「インチク」と言い、これが転訛したという説もあるという。しかし、仮にそんな古い言葉があったとしても何故にそれが明治・大正期の文献に全く登場せず、昭和になってから突如、出現して流行語のように広まったのかが如何にも不審であり、ある言語学者は外来語なのではと調べて見たものの、英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語などの中にも該当する言葉はなかった、ともある。しかしまあ、孰れも「インチキ」臭い。
「秋野卓美」(大正一一(一九二二)年~平成一三(二〇〇一)年)は「立軌会」同人。元「自由美術協会」会員。春生(大正四(一九一五)年生)より七つ年下で、春生の作品は風変わりで怪しい友人として出るのは概ね彼のようである(例えば実名フル・ネーム登場では「カロ三代」を参照されたい)。作家色川武大の麻雀仲間としても知られる。
「三鬼陽之助」(みきようのすけ 明治四〇(一九〇七)年平成一四(二〇〇二)年)は経済評論家。三重県尾鷲市生まれ。昭和六(一九三一)年に法政大学法学部卒業後、ダイヤモンド社入社、経済記者となり、その後、昭和一九(一九四四)年に東洋経済新報社、「投資経済」編集長などを経、昭和二八(一九五三)年に「財界研究所」を設立、社長に就任す、雑誌『財界』」を創刊、戦後の経済復興に取り組む企業経営者を取り上げた。著書は「東芝の悲劇」「日産の挑戦」「毛沢東語録入門」など百一冊にも上り、〈財界のご意見番〉とも呼ばれた。「経営トップは常に現場に立って」と説き、自らの会社評論・経済評論に於いてもこの現場主義を貫き通した(ウィキの「三鬼陽之助」に拠る)。
「今度のオリンピックなどでも、八百長があったそうである」一九六〇年(開会式:八月二十五日/閉会式:九月十一日)にイタリアのローマで開催された第十七回夏季オリンピック大会であるが、どの競技で、どんな八百長があったのか、ネット検索をかけてもよく判らない(というか、スポーツに全く興味がない私は調べる意欲が今一つ湧かない。悪しからず)。識者の御教授を乞うものである。]