福岡市は私の故郷である。いや私の故郷は福岡市である。言葉にすれば同じようなものだが、ニュアンスが少しちがう。
私は福岡市に生れ幼時を福岡市に過した。福岡を私は大好きであった。青春に私は福岡が嫌いになった。福岡を脱出しようと思い、福高(旧制)を受けずに、熊本の五高をうけた。
五高から九州大学に行かずに、東京大学に行った。だから私の思い出は中学(修猷館)までということになる。
戦後また福岡が好きになる。二年に一度ぐらいおとずれる。しかしもはや家はない。旅人としてである。
室生犀星の詩に、
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても
帰るところにあるまじや
とうたった心境が私の青春期にもあったわけだ。私の生れた頃の福岡は人口十万ぐらいの都市であった。那珂川をはさんで福岡と博多に分れていた。今はそんな区別はない。なにしろやたら広がって、人口も十万から七十万近くなった。那珂川なんかもののかずではなくなった。なにしろ私が小学校時代遠足に行った香椎や今宿が、今や住宅街になっている。
昔日の姿は無いのである。
私は簀子(すのこ)町に生れ、荒戸町四番丁で育った。西公園の下である。親父は二十四連隊の将校で、毎日馬で連隊に通った。当時連隊は福岡城(舞鶴城)にあった。今はそこが競技場や平和台球場になっている。私は簀子小学校に通っていた。私の家の前は、九州女学校である。その九州女学校から私の家が見下ろせた。(その頃の九州女学生は今は六十位のおばあさんになっているだろう。)その視線をさけるために家ではいろんな果樹を栽培した。実に沢山の果樹があった。柿(二本)、ザボン、金柑子、夏蜜柑(みかん)(三本)、蜜柑、ビワ(三本)、ダイダイ、イチジュクその他いろいろ。お隣の中山さんとの垣根は竹で、春になるとたけの子が生えた。家の前には下水溝があり石垣で作られていた。そこでは小さな魚が泳ぎ、石垣の穴には赤い弁慶蟹が数千匹住んでいた。この家は今でもある。しかし裏庭は他の家が建っている。下水溝は埋められて、なくなっている。十日ほど前私は福岡に行き、家をみて来た。溝に住んでいた蟹や魚たちは何処にいったのか。滅びてしまったのか。感傷が私の胸を突きさす。
私がよく泳ぎにいったのは西公園の下の伊崎の浜である。今とちがってその頃は、海水が透きとおり二メートルぐらいは、みとおせた。泳ぎがあきると私たちは、魚を釣ったり、伊崎の漁夫の地引網の手伝いをした。手伝いをすると、バケツ一杯ぐらい雑魚をくれた。
メバルやボラ、ハゼ、キスゴやセイゴなどが釣れた。また大濠に行ってフナやコイやウナギを釣った。また福岡港(当時は漁港)のドン打ち場(午砲)附近の波止場でいろんなものが釣れた。現代の子供のようにテレビもなくラジオもなく、遊ぶ対象は自然であった。だから夜は八時頃寝た。はたして今の子供たちとどちらが幸福だろうか。
春秋には遠足がある。お弁当はにぎり飯で、黒ゴマをまぶしてある。おかずはせいぜいコオナゴ(福岡ではカナギという)のつくだ煮と、タクアン(コンコンとよんだ)ぐらいのもので、勿論電車やバスはつかわず歩いていって歩いて帰って来た。前記の香椎や今宿、あるいは竹下などである。
太宰府まで往復歩いたこともある。これは修猷館時代のことだ。
先日の旅行で観世音寺に寄った。あそこらもみんな畠だったのに今では家が建っている。
菜の花の花ばたけに 入り日うすれ
見わたす山の端 霞ふかし
春風そよふく 空をみれば
夕月かかりて におい淡し
さとわの燈影も 森のいろも
田中の小みちを たどる人も
かわずのなく音も 鐘の音も
さながらかすめる おぼろ月夜
その歌をうたうたびに、私はその頃の観世音寺附近の景観をありありと思い浮べる。今はその面影もない。鐘の音だけが昔のままである。
修猷館の校風といおうかモットーといおうか、それは「質朴剛健」というのである。それから五高は「剛毅朴訥(ぼくとつ)」という。私は質朴剛健でもなければ剛毅朴訥でもなかった。硬派でも軟派でもなく、平凡でめだたない生徒にすぎなかつた。美貌と若さをほこるような生徒でもなかった。そのかわり丈夫で長もちするたちである。
その修猷館時代に、私は福岡が厭になった。福岡というより学校が厭になったのである。修猷館は、九州の名門校と今はいわれているが、昔も名門校であった。けれども当時の修猷館は野蛮でファッショ的傾向があった。軍人や政治家になった者は沢山いたが、文学に志す者など寥々(りょうりょう)たるもので、文士といえば故豊島与志雄先生、つづいて私、若い世代では宇能鴻一郎君ぐらいしか出ていない。校則はきびしくて和服で街も歩けない。父兄同伴でなければうどん屋にも入れない。私の弟忠生は、友だちとうどん屋に入り金が無くて食い逃げし、それが学校に知れて退学になった。それから忠生は東京に奉公に行き、兵隊にとられて蒙古で自殺をした。この話を軸に私は「狂い凧」という小説を書いた。余裕があれば買って読んでもらいたい。つまり修猷館の校則が忠生を自殺に追いやったのである。私はその修猷館を憎んでいる。
校則だけでなく校風も厭であった。新学期はじめに、今でいう部活動をしている以外の者は、応援の練習と称して裏の百道(ももじ)松原で数十日にわたって、応援歌の練習をさせられた。つまり応援というよりは下級生いじめなのである。その間に時々個人的にひっぱり出され、鉄拳制裁をうけるのだ。軍隊と同じで、反抗は出来ない。一人を数人がかりでなぐったり蹴ったり、押したおして顔を下駄でふみにじるのだ。血がだくだく出て白砂に吸いこまれる。
私は一度も鉄拳制裁をうけたどとはない。しかし何十度となくその現場を見て、暴力を呪った。その気持は今でも同じである。私の戦争ぎらいはその暴力ぎらいから来ているのだろう。その暴力から逃げるために、私は四年の時福高を受けた。しかしおっこちた。五年になって我をはって福高をうけずに五高をうけた。そしてとおった。
五高は「剛毅朴訥」をモットーとしていたが、そういうものではなかった。修猷館にくらべるとはるかに自由で、気楽な学校であった。
私ははじめて青春の楽しさを感じ、文学に志すようになった。
福岡市内には西公園と東公園がある。西公園に登ると博多湾が一望に見渡せる。海の中道。志賀島。能古島。鵜来島など。こんな美しい湾をもった都市は日本でも数えるほどしかあるまい。夏になると西公園に行って蟬(せみ)をとった。東京にはいないが、そこには熊蟬がいる。私たちはそれをワンワンと呼んだ。ワンワンと鳴くからである。シャアシャア蟬と呼ぶ地方もある。大きな蟬で油蟬の三倍ぐらいあって、つかまえて頭を手にもつと、羽翅(はね)をふるわせて、ワンワンと鳴きさけぶ。その震動で手がふるえる程であった。
冬は福岡では雪が降らない。降ってもすぐ消えてしまう。そこでスキーやスケートは出来ない。だから冬の戸外での遊びはというと凧あげか独楽(こま)まわし。独楽は名島独楽といって福岡独特のものがある。それを敵のまわっている独楽にぶっつけて割ってしまう。その割るのが私の得意の芸だった。
正月の雑煮は東京風とちがって丸餅を使う。それからブリとかカツオ菜とかいろんな野菜を入れる。親戚の家にいって雑煮を御馳走になり、あと百人一首とかトランプとか加留多とかとるのが正月の楽しみであった。
オキウトというのを人はあまり知らないだろう。海藻からとった食べものである。朝早く子供が、
「オキュウトわい」
「オキュウトわい」
と売りに来る。花がつおをかけて食うのだが、味はたんぱくでまあ味が無いといってもよろしい。それをおかずに朝めしを食うのである。もっとも私の家は父母とも佐賀の出で、朝は茶がゆに高菜の古漬をおかずにして、さらさらとすする。昼は弁当。おかずは蒲鉾の煮たのにコンコンぐらいのものだ。福岡の蒲鉾(かまぼこ)はおいしい。(今はどうか知らない。)スボつき蒲鉾など逸品であった。蒲鉾製造株式会社などはなく、各魚屋で自家製のを売った。一本五銭だったと思う。
うどん。これがまた逸品。東京ではうどんなどは車夫馬丁が食うものだと思っているようで、そばを尊ぶ。福岡ではそばも食わせるが余りうまくない。うどんが主体なのである。これも一杯五銭か三杯十銭である。汁はうす味でやたらに旨(うま)い。この間食べて来たが、あんまりうまいので東京生れの女房もびっくりしていた。思うに、そばは寒冷の地に育つ。つまり地味がやせている所にしかとれないのだ。それだけ福岡の風土は豊かなのである。
米もうまい。天下第一等の米は肥後の菊池米といわれているが、九州全土平均してどの県もうまい。
それからフグ。本場である。福岡では街の魚屋でも売っている。それを買って帰って手料理で食うのである。先日福岡にいった二日前、相撲の佐渡ヶ海がフグ中毒で死んだが、あれは福岡人じゃないので、料理の仕方をまちがえたのである。福岡人は料理の仕方をよく知っている。だから魚屋でフグを売っているのである。しかも値段が安い。東京でフグ料理を食うと、目玉のとび出るほどとられるが、九州では大衆魚である。福岡では安くてうまいのが、フグという魚の特徴である。
水たき。これも福岡のもの。
それから福岡の女。これがまた逸品である。情に厚くて濃(こま)やかで夫人型である。今福岡の特徴や文化は殆ど失われ、支店文化になってしまった。
で、東京から若い男が赴任してくる。昔は菅原道真が福岡に流されたように、福岡は辺土であった。私の中学時代も急行で行って、東京まで一昼夜以上かかった。今はジェット機で一時間である。流されたという気分は全然しない。その若い男が博多の女に惚れられて、あるいは惚れて一緒になる。そして仲よくくらす。男は一生幸福である。それほど福岡の女は優秀なのである。
さきに支店文化と書いたが言葉づかいも、テレビやラジオによって東京化されて来た。
それでもまだいくらか残っている。
編集者から電話がかかって来る。
「梅崎先生ですか」
先生をシェンセイと発音する。それで忽ち九州人だとわかる。
「あのですねえ……」
とくれば大体福岡人である。
博多弁の特徴はちょっと語り難い。熊本弁はドイツ語に似ている。鹿児島弁は、知らない人は驚くと思うが、フランス語の様にやわらかいのである。博多弁は、どちらかというと女性的である。男でも、
「なになにしなさい」
というところを、
「なになにをおしがっしゃい」
というのだ。私が中学校時代プールに石を投げ込んで遊んでいると、上級生の恐いのがやって来て、
「なんばしよるとな?」
というので、私が恐縮してだまっていると、その上級生は、
「これからそげなことせんごとおしがっしゃい」
といい捨ててどこかに行ってしまった。おこる時でもかくの如く言葉は優しいのである。
しかし今は(おしがっしゃい)という言葉も滅びてなくなった。これすべて支店文化のせいであり、テレビ・ラジオのせいである。
「ふてえがってえ」
という言葉もある。意味はない。驚いた時とかあきれた時に、使う間投詞である。
この間福岡に帰った時、旧友に、
「今でもそんな言葉つかうのか?」
と訊ねたら、
「もう近頃あんまり聞かんな」
と答えた。私はびっくりして曰く、
「ふてえがってえ」
このあいだは福岡に二晩泊った。一晩は中洲の和風旅館、翌日はそのお隣の日活ホテル。和洋南風の味を味わったわけだ。二日目の夜は、修猷館の同窓生たちが会を開いてくれ、フグを食べさせられた。佐渡ヶ海の死んだ直後なので、少しためらったら、
「お前はあたるとでも思っているのか」
と笑われた。さすがに博多のフグはうまかった。そのあと「フクロウ」というバーで、大酒を飲んだ。ここのマダムが、私の簀子小学校の後輩である。博多を訪れる人があったら、是非立寄って頂きたいと私はねがう。マダムは美人だし、酒もそれほど高くない。
飲みすぎたせいか、翌日は二日酔で、南高宮の医師山崎図南君に注射してもらった。山崎君は修猷館出の同級生である。やはり、故郷はありがたいものだ。
注射のおかげで気分回復、午前のジェット便で一時間後には東京に戻った。同じジェット機で、漫画家の清水崑さんと一緒だったが、あれは相撲のために来福したのだろうか。つい聞くのをわすれた。
しかしコンさんも、齢をとったなあ。白髪雨害を被り、肌膚また実たらず。陶淵明の詩のその感を深うした。
[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年三月刊の『えきすぷれす』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。
「福高(旧制)を受けずに、熊本の五高をうけた」後で事実(「私は四年の時福高を受けた。しかしおっこちた。五年になって我をはって福高をうけずに五高をうけた。そしてとおった」が正確な事実)を語っているように受けなかったわけではなく、県立福岡高等学校を受験したものの、不合格で一浪、翌昭和七(一九三二)年に熊本五高を受けて合格、同年四月に文科甲類に入学したのである。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや」室生犀星の第二詩集「抒情小曲集」「小景異情」の全六章からなる「その二」の前半部である。この箇所のみが知られ、全体が読まれることが少ない(高校の教科書でさえ全篇を載せないものが多かった)ので、以下に総てを示す。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの初版(大正七(一九一八)年感情詩社刊)のそれを視認した(「かたい」のルビはママ。歴史的仮名遣では「かたゐ」が正しい)。
*
小景異情
その一
白魚はさびしや
そのくろき瞳はなんといふ
なんといふしほらしさぞよ
そとにひる餉(げ)をしたたむる
わがよそよそしさと
かなしさと
ききともなやな雀しば啼けり
その二
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても
歸るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ淚ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
その三
銀の時計をうしなへる
こころかなしや
ちよろちよろ川の橋の上
橋にもたれて泣いてをり
その四
わが靈のなかより
綠もえいで
なにごとしなけれど
懺悔の淚せきあぐる
しづかに土を掘りいでて
ざんげの淚せきあぐる
その五
なににこがれて書くうたぞ
一時にひらくうめすもも
すももの蒼さ身にあびて
田舍暮しのやすらかさ
けふも母ぢやに叱られて
すもものしたに身をよせぬ
その六
あんずよ
花着け
地ぞ早やに輝やけ
あんずよ花着け
あんずよ燃えよ
ああ あんずよ花着け
*
「那珂川」「なかがわ」と読む。現在の福岡県福岡市早良(さわら)区大字板屋(いたや)の脊振山(せふりさん)に源を発し、南東に流れて筑紫郡那珂川町と佐賀県神埼(かんざき)郡吉野ヶ里町(よしのがりちょう)との県境を形成している。下流の福岡市博多区住吉附近で二手に分流して中州を形成し、ここを「中洲」と呼称、福岡県のみならず、九州最大の歓楽街として知られる。東側分流を博多川と称するが、下流の須崎橋付近で再び本流那珂川と合流する。中洲の左対岸の天神も繁華街として知られる。
「人口も十万から七十万近くなった」現在(二〇一六年)の福岡市の人口はこの当時(一九六四年)の二倍を越え、約百五十五万人で、その人口増加数は地方都市では第一位、全国では東京二十三区に次いで第二位である。
「香椎」「かしい」と読む。現在の福岡県福岡市東区の北部に位置し、神功皇后所縁の「香椎宮(かしいぐう)」があって古い歴史を持つ一方、戦後は海岸部の埋め立てが進み、福岡市東部の副都心の一つとなっている(ウィキの「香椎」に拠った)。
「今宿」「いまじゅく」と濁る。現在の福岡市西区の地名。旧糸島郡。ウィキの「今宿(福岡市)」によれば、『博多湾の内湾である今津湾の奥部に面し』、『北に向かって開けた平地部にあり、西区内では西部の副次的中核地域になっている』。
「簀子(すのこ)町」既注。「すのこまち」と読む。現在の中央区大手門簀子地区。名の由来など、梅崎春生の「水泳正科」の私の注などを参照されたい。
「荒戸町」旧簀子小学校(統廃合で閉校)前の那の津通りを西に三百メートルほど行くと、現在の福岡市中央区荒戸地区である。生地の簀子町の隣りと言ってよい。これらの町の位置関係は梅崎春生の「昔の町」辺りを読むと概ね判る。
「親父は二十四連隊の将校」梅崎春生の父梅崎健吉郎は春生の生まれた当時は陸軍士官学校十六期出身の歩兵少佐であった。
「九州女学校」私立九州高等女学校。現在の福岡市中央区荒戸三丁目にある私立の女子校である福岡大学附属若葉高等学校の前身。
「弁慶蟹」甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ上科ベンケイガニ科ベンケイガニ属ベンケイガニ
Sesarmops intermedium 。
「伊崎の浜」現在の福岡県福岡市中央区伊崎附近と思われるが、現在の行政上地名の伊崎は埋立てによって内陸化しており、現在の伊崎漁港(福岡市中央区福浜)の東(福岡都市高速環状線の海側)に広がる浜の手前の陸側に相当するかと思われる。梅崎春生の「伊崎浜」を参照されたい。
「キスゴ」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae のキス類、或いは狭義では知られたキス科キス属シロギス
Sillago japonica の異名。
「セイゴ」出世魚のスズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus の呼称の一つであるが、この呼称は地方によって異なる(例えば関東では全長二十センチから三十センチ程度までのものを「セイゴ」(鮬)と呼ぶようだが、私の一般的認識では、もっと小さな五センチから十八センチのものを「セイゴ」と呼ぶように思う)。ただ、ここでは小学生が釣るものであるから、ごく幼魚の小型のスズキの、子ども仲間での通称であろうとは思う。
「福岡港(当時は漁港)のドン打ち場(午砲)」梅崎春生の「午砲」(「どん」と読む)が思い出される。
「コオナゴ(福岡ではカナギという)」スズキ目イカナゴ亜目イカナゴ科イカナゴ属イカナゴ(玉筋魚/鮊子)Ammodytes
personatus のこと。本種は異名が多く、東日本では稚魚を「コウナゴ(小女子)」、西日本では同じものを「シンコ(新子)」と呼び、成長した個体は北海道では「オオナゴ(大女子)」、東北で「メロウド(女郎人)」、西日本では「フルセ (古背)」、「カマスゴ(加末須古)」、春生の言う「カナギ(金釘)」などとも呼ばれる。「カナギ(金釘)」という呼称は恐らく、イカナゴの幼魚(新子)の調理法として知られる、醤油や味醂・砂糖・生姜などで水分がなくなるまで煮込んだものが、茶色く曲がって「錆びた釘」に見えることによるものと思われる(所謂、「釘煮」である)。
「タクアン(コンコンとよんだ)」「お新香」「香の物」「香香(こうこう)」から「こうこ」「こうのもん」などとなり、音変化して「こんこ」「こんこん」となったものであろう。
「竹下」福岡県福岡市博多区竹下か。直線で五キロほどある。
「太宰府」修猷館中学からは直線でも十八キロメートルほどある。
「観世音寺」太宰府跡東方、現在の福岡県太宰府市観世音寺にある天台宗清水山(せいすいざん)観世音寺のこと。
「菜の花の花ばたけに 入り日うすれ/見わたす山の端 霞ふかし/春風そよふく 空をみれば/夕月かかりて におい淡し//さとわの燈影も 森のいろも/田中の小みちを たどる人も/かわずのなく音も 鐘の音も/さながらかすめる おぼろ月夜」文部省唱歌「朧月夜」(作詞:高野辰之・作曲:岡野貞一)。大正三(一九一四)年(春生の生年の前年)の「尋常小学唱歌 第六学年用」に初出する。
*
一、
菜の花畠に 入日薄れ
見わたす山の端(は) 霞ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月(ゆふづき)かかりて にほひ淡し
二、
里わの火影(ほかげ)も 森の色も
田中の小路(こみち)を たどる人も
蛙(かはづ)のなくねも かねの音も
さながら霞める 朧月夜
*
「里わ」は「里曲・里廻・里回」で本来は「里曲」が元であって、「さとみ」と読むのが正しいが、それがかく平安時代以降蜿蜒と誤読されて「さとわ」と慣用読みになってしまったもの。意味は「人里のある辺り」。
「質朴剛健」誠実でしかも飾り気(け)がなく、逞(たくま)しい上にしっかりしていること。
「剛毅朴訥」気性が強く、決して屈しぬ心の持ち主で、無口で飾り気なく無骨なこと。「質朴剛健」と何ら変わらぬ。
「寥々(りょうりょう)たる」もの淋しいさま。
「故豊島与志雄」仏文学者で作家の豊島与志雄(明治二三(一八九〇)年~昭和三〇(一九五五)年)は福岡県下座郡福田村大字小隈(現在の朝倉市小隈)生まれで、修猷館から第一高等学校、東京帝国大学文学部仏文科を出た。梅崎春生より二十五先輩で、心筋梗塞のため、この九年前に満六十四で亡くなっている。
「宇能鴻一郎」(昭和九(一九三四)年~)は北海道札幌市出身。ウィキの「宇能鴻一郎」によれば、昭和三〇(一九五五)年に県立修猷館高等学校(新制)から東京大学文科Ⅱ類に進学、同学文学部国文学を卒業後、同学大学院に進学、学位論文「原始古代日本文化の研究」で文学修士となり、昭和四三(一九六八)年に同大学院博士課程を満期退学している。『大学在学中に『半世界』の同人』
となり、昭和三六(一九六一)年には『自らの同人誌『螺旋』を創刊。同誌に発表した短篇『光の飢え』が『文学界』に転載され、芥川賞候補作となった』。翌年、鯨神で第四十六回『芥川賞受賞。同作は直ちに大映で映画化された(監督:田中徳三、主演:本郷功次郎、勝新太郎)』。『濃厚なエロティシズムを湛えた文体と、評論や紀行文等で見せる博覧強記ぶりも知られ』たが、後は『純文学の筆を折り、官能小説の世界に本格的に身を投じた』。『「あたし〜なんです」等、ヒロインのモノローグを活用した独特の語調は、夕刊紙やスポーツ新聞への連載で一時代を築き、金子修介の劇場公開初監督作品『宇能鴻一郎の濡れて打つ』など、数十本が日活ロマンポルノなどで映画化されている』。二〇一四年には「夢十夜」で『純文学作家として復活』した、とある。
『私の弟忠生は、友だちとうどん屋に入り金が無くて食い逃げし、それが学校に知れて退学になった。それから忠生は東京に奉公に行き、兵隊にとられて蒙古で自殺をした。この話を軸に私は「狂い凧」という小説を書いた。余裕があれば買って読んでもらいたい。つまり修猷館の校則が忠生を自殺に追いやったのである。私はその修猷館を憎んでいる』忠生のことはここまでの随筆でも何度も出てきた。「狂い凧」はこの記事の前年、昭和三八(一九六三)年『群像』一月号から同年五月号に連載されている。梅崎春生にしてはかなり激しい言い方である。ただの自身の自信作の宣伝文句とは思われない。
「百道(ももじ)松原」百道浜(ももじはま)。かつては「百道松原」と称される松の人工林と海水浴場で知られたが、現在は埋め立てと宅地化が進んで海水浴場の面影は全くない。福岡市博物館公式サイト内の「百道浜ものがたり」がよい。
「西公園」現在の福岡市中央区にある公園及び地名。ウィキの「西公園(福岡市)」によれば、公園は『全体が丘陵地で展望広場からは博多湾が一望できる。園内は自生のマツ・シイ・カシが茂り、またサクラ・ツツジが植栽された風致公園である。サクラは』約三千本が植えられている、とある。
「東公園」現在の福岡市博多区にある公園及び地名。梅崎春生の「幾年故郷来てみれば――福岡風土記――」に出た亀山上皇と日蓮上人の銅像が建つ公園である。
「海の中道」「うみのなかみち」と読む。現在の福岡市東区にある、志賀島(後注)と九州本土とを繋ぐ陸繋砂州。全長約八キロメートル、最大幅約二・五キロメートルの日本でも有数の巨大な砂州で、北が玄界灘、南が博多湾(ウィキの「海の中道」に拠る)。
「志賀島」「しかのしま」と清音で読む。現在の福岡市東区に所属する島で、博多湾北部に位置し、海の中道と陸続き。ウィキの「志賀島」によれば、『古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。また島内にある志賀海神社は綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮であ』るとある。
「能古島」「のこのしま」と「の」を補って読む。現在の福岡市西区に所属する島で、博多湾の中央に浮かんでいる。ウィキの「能古島」によれば、『大都市の目の前にありながら僅か』十分の『船旅で都会の喧噪を忘れられるとあって、福岡市民の身近な行楽地として親しまれる。福岡でも屈指の菜の花・桜・コスモス・水仙の名所で、満開のころは一年で最も混雑する』とある。
「鵜来島」「うぐじま」と読む。西公園西北の海岸近くに浮かぶ、ごく小さな島で、国土地理院の地図で現認出来る。福岡県中央区福浜一丁目に所属する。
「熊蟬」昆虫綱有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目頚吻亜目セミ型下目セミ上科セミ科セミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana facialis 。成虫の体長は六~七センチメートルほどで、アブラゼミ(次注)やミンミンゼミ(セミ亜科ミンミンゼミ族ミンミンゼミ属ミンミンゼミ Hyalessa maculaticollis)に比べると頭部の横幅も広い。「油蟬の三倍ぐらい」はやや大袈裟に聴こえるが、子どもの手の中での激しい運動やその質感或いは激しい鳴き声を加味して考えるなら、決しておかしくない感覚と思う。
「油蟬」セミ亜科アブラゼミ族アブラゼミ属アブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata 。成虫の体長は 五・六~六センチメートルで前者クマゼミよりも一回り小さい。
「名島独楽」「なじまごま」と読むと思われる。博多独楽は心棒に鉄を用い、現在の曲独楽の発祥地とされるが、ここで春生が言っているのは所謂、喧嘩独楽、本体が重厚な玉子型をした「佐世保独楽」の一種であろうか。「名島」は現在の福岡県福岡市東区の地名で、戦国時代の水軍の根城として知られた名島(なじま)城跡で知られる。
「カツオ菜」私の所持する二〇〇三年小学館刊の柳町敬直「食材図典 生鮮食材篇」の「カツオ菜」によれば、『福岡県の博多地方で古くから栽培してきた在来タカナで、タカナとしてはやや小さい。しかし、煮ると味がよく、正月の雑煮などに用いられ、かつお節のかわりになるとしてカツオ菜の名が』生まれたとし、『葉は鮮緑色で葉面に縮みがあり、質がやわらかで、』先に示した雑煮の他、『ちり鍋などには欠かせない野菜になっている』とある。これは私はフウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属カラシナ変種タカナ Brassica juncea var. integrifolia の改良品種か或いは地方変異、又は、それ以前にカラシナ Brassica juncea からタカナとは別系統か傍系で発生した変種ではないかと思う。困るのは、私の所持する書物及びネット上の記載の多くが「タカナの近縁種」とすることで、だとすると、学名は異なったものが無くてはならないのに、いくら調べても「カツオナ(鰹菜)」の学名が見当たらないのである。ウィキに「カツオナ」にあるが、上記以上のこれといった新情報は、ない。「ブラッシカ・ジュンセア」「ブラッシカ・シネンシス」を学名とするとするこんなページを見つけたが、「ブラッシカ・ジュンセア」は上記のカラシナの学名のまんまでしかなく、「ブラッシカ・シネンシス」に至っては、阿呆くさ、アブラナ属ラパ 変種タイサイ(チンゲンサイ)Brassica
rapa var. chinensis の原種の種小名と変種指示を取り去った、実にいい加減な学名音写であって、信じるに足らぬ。識者の御教授を乞うものである(別種らしいけど、学名は実はついてないのかも知れんな)。
「オキウト」「オキュウト」既注であるが、流れで、再掲しておく。最近はスーパーでも普通に見かける全国区となった海藻加工食品であるが、元は福岡県福岡市を中心に食べられてきたもので、私の好物でもあり、海藻フリークの私としては注せざるを得ない。ウィキの「おきゅうと」から引くと、漢字では「お救人」「浮太」「沖独活」などとも表記されるそうで、『江戸時代の『筑前国産物帳』では「うけうと」という名で紹介されている』。『もともとは福岡市の博多地区で食べられていたようだが、その後福岡市全体に広がり、さらには九州各地に広がりつつある。福岡市内では、毎朝行商人が売り歩いていた』。『作り方は、原料のエゴノリ(「えご草」、「おきゅうと草」、博多では「真草」とも呼ばれる)』(紅色植物門紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属エゴノリ Campylaephora hypnaeoides)『と沖天(イギス、博多ではケボとも呼ばれる)』(紅藻綱イギス目イギス科イギス連イギス属イギス Ceramium kondoi)『やテングサ』(紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae に属する海藻類の総称であるが、最も一般的な種はテングサ属マクサ Gelidium elegans)『をそれぞれ水洗いして天日干しする』(状態を見ながら、干しは一回から五回ほど繰り返したりする)。この時の歩留まりは七割程度であるが、『この工程を省くと味が悪くなり黒っぽい色のおきゅうとができるため、手間を惜しまない事が重要である(ただし、テングサは香りが薄れるので自家用の場合は洗う回数を減らすことがある』)。『次に天日干しした』エゴノリと同じく天日干ししたイギス(或いはテングサ類)を、凡そ七対三から六対四の割合で混ぜて、よく叩く。『酢を加えて煮溶かしたものを裏ごしして小判型に成型し常温で固まらせる』。『博多では、小判型のおきゅうとをくるくると丸めたものが売られている』。『おきゅうとの良し悪しの見分け方として、あめ色をして、ひきがあるものは良く、逆に悪いものは、黒っぽいあめ色をしている。また、みどり色をしたものは、「おきゅうと」として売られているが』、全くエゴノリが『使われていないものもあり』、テングサ類が『主原料の場合は「ところてん」であり』、『「おきゅうと」ではない』(これは絶対で、舌触りも異なる)。『新潟県や長野県では』、エゴノリのみを『原料とした』殆んど「おきゅうと」と『製法が同じ「えご(いご)」「いごねり(えごねり)」が食べられている』。「おきゅうと」との『製法上の相違点は』、エゴノリを『天日干しせず、沖天を使用しないところである』。食べ方は、五ミリから一センチの『短冊状に切り、鰹節のうえに薬味としておろし生姜またはきざみねぎをのせ生醤油で食べるか、または芥子醤油やポン酢醤油やゴマ醤油などで食べるのが一般的である。もっぱら朝食の際に食べる』。この奇妙な『語源については諸説あり』、『沖で取れるウドという意味』・『キューと絞る手順があるから』・『享保の飢饉の際に作られ、「救人(きゅうと)」と呼ばれるようになった』・『漁師に製法を教わったため、「沖人」となった』、『などが挙げられる』とある。
「スボつき蒲鉾」スボは藁すぼ、麦藁(むぎわら)のこと。農民が作業の合間に食するのに、蒲鉾を汚れた手でも持てるように麦藁で巻いたものをかく言う。現在は多くが人工のストローの簀(す)に変わってしまった。
「肥後の菊池米」現在の熊本県菊池市(地域)産の米。サイト「菊池まるごと市場」の「菊池のお米・新米」によれば、『日本名水百選にも選ばれた菊池渓谷と、香りが高く甘味と食感のある美味しいお米の生産地として有名な熊本県菊池市。県北部を流れる菊池川の上
流に位置し、阿蘇外輪山に源流を持つなどいくつもの美しい水源があり、ミネラル分を含んだ豊富な湧水と肥沃な土壌、稲作りにふさわしい気候など、美味しいお米を作るに適した環境が整っています。菊池平野は
内陸の盆地で、朝夕の気温差が激しいため、お米の旨 味成分のひとつである澱粉が効率的に蓄えられます』。その美味しさは三百年前の『江戸時代から有名で、大阪のお寿司屋さんから特別な注文が来ていたと文献に残っているほど。天下の台所・大坂(現在の大阪市)堂島で取引される藩の蔵米中で、菊池米は特別な値がつくほど人気を博しておりました。東の大関が加賀米ならば西の大関が菊池米といわれ、米相場を決定する際の基準にも指定され、天下第一の米としてとても評判でした。将軍の御供米として、また、南北朝時代から後醍醐天皇への献上米として今に伝わっている伝統のあるお米です』とある。
「相撲の佐渡ヶ海がフグ中毒で死んだ」これはやや記載が不全。四股名としても誤りであり、仮に部屋名としても正しくない(「が」とあるから梅崎春生は明らかに四股名で書いている)。ウィキの「佐渡ヶ嶽部屋フグ中毒事件」より引く。これはこの記事(昭和三九(一九六四)年三月)の前年末、昭和三八(一九六三)年十一月十一日に大相撲佐渡ヶ嶽(さどがたけ)部屋で発生したフグ中毒による死傷事故を指す。同日午後九時十分頃、『現在の福岡市東区にあった佐渡ヶ嶽部屋の宿舎にて、夜の食事(ちゃんこ)としてフグを食べたところ、力士養成員』六名(三段目二名、序二段三名、番付外一名)に『中毒症状が発生』、六名『全員が救急搬送され、三段目の佐渡ノ花が』翌十二日に、序二段の斎藤山が同月十四日に死亡した中毒事故である(残る四名は生還)。六名は福岡市での大相撲十一月場所二日目を『終えた後、ちゃんこ番として他の関取がフグ鍋を食べ終わった後に、当時は食用を禁止されていなかったフグの肝を追加して食べていた』。四名は十一月場所を『途中休場し、また師匠である佐渡ヶ嶽は勝負検査役を担当していたが、事件の責任を取って検査役を退い』ている。『当時、十両から幕下に陥落していた長谷川(長谷川勝敏)も同日のちゃんこ番だったが、食事前から腹の調子が悪かったことから、ちゃんこ代わりとしてうどんを食べに外出していた。このため長谷川は奇跡的に難を逃れ、後に入幕、関脇まで昇進した』とある。その後、各地方条例によってフグ調理の安全管理が行われていったが、昭和五八(一九八三)年の厚生省通知により、全国的に毒のある危険な部位(例えばトラフグの肝臓・卵巣など)の的確な除去による消費者への提供が義務化された。ここで梅崎春生が書いている状況は、今から考えると、トンデモないことである。こんなだったのか、当時は! ちょっと吃驚、である。
「南高宮」現在の福岡市南区高宮か。
「山崎図南」国立国会図書館の書誌データで検索したところ、恐らく昭和三四(一九五九)年九月『医学研究』に「近年の女子の初潮と体格の推移」という論文を書いている山崎図南氏と同一人物であろうと思われる。同誌の出版社大道学館出版部の住所が福岡だからである。
「清水崑」(こん 大正元(一九一二)年九月二十二日=昭和四九(一九七四)年)は「河童の漫画家」として知られる。本名は清水幸雄。長崎県長崎市出身。福岡出身の「河童の作家」火野葦平とも親しかった(私は火野葦平「河童曼陀羅」の電子化も手掛けている)。
「白髪雨害を被り、肌膚また実たらず。陶淵明の詩のその感を深うした」陶淵明の知られた五言古詩の「責子」(子を責む)冒頭の二句であるが、恐らく、編者が春生の原稿を読み違えたものであろう、意味不明の「雨害」となっている。ここは「両鬢」である。編者さえしっかりしていれば、高校の漢文で習うことさえあるこの有名な詩を、こんな無様な誤植で晒すことはなかったろうに。コーダであるだけに、惜しい瑕疵である。
*
責子
白髮被兩鬢
肌膚不復實
雖有五男兒
總不好紙筆
阿舒已二八
懶惰故無匹
阿宣行志學
而不好文術
雍端年十三
不識六與七
通子垂九齡
但覓梨與栗
天運苟如此
且進杯中物
子を責(せ)む
白髮 兩鬢(りようびん)に被ひ
肌膚(きふ) 復(ま)た(じつ)實ならず
五男兒 有ると雖も
總て 紙筆を好まず
阿舒(あじよ)は已に二八なるに
懶惰(らんだ) 故(もと)より匹(たぐ)ひ無し
阿宣(あせん)は 行(ゆくゆ)く 志學なるも
而も文術を好まず
雍(よう)と端(たん)とは 年十三なるも
六と七とを識(し)らず
通子(つうし)は九齡(きゆうれい)に垂(なんな)んとするに
但(た)だ 梨と栗とを覓(もと)むるのみ
天運 苟(いやし)くも此(か)くのごとくんば
且(しば)しは杯中の物を進めん
*
淵明には実際に五人の男子があったが、ここに出るのは総て、その幼名。「實ならず」とは色艶(いろつや)が失われて弛(たる)できたことを指す。「懶惰」は「だらしがないこと・怠けること・怠惰の意。「二八」は掛算で十六歳。「志學」は十五歳のこと(「論語」「爲政篇」に基づく)。「六と七とを識らず」とは「六」と「七」との数の区別さえも出来ないの意であるが、足すと、彼らの年齢の「十三」になることから、それを洒落た謂いともされる。「苟くも」仮定の辞。「且(しば)しは」「かつうは」と訓じてもよい。「~せん」で呼応し、「まあ、~でもすることとしよう。」の意。]