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2016/08/31

芥川龍之介 手帳6 (1)

芥川龍之介 手帳6

 

[やぶちゃん注:実は私は既に「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」で本手帳の電子化を済ませている。しかし、今回は徹底的に注を附す形で、改めてゼロから作業に取り掛かる覚悟である。なお、現在、この資料は現存(藤沢市文書館蔵)するものの、破損の度合いが激しく判読不可能な箇所が多いことから、新全集は旧全集を底本としている。従ってここは旧全集を底本とした。であるからして、今までのような《6-1》のような表示はない。

 本「手帳6」の原資料は新全集の「後記」によれば、大正一〇(一九二一)年大阪毎日新聞社発行の上下十四センチメートル、左右六・七センチメートルの右開き手帳であるとある。

 但し、ここまでの新全集の原資料翻刻から推して、旧全集の句読点は編者に拠る追補である可能性すこぶる高いことが判明していることから、本電子化では句読点は除去することとし、概ね、そこは一字空けとした。但し、私の判断で字空けにするとおかしい(却って読み難くなる)箇所は詰めてある。逆に一部では連続性が疑われ、恣意的に字空けをした箇所もある。ともかくも、これは底本の旧全集のままではないということである。

 適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。私の注釈の後は一行空けとした。

 「○」は項目を区別するために旧全集編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。

 本「手帳6」の記載推定時期は、新全集後記に『これらのメモの多くは中国旅行中に記された、と推測される』とある(芥川龍之介の大阪毎日新聞社中国特派員旅行は手帳の発行年と同じ大正十年の三月十九日東京発で、帰京は同年七月二十日である(但し、実際の中国及び朝鮮に滞在したのは三月三十日に上海着(一時、乾性肋膜炎で当地の病院に入院)、七月十二日に天津発で奉天・釜山を経た)。但し、構想メモのある決定稿作品を見ると、大正一〇(一九二一)年(「影」同年九月『改造』)が最も古い時期のもので、最も新しいのは「湖南の扇」(大正一五(一九二六)年一月『中央公論』)であり、更に未定稿遺稿の「澄江堂遺珠」の一部もここに含まれている(リンク先は私のPDF全注釈版(画像による原本の可能な限りの復元版)。ブログ・カテゴリ『「澄江堂遺珠」という夢魔」』も参照されたい)。]

 

   六

 

○庭の空に蟬一聲や月明り

○舊事記誦先代之舊辭――古事記

              >多田義俊

    太平記未來記の條

[やぶちゃん注:「舊事記誦先代之舊辭」これは恐らく史書「先代旧事本紀」(「旧事紀」「旧事本紀」とも呼称。全十巻)中の古い記載(「舊辭」)の謂いであろう。同書は天地開闢から推古天皇までの歴史を記し、序文に聖徳太子・蘇我馬子らが著したとあるものの、現在では大同年間(八〇六年~八一〇年)以後から、九〇四年から九〇六年以前に成立したとみられている。参照したウィキの「先代旧事本紀によれば、『本書は度会神道や室町時代の吉田神道でも重視され、記紀と並ぶ「三部の本書」とされた。また江戸時代には『先代旧事本紀大成経』など古史古伝の成立にも影響を与えたが』、『江戸時代の国学者多田義俊』(後注参照)『や伊勢貞丈らによって偽書とされた。現在の歴史学では、物部氏の氏族伝承など部分的に資料価値があると評価されている』とある。

「太平記未來記」これは「太平記」に載っている聖徳太子が書いたとされるノストラダムスも吃驚の予言書「未来記」のことである。「太平記」の巻六の「正成天王寺の未來記披見の事」に出る。

   *

人王(にんわう)九十五代に當たつて、天下一度(ひとたび)亂れて、主、安からず。この時、東魚(とうぎよ)來たつて、四海を呑む。日、西天(せいてん)に没すること、三百七十余箇日、西鳥(せいてふ)來たつて、東魚を食らふ。その後、海内(かいだい)一(いつ)に歸すること、三年、獼猴(みこう)のごとくなる者、天下を掠(かす)むること三十餘年、大凶變じて一元に歸(き)すと云々。

   *

文中の「人王九十五代」はまさに後醍醐天皇に相当し、「西鳥」は楠正成、「東魚を食らふ」は京の六波羅探題が滅ぼされること、「獼猴」は尾長猿で足利尊氏以下の足利氏、ということになるか。同書の断片は、かの「平家物語」の巻八の「山門御幸」にも登場する。

   *

法皇は仙洞を出でて天台山に、主上は法闕(ほうけつ)を去つて西海(さいかい)へ、攝政殿は吉野の奥とかや。女院(にやうゐん)宮々は、八幡(やはた)、賀茂、嵯峨、太秦(うづまさ)、西山(にしやま)、東山の片邊(かたほとり)について、逃げ隱れさせ給へり。平家は落ちぬれど、源氏は未だ入り替はらず。既にこの京は主(ぬし)なき里にぞなりにける。開闢(かいびやく)より以來(このかた)、かかる事あるべしとも覺えず。聖德太子の「未來記」にも、けふの事こそゆかしけれ。

   *

この「法闕」は宮城の意、「攝政殿」は藤原基通。しかし、この「未来記」、肝心の纏まった原書は伝わっておらず、如何にも怪しげな偽書の臭いプンプンのトンデモ本である。

「多田義俊(元禄一一(一六九八)年~寛延三(一七五〇)年)は国学者で有職故実家。浮世絵草紙作家として「多田南嶺」とも称した。「旧事記偽書明証考」(享保一六(一七三一)年)で本書を偽書と断じている。]

 

○美しき humor. マダムボヷリイ

[やぶちゃん注:言わずもがな、フランスの小説家ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert 一八二一年~一八八〇年)の代表作「ボヴァリー夫人」(Madame Bovary)。田舎の平凡な結婚生活に倦んだ若い女主人公エマ・ボヴァリーが、不倫と借金の末に追い詰められ自殺するまでを描いた作品で、一八五六年十月から十二月にかけて文芸誌『パリ評論』(Revue de Paris)に連載された。詳しい梗概はウィキの「ボヴァリー夫人」を参照されたい。]

 

○髻【文覺 業平】 久夢日記 天和三年の事

[やぶちゃん注:「久夢日記」筆者不詳の江戸後期延宝より貞享(一六七三年~一六八七年)に至る三都の巷談を記した日記風随筆。文中に「今文化三寅年云々」とあることから編はずっと後の、その頃(一八〇六年)と考えられる。

「天和三年」一六八三年。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ではここ以降。]

 

○髮を切つて釋迦に入學試驗を祈る(お百度) 祖母に内證 使に行くと云ふ 髮のぶら下り居るはおのれなり

○仙人の松に上り登天の話

[やぶちゃん注:後者は「仙人」(大正一一(一九二二)年四月『サンデー毎日』)の構想。]

 

○ピアノの鍵盤に number をつけ春雨をひく 房子の夫

[やぶちゃん注:この後の部分からが、中国関連の記載となる。]

 

○三遊洞 徐霞客遊地

[やぶちゃん注:「三遊洞」中華人民共和国湖北省西部の長江の三峡の下流の港町宜昌から十キロメートルほど離れた北西の西陵山の絶壁にある洞窟。白楽天と彼の弟白行簡、そして元稹の三人がここを訪れ、それぞれに詩を詠み、そのうちの白楽天が詠んだ「三遊洞亭」がここの歯岩壁に刻まれた。その二百年後の宋代には蘇軾・蘇洵・蘇轍の父子三人もここを訪れたことから、唐の「前三遊」に対し、彼らは「後三遊」と呼ばれる。張飛が宜都の太守であった時、兵士の訓練をするために台を作って太鼓をたたいたとされる場所も三遊洞にある(「中国重慶黄金假期国際旅行社有限公司」公式サイト内のこちらの記載を参照した)。

「徐霞客遊地」この「地」は底本の編者の誤判読で「記」であろう。「徐霞客遊記(じょかきゃくゆうき」なる書が存在するからである。明末の徐弘祖(一五八六年~一六四一年)の著作。徐弘祖は江蘇省江陰の生まれで、生家は代々官僚を出した家柄であったが。一度、科挙に失敗した後は、ひたすら読書に努め、特に地理書に関心を持った。しかし古典の字句の机上解釈に終始する従来の学問にあき足らず、自分の眼で実際の自然を観察しようと、二十二歳より旅行を始め、死の前年の五十五歳に至るまでの三十年間、その足跡は当時の国内の十四省(東北・西域・四川・チベットなどを除く)殆んど全国に亙った(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。前の「三遊洞」磨崖のことがそれに書かれていたのをメモしたものか。]

 

Trapist 白雲觀――北京

[やぶちゃん注:“Trapist”“Trappist”の誤りであるが、トラピストはキリスト教カトリック修道会トラピスト会を指す語で、ここで芥川は白雲観が中国での道教の厳格な修行場として、トラピスト修道会に匹敵するという事前情報を書き込んだものであろうか。]

 

○船室のリンネルの窓かけに入日

 水夫らが甲板を拭ふ椰子の實よ海よ

 海上のサルーンに常磐木の鉢ある

 支那人のボイが入日を見る額の廣さ

 アメリカ人がうつタイプライタアに荒るる

 荒るゝ海に鷗とび甲板のラシヤメン

 星影に船員が仰ぐ六分儀

 水平の赭水紫立つ朝なり

 ジヤンクの帆煙るブイの綠靑色

 川の病む黃疸 舟の帆の日陰蝶

 アンペラ 布帆 丹色の赤 綠 コバルト 藍

 藍衣黑衣の支那人 倭寇

 船尾に煤けたる日章旗

 黃旗 赤布包の棺 ジヤンク四五人 葬をおくる舟

 柳 山羊 アンペラ屋根 菜

 鴨群 四つ手網(大)

[やぶちゃん注:「ボイ」ボーイ。

 

「川の病む黃疸 舟の帆の日陰蝶」までの十句は新傾向或いは自由律俳句の試みと思われる。

「常磐木」常緑樹全般を指す一般名詞。

「ラシヤメン」は漢字では「羅紗緬」「羅紗綿」などと書き、本来は綿羊、ヒツジのことであるが、本邦では専ら、「外国人を相手に取っていた遊女」「外国人の現地妻や妾となった女性」を指す差別蔑称。ウィキの「羅紗緬(らしゃめん)によれば、幕末開国後の一八六〇年頃(安政六~七年から万延元年)から『使われだした言葉で、西洋の船乗りが食用と性欲の解消の為に船にヒツジを載せていたとする俗説が信じられていたためといわれる』とある。

「六分儀」天体の見かけの高度を測るための携帯用器械。望遠鏡・二枚の反射鏡・円周の六分の一(六十度)の目盛りをつけた弧などから成る。正確な船の位置を求める天文航法に使用する。

「赭水」音は「しやすい(しゃすい)」であるが、ここは「あかみづ」と訓じたい。黄土が解けた赤っぽい川水(恐らくは長江)の謂いであろう。

「ジヤンク」“Junk”は中国における船舶の様式の一つの外国人の呼称で、中国語の「船(チュアン)」が転訛したマライ語の“jōng”、更にそれが転訛したスペイン語・ポルトガル語の“junco”に由来するとされ、漢字では「戎克」と表記するが、これは当て字であって、中国語では「大民船」又は単に「帆船」としか書かない(ウィキの「ジャンク(船)」に拠った)。

「アンペラ屋根」「筕篖」とも書く。「アンペラ」はインド・マレー地方原産の単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科アンペライ属アンペライ Machaerina rubiginosa(単子葉植物綱イグサ目イグサ科イグサ属イグサJuncus effusus var. decipens に似、用途も同様なことから「アンペラ藺(い)」とも呼ぶが、目レベルで異なる全くの別種である)。茎は直立し、一メートルほどで下部に数枚の鱗片葉を持つ。このの茎で筵を編む。一説にポルトガル語の“amparo”(日覆い)からとも、また、茎を平らにして敷物や帽子などに編むことから「編平(あみへら)」が転じたする説がある。]

 

○ゴルフ人に芝生靑々

 春日にとぶ首白がらす

 花菜畑に灰色煉瓦の墓二つ

 紅桃の中に西洋館ある啼鴉

[やぶちゃん注:「首白がらす」スズメ目スズメ亜目カラス科カラス属コクマルガラス Corvus dauuricus の淡色型(後の引用の下線部参照)。ウィキの「コクマルガラスによれば、『種小名dauuricusは、ダウーリア地方(「ダウール族の国」、バイカル湖の東)に由来』し、『大韓民国、中華人民共和国、台湾、朝鮮民主主義人民共和国、日本、モンゴル人民共和国、ロシア東部』に分布し、『日本には越冬のため本州西部、特に九州に飛来する(冬鳥)。(稀に北海道、本州東部、四国にも飛来することがある。)』。全長三十三センチメートルで、『日本に飛来するカラス属では最小種。全身は黒い羽毛で覆われ、側頭部に灰色の羽毛が混じる。頚部から腹部の羽毛が白い淡色型と、全身の羽毛が黒い黒色型がいる』。『嘴は細く短い』とある(下線やぶちゃん)。ウィキ写真を参照されたい。]

 

Avenue Joffre

 能成に似る印度人の巡査

 アカシアの芽匀ふ路ばたのアマ

 馭者の一人は眠る白馬なり麥畠

[やぶちゃん注:正しくは“Avenue de Joffre”で、上海のフランス租界にあった通りの名前。現在の淮海路。孫引きになるが、OKA Mamiko氏のサイト「亞細亞とキネマと旅鴉」の中の「堀田善衛:『上海にて』」の引用の中に、『旧仏租界の大通りである、中国人たちが法国梧桐(フランス桐)と呼んでいるアカシヤの並木のある霞飛路(上海語でヤーフィロと発音した)は、そのフランス名は、Avenue de Joffre すなわち第一次大戦時のフランスの将軍であったジョッフル元帥の名をとってつけたものであ』る、とある。

「能成」哲学者で後に文部大臣となった教育学者安倍能成(よししげ 明治一六(一八八三)年~昭和四一(一九六六)年)。漱石山房の先輩であった。

「アマ」東アジア諸国に住む外国人の家庭で雇われている現地人の女中(メイド)或いは乳母のこと。しばしば「阿媽」と漢字表記し、中国語のように見えるが、ポルトガル語の「乳母・保母」の意の“ama”由来とされる。]

 

○クーリーの背中の赤十字に雨ふる

 緋の幕に金字けむる

 赤面の官人の木像かなし錫箔

 燈籠ならび線香長し

[やぶちゃん注:「クーリー」「苦力」(kǔlì)は本来は広く「肉体労働者」の意であるが、特に中国語では「港湾の荷積労務者」を指すことが多い。]

 

○鼠色の長褂兒

 黑色の馬褂兒

 雪毬にうす日さす竹林の前

 三階なれば櫻しらじらと(日本よりの)

 老爺が火をすりくるる小説の話

 世界戰爭後の改造文學の超國家性

 黑き門に眞鍮の鐶ある午後

 卍字欄に干し物のひるがへる靑空

 わが友が小便する石だたみの黑み草疎

 雅敍園の茶に玫瑰の花の匀

 杏の種をわりて食ふ三人

 時事新報社の暗き壁に世界圖

 千坎堂

 白き驢馬がころがる一匹は行キ(痒いんだよ――M氏)

[やぶちゃん注: 「鼠色の長褂兒」「黑色の馬褂兒」の「長褂兒」と「馬褂兒」は、前者が「タァクヮル」(tàiguàér)で、男物の単衣(ひとえ)裾が足首まである長い中国服のこと。後者は「マァクヮル」(măguàér)で、日本の羽織に相当する中国服の上衣で対襟のもの。何れも実は「上海游記」「十一 章炳麟氏」にズバリ、『しかし章太炎先生は、鼠色の大掛兒(タアクワル)に、厚い毛皮の裏のついた、黑い馬掛兒(マアクワル)を一着してゐる』と登場するのである。従ってこれはその時の章炳麟の着衣の覚書きと考えられるのであるが、こうした自由律がしばしばあることも厳然たる事実ではあるのである。芥川が覚書きとしつつ、それを(特に中国音の面白さを)自由律の句と捉えていた可能性も全くないとは、言えない気がするのである。

「鐶」「くわん(かん)」で、門扉に附いた環状の金属製の引き手。

「卍字欄」「まんじらん」は卍の字を崩した形を木材を組み合わせて連続して作った「卍崩し組子(まんじくずしくみこ)」の欄干。中国の古い家庭のや本邦の比較的古い仏教寺院に普通に見られる。

「雅敍園」上海にあった料理店の名。少なくとも後の日本の雅叙園とは全く関係がない。ある中文記載から一九〇九年には既にあったと思われる。

「玫瑰」日本語の音は「マイカイ」であるが、ここは中国音の「メイクイ(méiguī)」で読みたい。本邦ではこの表記でバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaを表わすが、Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。中国産のハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば、これは一般的な中国語としては「バラ」を総称する語であり、ここも「薔薇(ばら)」の意でよいと思われる。

「時事新報社」無署名の社説「脱亜論」明治一八(一八八五)年三月十六日に福沢諭吉が創刊した新聞『時事新報』に掲載された。この句はそうした事実を背景とした一句であろう。時事新報は上海に支社を持っていたものか。

「千坎堂」不詳。全く不明というのは、編者の誤判読か、芥川龍之介の誤記が疑われる。

M氏」恐らく中国滞在中の芥川の世話役であった大阪毎日新聞社上海支局長の村田孜郎(むらたしろう ?~昭和二〇(一九四五)年)であろう。「烏江」と号し、演劇関係に造詣が深く、大正八(一九一九)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任したが、上海で客死した。]

芥川龍之介 手帳5 (5) / 手帳5~了

○コツプを買ふ食卓に向ひて疲れ

[やぶちゃん注:自由律俳句に私には見える。]

 

○不負十年未醍名

 也對秋風催酒情

 枯筆含杯閑半日

 寫成荒竹數竿聲

[やぶちゃん注:私は芥川龍之介作の漢詩と判断する。勝手に訓読する。

   *

負はず 十年 未醒(みせい)の名

也(また) 秋風に對して 酒情を催す

筆を拈(ねん)じ 杯を含みて 半日(はんにち) 閑たり

寫し成す 荒竹 數竿の聲

   *

私の「芥川龍之介漢詩全集 二十八」を参照されたい。]

 

○山嶂同月色

 松竹共風烟

 石室何寥落

 愁人獨末眠

[やぶちゃん注:同前。勝手に訓読する。私の「芥川龍之介漢詩全集 三十九」を参照されたい。

   *

山嶂(さんしやう) 月色に同じく

松竹 共に風烟(ふうえん)

石室 何ぞ寥落(れうらく)

愁人 獨り未だ眠らず

   *]

 

○銅駝名惟在

 春風吹棘榛

 陌頭何所見

 三五踏靑人

 射鴉

[やぶちゃん注:同前。勝手に訓読する。

銅駝(どうだ) 名 惟だ在り

春風 棘榛(きよくはん)を吹く

陌頭(はくたう) 何の見る所ぞ

三五 踏靑(たうせい)の人

   *

この漢詩についは是が非でも「芥川龍之介漢詩全集 三十」の私の見解を参照されたい。そこで「射鴉」という不思議なポイント落ちの添書についても考証している。]

 

○皿鉢の赤畫も古し今年竹

 金網の中に鷺ゐる寒さかな

 白鷺は後姿も寒さかな

 茶のけむりなびきゆくへや東山

 霧雨や鬼灯殘る草の中

 冬瓜にこほろぎ來るや朝まだき

 道ふるび砲車すぎけり馬の汗

○小春日のけふも暮れけり古障子

 小春日に産湯の盥干しにけり

 小春日を夕鳥なかぬ軒ばかな

 道ばたの穗麥も赤み行春や

 麓より匀ふ落葉や月ほがら

 黑南風のうみ吹き凪げるたまゆらや

 風のうみ吹きなげるたまゆらや

 かげろふや影ばかりなる佛たち

 大うみや黑南風落つる朝ぼらけ

 苔づける百日紅や秋どなり

 花のこる軒ばの山や茶のけむり

 さきそむる軒ばの花や茶のけむり

 さきのこる軒ばの花や茶のけむり

 小春日や暮るゝも早き古障子

○甘皮に火もほのめけや燒林ご

 秋風に立ちてかなしや骨の灰

○黑ぐろと八つ手も實のり行春や

 塗り膳の秋となりけり蟹の殼

 乳垂るる妻となりけり草の餅

○風光る穗麥の果や煤ぐもり

○むさんこにあせない旅のしよむなさはだら山中の湯にもはひらず

 ひがやすな男ひとり來五日あまりへいろくばかり云ひて去りけり

 かんすいなせとの山吹すいよりといちくれ雨にちりそめに

○燈籠だけ

[やぶちゃん注:これを以って「手帳五」は終わっている。

「黑南風」「くろはえ」と読み、梅雨の初めに吹く南風。最後の方にある、一見、奇異な印象を受ける短歌三首は加賀方言(金沢弁)を用いている。私は既にやぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注で標準語訳を試みている。そこで私は『この四首の末尾には『(大正十三年五月)』の創作推定年が示されている。この頃、芥川龍之介は金沢・京都方面の旅(親族岡榮一郎結婚媒酌人としての新郎親族との挨拶を含む)に出ている。大正一三(一九二四)年五月十四日に出発、十九日まで金沢に滞在した。金沢では室生犀星の世話で兼六公園内の知られた茶屋三芳庵別荘に二泊したが、正にこれらはその別荘での吟で、金沢弁を面白おかしく用いた戯れ歌である(語注については全集類聚版脚注を大いに参考にさせて貰ったが、私も六年間富山に在住していたため、通常人よりは分かるつもりである)。』と注した。以下に示す。

 

「むさんこにあせない旅のしよむなさはだら山中の湯にもはひらず」

 

――無暗に矢鱈にせわしない、旅のそのまた味気なさ――例えば、知られた馬鹿山中、そのなまぬるい湯にさえも、入らずに終えてしまったこと……

 

「だら山中の湯」について、筑摩全集類聚版脚注には山中温泉がその昔、『湧き出る低温の湯だけで風呂としていたので体が温まらず長く湯に入っていなければならなかった』ため、浸かり過ぎて「だら」(北陸方言で馬鹿・阿呆の謂い)のようになったことからの謂いとある。

 

「ひがやすな男ひとり來五日あまりへいろくばかり云ひて去りけり」

 

――お化けのような痩せ枯れた、男一人がやって来て――五日余りも出鱈目ばかり、べらべらべらべらお喋りし――したがまんまに去りよった……

 

「かんすいなせとの山吹すいよりといちくれ雨にちりそめに」

 

――ほんに小さな背戸の山吹――日暮れの雨にあっさりと、すっかりみんな散りきって――辺り一面、黄金こがねに染めた……

 

筑摩全集類聚版脚注に「かんすいな」を『ごく少ない。』、「すいよりと」を『すんなりと。たわむさま。』とする。流石にこの一首だけは、これらの注なしには分からなかった。筑摩全集類聚版脚注に感謝する。]

譚海 卷之一 阿蘭陀人赤髮をたつとぶ事

阿蘭陀人赤髮をたつとぶ事

○紅毛人髮ひげをそるには藥付てそる。髭しやぼんといふものあり。髮にぬりてそるときは、髮やはらかに成(なり)て莖(くき)までさつぱりとそらるゝ也。但(ただし)此(この)くすりたびだび付(つく)れば、髭のいろいつとなく赤くなりちゞれる事也。それゆへ此邦の人はもちひがたし。和蘭にては髮髭あかくちゞれたるものを貴族とす。黑きものはジャガタラの種類とて親しみおとす。それゆへ髭のあかく成(なる)藥を製し、そる時に兼(かね)て用(もちふ)る事とぞ。前年國姓爺(こくせいや)たかさごを責取(せめとり)てをらんだ人を追出(おひいだ)したる時、和蘭人多く長崎へにげ來りて居たる事有(あり)。其後ことごとく本國へ御歸しありけるに、女子(をんなご)二人とり殘し置(おき)けり。長崎の者哀(あはれ)み養育し、伽羅(きやら)の油など付(つけ)髮をゆふてやりける。壹年ほどの内に黑髮に成(なり)たり。其後(そののち)父おらんだより來り、娘の髮黑く成(なり)たるをみて甚(はなはだ)悲しみ、その國にては赤髮を辱しむ事を物語せしと也。扨(さて)すきあぶらをもたゞうちすてゝ置(おけ)ければ、もとの赤髮に成(なり)たるを見て、初(はじめ)て悦び本國へつれ歸りしとぞ。

[やぶちゃん注:「ジャガタラ」「咬𠺕肥」と漢字表記する。通常はマレー人のことを指すが、ここは一種の蔑視としての黒髪のアジア人を広汎に指すようである。

「親しみおとす」馴れ親しみつつ、そこで留まらずに蔑(さげす)んで見下す。

「國姓爺(こくせいや)」明の軍人政治家鄭成功(ていせいこう 一六二四年~一六六二年)。ウィキの「鄭成功によれば、日本名は福松。『清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。様々な功績から隆武帝は明の国姓である「朱」と称することを許したことから国姓爺とも呼ばれていた』。『日本の平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川松の間に生まれた。成功の父、芝龍は大陸は福建省の人で、平戸老一官と称し、平戸藩主松浦隆信の寵をうけて川内浦に住み、浦人田川マツを娶り』、二子を生んだ。二人に『福松と七左衛門と名付けた。 たまたま、母マツが千里ヶ浜に貝拾いにいき、俄に産気づき家に帰る暇もなく、浜の木陰の岩にもたれて出産した。この男児こそ、後の鄭成功である。幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが』、七歳の『ときに父の故郷福建につれてこられる。千里ヶ浜の南の端に鄭成功にちなむ誕生石がある。鄭芝龍の一族はこの辺りのアモイなどの島を根拠に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた』。十五歳の『とき、院考に合格し、南安県の生員』(明及び清朝に於いて国子監の入試(院試)に合格して科挙制度の郷試の受験資格を得た者のこと。生員となったものは府学・県学などに配属され、「秀才」と美称されて実質的には士大夫階級(科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた階層)と同等の待遇をされた)『になった』が、一六四四年、二十歳の時、『李自成が北京を陥落させて崇禎帝が自縊すると、明は滅んで順が立った。すると都を逃れた旧明の皇族たちは各地で亡命政権を作った。鄭芝龍らは唐王朱聿鍵』(しゅいつけん)『を擁立したが、この時元号を隆武と定めたので、朱聿鍵は隆武帝と呼ばれる。一方、寄せ集めの順が精悍な清の軍勢の入関によってあっけなく滅ぼされると、中原に満州民族の王朝が立つことは覆しがたい状況となり、隆武帝の政権は清の支配に対する抵抗運動にその存在意義を求めざるを得なくなった』。『そんななか、ある日』、成功は『父の紹介により隆武帝の謁見を賜る。帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな』彼を『気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言う。それではいかにも畏れ多いと』、彼は『決して朱姓を使おうとはせず、自ら鄭成功と名乗ったが、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」(「爺」は「御大」や「旦那」の意)と呼ばれるようになる』。『隆武帝の軍勢は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、鄭芝龍は抵抗運動に将来無しと見て清に降った。父が投降するのを成功は泣いて止めたが、芝龍は翻意することなく、父子は今生の別れを告げる』。『その後、広西にいた万暦帝の孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまず厦門島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した』。一六五八年、『鄭成功は北伐軍を興す。軍規は極めて厳しく、殺人や強姦はもちろん農耕牛を殺しただけでも死刑となり、更に上官まで連座するとされた』。『意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨に遭い』、三百隻の内百隻が沈没、『鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年の』三月二十五日に再度、『進軍を始めた』。『鄭成功軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進むが、南京では大敗してしまった』。『鄭成功は勢力を立て直すために台湾へ向かい』、一六六一年に『台湾を占拠していたオランダ人を追放し、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して本拠地とするも、翌年に死去した。その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれる。台湾台南市には』、一六六三年に『鄭経が鄭成功を祀った鄭成功祖廟がある』。『国共内戦に破れて台湾に敗走した中国国民党にとって、いきさつの似ている鄭成功の活躍は非常に身近に感じられており、中華民国海軍のフリゲートには成功級という型式名がつけられている(一号艦名が「成功」)』。『歴史上の鄭成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たす事無く死去し、また台湾と関連していた時期も短かったが、鄭成功は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実である為、鄭成功は今日では台湾人の不屈精神の支柱・象徴(開発始祖)として社会的に極めて高い地位を占めている。台湾城内に明延平郡王祠として祠られて』いる、とある(下線やぶちゃん)。本邦では近松門左衛門の人形浄瑠璃「國性爺合戰」(こくせんやかっせん:全五段・正徳五(一七一五)年に大坂竹本座で初演)でと見に知られる。本「譚海」の記事対象期間は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年であるから、鄭成功の台湾占拠は百年以上前の出来事である。

「たかさご」台湾の異名。

「伽羅(きやら)の油」香木の一つである沈香(じんこう:正しくは沈水香木(じんすいこうぼく))から採取される芳香を持った精油。ウィキの「沈香によれば、『東南アジアに生息するジンチョウゲ科ジンコウ属(学名:アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha)の植物である沈香木などが、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵されたとき、その防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積したものを乾燥させ、木部を削り取ったものである。原木は、比重が』〇・四と『非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになる。これが「沈水」の由来となっている。幹、花、葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道において、組香での利用に適している』。『沈香は香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類される。その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれ、非常に貴重なものとして乱獲された事から、現在では、ワシントン条約の希少品目第二種に指定されている』。『「沈香」はサンスクリット語(梵語)でaguru(アグル)またはagaru(アガル)と言う。油分が多く色の濃いものをkālāguru(カーラーグル)、つまり「黒沈香」と呼び、これが「伽羅」の語源とされる。伽南香、奇南香の別名でも呼ばれる』とあるから、この「油分が多く色の濃い」「カーラーグル」「黒沈香」のことであろう。だから黒くなったのが腑に落ちる訳である。

「辱しむ」普通なら「はづかしむ」であるが、恐らくここはその「恥ずかしい思いをさせる/恥をかかせる」「価値を低める/地位・名誉などをけがす」の意から、「いやしむ」(賤しむ)と訓じていると私は思う。

「すきあぶら」「梳き油」。

「うちすてゝ置ければ」普通に梳くための髪油なども一切使わずに、そのまま暫くほおっておいたところ。頻繁に洗髪もしたものであろう。]

甲子夜話卷之二 10 元日の雪、登場のとき輕卒の人の事

2―10 元日の雪、登場のとき輕卒の人の事

述齋林子云ふ。當元日【文政壬午】朝、雪降出しける折節登城せしに、ある歷々の人、松重の直垂をくゝり、金作りの梨子地紋鞘の兩刀いかめしく帶して、布衣の從者をさへ具し、爪折の朱傘をさゝせて、同じく登りしが、雪ふる故にや、其さま殊に輕率に走る斗に歩み、御門々々に松飾のある中央をば通らず、少しも路の捷ならんやうにと斜めに行く体たらく、眞に見苦しく、其身柄不相応に覺へし。入ルニ公門鞠躬如とも見ゆれば、心あるべきこととて語られき。

■やぶちゃんの呟き

「述齋林子」儒学者林大学頭(だいがくのかみ:昌平坂学問所長官。元禄四(一六九一)年に第四代林信篤(鳳岡(ほうこう))が任命されて以来、代々林家が世襲した)述斎(はやし じゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。羅山を始祖とする林家(りんけ)第八代当主。父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)。述斎は号の一つ。晩年は「大内記」と称した。ウィキの「林述斎によれば、寛政五(一七九三)年に林家第七代『林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政の改革)』。『述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうもんほうこう)』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した』とある。松浦静山に本「甲子夜話」の執筆を勧めたのは、親しかったこの林述斎であった静山より八つ年下。

「當元日【文政壬午】」文政の壬午(みずのえうま)は文政五年で西暦一八二二年。この雪の降った旧暦一月一日はグレゴリオ暦の一月二十三日に相当する。「甲子夜話」の中で年月日まで特定出来る記事内容は特異点である。

「松重の直垂」「まつがさねのひたたれ」。紫と緑の糸で織った襲(かさね)の色目の松重(これは折り色であって襲(かさね)の色目ではない。経糸(たていと)が「青」で緯糸(よこいと)が「紫」のもの。ウィキの「直垂によれば、『諸大名は禁じられた色を避けるために経緯(たてよこの糸)の色を変えた織色(玉虫)を好み、紫と緑の糸で織った松重、紫と黄色で織った木蘭地など、渋く上品な「織色」に趣味を競った』とある。

「くゝり」絡げ上げて括り。上品な直垂をかくするのは如何にもみっともない。

「金作りの梨子地紋鞘」(きんづくりのまきゑなしぢもんざや」。金蒔絵の梨地紋の鞘。「梨地」蒔絵の地の一種。漆の塗面に金銀の梨地粉を蒔いて、その上に梨地漆を塗って粉を被った後、粉が露出しない程度に研(と)いだもの。見た目が梨の肌に似ているところからかく呼ぶ。

「兩刀」太刀と脇差。

「帶して」「たいして」。

「布衣」「ほい」。幕府が制定した服制の一つで、幕府の典礼儀式に旗本下位の者が着用する狩衣の一種。特に無紋(紋様・地紋の無い生地)を指す。なお、幕府より布衣の着用を許されると、六位相当叙位者と見做されたことから、当該格の旗本の呼称ともなった。ここはあくまで前者の服装のこと。

「爪折の朱傘」「つまをりのしゆがさ」。和傘で傘を開いた際の傘の蔽い部分の円周上に出る骨の先(爪)を内側に曲げて垂らした(折った)長柄傘の一種。古くは宮中参内の際に使われ、「参内傘」「壺折り傘」とも称した。

「其さま殊に輕率に走る斗に歩み」「斗に」は「ばかりに」と訓ずる。滑らないように、速く辿りつこうと(例の情けない直垂を絡げた格好で)如何にも身分の軽い民衆のするような動きで、武士大名としての荘重さを全く以って欠いているさまを揶揄批判しているのである。

「少しも路の捷ならんやうに」「捷」(しよう)。原義は「速い」であるが、ここは近道の意。

「体たらく」「ていたらく」

「眞に」「まことに」。

「其身柄不相応に覺へし」その態度・行動は凡そ、その知れる御仁の身分役職官位には頗る不相応なものと感じた。

「入ルニ公門鞠躬如」「公門に入るに、鞠躬如(きくきゆうじよ(きっきゅうじょ)」確かに、世には王公の門に入らんとする時には毬の如くに身を屈(かが)め、謹み畏まる、などとは言うし、一見、皮肉に言えば、まさにその御仁のそれは、そのようにして御座ったとも見えぬことはない(がしかし、あまりにも滑稽無慚であった)、というのである。順接の接続助詞「ば」で繋げているところが、これまた二重に皮肉に聞こえる。

「心あるべきこと」よくよく心するべきこと。誰が見ているか分かりませぬ故、という誡めをも含む。

終戦のころ   梅崎春生


 

 もうあれから、五年近くも経つ。あの頃の生活(生活と言えるかしら)の細部、こまごましたディテールの大半は、すでに私の記憶から薄れかけている。

 たとえば、私の毎日に密着していた、いろんな事物のあり方や名称など。書こうとしても、あやふやだ。ただ、当時の気分、不吉に重苦しく、私にかぶさっていたものの感じだけは、年を経るにつれて、葉肉を失って葉脈だけになった朽葉のように、いよいよ鮮明な形をとってくるようだけれども。

 

 終戦のころ、私は鹿児島児桜島の、袴腰というところにいた。所在海軍部隊の、通信科下士官としてである。部隊と言っても、兵舎などは持たぬ、洞窟住いの急造部隊であった。公式の名はたしか、第四特別戦隊(?)第三十二突撃隊鹿児島分遣隊という。水上特攻基地、小艇に爆薬を装置して敵艦に体当りする、その小艇の基地だ。しかしその小艇(震洋とか回天とかの名がついていたが)の姿を、今思っても、私はこの基地で見た記憶が全然ない。通信科の仕事が忙しくて、つい見そびれたのかとも思うが、あるいはそれらの小艇は、終戦までにこの基地に、とうとう間に合わなかったのかも知れない。きっとそうだろう。しかし艇がいなくても、部隊はちゃんとあった。そしてえいえいと仕事をしていた。(今のお役所そっくりだ。)とにかく意味なく忙しい部隊であった。あまり忙しいので、へんな得体の知れない病気になった程だ。今でも私には、仕事が忙しくなると、すぐ原因不明の病人になる癖があるが、桜島においても、だいたい同様の症状であった。精神にも肉体にも、その中核部において、昔から私にはかくの如く、はなはだしくしんが弱いところがある。

 この桜島での勤務を、特に忙しく辛いと感じたのも、ある理由はあった。実は私が桜島部隊附を命ぜられ、佐世保通信隊を出発したのは、昭和二十年五月のことである。ところが実際に私がここに到着したのは、七月十一日の夕方であった。二箇月もかかっている。どうしてこんなことになったかというと、その命令の出し方が悪かったのか、道を間違えたのか、私は桜島にやって来ずに、鹿児島郊外の谷山分遣隊に行ってしまったからである。以下は私の想像だけれども、谷山の通信長たちはこの間違いを、奇貨居(お)くべしとなし、私をそのまま使ってしまったのである。軍隊も官僚に似たところがあって、人員を一人でも余計、自分の所属に確保しておこうという、妙な傾向があった。その犠牲(?)となって、私は谷山隊所属となり、無線自動車の係りに配属された。無線機械を積んだ装甲自動車で、乗員は電信兵が二人、暗号係が私。その三人をのせて、性能検査並びに演習のために、薩摩半島の各水上特攻基地を経巡(へめぐ)ってあるいた。歴訪した基地の名も、移動したコースも、私はほとんど忘れてしまったが、海中に浮んだ甑島(こしき)の風景が、今でもつよく頭に残っているのをみると、吹上浜点在の基地を廻って歩いたらしい。最後に私達は、坊津という基地にいた。

 軍隊に入って、この一箇月余の旅行ほど楽な期間は、私にはなかった。なにしろ積みこんだ無線機の性能が悪くて、一度も谷山と連結がとれないのである。電信係も始めの中こそは努力していたようだが、後になると全然それを放棄して、基地に到着すると、その基地隊の通信兵に連結を托して、運転手もろともさっさとどこかへ遊びに行ってしまう。電信がとれなければ、暗号翻訳のしようもないので、すなわち私も遊ばざるを得ない。本来なら基地隊か自動車内に寝泊りしなくてはいけないのだが、それもごまかして、民家や旅館に泊めて貰う。昼はハイキングに行ったり、ウナギ捕りに行ったり、夜は夜で航空用一号アルコールを仕入れてきて、盛大な酒盛りを開く。基地だから、そこらの山の中に入れば、アルコールはドラム鑵でいくつでも転がっていた。飲む分には無尽蔵である。食事は基地隊から、ちゃんと届けて呉れる。つまり食うだけ食って、あとは何をしてもいいのである。だから私はこれを利用して、放埒(ほうらつ)な中学生のように、存分に食い、存分に飲み、存分に遊び廻った。身体のことなんか、どうだっていいと思っていた。どんな放恣(ほうし)をも許そうとするものが、私の内部にあった。――こんな楽な境遇は、過去にもあまりなかった。そして将来には、絶対にあり得ない。これが最後だ、ぎりぎりの最後だ、ということを、私ははっきり感じていた。全身をもって、直覚していた。だからこの恵まれた状態の、一分一秒を生きることが、自分の全部であることを私は感じていた。その意識が、私のすべての放恣を支えていた。このようにひりひりした生の実感は、私の生涯の他の部分では、あまり味わい得ないだろうと思う。

 こんな訳だったから、桜島転勤の電報がきた時は、私は全くがっかりした。桜島は相当大きな基地で、分遣隊のみならず、四特戦(?)の司令部もそこにあって、忙しいところだとは充分に予想がついていたから。そしてその予想は違わなかった。七月十一日入隊。そしてたちまち、得体の知れない発熱。ということになったらしい。その状況は、私の記憶からほとんど消え去っているが、飛び飛びに書いた日記だけが、今も私の手元に残っている。それをそのまま、写してみよう。

「七月二十三日

 朝六度六分。夕七度二分。

 白い粉薬を貰う。やはり原因は判らず。昨夜は八度五分。

 看護科にコーロギ兵曹というのがいる。字はどう書くのか。面白い姓だ。

 来てから、病気つづきで、当直に立たないから、谷山に帰そうかと、司令部の掌暗号長が言った由。

 八月二日

 此の間から敵機が何度もきて、鹿児島市は連日連夜炎をあげて燃えている。夜になると、此の世のものならぬ不思議な色で燃え上る。

 身体の具合は相変らず悪い。何となく悪い。(胃がひどく弱っている)

 昨夜は大島見張所が、夜光虫を敵輸送船三千隻と認めて、電を打った。

 東京から便りなし。家からも。

 八月九日

 鬼頭恭而が召集されてきているのに会い、一しょに酒を飲みに行った夢を見る。大浜信恭も出てくる。

 昨夜は夕食に、ジャガ芋つぶしたのを少量、焼酎少量のみ、零時より直(ちょく)に立つと、やはり腹の調子ひどく悪し。気分重く、生きた感じなし。

 八月十五日

 朝五時に起きて、下の浜辺で検便があった。朝食後受診。依然としてカユ食。

 夜九暗から当直に行った折、着信控をひらいて見て、停戦のことを知る。愕然(がくぜん)とす」

 桜島での日記は、以上で全部。支給された粗末な軍隊用手帳に、小さな鉛筆の字で書いてある。

 八月十五日は、良い天気であった。この日のことは、割に覚えている。検便というのは、赤痢が流行していたから、その為のものである。砂浜に自分でそれぞれ小穴を掘って、その中に排泄したものを、軍医長に見て貰うという簡単な仕組み。すこしでも妙な便だと、すぐ霧島病院送りとなる。(兵たちは皆これを恐れていた。海軍の病院生活とは、絶対に楽な生活ではなかったから)

 私は腹が悪いくせに、この日は便秘していた。(と思う。)

穴は掘ったけれども、排泄(はいせつ)物がなかったから、また砂をかぶせて、近くにいた軍医長のところに行って、そう具申すると、軍医長が眼をいからせて、私をきめつけた。

「しかしお前は、紙で拭いていたではないか!」

 出なくても習慣で拭くんだ、と私は抗弁し、それから二三押問答をした。しかし軍医長はどうしても、そんな私の上品(?)な習慣を認めようとはせず、じゃ掘り返して実証して見せろ、ということになった。悪い便をして私が隠している、と邪推しているのである。しかし広い浜辺のことだし、埋めた穴の跡は無数にあるし、まだしゃがんでいるのも沢山いるという具合で、どれが私の穴の跡か判りゃしない。命令だから仕方なく、とぼとぼと自分の穴を探してあるいた気持を、私は今でも思い出せる。敵がもう直ぐ上陸するかも知れないのに、何というばかげたことだろう、と誠に情ない気持で、臭いで充満した砂浜をうろついていたのである。その気持は鮮かだが、穴を探しあてたかどうかは、記憶にない。また先刻は排泄物がなかったと書いたが、あるいは軍医長の邪推があたっていたのかも知れない、とも思う。なにしろ五年前のことだから、そんな細目はすっかり忘れてしまった。

 そしてその日の正午、ラジオの天皇の放送があった。鹿児島に来て以来、私は新聞を全然見ていなかった。だから情勢がどうなっているのか、ほとんど判らない。暗号をやっている関係上、戦況につゝいて少しは知っているが、それも部分的なもので、ことに味方損害の電報や重大電報は、士官が翻訳することになっていて、私たちの目に触れない仕組みになっていた。たとえば原子爆弾についても、私は暗号部下士官であるにも拘らず、ずっと後まで投下されたことを知らなかった。だからこの日の放送の意味も、ほとんど予測できなかった。激励の放送だろう、などと考えていたようである。今この文章を書いていて、たしかにあの朝、戦争が終ったという放送ならいいんだがなあ、と考えたことが記憶のすみに残っている。しかしこれは、あとで無意識に補足した、贋(にせ)の記憶であるらしい。身体の不調の故をもって、私は当直以外の時間は、居住区に休んでいていいことになっていたから、その放送の時間も、私は聞きに行かなかった。聞いたって仕方がないじゃないか、そんな気持だったのだろう。その頃私は当直外は、寝台に横になって、眠っているか本を読んでいるだけであった。所持していた本は唯一冊。佐世保を出る時貸本屋で借り放してきた、世界文学全集の戯曲篇という本。この一冊を繰返し繰返し読んでいた。読んで愉しむとか勉強するとかの気持では全然なかった。何もしないで醒めていることが、私には耐え切れなかったのだ。活字に眼を曝(さら)していると、それがいくらかでも紛れる。そんな気持で、この一冊を私は、少なくとも三四回は読み返したと思う。丹念に、一字一字をひろって。――そんなに執心して読んだのに、ふしぎなことには、今あの本の内容を、私はほとんど思い出せない。やっと思い出せるのは、「朝から夜中まで」という短

い一篇だけだ。三絶とまではゆかずとも、韋編一たびは絶つほどだったのに、頭に全然残っていないのは、本当にふしぎなことだ。――で、この時も、これを読んでいたことは確かだ。放送が済んで居住壕に入って来た兵に、読みさしの本をばたりと伏せて、今の放送は何だった、と訊ねた記憶が私にあるから。雑音でがーがーして聞きとれなかった、というのがその答えであった。

 昼間はそれで過ぎて、夜九時、当直に行く。居住区の壕と通信室の壕は、少し離れていて、歩いて五分、夜中だと暗いから十分位かかる。樹々にはさまれた山道だ。そこを手探りで歩き、通信壕に入り、前直と交替中継ぎを済ます。私は直長だから、その席に坐って、その時も慣例に従って、前直の着信控を無意識に一枚めくると、いきなり、終戦、という文字が眼に飛び込んできた。その時の気持は、やはりうまく書けない。しかし日本人なら誰でも、あの終戦を知った瞬間の経験がある筈だから、私のも大部分の人々のと、ほぼ同じだったのだろうと思う。「愕然とす」などと日記に書いたが、その瞬間が過ぎると、私に突然異状な発汗の状態がきて、居ても立っても居られなくなってきた。私の直ぐそばに、赤沢(?)少尉という司令部の暗号士が腰かけていて、私はいきなり立ち上ってその少尉に、これは本当か、というようなことを口早やに問いかけた。赤沢少尉は確か召集前は、尾久かどこかの小学校の教師だったという、おとなしい若い男だったが、私の質問に答えて、本当だ、と言いながら、ある笑いを私に見せた。その笑い顔を、私は今もって忘れない。ありありと思い出せる。それはある羞恥に満ちた、喜悦と困惑と安堵と悲哀が一緒になったような、複雑な翳(かげ)をもった微妙な笑いであった。この少尉とは私的にも公的にも、ほとんど交渉はなかったけれども、この人間的な笑いの故をもって、私は今でも彼に親愛感をかんじている。

 それから私は、便所に行きたいから、と少尉にことわって、壕を飛び出した。狭い壕の中で、いつもと同じく電信機の音が、ぱちぱちと鳴っている。いつもと同じという事が、なにか解(げ)せなく、不当な感じであった。外に出て力いっぱい放尿して、それでもどうしても落着かないから、夜道を一散に駈けのぼって、どういうあてもなかったが居住区へ戻ってきた。居住区に入ってくると、その一番奥に腰掛けをならべて、電信の先任下士が寝ていた。それを私は力まかせに揺りおこした。そして戦争が終ったことを、低い声で告げた。先任下士は薄眼をあけてそれを聞き、うなずいて、また眼を閉じた。何だか苦しそうな表情に見えた。予期したほどの反応は得られなかったが、とにかく他人にしゃべったことだけで、私はいくぶん落着きを取戻し、居住区を出て、ゆっくりと夜道を通信室の方へ戻って行った。頭上の樹々の聞から星が見え、崖の下からはしずかに濤(なみ)の音が聞えていた。はっきりした喜びは、その時初めて私にきたように思う。私個人の身柄に関しても、ひとつの事が終焉(しゅうえん)して、別の新しいことが始まるのを、実感として自覚することが出来た。

 あの日の開放感を、今も私はなつかしく思い出すのだが、も一度現実に味わいたいとは思わない。床上げの日が嬉しかったからと言って、もういっぺん大病にかかりたい、と思わないのと同じだ。もう病気にかかってはならぬ。

                            

[やぶちゃん注:昭和二五(一九五〇)年八月号『世界』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。本篇は名作「桜島」の背景的な事実(作品とは異なる)を語っていて非常に興味深い。「桜島」は私の注釈附きのPDF全一括版及び、ブログ分割版があり、ここに出る地名や語句の殆んどをそこで注しているので、繰り返さない(リンク先の注は私渾身のもので相応に自負する自信作である)。また、梅崎春生の敗戦の年の日記は「昭和二〇(一九四五)年 梅崎春生日記 (全)」で電子化注しているのでそちらも参照されたい(春生「そのまま」と言っているが、一部に省略が見られれれる)。以下、この一篇を久々に再読した私に疑問な二、三の語についてのみ注しておく。

「四特戦(?)の司令部」この謂いからはこの「四特戦」というのも海軍部隊の特殊作戦部隊名と思われるが、ネット検索では不明。梅崎春生が「(?)」しているから、謂い方が違っているものか? 識者の御教授を乞うものである。

「得体の知れない発熱」私は幾つかの梅崎春生の生涯の病歴を見るに、或いは彼は現在の高機能自閉症スペクトラム、或いは、その境界例に分類されるような様態を持っていた可能性を最近はかなり疑っている。例えばこの原因不明の発熱というのがそれで、私が実際に接してきた一部の高機能障害を有した生徒の中には、しばしば、情緒不安を起こすと有意に実際に熱が上がる症状を呈する者がいたからである。

「世界文学全集の戯曲篇」『「朝から夜中まで」という短い一篇』ゲオルク・カイゼル作の戯曲「朝から夜中まで」で、可能性としては、新潮社昭和四(一九二九)年刊の「世界文学全集」の第三十八巻「新興文學集」で、国立国会図書館の書誌情報によれば、内容はイリヤ・エレンブルグ「トラスト・D..-ヨーロッパ滅亡物語」(昇曙夢訳)/グレーブ・アレクセーフ「前にたつものゝ影」(米川正夫訳)/ゲオルク・カイゼル「朝から夜中まで」(北村喜八訳)/ルイヂ・ピランデルロ「作者を探す六人の登場人物」(本田満津二訳)/チャベック兄弟「虫の生活」(新居格訳)/ミハイエル・プリシブィン「アルパトーフの青年時代」(蔵原惟人訳)で戯曲集篇ではないものの、「朝から夜中まで」「作者を探す六人の登場人物」「虫の生活」の三篇は戯曲であり、この本である可能性はかなり高いと思う。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、「朝から夜中まで」(Von Morgens bis Mitternachts)はドイツの戯曲で全二部七場。一九一六年の出版で翌年初演された。ドイツ表現主義戯曲の代表作とされるもの。公金を持逃げし、都会的遊興に逃避し、最後に幻滅と絶望から自殺する銀行員を通して、現代文明の不毛と資本主義社会の冷酷さをえぐりだした作品である。ドイツ表現主義の代表的劇作家であったゲオルグ・カイザー(Georg Kaiser 一八七八年~一九四五年)は初め風刺喜劇を書いていたが、一九一七年に歴史劇「カレーの市民」の上演によって注目され、次いで一連の社会的テーマの作品である「朝から夜中まで」、「珊瑚」及びその続編「ガス・一部」「ガス・二部」 の〈ガス三部作〉」で現代社会のメカニズムのなかにひしがれる人間の姿を描き出した、とある。

「三絶とまではゆかずとも、韋編一たびは絶つほどだった」「三絶」は「韋編三絶(いへんさんぜつ)」のこと。孔子が晩年、「易経」を好んで読み、綴じた革紐が何度も(「三」は中国では「多数」の意)切れたという「史記」の「孔子世家(せいか)」の故事によるもので、「繰り返し読むこと・熟読すること」の譬え。「韋編三たび絶つ」とも言い、あとはそれを受けたものである。]

諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事

 

   九 京(きやう)東洞院(ひがしのとうゐん)かたわ車(くるま)の事

 


Katawaguruma


 京東洞院通に、むかし、片輪車と云ふ、ばけ物ありけるが、夜な夜な、下(しも)より上(かみ)へのぼるといふ。日ぐれになれば、みな人、をそれて、往來する事なし。ある人の女ばう、是れを見たくおもひて、ある夜、格子(かうし)のうちより、うかゞひゐければ、あんのごとく、夜半すぎのころ、下より、かたわ車のをと、しけるをみれば、牛もなく人もなきに、車の輪ひとつ、まわり來たるをみれば、人の股(もゝ)の、ひききれたるを、さげてあり。かの女ばう、おどろきおそれければ、かの車、人のやうに物をいふをきけば、

「いかに、それなる女ばう、われをみんよりは内に入りて、なんぢが子を見よ」

と云ふ。女ばう、をそろしくおもひて内にかけ入りみれば、三つになる子を、かたより股(もゝ)までひきさきて、かた股(もゝ)はいづかたへとりゆきけん、みへずなりける。女ばう、なげきかなしめども、かへらず。かの車にかけたりし股(もゝ)は、此子が股にてありしと也。女の身とて、あまりに物を見んとする故也。

[やぶちゃん注:知られた妖怪「片輪車」の現存する最古期の記載である。ウィキの「片輪車」より引く。『片輪車(かたわぐるま)は、江戸時代の怪談などの古書に見られる日本の妖怪。炎に包まれた片輪のみの牛車が美女または恐ろしい男を乗せて走り、姿を見たものを祟るとされる』(この後、本解説冒頭に「京都の片輪車」として本「諸国百物語」の「京東洞院かたわ車の事」の梗概が載るが省略する)。「滋賀県の片輪車」の項。寛保年間(一七四一年から一七四三年。本「諸国百物語」は延宝五(一六七七)年四月刊であるから六十四年以上後である)の菊岡沾涼(きくおかせんりょう)の「諸国里人談」に以下の記述がある。寛文年間(一六六一年から一六七二年。この時制自体は本「諸国百物語」の直近前であるのが興味深い。話柄もよく似ているが、怪異譚としてはシンプルにして猟奇的な「諸国百物語」が元であり、ホラーとしても「諸国百物語」に私は軍配を上げる。特に和歌にほだされる妖怪(だから、乗っている妖怪を女に設定したものであろう)なんざ、妖怪の凋落消滅の元凶と存ずる)『近江国(現・滋賀県)甲賀郡のある村で、片輪車が毎晩のように徘徊していた。それを見た者は祟りがあり、そればかりか噂話をしただけでも祟られるとされ、人々は夜には外出を控えて家の戸を固く閉ざしていた。しかしある女が興味本位で、家の戸の隙間から外を覗き見ると、片輪の車に女が乗っており「我見るより我が子を見よ」と告げた。すると家の中にいたはずの女の子供の姿がない。女は嘆き「罪科(つみとが)は我にこそあれ小車のやるかたわかぬ子をばかくしそ」と一首詠んで戸口に貼り付けた。すると次の日の晩に片輪車が現れ、その歌を声高らか詠み上げると「やさしの者かな、さらば子を返すなり。我、人に見えては所にありがたし」と言って子供を返した。片輪車はそのまま姿を消し、人間に姿を見られてしまったがため、その村に姿を現すことは二度となかったという』。『津村淙庵による随筆『譚海』にはこれとまったく同様の妖怪譚があるが、近江ではなく信州(現・長野県)のある村での話とされている』(私は「譚海」の電子化注を行っているが、未だ一巻目で、ここ(「卷の七」)に辿りつくにはまだまだ時間がかかる)。これは「諸国里人談」の『近江の話が信州の話に置き換えられたとも』、『逆にこの信州の話が近江の話として』「諸国里人談」に『採録されたともいわれる』。『江戸時代の妖怪かるた「京の町へ出るかたわ車」の絵札にある片輪車は『諸国百物語』に基づき、男性の姿で描かれている』。それに対し、鳥山石燕の画集「今昔画図続百鬼」のそれは「諸国里人談」の『記述に基いて女性の姿であり、解説文でも』「諸国里人談」を『引用している。また同画集には片輪車に似た妖怪「輪入道」があるが、これは』石燕が「諸国百物語」の方の『片輪車をモデルにして描いたものといわれ、そのことから現代では別々の妖怪とみなされることの多い片輪車と輪入道が、もとは同一のものだったとする説もある』。『近年の妖怪関連の文献や、妖怪の登場する創作作品では「片車輪(かたしゃりん)」と改称されていることがあるが』、『これは妖怪研究家の京極夏彦や多田克己によれば、元の名が差別用語に受け取られる可能性があるためと解釈されている』とある。最後の言い換えぐらい馬鹿げたことはない。やるのなら、文字列を変えずに「へんりんしゃ」と音読みするがよい。妖怪の属性に近代から変更を迫るようなこんなことをしていては、民俗学研究は成り立たない。そもそもが差別用語としての障碍を持った人を指したそれは「片端(かたは)」であって漢字表記も歴史的仮名遣も異なる。一律の言葉狩りによって真の文化が失われてゆく典型的にして致命的な誤った自主コードである。実に不快極まりない。私の謂いに反対する人々は「片手落ち」と書かれた日本中の古文書を全部墨塗りするばかりでなく、歌舞伎役者の台詞の記憶からも抹消、或いはその歌舞伎外題そのものを焚書することに同意せねばならぬ。言葉を狩っても、個々の人々の内なる差別意識を変革しない限り、差別は亡霊の如くに蘇ってくる。たかが妖怪の名、されど妖怪の名、である。【2017年6月27日追記:本日公開した柴田宵曲 續妖異博物館 「不思議な車」の注で以上の「諸國里人談」及び「譚海」の当該条を電子化したのでご覧あれ。

「京東洞院通」平安京の東洞院大路のこと。ヴィジュアルに位置を知らんとせば、ウィキの「東洞院通」を見るに若くはない。その解説には、通り名の「院」とは『上皇・法皇の居所を意味し、平安時代には通り沿いに多くの院があった』(室町頃からは商家が多くなった、と一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注にある)。『江戸時代には竹田街道に通じる幹線道路となり、混雑が激しいことから享保年間』(一七一六年から一七三五年)『には北行き一方通行の規制が行なわれた。一方通行の規制としては日本でもっとも古いものといわれる』とある。おや? 片輪車はこの一方通行を先取りしていた?!

「下(しも)より上(かみ)へ」言わずもがな乍ら、「下」は御所に対しての「下」で南を、「上」は北。東洞院大路を南から北へ。

「あんのごとく」「案の如く」。噂に聞いて予想していたように。

「をと」「音」歴史的仮名遣は誤り。「おと」でよい。

「かの車、人のやうに物をいふをきけば」本来の妖怪片輪車の原型は単に牛車の片輪のようなものに過ぎないものであったに違いない。しかしそれが人語を発するという話柄の都合上、挿絵のように轂(こしき:牛車などの車輪の中央にあって輻(や:車輪の中心部から輪(わ)に向かって放射状に出ている輪を固定する棒)が差し込んである、中を車軸が貫いている箇所)に巨大な顔を描いたのであろう。或いは「諸国里人談」によると思われる烏山石燕の「今昔画図続百鬼」の「片輪車」のように、ぼんやりと現われる女の姿として描くようになったものであろう。真の怪異としては寧ろ、私はただ車輪が転がる、そこから人語が響いてくるのこそが、正統ホラーであると心得る人間である。

「人の股(もゝ)の、ひききれたるを、さげてあり」この映像は、中世ヨーロッパの車裂きの刑(車輪刑:被処刑者の四肢の骨を砕いて晒したり処刑する方法。ウィキの「車裂きの刑」によれば、『車輪に固定して四肢を粉砕するもの、車輪を用いて粉砕するもの、粉砕後に車輪にくくりつけるものなど、地域や時代によって過程に異なるところがあるが、粉砕された被処刑者の肉体(死体)が車輪にくくりつけられて』晒される点では『共通である。車輪を用いるのは、古代に太陽神に供物を捧げる神聖なイメージがあったためとされる』とある)を髣髴とさせる描写であるが、日本ではこの刑は行われていないと思う(言っておくが、本邦で牛を用いて行われたりした、汎世界的な車馬などを用いた人体四裂の死刑である「八つ裂きの刑」とは異なるので注意されたい)。

「かたより股(もゝ)までひきさきて、かた股(もゝ)はいづかたへとりゆきけん、みへずなりける」肩から身体が左右に二つに引き裂かれていて、裂かれた腕(右腕か)と胴(右部分か)は千切れて残っているが、下肢(右足か)がないのであろう。右としたのは挿絵のそれが右足らしいからである。

「女の身とて、あまりに物を見んとする故也」女の身であるのに(断定の助動詞「なり」の連用形に接続助詞「て」で後者を逆接と採る。業(ごう)の深いとされる女の分際であるのに)、程度を越えて無暗やたらに、物の怪を垣間見ようとなどしたからである。現代語訳をされておられる方の中に、この物を対象物の真相と訳しておられる方がいるが、それは現代人の感覚によった誤訳であると私は断じておく。この女が片輪車を見ようとしたのはごく軽薄な興味本位であったのである。だからこそ子が引き裂かれたのである。]

2016/08/30

芥川龍之介 手帳5 (4)

Germ. 下宿 姊26(結婚後)――dilettante. 妹――naïveté. 二人に對する態度異る married life も二つになるべし 「妹に對する愛をのべ 姊のゐる爲に妹は不幸になる 君妹の不幸をすくへ」と云ふ手紙 中學卒業後一二年の學生 先生對生徒の氣もち mistake mistake とする氣もち 鄰室に姊病氣にてねてゐる ウハ言に弟の名をよぶ 「姊さんに見つかると大變故かくしてくれ 恐しい手紙が來た」

[やぶちゃん注:「Germ」菌(細菌・病原菌)・芽生え・兆し・根源・起源・胚種などの意。]

 

○姊に對する endearment. ソノ爲ニ姊の夫ニ惡マルルヲ恐ルル氣もち(Ichikawa

[やぶちゃん注:前とセットで、「秋」(大正九(一九二〇)年四月『中央公論』)の構成との親和センチメートルが高いようには感じる。

endearment」親愛の情。

Ichikawa」市川? 不詳。]

 

〇六十九の老婆 腎臟炎 萎縮腎 夜笑ふ 看護婦起さる 飮食せず 三時間持たす 十六日間不整の呼吸(時々深呼吸) 目をつぶつてゐる 看護婦氣味惡がり醫者に訴ふ 皆 何かついてゐると云ふ 海軍少佐迄つりこまれる ○嚥下作用なし 水も出る 瞳孔散大せず 縮小す 電氣をやるも反應なし 眼瞼の反射もなし 時々顏及全身に浮腫來る 尿出ず 時々大量に出ると浮腫來る ボロを股間にかふ それがぐつしよりになる カンフルは爾後八九筒せしのみ 浮腫甚しくして死ぬ 靑ぶくれ

[やぶちゃん注:次と併せて、相当に組み上げた構想のようだが、出来上がっていたら、かなり凄惨なリアリズム作品となったものと思われる。「玄鶴山房」(昭和二(一九二七)年一月『中央公論』)の原型構想の一つか?

「萎縮腎」腎臓の尿細管・糸球体などが広範囲に萎縮し、腎臓全体が小さくなると同時に硬くなる状態。腎硬化症とも呼び、腎機能が低下して尿量が増え、進行すると腎不全となって死に至る。]

 

○萎縮腎 肝臟肝大( or癌) 水氣が來ると服藥す 利尿劑(尿に蛋白あり) 死ぬ前年入院し四ケ月 いやになり退院す 浮腫甚し(顏) 服藥して(四五囘)とれる(十日) 萎縮腎の關係上心臟惡るければ息切れる 六ケ月あまり床につき切り カンフル注射三筒(前の日にもカンフル一筒) 午後四時頃する その一週間前より安息香酸ナトリウムカフェイン(アンナタ)の注射をする 利尿強心藥も何ものまぬ故毎日二筒

[やぶちゃん注:「安息香酸ナトリウムカフェイン」通称「アンナカ」で「アンナタ」は恐らく旧全集編者の誤判読とも思われる。カフェインと安息香酸ナトリウムとの塩複合体で、強心剤や鎮痛剤にも用いられ、眠気をとったり、頭痛を和らげる作用がある。薬効は主にカフェインによる(ウィキの「安息香酸ナトリウムカフェイン」に拠る)。]

 

○お爺さんは腰が曲つてゐる 歩く時はさも重たさうに歩く(子供)

[やぶちゃん注:これこそ強く「玄鶴山房」を想起させる。]

 

○猫の作文を作りし子供曰 人我を猫に似たりと云ふ

○堀謙德 西域記

[やぶちゃん注:「堀謙德」(ほりけんとく 明治五(一八七二)年~大正六(一九一七)年)はインド哲学者。三重出身で東京帝大文科大学及び東京帝大大学院修了。後、明治三八(一九〇五)年にハーバード大学研究科で四年間、修学。梵語学・英語学を学んで、二年後にコロンビア大学でM.A.(文学修士)の学位を取得。帰国後、明治四二(一九〇九)年に東京帝大文科大学講師となり、インド哲学・梵語学を講じる傍ら、同大学のマックス・ミュラー文庫の整理に当たった。著書に「美術上の釈迦」「解説西域記」(明治四五(一九一二)年一月一日刊。メモの書名はこれであろう)「印度仏教史」などがある。]

 

○貧民通俗小説をよむ 伯爵大學生など出て來るとよろこび貧民出て來ると悲觀す(美しき村)

[やぶちゃん注:草稿断片「美しい村」(大正一四(一九二五)年頃と推定)の構想の一つか。]

 

○貝原益軒の謙遜

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年九月号『文藝春秋』巻頭の連載「侏儒の言葉」初出の「貝原益軒」の構想メモ。私の『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 貝原益軒』を参照されたい。]

 

○監獄改良案

○新しい母のthema. 老いたる人形

○母 息子の結婚近づくと共に落莫に堪へかね情人をつくる話 drama.

○父の結婚 長男反對 次女反對 三男贊成 老いたる人形のdrama comedy.

〇ムヤミにものを買ふ癖 細君一一斷つて歩く

○自轉車を股へのり入れる 職人曰おらあトンネルぢやねえぞ

○家の前に線香を立つ ○壯士を東京 or 田舍よりやとふ。日當東京のは二圓、田舍のは一圓 ○興奮してかへる 妻と喧嘩す 國家の爲 ○鐘一つ 拍手三 シヤンシヤンヨ オシヤシヤンノシヤンヨ と叫ぶ 〇一票五圓 名刺の下に入る 向うより告發すれば名譽毀損すと云ひこちらより告發す

〇四方より金をとる 告發さる どちらとせうかと思ふ ○旅費を拂つたのに運動せぬと云つて告發す ○買收する人 金を鞄に入れると見つかる故 下駄のうら 靴下の中等にかくす ○買收する人 收出の傳票を煙草盆 火入れの裏等にはる 百圓10也 English written は却つて面倒故10を用ふ 10ならば十錢とも云ひ得らる ○以上美しい村

[やぶちゃん注:恐らくは「○家の前に線香を立つ」からここまでは草稿断片「美しい村」(大正一四(一九二五)年頃と推定)の構想メモである。]

 

○明治神宮の敷地に土工野合す 不淨なりとしてその下の土を一丈も掘る 皇居造營の小便

○園女 惟然 支考 許六

○物臭太郎 1女子2金持3藝術4學問(算の道)5超自然6小人島(政治)

○代人を使ひ 生命保險をつけ娘の死後その金をとらんとする母

○⑴主人の命を雇人がちやんと聞きて行動すれば客は機械の中にゐるやうな氣がしてたまらず 氣づまりになる ⑵大局さへ損しなければ雇人の我ママをゆるす ⑶客がやかましく云はぬと主人の言とほらず ⑷一人の賢女より三人の愚女ヨシ 一人の賢女には自然とヒイキをする故をさまらず ⑸女中は甲の部屋の事を乙の部屋へ行つて話すべからず ⑹symbolical part if land-lord.

[やぶちゃん注:「symbolical part if land-lord.」「主人であるならば、それは象徴的な重要なる要素。」の意か。]

 

○上流社會は宿屋へその家庭の暗黑面を曝露に來る

Savages kill animals and worship them : this may be the origin of "the respect for one's enemy" reflection of his own satisfaction.

[やぶちゃん注:野蛮人は動物らを殺すと同時に、彼らを崇拝する。これは或いは、「その人のある敵に対する敬意」――彼自身の満足感の反映――の起源であるのかも知れない。]

 

Forerunners are always men, but their successors always beasts. Impossibility of Ut.

[やぶちゃん注:先駆者は常に男性であるが、彼らの後継者は常に獣である。「Ut」の不可能性。「Ut」不詳。]

 

They don't know the exact location of social illness but facts. The conceit of the politicians.

[やぶちゃん注:「彼等は、単なる事実以外には、社会的な病いの正確な位置付けについての知識を持たない。政治家どもの自惚れ。」これは大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に連載された「侏儒の言葉」の「政治家」二章の冒頭、

   *

       政治家

 

 政治家の我我素人よりも政治上の知識を誇り得るのは紛紛たる事實の知識だけである。畢竟某黨の某首領はどう言ふ帽子をかぶつてゐるかと言ふのと大差のない知識ばかりである。

   *

の原案であろう。『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 政治家(二章)』も参照されたい。]

 

When impassioned by love, revenge or desire to get a fashionable dress, a woman's face becomes suddenly younger, say, 15 years.

[やぶちゃん注:「華麗なるドレスを得たいという、愛或いは復讐又は願望によって情熱的な時、女の顔は、突然、より若くなる、多分、その年よりも十五歳は若く、だ。」。これは恐らく、大正一四(一九二五)年八月号『文藝春秋』巻頭に載った連載「侏儒の言葉」の「女の顏」の原案であろう。初出形を以下に示す。

   *

       女の顏

 

 女は情熱に驅られると、不思議にも少女らしい顏をするものである。尤もその情熱なるものはパラソルに對する情熱でも好い。

   *

現行の単行本「侏儒の言葉」では第二文末尾に手が加えられて、「尤もその情熱なるものはパラソルに對する情熱でも差支へない。」となっている。『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 女の顏』も参照されたい。]

 

Humanity is too stupid not to be ruled by a despot, but that despot must be in favour of the oppressed but not of the oppressors.

[やぶちゃん注:「人類は一人の専制君主によって統治されないほどには「十分に愚か」であるのだが、しかし、その専制君主は、圧政者どもを除いた、虐げられた人々をこそ支持しなければならぬ。」訳に自信なし。]

 

彼は chewing-gum を製造して millionaire になつた 我々はその wealth に敬意を表する しかし gum には敬意を表さない しからば artist に敬意を表しても artistic work に敬意を表せぬのは當然ぢや 或 Capitalist の言

[やぶちゃん注:「wealth」富。「Capitalist」資本家。]

 

文藝の demoralizing Power をとくものは決して demoralize せざるやつ也 Political conflict の眞面目なるは亡國のみ

[やぶちゃん注:「文藝の demoralizing Power をとくものは決して demoralize せざるやつ也」の「demoralizing Power」は「士気と自立に於いてそれらを致命的に破滅させる力」の意で、「とく」は「説く」、「demoralize」は「士気を挫(くじ)く」の意、」であろうが、どうも意味が分らぬ。「Political conflict」政治的抗争。]

 

○醫學士 三浦内科三年 三國の院長になり五年 金をため東京へかへり 博士論文をかきにかかる 下宿屋に住み法醫學科へ入る 三年かかり論文出來 急に結婚し滿鐡の營口病院の内科長になる 三國(越前) 豪商豪農――肥料 銀行 船――に取入る ソノ分家の娘を貰ふ 不器量 金談纏らず 娘をもらはず ○藥價高ければ高きほどよくはやる 建物七 or 八萬、維持費とも十二、三萬圓。

[やぶちゃん注:事実メモと思われる。

「三國」は後に「越前」とあるから、福井県にあった旧三国町(みくにちょう・現在は同県坂井市内)のことである。

「營口病院」は満州国の港町である、現在の中華人民共和国遼寧省営口(えいこう)市にあった「營口滿鐡病院」。]

 

孔子の遊説はheavenly paradise の也 earthly paradise の爲にあらず 石門の吏 thema.

[やぶちゃん注:「石門の吏」「論語」「憲問第十四」「四十一」を指す。

   *

子路宿於石門、晨門曰、奚自、子路曰、自孔氏、是知其不可而爲之者與。

 

 子路、石門に宿る。晨門(しんもん)、曰く、

「奚(いづ)れよりぞ。」

と。子路、曰く、

「孔氏よりす。」

と。曰く、

「是れ、其の不可なることを知りて而もこれを爲すさんとする者か。」

と。

 

   *

「石門」地名。魯の国境附近か。「晨門」晨(あした)と昏(たそがれ)時に門を開閉すること掌る門番のこと。この門番はただの門番ではなく、長沮(ちょうそ)・桀溺(けつでき)と同じく、明らかに老荘的隠士である。]

 

Double profession of Prof. 1) teaching. 2) studying. Miserable life.

[やぶちゃん注:Double profession of Prof.教授職の二重の専門性。芥川龍之介には大阪毎日特別社員招聘と同時進行で慶応義塾大学への奉職話もあった。それなりに乗り気ではあったようだが、まさにここで彼が言うように、かれは別な意味で「悲惨にして不幸で哀れな人生」を送ったかも知れない。

 

○求偉――inferno――求福―――disillusion
            
Socialism

[やぶちゃん注:「Socialismは底本では「求福―――disillusion」(「disillusionは「幻滅」の意)のダッシュの直下に入っている。]

 

○女中 letter papers をつかひ手紙をかく 主婦いましむ 主婦の娘を嫁せしむ 手紙をかく 女中をせめず 娘曰とてもお母さん程かけない

○女男に惚れてゐる 男度々女を訪ふ 一日壁をぬりかふ 男 propose

○講演會にて童話をうたふ 子供笑ふ 司會者出ろと云ふ 皆出ず

[やぶちゃん注:「出ず」は「出づ」の誤記か? 子供だけでなく、聴衆全員が出て行ってしまうから面白いはず。]

 

○赤襟さん――赤天鷲絨の襟 研究所にて美少年の石膏ばかり寫す (セネカなどはうつさず) 友人の女はきたなきモデルをうつす

[やぶちゃん注:「天鷲絨」ビロード。

「セネカ」ローマ帝国の政治家で後期ストア派の哲学者にして詩人でもあったルキウス・アンナエウス・セネカ(紀元前一年頃~六五年)の肖像彫刻は美術デッサン用によく見かけるものである。]

 

○兄 妹の爲に父と喧嘩し 兄の親友にそはさんとす 親友の不良を知る 兄妹心中

○女の母の兄へ紹介す(石川等三人) 薄暮 小學校庭 ボオルしてゐる 巡査に問ふ ○の家を知るか 巡査とひかへす 東京へ畫をかきに行つてゐると云ふ 巡査叮嚀になる 家の口花壇 斷髮(ダンパツ令孃)の妹出で待たせる 女出でてあふ 高山へゆく(三里)(女より宿屋へ紹介狀を貰ふ) 宿に紹介狀を見せずとまらんとす 斷る 紹介狀を出す 忽ち奧へ通す 翌朝三人ねてゐるうちに女史來る 三人女の叔父の家へ行き 三時頃かへる 東京の友へハガキを出す(異郷萬里の空云々) 東京の友 女に友を世話せし禮を云ふ 女曰「我入沿中小僧應待せしが 皆頭の毛長し 故に小僧不逞鮮人と思ひ 番頭のもとへかけつける 女その間に三人に應待す 番頭等數人ドヤドヤ入り來り三人と女との間に入り互に見比べる 女變に思ふ 疑はれしに非ずやと思ふ 後にてわかる 番頭あやまる 女その時三人に宿をきかる 故に考へ中なり 三人疑はれしを知らず

[やぶちゃん注:後の設定はかなり細かいが、どうも人物設定やストーリーを腑に落ちるようには理解出来ない。]

 

○寫生道具をはこぶ 散歩に出る 共に洋裝なり 停車場へ行つて見たいと思ひ側に花屋のある事を思ひ出す 女ついて來る 花の話出る 買つたらどうだと云ふ もじもじす 金なからんと思ふ 向うより姊來る 女姊と私語す 女急に heiter になる 「金を貰つたね」と云ふ 「ええ」 よき花なし かへつて來る 途中のカフエにて休まんとす 「姊さんがかへりにアイスクリイムでものめと云つて金をくれた」と云ふ 男金を出す 女も出す 男かへす 姊さんに叱られると云ふ (櫻井女塾) 家は山間にあり 前の川には鮎とれる 親戚「東京へ行くと肺病になる」と云ふ 兄俳句をつくる 兵隊になつてゐる 國文科へはひらんと思ふ 兄英語をやれと云ふ故はひる興味なし ○細君は子供一人 亭主米國にあり 突然「ニユヨクは暑いでせうね」と云ふ 細君ミシンを習ひ 殊に洋服をつくる 細君國より金來ると云ふ 手紙來れども金來らず 妻紛失すと思ひ出たらば二十圓(一割)やると云ふ 國をとへば金を入れずに送りし也 金をくれる 女 Chekhov 全集を買はんと云ふ 金來るに及び帽子に代る ○子供女の洋服に小便す その後同じ洋服をきて來る

[やぶちゃん注:これも異様に細部まで構成されているのであるが、やはり人物設定やストーリーが判然としない。不思議。

heiter」ドイツ語で「快活な」の意。

「櫻井女塾」日本における初期の女子教育を担った、教育者で女性の櫻井ちか(安政二(一八五五)年~昭和三(一九二八)年)が明治二八(一八九五)年に東京本郷に設立した寄宿制の女子教育施設。]

 

○生命保險娘毒をのんで死す繼母 發狂 名前人變更

○他の方面へ向へば偉大なるベき才能が運命の爲にその方向へ向けられた爲死ぬ Hamlet.

○河童國 壯重の事を云ふと笑ふ すべてを逆にせよ

[やぶちゃん注:上記は明らかに「河童」(昭和二(一九二七)年三月『改造』。リンク先は私の電子テクスト。私のマニアックな注釈は別ページ仕立て。他に『芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史』や、『芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版) 藪野直史も用意してある)に発表のプレ構想。]

 

○兄弟 弟秀才 兄ヤケ 和睦

○支那漫遊記の「漫遊」と云ふのは如何と兄にきく お前の心の如し

○利根川の麥畑に坐り遠く川に流さるるを感ず

○姊と弟 不良少年

○小穴氏の足を斬つた話

[やぶちゃん注:盟友で画家の小穴隆一は脱疽のために大正一二(一九二三)年一月四日に右足首の切断術式を受けた。芥川龍之介はこの手術と、その前の右足第四指切断(前年十二月二日施術。手遅れであった)の二度とも手術に立ち会っている。]

 

○爺さん 目くら 呼鈴などなほす 左の耳だけ風をひく

○婆さん 腰ぬけ(腦エンボリ) 一の字も引けず 飯を食ふ時匙使へずして泣く ○妾(女中) 子供二人 お父さん おぢいさん 船橋 銚子へやる ○爺さん 書家 結核 六尺の褌(妾を銚子へやりし晩) バットをやめる すふと咳きこむ(疾の出るまで) 咳く故三十分も苦しむ 妾の名のみを呼ぶ 「あなたも死にますね」 ウハ言に妾の名を呼ばす ○養子 温厚人 結核をおそる 日曜も子供を遊ばせず 古鏡 古錢雜誌 古錢會 子供にも凡人になれと乙彦(オトヒコ)とつける ○妻 善人 五歳の女の子と共にねて産をする 「カアチヤンガオ産ヲシテキタナイヨ」と云ヒ婆さんの床の中へはひこむ ○妾の子供一人 妻の子供一人 常に喧嘩

○婆さん 右の手だけきく 便器をさし入れる 手をふかず 「永井さん」に禮を云ひて泣く

[やぶちゃん注:これもまさに臭ってくるリアリズムの構想メモである。やはり「玄鶴山房」のプレ構想か?

「腦エンボリ」脳の「エンボリズム」(Embolism)で、脳血管「塞栓症」の意。脳血管の病変ではなく、より上流から流れてきた血栓(栓子)が詰まることで発生する脳虚血のこと。]

浅草と私   梅崎春生

 

 久しぶりで、浅草をみた。終戦後初めてのことである。観音さまから六区へ抜け、池のまわりや絵看板など眺めてあるき、常盤座に入ってレビューを見物した。

 

 むかし、といっても学生時代の頃、ひとしきり浅草にかよいつめたことがある。常盤座には、渡辺篤やサトウロクローがいた頃で、田谷力三などがオペラ館に立てこもっていた時分だ。毎日たそがれどきになると、本郷三丁目からバスにのって、浅草にかよった。あの頃の浅草は、雑然としたなかにも、安んじて溶けこんで行けるような雰囲気があった。毎晩、レビューを見たり、映画館に入ったり、女剣劇や漫才小屋をのぞいたり田原町で牛めしをたべたり、電気ブランを飲んだりした。たいてい私はひとりであった。

 

 今おもうと私がこんなに通いつめたのも、田舎から出てきて、浅草にエキゾティズムを感じていたせいもあろうが、この、浅草という土地では、自分がなんら特定の人間でなく、たくさんの人間のなかのひとりであるという意識が、私を牽引するおもな理由であったようだ。肩をおとして電気ブランを飲んだりかぶりつきから踊子の姿体をながめたりすることが、私にはひどくたのしかった。このたのしさも、ひとりだけの時だけに私にあった。友達と行くと、あまりたのしくなかった。

 

 私はいまでもありありと憶い出す。ひょうたん池の橋の上からのぞいた黒い水の淀みとか、あたたかい牛めしのねぎの匂いとか、神谷バーの喧騒だとか、そのような昔の浅草の風物のきれっぱしが、うたい忘れていた歌の一節のように、時折私の胸によみがえってくる。それは孤独であることの愉しさに直接つながっているようである。

 

 それから何時頃かわすれたが、ふと浅草が厭(いや)になって、そして私は浅草から足を遠ざけた。浅草がいやになったというより、浅草に通う自分の姿勢がいやになってきたのだ。その気持も、自分にはっきりたしかめていた訳ではない。ただ何となく気持が浅草にむかなくなってから、何年か経った。戦争が始まって、そして終った。

 

 この間久しぶりに浅草をたずねたのも、私の気まぐれではなくて、ある座談会をするための行程であったのだが、何年ぶりかの浅草は、全体をしろっぽい風が索莫と吹きぬけている感じで、仲店の彼方に玩具じみた小さな観音堂がたっていたり、池のまわりの食物屋も、俗悪な食欲を満たすために並んでいるような感じで、なにか親しめなく膜をへだてたような気持がした。行き交う人の数も、昔日以上の混雑の仕方だが、この人たちも昔の人たちとはちがうのだろう。レビューや映画館の絵看板もことさらどぎつくて、裸の女が荒縄でしばられていたりする絵が、道行く人人の眼をうばったりしている。

 

 入ってみると常盤座は満員で、バラエティーが始まったところであったが、しかし見ているうちに古く色観せた官能が胸にもどってきて、私はやがて舞台にひきいれられた。踊子たちも、昔より身体が美しくなった感じで、表の看板から想像したほど舞台は俗悪ではないようであった。年月が経ち社会は変ったけれども、この舞台だけはあまり変っていないような気がした。客席にまで、うっすらと便所のにおいがただよってくるのも、昔の常盤座のままであった。

 蹄子たちの顔にも、見覚えがあるのは一人も残っていなかったが、長いこと触れなかったオルガンのキーを、胸のなかで久しぶりに押すような気持がして、私は人々の肩や背の間から、あかるい舞台の動きにしばらく心をうばわれていた。

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年八月号『新生』初出(書誌は以下の底本解題の複数記載を参照した。この注記は以下では略す)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。行空きが多く、彼のエッセイではこれは特異点である。而して追想と現在の観察による余韻が、よく行間に漂っている。

「学生時代の頃」梅崎春生は昭和一一(一九三六)年四月に東京帝国大学文学部国文科に入学、昭和一五(一九三九)年に卒業した。自主留年で一年ダブっている(旧制大学は三年制であった)。

「常盤座」「ときわざ」と読む。明治二〇(一八八七)年に開業した劇場・映画館(この後の昭和五九(一九八四)年に休館し平成三(一九九一)年に閉鎖された)。ウィキの「常盤座によれば、『浅草公園六区初の劇場で、当時流行の道化踊の興行のために、根岸浜吉の根岸興行部が常磐座(読み同)として開業した。「浅草オペラ」発祥の劇場でもある。のちに常盤座、トキワ座と改称した』。昭和八(一九三三)年四月一日に『古川緑波(古川ロッパ)、徳川夢声らが常盤座で、軽演劇の劇団「笑の王国」の旗揚げ公演を行なった』。以来、昭和一八(一九四三)年六月の『同劇団解散まで、常盤座を根城にした』。同年五月、『松竹がパラマウント映画と設立・運営していた松竹パ社興行社がパラマウントが撤退、同年六月からSYコンパニー(松竹洋画興行部)が発足、常盤座は新宿昭和館とともにこの系列に加えられた』。『第二次世界大戦が終結、日本が復興に向うとともに、常盤座も復興に向か』い、本記事が書かれた昭和二三(一九四八)年三月に『常盤座は、日本で初めて踊りを取り入れたストリップショーを開催、浅草六区のストリップ興行の嚆矢となった』とあるが(月は別サイトで確認)、春生の叙述からはストリップの印象はないが、既に行われていた。彼がこの時見た出し物はそれではなかったものか。

「渡辺篤」(わたなべあつし 明治三一(一八九八)年~昭和五二(一九七七)年)は俳優。本名は渡辺総一。ウィキの「渡辺篤俳優によれば、『浅草オペラを経て映画界に入り、三枚目として数多くの映画に出演した。松竹蒲田撮影所では短編喜劇映画の主演として起用され、蒲田喜劇俳優の一任者となった』。『戦中は古川ロッパと行動を共にし、戦後は黒澤明監督作品に常連出演した』。詳細事蹟や出演作品はリンク先を参照されたい。私は個人的には最後(推定)の映画出演となった黒澤明の「どですかでん」(昭和四五(一九七〇)年・四騎の会)の「たんばさん」役が何故か印象に残っている。

「サトウロクロー」生没年など詳細データが見当たらない。渡辺篤と名コンビとして知られた戦前の喜劇役者。あるサイトには目の周りに墨を入れ、長く口鬚を垂らしていた、とある。識者の御教授を乞う。

「田谷力三」(明治三二(一八九九)年~昭和六三(一九八八)年)はオペラ歌手。ウィキの「田谷力三によれば、『正統派のテノール歌手だけでなく、浅草オペラの花形として、多くの人に愛された』。事蹟はリンク先を見られたい。

「オペラ館」旧東京市浅草区公園六区二号地にあった映画館・劇場。ウィキの「オペラ館によれば、明治四二(一九〇九)年五月に開業、昭和一九(一九四四)年三月三十一日に閉鎖廃業した。

「田原町」「たわらまち」と読む。現在の東京都台東区西浅草一丁目附近。東京地下鉄(東京メトロ)銀座線の「田原町駅」として名が残る。

「電気ブラン」ウィキの「電気ブランによれば、現在の東京都台東区浅草にある「神谷バー」の創業者神谷伝兵衛が作ったブランデーが混合されたアルコール飲料。『当時電気が珍しかった明治時代に誕生した、ブランデーベースのカクテルである。大正時代に流行した文化住宅・文化包丁などの』「文化~」と『同様に、その頃は最新のものに冠する名称として』「電気~」が『流行しており、それにブランデーの「ブラン」を合わせたのが名前の由来である。発売当初は「電氣ブランデー」という名で、その後「ブランデー」ではないことから現在の商標に改められた』アルコール度数は当時、四十五度と有意に高く、『口の中がしびれる状態と、電気でしびれるイメージとが一致していたため、ハイカラな飲み物として人気を博した。ただし発売元の合同酒精では、電気ブランという名称の由来は「電気との言葉がひどくモダンで新鮮に響いたから」とし、「口の中が痺れるため」という説は否定している。ブランデー、ジン、ワイン、キュラソー、そして薬草が配合されている。材料の詳細、配合の割合は今も秘密にされている』とある。太宰治の「人間失格」の中で、登場人物の堀木は『酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証』すると記す。確かに。口当たりがよく私も好きだが、吞み過ぎると確実に足にくる。

「かぶりつき」劇場用語。最前列の客席を言う。参照した小学館の「日本大百科全書」松井俊諭氏の解説によれば、『名称の由来は、かぶりつくように見物する席だからという単純な説もあるが、別に、江戸時代の歌舞伎(かぶき)では舞台で本物の水や泥が使われることが多く、最前列の席には、跳ね返りをよけるかぶりものがついていたためともいう』とある。

「長いこと触れなかったオルガンのキーを、胸のなかで久しぶりに押すような気持がして」とても素敵な表現ではないか。]

環状七号線   梅崎春生

 

 私が世田谷から練馬に引越して来たのは、昭和三十年。今から十年前になる。練馬区の建売住宅に当選したのだ。その後ずいぶん建増ししたので、当時の面影はないが、それでも毎月、区に償還金を払っている。今は月に五千円ぐらいのものか。十八年年賦なので、あと八年経つと、土地も建物も私のものになる。

 引越した当時は、周囲には田や畠や林があり、小鳥も飛んでいた。近くに茫漠とした広くて長い空地があって、黄土でもっておおわれ、風が吹くと黄塵(こうじん)を巻き上げ、うちの洗濯物を黄色にした。一体何のためにこんな迷惑な地帯があるのかと、土地の人に訊ねてみると、元はそこは畠だったが、国に買い占められ、そのうちに道路になる予定だという。道路になるのはいいが、黄塵のまま放って置くのが、気に食わなかった。

 その状態が六七年ぐらいつづいた。その間の迷惑はすくなくなかった。ちょいと風が吹くと、障子やガラス扉のすき聞から、黄塵の微粒子が部屋内に忍び込み、部屋や廊下をざらざらにする。一日に二度掃除してもおっつかない。私はその黄土地帯を憎んだ。

 それから工事が始まり、環状七号線ということになる。

 ふつうの道路造りと違って、相当大規模な道なので工事も大がかりで、たいへんうるさい。一帯はしばらく音の修羅場となった。どしんどしんという土固めや、時には大型ドリルのような音さえ混る。昭和三十六七年頃、私の小説製造が不振だったのは、半分はこの音のせいである。しかも末期時代には、とうとう突貫工事となり、夜も眠れなくなった。冬の間は雨戸やガラス戸でふせげたが、夏になると開け放しなので、ことに音と響きが体にこたえる。蓼科(たてしな)に山荘をこしらえ、夏場は逃げ出さざるを得なくなった。

 やっと完成。完成といってもここだけのちょん切れ完成で、あまり車の交通もなく、うるさくなかった。しかし一昨年、全線完通に及んだら、俄然(がぜん)交通量が激増して、昼間だけでなく、夜通しダンプカーがぶっ飛ばす。その度に家が揺れ、眼が覚める。

 環七と私の十年の苦闘の歴史は以上の如くだが、副産物もある。大道路であるから、ガソリンスタンドや修理工場があちこちに出来る。近頃私の近くの曲り角に「ダンロップタイヤ」と看板をかかげた事務所が出来た。これが車の売り買いや、下取りなどもするらしく、駐車場がないので、横町の私の家の前に、車をずらずらと置き放しにする。おかげで道が狭くなり、夜なんかタクシーが入って呉れない。狭くて入れないというのだ。何ということだろう。

 環七の完成によって、地価は上った。私が住みついた頃は区有地で、坪八百円に査定されていた。今は坪二三十万なんて称されている。その点私は得をしたように見えるが、それは売りに出した場合であって、持っている分には固定資産税が値上りになるばかりで、一向に得にならない。私は環七から損害を受け放しである。

 今度いずれ「環状七号繰」という長篇を書き、元を取ってやりたいと思っている。主人公はもちろん環七である。

 

[やぶちゃん注:昭和四〇(一九六五)年六月号『風景』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。「環状七号繰」への鬱憤は先に電子化した梅崎春生「税金払って腹が立つ」(『週刊現代』連載「うんとか すんとか」第四十八回目の昭和三六(一九六一)年三月十九日号掲載分)も参照されたい。いろいろと将来的なことを梅崎春生は述べているのであるが、彼はこの翌月の七月十九日午後四時五分、肝硬変のために満五十歳で白玉楼中の人となってしまうのであった。なお、底本の「エッセイⅣ」パートはこれを以って終わっている。]

小学校歌の作詞   梅崎春生

 

 近所の小学校から、校歌の作詞をたのまれた。

 私は散文家であって、校歌など苦手(にがて)であるからと、平に辞退したが、私の家がその学区内にあるのでぜひ引き受けてもらいたいとの談判で、とうとう引き受けることになった。

 小学校に校歌なんて、私の小学校時代(大正年間)には、あまりなかったような気がする。中学校にはいると校歌、それに応援歌などがあった。高等学校では寮歌、大学では何もなし。で、もう集団的に歌うことはなかろうと思っていたら、軍歌というものがあり、軍隊にはいって強制的に歌わせられた。

 なぜ今の小学校に校歌が必要なのかと、先生にたずねたら、おもしろい答えをされた。小学生がそろって遠足に行く。遠足といっても、足で歩く部分はすくなくて、おおむねバスを利用する。女車掌がいろいろ説明してくれる。説明にくたびれると、

「皆さん。今度は皆さんの校歌を合唱しましょう」

 もし校歌がないと、生徒たちはしゅんとなり、女車掌も引っ込みがつかなくなる。しゅんとなるのはかわいそうだから、校歌が必要だということであった。つまり道路の発達、大型バスの普及が、小学校歌の発生をうながしたのである。私たちが小学生徒のころは、バスに乗らなかった。どこまでも足で歩いた。時々元気つけるために歌ったのは、

「四百余州をこぞる十万余騎の敵」

「遼陽城頭夜は更けて」

 敵愾心(てきがいしん)にあふるる歌を怒鳴って行進した。目的地につくと、梅干し入りのにぎり飯を食べ、ぞろぞろ行進して学校に戻る。帰りは教師も生徒もくたびれて、あまり歌は歌わなかったようだ。

 私は校歌の作成に当って、まず「月並み」を目的にした。へんにひねったような歌は、生徒も飽きるし、歌うたびに私の名をうらめしく思い出すだろう。それでは私も困る。

 「〇〇山の峯高く

 ××川の水清し」

 という風(ふう)なのをつくりたかったが、あいにく私の住む練馬には山はなく、川はあってもどろどろによごれている。練馬名物と言えば練馬大根(このために俳優たちは練馬に住みたがらない)とネリカンぐらいなものである。どちらも校歌にはよみこめない。むりによみこめないことほないが、

 「大根(だいこ)のようにたくましく

 ネリカンの世話にならぬよう

 すくすくわれらは育ち行く」

 これではバスの車掌がおどろくだろうし、歌う方も気分がよくないだろう。

 とにかく一週間かかってつくり上げた。作曲は平井康三郎氏。

 去る六日、豊玉南小学校の体育館落成式とともに、校歌の発表会があった。れいによってれいの如く区長、教育長などの来賓が、壇上に腰をおろす。壇下にはPTAや職員や生徒など。こんな席で壇上にのぼるのは、私の好みに反するが、作詞者ということで壇上のすみに小さくなっていた。落成のあいさつが済んで、校歌の発表。私にも何かしゃべれとのことだったが、平に平にと辞退する。もったいをつけているのではなく、私は生来人前ではしゃべれない。しゃべりたくないのである。

 余儀なく私のあいさつは抜きにして、五六年の生徒全員の合唱にうつった。私は顔中を耳にして聞きながら、おれが死んでもこの歌はうたい継がれるんだろうな、と考えた。と同時に、ある女流作家が羽鳥駅を諷(ふう)して、

「名前は消えても駅残る……」

 鉄道唱歌の一節をもじった言葉を思い出した。私の名前も早く消え去った方が、さっぱりするだろう。 

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年十一月十七日附『東京新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「四百余州をこぞる十万余騎の敵」軍歌「元寇(げんこう)」。明治二五(一八九二)年に発表されたもので作詞・作曲はともに永井建子(けんし:男性)。ウィキの「元寇(軍歌)」によれば、『元の襲来(元寇)をテーマにした歌で、人籟居士の歌として世に出た。永井建子は旧日本陸軍軍楽隊士官』。以下、歌詞(ウィキのものを恣意的に正字化したが、本文と読みは現代仮名遣のままとした。四番までの各連に標題(〈 〉内)がある珍しいものである)。

   *

一、〈鎌倉男兒〉

四百餘州(しひゃくよしゅう)を擧(こぞ)る

十萬餘騎の敵

國難ここに見る

弘安四年夏の頃

なんぞ怖れんわれに

鎌倉男子あり

正義武斷の名

一喝して世に示す 

 

二、〈多々良濱〉

多々良濱邊の戎夷(えみし)

そは何 蒙古勢

傲慢無禮もの

倶(とも)に天を戴かず

いでや進みて忠義に

鍛えし我が腕(かいな)

ここぞ國のため

日本刀を試しみん 

 

三、〈筑紫の海〉

こころ筑紫の海に

浪おしわけてゆく

ますら猛夫(たけお)の身

仇(あだ)を討ち歸らずば

死して護國の鬼と

誓いし箱崎の

神ぞ知ろし召す

和魂(やまとだま)いさぎよし 

 

四、〈玄海灘〉

天は怒りて海は

逆卷く大浪に

國に仇をなす

十餘萬の蒙古勢は

底の藻屑と消えて

殘るは唯(ただ)三人(みたり)

いつしか雲はれて

玄界灘 月淸し

   *

二番の「多々良濱」筑前国の多々良(たたら)浜で現在の福岡市東区の海浜。You Tubeの音源をリンクしておく。文永の役(文永一一(一二七四)年十月)では戦火のため、この浜から筥崎宮(現在の福岡県福岡市東区箱崎に)一帯は焼け野原となっている。

「遼陽城頭夜は更けて」明治三七(一九〇四)年作の「橘中佐」(作詞・鍵谷徳三郎/作曲・安田俊高)。非常に長尺の歌詞で「上」が十九番、「下」が十三番まである。橘中佐は陸軍歩兵中佐橘周太(たちばなしゅうた 慶応元(一八六五)年~明治三七(一九〇四)年)日本の。日露戦争における遼陽の戦いで戦死し、以後、軍神として尊崇された。後に彼が体調であった静岡歩兵第三十四連隊の隊歌ともなった。天翔氏のサイト「天翔艦隊」のこちらで歌詞が読め、音源もダウンロード出来る。

「ネリカン」「練鑑」で、東京都練馬区にある「東京少年鑑別所」の俗称。

「平井康三郎」(明治四三(一九一〇)年~平成一四(二〇〇二)年)は高知県出身の作曲家。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)在学中に「ゆりかご」などを作曲。昭和一一(一九三六)年、交声曲「不尽山をみて」が音楽コンクール第一位となる。NHKの専属作曲家として活躍、昭和二二(一九四七)年には戦後最初の音楽教科書の編集にも携わった。作品に「平城山(ならやま)」「大仏開眼」、童謡「とんぼのめがね」などがある(「練馬区立豊玉南小学校」公式サイト内の記載に拠った)。

「豊玉南小学校」練馬区豊玉南二丁目に現存する練馬区立豊玉南小学校。公式サイト内の「学校概要」の「校歌・校章」を参照されたい。梅崎春生よ、今も歌われ続けており、作詞のあなた名はしっかりネット上でも拝めまする(同校生徒数は本年(一九一六年)四月一日現在で四百九十三名)。なお、春生は練馬区豊玉に住んでいた。以下にその歌詞を示す(「淡(うす)」の読みはあるネット情報で補った)。公式サイトでは曲(歌詞なし)のダウンロードが出来る。 

 

一、

淡(うす)青色の 遠い山から

水さらさらと かがやき流る

むさし野の土 ゆたかに肥えて

若木はそろって 梢を伸ばす

 何の木ぞ

  われらここに生れ

  すこやかに われらはそだつ

  豊玉南小学校 

 

二、

窓から見れば あお空はるか

伸びよ生きよと 鳥啼き交す

雨や嵐に ひるまずまけず

大地にしっかと 根を張る大樹

 何の木ぞ

  われらここに学び

  ほこらかに われらは歌う

  豊玉南小学校 

 

「ある女流作家」不詳。識者の御教授を乞う。

「羽鳥駅」不詳。JR東日本常磐線に「羽鳥駅(はとりえき)」(茨城県小美玉(おみたま)市羽鳥)にあるが、今もこの名で地名も残り、駅としても現存しているから違う。識者の御教授を乞う。誰の何という作品中の言葉かが判れば、自ずと判明するはずである。

『「名前は消えても駅残る……」/鉄道唱歌の一節をもじった言葉』「鉄道唱歌」の「東海道篇」の二番、

右は高輪泉岳寺

四十七士の墓どころ

雪は消えても消えのこる

名は千載の後までも

を指すのであろう。]

諸國百物語卷之一 八 後妻うちの事付タリ法花經の功力

 

     八 後妻(うはなり)うちの事付タリ法花經(ほけきやう)の功力(くりき) 

 

 むさしの國ちゝぶと云ふ山ざとに大山半之丞(をゝやまはんぜう)と云ふもの有り。かの男、あるとき、門(かど)に出でてゐけるに、諸國あんぎやの僧と、をりあわせて、半之丞をみて、

「其方は女の物のけ付きて、たゝりをなす人なり。御身、いのち、をわらんこと、ほどちかし」

と云ふ。半之丞おどろき、

「まづ、こなたへ入らせ給へ」

とて、をくにしやうじ、いろいろともてなし、扨(さて)、そのうへにて、半之丞、物がたりしけるは、

「かやうの事申すは御はづかしく候へども、さんぬる比、わが妻、產にてあひはてけるが、此ごろ、又、あたらしく妻をよびむかへけるに、かのふるき妻、此程、夢ともなくうつゝともなく、夜な夜な枕もとにきたりておどろかし候ふが、此さわりいかゞしてはらい侍らんや」

と申しければ、僧、きゝて、

「さればこそ、はじめよりさやうの物のけ有るべし、と、みへたり。さらば封じてまいらせん」

とて、かの男をはだかにして、身うちに法花經をかきて、かの女の塚のまへにつれゆき、

「かまへて、いかほどおそろしき事有りとも、かまへて、いきもあらくし給ふな」

といましめ、僧はかへりぬ。かの塚は、はるかに人家(じんか)をへだてたる山中(やまなか)にて、哀猿(あひゑん)、みねにさけび、鴟梟(しけう)、松桂(しやうけい)になきて、物すさまじき闇の夜に、おりしも、むらさめ、一とおりふりて、すでにその夜も五更(ごかう)におよぶころ、いにしへの妻(つま)、つかのすこしわれたる間(あひ)よりあらわれいでゝ、くるしげなるいきをつぎ、半之丞がうへに、こしをかけたり。又、二さいばかりなる子をつれたりしが、此子、あなたこなたへはいまわりて、

「父の足こゝにあり」

と云ふ。これは半之丞が身にきたるあら薦(こも)にてすれて、經文(きやうもん)のきへたる所にて有りしと也。母、よろこび見て、

「これは足にてはなし、經木(きやうぎ)也」

とて、おそれて立ちさりぬ。さてこの女ひだりの手には、ともし火をもち、右の手には子をいだきて、半之丞が屋敷をさして行きけり。すでに、屋敷、ほどちかくなるじぶんに、ともしび、きへけり。半之丞をみて、又こそわが家に來たりていかなるをそろしき目にもあわんとおもひ、身をすくめてゐたりしが、しばらくありて、後(のち)の妻のくびをひつさげかへりて、又はじめのごとく、半之丞にこしをかけて、女(をんな)子にむかつて云ふやう、

「さてもなんぢが父をとりころさんとおもひしに、いづくへおち行きつらん。今は是れまでなり。年月のほんもうを、とげたり。われ、生世(いきよ)のうちより、此女、われをてうぶくせしゆへに、われ、しゝても、ほむらのたへがたかりしに、今、かく、いのちをとりたる事の、うれしや」

とて、親子もろとも塚の內に入りければ、夜はほのぼのとあけにける。 

 

[やぶちゃん注:「後妻(うはなり)うち」「うはなり」は、古代には正妻の意の「こなみ」の対語で、次に迎えた妻(側室)の意であったものが、生死別した先妻に対する後妻の意に変化した語源説は種々あるが、「うは」は「上」(上位・正統)、「なり」は「在(あ)り・成り」の意とするものが多い。而して「後妻打(うはなりう)ち」とは、正妻(或いは前妻)が側室や愛人(或いは自分が離別した後に先夫が迎えた後妻)を強く妬むこと、或いは妬んで実際の暴力的行為(直接・間接)に出ることを言う。なお、室町時代末頃から近世初期にかけてのその嫉妬感情に基づく民俗習俗としてもこの語が使われ、離縁された先妻が親しい女たちなど依頼して、現在の元夫の後妻に予告通知をした上で、後妻の家を襲い、家財などを荒らさせるという、けったいな合法的騒擾行為(行事・儀式)をもかく言うから、本書の成立時期もそこにかかり、この現実に見ることの出来た後妻の正妻への鬱憤晴らしの報復行為的儀式を念頭に置きつつ、本ホラーを書いたとも考えられよう。無論、後妻の嫉妬のモチーフは遥か古えからありはするが、寧ろ、その心理的なはけ口としての「後妻打ち」の半正当な風俗を目の当たりにしてどこかで納得した意識が(筆者は当然の如く男であろうが)、本篇の執筆動機の一つではあろうと私には思われる。話柄全体の濫觴を辿れば「牡丹燈記」であろう。これは、身体に書いた経文の功力という視覚印象の鮮烈さなどを一部で小道具(御札に変えて)として立ち現わせたりしつつ、後の上田秋成の「雨月物語」の「蛇性の淫」から三遊亭円朝の「牡丹燈籠」へ、そうして後妻打ちの真骨頂は小泉八雲の「破られし約束(リンク先は私の拙訳サイト版。私のサイト版原文はこちら。経文のヴィジュアルな「どぎつささ」は同じ八雲の「怪談」の「耳なし芳一」。但し、八雲が典拠としたのは。天明二(一七八二)年板行になる一夕散人(いっせきさんじん)著「臥遊奇談(がゆうきだん)」の第二巻「琵琶祕曲泣幽靈(びわのひきょくゆうれいをなかしむ)」に基づく妻セツの語りが原話とされる)へと裾野wp広げてゆく。

「功力(くりき)」功徳(くどく)の力。効験(くげん)。

「をりあわせて」「居り遇はせて」(「あわせて」は歴史的仮名遣の誤り)。たまたま行き逢い。

「をくにしやうじ」「奥に招じ」。

「さんぬる比」「去(さ)んぬる比(ころ:頃)」「さんぬる」は「去りぬる」が転じた連体詞で「過ぎ去った・さる」の意。先頃。先だって。但し、死んだ子(女児)が数え二歳となって「父の足こゝにあり」と明白に喋るほどに成長しているから、最低でも一年半近くは経っていなくてはならぬ。ごく直近の謂いではない。冥界では、子は早く成長するとは私は寡聞にして聴かぬが、但し、心霊譚には赤子(型の物の怪や霊)が大人のように語るというシーンはよく出るから、まあ、一年以内としておこう。「こゝろ」の「先生」の自殺ではないが、二年も経っての所行では、怨みのパワーが減衰する。

「產にてあひはてける」「產にて相ひ果てける」言わずもがなであるが、「相ひ」は「死に果てた」、その対象事実動機としての「產」という行為そのものを指す語であって、「子とともに」などという意味ではない。

「さわり」「障り」。歴史的仮名遣は「さはり」が正しい。

「はらい」歴史的仮名遣は「拂(はら)ひ」が正しい。

「いきもあらくし給ふな」眼には見えなくても、それが聴こえてしまうと亡霊が半之丞の存在に気づいてしまう惧れがあるからである。しかし、この禁止は、以下の亡霊に身体の上に坐られるというシークエンスを見る限り、命を縮めるほどに苛酷であると私は思う。

「哀猿(あひゑん)」これで時節が示される。猿が甲高い声を挙げて叫ぶのを「哀猿」と呼び、悲壮感を煽るようなその響きから、中国の古来より、「哀しみ」の象徴として詩歌に詠まれてきたが、これは実は、猿の晩秋の頃の求愛行動であるからである。

「鴟梟(しけう)」「鴟鴞」現代仮名遣では「しきょう」で、この二字で梟(鳥綱フクロウ目フクロウ科 Strigidae に属するフクロウ類)の別名である。

「松桂(しやうけい)」松(裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属 Pinus のマツ類)や桂(被子植物門双子葉植物綱ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum)。

「むらさめ」「群雨・叢雨・村雨」。ひとしきり強く降って止む雨。強くなったり弱くなったりを繰り返して降る雨。にわか雨。驟雨(しゅうう)。

「五更」日の出前の二時間余りを指す不定時法であるが、季節から見て午前四時前から午前六時前に当たり、「およぶ」とあるので、正確な場面内時間は午前三時半過ぎ頃と考えてよかろう。

「つかのすこしわれたる」「塚の少し割れたる」。

「半之丞が身にきたるあら薦(こも)にてすれて」「あら薦」は「粗薦・荒薦」で、粗く編んだ薦莚(こもむしろ)のこと。これも言わずもがなであるが、亡霊にばれないように、半之丞は素っ裸なので、せめても寒さを凌ぐ(晩秋の秩父の奥深い山中である)ために莚を被っているのである。

「母、よろこび見て」「よろこびて見るも」の意。

「經木(きやうぎ)」供養のために経文を書くための薄く削った木。半之丞の足(恐らく脛(すね)であろう)の消えた周囲の「法華経」の文字を見て、かく誤認し、畏れたのである。

「半之丞をみて、又こそわが家に來たりていかなるをそろしき目にもあわんとおもひ、身をすくめてゐたりしが」この冒頭は「半之丞これをみて」の脱字であろう。後文も、半之丞は自分のことで精一杯であることから(後妻のことなど考えている余裕がない、とんでもなく利己的な男である)、もし、家に自分が居たとしたら、「いかなるをそろしき目にもあわん」という謂いであるが、まあ、恐怖の極限状況にあるのであるから、ここの謂い方のおかしさはあっても、寧ろ、自然では、ある。

「後(のち)の妻」後妻(うわなり)。

「ほんもう」「本望」。

「われ、生世(いきよ)のうちより」私の生前より。

「てうぶく」「調伏」。呪(まじな)いによって人を呪(のろ)い殺すこと。呪詛(じゅそ)。

「ほむら」「 焰」或いは「炎」。原義は「火群(ほむら)」で、ここは心中に燃え立つ激情、ここでは嫉妬と怨恨――瞋恚(しんい)――のそれを譬えて言った。]

2016/08/29

病床日記   梅崎春生

 

 それは暖かい部屋であつた。いや、暖かいというより暑かった。寝る時も寝巻だけ、あるいは寝巻を脱ぎ捨てて、ほとんど裸で寝た。私は冬の寒さは大嫌いである。しかしあまり暖か過ぎるのも季節感がなくて、物足りない気分がする。一月三日の日など、昼寝から汗だらけになって目覚めると、ベランダに通じるガラス扉の彼方では、粉雪がちらちらと降っていたのには呆れた。

 何故この病室に私が入ったか。かんたんに説明して置く。昨年の夏、信州蓼科(たてしな)で吐血をした。本誌に「八島池の蛙」というのを書いたが、それから一週間後、高遠城址に行った。ひどく疲れて帰宅。草野心平さんとビールを飲んだ。そのビールがうまくない。その中気分が悪くなって便所に行って吐いた。夜目にもそれは黒味を帯びていた。便所から出て草野さんにその話をしたら、

「うん。そんなこと、あり勝ちなもんだよ」

 と悠然としてコップを傾けている。私はビールを飲む気がなくなって、ベッドに横になった。

 翌朝になっても、全身が虚脱している。医師を呼んだ。検便したらコールタールの如き黒便である。絶対安静、絶食(もちろん禁酒も)を命じられ、止血剤やその他を注射された。指示を忠実に守ったせいか、一週間で潜血反応(便に血が混ること)はなくなり、早速ハイヤーにて下山、途中甲府で全快の祝杯を上げた。

 東京に戻ってからも少し用心すればよかったのだが、相変らず大酒を飲んで二日酔をしている中、十一月末、前と同じ状態におちいった。夜中の二時頃コーヒー色の血が出て、かかりつけの医師を呼んだ。便の後なので、充分の排便がない。コップに水を入れて、少しばかり取った。燈の下で見ると、アルコール漬けの胎児みたいに、真黒い塊が浮いている。

「こりやいけませんなあ」

 医師が嘆息した。

「もう酒はいけませんよ。絶対に飲んではいけません。命取りです」

 また止血剤を打ち、流動食に戻った。潜血反応も五日間でなくなった。癌(がん)なんかでは潜血反応は消えない。

「どうだ。おれは復元力があるだろう」

 と私は威張った。たいていの異変はすぐに直ってしまう。それは昔から自信があった。でも、気分はすぐれなかった。

 十二月二十七日入院に踏み切ったのも、自信とは別に、少少がたが来ていることを自覚したからである。それに正月になると、酒を飲む機会が多い。それを避けようとの魂胆もあった。その上医師が、一度大病院で調べてもらったらいいと、極力すすめる。気休めに十日間も入ろうかと考えた。寒さはしのげるし、本は読めるし、仕事はしないでもいいしというわけだ。

 そこで上述の暖かい病院に入ることになった。

 前年草野さんが胃潰瘍を直した武蔵野の日赤病院で、草野さんの紹介で、

「なるべく暖かい部屋を!」

 と希望した。寒々しい病室は厭だったからだ。そんな関係で、五階の暑い部屋に入ることになる。朝は白富士、夕は黒富士が見えていい部屋だったが、少々暖か過ぎた。看護婦に聞いてみると、スチームの大元(おおもと)が私の部屋を通っているそうで、温度も二十五六度にのぼる。初めは快適だと思っていたが、二三日経つとどうも耐え難くなった。見舞客も初めはそのまま入って来るが、少し経つとオーバーを脱ぎ、次に上衣を脱ぎ、ついにはセーターをとる。でも、男のストリップを見るのはそう楽しいものでない。

 直ちにバリウムを飲ませられ、レントゲンをとられ、何度も採血された。バリウムはのみにくいものと聞かされていたが、案外うまかった。お代りをして飲んだ。その他採便採血、一日の中三度の熱と脈しらべ。こちらは眠くて眠くて仕方がないのに、眠りの暇がろくにない。うとうととすると、誰かがやって来る。自宅では寒くて昼寝出来なかったが、ここではいくらも眠れるのである。時々起されるから、なお眠くなる。

 どうもこの病院は変であった。なかなか放免して呉れないし、おかゆがいつまでも御飯にならない。街に出るのも禁止された。一月八日某誌の座談会があったが、それも女房がつきそいで、一滴も飲めなかった。柳沢医師が女房に言ったそうだ。

「これで血を吐くと、とめどがなくて、路上で死にますよ」

 もう私の吐血は胃からでなく、門脈からの出血ではないかと、彼は疑っていたのである。肝臓が悪化すると、門静脈から出血する。私はそれを知らないから、やけに御馳走ばかり食わせるなと、不審に思っていた。肝臓には蛋白質が必要なので、肉や魚がふんだんに出る。おかゆを主食にして、それらをたらふく食べる。少し肥った。

 腹腔鏡の検査を受けたらどうだ、と医師が言い出したのもその頃だ。腹腔鏡というのは、つまり腹に穴をあけ、鏡を入れて内臓を見るのだという。私は反問した。

「それ、検査のためですか?」

「そうです」

「治療のためじゃないんですね」

「治療とは関係ありません」

 私は返答をためらった。検査のために腹に穴をあけるのは、天の理に反している。そんなことを孔子さまも言っている。私は断った。

「当分このままで養生しましょう。禁酒までしているんだから、治ると思いますよ」

 実は腹を切るのが厭だったのである。柳沢医師は憐れみの表情で私を見た。

「治りませんね」

 私は少しばかりショックを受けた。医師はすでに肝硬変の疑念を持っていたらしい。それから高周波の検査に、順天堂に行くことになった。これは痛くないというので、自動車で出かけた。車窓から見る街の風物は、活気にあふれている。

「皆つまらぬ用事でごちゃごちゃと動きやがって!」

 どうしても考えがそんな風に動く。

 高周波の検査はすぐに済み、柳沢医師に託する報告書を受取った。その中に「肝臓癌の疑いあり」てなことが記してあったらしい。柳沢医師の態度は急に硬化し、女房を呼んで診断の結果を伝えた。

「直ぐしかるべき治療をしなければ、生命に関します。この病院は設備が不完全なので、東大病院かどこかに入りなさい」

 直接私には言わずに女房に言ったのは、作家というものは敏感で神経質と判断したのだ。その証拠に彼は女房に、

「御主人は神経質な方ですか?」

「ええ。とても」

 だから私には告げなかった。しかし作家ならずとも、肝臓癌の疑いありと宣言すれば、びっくり仰天してがっかり気落ちがするだろう。肝臓癌も肝硬変も大体死につながる病いとされている。

 女房が泣いて頼むので、とうとう東大に移る決心をした。一月十八日のことだ。今度の部屋はたいへん広い。スチームがあるにはあるが、戸外が寒いと機能が低下し、暖かいとむんむん暑くなる。階下の方でどしどし使うせいだろう。私はこれに「弱きをくじき強きをたすけるスチーム」とあだ名をつけた。ここでもたちまちバリウムを飲ませられた。日赤のは味が濃いが、東大のは薄味である。バリウム一つとっても、病院によって味が違う。私は好みとして東大のを推賞する。有志の方があれば、一度試みてみられたらよかろう。

 ここでも採血、注射、検便。皮膚科やレントゲン科に行き、忙しいことは日赤の比ではない。皮膚科では魚鱗癬(ぎょりんせん)(これは遺伝性で治らない)、整形外科では胸椎の圧迫骨折が固まっているので、一生そのままだと診断された。以上の二つは覚悟の前である。その他血管、心臓などは平常。

 吐血は胃からと判っていたが、潰瘍はなし。潰瘍はないけれど、東京都の土地みたいに凸凹に荒されていることも判った。荒れたところから血が滲出してたまり、それが出て来たらしい。

 すなわち敵がねらっているのは、肝臓である。それは日赤の頃から知っていた。バスクラスパイダー。ちょっとにきびに似ているが、指で押して見ると、血色がばっと散り、しばらくして元に戻る。にきびだとすぐに戻る。バスクラスパイダーは肝臓の悪い時に起きやすい。私はそのスパイダーが胸に四つと腕に三つ、手に三つある。これは肝臓が治っても、元に戻りはしない。覚えのある人は胸(おおむね上部に出る)を調べたらよろしかろう。血が散らばって、しばらく白っぽくなっているのは、侘しいものである。弟が見舞いに来たので、胸を聞かせて見ると、かなり大きなスパイダーがでんと胸の真中に巣をかまえていた。注意をうながすと、色青ざめて早々に帰って行った。同病相憐れむというが、他人をも同病に引きずり込まなきゃ損だ、という意識が働くようだ。どうしても意地悪爺さん的な心境に相成る。

 私はここを当分の住居とすることに、ほぼ覚悟がついた。肝臓は長引くし、病室も広くて景色がいいし、居心地も悪くない。暖かくなるまで居坐ろうと、私は決心した。それに採血その他の結果、肝機能の低下がかなり戻ったのである。日赤の時にはひどい結果が出たのに、ここに回復の徴が見えたのは、何故かよく意味が判らない。自然と変化したものであろう。

 で、毎日安静にして読書にふけり、蛋白食を食べる。蛋白食というのは蛋白質を大いに含んだ盛大な御馳走で、肉や魚がふんだんに出る。他の患者で胃潰瘍や腎臓病のおかずは貧弱で、気の毒みたいなものだが、病気が病気だから致し方ない。それに入院費は同じと来ているから、彼等の食事時の心境は察するに余りある。とにかく食事の点では、私は王者であったが、安静を守っている関係で食欲なく、半分ぐらいは廃棄せざるを得なかったのは、残念であった。

 しかし時に雑音が入る。

「腹腔鏡」

「腹腔鏡を!」

 しょっちゅう言われていると、こんなに楽をしているのだから、腹腔鏡でも受けなきゃ今日様に済まない。静かな病室のソファでそんなことを考えた。

 病室は本郷の真中にあるのに、大変静かである。夜になると時々犬がけたたましく吠えることがある。一匹でなく数十匹。医師に聞いたら実験用の犬舎だとのこと。一度見に行ったら、たくさんの野犬が犬舎に入っていた。やせて衰えた犬ばかりだと思ったら、スピッツやその他高価そうな犬が半数を占めていた。夜は廊下に猫が遊ぶ。実験用かと思ったら、そうでない。給食の残りをねらって集まって来るのである。それが数十匹廊下をうろちょろしている。飼主はいない。とても警戒心が強くて、こいこいと手を出すと、ぱっと逃げてしまう。ずいぶん素姓(すじょう)のよさそうな可愛い猫もいた。

「動物実験は犬や鼠だけで、猫は使わないんですか」

 と訊(たず)ねたら、

「ああ、あれは使いません。引搔くから」

 とのことであった。

 そろそろ腹腔鏡の日が近づいて来た。丁度(ちょうど)入院中の木谷九段の部屋に遊びに行ったら、息子さんがいる。この内科の医師なのである。その木谷医師に聞いてみたら、

「腹腔鏡? そりや痛いですよ。内臓を引っかき廻すんだから」

 開口一番私をおどかした。

「お隣のMさんと我慢くらべでもするんですな」

 おどかしと判っていても、気持のいいものでない。隣室のMさんは高名な政治家で、私同様の病気で、M氏の方が先に腹腔鏡を受けるのである。そしてM氏の番の日が来た。

 二時間ほどして戻って来たので、様子や如何にと耳をそばだたせていたら、

「ううん。案ずるより産むがやすいわい」

 というM氏の声が聞えたので、私は大いに安心した。

 翌日私は別室に移され、亀田医師の執刀で腹腔鏡の検査を受けた。この経過は他の新聞に書いたので略するが、金属棒を内臓から引き抜いた時、空気がしゅーつと噴出して来たのには驚いた。元から入っていたのではなく、事前に畳針みたいな注射器で、二千CCがとこ注入して置いたものである。結局二時間ほどかかったが、痛いか痛くないかと問われれば、碁の言葉で言えばいい加減な分れとでも言うべきところだろう。それからストレッチャーに乗せられて、病室に戻って来た。

「どうでしたか?」

 女房の質問に私は答えて、

「まあ案ずるより産むがやすいというところだな」

 考えることは誰も一緒なのである。

 検査役亀田国手曰く。

「心配なさったことは、何でもありませんでしたよ」

 その言葉の意味を二三日考えた。そして私が肝臓癌や肝硬変を疑われていたことに初めて気付いた。思えばのんきな患者である。それから粘りに粘って、三月十一日にやっと退院することになった。一冬を病院に過して、冬知らずの生活を送った。しかしその三箇月近く、仕事はしないので収入はなし、医療費もかかったので、退院したとたんに大貧乏におちいった。これからそろそろ仕事をしようと思うが、頭が所謂(いわゆる)病院ぼけして、どうもうまく行かない。まあその中に旧復するだろうと楽観はしているけれども。

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年六月号『小説新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。第一段落の「一月三日」の後には「(昭和三十九年)」とポイント落ちの割注が、第二段落冒頭の「本誌」の後には「(小説新潮)」がそれぞれ入るが、これは底本全集編者による割注と断じて除去した。前に注したが、この前年の八月に梅崎春生は蓼科の山荘で吐血(底本全集には続けて『養生不十分で苦しむが、やがて回復』とはある)、同年十二月には同年譜によれば、『夏の吐血後の不摂生がたたり』、『武蔵野日赤病院に入院する』とある。この時、既に肝臓疾患(肝炎或いは肝硬変)を発症していたものと推定され、翌昭和三九(一九六四)年一月には『肝臓ガンの疑いで東大病院に転院』、三月まで『治療につとめる』とあるが、翌昭和四〇(一一九六五)年七月十九日午後四時五分、梅崎春生は肝硬変のために満五十歳の若さで白玉楼中の人となっている。

「八島池の蛙」底本全集には不載。而して私は未読。

「高遠城址」長野県伊那市高遠町にある日本の城跡。桜の名所として知られる。私は「高遠の桜」というと、私は井上靖の小説「化石」を思い出すのを常としている。私が彼の小説で唯一、認める一作である。勘違いして貰っては困るので言っておくと、私は小説家として井上靖を殆んど認めない。

「武蔵野の日赤病院」日本赤十字社東京都支部武蔵野赤十字病院。東京都武蔵野市境南町にある。

「門脈」「門静脈」腹部の内臓(胃腸・膵臓・胆曩・脾臓)から静脈血を集めて肝臓に注ぐ静脈幹。上・下腸間膜静脈や脾静脈などが合流したもので、門脈は肝臓に於ける機能血管であり、肝臓内での解毒作用や糖質貯蔵作用などはこの血管を介して行われる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「腹腔鏡」諸記載では「ふくくうきょう」と読みを振るが、私はこの通りに聴いたことは記憶にない。「ふっくうきょう」である。本来は「ふくこうきょう」と読むべきであるが、人体に対して用いる場合、慣例的に「くう」と読んでいるという(ウィキの「腹腔鏡」に拠る)。腹部の中を視るために体部に小さな孔を空けて挿入するタイプの内視鏡(細管の先端にカメラ及び組織採取をする装置が付いた手術器具)である。「日本医科大学付属病院」公式サイト内の「腹腔鏡」によれば、一般的には、臍及び左右下腹部に三~四ヶ所に五ミリメートルから一センチメートルほどの孔を開けて、炭酸ガスを入れたり、腹部を吊り上げたりすることでスペースを作り、観察及び患部と思しい箇所から検体を採取する検査器具。一般には肝臓・胆囊・腸・子宮など腹腔内臓器を肉眼で観察して病気の確定診断に用いるが、最近では腹腔鏡下手術と言って、胆石や初期の癌などの摘出手術にも利用され、開腹せず行なえ、患者に負担の少ない手術法としても注目されている。この時、梅崎春生が提案されたのは腹腔鏡下肝生検であるが、サイト「病院の検査の基礎知識」のこちらによれば、これは『血液検査だけではわからない、肝臓表面の詳しい変化を知ることができ』るとし、『病気が慢性的に長期にわたる場合は、肝臓自体が線維化して表面が凹凸になるなどの変化が起こ』り、『また、肝臓内の炎症の程度が、肝臓表面の色彩変化に反映され』ることから、『このような肝臓の形、表面の変化を元に、病気の進行度や、線維成分が度の程度まで増えているかを推測することが』腹腔鏡検査によって可能となるはとある。『腹腔内は各臓器が隣り合っているので、腹腔鏡を直接挿入しても、それらの様子はよく』分からないので、『気腹といって、おなかの壁に針を刺して空気を入れることか』始め、『空気を入れると、腹腔内の臓器は密着せずに離れるので、別におなかの壁に孔をあけ腹腔鏡を挿入』する、とある。『観察だけならその場で分か』るが、『組織細胞診は結果が出るまでには約』一週間必要である。同検査によって異常が見られる場合の疑われる病気は慢性肝炎・肝硬変・肝臓癌・胆囊癌・脂肪肝・腹膜炎・卵巣嚢腫・卵巣癌などである、とある。

「検査のために腹に穴をあけるのは、天の理に反している。そんなことを孔子さまも言っている」中国の経(けい)書十三経の一つで、曽子の門人が孔子の言動を記した「孝経」の一節(「論語」の一節と勘違いしている人が多い)である、「身體髮膚、受之父母。不敢毀傷、孝之始也。」(身体髪膚、之れを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。)に基づく。

「高周波の検査」現在、我々が「エコー」と呼称している検査である。信頼出来る「超音波検査 エコー検査超音波検査(エコー検査)」のページによれば、『高周波の超音波を使って体内をモニター上に画像化し、病気の有無や状態、胎児の成育状況などを調べる検査で』、『エコー検査は、肝臓・胆道・膵臓・腎臓・消化管といったお腹の中の臓器全般から、心臓や血管・乳腺・甲状腺、関節・筋肉・腱など、肺や消化管内のように気体のある部分と骨の裏側以外の検査をすることが』可能である。『超音波検査(エコー検査)は、とても安全な検査なので』、『産婦人科の診察でお腹の中の赤ちゃんの発育具合を検査するのに使われている』。『装置自体が小型でポータブルタイプの機械もあることから、病棟や診察室内のベッドサイドや手術室、救急の現場での検査も可能』なことから、『小規模病院(診療所やクリニック)や動物病院から、総合病院など大規模な病院まで幅広くの医療の場で』よく使用されている(梅崎春生はその検査に順天堂病院にまで行っており、この当時は、高価であったものか、あまり普及していなかったようである)。『超音波装置は小型で移動性にもたいへん優れてい』ます。 また、一回の『検査で非常に多くの情報を得ることができ』、『繰り返しの検査でも被曝などの危険が』なく、しかも『短時間で効率的に病気の状態を知ることができ』ることから、健康診断などのスクリーニング(適格)検査から、『より精密な検査、そして緊急的な場面での検査にも対応でき』る。『さらに超音波検査(エコー検査)は人間ドックや企業での健康診断でも大活躍しており、最近は腹部だけでなく乳がん検診(乳がんエコー)や動脈硬化の検査(頚動脈エコー)、整形領域で関節や筋などの検査にも用いられることが多くなってきてい』る。但し、『骨や空気を超音波が透過できない』」ことから、『透過できない骨や気体の後側は検査が出来』ないこと、また、これはあらゆる検査に言えることであるが、検査結果が『実施する医師や技師の手腕に左右されてしまう』点にある(私はレントゲン写真を見ても骨折を見落としてしまった現役の整形外科医がいることを知っている。私の右遠位端コーレス変形骨折の主治医であった)。『エコー検査は高い技術と豊富な知識、そして経験を必要と』するため、『実施する技術者のレベルアップが重要』である。要するに、『精度管理が難しいということも欠点にあげられ』るとある。

「順天堂」東京都文京区本郷にある順天堂大学医学部附属順天堂医院。

「肝臓癌も肝硬変も大体死につながる病いとされている」肝硬変は慢性肝障害(ウイルス性肝炎(B型肝炎やC型肝炎等)・アルコール性肝疾患・原発性胆汁性肝疾患・原発性硬化性胆管炎・自己免疫性肝炎など)の慢性肝疾患が原因(或いはこれらの疾患の進行した終末像)である。参照したウィキの「肝硬変」によれば、日本には四十万人の肝硬変患者がおり、六十%がC型肝硬変、十五%がB型肝硬変、十二%がアルコール性肝硬変である。『かつては日本でも日本住血吸虫の有病地において、虫卵と栄養不良を原因とする肝硬変もみられた。最近ではメタボリックシンドロームに関連した非アルコール性脂肪性肝炎(NASH)が原因として注目されている』とある。『肝細胞が死滅・減少し線維組織によって置換された結果、肝臓が硬く変化し、肝機能が著しく減衰した状態を指』し、『肝炎は可逆的であるが、肝硬変は非可逆的である』とある。また、『しばしば肝細胞癌を合併する』こともよく知られている。

「魚鱗癬(ぎょりんせん)」皮膚病の一種。魚の鱗のように皮膚の表面が硬くなり、剝がれ落ちる病気。アトピーと誤認され易い。ウィキの「魚鱗癬」によれば、殆んどが『遺伝子異常による皮膚表面角質の形成障害が原因と考えられており、特にケラチン110』(ケラチンは細胞骨格を構成するタンパク質の一つ)『の遺伝子異常に起因することが示唆されている』。『夏は特に体温調節が難しく、根本的な治療法はまだ見つかっていない。水疱型と非水疱型は、国の小児慢性特定疾患研究事業に認定されて』いる。『伝染性は全くないが、外見の印象が強い症状であるため、差別・偏見の問題がある』。尋常性魚鱗癬・伴性遺伝性尋常性魚鱗癬・水疱型先天性魚鱗癬様紅皮症・非水疱型先天性魚鱗癬様紅皮症(葉状魚鱗癬など)・道化師様魚鱗癬(生まれた時から発症し、重い合併症を併発することから、他に比して生存率が低い)などがある(各症の詳細はリンク先を参照されたい)。

「胸椎の圧迫骨折」梅崎春生はこの二年前の昭和三七(一九六二)年十月に、子どもとふざけているうちに転倒、胸椎の一番下に位置する第十二胸椎を圧迫骨折している(ぎっくり腰も併症)。通常、寝返りが打てないほどの激しい痛みを伴う。現行では比較的、高齢者に有意に見られる骨折である。ここは、その固定治癒。

「バスクラスパイダー」肝障害が起こると、手掌紅斑(palmer erythema:手のひらの小指側の丘が紅潮する症状)の他、皮膚に蜘蛛状血管腫(vascular spiderを認めることが多い。これは春生が示すように前胸部に発症し易い。音写は「バスキュラー・スパイダー」が正しい。ウィキの「クモ状血管腫」によれば、『顔面や前胸部などの上大静脈領域に蜘が足を広げたように血管が拡張して、中心部の血管が拍動しているもの』で、『拍動している中心部を鉛筆などで押さえると、血管腫が消失したように見える。肝硬変などの肝疾患で見られる』とあり、画像も見られる。

「徴」「しるし」とも訓じ得るが、ここは「きざし」と読みたい。

「今日様」太陽を敬っていう語で、そのまま「こんにちさま」と読むが、ここは同義の「おてんとう(天道 )さま」と当て読みしたい。

「木谷九段」囲碁の棋士木谷實(きたにみのる 明治四二(一九〇九)年昭和四〇(一九七五)年)。神戸市出身。ウィキの「木谷實」によれば、二十世紀の『棋士の中でも指折りの存在とされており』、『呉清源と共に大正時代から活躍。また、自宅を木谷道場として内弟子をとりタイトルを争うトップ棋士から普及に専念する地方棋士まで多くの棋士を育てた』とある。梅崎春生より六歳年上。

「木谷医師」ウィキの「木谷實」によれば、木谷實の長男で、元国立療養所中部病院長寿医療研究センター長木谷健一(二〇〇八年没)のこと。

「Mさん」「高名な政治家」不詳。御存じの方、御一報を。

「この経過は他の新聞に書いた」不詳。御存じの方、御一報を。

「碁の言葉で言えばいい加減な分れ」検索してみたところ、対戦者双方が同じように満足のいくようなほぼ互角の「わかれ」(囲碁将棋用語で対戦の「進行」、或いは戦いが一段落した局面)のことを「いい加減な別れ」と呼称するようである。調べる限り、表記は「分れ」ではなく「別れ」或いはカタカナで「ワカレ」と書くようである。

「国手」「こくしゅ」と読む。原義は国を医する名手の意で「名医」の意で、「医師」を敬っていう語であるが、囲碁の世界では「名人」を指す。従って、事実とこの文脈中では掛詞になっていることが判った。正直言えば、私は以上を辞書で調べる以前、てんから『「助手」の誤植だろ』と思い込んでいたことを自白する。]

母を語る   梅崎春生

 

 私の母貞子は千九百初年、古賀家から梅崎家に嫁して来た。おやじが陸軍少尉か中尉のころで、裕福な娘時代を過したので、やっとこ少尉ややりくり中尉の貧乏生活にはおどろいたらしい。しかしよく貧乏に耐えて、六子をなした。みな男ばかりだから、その苦労察するにあまりある。負けずぎらいというべきだろう。

 負けずぎらいで気位が高く、快活で遊び好きであった。他人にはどう見えたか知らないが、子供の私にはそう見えた。ただ学校で一番にならなきゃ承知しないようなところがあって、おかげで私は小学生の時は首席で通した。中学校になると、学課もおふくろに手に余るようになって、たちまち私の成績は下落した。大学まで下落のし放しである。

 あれはいつのころだったか、おふくろは私に向かって、趣味として謡曲をやろうか俳句にしようかと、相談を持ちかけたことがある。いささか文学づいていた私は、俳句の方をやりなさいと切に勧めたが、結局おふくろは謡曲の方をえらんだ。

 いま憶測すると、そのころの福岡には、久保よりえという名流俳人や杉田久女という異色俳人がいて、いまから修業しても、その下風に立たざるを得ないという事情があったのではないか。それでおふくろは謡曲の道を選んだ。そしてかなりのところまで行った。

 終戦後上京して、その道で生計を立てたのも、才能が充分あったからに違いない。お弟子さんもたくさん出来た。いま、この道を弟信義がついでいる。

 大人になって一度だけしかられたことがある。戦争の責任をとって天皇は退位せよ、と文章に書いた時だ。発表されるや否や、おふくろは飛んで来て、昼寝している私に向かって、こんこんと戒めた。私は困って〝ハイ、ハイ〟と頭を下げるだけであった。

 そのおふくろは十余年前に死んだ。ルポルタージュを書きに遠出していた私ははせ帰って、やっと死目にあえた。

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年四月二十三日附『朝日新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「久保よりえ」(明治一七(一八八四)年~昭和一六(一九四一)年)「久保より江」が正しい。旧姓、宮本・郷里の愛媛県松山で夏目漱石・正岡子規に接して句作を始めた。上京後、府立第三高女を卒業、医学博士で歌人・俳人でもあった久保猪之吉と結婚、福岡に移り住み(夫が明治四〇年(一九〇七)年に京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学福岡医科大学)教授となったことによる。彼は本邦最初の耳鼻咽喉科専門医でもある)、高浜虚子に俳句を、服部躬治(もとはる)に和歌を学んだ。柳原白蓮らとも交友があった(白蓮は猪之吉を愛し、より江に嫉妬したとも言われる)(以上は講談社「日本人名大辞典」他に拠った)。梅崎春生の母貞子は昭和二九(一九五四)年三月十五日、享年六十四で子宮癌のために亡くなっている。

「杉田久女」(明治二三(一八九〇)年~昭和二一(一九四六)年)鹿児島県生まれの俳人。旧姓、赤堀。旧制小倉中学(現在の福岡県立小倉高等学校)の美術教師杉田宇内(うない)と結婚、明治四二(一九〇九)年、夫の任地である福岡県小倉市(現在の北九州市)に移った。私は彼女のフリークで、全句(リンク先はPDF版)他を電子化しており、ブログ彼女全句著作公開作業である。

「それでおふくろは謡曲の道を選んだ」因みに、この頃の福岡で謡曲(謠)の師匠というと、作家の夢野久作が真っ先に浮かぶ。私は夢野久作もフリークで、ブログで幾つかの作品を電子化している。

「弟信義」梅崎家の五男。観世流能楽師(シテ方)。]

胸に残る強い郷愁――熊本と私――   梅崎春生

   胸に残る強い郷愁

    ――熊本と私――

 

 昨年の秋、熊本に寄った。ある旅行雑誌の頼みで、鹿児島県坊津にルポルタージュを書きに出かけ、その帰途である。東京から鹿児島行きは富士航空で、大分に降り鹿児島に着陸した。今思うと両空港ともこの間事故をおこしたところだ。私は割合飛行機を信用するたちだが、こんなに続出してはうかうかと乗れないような気がする。

 同行は女房。銅婚式のつもりで、まだ見ない南九州を見せたいとの気持があった。鹿児島から汽車で、夜遅く熊本着。熊本城近くのいこい別荘。(この宿は清潔でサービスも行き届いていた。)宿料はめっぽう安い。旅行のため鉄道弘済会員の名を一時もらっていたせいもあろう。

 私は熊本には昭和七年から十一年の四年間いた。五高の生徒としてである。丁度(ちょうど)青春の花が開こうとしていた時期だし、生れて初めて親元を離れて生活したせいもあり、私はその四年間がたいへん楽しかった。形成などと言うと大げさになるが、いろんなことを覚え(いいことだけでなく悪事も含む)それが私の将来を決定したと言っても言い過ぎではない。ふつう高校は三年だが、つい遊び過ぎて落第し、四年在学ということになった。落第した時はつらかったが、今となっては友達が増えた勘定で得をしたと思っている。木下順二なども後期の方の同級である。

 でも、あれから三十年経つから、知り合いはほとんどない。街の形も大いに変っている。藤崎神宮から子飼橋に至る道、昔は上通町で酒を飲み、放歌高吟して戻ったものだが、その頃は暗い道筋で「赤提灯」という売春宿が一軒あっただけだ。私も一度そこに泊り、朝起きて二階から道を見おろすと、五高の教授や生徒らが続々と登校して行く。私はびっくり仰天して二階の隅に身をひそめ、正午頃まで蟄居(ちっきょ)していたことがある。それにこりて、もうここには二度と泊らなかった。

 その道筋が今は大繁昌で、いろんな売屋が並び、昔日の面影はない。この道だけでなく、熊本総体が変ってしまったようだ。

 翌日、車を呼んで阿蘇に向かう。

「今日は好か天気ですばい」

 運転手が言う。私も阿蘇に何度か登ったけれども、いつも曇ったり雨が降っていたりして、うまく行かなかった。四年ほど前NHKの海野君と登山した時も雷雨で、視界茫として何も見えなくて、案内した手前、私は面目を失した。その時の経験を本紙(熊本日日新聞)に連載した「てんしるちしる」の冒頭にくり込み、いささかの弁解となした。

 で、昨年の登山は成功であった。大津街道あたりからも阿蘇の姿や噴煙がはっきりと眺められた。坊中から頂上まで一気に自動車でかけ登る。火口に達すると、噴煙がまっすぐ上っている。風が全然ないのである。火口にぼこぼこ立つ泡も見え、火口壁の奇怪な肌や色も眼のあたりに見えた。こんな好天気に恵まれたのは初めてである。草千里まで降りて、運転手君を交えて昼飯を食べた。草千里には黒服の高校生や中学生が、ばらばらに散らばって遊んでいたが、まるで散乱する鴉(からす)のように見えた。

 熊本に戻り、博多行きの汽車まで時間があったので、上通町の「フロイント」に行く。この店はたしか昭和六年開業だから、ほぼ私の入学時に重なる。三十年の年月がこの店を大きくしていた。ここまで仕立てるには、なみなみならぬ苦労があったのだろう。

「お互いに齢をとりましたね」

 てなあいさつをマダムと交し、コーヒーを飲んで駅に向かった。一年に一度くらいは熊本に行ってみたいと思っている。熊本には四年しかいなかったけれど、かなり強烈な郷愁があるのだ。

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年四月三日附『熊本日日新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭の「昨年」の後にはポイント落ちで「(昭和三十八年)」という割注が入るが、これは底本全集編者によす挿入と断じて、除去した。ここにまず書かれた鹿児島の坊津行は雑誌『旅』(当時の刊行元は日本交通公社)の取材旅行で、昭和三八(一九六三)年十月、熊本・福岡にも立ち寄っており、春生が述べている通り、妻の恵津さんを同伴している。この短いエッセイを読んでも判る通り(初めの航空機事故の話に始まり、売春宿「赤提灯」のエピソード、阿蘇登山に至るまで)、これが二年後の遺作となってしまった名作「幻化」(リンク先は私の『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注』PDF一括縦書版。ブログ版分割がよろしければこちらで)のいろいろなシークエンスに繋がっていることからも知れるように、「幻化」執筆の動機となる重要な旅であった。「幻化」のこちらのオリジナル注でも引いたが(リンク先はブログ版の当該部)、以下は非常に印象的なので再掲しておく。『読売新聞』のネット上の二〇一五年十一月二十四日附の山内則史記者の記事『梅崎春生「今はうしなったもの、二十年前には…」』には(ここでは再訪を十一月としている)、未亡人恵津さん(取材当時九十二歳)の回想として、『「きれいな所だから一緒に行かないか、カメラマン代わりで、と誘われました。坊津の海があまり美しく、船の陰でもいいから1泊したいと私が言ったら、役場に聞いて宿を見つけてきた。梅崎にとって戦争が終わった解放感と自然の美しさは、一つになっていたのでしょう」』と記し、『坊津の港、沖の島々、東シナ海まで見晴らせる坊津歴史資料センター輝津館で、恵津さんの描いた日本画と出会った。ダチュラの白に照り映える、花の下の乙女。件(くだん)の紀行文で梅崎は、宿の主人に請われて一筆書いたと記している』。『〈坊ノ津二十年を憶へば/年々歳々/花相似たれども/我れのみ/老いたるが如し〉』。但し、この時、既に春生には変調が起こっていた。旅の前々月の八月には蓼科の山荘で吐血(底本全集には続けて『養生不十分で苦しむが、やがて回復』とはある)、この旅から二ヶ月後の同年十二月には同年譜によれば、『夏の吐血後の不摂生がたたり』、『武蔵野日赤病院に入院する』とある。この時、既に肝臓疾患(肝炎或いは肝硬変)を発症していたものと推定され、翌昭和三九(一九六四)年一月には『肝臓ガンの疑いで東大病院に転院』、三月まで『治療につとめる』とある。翌昭和四〇(一一九六五)年七月十九日午後四時五分、梅崎春生は肝硬変のために満五十歳の若さで白玉楼中の人となった。

「藤崎神宮」「ふじさきじんぐう」と清音で読む。現在の熊本県熊本市中央区にある藤崎八旛宮(ふじさきはちまんぐう)のこと。熊本市域の総鎮守として信仰を集める。詳細は「藤崎八旛宮」公式サイト或いはウィキの「藤崎八旛宮」を見られたい。

「子飼橋」「こかいばし」と濁らない。JR熊本駅の東北三・九キロメートルの白川が北に大きく蛇行した部分に架かる橋。「幻化」にも登場する(ここここ。リンク先は私のブログ版。後者のシークエンスはその光景とともに「幻化」の印象的な回想シーンの一つである。そこの私の注も参照されたい)。個人サイト「熊本市電写真館」の「子飼」のページが、よい。旧五高の雰囲気も現在の熊本大学内にある「五高記念館」の写真で偲ばれる。

「上通町」「かみとおりちょう」と清音で読む。現在の熊本県熊本市中央区上通町。当時から商店街で今もアーケード街として知られる。ウィキの「上通」を参照されたい。先に電子化した梅崎春生のエッセイ「さつま揚げ」にも登場している。

「四年ほど前NHKの海野君と登山した時も雷雨で、視界茫として何も見えなくて、案内した手前、私は面目を失した」先に電子化した梅崎春生の「デパートになった阿蘇山」(『週刊現代』連載の「うんとか すんとか」第六十三回目。昭和三六(一九六一)年七月九日号掲載分)に顛末が語られてある。この記事の四年前の昭和三五(一九六〇)年の春のことであった。

「てんしるちしる」昭和三六(一九六一)年六月から翌年四月まで連載した小説。ここでは「本紙(熊本日日新聞)に連載した」とあるが『中国新聞』他、数紙に連載したもの。但し、沖積舎版全集には不載で、私は未読である。

「大津街道」江戸時代に加藤清正によって拓かれ、熊本藩の参勤交代に用いられた、肥後国熊本(現在の熊本県熊本市)と豊後国鶴崎(現在の大分県大分市鶴崎)を結ぶ全長約百二十四キロメートル(三十一里)に及ぶ豊後街道(肥後国熊本城の札の辻から阿蘇・久住を経、豊後国鶴崎に至る)の内、熊本市から菊池郡大津町(阿蘇外輪山のずっと手前)に至る部分を大津街道と呼ぶ(ここはウィキの「豊後街道」に拠った)。

「坊中」(ぼうちゅう)は現在の大分県大分市の大分駅から熊本県熊本市西区の熊本駅に至る豊肥(ほうひ)本線の阿蘇駅附近の地名。阿蘇坊中。この当時は熊本県阿蘇郡阿蘇町(まち)であった(現在は阿蘇市黒川)。同駅は大正七(一九一八)年一月二十五日に「坊中」駅として鉄道院が開設したが、昭和三六(一九六一)年三月二十日に「阿蘇」駅に改称している(ウィキの「阿蘇駅」に拠る)。従ってこの記事当時は既に「阿蘇」駅であるが、梅崎春生の熊本五高時代、ここは「坊中」駅であった。

 

『上通町の「フロイント」』試みに検索してみたら、関係あるかないか不明であるが、熊本県熊本市中央区上通町に「フロイントビル」なるビルが現存する。]

諸國百物語卷之一 七 蓮臺野二つ塚ばけ物の事

     七 蓮臺野(れんだいの)二つ塚(つか)ばけ物の事


Renndainonobakemono

 みやこ蓮臺野と云ふ所に、むかしより塚ふたつありけるに、そのあいだ、二町ばかりへだてけるが、ひとつの塚は夜な夜なもへける。今ひとつの塚はすさまじきこゑにて、

「こいやこいや」

と、よばはりける。これをきく人ごとにおそれまどひて、日ぐれになればとをる人なし。ある時、あめ風はげしき夜、わかきものども、あつまりて、

「たれにても、こよひ、蓮臺野へゆきて、ばけ物のありさまみて歸るもの、あらんや」

といへば、そのなかに、ちから、人にすぐれて心がうなるわかものありて、

「それがし見とゞけ參らん」

と、云ひて行くほどに、闇(くら)さは闇し、雨はふる、すさまじき事、いふばかりなし。されども心こうなるものなれば、ひとつの塚にたちよりて聞けば、例のごとく、

「こいやこいや」

とよばはりける。此男いふやう、

「なに物なれば夜な夜な、かく云ふぞ。まことのすがたをあらはして、ざんげせよ」

とぞ云ひければ、塚の内より四十あまりなる、色あをざめたる女、たち出でゝ、

「かやうに申す事、べつのしさいもなし。あれにみへたる、もゆる塚へ、われをつれてゆき給へ」

と云ひければ、男もおそろしくはおもひけれども、もとよりおもひもうけたる事なれば、やすやすとせなかにおひ、かのつかにおろしけるに、女そのまゝかの塚へ入るかとおもへば、塚のうち鳴動して、しばらく有りて、かの女、鬼神のすがたとなりて、まなこ、かゞやき、身にうろこはへて、すさまじき事たとへんかたなし。又、男にむかつて、

「もとの塚へ、われをつれてかへれ」

と云ふ。この時は氣も魂(たましひ)もうせはてゝ、死に入るばかりにおぼへけれども、又、せなかにおいて、もとの塚へをろしければ、鬼神よろこび、家の内に入り、しばらくして、又、もとの女のすがたとなり、

「さてさて御身のやうなるこうの人はなし、今こそ、のぞみをはれて、うれしく候ふ」

とて、ちいさき囊に、なにやらん、おもき物を入れて、あたへける。かの男、わにの口をのがれたるこゝちして、いそぎ、わが屋にかへりて、右の人々に、はじめをわりを物がたりして、件(くだん)の囊をとり出だし見ければ、金子百兩ありけると也。それよりのちは此塚なにごとなし、と、いひつたへ侍るなり。

 

[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻三の「三 蓮臺野にて化け物に遇ふ事」と同話であるが、塚からの呼ばはる二度の声はともに原話は『怖やこはや』であること、こちらが女の亡霊が男に与えた袋の中身が「金子百兩ありけると也」とし、「それよりのちは此塚なにごとなし、と、いひつたへ侍るなり」で終るのに対し、「曾呂利物語」では、怪異を友に語ったところ、『各々、手がらの程を感じける。彼(か)のふくろに入れたる物は、如何なる物にかありけん、知らまほし』と終わっている点で異なる。塚からの声は意味不明の「こいや」(「來いや來いや」とは認めるが、それでも呼ばれても行きたくはない点に於いてこの「こいや」の方がよい)がよいと思うが、エンディングの方は、個人的には起承転結かっちりよりも、読者に気を持たせる「曾呂利物語」の方が、遙かによい。挿絵の右キャプションは「蓮臺野のばけ物の事」。

「蓮臺野」洛北の船岡山西麓から現在の天神川(旧称は紙屋川)に至る一帯にあった野。古来、東の「鳥辺野(鳥辺山)」、西の「化野(あだしの)」とともに葬地として知られた。後冷泉天皇・近衛天皇の火葬塚がある。

「心がうなる」「心剛なる」。

「心こうなる」「心かうなる」の誤り。清音は前の「心剛なる」の古形。

「ざんげ」「懺悔」。既注。元は「さんげ」と清音。原義は仏教で過去の罪悪を悔いて神仏などの前に告白をし、その許しをこうことであるが、ここは変化(へんげ)のものに対して、「こいやこいや」の意味と、そう叫ぶ意図を「包み隠さずに打ち明けること」を指している。近世中期以後に濁音化して「ざんげ」となった。但し、そういう意味では、塚から出た亡霊は、この男に「懺悔」は結果として、していない。或いは、それはあまりに自身にとって恥かしいものであったから語りたくなかったのかも知れぬし、或いは、生者に語っても最早、理解出来ない死霊同士(今一つの塚の主との)事柄であったのかも知れぬ。それは、送られた女が塚から再び出でた時、「鬼神のすがたとなりて、まなこ、かゞやき、身にうろこはへて、すさまじき事たとへんかたなし」であったことを考えると、安易に訊ねることも私(藪野直史)には出来ないことであると言い添えておく。

とぞ云ひければ、塚の内より四十あまりなる、色あをざめたる女、たち出でゝ、

「おもひもうけたる事」どんな怪異が起こっても、と前以って心の準備もし、覚悟もしていたこと。

「やすやすと」(女の命じた通り、)素直に。

「のぞみをはれて」「望み終はれて」。望みをし終えることが出来て。しかし、この女怪の望みは何であったのか、鬼女に変じたところに妬心は十二分に見てはとれるものの、今一つ塚が誰のそれであり、そこで何を成したものかは闇に隠れたままである。しかし残ったは事実としての謝礼金百両のみ。この最後の物的リアリズムが、ホラーを完成させている。

「わにの口」「鰐の口」。言わずもがな、「鰐」は鮫の意。]

腹立ちて厭人癖に二日醉

腹立ちて厭人癖に二日醉   唯至

2016/08/28

芥川龍之介 手帳5 (3)

○父と妻と私通す (父は馬喰)子(杣)木曾ヨリカヘリ 戸外ニ内ノ容子ヲ知リ 近邊(二町)の男に(ウスノロ)事情をきき 家ニカヘリ 怒ラズ着物を出サセ去ル 行方不明

[やぶちゃん注:「馬喰」「ばくらふ」(博労)。牛馬の売買や周旋をする者。

「杣」「そま」。樵(きこり)。

「二町」約二百十八メートル。]

 

○或悲劇の beginning 夫ハ母ノ情人タルヲ知ル 妻(藝者)ハ父ト關係アルヲ知ル

○火つけをした男は月夜にゆけば首にかげなし

○「逃ゲタンデス」相手煙草をのみながら 「ソノ日ニ?」「エエソノ日ニ」少シ間ヲ置キ 前ノ續きを忘れしやうに 「逃ゲタンデセウ」

○安太郎 アザ名靑ヤス ウスノロノ男(カセノの杣)男ぶりよし 近所の大百姓ノ妻ト通ズ ソノ家ノ惣領靑安トソツクリナリ

○妾 旦那の子をその死後に主人の如く育つ 田中ノ例

[やぶちゃん注:「田中」これはかなり知られた誰かを指すように思われるが、不詳。]

 

○鼻カラ煙草ヲノム人 山本

○決算報告書(半期) 株式名簿の株數のへるのを印刷所へ刷らせる(五十圓) 十番と下らぬ大株主を父とする故

○政治 議員(市會) A金アリ B金ナシ BAノ運動員ヲ買收シAノ運動員ノ宅ニBヲムカヘソコニ町の有志ヲ(靑年會の口利等)ムカへ投票ヲ買フ Aハ又Bノ運動員ヲ買收シ旅行或ハ病氣サス

○有志權者の葬式に立つ

○寺と議員との關係 僞日蓮主義者 決して日蓮だけ偉くない

○同じ小學校出の職工 同じ高商出の資本家 職工の會合(文藝團) 袴羽織にて着席す

江州の百姓 大阪に出 荒物屋をひらきかたはら投機事業をやり 成巧せず 相場をやり最初よく後に大分すり economics を知れば儲ると思ひ 本をよみ socialist となる

[やぶちゃん注:「成巧」はママ。]

 

○近所同盟 家賃ネアゲ反對 三軒加ハラズ 二圓上ゲル 家賃ヲ――圓ニス 三軒モ恩典ニ浴ス オヤヂ一人大ニ怒ル

○平井兵粮ゼメ

[やぶちゃん注:織田家武将であった羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの一つである、天正六(一五七八)年から天正八(一五八〇)年にかけて行われた織田氏と別所氏の三木(みき)合戦に於いて、別所氏が播磨三木城(現在の兵庫県三木市)に籠城した際、秀吉が行った兵糧(ひょうろう)攻め。別名「三木の干殺(ひごろ/ほしごろ)し」と呼ばれる。]

 

○文久二年三月 「わたしや葛西の源兵衞堀河童の伜でございます」 黑衣 胡瓜をかじる ○源兵衞さんの伜の河童ござる 河童に御馳走するならば 胡瓜にお酒に尻ご玉 それでおしまひでごんざります

[やぶちゃん注:「文久二年三月」は一八六二年で幕末。この三月二十四日には坂本龍馬は土佐を脱藩、翌四月二十三日には薩摩藩尊皇派らの粛清事件である寺田屋騒動が、八月二十一日には薩摩藩主島津久光の行列が英国人を斬殺した生麦事件が、十一月十二日には高杉晋作らによる外国公使襲撃事件が発生している。]

 

鼻の下の長くなる話 Shirt を學ぶ

[やぶちゃん注:「Shirt」は、男子用のワイシャツ・婦人用のシャツ型のブラウス・下着・肌着・シャツの意であるが、「學ぶ」というのとしっくりこない。別に“nightshirt”、長いシャツ型の寝巻きの意があるから、西洋式にこれを着て寝ることを学んだ、という謂いか?]

 

○男女小穴の家へとまり男去り女他の男と會する話 馬を持つて迎ひに來る等

[やぶちゃん注:唐突に「小穴」と書かれると盟友の画家小穴隆一かと思うが、どうも以下が繋がらない。或いは夢記述の断片かとも思われないことはない。]

 

○小林の話 船の中の話

[やぶちゃん注:呼び捨てで呼ぶ「小林」は不詳。]

 

○參謀本部の地圖を見る 濶葉樹 針葉樹 水田 乾田に從ひ鳥の匀を感ずる sportsman.

[やぶちゃん注:「濶葉樹」「くわつえふじゆ(かつようじゅ)」で「闊葉樹」とも書き、広葉樹の旧称。

「乾田」は「かんでん」で、排水が良く、灌漑を止めると、畑に転用出来る田のこと。

「に從ひ鳥の匀を感ずる sportsman.意味不詳。全くの机上で日本陸軍参謀本部外局の陸地測量部(現在の国土地理院の前身の一つ)作成の地図を見ているうちに、そのいろいろな地図記号を見ているだけで、自然の匂い、鳥の匂いが実際に感じられてくるような錯覚に陥る運動選手を主人公とする掌篇或いはアフォリズムの構想か。]

 

〇或漢學者漢和大字典へンサン中漢字の腹につまりし夢を見る

○法域を護る人人の喜劇化

[やぶちゃん注:「法域」は仏法の法域という謂いか? さすれば、中国であろうか?]

 

支那の長沙邊に stage をとり militarism doramatization.

[やぶちゃん注:長沙(チャンシャー:現在の中華人民共和国湖南省長沙の省都)辺りを舞台とした軍国主義の戯曲化作品(或いは脚色作品)。]

 

Waitress et Ambitious boy. WBニヨリ save BWニヨリ damn サル

[やぶちゃん注:「タイス」と「Paphnusius」(不詳)。女給と大望を抱いた少年。WBにより押さえつけられ、BWにより罵られる。

「タイス」(Thaïs)はジュール・マスネ作曲の三幕七場の「抒情喜劇(comédie lyrique)」とエンタイトルされたオペラの一つで、芥川龍之介が愛したアナトール・フランスの小説「舞姫タイス」(Thaïs:一八九〇年)を原作にしたルイ・ギャレのフランス語の台本(リブレット)にマスネが作曲したものか(初演は一八九四年)。或いはGoogle ブック検索で“The Dublin Review”の「第 1920 36ページ」として出る書物の画像の中の注に“Paphnusius and Thais”という作品タイトルを見出せるが、これか?(どなたか、リンク先の画像を和訳して戴けると助かる)]

 

Applause――二つの手の鳴る音 その effect.  dangerous and disgusting.

[やぶちゃん注:「Applause」拍手。「disgusting胸の悪くなるような。実に厭な。]

 

〇ヤスケ 白ツ子 八街小説

[やぶちゃん注:「白ツ子」アルビノalbino)。

「八街小説」これは或いは現在の千葉県八街(やちまた)市を舞台にした小説の謂いではあるまいか? とすれば草稿断片「美しい村」(大正一四(一九二五)年頃と推定)と関わるか?(八街と「美しい村」の関係性は『千葉日報』のこちらの記事を参照されたい)]

 

○親戚關係に地主あるゆゑ地主方となる 妹の離緣 小地主から嫁をもらつたもの 損德ニヨリ親戚ニソムクモノ 損德ニヨラズ親戚ニソムクモノ

○箱根土地株式會社 鍛冶屋村(炭 橋 小マヘノ竹 屋根萱 薪) ウレレバ地價上る ソレニモ關ラズ反對スル 吉濱村ヲ示威運動ス 鍛冶屋ノ總代 議員承知シ村ノモノニシカラレ辭職ス 示威運動ニ出ル時ハ出ヌモノニ六圓金ヲカケル

○表向キハヨケレド内輪ハクルシキ地主ノコマル事 ドチラトモツカズ金バカリニカカルモノ 紛擾ヲ避ケル爲改革派ヲ退治セントスル地主

[やぶちゃん注:この一連(のものとして私はこの三項を読む)妙に生々しいリアルな記載で、もしや、と思い、調べてみたところ、これは恐らく、事実メモである可能性が極めて高いように思われてきた。以下の注を参照されたい。

「箱根土地株式會社」は実在した会社で、西武鉄道グループのデベロッパーであった西武鉄道の元親会社「国土計画(コクド)」の前身である「箱根土地(はこねとち)」のこと。大正八(一九一九)年四月設立で会社所在地は下谷区北稲荷町であった(後の昭和一九(一九四四)年に「国土計画興業株式会社」に、平成四(一九九二)年に「株式会社コクド」に社名変更)。参照したウィキの「箱根土地」によれば、『軽井沢・千ヶ滝別荘地(長野県軽井沢町)や箱根強羅、芦ノ湖近辺の別荘地分譲、東京・目白の文化村などの郊外住宅地分譲、現在の国立市における大規模宅地開発事業など、戦前期を通じて東京やその周辺で大規模な不動産開発を多数行った』とある。ウィキのフラットな記載を見ても、箱根・湯河原・軽井沢の大規模なリゾート開発を相当にこなしており、ここに記されるような戦略は日常茶飯にこなしていそうな土地会社である。

「鍛冶屋村」「吉濱村」この二つの村(地区)名も湯河原温泉で有名な神奈川県南西部の湯河原町(ゆがわらまち)に実在した。ウィキの「湯河原町」によれば、明治二二(一八八九)年に町村制施行によって旧「吉浜村」と「鍛冶屋村」が合併されて「吉浜村」となっている。同ウィキによれば、「鍛冶屋」地区は新崎川(にいざきがわ)の『川砂に多く混ざる砂鉄を利用して鉄器や刀鍛冶などが盛んだったといわれる地区』であり(だから「炭」「竹」「薪」が腑に落ちる。但し「小マヘノ」は不詳。「小前」は江戸時代に本百姓ではあるものの、特別の権利・家格を持たない百姓や、或いは小作人層を指しす語であったし、単に「小さいこと」「格や程度が低いこと」の意もあるのでよく判らぬ)、「吉浜」地区は『砂浜(吉浜)から箱根町・小田原市の境にまで伸びる地区』とある。ウィキの「箱根土地」を見ると、昭和一〇(一九三五)年の項に『湯河原町との温泉譲渡交渉が決裂』とある。無論、これは芥川龍之介没後であるが、交渉決裂という以上は相当な長い期間の交渉の末とも読め、そうしたワン・シーンの切り取りがこのシークエンスと見ても、少しも不思議ではない。さらに言えば、この情報は現地の人間でなくては知り得ない細部(家の様子など)を持っているように思われ、これらの情報提供者は、かの「トロツコ」の原型を芥川龍之介に提供(というより「奪われた」といべきか)した、湯河原出身の力石平三ではなかったか? と私は思うのである。]

 

臺灣の山奧 熟蕃二人 トロツコ 豚の腿 男子 600に賣れる 水牛を飼ふ子供(M

[やぶちゃん注:「熟蕃」「じゆくばん(じゅくばん)」と読む。これには二つの意味があり、普遍的に教化されて帰順した原住の人々(「生蕃(せいばん:中央の教化に従わない原住の人々)の対語)の他に、第二次大戦前の日本統治時代の台湾に於ける高山(こうざん)族(台湾先住民族の総称で、古代にインドネシア方面から渡来したとされ、九部族に分かれる。日本統治時代には高砂(たかさご)族と呼ばれた)の中で、漢民族に同化していたものを指して用いた限定用法があり(この限定用法では「生蕃」も同高山族の中で漢民族に同化していなかった人々を限定的に指す)、ここは後者。

600に賣れる」単位は不詳だが、この記載は人身売買の匂いが私には、する。

「M」情報提供者のイニシャルか。]

 

○鼠島 教會 島民鷄をかふ 饅頭うりの婆を斷る 婆猫をすてる 猫鷄を食ふ(蒲原)

[やぶちゃん注:「鼠島」この名を持つ島は複数あるが、次に「教會」とあることから、長崎港の入口にある「鼠島」の通称で親しまれていた旧「皇后島」(現在は埋め立てによって陸続きとなってしまった)のことではるまいか? みさき/michito氏のブログ「みさき道人長崎・佐賀・天草etc.風来紀行「ねずみ島(皇后島)の今昔」に「長崎市史」から引用(一部、混入する新字体の漢字を正字化した)、『鼠島は往時野鼠の發生多く作物悉く其の食ひ盡す處となつたので其の稱を得たと云ふ。又其の地戸八浦の西北に當るを以て子角(ネスミ)嶋と唱へた。外人等はフイセルアイランドと稱すと云ふ。又皇后島と稱す。昔三韓征伐の途此の島に繿を繫け給ひしにより後人皇后島と稱し、その音によりて佝僂嶋と書くものがあるのは誤である』。『安政二年二月外國人遊步場として本島を外人に開放した。蓋當地に於て否日本に於ける一般外人上陸開放の嚆矢であらう』。『明治三十六年七月』『瓊浦遊泳協会を組織し』『遊泳術教授に努むると共に一般人の海事思想普及上進に努めて居る』とあるそうである。「フイセルアイランド」とは恐らく、オランダ商館員であったヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセルJohan Frederik van Overmeer Fisscher 一八〇〇年~一八四八年)に因むものであろう。文政三(一八二〇)年にオランダ東インド会社一等社員として来日し、長崎出島のオランダ商館に務め、文政一二(一八二九)年に離日後、一八三三年にアムステルダムで見聞録を出版、日本の紹介に尽くした。著作に「日本風俗備考」「フィッセル参府紀行」がある。

「蒲原」この島が長崎のそれなら、恐らくは芥川龍之介に師事し、芥川龍之介編になる「近代日本文芸読本」の編集を始めとして多くの仕事を手伝った、長崎出身の小説家蒲原春夫(明治三三(一九〇〇)年~昭和三五(一九六〇)年)と見てよいと思う。昭和二(一九二七)年に「南蛮船」を刊行、芥川の没後は長崎で古本屋を営んだ。]

 

○猫の一生 都會の猫は鼠をまづしとす 肉 刺身 鹽 餓ゑると反對に鼠をとらず

[やぶちゃん注:これは(大正一六(一九二七)年一月『文藝春秋』)の冒頭の「猫」の構想メモ。以下に当該章を総て引く(リンク先は私の古い電子テクスト)。

   *

      一 猫


 彼等は田舍に住んでゐるうちに、猫を一匹飼ふことにした。猫は尾の長い黑猫だつた。彼等はこの猫を飼ひ出してから、やつと鼠の災難だけは免れたことを喜んでゐた。

 半年ばかりたつた後、彼等は東京へ移ることになつた。勿論猫も一しよだつた。しかし彼等は東京へ移ると、いつか猫が前のやうに鼠をとらないのに氣づき出した。「どうしたんだらう? 肉や刺身を食はせるからかしら?」「この間Rさんがさう言つてゐましたよ。猫は鹽の味を覺えると、だんだん鼠をとらないやうになるつて。」――彼等はそんなことを話し合つた末、試みに猫を餓ゑさせることにした。

 しかし、猫はいつまで待つても、鼠をとつたことは一度もなかつた。そのくせ鼠は毎晩のやうに天井裏を走りまはつてゐた。彼等は、――殊に彼の妻は猫の橫着を憎み出した。が、それは橫着ではなかつた。猫は目に見えて瘦せて行きながら、掃き溜めの魚の骨などをあさつてゐた。「つまり都會的になつたんだよ。」――彼はこんなことを言つて笑つたりした。

 そのうちに彼等はもう一度田舍住ひをすることになつた。けれども猫は不相變少しも鼠をとらなかつた。彼等はとうとう愛想をつかし、氣の強い女中に言ひつけて猫を山の中へ捨てさせてしまつた。

 すると或晩秋の朝、彼は雜木林の中を歩いてゐるうちに偶然この猫を發見した。猫は丁度雀を食つてゐた。彼は腰をかがめるやうにし、何度も猫の名を呼んで見たりした。が、猫は鋭い目にぢつと彼を見つめたまま、寄りつかうとする氣色も見せなかつた。しかもパリパリ音を立てて雀の骨を嚙み碎いてゐた。

   *]

 

head light に照らされたる葬用自動車

[やぶちゃん注:下方の一項は芥川龍之介の死後、最初の全集で公開された怪奇談集「凶」(執筆自体は末尾クレジットに従うなら、大正十五(一九二六)年四月の作)の冒頭に載る奇談である。短いので私の電子テクスト(リンク先)より、その箇所のみを以下に引く(但し、読み(リンク先のそれは総ルビ)は一部に限った)。

   *

 大正十二年の冬(?)、僕はどこからかタクシイに乘り、本郷通りを一高の橫から藍染橋(あゐそめばし)へ下らうとしてゐた。あの通りは甚だ街燈の少い、いつも眞暗な往來である。そこにやはり自動車が一臺、僕のタクシイの前まへを走つてゐた。僕は卷煙草を啣へながら、勿論その車に氣もとめなかつた。しかしだんだん近寄つて見みると、――僕のタクシイのへツド・ライトがぼんやりその車を照らしたのを見ると、それは金色(きんいろ)の唐艸(からくさ)をつけた、葬式に使ふ自動車だつた。

   *]

 

○苦痛と悲哀の表情筋の發達せざる爲、上つ方は氣品ある顏をなす

Africa の島の酋長の妻

Mohamedan の天幕の人にあふ 東より來る 熱からう(兄弟よ)

[やぶちゃん注:「Mohammedan(イスラム教)の別綴り。]

 

○ヒマラヤに Italy の植物學者 菓子器やける

○ボンベイ 海紅 洗濯屋

Mohamedan の寺の前の池 池のまはりに人集りまはりては仆る。最後にのこりしものを宗教上の先達 椰子

[やぶちゃん注:「仆る」「たふる」。倒れるの意。]

 

Indian. 蟻にてもかける

[やぶちゃん注:意味不詳。何らかの民族伝承的行為か。砂絵か?]

 

Misfortune of women. go-between ニ校長ナル 女ノ選擇權ナシ(婦人小説)

[やぶちゃん注:「Misfortune of women.」女性の不幸。「go-between」仲人(なこうど)か。]

 

○上野――しのの井(朝)――松本〔――島々(馬車)〕――白骨(夕)――乘鞍――白骨――阿房――平湯(夕)――高山(夕)――宮峠――下呂(ゲロ)(夕)――中山七里――金山峠――金山(夕)――電車――岐阜

[やぶちゃん注:「(ゲロ)」は「下呂」のルビ。以下、私が行ったことがあって、また、脳内の地図上で確かに認知出来る場所は原則、注をしなかった。

「しのの井」篠ノ井。長野県長野市篠ノ井布施高田にある現在のJR東日本の信越本線「篠ノ井」駅。

「阿房」これは現在の岐阜県高山市と長野県松本市の間にある松本市の「安房」(あぼう)峠のことであろう。国道百五十八号が通り、標高は千七百九十メートル。

「平湯」「ひらゆ」と読む。現在の岐阜県高山市の奥飛騨温泉郷にある平湯温泉。

「宮峠」「みやとうげ」と読む。岐阜県北部にある高山盆地の南縁で分水界を成す飛騨山地の鞍部に位置する峠(高山市南部)。標高 七百七十五メートル。高山と美濃を結ぶ益田街道上にあって古来交通の要衝を成す。現在は国道四十一号線が通る(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「中山七里」「なかやましちり」と読む。岐阜県にある飛騨川中流の渓谷。ウィキの「中山七里」によれば、『岐阜県下呂市を流れる木曽川支流の飛騨川の中流に沿って、下呂市三原の帯雲橋(たいうんきょう)から同市金山町金山の境橋にかけて続く、全長約』二十八『キロメートルの渓谷。急峻な山地を飛騨川が浸食してできた渓谷で、奇岩や怪石が数多くあり、また春は桜や岩つつじ、夏はホタル、秋は紅葉と、四季折々の風景に富む観光名所となっており、「屏風岩」「羅漢岩」「孝子の池」などが有名である』。『名称の「中山七里」は、豊臣秀吉の武将で飛騨一国の国主となった金森長近が、五つもの峠を越える旧道がいかにも不便なことから』、天正一四(一五八六)年に『秀吉の許しを得て下呂と飛騨高山を結ぶ飛騨街道の建設に着手、険しい山中の飛騨川沿いの難所を約七里にわたって開いたことに由来する』とある。

「金山峠」「かまやまとうげ」であろうが、不詳。中山七里から金山へは峠を越える必要はなく、益田街道か高山本線を南へ下れば、普通にすぐ着く。不審。

「金山」旧岐阜県益田郡金山町(かなやまちょう)。現在、下呂市。]

 

○小穴のコマ(獨樂)の話

[やぶちゃん注:盟友の画家小穴隆一の談であろう。]

 

○軍曹 右の上膊に貫通創 國へはひれりと思ひほつとす

○髓操の教師 その子中學に入る 校長の子も入る 二人とも下手 六時目髓操 4 or 5年生來て見る 二人とべず 二人殘す 殘しても飛べず かへり遲し 校内運動場にある木馬を獨り習ふ爲 その旨を妻 夫に語る 子供轉校したしと云ふ

暴力ぎらい   梅崎春生

 

 福岡市は私の故郷である。いや私の故郷は福岡市である。言葉にすれば同じようなものだが、ニュアンスが少しちがう。

 私は福岡市に生れ幼時を福岡市に過した。福岡を私は大好きであった。青春に私は福岡が嫌いになった。福岡を脱出しようと思い、福高(旧制)を受けずに、熊本の五高をうけた。

 五高から九州大学に行かずに、東京大学に行った。だから私の思い出は中学(修猷館)までということになる。

 戦後また福岡が好きになる。二年に一度ぐらいおとずれる。しかしもはや家はない。旅人としてである。

 室生犀星の詩に、

 

  ふるさとは遠きにありて思ふもの

  そして悲しくうたふもの

  よしや

  うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても

  帰るところにあるまじや

 

 とうたった心境が私の青春期にもあったわけだ。私の生れた頃の福岡は人口十万ぐらいの都市であった。那珂川をはさんで福岡と博多に分れていた。今はそんな区別はない。なにしろやたら広がって、人口も十万から七十万近くなった。那珂川なんかもののかずではなくなった。なにしろ私が小学校時代遠足に行った香椎や今宿が、今や住宅街になっている。

 昔日の姿は無いのである。

 私は簀子(すのこ)町に生れ、荒戸町四番丁で育った。西公園の下である。親父は二十四連隊の将校で、毎日馬で連隊に通った。当時連隊は福岡城(舞鶴城)にあった。今はそこが競技場や平和台球場になっている。私は簀子小学校に通っていた。私の家の前は、九州女学校である。その九州女学校から私の家が見下ろせた。(その頃の九州女学生は今は六十位のおばあさんになっているだろう。)その視線をさけるために家ではいろんな果樹を栽培した。実に沢山の果樹があった。柿(二本)、ザボン、金柑子、夏蜜柑(みかん)(三本)、蜜柑、ビワ(三本)、ダイダイ、イチジュクその他いろいろ。お隣の中山さんとの垣根は竹で、春になるとたけの子が生えた。家の前には下水溝があり石垣で作られていた。そこでは小さな魚が泳ぎ、石垣の穴には赤い弁慶蟹が数千匹住んでいた。この家は今でもある。しかし裏庭は他の家が建っている。下水溝は埋められて、なくなっている。十日ほど前私は福岡に行き、家をみて来た。溝に住んでいた蟹や魚たちは何処にいったのか。滅びてしまったのか。感傷が私の胸を突きさす。

 私がよく泳ぎにいったのは西公園の下の伊崎の浜である。今とちがってその頃は、海水が透きとおり二メートルぐらいは、みとおせた。泳ぎがあきると私たちは、魚を釣ったり、伊崎の漁夫の地引網の手伝いをした。手伝いをすると、バケツ一杯ぐらい雑魚をくれた。

 メバルやボラ、ハゼ、キスゴやセイゴなどが釣れた。また大濠に行ってフナやコイやウナギを釣った。また福岡港(当時は漁港)のドン打ち場(午砲)附近の波止場でいろんなものが釣れた。現代の子供のようにテレビもなくラジオもなく、遊ぶ対象は自然であった。だから夜は八時頃寝た。はたして今の子供たちとどちらが幸福だろうか。

 春秋には遠足がある。お弁当はにぎり飯で、黒ゴマをまぶしてある。おかずはせいぜいコオナゴ(福岡ではカナギという)のつくだ煮と、タクアン(コンコンとよんだ)ぐらいのもので、勿論電車やバスはつかわず歩いていって歩いて帰って来た。前記の香椎や今宿、あるいは竹下などである。

 太宰府まで往復歩いたこともある。これは修猷館時代のことだ。

 先日の旅行で観世音寺に寄った。あそこらもみんな畠だったのに今では家が建っている。

 

  菜の花の花ばたけに 入り日うすれ

  見わたす山の端 霞ふかし

  春風そよふく 空をみれば

  夕月かかりて におい淡し

 

  さとわの燈影も 森のいろも

  田中の小みちを たどる人も

  かわずのなく音も 鐘の音も

  さながらかすめる おぼろ月夜

 

 その歌をうたうたびに、私はその頃の観世音寺附近の景観をありありと思い浮べる。今はその面影もない。鐘の音だけが昔のままである。

 修猷館の校風といおうかモットーといおうか、それは「質朴剛健」というのである。それから五高は「剛毅朴訥(ぼくとつ)」という。私は質朴剛健でもなければ剛毅朴訥でもなかった。硬派でも軟派でもなく、平凡でめだたない生徒にすぎなかつた。美貌と若さをほこるような生徒でもなかった。そのかわり丈夫で長もちするたちである。

 その修猷館時代に、私は福岡が厭になった。福岡というより学校が厭になったのである。修猷館は、九州の名門校と今はいわれているが、昔も名門校であった。けれども当時の修猷館は野蛮でファッショ的傾向があった。軍人や政治家になった者は沢山いたが、文学に志す者など寥々(りょうりょう)たるもので、文士といえば故豊島与志雄先生、つづいて私、若い世代では宇能鴻一郎君ぐらいしか出ていない。校則はきびしくて和服で街も歩けない。父兄同伴でなければうどん屋にも入れない。私の弟忠生は、友だちとうどん屋に入り金が無くて食い逃げし、それが学校に知れて退学になった。それから忠生は東京に奉公に行き、兵隊にとられて蒙古で自殺をした。この話を軸に私は「狂い凧」という小説を書いた。余裕があれば買って読んでもらいたい。つまり修猷館の校則が忠生を自殺に追いやったのである。私はその修猷館を憎んでいる。

 校則だけでなく校風も厭であった。新学期はじめに、今でいう部活動をしている以外の者は、応援の練習と称して裏の百道(ももじ)松原で数十日にわたって、応援歌の練習をさせられた。つまり応援というよりは下級生いじめなのである。その間に時々個人的にひっぱり出され、鉄拳制裁をうけるのだ。軍隊と同じで、反抗は出来ない。一人を数人がかりでなぐったり蹴ったり、押したおして顔を下駄でふみにじるのだ。血がだくだく出て白砂に吸いこまれる。

 私は一度も鉄拳制裁をうけたどとはない。しかし何十度となくその現場を見て、暴力を呪った。その気持は今でも同じである。私の戦争ぎらいはその暴力ぎらいから来ているのだろう。その暴力から逃げるために、私は四年の時福高を受けた。しかしおっこちた。五年になって我をはって福高をうけずに五高をうけた。そしてとおった。

 五高は「剛毅朴訥」をモットーとしていたが、そういうものではなかった。修猷館にくらべるとはるかに自由で、気楽な学校であった。

 私ははじめて青春の楽しさを感じ、文学に志すようになった。

 福岡市内には西公園と東公園がある。西公園に登ると博多湾が一望に見渡せる。海の中道。志賀島。能古島。鵜来島など。こんな美しい湾をもった都市は日本でも数えるほどしかあるまい。夏になると西公園に行って蟬(せみ)をとった。東京にはいないが、そこには熊蟬がいる。私たちはそれをワンワンと呼んだ。ワンワンと鳴くからである。シャアシャア蟬と呼ぶ地方もある。大きな蟬で油蟬の三倍ぐらいあって、つかまえて頭を手にもつと、羽翅(はね)をふるわせて、ワンワンと鳴きさけぶ。その震動で手がふるえる程であった。

 冬は福岡では雪が降らない。降ってもすぐ消えてしまう。そこでスキーやスケートは出来ない。だから冬の戸外での遊びはというと凧あげか独楽(こま)まわし。独楽は名島独楽といって福岡独特のものがある。それを敵のまわっている独楽にぶっつけて割ってしまう。その割るのが私の得意の芸だった。

 正月の雑煮は東京風とちがって丸餅を使う。それからブリとかカツオ菜とかいろんな野菜を入れる。親戚の家にいって雑煮を御馳走になり、あと百人一首とかトランプとか加留多とかとるのが正月の楽しみであった。

 オキウトというのを人はあまり知らないだろう。海藻からとった食べものである。朝早く子供が、

 「オキュウトわい」

 「オキュウトわい」

 と売りに来る。花がつおをかけて食うのだが、味はたんぱくでまあ味が無いといってもよろしい。それをおかずに朝めしを食うのである。もっとも私の家は父母とも佐賀の出で、朝は茶がゆに高菜の古漬をおかずにして、さらさらとすする。昼は弁当。おかずは蒲鉾の煮たのにコンコンぐらいのものだ。福岡の蒲鉾(かまぼこ)はおいしい。(今はどうか知らない。)スボつき蒲鉾など逸品であった。蒲鉾製造株式会社などはなく、各魚屋で自家製のを売った。一本五銭だったと思う。

 うどん。これがまた逸品。東京ではうどんなどは車夫馬丁が食うものだと思っているようで、そばを尊ぶ。福岡ではそばも食わせるが余りうまくない。うどんが主体なのである。これも一杯五銭か三杯十銭である。汁はうす味でやたらに旨(うま)い。この間食べて来たが、あんまりうまいので東京生れの女房もびっくりしていた。思うに、そばは寒冷の地に育つ。つまり地味がやせている所にしかとれないのだ。それだけ福岡の風土は豊かなのである。

 米もうまい。天下第一等の米は肥後の菊池米といわれているが、九州全土平均してどの県もうまい。

 それからフグ。本場である。福岡では街の魚屋でも売っている。それを買って帰って手料理で食うのである。先日福岡にいった二日前、相撲の佐渡ヶ海がフグ中毒で死んだが、あれは福岡人じゃないので、料理の仕方をまちがえたのである。福岡人は料理の仕方をよく知っている。だから魚屋でフグを売っているのである。しかも値段が安い。東京でフグ料理を食うと、目玉のとび出るほどとられるが、九州では大衆魚である。福岡では安くてうまいのが、フグという魚の特徴である。

 水たき。これも福岡のもの。

 それから福岡の女。これがまた逸品である。情に厚くて濃(こま)やかで夫人型である。今福岡の特徴や文化は殆ど失われ、支店文化になってしまった。

 で、東京から若い男が赴任してくる。昔は菅原道真が福岡に流されたように、福岡は辺土であった。私の中学時代も急行で行って、東京まで一昼夜以上かかった。今はジェット機で一時間である。流されたという気分は全然しない。その若い男が博多の女に惚れられて、あるいは惚れて一緒になる。そして仲よくくらす。男は一生幸福である。それほど福岡の女は優秀なのである。

 さきに支店文化と書いたが言葉づかいも、テレビやラジオによって東京化されて来た。

 それでもまだいくらか残っている。

 編集者から電話がかかって来る。

「梅崎先生ですか」

 先生をシェンセイと発音する。それで忽ち九州人だとわかる。

「あのですねえ……」

 とくれば大体福岡人である。

 博多弁の特徴はちょっと語り難い。熊本弁はドイツ語に似ている。鹿児島弁は、知らない人は驚くと思うが、フランス語の様にやわらかいのである。博多弁は、どちらかというと女性的である。男でも、

「なになにしなさい」

 というところを、

「なになにをおしがっしゃい」

 というのだ。私が中学校時代プールに石を投げ込んで遊んでいると、上級生の恐いのがやって来て、

「なんばしよるとな?」

 というので、私が恐縮してだまっていると、その上級生は、

「これからそげなことせんごとおしがっしゃい」

 といい捨ててどこかに行ってしまった。おこる時でもかくの如く言葉は優しいのである。

 しかし今は(おしがっしゃい)という言葉も滅びてなくなった。これすべて支店文化のせいであり、テレビ・ラジオのせいである。

「ふてえがってえ」

 という言葉もある。意味はない。驚いた時とかあきれた時に、使う間投詞である。

 この間福岡に帰った時、旧友に、

「今でもそんな言葉つかうのか?」

 と訊ねたら、

「もう近頃あんまり聞かんな」

 と答えた。私はびっくりして曰く、

「ふてえがってえ」

 このあいだは福岡に二晩泊った。一晩は中洲の和風旅館、翌日はそのお隣の日活ホテル。和洋南風の味を味わったわけだ。二日目の夜は、修猷館の同窓生たちが会を開いてくれ、フグを食べさせられた。佐渡ヶ海の死んだ直後なので、少しためらったら、

「お前はあたるとでも思っているのか」

 と笑われた。さすがに博多のフグはうまかった。そのあと「フクロウ」というバーで、大酒を飲んだ。ここのマダムが、私の簀子小学校の後輩である。博多を訪れる人があったら、是非立寄って頂きたいと私はねがう。マダムは美人だし、酒もそれほど高くない。

 飲みすぎたせいか、翌日は二日酔で、南高宮の医師山崎図南君に注射してもらった。山崎君は修猷館出の同級生である。やはり、故郷はありがたいものだ。

 注射のおかげで気分回復、午前のジェット便で一時間後には東京に戻った。同じジェット機で、漫画家の清水崑さんと一緒だったが、あれは相撲のために来福したのだろうか。つい聞くのをわすれた。

 しかしコンさんも、齢をとったなあ。白髪雨害を被り、肌膚また実たらず。陶淵明の詩のその感を深うした。

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年三月刊の『えきすぷれす』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「福高(旧制)を受けずに、熊本の五高をうけた」後で事実(「私は四年の時福高を受けた。しかしおっこちた。五年になって我をはって福高をうけずに五高をうけた。そしてとおった」が正確な事実)を語っているように受けなかったわけではなく、県立福岡高等学校を受験したものの、不合格で一浪、翌昭和七(一九三二)年に熊本五高を受けて合格、同年四月に文科甲類に入学したのである。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや」室生犀星の第二詩集「抒情小曲集」「小景異情」の全六章からなる「その二」の前半部である。この箇所のみが知られ、全体が読まれることが少ない(高校の教科書でさえ全篇を載せないものが多かった)ので、以下に総てを示す。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの初版(大正七(一九一八)年感情詩社刊)のそれを視認した(「かたい」のルビはママ。歴史的仮名遣では「かたゐ」が正しい)。

   *

 

 小景異情

 

  その一

 

白魚はさびしや

そのくろき瞳はなんといふ

なんといふしほらしさぞよ

そとにひる餉(げ)をしたたむる

わがよそよそしさと

かなしさと

ききともなやな雀しば啼けり

 

  その二

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても

歸るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ淚ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

 

  その三

 

銀の時計をうしなへる

こころかなしや

ちよろちよろ川の橋の上

橋にもたれて泣いてをり

 

  その四

 

わが靈のなかより

綠もえいで

なにごとしなけれど

懺悔の淚せきあぐる

しづかに土を掘りいでて

ざんげの淚せきあぐる

 

  その五

 

なににこがれて書くうたぞ

一時にひらくうめすもも

すももの蒼さ身にあびて

田舍暮しのやすらかさ

けふも母ぢやに叱られて

すもものしたに身をよせぬ

 

  その六

 

あんずよ

花着け

地ぞ早やに輝やけ

あんずよ花着け

あんずよ燃えよ

ああ あんずよ花着け

 

   *

「那珂川」「なかがわ」と読む。現在の福岡県福岡市早良(さわら)区大字板屋(いたや)の脊振山(せふりさん)に源を発し、南東に流れて筑紫郡那珂川町と佐賀県神埼(かんざき)郡吉野ヶ里町(よしのがりちょう)との県境を形成している。下流の福岡市博多区住吉附近で二手に分流して中州を形成し、ここを「中洲」と呼称、福岡県のみならず、九州最大の歓楽街として知られる。東側分流を博多川と称するが、下流の須崎橋付近で再び本流那珂川と合流する。中洲の左対岸の天神も繁華街として知られる。

「人口も十万から七十万近くなった」現在(二〇一六年)の福岡市の人口はこの当時(一九六四年)の二倍を越え、約百五十五万人で、その人口増加数は地方都市では第一位、全国では東京二十三区に次いで第二位である。

「香椎」「かしい」と読む。現在の福岡県福岡市東区の北部に位置し、神功皇后所縁の「香椎宮(かしいぐう)」があって古い歴史を持つ一方、戦後は海岸部の埋め立てが進み、福岡市東部の副都心の一つとなっている(ウィキの「香椎」に拠った)。

「今宿」「いまじゅく」と濁る。現在の福岡市西区の地名。旧糸島郡。ウィキの「今宿(福岡市)」によれば、『博多湾の内湾である今津湾の奥部に面し』、『北に向かって開けた平地部にあり、西区内では西部の副次的中核地域になっている』。

「簀子(すのこ)町」既注。「すのこまち」と読む。現在の中央区大手門簀子地区。名の由来など、梅崎春生の「水泳正科」の私の注などを参照されたい。

「荒戸町」旧簀子小学校(統廃合で閉校)前の那の津通りを西に三百メートルほど行くと、現在の福岡市中央区荒戸地区である。生地の簀子町の隣りと言ってよい。これらの町の位置関係は梅崎春生の「昔の町」辺りを読むと概ね判る。

「親父は二十四連隊の将校」梅崎春生の父梅崎健吉郎は春生の生まれた当時は陸軍士官学校十六期出身の歩兵少佐であった。

「九州女学校」私立九州高等女学校。現在の福岡市中央区荒戸三丁目にある私立の女子校である福岡大学附属若葉高等学校の前身。

「弁慶蟹」甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ上科ベンケイガニ科ベンケイガニ属ベンケイガニ Sesarmops intermedium 

「伊崎の浜」現在の福岡県福岡市中央区伊崎附近と思われるが、現在の行政上地名の伊崎は埋立てによって内陸化しており、現在の伊崎漁港(福岡市中央区福浜)の東(福岡都市高速環状線の海側)に広がる浜の手前の陸側に相当するかと思われる。梅崎春生の「伊崎浜」を参照されたい。

「キスゴ」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae のキス類、或いは狭義では知られたキス科キス属シロギス Sillago japonica の異名。

「セイゴ」出世魚のスズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus の呼称の一つであるが、この呼称は地方によって異なる(例えば関東では全長二十センチから三十センチ程度までのものを「セイゴ」(鮬)と呼ぶようだが、私の一般的認識では、もっと小さな五センチから十八センチのものを「セイゴ」と呼ぶように思う)。ただ、ここでは小学生が釣るものであるから、ごく幼魚の小型のスズキの、子ども仲間での通称であろうとは思う。

「福岡港(当時は漁港)のドン打ち場(午砲)」梅崎春生の「午砲」(「どん」と読む)が思い出される。

 

「コオナゴ(福岡ではカナギという)」スズキ目イカナゴ亜目イカナゴ科イカナゴ属イカナゴ(玉筋魚/鮊子)Ammodytes personatus のこと。本種は異名が多く、東日本では稚魚を「コウナゴ(小女子)」、西日本では同じものを「シンコ(新子)」と呼び、成長した個体は北海道では「オオナゴ(大女子)」、東北で「メロウド(女郎人)」、西日本では「フルセ (古背)」、「カマスゴ(加末須古)」、春生の言う「カナギ(金釘)」などとも呼ばれる。「カナギ(金釘)」という呼称は恐らく、イカナゴの幼魚(新子)の調理法として知られる、醤油や味醂・砂糖・生姜などで水分がなくなるまで煮込んだものが、茶色く曲がって「錆びた釘」に見えることによるものと思われる(所謂、「釘煮」である)。

「タクアン(コンコンとよんだ)」「お新香」「香の物」「香香(こうこう)」から「こうこ」「こうのもん」などとなり、音変化して「こんこ」「こんこん」となったものであろう。

「竹下」福岡県福岡市博多区竹下か。直線で五キロほどある。

「太宰府」修猷館中学からは直線でも十八キロメートルほどある。

「観世音寺」太宰府跡東方、現在の福岡県太宰府市観世音寺にある天台宗清水山(せいすいざん)観世音寺のこと。

「菜の花の花ばたけに 入り日うすれ/見わたす山の端 霞ふかし/春風そよふく 空をみれば/夕月かかりて におい淡し//さとわの燈影も 森のいろも/田中の小みちを たどる人も/かわずのなく音も 鐘の音も/さながらかすめる おぼろ月夜」文部省唱歌「朧月夜」(作詞:高野辰之・作曲:岡野貞一)。大正三(一九一四)年(春生の生年の前年)の「尋常小学唱歌 第六学年用」に初出する。

    *

 

一、

菜の花畠に 入日薄れ

見わたす山の端(は) 霞ふかし

春風そよふく 空を見れば

夕月(ゆふづき)かかりて にほひ淡し

 

二、

里わの火影(ほかげ)も 森の色も

田中の小路(こみち)を たどる人も

蛙(かはづ)のなくねも かねの音も

さながら霞める 朧月夜

 

   *

「里わ」は「里曲・里廻・里回」で本来は「里曲」が元であって、「さとみ」と読むのが正しいが、それがかく平安時代以降蜿蜒と誤読されて「さとわ」と慣用読みになってしまったもの。意味は「人里のある辺り」。

「質朴剛健」誠実でしかも飾り気(け)がなく、逞(たくま)しい上にしっかりしていること。

「剛毅朴訥」気性が強く、決して屈しぬ心の持ち主で、無口で飾り気なく無骨なこと。「質朴剛健」と何ら変わらぬ。

「寥々(りょうりょう)たる」もの淋しいさま。

「故豊島与志雄」仏文学者で作家の豊島与志雄(明治二三(一八九〇)年~昭和三〇(一九五五)年)は福岡県下座郡福田村大字小隈(現在の朝倉市小隈)生まれで、修猷館から第一高等学校、東京帝国大学文学部仏文科を出た。梅崎春生より二十五先輩で、心筋梗塞のため、この九年前に満六十四で亡くなっている。

「宇能鴻一郎」(昭和九(一九三四)年~)は北海道札幌市出身。ウィキの「宇能鴻一郎」によれば、昭和三〇(一九五五)年に県立修猷館高等学校(新制)から東京大学文科Ⅱ類に進学、同学文学部国文学を卒業後、同学大学院に進学、学位論文「原始古代日本文化の研究」で文学修士となり、昭和四三(一九六八)年に同大学院博士課程を満期退学している。『大学在学中に『半世界』の同人』 となり、昭和三六(一九六一)年には『自らの同人誌『螺旋』を創刊。同誌に発表した短篇『光の飢え』が『文学界』に転載され、芥川賞候補作となった』。翌年、鯨神で第四十六回『芥川賞受賞。同作は直ちに大映で映画化された(監督:田中徳三、主演:本郷功次郎、勝新太郎)』。『濃厚なエロティシズムを湛えた文体と、評論や紀行文等で見せる博覧強記ぶりも知られ』たが、後は『純文学の筆を折り、官能小説の世界に本格的に身を投じた』。『「あたし〜なんです」等、ヒロインのモノローグを活用した独特の語調は、夕刊紙やスポーツ新聞への連載で一時代を築き、金子修介の劇場公開初監督作品『宇能鴻一郎の濡れて打つ』など、数十本が日活ロマンポルノなどで映画化されている』。二〇一四年には「夢十夜」で『純文学作家として復活』した、とある。

『私の弟忠生は、友だちとうどん屋に入り金が無くて食い逃げし、それが学校に知れて退学になった。それから忠生は東京に奉公に行き、兵隊にとられて蒙古で自殺をした。この話を軸に私は「狂い凧」という小説を書いた。余裕があれば買って読んでもらいたい。つまり修猷館の校則が忠生を自殺に追いやったのである。私はその修猷館を憎んでいる』忠生のことはここまでの随筆でも何度も出てきた。「狂い凧」はこの記事の前年、昭和三八(一九六三)年『群像』一月号から同年五月号に連載されている。梅崎春生にしてはかなり激しい言い方である。ただの自身の自信作の宣伝文句とは思われない。

「百道(ももじ)松原」百道浜(ももじはま)。かつては「百道松原」と称される松の人工林と海水浴場で知られたが、現在は埋め立てと宅地化が進んで海水浴場の面影は全くない。福岡市博物館公式サイト内の「百道浜ものがたり」がよい。

「西公園」現在の福岡市中央区にある公園及び地名。ウィキの「西公園(福岡市)によれば、公園は『全体が丘陵地で展望広場からは博多湾が一望できる。園内は自生のマツ・シイ・カシが茂り、またサクラ・ツツジが植栽された風致公園である。サクラは』約三千本が植えられている、とある。

「東公園」現在の福岡市博多区にある公園及び地名。梅崎春生の「幾年故郷来てみれば――福岡風土記――」に出た亀山上皇と日蓮上人の銅像が建つ公園である。

「海の中道」「うみのなかみち」と読む。現在の福岡市東区にある、志賀島(後注)と九州本土とを繋ぐ陸繋砂州。全長約八キロメートル、最大幅約二・五キロメートルの日本でも有数の巨大な砂州で、北が玄界灘、南が博多湾(ウィキの「海の中道」に拠る)。

「志賀島」「しかのしま」と清音で読む。現在の福岡市東区に所属する島で、博多湾北部に位置し、海の中道と陸続き。ウィキの「志賀島」によれば、『古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。また島内にある志賀海神社は綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮であ』るとある。

「能古島」「のこのしま」と「の」を補って読む。現在の福岡市西区に所属する島で、博多湾の中央に浮かんでいる。ウィキの「能古島」によれば、『大都市の目の前にありながら僅か』十分の『船旅で都会の喧噪を忘れられるとあって、福岡市民の身近な行楽地として親しまれる。福岡でも屈指の菜の花・桜・コスモス・水仙の名所で、満開のころは一年で最も混雑する』とある。

「鵜来島」「うぐじま」と読む。西公園西北の海岸近くに浮かぶ、ごく小さな島で、国土地理院の地図で現認出来る。福岡県中央区福浜一丁目に所属する。

「熊蟬」昆虫綱有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目頚吻亜目セミ型下目セミ上科セミ科セミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana facialis 。成虫の体長は六~七センチメートルほどで、アブラゼミ(次注)やミンミンゼミ(セミ亜科ミンミンゼミ族ミンミンゼミ属ミンミンゼミ Hyalessa maculaticollis)に比べると頭部の横幅も広い。「油蟬の三倍ぐらい」はやや大袈裟に聴こえるが、子どもの手の中での激しい運動やその質感或いは激しい鳴き声を加味して考えるなら、決しておかしくない感覚と思う。

「油蟬」セミ亜科アブラゼミ族アブラゼミ属アブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata 。成虫の体長は 五・六~六センチメートルで前者クマゼミよりも一回り小さい。

「名島独楽」「なじまごま」と読むと思われる。博多独楽は心棒に鉄を用い、現在の曲独楽の発祥地とされるが、ここで春生が言っているのは所謂、喧嘩独楽、本体が重厚な玉子型をした「佐世保独楽」の一種であろうか。「名島」は現在の福岡県福岡市東区の地名で、戦国時代の水軍の根城として知られた名島(なじま)城跡で知られる。

「カツオ菜」私の所持する二〇〇三年小学館刊の柳町敬直「食材図典 生鮮食材篇」の「カツオ菜」によれば、『福岡県の博多地方で古くから栽培してきた在来タカナで、タカナとしてはやや小さい。しかし、煮ると味がよく、正月の雑煮などに用いられ、かつお節のかわりになるとしてカツオ菜の名が』生まれたとし、『葉は鮮緑色で葉面に縮みがあり、質がやわらかで、』先に示した雑煮の他、『ちり鍋などには欠かせない野菜になっている』とある。これは私はフウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属カラシナ変種タカナ Brassica juncea var. integrifolia の改良品種か或いは地方変異、又は、それ以前にカラシナ Brassica juncea からタカナとは別系統か傍系で発生した変種ではないかと思う。困るのは、私の所持する書物及びネット上の記載の多くが「タカナの近縁種」とすることで、だとすると、学名は異なったものが無くてはならないのに、いくら調べても「カツオナ(鰹菜)」の学名が見当たらないのである。ウィキに「カツオナ」にあるが、上記以上のこれといった新情報は、ない。「ブラッシカ・ジュンセア」「ブラッシカ・シネンシス」を学名とするとするこんなページを見つけたが、「ブラッシカ・ジュンセア」は上記のカラシナの学名のまんまでしかなく、「ブラッシカ・シネンシス」に至っては、阿呆くさ、アブラナ属ラパ 変種タイサイ(チンゲンサイ)Brassica rapa var. chinensis の原種の種小名と変種指示を取り去った、実にいい加減な学名音写であって、信じるに足らぬ。識者の御教授を乞うものである(別種らしいけど、学名は実はついてないのかも知れんな)。

「オキウト」「オキュウト」既注であるが、流れで、再掲しておく。最近はスーパーでも普通に見かける全国区となった海藻加工食品であるが、元は福岡県福岡市を中心に食べられてきたもので、私の好物でもあり、海藻フリークの私としては注せざるを得ない。ウィキの「おきゅうと」から引くと、漢字では「お救人」「浮太」「沖独活」などとも表記されるそうで、『江戸時代の『筑前国産物帳』では「うけうと」という名で紹介されている』。『もともとは福岡市の博多地区で食べられていたようだが、その後福岡市全体に広がり、さらには九州各地に広がりつつある。福岡市内では、毎朝行商人が売り歩いていた』。『作り方は、原料のエゴノリ(「えご草」、「おきゅうと草」、博多では「真草」とも呼ばれる)』(紅色植物門紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属エゴノリ Campylaephora hypnaeoides)『と沖天(イギス、博多ではケボとも呼ばれる)』(紅藻綱イギス目イギス科イギス連イギス属イギス Ceramium kondoi)『やテングサ』(紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae に属する海藻類の総称であるが、最も一般的な種はテングサ属マクサ Gelidium elegans)『をそれぞれ水洗いして天日干しする』(状態を見ながら、干しは一回から五回ほど繰り返したりする)。この時の歩留まりは七割程度であるが、『この工程を省くと味が悪くなり黒っぽい色のおきゅうとができるため、手間を惜しまない事が重要である(ただし、テングサは香りが薄れるので自家用の場合は洗う回数を減らすことがある』)。『次に天日干しした』エゴノリと同じく天日干ししたイギス(或いはテングサ類)を、凡そ七対三から六対四の割合で混ぜて、よく叩く。『酢を加えて煮溶かしたものを裏ごしして小判型に成型し常温で固まらせる』。『博多では、小判型のおきゅうとをくるくると丸めたものが売られている』。『おきゅうとの良し悪しの見分け方として、あめ色をして、ひきがあるものは良く、逆に悪いものは、黒っぽいあめ色をしている。また、みどり色をしたものは、「おきゅうと」として売られているが』、全くエゴノリが『使われていないものもあり』、テングサ類が『主原料の場合は「ところてん」であり』、『「おきゅうと」ではない』(これは絶対で、舌触りも異なる)。『新潟県や長野県では』、エゴノリのみを『原料とした』殆んど「おきゅうと」と『製法が同じ「えご(いご)」「いごねり(えごねり)」が食べられている』。「おきゅうと」との『製法上の相違点は』、エゴノリを『天日干しせず、沖天を使用しないところである』。食べ方は、五ミリから一センチの『短冊状に切り、鰹節のうえに薬味としておろし生姜またはきざみねぎをのせ生醤油で食べるか、または芥子醤油やポン酢醤油やゴマ醤油などで食べるのが一般的である。もっぱら朝食の際に食べる』。この奇妙な『語源については諸説あり』、『沖で取れるウドという意味』・『キューと絞る手順があるから』・『享保の飢饉の際に作られ、「救人(きゅうと)」と呼ばれるようになった』・『漁師に製法を教わったため、「沖人」となった』、『などが挙げられる』とある。

「スボつき蒲鉾」スボは藁すぼ、麦藁(むぎわら)のこと。農民が作業の合間に食するのに、蒲鉾を汚れた手でも持てるように麦藁で巻いたものをかく言う。現在は多くが人工のストローの簀(す)に変わってしまった。

「肥後の菊池米」現在の熊本県菊池市(地域)産の米。サイト「菊池まるごと市場」の「菊池のお米・新米」によれば、『日本名水百選にも選ばれた菊池渓谷と、香りが高く甘味と食感のある美味しいお米の生産地として有名な熊本県菊池市。県北部を流れる菊池川の上 流に位置し、阿蘇外輪山に源流を持つなどいくつもの美しい水源があり、ミネラル分を含んだ豊富な湧水と肥沃な土壌、稲作りにふさわしい気候など、美味しいお米を作るに適した環境が整っています。菊池平野は 内陸の盆地で、朝夕の気温差が激しいため、お米の旨 味成分のひとつである澱粉が効率的に蓄えられます』。その美味しさは三百年前の『江戸時代から有名で、大阪のお寿司屋さんから特別な注文が来ていたと文献に残っているほど。天下の台所・大坂(現在の大阪市)堂島で取引される藩の蔵米中で、菊池米は特別な値がつくほど人気を博しておりました。東の大関が加賀米ならば西の大関が菊池米といわれ、米相場を決定する際の基準にも指定され、天下第一の米としてとても評判でした。将軍の御供米として、また、南北朝時代から後醍醐天皇への献上米として今に伝わっている伝統のあるお米です』とある。

「相撲の佐渡ヶ海がフグ中毒で死んだ」これはやや記載が不全。四股名としても誤りであり、仮に部屋名としても正しくない(「が」とあるから梅崎春生は明らかに四股名で書いている)。ウィキの「佐渡ヶ嶽部屋フグ中毒事件」より引く。これはこの記事(昭和三九(一九六四)年三月)の前年末、昭和三八(一九六三)年十一月十一日に大相撲佐渡ヶ嶽(さどがたけ)部屋で発生したフグ中毒による死傷事故を指す。同日午後九時十分頃、『現在の福岡市東区にあった佐渡ヶ嶽部屋の宿舎にて、夜の食事(ちゃんこ)としてフグを食べたところ、力士養成員』六名(三段目二名、序二段三名、番付外一名)に『中毒症状が発生』、六名『全員が救急搬送され、三段目の佐渡ノ花が』翌十二日に、序二段の斎藤山が同月十四日に死亡した中毒事故である(残る四名は生還)。六名は福岡市での大相撲十一月場所二日目を『終えた後、ちゃんこ番として他の関取がフグ鍋を食べ終わった後に、当時は食用を禁止されていなかったフグの肝を追加して食べていた』。四名は十一月場所を『途中休場し、また師匠である佐渡ヶ嶽は勝負検査役を担当していたが、事件の責任を取って検査役を退い』ている。『当時、十両から幕下に陥落していた長谷川(長谷川勝敏)も同日のちゃんこ番だったが、食事前から腹の調子が悪かったことから、ちゃんこ代わりとしてうどんを食べに外出していた。このため長谷川は奇跡的に難を逃れ、後に入幕、関脇まで昇進した』とある。その後、各地方条例によってフグ調理の安全管理が行われていったが、昭和五八(一九八三)年の厚生省通知により、全国的に毒のある危険な部位(例えばトラフグの肝臓・卵巣など)の的確な除去による消費者への提供が義務化された。ここで梅崎春生が書いている状況は、今から考えると、トンデモないことである。こんなだったのか、当時は! ちょっと吃驚、である。

「南高宮」現在の福岡市南区高宮か。

「山崎図南」国立国会図書館の書誌データで検索したところ、恐らく昭和三四(一九五九)年九月『医学研究』に「近年の女子の初潮と体格の推移」という論文を書いている山崎図南氏と同一人物であろうと思われる。同誌の出版社大道学館出版部の住所が福岡だからである。

「清水崑」(こん 大正元(一九一二)年九月二十二日=昭和四九(一九七四)年)は「河童の漫画家」として知られる。本名は清水幸雄。長崎県長崎市出身。福岡出身の「河童の作家」火野葦平とも親しかった(私は火野葦平「河童曼陀羅」の電子化も手掛けている)。

「白髪雨害を被り、肌膚また実たらず。陶淵明の詩のその感を深うした」陶淵明の知られた五言古詩の「責子」(子を責む)冒頭の二句であるが、恐らく、編者が春生の原稿を読み違えたものであろう、意味不明の「雨害」となっている。ここは「両鬢」である。編者さえしっかりしていれば、高校の漢文で習うことさえあるこの有名な詩を、こんな無様な誤植で晒すことはなかったろうに。コーダであるだけに、惜しい瑕疵である。

   *

 

  責子

 

 白髮被兩鬢

 肌膚不復實

 雖有五男兒

 總不好紙筆

 阿舒已二八

 懶惰故無匹

 阿宣行志學

 而不好文術

 雍端年十三

 不識六與七

 通子垂九齡

 但覓梨與栗

 天運苟如此

 且進杯中物

 

   子を責(せ)む

 

  白髮 兩鬢(りようびん)に被ひ

  肌膚(きふ) 復(ま)た(じつ)實ならず

  五男兒 有ると雖も

  總て 紙筆を好まず

  阿舒(あじよ)は已に二八なるに

  懶惰(らんだ) 故(もと)より匹(たぐ)ひ無し

  阿宣(あせん)は 行(ゆくゆ)く 志學なるも

  而も文術を好まず

  雍(よう)と端(たん)とは 年十三なるも

  六と七とを識(し)らず

  通子(つうし)は九齡(きゆうれい)に垂(なんな)んとするに

  但(た)だ 梨と栗とを覓(もと)むるのみ

  天運 苟(いやし)くも此(か)くのごとくんば

  且(しば)しは杯中の物を進めん

 

   *

淵明には実際に五人の男子があったが、ここに出るのは総て、その幼名。「實ならず」とは色艶(いろつや)が失われて弛(たる)できたことを指す。「懶惰」は「だらしがないこと・怠けること・怠惰の意。「二八」は掛算で十六歳。「志學」は十五歳のこと(「論語」「爲政篇」に基づく)。「六と七とを識らず」とは「六」と「七」との数の区別さえも出来ないの意であるが、足すと、彼らの年齢の「十三」になることから、それを洒落た謂いともされる。「苟くも」仮定の辞。「且(しば)しは」「かつうは」と訓じてもよい。「~せん」で呼応し、「まあ、~でもすることとしよう。」の意。]

諸國百物語卷之一 六 狐山伏にあだをなす事

     六 狐山伏にあだをなす事


Yamabusikitune

 ある山伏、大みねよりかけ出でて旅をしけるに、みちにて、狐、ゆたかにひるねしてゐけるをみて、たちより、耳のはたにて、ほらの貝をたからかにふきければ、狐、きもをつぶし、行きがたなく、にげうせけり。山伏もおかしくおもひて行くほどに、いまだ日も高かりしが、にはかに日くれ、野中のことなればとまるべき宿もなし。いかゞせんと思ふ所に、かたはらに墓所(むしよ)のありけるを、おそろしくはおもひけれども、せんかたなくこの墓所の天井にあがりて、その夜をあかしける。すでにその夜も夜半ばかりに、むかふのかたより火あまたみへけるが、しだいにちかくなるをみれば、此墓所へきたる葬禮なり。人數二三百人ほどうちつれ、そのてい美々(びゝ)しく、長老、引導をわたし、鉦(どら)、鐃鉢(めうはち)をならし、なかなかいかめしきとりをこなひにて、つゐに死人(しにん)に火をかけて、をのをの、かへりぬ。さて死人も、やうやうやけて、塵灰(ちりはい)とならん、と、おもふ折ふし、火の中より死人、身ぶるいしてたち出でける。山伏、これを見て、氣も、たましいも、うせて、とやせん、かくや、と、おもふ所に、かの死人(しにん)、火屋(ひや)の天井を見あげて、此山伏を見つけて、そろそろと、はいのぼる。山伏、いよいよおそろしくて身をちゞめゐけるに、かの死人、

「それには、なにとて、ゐるぞ」

とて、山伏を天井より、つきおとす。山伏も氣をとりうしなひ、しばらく絶死(ぜつじ)して、やうやう氣つき、目をあきてみければ、晝の七つ時分にて、ある野なかに、たゞ一人、ふしゐたりしが、腰のほねをうちぬきて、ほうほう、本國にかへりけると也。そのほらの貝にておどされたる狐、たちまちあだをなしけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻一の「十 狐を威(おど)してやがて仇をなす事」と同話。挿絵の右キャプションは「山伏狐のひるねをおどろかす事」。

「大みね」広義には、奈良県の南部の、古くから修験道の山として山伏の修行の場であった大峰山(おおみねさん:吉野山から熊野へ続く長い山脈全体の通称)であるが、ここは特に吉野郡天川村の旧名金峯山(きんぷせん)、山上ヶ岳(さんじょうがたけ:標高千七百十九メートル)とするべきであろう。この頂上付近には修験道の根本道場である一乗菩提峰大峯山寺(おおみねさんじ)山上蔵王堂があり、山全体が現在も聖域である。

「ゆたかに」如何にも警戒心なく、ゆったりと。

「墓所(むしよ)」読みは古語では普通。墓場。

「墓所の天井」ここは少し不親切である。後で「火屋(ひや)の天井」と言い換えているように、これは「火屋」(火葬場の付帯施設として墓所の傍らに立っている三昧堂(ざんまいどう:墓所にある葬儀用の堂)である。「曾呂利物語」では、その墓所の『三昧(さんまい)に行きて、火屋(ひや)の天井に上がりて臥しにけり』とある。

「引導」葬儀の際に僧が死者に解脱(げだつ)の境地に入るようにと法語を与えること。

「鉦(どら)」鉦(かね)。葬儀や法会(ほうえ)に用いる打楽器の一つ。金属性の円盤を紐で吊るしたもの。桴(ばち)で打って鳴らす。

「鐃鉢(めうはち)」現代仮名遣では「にょうばち」と発音する。やはり葬儀や法事の際に用いる打楽器。銅製で丸い皿のような、シンバルに酷似したもの。実際、二枚をシンバルのように打ち鳴らしたり、合わせて擦ったりして音を出す。

「いかめしきとりをこなひ」荘厳(そうごん)なる葬儀式。

「とやせん、かくや」「とやせん、かくやせん」の略。「とやせん」の「と」は接続助詞、「や」は詠嘆・反語の係助詞、「せ」はサ変動詞「為(す)」の未然形に推量の助動詞「む」がついて表記が「ん」と変わったもので、「かくや」は「このように」の意の副詞「斯(か)く」に前と同じ係助詞「や」がついたもので「どうしよう! どうしようもない!」の強調形驚愕表現、対処不能の心内の叫びである。

「それには、なにとて、ゐるぞ」「……オ前ハ……何ノタメニ……ソンナトコロニ……居ルクワッツ!?!」

「晝の七つ時分」不定時法で季節によって異なるが、挿絵の雰囲気、狐の昼寝から春秋と考えてよいでろうから、概ね申の刻前後、午後三時から午後四時辺りと考えてよかろう。

「ある野なかに」「と或る野中に」の意。

「腰のほねをうちぬきて」腰が抜けてしまって。]

2016/08/27

甲子夜話卷之二 9 蘭人獻上驢馬の事

2―9 蘭人獻上驢馬の事

寛政の比、驢を蘭人の官に獻じて、御厩の中に畜置れぬる由聞及ぬ。此事を思出れば、淸五郎に其形狀何にと問しに曰。鹿に似て較(ヤヽ)大なり。耳の長きこと壱尺ばかり。尾は枯て牛尾の如し。其餘は馬に異らず。蠻名をヱーシルスと云。予又乘用を問しに曰。其性鞍轡を受るに堪へず。因て驅行せん時は、繩を以て其首にかけて牽く。若し騎らんと爲るにも、手にて其耳をとり、徒(タヽ)脊に跨るのみ。然ども長ひくきが故に、乘者の足地につけり。因て足を屈して腹側につくれば、體の重さ倍するが故に、それを負こと能はず。脊傾て地につく。因て乘者の足地につけば、即跨下を脱け出づ。故に乘用に足らず。負ものゝかさ、僅に炭俵二つ位なりとぞ。某年小金に御狩せられし前、御召の御馬に鹿を見せ試んとて、御馬預り共の議せし時、急に野鹿を取獲べきならねば、比ヱーセルスを御厩の庭中に放ち、驅逐して御馬を試みしと云。然ば鹿に類して小なること想ひ料るべし。其走行くさま、跳ながら步すこと鹿に似たり。たゞ其行ことの遲きのみなり。又その尿、藥用になる迚、馬舍の内に樋を設て尿を取たりと。是以て思へば、唐畫に驢に騎たる人を圖したるは、此ヱーセルスにては非ざるか。本草者流にたゞし見るべきものぞ。又かの獸、馬舍の内にて子を産せりとなり。然ども牝多して牡少(マレ)なり。牽こと群行に非れば爲がたし。其聲高ふして轆轤の如く、甚きゝぐるしと云ふ。以上倶に鶴見氏が語なり。

やぶちゃんの呟き

 前項「28 富士馬の事」に登場した御馬預(おんうまあづかり)役の「鶴見淸五郎」からの聴き書きの完全連作。

「寛政」一七八九年から一八〇一年まで。第十一代徳川家斉の御世。

「驢」「ろ」。驢馬。哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属ロバ Equus asinusウィキの「ロバによれば、『中国には、全世界で飼育されているロバの』三分の一に『相当する頭数が飼われているにもかかわらず、古代から中国の影響を受けてきた日本では、時代を問わず、ほとんど飼育されていない。現在の日本のロバは』二百頭『という説もあり、多くとも数百頭であろう。極暑地から冷地の環境にまで適応し、粗食にも耐える便利な家畜であるロバは、日本でも古くから存在が知られていた。しかし、馬や牛と異なり、日本では家畜としては全く普及せず、何故普及しなかったのかは原因がわかっていない。日本畜産史の謎とまでいわれることがある』。『日本にロバが移入された最古の記録は』、「日本書紀」推古天皇七年(五九九年)、『百済からラクダ、羊、雉と一緒に贈られたとするものである。この時は、「ウサギウマ」』一疋が『贈られたとされ、これがロバのことを指していると考えられている。また、平安時代に入ってからも、幾つか日本に入ったとする記録が見られる。時代が下って江戸時代にも、中国やオランダから移入された記録がある。また、別称として「ばち馬」という呼び名も記されている』とある。

「蘭人の」この「の」は主格の格助詞。オランダ人が。

「官」幕府。

「畜置れぬる」「かひおかれぬる」。

「聞及ぬ」「ききおよびぬ」。

「思出れば」「おもひいづれば」。私(静山)が、このことをふと思い出しによって。

「何に」「いかに」。

「壱尺」三〇・三センチメートル。

「枯て」「かれて」。尾は馬と驢馬の最も形状が異なる箇所では、馬は全体がふさふさしているのに対し、驢馬はその先端にだけ毛が生えて(その尾の主幹の貧毛状態を「枯れて」と言っている)、しょぼく房状になっているだけである。

「ヱーシルス」驢馬はオランダ語では“ezel”(エーゼル)であるが、これはどうも学名の Equus asinus(エクゥス・アシヌス)という日本人には最も聴き取り難い発音(摩擦するs音が多い)を、かく聴き、かく音写したのではあるまいか?

「轡」「くつわ」。

「受る」「うくる」。装着する。

「騎らん」「のらん」。

「徒(タヽ)」「ただ」。

「跨る」「またがる」。

「長」「たけ」。丈。驢馬の体高(蹄から首の付け根まで)は七十九センチから高くても百六センチメートル程度で、概ね子どもの背丈ほどしかない。

「乘者」「のるもの」。

「足地につけり」「足(あし)、地につけり」

「因て足を屈して腹側につくれば」そこ(足が地面についてしまう状態を指す)で、騎手がその地面についてしまった足を曲げて驢馬の腹側にぴたりとくっつけてしまうと。

「體の重さ倍する」騎手の体重がそのまま丸ごと、地面に足がついている状態のほぼ二倍「負」「おふ」。

「脊傾て」「せ、かたむきて」

「即跨下を」「すなはち、こかを」「跨下」は股の下・またぐらの意。

「負ものゝかさ」「おふものの嵩(かさ)」。「嵩」は「量」でもよい。

「某年」「ぼうねん」。とある年。

「小金」「こがね」で、現在の千葉県北西部の松戸市北部の地区の古名。かつては水戸街道沿いの宿場町であったが、近世には江戸幕府直営の馬の放牧地「小金五牧(こがねごまき)」があった。

「御召の御馬に鹿を見せ試ん」「おめしのおんうまにしかをみせ、こころみん」。その時、将軍様が当日乗用することになっておられた御愛馬に「こやつに見たことがない鹿を見たなら、どのような反応を示すであろう? 事前に試みてその様子をみたい。」と仰せになった、というのであろう。自分の思うように操れないような過剰な反応を示して暴れるかも知れぬといった、不測の事態を想定したのである。家斉、なかなか用心深いぞ。

「御馬預り共の議せし時、急に野鹿を取獲べきならねば、比ヱーセルスを御厩の庭中に放ち、驅逐して御馬を試みしと云」直ちに御馬預(おんうまあずか)り役である我々が協議し、急に今すぐ、野生の鹿を「取獲」(「とりう」(獲得)と訓じておく)る(捕獲してくる)というのは、これ、とても出来難いことであるから、この野生の鹿と変わらぬ大きさである驢馬を、御厩(おんうまや)の庭の中に放って、我々がその驢馬を追い掛け回し、まさに鹿が飛び跳ねるようにさせて、御馬を試みて御座った、と鶴見が言った。

「然ば」「しからば」。

「料る」「はかる」。

「其走行くさま」「その走り行く樣」。

「跳ながら步すこと」「とびながら、あゆます(る)こと」。

「其行ことの」「その行くことの」。

「尿」「いばり」と訓じておく。薬効は不詳。但し、漢方では実際に「童子尿」として少年の小便が薬用に用いられており、民間でも健康法としての尿の飲用療法を今もよく耳にはする。

「樋」「ひ」或いは「とひ(とい)」。

「設て」「まうけて」。

「是以て思へば、唐畫に驢に騎たる人を圖したるは、此ヱーセルスにては非ざるか」これは驢馬には乗馬出来ないはずなのに、南蛮の驢馬の図には完全に蛮人が悠々と騎乗している。されば、それは「驢馬」と称しながら、実際の驢馬、即ち、ここで言っている「ヱーセルス」ではないのではないか? 驢馬であるはずの「ヱーセルス」とは違う別な「驢馬」がいるのではないか?

「本草者流にたゞし見るべきものぞ」本草学者(この場合は動物関係に詳しい博物学者)流(りゅう)に、種を判別考証同定し、異種か同種かを糺してしかるべき重大な問題であるぞ!

「馬舍の内」幕府の御馬預りの厩舎(きゅうしゃ)内。

「然ども」「しかれども」。

「牝多して牡少(マレ)なり」「メスおほくして、オス稀れなり」。これは単なるその♂♀のケースに過ぎない。ロバにそのような現象は見られないと思う。それはしかし、ロバ同士の場合である。いや、或いはこれは、厩の中でのロバがのウマと交雑して雑種を産んだのではないか? この場合、ロバが生んだとしか読めないから、とすれば、この最初出産のケースは、のロバとの馬の雑種であるウマ科ウマ属ケッテイ Equus caballus × Equus asinus の本邦での最初の誕生事例を記していることになる!(但し、彼ら(のロバとのウマの交雑種であるウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballusを含む)は一般に不妊であるが、が多く、が稀れなわけではないと思う)

「牽こと群行に非れば爲がたし」「牽(ひ)くこと、群行(ぐんかう)に非ざれば爲(な)しがたし」牽いて行こうとしても、群れて活発に行動する性質(たち)ではないので、牽くのはすこぶる難しい。事実、ウィキの「ロバによれば、『ロバとウマは気質に違いがあると言われる。ウマは好奇心が強く、社会性があり、繊細であると言われ、反してロバは新しい物事を嫌い、唐突で駆け引き下手で、頑固であると言われる』。『実際、ロバのコミュニケーションはウマと比較して淡白であり、多頭曳きの馬車を引いたり、馬術のように乗り手と呼吸を合わせるような作業は苦手とされる』。『野生のウマは、序列のはっきりしたハレム社会を構成し群れを作って生活するが、主に食料の乏しい地域に生息するノロバは恒常的な群れを作らず、雄は縄張りを渡り歩き単独で生活する』。『ロバの気質はこうした環境によって培われたものと考えられる』とある。

「高ふして」高(たこ)うして。

「轆轤」「ろくろ」。この場合は、井戸の釣瓶(つるべ)を上下するための滑車、重い物の上げ下ろしに用いる滑車類などを指し、その軋(きし)る音にロバの鳴き声が似ているというのであろう。

「甚」「はなはだ」。

「語」「かたり」。

譚海 卷之一 江戸下金商賣御掟の事

江戸下金商賣御掟の事

○江戸に下金(したがね)商賣免許の者六十六人有(あり)、上より符(ふ)を給はり居る也。世間流布する所の金の品三百六十五種ありとぞ。此中(このうち)古金(こきん)と稱する品四十三種あり、慶長金も此品の内也。慶長已來通用の金は四十四種より段々ありといふ。今世通用の小判は銀を四步(しぶ)ほどまじへたるもの也とぞ。甲州金壹步たりとも潰す時は公儀へ訴へつぶす事也。

[やぶちゃん注:「下金商賣」下金屋(したがねや)と言って、江戸時代には各地方から買い集めた金・銀の地金(じがね)を金座・銀座に売り込むことを商売にしていた者がいたが、その商人(あきんど)のことである。

「世間流布する所の金の品三百六十五種」これは結局、金銀の含有量の異なる貨幣、或いは同じでも、違った形・違った名称・違った時期の金銀含有貨幣の内、現在(「譚海」刊行の寛政七(一七九五)年前)でも実用通貨価値を保有する貨幣種数を指すと考えてよかろう。

「符」「絵符」「会符」などと書いた「えふ」江戸時代に街道運送の優先的取扱を図るために公家や武家などの荷物につけた、何よりも輸送で最重要とされて優先処理される御用札のことであろう。

「古金(こきん)」この読みは甲斐で天正年間(一五七三年~一五九二年)以前に鋳造されたとされる貨幣の一種(大判)である「古金大判(こきんおおばん)」から推定した(これは天正一六(一五八八)年初鋳とされる「天正大判」(主に豊臣家が金細工師後藤四郎兵衛家に鋳造を命じた大判貨幣。「天正菱大判(てんしょうひしおおばん)」・「天正長大判」及び「大仏大判(だいぶつおおばん)」が知られる)より古い時代のものとされるそうである)。

「慶長金」慶長大判のことか。江戸時代の初期の慶長六(一六〇一)年から発行された大判貨幣で、墨書・金品位及び発行時期などによって数種類に細分類される。参照したウィキの「慶長大判」によれば、『慶長大判、慶長小判および慶長一分判、慶長丁銀および慶長豆板銀を総称して慶長金銀(けいちょうきんぎん)と呼び、徳川家康による天下統一を象徴する貨幣として位置付けられる』とある。

「今世通用の小判は銀を四步(しぶ)ほどまじへたるもの」この「歩」は広義の「歩合」の意で全体の四割の謂いであろう(狭義では千分の一になっておかしくなるからである)。当時(「譚海」刊行の寛政七(一七九五)年前)「通用の小判」というと、最新の発行小判では「元文小判(げんぶんこばん)」である。元文元(一七三六)年五月から鋳造が始まり、同年六月十五日から通用開始された一両の額面を持つ小判で、参照したウィキの「元文小判によれば、金が六十五・三一%、銀が三十四・四一%(雑〇・二八%)とあるからドンブリで銀四割ほどというのはおかしいとは思われない。

「甲州金」狭義には日本で初めて体系的に整備された貨幣制度及びそれに用いられた金貨の称。ウィキの「甲州金より引く。『戦国時代に武田氏の領国甲斐国などで流通していたと言われ、江戸時代の文政年間』(一八一八年~一八三〇年)『まで鋳造されていた』(戦国期の前史は省く。リンク先を参照されたい)。『武田氏滅亡後の甲斐国は徳川氏、豊臣系大名時代を経て』、再び、『幕府直轄領となるが、徳川氏時代には大久保長安が金座支配と金山支配を一任され、松木五郎兵衛が金座役人に再任し、長安が佐渡島から招いた金工が甲府へ移住し鋳造が行われ、「松木」の極印が施されていたという』。甲州金は元禄九(一六九六)年)に一時、『通用停止されるが、武田氏時代から近世初頭に鋳造されていた甲州金は古甲金と呼ばれ、以後の新甲金と区別される』。『近世の甲州金は』、慶長一三(一六〇八)年)から翌慶長一四(一六〇九)年に『かけて、武田氏時代の金座役人四氏のうち松木氏が独占的に鋳造を行い、形態や品位が多様であった規格も統一される改革が行われているが、これは』慶長六(一六〇二)年に『慶長小判が鋳造されていることから、幕府による全国的な金貨に対する鋳造・流通の統制策を反映していると考えられている』。『江戸時代には川柳においても甲州金が詠まれ、「打栗のなりも甲州金のやう」「甲州のかしかり丸くすます也」など、甲州銘菓の「打ち栗」や丸形の金貨として認識されている』。『幕府は文政から天保・安永・万延年間にかけて金貨の改鋳を相次いで行い、金位・量目ともに低下した』。『このため、甲州金の両替相場は小判に対して高騰し、市場に流通する量は少なくなった。一方、甲州金固有の「小金」と呼ばれた少額金貨である弐朱判・壱朱判は名目金貨として大量に吹き立てられ、全国的に流通した』。文久元(一八六一)年には『甲州金の四倍通用令が出され、甲州金が一挙に二万両余り引き換えられたという』とある。

「甲州金壹步たりとも潰す時は公儀へ訴へつぶす事也」推測であるが、これは、甲州の金座で、金をたった一割しか含有しない、古くなって使用に堪えなくなった鋳造貨幣を一枚だけ潰そうという時(そして無論、そこから金を抽出出来れば、するのであろう)でも、必ず事前に潰すことを公儀に伺いを立てた上で潰すという風に読んでおく。何か、誤りあれば、識者の方、御教授を願う。]

諸國百物語卷之一 五 木屋の助五郎が母夢に死人をくひける事

     五 木屋(きや)の助五郎が母夢に死人(しにん)をくひける事

 

 京北野へんに木屋の助五郎と云ふものありけるが、その母けんどん第一にてぜんこんの心ざしなく、つねにあさ茶をのみて、人ごとのみをいひ、人のよき事をそねみ、あしき事をよろこびて、後世(ごせ)をねがふ心つゆほどもなし。ある時、こゝちあしきとて、いつよりもあさねをしけるに、助五郎、用の事ありて、あさ、とく、一條もどり橋までゆきけるに、戾橋の下に、年よりたる女の死人(しびと)を、引きさき、引きさき、くひけるを、よくよくみれば、わが母に、すこしもたがわず。助五郎、ふしぎに思ひ、いそぎわが家にかへり、母のいまだふしていられけるを、おこしければ、母おどろき、おきあがり、

「さてさて、おそろしき夢を見つるものかな」

と云ふ。助五郎、聞きて、

「いかなる夢をみ給ふや」

ととへば、

「されば一條もどり橋の下にて、われ、死人(しびと)を引きさき、くふ、と見て、かなしさ、かぎりなき折ふし、おこと、よくも、おこし給ふものかな」

とかたられける。そのゝち、ほどなくわづらひ付きて、死にけるとや。まことに今生(こんじやう)より地ごくにおちければ、來世(らいせ)の事、おもひやられて、助五郎、かなしぶこと、かぎりなし。助五郎も後には出家になりけると也。

 

[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻一の「七 罪ふかきものの今生より業(ごふ)をなす事」に基づくが、息子に名前がなく、しかもこのエンディングにある発心譚を持たない点で、カニバリズム描写に趣向をおいている純粋ホラーにより近いと考えてよい。

「けんどん」「慳貪」。「慳」は「物惜しみすること・吝嗇(りんしょく/けち)」、「貪」は「むさぼる」意で、思いやりがなく心が荒々しいこと。具体的に異様に物惜しみをして、吝嗇で欲深であることを指す。

「ぜんこん」「善根」。よい報いを受ける原因となる行いを努めてしようとする志し。

「あさ茶」これは「朝茶」ではないだろう(後に「朝」が畳みかけられるので自然にそう読んでしまうのであるが、実は朝茶は仏教に於いて功徳を受ける行為とされるからである)。恐らく「淺茶」で薄い茶、この母の吝嗇さを示す小道具と私は読む。

「一條もどり橋」延暦一三(七九四)年の平安遷都とともに架けられたと伝えられる一条通の堀川に架橋されている橋(京都府京都市上京区堀川下之町及び晴明町)。安倍晴明が式神を住まわせたことで知られ、他にも鬼女伝説や異界への通路として、或いは「戻る」の禁忌から避けるられたりするいわくつきの京の古くからの心霊スポットである。

「おこと」元は「御事」。相手に対して親しみの情をこめて呼ぶ際の二人称。そなた。

「地ごく」「地獄」。]

わが兵歴   梅崎春生

 

 佐世保鎮守府に召集されて、相ノ浦海兵団に入れられたのが、昭和十九年六月一日。私は二十九歳。同日に召集された中では、比較的老兵に属する。佐二補水九六八九号という兵籍番号を与えられた。その翌日新入団兵の半分は海兵団を出て、南方の島々に持って行かれた。

 私はその選にもれて、十日間を相ノ浦で過し、針尾海兵団に移された。学校出(専門学校以上)ばかりの分隊で、そこで予備学生の志願を勧められた。若い連中はたいてい志願したが、私は断った。断った心境や事情はいろいろあるけれど、要するに兵隊でいた方が気楽と思ったからである。

 兵隊でも何か特技をつけていた方がいいというので、暗号特技講習員として防府通信学校に行く。実際にそこにいたのは十日間ぐらいで、履歴表によると、「昭和十九年海人三機密第一号ノ一四四二依リ第二回暗号術特技兵臨時講習員ヲ免ズ」

 とある。第二号ノ一四四とは何か、今もって判らないが、推察するところサイパンも取られたし、暗号などを教えるのをやめて南方へ廻せ、というような内容だったらしい。佐世保海兵団に戻された。いつ南方に持って行かれるか戦戦兢々(せんせんきょうきょう)としていると、佐世保通信隊で暗号術講習があり、幸いそれにもぐり込むことが出来た。十一月に講習終了、実務につくことになった。それからだんだん水兵としての苦労が身にしみて判るようになる。

 苦労というのは、仕事のことじゃない。吊床訓練とか甲板掃除(陸上の兵舎でも甲板という)そして罰直。バッタと称して、つまり丸太で力まかせに尻をたたくのである。私は五本ぐらいなら辛抱出来たが、それ以上になると脳貧血を起した。私は生来痛さに弱い。バッタを受けて死んだ老兵も私は知っている。

 尻が痛くて、吊床であおむきに寝られないこともあった。吊床というやつは宙に浮んでふらふらと不安定で、私たち老兵の海軍生活の象徴みたいなものであった。

 十九年から二十年にかけて、私は指宿(いぶすき)海軍航空隊にいた。ここの勤務は最低であった。甲板(通信室と居住区)は広いし、吊床のフックは高いとこにあるし、若い獰猛(どうもう)な兵長らがいるし。先年西日本新開に指宿のことを書いたら、当時の兵長から手紙が来た。その一節。

「私が兵長時代、先生にもバッタを与えました由、時の流れとはいえ、すまん思いであります」

 たまりかねて下士官志願。三月、四月と講教を受けて、五月一日海軍二等兵曹となる。これで生活は楽になった。バッタも掃除も免ぜられ、食事も兵隊が運んで呉れる。それから鹿児島に転勤。各基地を転々とし、最後は桜島で終戦を迎えた。復員後すぐ小説「桜島」を書く。

「桜島」は私小説か実録のように思われるかも知れないが、出て来る人物、吉良兵曹長、見張りの兵、耳のない妓など、皆架空の人物である。私がつくり出したのだ。もっとも架空なのは「私」という人物で、実際の私は遺書も書かなかったし、美しく死にたいなどと思ったことは一度もない。

 第一死に直面していなかった。米軍が関東に上陸しても、また吹上浜に上陸しても、敵が兵力をさいて桜島を攻略する筈がない。地図を見れば判るが、九州の下端にぶら下った余計者のような島で、全部が洞窟陣地で、爆撃にあっても平気である。実際一度も爆撃を受けなかった。本土九州が全部平定されてから桜島攻略にとりかかるだろうというのが私の予想で、自分の生死について私ははなはだ楽天的であった。それに海軍は食糧をたくさん蓄積していて、三度三度たっぷり食べることが出来た。(その点陸軍は窮屈で、一度の食事が湯呑み一杯ぐらいだと、鹿児島で会った陸軍の兵隊から聞いた)

 通信は三直制(三度に分れて交替で当直に立つこと)で、私は直長。兵隊は皆私の直(ちょく)に入りたがった。私は部下を決して殴(なぐ)らなかったし、居眠りをしていると表へ引きずり出すふりをして居住区に帰らせるし、人気の点では最高であった。しかし上の方からは、私の直は能率が上らないと、時々文句を言われる。こちらを立てれば、あちらが立たぬ。

 ある日、夜の当直が終った時、涼を取るために近くの丘に登った。兵の一人が私に向かって、

「一体これから戦況はどうなるか。日本はどうなるのか」

 と質問した。私は考えて、

「何か急な事態が起って、アメリカとソ連と戦争を始めたら、日本は放っとかされて、おれたちは生き延びるだろう」

 と説明した記憶がある。今思うと、何と虫のいいことを考えたものか。でも私には無条件降服ということは、あり得ないと思っていた。あの頑迷な軍人どもが、降服する筈がない。国民を道連れにして、やけ戦さを続けるに違いない。

 そういう心境で終戦を迎えたから、私はうれしかった。八月十五日午後昼寝をして、夕方六時からの当直に立つために暗号重に入る。義務として暗号控えを調べたら「終戦」の二字が眼に飛び込んで来て、私はいささか動転。暗号士に「ほんとですか」と確かめ、真実だと判ると、私は壕を飛び出し、そこらあたりをぐるぐる歩き廻った。とても暗号なんか翻訳している気分にはなれなかったのである。

 九月一日付で海軍一等兵曹となる。実際は八月二十六日に復員した。

 

[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年八月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。名作「櫻島」(私のマニアックなオリジナル注附きのPDF全篇版はこちら。同ブログ分割版はこちら)のモデル事実や、実際の梅崎春生の感じ方などに、やや意外の感を受ける諸君も多いかも知れない。

「相ノ浦海兵団」現在の長崎県佐世保市大潟町にある陸上自衛隊相浦駐屯地の前身。

「針尾海兵団」佐世保湾と大村湾に挟まれた針尾島の南端にあった新兵及び海軍特別年少兵教育を主目的とした海兵団。戦後は陸上自衛隊針尾駐屯地となったが閉鎖、跡地が例のハウステンボス(長崎県佐世保市ハウステンボス町)である。

「防府通信学校」昭和一八(一九四三)年に開設された防府海軍通信学校のこと。現在の山口県防府市航空自衛隊防府南基地が跡地。

「指宿海軍航空隊」ひろ兄氏のブログ「海とひこうき雲」の「指宿海軍航空基地跡」が写真(当時の施設配置図有り)が豊富で必見。昭和二〇(一九四五)年には特攻基地に変貌、知覧基地・鹿屋基地同様、沖縄戦への本土最前線の要衝となった。]

2016/08/26

片山廣子第一歌集「翡翠」に佐佐木信綱の序文を挿入

片山廣子の第一歌集「翡翠」に佐佐木信綱の序文を挿入した。電子化した時(2009年4月29日)には彼の著作権が存続していたため、省略していたが、二年前にパブリック・ドメインになっていたことを最近知った。遅まきながら、これで――「全」――である。

私のノイローゼ闘病記   梅崎春生

   私のノイローゼ闘病記

 

 ノイローゼにもいろんな種類や症状があるらしい。ここでは私の場合を書く。

 昭和三十三年秋頃から、調子がすこしずつおかしくなり始めた。

 その遠因として、血圧のことがある。その一年ぐらい前、囲碁観戦のために鶴巻温泉に行った。観戦の余暇にある人と碁を打っていたら、急に気分が悪くなって来た。何とも言えないいやな気持で、痙攣(けいれん)のようなものがしきりに顔を走る。横になって医師を頼んだ。医師が来て血圧をはかったら、最高が百七十あった。根を詰めて碁を打ったせいだろう。二日ばかり安静にして東京に戻った。血圧は百三十に下っていた。

 それに似た発作が、その後三度ばかり起きた。街を歩いて起きると、あるいは起きそうになると、タクシーで早速帰宅する。タクシーがつかまらない時は、店にでも何でも飛び込んで休ませてもらう。または医者を呼んでもらう。注射してしばらく安静にしていると、元に戻る。

 いつ発作が起きるかという不安と緊張で(このことが血圧に悪い)だんだん外出するのがいやになり、ことに独りで歩くのがこわくなって来た。他人に会うのもいやで、厭人感がつのって来る。一日の中一時間ほど仕事をして、あとはベッドに横になり、うつらうつらとしている。考えていることは「死」であった。

 死と言っても、死について哲学的省察をしているわけではない。また自殺を考えているのでもない。ただぼんやりと死を考えているだけだ。やり切れなくなって酒を飲む。口の端に歌がうかび上って来る。

「……北風寒き千早城」

 軍歌の一節だが、この文句が一番頻繁に出て来た。私は今でもこの一節をくちずさむと、当時の荒涼とした不安な状態を思い出す。

「これはおかしい」

 と私は思った。私は身近に何人もノイローゼの患者を知っているし、私自身青年時代にその状態になったことがある。青年の時のは被害妄想を伴っていて、下宿に住んでいたが、壁の向うや廊下で私の悪口を言うのが聞える。何でおれの悪口を言うのかと女中を難詰したり、揚句の果て下宿の婆さんを椅子で殴って、留置場に一週間入れられたことすらある。それにくらべると今度のは執拗に憂鬱で、その憂さを晴らすすべもない。

「これはやはり病的だ」

 私はついに旧知の広瀬貞雄君(その頃松沢病院勤務の医師)の自宅を訪ねて、相談をした。広瀬君はいろいろ私の話を聞いて、やはりノイローゼと診断した。

「すぐ入院した方がいい。早けりゃ早いほどなおりが早いですよ」

 私は納得した。が、すぐ入院するわけには行かない。今は精神安定剤などがあるが、当時としては持続睡眠療法や電気ショックが主で、持続睡眠療法は退院後半年か一年ぐらい精密な仕事が出来ないとのことである。

 私は給料生活者ではないので、入院費と一年徒食する金を用意しなければならぬ。当時私は三社連合(西日本、中部、北海道新聞)に連載小説を書いていた。それを書き終えれば大体一年分ぐらい徒食出来るだろう、という計算で、他の仕事は全部断ることにした。一回分が一時間で書ける。苦虫をかみつぶした表情で、おろかしい人間たちの絵そらごとを書く。「人も歩けば」という題で、もし読者の中にこれをお読みになった方があれば、私がそんな状態で書いていたことを了解して下さい。苦虫はかみつぶしていても、サービス精神はよろしきを得たとみえ、割に評判がよく、二百五十回の予定が三百四十回ぐらいに伸びた。映画にもなって、徒食の我が家の家計をたすけた。一日一時間の仕事。あとは家人につきそわれて散歩や、ベッドに横になって読書。むつかしい本やまとまった小説は読めない。集中力が散漫して、手に取る気もしない。せいぜい随筆集や旅行記、雑誌や週刊誌のたぐいで、もっぱら心をまぎらわすためである。またはテレビ。

 テレビを子供たちと見ていると、おかしい場面が出て来ると子供らは笑う。私だけが笑わない。おかしくないからである。感情が動かないのではない。むしろ動きやすくなっているのであるが、それは悲哀の方にであって、笑いの方には鈍麻(どんま)している。私から笑いはなくなった。その癖ひどく涙もろくなる。気分としては荒涼たるものだ。酒を飲んでもなぐさまない。悲しい歌ばかりが口に出て来る。

「……北風寒き千早城」

「……赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下……」

 この病的な状態を、精神力で直そうというのは無理だ。かえって悪化させるだけだ、というのが広瀬君の説だ。それには私も賛成である。一刻も早く入院したかったが、経済的その他の事情で、半年頑張り、五月二十一日下谷のE病院に入院することになった。

 入院するに当って、私は条件をひとつつけた。持続睡眠はいいけれども、電気ショックだけはしないで下さい。私は電気ショックの如何なるものか知っていたので、自分をああいう目にあわせたくなかった。医師はそれを承諾した。私の病名は、

 鬱状態(不安神経症状)

 というのである。

 それからもう一つ心配ごとがあった。

 ズルフォナールという薬がある。これを朝昼晩と服ませられる。この薬は睡眠薬だけれど、持続性があってなかなか覚めない。それを次々に服むから、だんだん蓄積されて、ついには一日中ほとんど眠るという状態になる。同時に抑圧がとれる。抑圧がとれて、酩酊(めいてい)状態になる。つまり酔っぱらいと同じことになる。精神も肉体もだ。御機嫌になってペらぺらしゃべるし、またエロ的にもなるらしい。それが私には心配であった。エロ的になって看護婦さんなんかに抱きついたりしたら、みっともない。

 出来るだけそんな状態におちいりたくない、という心構えというか抵抗というか、そんなのが私に働いていたらしい。素直な気持で療法を受ければいいのに、そんな変な頑張り方が、なおりを遅らせたのかも知れないと思う。無用な虚栄心であった。私は入院中日記をつけた。かんたんに眠らせられてたまるかという虚栄心からである。

 病室は北向きの個室で、窓から基地が見える。内臓その他の精密な検査を経て、その病室に入る。酒たばこは禁じられた。酒はそうでもないが、たばこだけはつらくて、禁止を解いてもらった。私は軍隊でも経験があるが、酒はすぐあきらめられるが、たばこはやめられない。

 この病院にも、アル中患者が何人かいた。やはり持続睡眠療法でなおそうというのである。しかし彼等は入院して酒を断(た)たれても、けろっとしている。麻薬中毒患者みたいな禁断症状はあまりないらしい。外国人はジンやウォッカなど強い酒をストレートでたしなむから、相当ひどいのもあるようだけれど、日本人はそうでない。気の弱さから酒をたしなむ。タコちゃんと呼ばれる中年男とてんぷら屋の息子という青年、両者ともアル中で当時入院していた。聞いてみると、彼等は朝から酒を飲んでいる。飲み出すとやめられない。一日中酩酊状態で、仕事が出来ない。そこで自発的に、あるいは肉親にすすめられて入院して来る。

「退院しても禁酒を続行出来るかどうか、心もとないですな」

 私の質問に答えて、タコちゃんはそう言って笑った。

 アル中の話はそれくらいにして、日記のことだが、結局私は毎日書き通した。字が乱れて判読出来ないところもあるが、とにかく書くことは書き通したのである。その日記によって治療経過を書く。

 

 五月二十二日夕方からズルフォナールを服(の)み始めた。二十三日の日記(抄)

「薬のせいかねむい。昨日からこの部屋をしばしばのぞき込む女。今朝は電話番号を教えて呉れという。電気治療で自宅の電話番号を忘れてしまったのだ」

「もうふらふらする筈なのに、しつかりしている。ビールを一本飲んだ程度。酒できたえたせいか」

 もうそろそろ利(き)き始めているのである。二十四日には、

「まだ利いて来ない。(やや足はふらつくけれど。抑圧は取れず、気分はむしろ憂鬱に傾く)」

 などとレジスタンスを試みている。

「午睡二時間、熱三十九度ぐらいある如し。(実際には六度三分)頭がぼんやりしている。一向にはればれしくなし」

 二十五日には、

「ややメイテイの傾向あり。けれどヨクアツはまだとれぬ。身体だるし。七時半(私の秘密)を見る。ちらちらして不快、ダレス死す」

 私の病室は二階で、テレビは階下の待合室にある。ふらふらするので、手すりにすがって階段を登り降りするのだ。特別見たいわけではないが、まだ覚めているぞという気持なのである。二十六日には、そろそろ音(ね)を上げている。

「ようやくふらふら(心身共に)して来た。ものが二重に見える。酔っぱらった時と同じ。新聞を読むのがつらい。薬いよいよ利いて来たのか。便秘のこと先生に訴えしに、下剤かけても腸が眠っているからダメだとのこと。腸が眠るとは初耳なり、前代未聞なり」

 投薬と同時に通じがとまった。持続睡眠療法については、医学書であらかじめ調べて置いたのだが、便秘のことは書いてなかったので、怒っているのである。まことに厄介な患者だ。この日あたりから字が乱れ始めている。

「二十七日。便秘のことF医師に相談すると、十日や二十日の便秘は平気の由。少しムチャだと思うが致し方なし」

「テレビ見ようか、うちへ電話かけようかと思うけど、メソドウくさい気分あり。つまり酔っているのだ」

 ようやく酩酊を自覚している。

「F医師頭クラクラしないかと聞く。しないと答える。いずれクラクラする状態になるらしい」

「看護婦さんスカートまくり上げる。行儀悪いねとたしなめる」

 ここらはもちろん記憶にないが、あとで読んでぎょっとした。私がエロ的になって、看護婦のスカートをまくり、たしなめられたのかと思ったのだ。つきそいの人に調べてもらったら、看護婦が暑いから自発的にまくったことが判り、ほっと安心した。

 二十八日。

「十一時回診。黒幕をつける。まっくらになる」

 とある。外界からの刺戟をさえぎるためだろう。そのために墓地が見えなくなった。

「午後ぐつすりと眠る。夕方コツコツと音がする。はいと答えるとタコちゃんよりKさん(つきそいの人の名)へと手拭い。タコさんというのは酒屋主の由。持続。予よりあとに入る」

 字体も乱れているが、文章もへんになって来た。

「E先生数え年にて、四十一、なりとぞ。おどろき也。日記もこれでおしまいらしい」

 部屋はまっくらな筈だが、書いているところをみると、時々カーテンをあけてもらったのか。しかし日記欲は強く、二十九日も長々と書いている。我ながらあっぱれだ。

「七時起床。早くヨクアツが取れなきゃこまると思う。まだとれてない。眠る。十二時起きる。月見そば。うまくもまずくもなし。ただ食べるだけ」

 ほんとにこの頃は食物は口に押し込むだけで、うまさなんか全然感じなかった。義務で食っている。

「夜プロレスを見る」

 まだ頑張っているところがいじらしい。ぼんやりした記憶では、テレビが二重に見えるので、片目で見ていた。そんな状態でテレビが面白い筈はない。

 五月三十日になると、半分ぐらいは何を書いてあるか判らない。みみずののたくったような字で、書こうとする努力だけは判るが、意味が判らない。やっと読めるのは、

「三週間もやられたらゼツボウ也」

 何をやられたらなのか、とにかくゼツボウしている。

「夕方S君と碁を打つ。初め対にて次に六目。共に勝つ。S君二・二六事件の時のジキカン長(オヤジが也)三十七歳」

 碁を打っているし、つきそいのKさんの補筆によれば、夜テレビで巨人対国鉄戦を見ている。夢遊状態でありながら、一応人並みのことをしている。S君というのは銀行勤務で、何の症状で入院していたのか記憶にない。いい青年(?)であった。

 六月一日。

「朝食赤飯。ツイタチだから。タコちゃん文春別冊(デンワの写真)を持って来る。どういうわけか」

「昼食後医書をたずさえ、先生のところに談判に行く。便ピのことやいろいろ」

 Kさんの話では、もうこの頃は呂律(ろれつ)が廻らなくなっていたそうだ。酔っぱらいと同じくれろれろで、先生も迷惑だったろう。でも談判におもむくとは、意気さかんと言うべきだろう。いや、意気さかんというより、泥酔者と同じく鼻息が荒くなっていたのだろう。

 六月二日。Kさんの補筆で、

「朝食前、タコちゃん、キリン(S君のあだ名)と話す」

 とある。何をしゃべり合ったか知らないが、厭人癖はなおったらしい。同病相憐れむという気分なのかも知れない。酩酊状態から覚めても、私は彼等と親しくつき合った。私の字で、

「昼食エビライス(カミヤ)ケレドネ、ウドンだったので、それを食う」

エビライスを注文したが、病院の食事がうどんだったので、その方を食べたという意味だ。食欲が減退していて、エビライスよりウドンをえらんだのである。

「今日が一番足がふらつくような気がする」

 しかし字体から見ると、三十日と一日がもっとも乱れていて、二日以後の字は割にはっきりしている。峠を越したので、ふらつきの自覚が出て来たのだろう。極端にふらついている時は、かえってふらつきを自覚しないものだ。

 あとで人に聞くと、私は廊下を歩く時、大手をひろげて歩いていたそうだ。平均をとるために、そうしたのだろう。

 六月三日。

「朝回診ありたれど、眠っていたので通過。十一時半まで眠る。昼食後ひる寝。その後週刊誌のクイズを考える。夜(事件記者)を見て眠る」

 よく眠りに眠っているが、クイズを考えたりテレビを見たり、知的(?)な活動をしている。これからもう覚める一方である。

 五日にはもう散歩を許されている。ふらつく感じはほとんどなくなったが、頭はまだぼんやりしている。散歩が許されて嬉しかったので、雑誌だの果物だの、いろんなものを買い求めて戻って来た。もう死のことはあまり念頭になかった。木々の緑や街のにおいが、私にはなつかしかった。この頃から生活は快適になる。仕事はしないでいいし、寝たけりゃ寝ればいいし、散歩も出来る。やはり効果があったのである。

 しばしば大部屋に遊びに行って、花札をやったり碁を打ったりした。そして各患者とつき合い、彼等の生態を観察する余裕も生じた。だんだん散歩の範囲もひろがって、動物園に行ったり、入谷(いりや)鬼子母神の朝顔市に行ったりした。足を伸ばして本郷竜岡まで本因坊戦第一局を見に行ったこともある。つきそいのKさんを連れて行ったら、今は亡き村松梢風先生が、Kさんを私の女房と思ったらしく、ていねいにあいさつをされた。

「この人、僕の女房じゃないんです」

 と説明するわけにも行かず、私は困った。

 七月十日に退院。皆と別れるのがつらかった。退院に当って先生の指示は、

 一、食事後四十分は横になること

 二、酒は秋まで飲まぬこと

 の二条であった。

 七月十日の日記。

「空は曇り、今日より自由はわが手に戻る」

 などと書いてある。帰宅して翌日、蓼科(たてしな)高原に行った。一夏をそこで過した。半年か一年仕事が出来ないということが頭にこびりついていて、あるいはそれを利用して、毎日遊び暮した。ある日蓼科に映画会社の人が来て「人も歩けば」を映画化したいと言う。早速承諾して、金が入り、結局持ち金が全部なくなるまで、一年近く仕事をしなかった。生来怠け者なのである。

 指示の第一条は今も守っている。第二条の方は、秋とは何か。立秋をもって秋となすと都合よく解釈して、八月七日頃から飲み始めた。それを某雑誌に随筆に書いたところ、先生がそれを読んで、

「秋というのは九月頃からという意味だったのに、立秋とは一杯食わされました」

 と電話がかかって来た。

 以上が私のノイローゼ闘病記である。

 教訓。病気にかかったら、どんなことがあっても自己診断をせず、早期に専門医にかかること。私の場合は入院がすこし遅過ぎた。ことにノイローゼなどは、自分の精神力にたよってはいけない。医者に体をあずけてしまうに限る。ひとりでじたばたすればするほどひどくなる。

 それから鬱病、鬱状態は、朝起きた時が一番憂鬱である。ふつうの人間なら、朝は一日の初めであるし、活気に満ちている。活気に満ちるほどではなく、とにかくやろうという気持になっている。それなのに、

「ああ。また一日が始まるのか」

 と気分が鬱屈し、沈滞した気分におそわれるのは、あきらかに病的である。そんな自覚がある人は、直ぐさま専門医に相談する方がいい。ただし宿酔の場合は別である。あれは体の不調と自己嫌悪で心が真黒になっているのだから、一時的なものである。放って置けばなおる。しかし毎日宿酔ばかりしているような人は、アル中のおそれがあるから、診断を受けるべきだろう。

 私の場合一年間仕事をせず、損をしたような気がするが、また得がたい経験だと思えばそう損でもない。

 思えば私は体の具合の変る時、つまり青年期、それから厄年に不調がやって来た。これからしばらくは平穏状態が続くだろう。六十歳ぐらいにまた変調が起きるという説をなすものもいる。そこを過ぎると、長生きするのだそうだ。すると私の場合は野球にたとえると、二塁の曲り角だったんだろう。そんなところでわが結論は終る。

 

[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年六月号『主婦の友』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。底本別巻の年譜によれば、梅崎春生は昭和三四(一九五九)年五月に本篇に「K病院」として出る台東区下谷にある近食(こんじき)病院に『入院し、持続催眠療法を受ける。七月に退院し、蓼科山荘にて身を養う』とあり、この年の八月にはやはり本文に出る「人もあるけば」が中央公論社より単行本で刊行されている(新聞三紙での連載開始は昭和三十三年五月で連載完結は翌昭和三十四年の入院直後の六月であった。なおこの作品は底本全集には不載で私自身、読んだことがない。梗概は後の注のリンク先を参照のこと)。当時、春生は四十四歳であった。なお、梅崎春生ファンならすぐにお気づきであろうが、ここに書かれた入院中の事実は、かなりの部分が、遺作となった「幻化」(私のマニアックなオリジナル注附きのPDF全篇版はこちら。同ブログ分割版はこちら)で、主人公久住五郎の精神病院入院回想シークエンスの各所にリアルに生かされてあることが判る。なお、この近食病院にはこの前年の昭和三十三年の五月に妻恵津が心因反応の病名で翌六月まで入院しており、同年譜には、本篇冒頭に書かれている通り、その記事に続いて、『梅崎自身も秋ごろから心身の違和を覚えるようになる』とある。妻の「心因反応」と春生の「鬱病」には強い連関性が認められるように感じられる。或いは、春生の鬱病(彼の発症にはアルコール性精神病の関与も私は疑っている。但し、妻恵津はこれを強く否定している)は実はこの年から始まっており、それに敏感に感応した結果、恵津は境界例である「心因反応」を起こしたのではなかろうか?

「広瀬貞雄」廣瀬貞雄(大正七(一九一八)年~平成一九(二〇〇七)年)は知られた精神科医で後に日本医科大学名誉教授となった人物であるが、この医師はかなり問題のある人物である。所謂、「臺実験(うてなじっけん)」事件に於ける執刀医だからである。ウィキの「臺実験」によれば、一九五〇年頃に東京都立松沢病院において発生した人体実験事件で精神科医の臺弘(うてなひろし:後の東京大学教授)の指揮の下、当時の松沢病院勤務の精神外科医であった廣瀬が、精神外科手術に便乗して約八十人の患者から無断で生検用脳組織を切除した事件で、『ロボトミー後に機能を停止すると予測された部分から、組織採取を行った。つまり、実際の手術の手順は、組織採取が先で、ロボトミーが後であ』った。その約二十年後の石川が昭和四六(一九七一)年三月に日本精神神経学会に於いて臺を当時東大講師であった精神科医石川清がこれを『告発したことから、東京大学や日本精神神経学会を巻き込んた論争が起こった』とある。

「松沢病院」東京都世田谷区にある精神科専門病院である東京都立松沢病院。

……北風寒き千早城」遺作「幻化」にも出る。私が「幻化」で注したものに少し手を加えて再掲しておく(リンク先はブログ分割版の出現箇所)。これは、大正三(一九一四)年作の海軍軍歌で、所謂、「桜井の別れ」、河内の武将で後醍醐天皇の名臣楠木正成は湊川の戦いに赴いて戦死したが、その今生の別れとなった正成・正行父子が訣別する西国街道桜井駅(櫻井の驛)での逸話に基づく「楠公父子(なんこうふし)」(作詞・大和田健樹/作曲・瀬戸口藤吉。著作権は詞曲ともに消滅している)の二番の末尾の一節であるが、実は「旗風高き千早城」で、「北風」ではない。「幻化」も「北風」でこれはどうやら梅崎春生自身の記憶違いか、海軍内での替え歌かも知れぬ。天翔氏のサイト「天翔艦隊」の軍歌のデータベースの「楠公父子」から全歌詞を引くが、恣意的に漢字を正字化した。仮名遣も歴史的仮名遣にしようとしたが、実際の歌曲として詠んでもらうために特異的に現代仮名遣のままとした(リンク先ではミディで曲もダウロード出来る)。

   *

   楠公父子

一、

天に溢(あふ)るるその誠

地にみなぎれるその節義

楠公父子(なんこうふし)の精忠(まごころ)に

鬼神(きじん)もいかで泣かざらん

二、

天皇(すめらみかど)の御夢(おんゆめ)に

入るも畏(かしこ)き笠置山(かさぎやま)

百萬の敵滅ぼして

旗風高き千早城

三、

七度(ななたび)人と生まれ出で

殲(つく)さで止まじ君の仇(あだ)

誓いの詞(ことば)雄雄しくも

千古(せんこ)朽ちせぬ湊川(みなとがわ)

四、

その名もかおる櫻井の

父の遺訓(おしえ)を守りつつ

葉はその陰に生い立ちし

楠の若葉のかぐわしさ

五、

再び生きて還らじと

かねて思いし合戰に

四條畷(しじょうなわて)の白露(しろつゆ)と

消えても玉の光あり

六、

忠勇義烈萬代(よろずよ)の

靑史を照らす眞心は

死せず滅びず永久(とこしえ)に

日本男兒の胸の血に

   *

なお、「千早城」は現在の大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早に鎌倉末から南北朝期にあった楠木正成の城で、元弘二/正慶元(一三三二)年の正成の奇策防衛戦で知られる「千早城の戦い」で名高い。

……赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下……」明治三八(一九〇五)年に作られた軍歌「戦友」(真下飛泉作詞・三善和気作曲)。日露戦争時の戦闘を背景とする歌詞で全一四番から成る。この知られたフレーズは、その第一番の後半部。

   *
 

一、

此處(ここ)は御國を何百里

離れて遠き滿洲の

赤い夕陽に照らされて

友は野末(のずゑ)の石の下(した)

 

   *

全歌詞はウィキの「戦友軍歌を参照されたい。私はこの歌というと、栗康平監督の映画「泥の河」(一九八一年自主制作)で「きっちゃん」(松本喜一)が歌うそれが忘れられない。

「ズルフォナール」やはり遺作「幻化」にも出る。私が「幻化」で注したものを再掲しておく(リンク先はブログ分割版の初出箇所)。持続性熟眠剤スルホナール(Sulfonal)であろう。この綴りだと、近年まで医事で使用されたドイツ語では発音が「ズルフォナール」に酷似するのではないかと思う。平凡社「世界大百科事典」(第二版二〇〇六年刊)の「催眠薬 hypnotics」には「スルホナール」を挙げ(コンマを読点に代えた)、『バルビツレート以前に使用されているが、現在は特殊な場合以外には使わない。安全域が小さく、排出が遅い。精神科疾患に一回』〇・五グラムとある(この「バルビツレート」(barbiturate)は不眠症や痙攣の治療、手術前の不安や緊張の緩和のために用いられる中枢神経系抑制薬物で、向精神薬群を総称する「バルビツール酸系」薬物とは同義同語である。ウィキの「バルビツール酸系」によれば、『構造は、尿素と脂肪族ジカルボン酸とが結合した環状の化合物で』、『それぞれの物質の薬理特性から適応用途が異なる』。『バルビツール酸系の薬は治療指数が低いものが多く、過剰摂取の危険性を常に念頭に置かなければならない』。一九六〇年代には、『危険性が改良されたベンゾジアゼピン系が登場し用いられている。抗てんかん薬としてのフェノバルビタールを除き、あまり使用は推奨されていない』。『乱用薬物としての危険性を持ち、向精神薬に関する条約にて国際的な管理下にある。そのため日本でも同様に麻薬及び向精神薬取締法にて管理されている』とあり、以下にチオペンタール・ペントバルビタール・アモバルビタール・フェノバルビタールといった薬剤名が示されている)。また、同じく「世界大百科事典」の、五郎が受けたところの「持続睡眠療法continuous sleep treatment」の項に、『鎮静・催眠性の薬物を投与して持続的な傾眠ないし睡眠状態にすることによって精神障害を治療する方法。ウォルフ O. Wolff』(一九〇一年)『がトリオナールを用いたことに始まるが,さらにクレージ J.Kläsi』(一九二一年)『がソムニフェンを使用して早発性痴呆や錯乱状態の患者を治療したことで精神病に対する一つの治療手段となった。日本でも下田光造』(一九二二年)『によって躁鬱(そううつ)病患者の治療にスルホナールが用いられ,これが盛んに行われた時期がある。治療期間は』十日から二十日前後で、『主として鬱病や躁病,精神分裂病の興奮状態などがその治療対象となった。しかし,精神障害の治療に向精神薬が導入されてからは定式的なこの療法が行われることはなくなっている』ともある(下線やぶちゃん)。ネット上の信頼出来る現在の精神医学・薬学系サイトなどでは、スルホナールは睡眠導入剤(睡眠薬)としては現在は全く使用されていないと断言している記載が多い。因みに、梅崎春生の小説を読んでいると、こうした「ズルフォナール」のような薬剤名や、前に注した「ヴァスキュラー・スパイダー」(vascular spider:クモ状血管腫)、「ハビバット」(halibut:ハリバット。春生は確か「鰈」の英語としているが、これは厳密には北洋産の超巨大(全長一~二メートル、大きい個体では三メートルを越えるものもざらである)カレイである条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ科オヒョウ属 Hippoglossus のオヒョウ類を指す)等の、一般的でない外来語の特定単語の発音に対する、一種のフェティシズムを私は強く感じる。これは彼を病跡学的に検証する際の特異点であるように思う。

「ダレス死す」悪名高き日米安全保障条約の「生みの親」とされるアイゼンハワー大統領の国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles 一八八八年~一九五九年)は、この年(昭和三十四年)の五月二十四日(春生が入院したはまさに五月)にワシントンD.C.で癌のために死去している。

「呂律(ろれつ)」本来は「りょりつ」と読んだ。「呂(りょ)」も「律」も雅楽の音階名で、雅楽合奏の際に呂の音階と律の音階が上手く合わないことを「呂律(りょりつ)が回らぬ」と言っていたものが、訛化して「ろれつ」となり、しかも物を言うときの調子や言葉の調子の謂いに広がったものである。

「入谷鬼子母神」「いりや(の)きしもじん」と読む。東京都台東区下谷にある法華宗仏立山真源寺のこと。仏教を守護するとされる夜叉鬼子母神を祀り、この通称で古くから有名。大田南畝の狂歌「恐れ入りやの鬼子母神」という洒落でも知られる(以上はウィキの「真源寺」に拠る)。

「朝顔市」前の注でも参照したウィキの「真源寺」によれば、『当寺院の名物である朝顔市で有名になったのは明治時代に入ってからで、江戸後期頃から当地で盛んだった朝顔栽培を人々に見せるために、当寺院の敷地内で栽培農家が披露したことがその起源である。明治時代を中心に、入谷界隈で朝顔作りが盛んになり数十件が軒を連ねたという。当地の朝顔は全国でも指折りの出来であったといい、朝顔のシーズンになると、入谷界隈には朝顔を見物しに、多くの人でごったがえしたという(無論、植物園などと違い、商品として栽培しているので』、『そのまま商売となった)。その後、宅地化の流れにより入谷界隈での栽培が難しくなり』、大正二(一九一三)年に『なって最後の栽培農家が廃業して、朝顔市は廃れてしまったが』、敗戦後の昭和二三(一九四八)年になって、『地元の有志と台東区の援助の元、再び入谷で朝顔市が復活することになり、現在では例年、七夕の前後』三日間(七月六日・七日・八日)に『当寺院と付近の商店街で開催され、下町の夏の風物詩としてすっかり定着している』とある。本篇の日付とも一致する。

「村松梢風」(明治二二(一八八九)年~昭和三六(一九六一)年:本名・村松義一)は小説家。静岡県生まれ。『電通』の記者を勤める傍ら、「琴姫物語」(大正六(一九一七)年) で滝田樗陰に認められ、情話作者として出発、「正伝清水次郎長」 大正一五(一九二六)年~昭和三(一九二八)年)その他の考証的伝記風作品を多く書いた。新派の演目となり、映画化(初回は戦前の昭和一四(一九三九)年で溝口健二監督)もされた「残菊物語」(昭和一二(一九三七)年)などの小説も多いが、後の「本朝画人伝」「近世名勝負物語」などは克明な人物伝として評価が高い(ここは主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

『「人も歩けば」を映画化したいと言う』私の好きな川島雄三の脚色及び監督(配給・東宝)で翌昭和三五(一九六〇)年二月九日に公開された。主人公砂川桂馬役をフランキー堺、彼の婿入りした先の姑を沢村貞子が演じている。梗概は「Movie Walker」の「人も歩けば」を。

「六十歳ぐらいにまた変調が起きるという説をなすものもいる。そこを過ぎると、長生きするのだそうだ」残念ながら梅崎春生は、この記事を書いた二年後の昭和四〇(一一九六五)年七月十九日午後四時五分、肝硬変のために満五十歳で白玉楼中の人となった。]

諸國百物語卷之一 四 松浦伊予が家にばけ物すむ事

     四 松浦伊予が家にばけ物すむ事

 

 會津の國若松といふ所に松浦伊予と云ふ人あり。此人の家にはいろいろふしぎなる事をゝし。

 まづ一どは、あるよのことなるに、にはかにぢしんのゆるごとくに、その家をゆりうごかすことおびたゞし。

 さてつぎのよは、なに者ともしらず、屋敷の内へ道もなきに來たりて、うらの口の戸をたゝき、

「あらかなしや」

と大ごゑをあげて、よばはる。あるじの女ばう、聞きつけ、

「何物なれば夜(や)中にきたりてかく云ふぞ」

としかりければ、ばけ物しかられて、すこし、しりぞき、又、かたはらの入口、おりふしあけてありけるをみて、かけ入らんとする。そのすがたをみれば、色白き女の、はだには白きかたびらをきて、たけながき髮をさばき、すさまじきこと、云ふばかりなし。あるじの女ばう、たゞ事ならず、と、をもひ、天照太神(てんしやうだいじん)の御祓(おはらい)をなげつけければ、そのまゝきへうせけり。

 三日めには申の刻ばかりに、かの女、大がまのまへに火をたきてゐけり。

 四日めには、となりの女ばう、せどへ出でければ、かの女、垣(かき)に立ちそひ、家の内を見いれいたり。となりの女ばう、大きにおどろきて、内にかけ入りければ、たちまちきへうせける。

 五日めの夜は臺所に來たりて、杵(きね)をもつて庭を、とうとう、と、うちけり。

 なにともせんかたなく、此うへは佛事祈禱より外のこと有るまじとて、さまざまいのりければ、まことに佛神のきどくありて、その次の日はきたらず。

「もはや來たること有るまじ」

と、いひもはてぬに、こくうより、

「五度にはかぎるまじ」

とよばはる。

 扨(さて)、その夜の事なるに、あるじのいねたる枕もとに來たり、すがたをあらはし、蠟燭をふきけしける。あるじの女ばう、をどろきて、しばらく、ぜつじしける。

 七日めの夜は、伊予ふう婦、いねたる枕もとに立ちより、ふう婦の頭をとりて、うちあて、又、すそよりつめたき手にて、ふう婦の足をなでけるを、ふう婦をどろき、氣をうしなひ、ふう婦ともに物ぐるはしくなりて死にけると也。いかなるゆへともわきまへがたし。

 

[やぶちゃん注:七日間に及ぶ怪異の記録(六日目にも虚空から呪詛(予言)の言葉が聴こえるという怪異がちゃんと起こっていることに注意)であるので、特異的に段落を施した。本話も「曾呂利物語」巻二の「三 怨念深き者の魂迷ひありく事」に基づく、ほぼ同話であるが、原話では、四日目の怪異で、亡霊が居るのを見つけた隣家の女房が『胆を消し、「隣りの化け物こそ爰に居て候へ」と呼ばはれば、化け物、いひけるは、「汝が所へさへ行かずば、音もせで居よ」と云ひて、又、消え亡せぬ』と亡霊が会話し、描写が妙に詳しい部分が大きく異なる。私のポリシーとして怪異のキモからいうと、「お前のところには(恨みはないので)近寄らぬから、何だかんだと声をあげずに、静かにしてな!」と叫ぶのは、妙に理屈っぽく亡霊らしくなく、却って怪異性を逆に削ぐ。「諸國百物語」の筆者がカットした気持ちが私はよく判る。また、主人の名を『いよ』と平仮名書きすること、亡霊が二度目の登場の際、ここに出る「あらかなしや」ではなく、『初花(はつはな)、初花』と叫んでいる点が有意に異なる。しかも、この原話の「初花」は、その「いよ」の女房の名とは読めず、恐らくは一般名詞の「初花」、「年ごろになったばかりの娘」という謂いかも知れぬ(としても謎めいた言上げではある。因みに「初花」は「初潮」の隠語でもある。何か、そうした霊に隠された、ある種の性的な背景を私は嗅ぎ取る)

「ぢしんのゆるごとくに」「地震の搖(ゆ)る如くに」なお、古語「搖る」は四段活用動詞なのでこれで正しい。

その家をゆりうごかすことおびたゞし。さてつぎのよは、なに者ともしらず、屋敷の内へ道もなきに來たりて、うらの口の戸をたゝき、

「あらかなしや」

と大ごゑをあげて、よばはる。あるじの女ばう、聞きつけ、

「何物なれば夜(や)中にきたりてかく云ふぞ」

「をもひ」「思(おも)ひ」。歴史的仮名遣は誤り。

「御祓(おはらい)」厄除けの御札。

「申の刻」午後四時前後。

「大がま」厨(くりや)の「大釜」。

「となりの女ばう」目撃者を隣家の女房とすることで怪異のリアリズムを格段に上げてある。

「せど」「背戸」。家の裏口或いは裏手。

「家の内を見いれいたり」隣りの家の敷地内に立って伊予の家の方を「見入れ居(ゐ)たり」(歴史的仮名遣誤り)の謂いであろう。怨念のベクトルを考えれば、伊予の家の敷地内から隣りの家を覗き見入っていたのでは、そのパワーが殺がれてしまう。

「杵(きね)をもつて庭を、とうとう、と、うちけり」原話にもあるが、SEとして絶妙にして、意味不明であるところがもの凄く、すこぶるよい。意味不明と書いたが、この女の怨念は実はこの動作にヒントが隠れているような気はする。杵で地面を打つ、という民俗的行為(これは子どもに任された豊作を祝う予祝行事である「亥の子」、「もぐらもち打ち」に酷似する)に何かがありそうに思うのである。識者の御教授を乞うものである。

「きどく」「奇特」。既注。神仏の霊験(れいげん)。

「こくう」「虛空」。

「五度にはかぎるまじ」「五度では、終りにはすまいぞ!」。

「ぜつじ」前話に出た「絶死」。失神。

「ふう婦」「夫婦」。

「わきまへがたし」「辨(わきま)へ難し」。現象を道理によって理解することが出来ない。全く見当もつかない。]

ヌカゴのことなど   梅崎春生

 

 私はヌカゴの味に秋を感じる。もちろん松茸や栗やサンマにも感じるけれど、近ごろ彼らは罐詰などになり、一年中食えるから、それほど強くは感じない。ああ、これが今年の松茸か、というようなもんである。ヌカゴの罐詰には、まだお目にかかったことがない。

 ヌカゴは零余子と書いて、自然薯(じねんじょ)や山芋の実(正確には肉芽)である。東京人はあまり食べないし、店でも売っていない。いや、一度だけ下高井戸の八百屋で売っているのを見て、私は買い占めて一人で食べた。なつかしい味がした。

 どうしてヌカゴに秋の味を感じるか。私の育った家(福岡)に生垣があって、それに蔓(つる)が巻きついて、秋になるとヌカゴがたくさん粒をつける。それを採っておふくろに煮てもらって食べる。その味の記憶がいまでも残っているからだろうと思う。とり立ててうまいというものではない。もさっとして素朴な味である。

 そのころはヌカゴが自然薯の実だとは知らなかった。知ったのは、その家を引っ越した後である。知ってりゃ自然薯を掘り出して、うまいうまいと食べたのに、といま思って残念である。

 東京に来て、前記八百屋のときだけで、ずっとヌカゴの味に接しなかった。ところが世田谷から練馬に引っ越して来ると、畠があちこちにあり、山芋を栽培している。秋になるとヌカゴが実る。その時節になると、私は袋を用意して、散歩に出かける。誰もいない畠から勝手にヌカゴを取るのは気がひけるので、農夫のいる畠を探す。声をかける。

「この山芋の実、売ってくれませんか」

 彼らは売ろうとしない。ただでくれる。

「ああ、そんなものなら、いくらでも持っていきな」

 しめたとばかり畠に踏みこみ、袋にどっさり詰めて帰る。彼らが栽培するのは、根を売るためなので、実なんか問題にしないのだ。食べることを知らないのもいる。ある若い農夫が私に反問した。

「それ、どうするんだね。子供の玩具にでもするのかい」

 かくして獲得したヌカゴを、醤油で薄味に煮て、つまようじで一粒一粒つき刺して食べながら、もって酒の肴とする。大して栄養のあるものではなかろうが、味が軽くて、前菜としては好適である。山本健吉の歳時記(さいじき)によると、

「とって炒(い)ったり、茹(ゆ)でて食べるが、(ヌカゴ飯)にもする」

 とあるが、私にはやはり薄味に煮たのがいい。郷愁と原料がただであることが、さらに酒の味を倍加させる。

 次は、椎(しい)の実。これも東京ではあまり見かけない。子供のときは近くに椎の実があったし、また果物屋でも売っていた。一升でいくらだったか覚えてないが、栗よりははるかに安かった。拾って来たり買ったりして、焙烙(ほうろく)で焙(あぶ)って食べると、香ばしくて甘い味がする。一昨年だったか、「西日本新聞」での連載随筆の中で、椎の実が食べたいというようなことを書いたら、読者から続々として椎の実が送られてきた。南は鹿児島から北は対馬産まで。大げさに言うと、うちは椎の実だらけになった。とても私一人では食べられない。家族に強制して食わせたり、来る人来る人に進呈したりした。これはめずらしいと喜んで受け取る人もあれば、迷惑そうに受け取る人もある。椎の実に執するのに個人差があるらしい。つまり幼ないときに食べたか食べなかったかによるのだろう。

 送られてきた椎の実は、送られてきた土地によって、大小や形に変化があるのは面白かった。一番見事だったのは対馬のもので、これは大粒で格別の甘みがある。椎の実は対馬に限る。

 椎の実にそえたあちこちの便りでは、九州ではいまでも椎の実を売っているそうである。行商人もいるということだ。

「椎の実はいらんか」

 というような呼び声をかけて、売り歩く。椎の実の問屋など、どうせありそうに思えぬから、どこかで勝手に拾ってきて、売って歩くのだろう。そう言えば私の子供のときも、椎の売り屋さんがいたように思う。そのころ私たちは椎の実は食べられるが、ドングリを食うと血を吐いて死ぬ、と教えられていた。しかし戦争末期や敗戦直後には、ドングリ粉の混ったパンを食べさせられたから、血を吐いて死ぬとはうそだったに違いない。でも、死なないにしても、ドングリは決してうまいものではない。

 それからヒシの実。私の両親が佐賀の出身で、秋になるとよくヒシの実が送られてきた。佐賀の町は縦横に堀割があって、そこにヒシが群生している。これも東京では売っていない。栗よりもずっとうまい、と言う人もいる。私のおやじもそうだった。若い青いうちはなまで食えるが、老熟すると茹(ゆ)でなきゃ食べられない。

 ただ栗と違うところは、栗はかんたんに皮がむけるのに、ヒシにはするどい棘(とげ)がある。つまりヒシ形にとがっている。それを口に入れて、歯で割れ目をつけて、中身を押し出す。その作法がむつかしい。うっかりすると口の中にトゲがささる。盆からつまみ取るときも、用心しないと手にささる。南京豆みたいに、ぽいぽいと口に運ぶわけにはいかない。苦心して食べるところに、そのうま味があって、私はそれを食べるたびに、秋の夜長という言葉を感じた。子供のくせに、生意気なことを感じたものだと、いまは思う。

 どうも人間というものは、子供時分に食べたものを食べたくなる時期があるらしい。だいたい私がいま、そんな年齢なのである。

 

[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年十一月号『随筆サンケイ』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。私は本篇を読んで何故、私が梅崎春生を偏愛するかがすこぶる腑に落ちた気がした。何故なら「ヌカゴ」(ムカゴ)も「椎の実」も「ヒシの実」もどこれもこれも私の大好物だからである。この三つが大好物だという人間は私と同じ世代には寧ろ、いや、極めて、稀だと思う。「ヌカゴ」は小学生の頃、裏山で、よく母と採った。「椎の実」は今でも、見つけると必ず拾って食べる。「ヒシの実」の美味さは小学校二年生の夏に母の実家のあった鹿児島の大隅町岩川の山間(やまあい)の沼で採って食べて以来、忘れ難い私の神の食物だ。二十数年前、タイはスコータイの寺院門前の道端で、老婆が竹を編んだ籠に入れた黒焼きにしたそれを売っていた。「チップチャン」(タイ語で「蝶」の意)という名の十九歳のガイドの娘さんが、私が「ヒシだ! ヒシだ!」と歓喜して叫んでいるのを見るや、「ヒシ」という日本語を手帳にメモした後、ポケット・マネーでそれを一籠買って、私にプレゼントして呉れたのが今も忘れられない。……「どうも人間というものは、子供時分に食べたものを食べたくなる時期があるらしい。だいたい私がいま、そんな年齢なのである」……私は今、五十九歳……「子供時分に食べたものを食べたくなる時期があるらしい。だいたい私がいま、そんな年齢なのである」……

「ヌカゴ」「零余子」珠芽とも書く。ウィキの「むかご」によれば、『植物の栄養繁殖器官の一つ』で、『主として地上部に生じるものをいい、葉腋や花序に形成され、離脱後に新たな植物体となる』。『葉が肉質となることにより形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられ、前者はオニユリ』(単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium)などで、後者はヤマノイモ科(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科 Dioscoreaceae)の種などで見られ、『両者の働きは似ているが、形態的には大きく異なり、前者は小さな球根のような形、後者は芋の形になる』。『食材として単に「むかご」と呼ぶ場合、一般には』ヤマノイモ(ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモDioscorea japonica)やナガイモ(ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea batatas)などの『山芋類のむかごを指す。灰色で球形から楕円形、表面に少数の突起があり、葉腋につく。塩ゆでする、煎る、米と一緒に炊き込むなどの調理法がある。また零余子飯(むかごめし)は晩秋・生活の季語である』とある。なお、「ぬかご」という読みもあり、梅崎春生の訛りではない。「零余子」という表記については、私が恐らく最もお世話になっている、かわうそ@暦氏のサイト「こよみのページ」の日刊こよみのページ スクラップブック (PV 415 , since 2008/7/8)の「零余子」の解説中に、『零余子の「零」は数字のゼロを表す文字にも使われるように、わずかな残りとか端といった小さな量を表す文字ですが、また雨のしずくという意味や、こぼれ落ちるという意味もあります』。『沢山の養分を地下のイモに蓄えたその残りが地上の蔓の葉腋に、イモの養分のしずくとなって結実したものと言えるのでしょうか』とあり、私の中の今までの疑問が氷解した。

「椎の実」ブナ目ブナ科クリ亜科シイ属 Castanopsis の樹木の果実の総称。ウィキの「シイによれば、シイ属は主にアジアに約百種が分布するが、日本はこの属の分布北限で、ツブラジイ(コジイ)Castanopsis cuspidate :関東以西に分布。果実は球形に近く、次のスダジイに比べ小さい)とスダジイ(ナガジイ/イタジイ)Castanopsis sieboldii :シイ属中、最北に進出した種。大木では樹皮に縦の割れ目を生じる。福島県・新潟県佐渡島にまで生育地を広げた。果実は細長い。琉球諸島のスダジイを区別して亜種オキナワジイ(Castanopsis sieboldii ssp. lutchuensis)とする場合がある。沖縄では伝統的に「イタジイ」の名が和名として用いられてきたが、両者が共存する地域ではこの「スダジイ」が海岸近くに、先の「コジイ(ツブラジイ)」が内陸に出現することが多い)の二種が自生する。他に日本では本シイ属に近縁のクリ亜科『マテバシイ属(Lithocarpus)のマテバシイ(Lithocarpus edulis)もこの名で呼ばれている』(このマテバシイ Lithocarpus edulis も生食可能である。果実の形状は前の「シイ」より遙かに「ドングリ」である)。同ウィキには『果実の椎の実は、縄文時代には重要な食料であったと言われている。近年では子供のおやつに用いられた。現在でも博多の放生会や八幡(北九州市)の起業祭といったお祭りでは炒った椎の実が夜店で売られている』とある。春生の郷里福岡周辺との強い親和性が窺われる。

「ヒシの実」一年草の水草で葉が水面に浮く浮葉植物(後述引用する通り、完全な「浮草」ではないので注意)であるフトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ(菱) Trapa japonica の果実。本邦では同属のヒメビシ Trapa incisa、及び変種オニビシ Trapa natans var. japonicaも植生する。ウィキの「ヒシ」より引いておく。『春、前年に水底に沈んだ種子から発芽し、根をおろし茎が水中で長く伸びはじめ、水面に向かって伸びる』。『よく枝分かれして、茎からは節ごとに水中根を出し(これは葉が変化したものともいわれる)、水面で葉を叢生する』。『葉は互生で、茎の先端に集まってつき、三角状の菱形で水面に放射状に広がり、一見すると輪生状に広がるように見える』。『上部の葉縁に三角状のぎざぎざがある』。『葉柄の中央部はふくらみがあって、内部がスポンジ状の浮きとなる』。『その点でホテイアオイに似るが、水面から葉を持ち上げることはない。また、完全な浮き草ではなく、長い茎が池の底に続いている』。『花は両性花で、夏から秋の』七 ~十月に『かけて、葉のわきから伸びた花柄が水面に顔を出して、花径約』一センチメートルの『白い花が咲く』。『萼(がく)、花弁、雄蕊は各』四個。『花が終わると、胚珠は』二『個あるが一方だけが発育し大きな種子となる。胚乳はなく、子葉の一方だけが大きくなってデンプンを蓄積し食用になる。果実を横から見ると、菱形で両端に逆向きの』二『本の鋭い刺(とげ。がくに由来)がある』。『秋に熟した果実は水底に沈んで冬を越す』。『菱形とはヒシにちなむ名だが』、葉の形に由来する、実の形に由来する、という両説があって、はっきりしない』。平地の溜め池、『沼などに多く、水面を埋め尽くす。日本では北海道、本州、四国、九州の全国各地のほか、朝鮮半島、中国、台湾、ロシアのウスリー川沿岸地域などにも分布する』。『ヒシの種子にはでん粉』が約五十二%も含まれており、茹でるか、蒸して食べると、『クリのような味がする。アイヌ民族はヒシの実を「ペカンペ」と呼び、湖畔のコタンの住民にとっては重要な食糧とされていた』とある。]

2016/08/25

交友について   梅崎春生

 

 先日、高等学校の友達四人があつまって酒を飲んだ。高校と言っても、今のシステムでなく、旧制のだから、年齢的にはすこし上になる。私は十七歳で入学した。私のクラスは文学好きが多くて、級友の十人ぐらいが相談して、同人雑誌を出すことになった。三号まで出したと思う。四人(H、M、S、それに私)はその同人誌の残党で、現在在京しているのは、この四人だけだ。あとは戦死、病死したり、自殺したり、地方にとどまったり、行方の知れないのもいる。それを思うと、昔の仲間なんかはかないものだ。

 飲んだ場所は銀座。Hが選んだ。Hは東芝に勤めていて、銀座にくわしい。

 久しぶりに会うと、皆それぞれの形で老けている。なぜあつまったかというと、Mが九州の竹田から上京して来たからだ。彼は東大英文を卒業後、勤めることはせず、家業をついで、造り酒屋の旦那になっている。今度息子が東京の大学を受験するというので、息子につきそって東京にやって来た。もうそんな息子があるのかとおどろくが、おどろく私にしても、鬢髪(びんぱつ)に若干白いものが交っているのだから、おどろく資格はない。

 銀座のその店は、話し合うのにうるさ過ぎた。座を変えようと言うので、本郷に行き、「松好」という飲屋に行った。戦前からあった店で、さすがにここは静かである。そこでいろいろ話し合ったが、ふと気がついてみると、昔の話ばかりしている。

「なんだ。おれたちは昔話ばかりしているじゃないか」

 と私が言ったら、皆同感した。誰かが言った。

「昔の話する以外に、話がないじゃないか」

 前記の三人は、学生時代の友人としては、私はもっとも親しい。その親友たちとも、前向きの話題でなく、回顧談一本槍になるというのが、何かわびしい気持がした。

 小学校時代の親友と、仕事の上では別の道を歩きながら、終生相変らぬ友情と交渉を保ち続けている例が、時にはある。しかし現代のように、変転が烈しい時代には、まれと言うべきではないだろうか。私(現在四十七歳)も小学校時代の友達と、今つき合っているのは一人もいない。同窓会も開かれていないようである。交友が成立するためには、ある程度の共通の基盤が必要である。同じ小学校に学んだということだけでは、薄弱である。おそらく同窓会が開かれたとしても、もう誰がそれであるかは、弁別出来ないだろう。やっと思い出したとしても、話は小学校時代のいたずらや先生のことなど、すべで後向きの話題に終始するだろう。

 でも、子供時代に返ったような気持になって、

「ああ、愉快だった」

 と一夜の歓を尽し、それで四方に別れ去るだろう。六年間の友情は、数十年経つと、一夜の歓で終るのだ。それは過去の交友であって、現在の交友ではない。

 もっとも昔の友達がなつかしいという感情には、個人差があるらしい。テレビの「私の秘密」という番組に、御対面というのがある。あれで昔の友達が出て来る。ひどくなつかしそうに、手を取り合って、

「おお、君だったのか。すっかり見違えて」

 と感激する型もあれば、ああ、君か、とひどく冷淡なのもいる。観ている側からすれば、もちろん前者の方が好ましいが、私自身をかえりみると、どちらかというと後者に近い。現在にかかわりないことには、あまり興味を持てないのである。まだ後向きの姿勢になりたくない気持もある。これが普通の現代人の感情じゃないだろうか。

 それと同じ意味で、私は戦友との交際はひとつもない。近頃読者の連絡欄みたいなものが、各新聞に新設されたが、あの中に「何々部隊の人に告ぐ。会合を開きたいから連結して下さい」というような文句がよく出ている。あつまって苦労の当時をしのぼうという趣向だろう。あれから十七年も経つし、生活も安定したし、その気持はよく判る。

 私も一年半ばかり海軍に召集された。応召の下級兵士としてである。血気盛んな兵長や下士官にぎりぎりとしぼり上げられた。その当時我々(いっしょに応召して来た)はたいへん仲が良かった。さまざまの職業や経歴の人たちがあつまっていたが、軍隊に入ったとたんに、そういう条件はすっぽりと剝脱され、兵士という一単位になってしまう。同じ釜の飯を食い、同じ訓話を受け、同じような制裁を受ける。親愛の情がそこに湧かないわけがない。

「一度でいいから畳の上で、ちゃんとした蒲団にくるまって寝たい」

 海軍で寝るところはハンモックだから、そんな嘆きが出て来る。私たちに共通した嘆きであった。しかし、そんな時でも私は、

「これは友情というものじゃない。被害者同士の連帯感だ。つまり奴隷(どれい)の友情に過ぎないのだ」

 という思いが、いつも胸から去らなかった。で、昭和二十年初秋に復員、それから戦友に会いもしないし、文通することもない。お互いに被害者の身分を解き放たれて、自由な生活に戻ると、共通感はとたんに解消してしまうのである。特に私たちは当時三十前後の、兵隊としては老兵で、皆ちゃんとした職業を持っている。復員してしまうと、心の通いようがないのだ。つまり彼等は、私の心の中で生きているだけで、現実に相わたることがない。交友というものは、現実に相わたるものがある時、初めて成立するものであって、死んだ過去のつながりは条件として成立しないように思う。

 いい友人を持つということは、その人の一生の幸不幸を決定する、なんて言葉もあるけれど、どうもそれは疑わしい。所詮人間は孤独なものであるし、よき友達が出来るのも、偶然がそれを決定する。というと、私にはよき友人がいないように響くかも知れないが、私は割に友人運に恵まれていたような気がする。学校時代には級友、卒業して勤めると職場の友人、という具合に、たすけたりたすけられたりして、今日までやって来た。やって来たつもりである。

 与謝野鉄幹にこんな詩がある。

 

  妻をめとらば才たけて

  顔(みめ)うるわしくなさけある

  友をえらばば書を読んで

  六分の侠気四分の熱

 

 明治ののんびりした空気が感じられるが、そんな都合のいい女房や友人が、おいそれと見つかるものでない。鉄幹子はこれを現実としてでなく、理想のものとして歌い上げたものだろう。私個人の好みからすれば、六分の侠気四分の熱、などを持った男と、あまり友人になりたくない。親分風を吹かせてがらがらしたような男が眼に浮んで来る。

 友情なんてものは、誤解の上に成り立つのではないか。そんなことを私は考えたことがある。高等学校最後の一年、私は素人(しろうと)下宿にいた。止宿人は四人。皆仲よくやっていた。その中にKという私の下級生がいた。私が卒業して上京、ある日校友会雑誌が送られて来た。見るとKがそれに小説を発表している。私はそれを読んでおどろいた。私がモデルになっているのである。私という人間を、徹底的にやっつけてあるのだ。書いてある条件や環境は、そっくり事実だが、Kの受け取り方が違う。私が好意でやったり、しゃべったりしたことを、Kは私の悪意からの所業だという風に書いてあるのである。おどろくというより、愕然としたと言った方が正しい。

「ああ、Kのやつは、そんなことを考えていたのか」

 それを見抜けなかった私の人の好さもあるだろう。でも、人間は本質的に他人を理解出来ないものだ。その思いが強く私に迫って、その考えは今でもそう変らない。人間は自分のことだってよく判らない。まして他人のことなど、判りっこはないのである。

 それと逆の場合が、交友だの恋愛だのに起るらしい。惚れて通えばあばたも笑くぼ。そういう風なものだ。人間はすべてのことを、大体自分の都合りいいように解釈するものである。(都合の悪い方に解釈するようになると、その人はノイローゼという病名を与えられる。)友情だってその例外ではない。おれとあいつは無二の親友だ、と考えることは、誤解であり、さもなくば誇張された悲壮感である。私は信用しない。

 と言えば、みもふたもない。が、根本的にそんな自覚があれば、重大な破局に際し、おれはあいつに裏切られたと、怒ったり嘆いたりすることはないだろう。

 先ほど交友というものは、ある程度の共通の地盤がないと成立しないと書いたが、あまり共通し過ぎると、かえって成立しない。友達というより、競争相手としてあらわれるからだ。ことに現在は、小さな島に一億もの人間がひしめき合っている。人を蹴落さねば、自分の存立があぶない。虎視耽々(たんたん)としてそのチャンスをねらっている、という事情が成立しかかっている。その点で言うと、子供時代の交友が一番純粋で、大人のそれはさまざまのニュアンスや陰翳(いんえい)を含んでいる。

 交友について書けと言われて、書いている中に妙にペシミスティックになってしまった。私の考え方は偏していて、おそらく一般的でないだろう。だからこの文章は読み捨てて、新しくいい友人を持ちなさい。人間の一生がかけがえがないのと同時に、良い友達もまたかけがえがないものだ。

 

[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年六月刊の『電信電話』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「妻をめとらば才たけて/顔(みめ)うるわしくなさけある/友をえらばば書を読んで/六分の侠気四分の熱」與謝野鐡幹の明治『三十年八月京城に於て作る』(明治三十年は西暦一八九七年)の添え題を持つ「人を戀ふる歌」の第一連。こちらで全篇が読める。

「私が卒業して上京、ある日校友会雑誌が送られて来た。見るとKがそれに小説を発表している。私はそれを読んでおどろいた。私がモデルになっているのである」熊本第五高等学校の学校誌「龍南会雑誌」しかないが、「熊本大学附属図書館」公式サイトのこちらで閲覧出来る。梅崎春生卒業前後に欠本は、ない。私は、或いはこれか? と感じる一篇を見つけたが、自信はない。興味のあられる方は、どうぞお探しあれ。]

押し売り   梅崎春生

 

 私の家は東京の練馬区で、新開地のせいか、ずいぶん押し売りのたぐいが多かった。一昨年あたりまでは、平均二日に一度ぐらいはやって来て、家人を悩ました。それが昨年あたりからしだいに減り始めて、今年になってはほとんどやって来ない。

 来なけりや来ないで、淋しいものである。実は私は押し売りだのにせ電球売りだのをかまうのが大好きで、そんなのが来ると仕事を中止して物かげに身をひそめ、家人に応対させて、さて最高潮に達した時、ぬっと姿をあらわす。私は五尺七寸、今は着ぶくれをしているから、結構強そうに見える。たいていの押し売りはぎょっとして、態度が軟化し、こそこそと退散してしまう。弱きをたすけ強きをくじく、という感じがして、いい気分のものである。ほどよきレクリエイションとなり、仕事の進みも早いようだ。

 でも、なぜ近頃押し売り類が少なくなったか。考えてみると、減り始めた時期は、人手不足、求人難の時期と大体重なっているようである。つまり押し売り人口が、人手不足の方に吸収されて、そこで減ったものと考えられる。何も押し売りみたいな、人に厭がられる、また危険率の多い仕事に従事せずとも、収入のいい正業がいくらでもあるのだから、転向するのも当然である。まあ喜ばしい傾向だと言えるだろう。

 ここに哀れをとどめたのは(かどうかは知らないが)元締めで、今まで手下を使って押し売りをさせ、そのかすりで生活していたのに、手下の志望者がぱったりとなくなってしまった。元締めとしてはめしの食い上げである。という風に、つれづれなるままに想像して、その哀れで間の抜けた元締めを主人公にして、小説に仕立ててやろうと、この間から私は計画している。うまく行くかどうか。一昨日、久しぶりに押し売りがやって来た。ゴム紐でなく、箒(ほうき)売りである。例によって家人に応対させ、私はかくれていたら、女一人とあなどったのか、だんだん言葉がぞんざいになる。初め一本五百円だと言っていたが、しだいに値下げし始めた。四百円から三百円、ついには五十円になった。それでも家人が買おうと言わないので、彼は業を煮やして、言葉も荒く、「三十円。三十円でどうだ。それでも買わねえと言うのか。それじゃ十五円!」いくらいんちき品でも、一応の座敷箒である。十五円で売れる筈がない。いんねんをつける気なのである。そこで私がぬっと姿をあらわした。

「十五円か。よし。買おうじゃねえか」

 と私が言ったら、箒売りは急にしどろもどろとなり、幸か不幸かその時郵便屋さんが書留を持って玄関に入って来たので、あたふたと逃げて行ってしまった。私は十五円で箒を買いそこねた。

 案外あんなのが昔の元締めで、手下に去られて、個人営業(何だかタクシーみたいだ)に踏み切ったんじゃないかと、私は想像している。

 

[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年五月号『婦人生活』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「五尺七寸」約一メートル七十三センチ。

「かすり」とは「掠り」「擦り」などと書き、上前(うわまえ:江戸時代に神領などで諸国の年貢米を通す際に取った通行税「上米(うわまい)」からの転。代金・賃金の一部から仲介者が搾取する手数料)をはねること、口銭(くちせん/こうせん:手数料・仲介料)を取ること、その「もうけ」の謂いである。]

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第五章 野生の動植物の變異(2) 一 昆蟲類の變異 

 

     一 昆蟲類の變異

 

[變異と適應]

Henitotekiou

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。学術文庫版ではこの図は省略されてしまっている。以下、キャプションを電子化する。

 

【右図外】

地方的變種の例

1「こひをどしてふ」中部ヨーロツパ産

2同南部ヨーロツパ産

3同北部ヨーロツパ産

【左図外】

季節的變種の例

4「あかまだら」夏形

5同冬形

變異の例

6789「はなばち」の一種、

雌雄二形、

10蝶の一種雌

11同雄

【図下部外】

水中生活に適する動物の例 12 13「かげろふ」の幼蟲と成蟲 14「まつもむし」

水中生活に適する植物の例 15 16「ひし」とその實 17「うめばちも」の一種

 

 以下の注で本図の生物の同定を試みるが、図自体がモノクロ(色彩変異が判別出来ない)な上に外国のものらしく、種までの正確な同定は困難である。

「こひをどしてふ」本邦産の、

昆虫綱双丘亜綱有翅下綱長節上目鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科タテハチョウ亜科タテハチョウ族タテハチョウ族 Aglais 属コヒオドシ(小緋縅)Aglais urticae

のヨーロッパ産の別種、或いは同族か同属の仲間、或いは近縁種、或いは丘先生が執筆された当時は近縁種とされた別種と思われる。但し、図の三つともに前翅前縁にある紋様はコヒオドシ Aglais urticae のそれとよく一致する。なお、本種コヒオドシ Aglais urticae には「姫緋縅(ヒメヒオドシ)」の別名もある(ある学術データでは、これをアカタテハ属コヒオドシとし、学名を Vanessa urticae f. connexa とするのであるが、“f.”(品種)というのは解せないので採らない)。ウィキの「コヒオドシ」及びグーグル画像検索「Aglais urticaeをリンクさせておく。

「あかまだら」タテハチョウ科サカハチチョウ属アカマダラ Araschnia levana ウィキの「アカマダラ」によれば、分布は日本『国内では北海道のみで、渓畔に多いサカハチと違い平地・低山地にも広く生息する』。『国外では中央~東ヨーロッパの低地に広く分布し、その分布範囲を西ヨーロッパにも広げつつある』とし、本種は『春型と夏型で全く外見が異な』り、『夏に生まれたものは黒地に白の模様でイチモンジチョウ』(タテハチョウ科イチモンジチョウ亜科イチモンジチョウ族オオイチモンジ属イチモンジチョウ Limenitis camilla 。同種も固有のかなり異なった個体色彩変異(季節変異は不明瞭とどの記載にもあるからこれは地域変異か)を持つ。ウィキの「イチモンジチョウ」の画像を参照されたい)『を小型にしたような姿であり、春型にあるようなオレンジ色が見られない。これは幼虫時代の日照時間の長さが影響する(日を短くして飼育すると春型になる)』とある。ウィキの「アカマダラ」の画像で、その別種としか思えない季節二形が、よく判る。必見。

「はなばち」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科 Apoidea に属する蜂類の内、幼虫の餌として花粉や蜜を蓄える種群の総称。私にはこの図ではこれ以上の同定は不能である。

「かげろふ」有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea上目蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeroptera の仲間。幼虫は総て水生。現在、二十三科三百十属二千二百から二千五百種が確認されており、この図からさらに限定することは私には出来ない。

「まつもむし」狭義には有翅下綱節顎上目カメムシ目カメムシ亜目タイコウチ下目マツモムシ上科マツモムシ科マツモムシ亜科マツモムシ属マツモムシ Notonecta triguttata を指すが、本邦だけでも三属(マツモムシ属・Anisops属・Enithares属)九種が棲息するから、本図のそれはマツモムシ属 Notonecta、或いはマツモムシ亜科 Notonectidae のレベルで留めておくのが無難であろう。

「ひし」フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica 或いは近縁種(本邦でもヒメビシ Trapa incisa・変種オニビシ Trapa natans var. japonica が植生する)。

学名

「うめばちも」「梅鉢藻」或いは「梅花藻」と表記する「ウメバチモ」は、日本固有種であるキンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ属バイカモ亜属イチョウバイカモ変種バイカモ Ranunculus nipponicus var. submersus の別名であるから、この図のそれはバイカモ亜属 Batrachium のバイカモ類の一種としておくのがよい。

「雌雄二形」典型的な性的二形の例を示したものであろうが、もっと極端に異なった全く違う生物に見えるもの種(昆虫類でも数多くある)を示した方がよかったとは思う。一枚図版で処理しようとしたために、却って性的二形の実体の驚愕が伝わってこないのは遺憾である。]

 

 凡そ如何なる動植物の種類でも、標本を數多く集めて之を比較して見ると、一として總べての點で全く相同じきもののないことは、今日の研究で十分に解つて居るが、その互に相異なる點の性質によつては、特別の機械を以て精密に測らなければ解らぬやうなこともある。身長の差違、體重の差違等でも、天秤や物指しを用ゐなければ、明には知れぬが、況して體面の屈曲の度とか凸凹の深淺の割合とかの相違を調べるには、特にそのために造られた複雜な器械を用ゐなければならぬ。たゞ彩色・模樣等の相違は眼で見ただけでも一通りは解るから、野生動植物の變異性のことを述べるに當つては先づ模樣の變化の著しい例を第一に擧げてみよう。それには我が國何處にも普通に産する小形の黄蝶などが最も適切である。[やぶちゃん字注:最後の一文中の「どこにも」は底本では「どにこも」となっている。錯字と断じて特異的に訂した。]

 注ぎに掲げたのは黃蝶の圖であるが、翅は一面に美しい黃色で、たゞ前翅の尖端の處だけが黑色である。幼蟲は荳科の雜草の葉を食ふもの故、この蝶は到る處に澤山居るが、春から夏へ掛けて多數を採集し、之を竝べて見ると、翅の黑い處の多い少いに著しい變化があり、或る標本ではこの圖の(左上)のものの如く前翅の端が大部分黑く、後翅の緣も黑い程であるが、また他の標本ではこの圖の(右下)[やぶちゃん字注:これは「右上」或いは「右上と右下」とするべきである。]のものの如く翅は前後ともに全く黃色ばかりで、黑い處が殆どない。それ故、初めはこの蝶には幾種もあると思ひ、實際黑色の部の多少によつて之を數種に區別し、各種に一々學名を附けてあつたが、岐阜の名和氏、橫濱に居たプライヤー氏などの飼養實驗によつて、悉く一種内の變化に過ぎぬことが判然したので、今では之に種々の變化を現す黃蝶といふ意味の學名が附けてある。

[やぶちゃん注:「荳科」「マメか」。普通のマメ目マメ科 Fabaceae のこと。

「名和氏」ギフチョウ(アゲハチョウ科ウスバアゲハ亜科ギフチョウ族ギフチョウ属ギフチョウ Luehdorfia japonica)の再発見者(命名者)として知られる昆虫学者名和靖(安政四(一八五七)年~大正一五(一九二六)年)。美濃国本巣郡船木村字十五条(現在の岐阜県瑞穂市重里)生まれ。

「プライヤー氏」イギリスの動物学者ヘンリー・プライアー(Henry James Stovin Pryer 一八五〇年~明治二一(一八八八)年)。明治四(一八七一)年に中国を経て来日、横浜の保険会社に勤務する傍ら、同地で急逝するまで、昆虫類(特に脈翅目類(蝶・蛾))や鳥類を採集・研究した。単なるコレクターではなく、蝶を飼育して気候による変異型を明らかにした研究は高く評価されている。主著は日本産蝶類の初の図鑑「日本蝶類図譜」(一八八六年~一八八九年。本書の英文には和訳が添えられており、採集地に敬意を表した彼のナチュラリストとしての見識が窺える)、ブラキストン線で知られる、北海道に滞在したこともあるイギリスの貿易商で博物学者トーマス・ライト・ブレーキストン(Thomas Wright Blakiston 一八三二年~一八九一年)との共著「日本鳥類目録」(一八七八年~一八八二年)がある。

「今では之に種々の變化を現す黃蝶といふ意味の學名が附けてある」以下に注するように、現行のキチョウの学名はEurema hecabeであるが、これはリンネの命名によるものであるから、このような意味がこの種小名にあるはずはない(これはギリシア神話に登場するイリオスの王プリアモスの妻女王ヘカベー(ラテン語:Hecuba)の名由来であると思うが、この女王にはそのような伝承はない。或いは、彼女が十九人もの子を産んだことに由来するか? ウィキの「ヘカベーを参照されたい)。不審。或いは、以前に別な種小名(シノニム)があったものか? 識者の御教授を乞う。因みに属名はギリシャ語の「発見・発明」の意の“heurema”の語頭の“h”を省略したもの)。]

 

Kityounoheni

[黃蝶の變化

(翅端の黑き部分の有無多少を示す)]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。本種は普通に見られる、

鱗翅目Glossata亜目Heteroneura下目アゲハチョウ上科シロチョウ科モンキチョウ亜科キチョウ属キチョウ Eurema hecabe

であるが、ウィキの「キチョウ」によれば、『従来「キチョウ」とされていた種は、キチョウ(ミナミキチョウ、南西諸島に分布)とキタキチョウ(Eurema mandarina、本州~南西諸島に分布)の』二種に『分けられることになったが、外見による識別は困難』とする。前翅長は二〇~二七ミリメートルで、『近縁のモンキチョウ』(モンキチョウ属モンキチョウ Colias erate)『よりもやや小さい。翅は黃色で、雄の方が濃い色をしている。前翅、後翅とも外縁は黑色に縁どられ、裏面に褐色の斑点がある。夏型と秋型があり、前者は外縁の黑帯の幅が広いが、後者は黑色の縁が先端に少し残るか、もしくはない。成虫は年に』五、六回『発生し、越冬も行う。早春には活発に飛び回る姿が見られる』とある。]

 

 黃蝶のみに限らず、蝶類は一體に甚だ變異の多い動物で、目本に普通な「べにしゞみ」といふ奇麗な小蝶も、採集の時と場所とに隨つて、紅色の著しいものもあり、また黑色の勝つたものもある。また揚羽蝶(あげはてふ)の中には産地によつて後翅から後へ出て居る尾のやうなものが有つたり無かつたりする種類もある。他の昆蟲類とても隨分變異が著しい。或る甲蟲類では翅が有つたり無かつたりする程の甚だしい變異を一種内に見ることがある。また昆蟲類の變異は成蟲に限る譯ではなく、隨分幼蟲や蛹などにも盛な變異があり、或る學者の調によると、一種の蛾の幼蟲に十六通りも變異があつた場合がある。今日昆蟲學者と稱して昆蟲を採集する人は世界中に何萬人あるか知らぬが、多くはたゞ新種らしきものを發見し記載することばかりに力を盡し、この面白い變異性の現象を學術的に研究する人は、西洋でも比較的甚だ少い。

[やぶちゃん注:「べにしゞみ」アゲハチョウ上科シジミチョウ科ベニシジミ亜科ベニシジミ属ベニシジミ Lycaena phlaeas ウィキの「ベニシジミによれば、『春に日当たりの良い草原でよく見られる小さな赤褐色のチョウである。成虫の前翅長は』一・五センチメートルほどで、『前翅の表は黒褐色の縁取りがあり、赤橙色の地に黒い斑点がある。後翅の表は黒褐色だが、翅の縁に赤橙色の帯模様がある。翅の裏は表の黒褐色部分が灰色に置き換わっている。時に白化する場合もある』。『成虫は年に』三~五回ほど、『春から秋にかけて発生するが、特に春から初夏』、四月から六月にかけて『多く見られる。春に発生する成虫(春型)は赤橙色の部分が鮮やかだが、夏に発生する成虫(夏型)は黒褐色部分が太く、黒い斑点も大粒になる』とある。

「揚羽蝶(あげはてふ)」アゲハチョウ上科アゲハチョウ科 Papilionidae に属するアゲハチョウ類。世界で五百五十種ほどが知られる。

「或る甲蟲類では翅が有つたり無かつたりする程の甚だしい變異を一種内に見ることがある」甲虫類(鞘翅(コウチュウ)目 Coleoptera)に限定され、しかも「翅が」退化したのではなく、「無」いとなると、昆虫の苦手な私には直ぐには浮かばない(性的二形での翅が退化していて飛べない種なら、例えば鞘翅目多食(カブトムシ)亜目ホタル上科ホタル科ホタル属ヒメボタル Luciola parvula がいる)。識者の御教授を乞う。

「調」「しらべ」。]

諸國百物語卷之一 三 河内の國闇峠道珍天狗に鼻はぢかるゝ事

    三 河内の國闇峠(くらがりとうげ)道珍天狗に鼻はぢかるゝ事


Dautin


 河内の國くらがり峠と云ふ山のをくに、十二、三町ほど行けば、山中に宮あり。此みやに道珍と云ふ人、たゞ一人すまひしける。この道珍、五十一の年まで、つゐにおそろしきと云ふことをしらず。あわれ、ちとおそろしき事にもあひたき、などゝ思ひ、人にも抗言(かうげん)しける。ある時、今口(いまくち)と云ふ在所へ非時に行きけり。折ふし雨ふり、つれづれなるまゝに、日ぐれがたまで咄しゐてかへりけるが、山のをく、七、八町ほどゆけば、道に石橋(いしばし)あり。はじめは此橋になにもなかりけるに、もどりには、死人、よこたをれ、ゐけり。道珍ふしぎにおもひけれども、おそろしきことしらぬ人なれば、死人(しびと)の腹をふみてとをりけるに、此死人、道珍がすそをくわへて、引きとむる。道珍、此死人の腹をふみたるゆへに、口ふたがりて引きとむる、とおもひて、又、腹をふみければ、口、あきぬ。道珍、おもひけるは、此死人、ひんなるゆへに寺へもゑやらず、こゝにすてたるとみへたり。さらば、うづめてとらせん、とて、死人を引きをこし、せなかにおひて、わが屋に歸りて、おもふやう、此死人、すそをくわへて引きたるとがあれば、そのくわたいに、こよひは、しばりをき、夜あけてうづめん、とおもひて、さし繩をぬひて、松の木に死人をしばりつけ、道珍は、ねやに入りて、ねにければ、夜半のころ、門のほとりより、「道珍、道珍」とよぶ聲、きこへける。道珍、目ざめ、ふしぎにおもひ、

「夜ふけて此山中にたづねきたるものはなに物ぞ」

ととへば、

「なにとてわれをしばりけるぞ。□□□繩をとくべし」[やぶちゃん注:判読不能字の右には校訂者による『(はやく)』という推定補注が附されてある。]

と云ふ。道珍いよいよふしぎにおもひ、お□□せずしてゐけるに[やぶちゃん注:判読不能字の右には校訂者による『(とも)』という推定補注が附されてある。]、

「ぜひ繩をとかずは、それへ行ぞ」

といひもあへず、繩をふつふつときるをとしければ、さしもがうなる道珍も心すごくなり、ひごろたしなみける大わきざしをとり出だし、戸かきがねをかため、身をちゞめて居たりける。かゝる所に、はや戸をあけ來る。道珍、かなわぢ、とやおもひけん、脇指をぬき、なんどの口にまちいたり。かの死人、こゝかしことたづぬるを、道珍よこさまより、てふどきれば、死人、かたうできられてうせにけり。きりたる手を取りあげ見ければ、針のごとくなる毛はへ、なかなかおそろしき手也。道珍、此手を大事として長持に入れをきけるに、その夜もほのぼのとあけぬ。いつも道珍が母、かの宮へ里より毎朝さんけいせらるゝに、此朝、いつよりはやう來たり、道珍、いまだ、ねてゐたりしを、たゝきおこせり。道珍、目さめ、いそひでおき、

「いつより、けさは、はやく御まいり候ふ」

と申せば、母、かたりけるは、

「こよひ、ゆめみあしかりしが、ゆふべ、なにごともなかりけるか」

と、とふ。道珍、はじめをはりの事ども物がたりしければ、母おどろきたるふぜいにて、

「その手をみせ給へ」

といふ。道珍、見せ申す事なるまじきよし申せば、ぜひとも、と所望し給ふゆへに、ぜひなく取り出だし見せければ、母はかた手をぬき入れ、かた手にて件(くだん)の手をひつたくり、

「是れこそ、わが手なり」

とて、けすがごとくにうせにけり。今まではれやかなるそら、にわかにくらやみとなり、こくうに鬨(とき)のこゑをつくりて、どつと、わらひける。さしもがうなる道珍も、氣をうしなひ、絶死(ぜつじ)しける。その間に、まことの夜あけて、いつものごとく、母、みやへさんけいせられ、道珍が所に來たり、道珍が死してゐけるを見ておどろき、里へをりて、人をともなひ來たり、氣つけなどのませ、いろいろとしければ、しばらく有りて道珍、いきかへり、いかゞ、とゝへば、はじめをわり、しかじかの事ども、物がたりしけり。それより道珍、日本一のをくびやうものとなりけるとなり。是れも、道珍、あまりにかうまん有りけるゆへ、天狗のなすわざなりける、となり。

 

[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻二の「七 天狗の鼻つまみの事」に基づく、完全な同話。但し、主人公を『參河の國』の『道心』とし、年齢も示さず、挿絵ではマッチョでかなり若く見える(「五十一」では剛腕さや傲慢さが生きにくいから原話の方がよい)。また社のある場所を『平岡の奥』とすること、また後半に登場する重要な役割の「母」も原話では縁者でなく、単に『老女』となっている。挿絵の右キャプションは「道珍しびとのはらをふむ事」。この底本の挿絵は擦れと汚損がひどいので外側の枠を除去するなど、私が恣意的に大幅な補正を行っている。

「河内の國闇峠(くらがりとうげ)」今の暗峠(くらがりとうげ)。奈良県生駒市西畑町と大阪府東大阪市東豊浦町との境にある峠。標高四百五十五メートル。ウィキの「暗峠によれば、この不吉に響いて、ここでのロケーションとしては最適の名称「くらがり」の『起源は、樹木が鬱蒼と覆い繁り、昼間も暗い山越えの道であったことに由来している。 また、「鞍借り」、「鞍換へ」あるいは「椋ケ嶺峠」といったものが訛って「暗がり」となったとする異説もある。上方落語の枕では、「あまりに険しいので馬の鞍がひっくり返ることから、鞍返り峠と言われるようになった」と語られている』とある。

「道珍」実は底本ではこれに「どうちん」とルビを振る。読みを附さなかったのは、敢えて振る必要を感じなかったことに加え、歴史的仮名遣は正しくは「だうちん」だからである。

「天狗に鼻はぢかるゝ事」「鼻彈ぢ」くで、これは軽くは「軽くいなしてからかう」の謂いであるが、ここではもっと強い、所謂、「鼻を折る」(驕った高慢な心を挫(くじ)く・得意がっている者を凹(へこ)ませて恥をかかせる)と完全な同義として用いている。原話と同じく「傲慢」な主人公に「天狗」と「鼻」を絶妙に上手く掛けてあるのである。

「十二、三町」一キロ三百から四百キロメートルほど。

「宮」神仏習合であるから、この道珍なる僧はこの山中の社僧である。話柄から判る通り、神主・堂守を兼ねた独居ということになる。

「抗言(かうげん)」相手に逆らって言い張ること及びその台詞自体を指す。

「今口」不詳。現行の暗峠の周辺に似たような地名を見出せない。識者の御教授を乞う。

「非時」夕食(だから帰りが夜)。僧侶の食事は「齋(とき)」と呼ぶが、本来の仏教の基本戒律に於いては、僧や修行者は正午を過ぎての食事を禁じており、午前に一度だけの正式な食事を「斎食(さいじき)」「斎・時食(とき)」「おとき」と称し、それが正しい唯一の正式に許された食事の意の「時(とき)」なのである。しかしそれでは実際には体が持たないため、時間外の摂食を「非時食(ひじじき)」「非時(ひじ)」と称して許し、早くから僧も夕食を摂るのが普通になったのであるが、この二つの呼び名が孰れも時刻に関わる呼称であったことから、仏家に於いては食事のことを「とき」と呼ぶようになった。ここは或いは麓で何か法会などがあって彼が出向き、そこで供された精進料理、施食(せじき)ででもあったのかも知れぬ。毎夜、こうして夕食を摂っていたわけではあるまい(いや、傲慢不遜なる坊主ならそれもありか)。

「七、八町」七百六十四~八百七十二メートル。

「よこたをれ、ゐけり」「橫斃れ、居けり」。

「すそをくわへて」「裾を銜(くは)へて」。歴史的仮名遣の誤り。

「此死人の腹をふみたるゆへに、口ふたがりて引きとむる」「此」は「これ」と読んでおく(原文にはご覧の通り、「此」の後の読点はないから、「此の」と下へ続けて読ませている可能性もあるけれども私はとらない)。腹を踏んだから、単に物理的に開いていた顎が閉じて、裾を銜えた結果、死人(しびと)が意志で銜えて引き留めたよう見えたに過ぎぬ。

「此死人」ここは「このしびと」。

「とが」「咎・科(とが)」。道珍はあくまで現実主義者であるから、死人のくせに僧衣を穢したと考えたのであろう。死体であってもそうなってしまった事実は罪ととったのである。

「くわたい」「科怠」。とがむべき怠慢。怠けてすべき行い(ここではするべきでない僧衣を穢すという行い)をしない結果として発生した過失。ただ、死体に「怠慢」は流石に「ない」と思うが、ね。

「しばりをき」「縛り置き」。

「さし繩」「差し繩・指し繩」で「捕り繩」のこと。太刀の鞘に付けた組紐のことで、本来は刀を帯びる際に腰に結び付ける繩である。「帯取(おびとり)」「足緒(あしお)」などとも呼ぶ。

「ぬひて」「縫ひて」ではおかしい。これは「拔きて」の語記ではあるまいか。

「ねや」「閨(ねや)」。

「お□□せずしてゐけるに」推定補注通り、「音もせずして居けるに」ととってよい。夜半の訪問者という怪しい者に、凝っと音をさせぬように用心して聴き耳を立てていたところが。ここぐらいまではまだ道珍は、死人を装った生きた盗賊の類いなどを可能性においており、物の怪と思っているわけではないと私は思う。

「行ぞ」「ゆくぞ」。

「繩をふつふつときるをと」優れたSE(サウンド・エフェクト)。ここがまず、ホラーの最初のクライマックスである。

「さしもがうなる」「然(さ)しも剛(がう)なる」「然しも」は副詞(〔副詞「さ」に助詞「し」「も」が付いた語)で、「程度が並ではないことを誰もが認めているさま・あれほどの」今も「さしもの」と同様、多くの予想に反した結果について用いる。

「心すごくなり」慄っとするほど恐ろしくなり。

「ひごろたしなみける大わきざし」「日頃、嗜みける大脇差」。「嗜む」は「愛用している」の意。

「戸かきがね」「戸掛き金」。

「かなわぢ」ママ。「かまわじ」。

「なんど」「納戸」(「なん」は唐音)。本来は衣類・家財・道具類を仕舞い置く部屋で屋内の物置部屋を指すが、中世以降は寝室にも用いられた。ここは後者で「寝間(ねま)」である。

「てふどきれば」「丁(ちやう)ど斬れば」の誤り。一般知られる、物が強くぶつかり合うこと、或いは太刀を打ち下ろした際などのオノマトペイアである「ちやうと(ちょうと)」は、古くは「ちやうど」と表記した。「ハッシ!」と斬りつけたところ。

「はじめをはりの事」昨夜の一部始終(但し、ここも変化(へんげ)の物の怪のフェイクで、実際には世は明けていないのであるが)。

「見せ申す事なるまじきよし申せば」これは母を疑っているのではなく、それがあまりにまがまがしいものであるから、母を驚かせまいと気遣ったのである。

「母はかた手をぬき入れ、かた手にて件(くだん)の手をひつたくり」拘った描写に注目。母の、一方の片腕は袂に隠れて見えないのである。

「けすがごとくにうせにけり」「消すが如くに失せにけり」。驚くべき短時間、瞬く間に姿を消失したさまを、かく言った。

「こくう」「虛空」。

「絶死(ぜつじ)」気を失うこと。後の「道珍が死してゐける」も同様。失神しているのであって死んだのではない。

「をくびやうもの」「臆病者」。歴史的仮名遣では「おくびやうもの」が正しい。

「かうまん」「高慢」。]

あさって会   梅崎春生

 

 十一月十三日に「あさって会」をやるというので、新宿のメイフラワーに出かけて行った。久しぶりの会合である。今回は椎名麟三、武田泰淳、堀田善衛が中国に行くから、その送別の意味もかねた。昔ならかねるどころでなく、送別一本やりのところだが、今は飛行機でしゅーっと行ってしゅーっと戻って来る。君に勧む更に尽せ一杯の酒、西陽関を出づれば故人なからん。ナカランナカラン故人ナカランと、うたう気持にもなれない。便利な世の中になったものだ。

 堀田、武田とも元気だし、気づかわれていた椎名麟三も血色がよく、好調の様子であった。あちらは寒くはないかと心配していたが(寒いと心臓にこたえる)、大したことはなかろうということで送別の辞は終り、あとは料理を食べながら酒を飲み、とりとめもない雑談を交し、無事散会した。いつもあさって会は、何となくあつまり、とりとめもない会話で終始してしまう。特別の目的を持った会でないので、それでいいのだろう。

 成り立ちからそうだった。あれは昭和三十一年だったか、雑誌「文芸」で三カ月にわたる座談会をひらいた。メンバーは前記三人の他、埴谷堆高、野間宏、中村真一郎、それに私。(私は事情があって最初の会は欠席して、二回目から出た。)「文芸」の方では、最初から三回を予定していたのか、第一回が面白かったので三回に伸ばしたのか、多分後者だと思うが、よく言えば談論風発で、一斉に三人も四人も発言して、速記の人を困らせた。とりとめがないくせに、割に実があって、

「あれは面白い座談会だった」

 と、いろんな人に言われた記憶がある。やはり面白かったので、三回に引き伸ばしたのだ。

 三回が終って、これから時々あつまろうじゃないかと、誰かが言い出して、皆それに賛成した。三回も続けると、お互いの気心も知れて、まだ話し足りないような気分に、皆がなっていたのだろう。会合をするには、会の名前があった方が便利だというので、色々考えて「あさって会」ときめた。実は名前がなくてもいいようなものだけれど、会合の場所などを予約するのに、個人名より会名の方が押しがきくという利点がある。

 あさってとは別に意味はない。明日の次の日のことである。

「あの人の眼は、あさっての方向をむいている」

 視線のおかしい人のことを、そう表現することがある。その意味に解されても、別に不都合はない。ただの符牒だと、私は考えている。でも「おととい会」と名付けなかったところを見ると、やほりおれたちの眼は前向きについているという意味はある。

 会場は新宿のメイフラワーをよく使う。あまりはやっていないので贔屓(ひいき)にして呉れと、其方面(どの方面だったか忘れた)から申し入れがあり、それでえらんだ。その頃はほんとにはやっていなくて、みすぼらしかったが、この二三年の間に隆々と発展してきれいになり、大食堂も満員の盛況である。地下鉄開通その他で新宿が発展、それに応じてメイフラワーも繁昌(はんじょう)におもむいたのだろう。決して我々が贔屓にしたせいじゃないが、向うでは古いお客なので、サービスにこれ努めて呉れる。居心地がいいし、会員の住所が大体新宿を中心としているので、何かというとここにあつまる。

 しかし同じところばかりでは変化に乏しいので、時には遠出する。昨年秋は東京湾にハゼ釣りに行った。東劇下の掘割から船を出し、夢の島のあたりをぐるぐる廻って釣った。これを提案したのは私で、私はもともと釣りが好きである。だから皆にも釣りの醍醐味を体得させようと思ったが、これは成功しなかった。一日かかって一人あたり二十匹平均で、意気が上らなかった。天候が良好でなかったせいもある。夢の島に上陸して、皆並んで長々と立小便して(その情景を私がカメラにおさめ、秘蔵している)船に戻り、てんぷらを食べてウイスキーを飲んだ。私をのぞく六人は、飲み食いには熱心だけれど、釣りには熱心ではなかった。おおむね人事には情熱的で、鳥獣魚介には無関心のようである。(埴谷雄高は小鳥に熱心である)

 で、その日は全然むだだったかというと、そうでない。結構それを生かして使っている。たとえば武田泰淳「花と花輪」の書出し。

「東京の黒い河。

 昭和三十五年。十月はじめの、ある朝。大劇場と高級ホテルにはさまれた、黒い河のどんづまりは、ことさら黒く見えた」

 そこで船に乗って、登場人物の面々が、ハゼ釣りに出かけるのである。今でも、してやられたような気がしないでもない。あの日の勘定は、武田泰淳に持ってもらおうじゃないかと、誰も言い出さないが、書記長の川島勝(講談社勤務)が武田泰淳居住のアパート見学というプランを立て、皆で押しかけて、いろいろ御馳走になった。その席上埴谷雄高がカクテルをつくって、私も飲まされた。複雑なカクテルで、最後の仕上げを粉末ガーリックでやったから、異味異臭をともない、全部はとても飲めなかった。一室にあつまって談論風発もいいが、時には機動的に動いたがいい。今年の秋は簀立(すだ)てを予定していたけれど、うつかりチャンスをうしなって、とうとう行けなかった。動くためには、朝から夜まで、時間をまるまるあけて置かねばならない。それがなかなか調整出来ないのである。今年あたりは、工場やダムなどを見学したいし、また飛行機を一台チャーターして、八丈島に行こうという計画もある。

 この雑誌が出る頃、中国行きの三人もそろそろ戻って来る。また皆あつまって、お土産の分配をしたり、向うの様子を聞いたり、という会を開くことになるだろう。どんなお土産(物心両面の)を持ち帰って来るか、私は今からたのしみにしている。

 

[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年一月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「十一月十三日」の後には「(昭和三十六年)」とポイント落ちの割注があるが、これは底本全集編者の挿入と断じて、除去した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「君に勧む更に尽せ一杯の酒、西陽関を出づれば故人なからん。ナカランナカラン故人ナカラン」言わずもがな、盛唐の王維の以下の七言絶句の転・結句の引用。別に「渭城曲」、或いは、春生もやらかしているように、結句末を三度畳かけると伝えられる(実際にはその反復法は一定しておらず、これが定式法では実は、ない)ことから「陽関三畳」という題でも呼ばれる。

 

   送元二使安西

 

 渭城朝雨裛輕塵

 客舍靑靑柳色新

 勸君更盡一杯酒

 西出陽關無故人

 

   元二の安西に使(つか)ひするを送る

 

  渭城(ゐじやう)の朝雨(てうう) 輕塵を裛(うるほ)す

  客舎(かくしや)靑靑(せいせい) 柳色(りうしよく)新たなり

  君に勸む 更に盡くせ 一杯の酒

  西のかた 陽關(やうくわん)を出づれば 故人 無からん

 

「談論風発」話や議論を活発に行うこと。

「東劇」現在の東京都中央区築地に今もある映画館「東京劇場」。高層ビル化された現在、松竹本社が入っている。

『武田泰淳「花と花輪」』本記事の前年、昭和三六(一九六一)年の作品。

「簀立(すだ)て」事前に遠浅の沿岸の海中に簀を立てておき、干潮時に逃げ遅れた魚を捕らえる古式の漁法。「木更津 すだて 網元 つぼや」公式サイト内の「簀立遊びの仕組み」を参照されたい。海岸生物フリークの私だが、残念なことに未体験である。]

道と人権   梅崎春生

 

 戦後の日本には、自動車がむやみやたらにふえた。道というものは元来、人間が歩くものなのに、バスやトラックやオート三輪や神風タクシーがびゅんびゅんと飛ばして行く。人道があるところならいいが、人道のないところでは、人間は両側の家の軒下をくぐるようにして歩いている。

 狭い道を大型バスがわが物顔に通って行く。私の家の近くの沼袋へんでは、道幅が三間くらいなのに、大型バスの路線になっている。幅が三間であるからして、バスとバスのすれ違いがたいへんで、どちらかが適当な場所まで後退して、やっとすれ違うということになる。そのバスの移動にくっついて、あまたのトラックやオート三輪が同じ動き方をするから、大騒ぎとなる。車掌さんも懸命で、左オーライ右オーライと夢中で叫んでいるうちに、車体と電柱に頭をはさまれ、即死した例がこの間あった。

 こういう騒ぎになると、人間なんか物の数でなくなる。うろちょろしていると、ひき殺されるので、みな商店の日除けから日除けをくぐって往来する。道において、人間の価値の下落したこと、当代におよぶものはあるまい。

 だから当代の人間は、自動車を警戒することを、自然のうちによく訓練されている。狭い道でも、横切る時は、必ず左右前後を見廻すことを忘れない。

 昔はそんな必要はなかった。子供のころ私たちは、無鉄砲に道路を走り廻って遊んだ。自動車や自転車の数が、いまよりもずっと少なかったからだ。

 私の同級生で、ある日、人力車にひかれて怪我をしたのがいた。人力車にひかれるなんて、それほどさように、昔の子供はのんびりしていた。いまの子供で、人力車にひかれるような間抜けは、いないだろう。

 子供のころの私を、かりにそっくりそのまま、いまの東京にあらしめば、多分三日と保たずして、神風タクシーにひき殺されるだろう。

 とにかくあの神風タクシーというやつは、スピードを出し過ぎる。あるいは、他車を抜き過ぎる。急ぐために抜くというよりは、他車を抜くために抜くというのが多い。前に他車があると、もういらいらしてきて、あらゆるチャンスを見逃さず、やっと強引に抜く。抜き去って前方の視野が開けると、ぐっとスピードを落すのだ。抜くために抜くのだということが、これをもって判る。こういうのが、とかく人をはね飛ばし、ひき殺す。

 道における人権を回復せよ!

 

[やぶちゃん注:初出未詳。推定執筆年は昭和三七(一九六二)年。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。既に電子化した「うんとか すんとか」連載第五十五回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年五月七日号掲載分の「人通行止」がかなり似た内容を持つ。

「沼袋」東京都中野区の北部で西武池袋線練馬駅とJR新宿駅との最短直線上に位置し、現在、沼袋一丁目から沼袋四丁目までがある。

「三間」約五メートル四十五センチ。

「車掌さんも懸命で、左オーライ右オーライと夢中で叫んでいるうちに、車体と電柱に頭をほさまれ、即死した例がこの間あった」「人間通行止」に同じ事件が出る。

「神風タクシー」先の「街に死ぬ覚悟」の私の注(といってウィキの引用だが)を参照されたい。]

男兄弟   梅崎春生

 

 近頃日本にはやたらに人が多いという感じがする。街に出れば人がうようよ、タクシーに乗れば歩くより遅いし、汽車に乗れば満員で立ち通し。たまたま私が出かけると、混むのかも知れないが、うっとうしくてかなわない。

 実際に人口も殖えた。終戦の頃にくらべると、二倍近くになっている。しかし街や山や海に行ってみると、三倍か四倍になっているようにしか思えない。人が動き廻るせいであろう。以前は人々は家の中にひっそりしていて、あまり出歩かなかった。今は派手に動き廻るので、実際以上に多く見える。どさ廻りの芝居の捕り手みたいに、同一人が入れかわり立ちかわりあらわれる。実際は五六人だが、切り殺されてもごそごそ這って、袖からまた、

「御用。御用」

 と出て来るから、十何人もいるように見える。それに似ている。

 それと戦後の日本人の体格の向上で、背も高くなり、横幅もそれにしたがってひろがった。小さいのがうろちょろするのなら、うるさいという感じだけだけれども、大きいのがぶつかり合いながら右往左往する。うっとうしい感じは、そこからも来るようだ。

 人口が二倍近くになったと言ったが、どこで誰がそんなに生んだのだろう。私の友人や知己や近所の家庭を見ると、たいてい一人か二人、多くて四人どまりで、子供のいない家庭もずいぶんある。だからそれほど殖える筈はないのに、実際は殖えている。私の知らないところで、大量的に生んでいる人々がいるに違いない。

 もっとも医学や医薬の発達で、人間がなかなか死ななくなった。(子供も青年も中年も老人も。)生れて来る子供の六割か七割か何割かは知らないが、それが毎年人口のプラスになって行く。そういう事情もあるだろう。

 子供は昔の方が多かったような気がする。私の祖母(父方の)は十五人きょうだいで、その大部分が女であった。十五人も子供がいるなんて、私には想像が出来ない。私んとこは今二人だが、それの七倍半だ。子供はよくめしを食うから、いっぺんに二升やそこらはたかねばならないだろう。その十五人がそれぞれ嫁に行って、また子供をたくさん生んだ。で、私にはふたいとこが実にたくさんいる。もっとも十五人というのは、特別の例だろう。皆がそんな風(ふう)だったら、あの頃の日本の人口は飛躍的に増加した筈だ。

 おやじが結婚して、子供を六人生んだ。みんな男である。お婆さんの時はほとんど女ばかりだったのに、今度は全然男ばかりだ。今度は女を、今度こそは女を! という切ない予想を裏切って、男ばかりが出て来るものだから、お婆さんが嘆いた。

「どうしてこんなに、かたよるんじゃろか」

 六人もの男児をかかえて、おやじたちの苦労もたいへんだっただろうと、私は今にして考える。十五人は想像に絶するが、六人もの子供を育てる自信は、私にはない。今の二人だけでも、もて余している。今うちのは上が中学二年、下が小学四年。上が第二反抗期に入って、下が第一反抗期にあるのだそうである。当人たちがそう言っているんだから、間違いはない。(頑是ない子供たちに、反抗期なんて言葉を教えたのは、どこのどいつだろう。週刊誌あたりじゃないかと、私はにらんでいる)

 何か言いつけたって、素直に聞いたためしがない。口答えをする。

「自分のことは、自分でせよ」

「立っているものは、親でも使え」

 かえってこちらが使われる。怒ればふくれるし、ぶてば泣く。気を鎮めて、こんこんと説き聞かせると、

「あたしは今第二反抗期だから、仕方がないわ」

「ぼくは第一反抗期だ」

 その反抗期がいつ頃終るのかと訊ねると、よく判らないけれどあと一年半ぐらいはかかるだろう、という返答である。そう言えば私たちにも反抗期はあった。第一第二と段階があったかどうか忘れたが、さまざまに反抗した。六人から入れかわり立ちかわり反抗されて、さぞや御両親さまはつらかったであろうと、私はお墓参り(めったに行かないが)の度に同情する。

 六人の中の次男が私である。姉も妹もない。だから私は女というものを、あまり知らない。青年になって女とつき合ったこともあるが、その時は主観的要素がずいぶん加わるし、向うも弱いところやマイナスの部分をひたかくしにしているので、真相はつかみにくい。やはりこんなことは、子供の時から観たり感じたりしないことには、見方が根なし草になる。

 女を知らないから、女が書けない。女が書けなきゃ一人前の小説家ではない、という俗説があって、同人雑誌を読むと、せっせと女を書いたりセックスを書いたり、勉強これ励んでいる向きもあるようだが、どうもその俗説に乗せられているんじゃないか。もちろん女が書ければ、それに越したことはないけれど、このことにのみ執するのは、事の根本をあやまるものである。女が書けなくても、小説家になれる。女抜きの小説を書けばいい。私みたいに。

 六人兄弟の中、上三人が戦争にかり出され、三男(忠生という名)が戦病死した。今五人生き残って、東京にいる。歩留りとしては、良好の方だ。忠生の戦病死について、当時隊長から手紙があり、急に死んだとあったが、病名は書いてなかった。終戦後その戦友が私を訪ねて来たので、いろいろ事情を聞いた。

 それによると忠生の部隊は蒙古にあり、太平洋戦争で香港作戦に転じ、また蒙古に戻って来た。そして内地帰還の令が出た。内地に戻って、召集解除である。よろこびにあふれた出発前夜、忠生は皆の前で白い錠剤をたくさんのみ、寝についた。翌朝見たら、死んでいた。忠生は衛生軍曹だから、薬は自由になる。白い錠剤は、睡眠薬であった。量を間違えたわけでなく、覚悟の自殺である。なぜそんな嬉しい日に、自殺をしたか。その理由を書こうと思ったら、もう紙数が尽きた。これは小説の方に廻そう。

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年十一月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「実際に人口も殖えた。終戦の頃にくらべると、二倍近くになっている」二倍というのはドンブリもいいところ。統計局の公式データによれば、敗戦の昭和二〇(一九四五)年が七千二百十四万七千人であったものが、その十五年後である本記事の一年前の昭和三五(一九六〇)年で九千四百三十万二千人であるから、一・三倍である。因みに現在(統計局最終数値二〇一四年現在)は一億二千七百八万三千人で敗戦時の一・七六倍であるから、現在と比較するなら二倍近いとは言える。梅崎春生に好意的に、この数字を別な方向から見るならば、敗戦時の日本本土を除くアジア各地に於ける外地(当時の占領地区であった台湾などを含む)にいた日本人は、軍人・軍属(軍人以外の軍所属者)及び民間人がそれぞれ約三百三十万人で、合合計六百六十万人、当時の日本の人口の一割近くだったと見られているこちらの記載による)とあるから、これらを当時の人口から無理矢理引いてみると、六千五百五十四万七千人であるが、それでもやっぱり当然ながら一・四倍にしかならない。しかし本土の人間の数を逆立ちしても「人口」とは言わない。やはり無理がある。春生が言うのは、終戦から少したった頃の落ち着いてきた市街を歩く人の多さと、昭和三十五年頃の銀座のの賑わい辺りの漠然とした「人ごみ印象」から出した「二倍」としか思えない。くどいが、厳密な「人口数」に基づく謂いではない。

「戦後の日本人の体格の向上で、背も高くなり、横幅もそれにしたがってひろがった」これも普通に読めば納得してしまうが、平均統計の数値でみると違って見える。例えば、昭和二〇(一九四五)年の二十歳の平均身長は男性で百六十五、女性で百五十三・二センチメートル、体重は男性が五十五・三、女性が五〇・七キログラムであったのに対し、その十五年後である本記事の一年前の昭和三五(一九六〇)年で二十歳の平均身長は男性で百六一・一、女性で百五一・五センチメートルで逆に下がっている。無論、これは単なる統計上の数字であって、僅かながらも着実な体躯向上は確かにあった。例えば、厚生労働省の三十歳代の男女の身長・体重を一九四五年から二〇一五年までグラフ化したこちらのデータを見ると、それは非常によく判る。これだと敗戦から十五年で男性で平均身長が約二センチ、女性で一センチ強、体重は男性で凡そ一・五キログラム増えている(但し、女性は微増か殆んど変化がないレベルである)。しかし、一センチと一・五キログラムは見た目、「高く」「ひろがっ」ては見えない。だからこれも前と同じく、大多数の栄養失調のガリガリの、ペラペラの薄い服で尾羽打ち枯らした感の国民や復員兵が意気消沈して力なく歩く敗戦後の巷と、復興し、「もはや戦後ではない」と言われた昭和三十年代初頭(昭和三一(一九五六)年、経済企画庁は経済白書「日本経済の成長と近代化」の結びで「もはや戦後ではない」と記述)の銀ブラ連中のガタイと煌びやかな恰好、踵が高くなった靴やハイヒールでカサ上げされたそれを感覚印象している、と私は思うのである。

「今うちのは上が中学二年、下が小学四年。上が第二反抗期に入って、下が第一反抗期にあるのだそうである」発達心理学上は精神発達の過程で著しく反抗的態度を示す時期を「反抗期」と呼称し、「第一反抗期」は自我意識の強まる三~四歳児の時期を指し、青年初期或いはそのプレ期に於いて、塞ぎ込むような非社会的様態が見られたり、一見、理由なく人に逆らって乱暴を働いたりしたりする反社会的行動をとる時期を「第二反抗期」と呼ぶ。これに照らせば、小学四年の第一反抗期は異様な発達遅滞ということになり、中学二年の女子で「自分のことは、自分でせよ」「立っているものは、親でも使え」と「かえってこちらが使われ」、しかも「怒ればふくれるし、ぶてば泣く」という単純で判り易い感情反応を示し、「気を鎮めて、こんこんと説き聞かせると」、「あたしは今第二反抗期だから、仕方がないわ」という如何にも理路整然とした反応で応対するのは「理由なき反抗」の非でも反でもない、当たり前の誰にでもよく判る陳腐にして正常な屁理屈の「社会的行動」であるから、「第二反抗期」とは言えない。私が言いたいのは、「反抗期」であることを表明して或いは理由にして反抗する口実とするというのは、本来の「反抗期」の必要条件を全く以って満たしていない、ということである。

「これは小説の方に廻そう」これは二年後の昭和三八(一九六三)年『群像』連載(一月号~五月号)を指す。但し、実録小説ではなく、ここに書かれたような異様な形で戦地で自殺した実弟忠生をモデルとした人物を中心に配したモデル小説であり、仮託しつつも実の弟忠生の自殺の真因を明らかにした心理小説とは私には思えなかった(但し、読んだのは三十数年前のことで記憶が定かではない。近いうちに再読し、この記憶に誤りがあれば、後日、追記する)。なお、私は、梅崎春生の、こうした「書こうと思ったら、もう紙数が尽きた」という、彼がしばしば随筆擱筆でやらかす、無責任な(彼は無責任と自覚していないであろうが)書きっぱなしのエンディングはあまり好きではない(連載記事でそれを次の回の記事に書いたのなら、それは上手い書き方であり、実際、そうした書き方も彼はしている。それは彼のマジックにまんまと乗って読み続けさせられる点で少し癪だが、心憎くもとても好きな手法である)。紙数は云々は言い訳に過ぎない。私が言いたいのは本気の作家であるのなら、「今書かねばならないと思ったことを先送りするな」、である。明日があるかどうかも分からぬのに。これは、梅崎先生、あなたが一番、判っておられたはずでしょう……ただ、このケースでは小説のネタバレはしたくない、小説を読んでくれ、という含みとするなら許せなくはない。にしても、二年後は遅過ぎますよ、梅崎先生。……だってそれが「幻化」の後の予定作品だったら、どうしますか?……(昭和四〇(一九六五)年六月号及び八月号『新潮』であるが、梅崎春生はその間の同年七月十九日に入院先の東京大学病院上田内科に於いて肝硬変で急逝している)]

2016/08/24

懲治部隊   梅崎春生

 

 四年ほど前、あるウソツキ男を主人公にした新聞小説を書いたことがある。その男の自ら語る経歴によれば、学習院から江田島の海軍兵学校に入り、在学中脱走、東京をうろついていたら陸軍の憲兵につかまった。東京には海軍経理学校があったが、経理生徒の帽子には白線が入っている。そこで怪しまれたのだ。(ここらの話し方は実にリアリティがあって、これは本当かも知れないと思ったほどだ。)陸軍から海軍に引き渡され、横浜の大津刑務所に未決囚として入れられた。

「軍法会議にかかると、大変ですからねえ。服役して、それが済んでも、娑婆(しゃば)には帰れない。十一分隊というのに入れられる。十一分隊というのは、囚人上りばかりの部隊です。もしそこまで行けば、おれの運命も変ったかも知れないが、幸いに未決のまま終戦となりました」

 その会話をそっくり小説の中に取り入れようと思ったが、相手が名代のうそつき男だから、大津刑務所だの十一分隊だのが実在したものかどうか、疑わしいと思ったので、新聞社に調査を依頼した。すると新聞社の報告では、大津刑務所はたしかに実在したが、十一分隊というのはどうも怪しい。懲治分隊というのを十一分隊と聞きあやまったのではないかとのこと。そう言えば、懲治と十一は発音が似ている。だから小説では、懲治部隊として出した。

 それから二年ほど経って、野口富士男氏『海軍日記』が出版され、一冊が送られて来た。こちらも海軍で苦労した組なので、身につまされて読み進んで行くうちに、十一分隊が出て来たのでおどろいた。横須賀海兵団には十一分隊という特別の部隊が実在したのである。同書に曰く。

「十一分隊というのは、軍刑務所から戻って来たメムバアによって構成されており、胸に附けている名札の書体が活字風の明朝体になっていたので、誰にでも一目でそれとわかった。……」

 懲治部隊だなんて、どうも私も変だと思った。

 私も兵隊の頃しばらく佐世保海兵団にいたことがあるが、佐団にも軍刑務所出身ばかりを集めた部隊があった。何分隊だったか(九分隊だったような気もする)思い出せない。とにかくその分隊員に会ったら用心するように、と班長などから呉々(くれぐれ)も注意されていた。軍刑務所を出ると、兵曹でも兵長でも全部二等水兵になって、その分隊に入って来るのだ。海軍における出世の希望を全部とざされた連中だから、何をし出かすか判らない。その分隊の二等兵が、よその分隊の下士官をぶん殴(なぐ)っても、殴られた方の下士官があやまって引き退るというような状態で、私たちなんか遠くからその分隊員を見ただけで、びくびくしていた。

 もっとも彼等は私ども如きの小者を相手とせず、反抗しがいのある相手を探し求めて、肩で風を切りながら、団内を横行していたようである。彼等の心事や行動を、一篇の小説に仕立ててみたいと、今思わないでもないが、なにぶんにも分隊の名称も忘失してしまったくらいだから、手のつけようがない。やはり野口さんみたいにくわしいメモを取って置くべきであった。

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年二月号『風景』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。『風景』は昭和三五(一九六〇)年に刊行された、「紀伊國屋書店」創業者の田辺茂一が発案した来店者に無料で配布するタイプの小冊子型文芸雑誌で、作家舟橋聖一を中心とした「キアラの会」が編集・発行した。

「懲治部隊」梅崎春生は「懲治部隊だなんて、どうも私も変だと思った」と述べているが、実際にこの名を持つ、このような部隊は実在したウィキの「陸軍教化隊」によれば、陸軍教化隊とは『日本軍の部隊の一つで、犯罪傾向の強い兵士や脱走兵などを集めた特別の部隊である。問題とされた兵士を一般部隊から隔離して軍紀を維持し、特別教育と懲罰を加えて更生を図ることが目的であった』とし、そこには大正一二(一九二三)年以前は「陸軍懲治隊(りくぐんちょうじたい)」と呼称したとあるのである。

「四年ほど前、あるウソツキ男を主人公にした新聞小説を書いた」恐らくは昭和三一(一九五六)年三月二十三日号から同年十一月十八日号まで連載した長篇「つむじ風」のことである。このモデルの男については、梅崎春生は先に電子化した「モデル小説」でも述べているので参照されたい。

「横浜の大津刑務所」恐らく、現在の神奈川県横須賀市大津町にあった「横須賀海軍刑務所」のことと思われる。デビット佐藤氏のサイト「東京湾要塞」の「横須賀海軍刑務所」を参照されたい。

「野口富士男」(明治四四(一九一一)年~平成五(一九九三)年)は小説家。戸籍名は「平井冨士男」。ウィキの「野口富士男」によれば、東京麹町生まれ。大正二(一九一三)年に『両親が離婚。慶應義塾幼稚舎では同級生に岡本太郎がいた。慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学文学部予科に進むが』留年して昭和五(一九三〇)年に中退の後、文化学院文学部に入り直して昭和七(一九三三)年に卒業、『紀伊国屋出版部で『行動』の編集に当たったが』、昭和一〇(一九三五)年、『紀伊国屋出版部の倒産に伴って都新聞社に入社。昭和十年代、『あらくれ』『現代文学』などの同人雑誌に執筆』した。後に一年ほど『河出書房に勤務』した(その昭和一二(一九三七)年に母方の籍に入って平井姓となっている)。『第二次世界大戦末期に海軍の下級水兵として召集され、営内で日記を密かに付けた。栄養失調となって復員』、昭和二五(一九五〇)年頃になると、『創作上の行き詰まりを感じ、徳田秋声の研究に専念』、約十年を『費やして秋声の年譜を修正。次いで無収入同然で秋声の伝記を執筆し、「我が家は三人家族だが四人暮らしである。妻と一人息子の他に徳田秋声という同居人がいる」と語っ』ている。この頃、『東京戸塚(現在の東京都新宿区西早稲田)の自宅の一部を改造して学生下宿を営』。昭和四〇(一九六五)年、千五百枚の「徳田秋声伝」で『毎日芸術賞。このころから創作の道に復帰し』、「わが荷風」「かくてありけり」(読売文学賞)、「なぎの葉考」(川端康成文学賞)などを書いた。他の代表作に小説「暗い夜の私」(昭和四四(一九六九)年)などがある。『膨大な日記が残されているが、息子の平井一麦』氏が「六十一歳の大学生、父野口富士男の遺した一万枚の日記に挑む」(文春新書、二〇〇八年)『で一端を明らかにした』。二〇一一年、野口冨士男生誕百年記念出版として、昭和二〇(一九四五)年八月十五日から昭和二二(一九四七)年一月十二日までの日記(一九四五年八月十五日から同年八月二十四日までは『海軍日記』から転用)が、『越谷市立図書館と野口冨士男文庫運営委員会(会長、松本 徹)の編集により、『越ヶ谷日記』の表題で刊行された』とあり、「やはり野口さんみたいにくわしいメモを取って置くべきであった」という梅崎春生の謂いがよく判る]

蓼科秋色   梅崎春生

 

 八月二十七日

 蓼科(たてしな)高原に来て、もう月余になる。来た当初はニッコウキスゲの花盛りだったが、立秋の頃からだんだん秋の草にかわり、今は吾亦紅(われもこう)、松虫草、ゲンノショウコなどが色とりどりに咲いている。毎年ここに来て、帰る頃になると私はたいへん植物通になって、これは何の木、あれは何の花と、全山ほとんどの花卉(かき)を弁別出来るようになるが、帰京して冬を越し、次の年の夏にやって来ると、もうすっかり忘れてしまっていて、

「あれ、何という名の花だったっけ」

「あれはニッコウキスゲよ」

というような具合で、また初歩から覚え直さねばならぬことになる。身を入れて覚え込まないせいだろう。

 虫の名もそうだ。私の山小屋の庭には各種の虫がいて、これはマイマイカブリ、これはゴマダラカミキリと、現在はすらすらと名前を呼べるが、来年になるとすっかり忘れ果て、子供を呼んで、

「これ、何という虫か知ってるか?」

 と忘れたという顔では訊ねない、ためしに訊ねているんだ、という顔で訊ねることになるだろう。子供はおやじと違って、記憶力が確かだから、

「これはアカハナカミキリ」

「それはマツノキクイムシ」

 と即座に答える。そうか、よく覚えていたな、と私は子供の頭を撫でてやりながら、ついでに自分もしっかり覚え込む。毎年その繰返しである。

 夏休みもあと数日しか残っていないから、小学三年生の息子が、宿題の自由研究をまだやってない、どうしたらよかろう、と騒いでいるから、アリジゴクの研究でもやれと命じたら、手伝って呉れという。

 私の山小屋の軒下にアリジゴクがたくさん巣をつくっている。いつか何かの雑誌で、軽井沢に蟻がいるかいないかが問題になっていたことがあったが、わが蓼科には蟻はたくさんいる。蟻がいるからアリジゴクがいるのであって、また逆に言えば、アリジゴクがいるから蟻がいるということにもなる。

 アリジゴクの巣と書いたが、これはじょうご型の砂のくぼみで、蟻がそこに落ち込むと、這い上れない。もう少しで這い上れそうになると、くぼみの一番底からアリジゴクが鋏を出して、ばさっばさっと砂の具合を調節するからたちまち蟻はずり落ちて、力尽きて鋏にはさまれ、アリジゴクの餌食となってしまう。なんとも憎たらしい虫で、その状況を眺めていると、蟻をそこに投げこんだのが自分であるにもかかわらず、義憤がむらむらと起って来るからふしぎなものだ。

 その鋏で砂を調節しているところを、移植ごてでごそっとすくい上げ、五匹のアリジゴクを捕獲した。ブリキの菓子箱いっぱいに砂を張り、その中に入れる。すると彼等は砂にもぐつて、巣をつくり始める。

 アリジゴクの世界にも働き者となまけものがあって、働き者は三十分もあれば巣をつくり終えるが、なまけものはなまけなまけやるから、半日ぐらいかかる。蟻をつかまえて来て、早く出来たものから御褒美に、一匹ずつ入れてやる。半日もかかった奴には、何もやらない。蟻を入れてやるのは、蟻に対して残酷な気がしないでもないが、観察のためだから仕方がない。

 子供も一所懸命に観察し、何かせっせと書きつけていた。昼寝している間に、そっとそれをのぞくと、次のように書いてあった。

 イ、からだの色はうす茶色で、砂の色によくにている。

 ロ、足が六ぽんと、大きなほさみがあり、すきとおっている。

 ハ、どうたいには、九つのふしがあり、ふしには毛がはえている。

 ニ、前にはすすまなくて、うしろだけにすすむ。そしてうらがえしにすると、すぐもとにもどる。

 ここまで書いてくたびれて、昼寝ということになったらしい。

 

[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年十月号『風報』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「八月二十七日」の後には「(昭和三十五年)」とポイント落ちの割注があるが、これは底本全集編者の挿入と断じて、除去した。

「ニッコウキスゲ」単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ゼンテイカ(禅庭花)Hemerocallis dumortieri var. esculenta 。一般には「ニッコウキスゲ(日光黄萓)」の方が通り名としてはより知られている。忘れっぽい梅崎先生みたような人のために総てに以下のような画像リンクを張っておく。グーグル画像検索「Hemerocallis dumortieri var. esculenta

「吾亦紅(われもこう)」双子葉植物綱バラ目バラ科バラ亜科ワレモコウ属ワレモコウ Sanguisorba officinalisウィキの「ワレモコウ」によれば、『草地に生える多年生草本。地下茎は太くて短い。根出葉は長い柄があり、羽状複葉、小葉は細長い楕円形、細かい鋸歯がある。秋に茎を伸ばし、その先に穂状の可憐な花をつける。穂は短く楕円形につまり、暗紅色に色づく』とあり、この名は「源氏物語」にも『見える古い名称である。漢字表記においては吾木香、我毛紅、我毛香など様々に書かれてきたが、「〜もまた」を意味する「亦」を「も」と読み、「吾亦紅」と書くのが現代では一般的で』、『名の由来には諸説あるが』、植物学者『前川文夫によれば木瓜文(もっこうもん)』(日本の家紋の一種で瓜紋(かもん・うりもん)ともいう。卵の入った鳥の巣の様子に似ているとされる)『を割ったように見えることからの命名と』する『ほか、「我もこうありたい」の意味であるなど、様々な俗説もある』と記す。グーグル画像検索「Sanguisorba officinalis

「松虫草」双子葉植物綱キク亜綱マツムシソウ目マツムシソウ科マツムシソウ属マツムシソウ Scabiosa japonica グーグル画像検索「Scabiosa japonica

「ゲンノショウコ」双子葉植物綱フウロソウ目フウロソウ科フウロソウ属ゲンノショウコ Geranium thunbergii グーグル画像検索「Geranium thunbergii

「マイマイカブリ」昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目食肉亜(オサムシ)亜目オサムシ上科オサムシ科オサムシ亜科マイマイカブリ属マイマイカブリ Damaster blaptoides Kollar グーグル画像検索「Damaster blaptoides Kollar」。

「ゴマダラカミキリ」鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ科フトカミキリ亜科ゴマダラカミキリ属ゴマダラカミキリ Anoplophora malasiaca グーグル画像検索「Anoplophora malasiaca

「アカハナカミキリ」多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ科ハナカミキリ亜科アカハナカミキリ Aredolpona succedanea グーグル画像検索「Aredolpona succedanea

「マツノキクイムシ」多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科カワノキクイムシ亜科マツノキクイムシ Tomicus piniperda グーグル画像検索「Tomicus piniperda

「アリジゴク」先の梅崎春生「アリ地獄」の私の注を是非、参照されたい。グーグル画像検索「アリジゴク」。]

郵便のことなど   梅崎春生

 

 私が世田谷から練馬に引越して来てもう五年にもなるが、練馬郵便局の郵便の遅配には、ほとほと手を焼いている。引越し当初はそうでもなかったが、一年ぐらい経ってから遅れ始め、そのまま、慢性便秘のような状態となって今日に及んでいる。初めのうちこそやきもきしたり、怒ったり、郵便課長に抗議を申し込んだりしていたが、いくら抗議を申し込んでも向うはあやまるだけで事態は好転しないので、近頃では黙って眺めている。

 二月二十日付「読売新聞」、福原麟太郎氏の「暦日なし」という随筆の中に「うちでは最近さきほどの日曜に一枚のはがきも来ず、あまり不思議だから郵便局へ電話をかけてたずねたら云々」という一節があるが、わが練馬局においては郵便が全然来ない日は、二三年前からざらであって、めずらしくも何ともない。二日間続けて来ないことだって、一月の中に二度や三度はある。三日四日無配という日もあって、五日目あたりに厚さ一尺ほどの郵便物をどさりと投げ込んで行く。一休どういうことになっているんだろうと思う。

 それから他の局区内の住民の話を聞くと、郵便は午前便と午後便と二度来るそうであるが、私のところは一日一回だけ。大体午後三時頃一遍で、その時刻までに来なきゃ、その日は欠配である。一日に二度来ることが一年に何度かあるが、めずらしいことがあればあるものだと、そんな日は我が家ではお赤飯をたくならわしになっているくらいだ。日曜日の局員の勤務は午前中だけだから、私の家まで廻り切れないらしく、日曜祭日は原則として配達はない。

 平常の配達状態がこれだから、昨年末の全逓(ぜんてい)争議による混乱はものすごかった。遅れのひどかったのは、都内では中野、足立、葛飾、練馬だったそうで、五日とか六日とかの遅れ方ではない。配達の順序も混乱していて、つまらないデパートの広告などが割に早く着き、重要なのがなかなかやって来ない。雑誌、単行本、新聞のたぐいは全然遅配。余りのことに郵便課に電話をかけたら、当方で只今取り扱っているのは普通郵便とはがきだけで、雑誌新聞のたぐいには手が廻らなくて、そこらに積み重ねてあるという。ではこちらからいただきに上りたいがと言ったら、取りに来ても、積み重ねたまま整理してないから、むだだとの答えであった。だから私はあきらめた。その中練馬局が郵便や小包だらけになって、人間のいる場所がなくなって、局長や課長や局員は建物の外で執務しなければならなくなるだろう。その日まで待つ他はない。

 普通郵便物も大いに遅れた。会合、試写会、告別式の通知などが、ほとんど期日過ぎて到着した。もっとも私は出不精で、いろんなことに義理を欠く傾向があるが、昨年の十二月に限り郵便遅配という大義名分があって、正々堂々と義理を欠くことが出来た。よろこんでいいのか、悲しんでいいのか。

「新潮」の新年号(十二月初めに発行)などが手元に届いたのは、年末から年始にかけてである。アルバイトはも少し早く入っていたらしいが、私の家は午後三時頃の組なので、かく遅れたものだろう。一日に四回も、どさっ、どさっと投げ込まれる日もあって、私たちの眼を見張らせた。しかし雑誌だの単行本だのというものは、毎日少しずつ送られて来るからこそ読む気になるものであって、いっぺんに何十冊と送られて来たら具合の悪いものである。正月ちょっと信州に行き、五日に戻って来たら、また雑誌のたぐいが(年賀状は別にして)二尺五寸ぐらいたまっていた。完全に月遅れ雑誌である。

 それですっかり届いたかというと、今日(一月二十三日)に到るまで未着の郵便が若干ある。破損したのか抜き取られたのか判らない。「週刊現代」から十二月五日付はがきで、某菓子店の菓子を送ったと言って来たが、現物は未だに到着しない。途中で誰かに食べられてしまったのだろう。「週刊現代」の方では、私が食ったと思っているだろうから、割の合わない話である。

 このような未着をのぞいて、年末年始の突貫工事で一応遅配はおさまったようだが、正月を過ぎてアルバイトが引揚げたとたんに、また遅配が始まった。てきめんなものである。たとえば今日でまるまる三日間、私は一過の郵便物も受取っていない。

 どうしてこんなことになるかと言えば、練馬局区内は以前は田畑が大部分を占めていたが、東京都の人口増加につれて急速に家が建ち、郵便量が激増したからである。郵便物が激増すれば、どうすればいいか。配達人を激増させる以外に手はない。ふやさなければ郵便物はたまるにきまっている。これは小学生にも判る理窟だが、実際にはふやされていないらしい。行政機関職員定員法という法律があって、ふやせないのだそうであるが、法律というのは人民を守るためにあるもので、人民を困らせるためにあるのではないと私は思う。政治の貧困と言えば結論として月並だが、生活の不便を私たちに押しっけて平然としているものがどこかにあり、その平然さを支えているどす黒いものがその背後にあり、そいつらと当分対決して行かなければならないことだけは確かだ。

 三年ほど前私はメーデー事件の証人となり、通計五日間証言を行なった。証言なんてずいぶんくたびれる仕事で、日当として三百円前後支給されるが、三百円ぐらいではおぎないがつかない。そのメーデー公判で、先般検事側証人渡辺警視が偽証を行なった。真実を述べますと宣誓して、真赤なうそを述べたのだから、もちろんこれは起訴されねばならぬ。ところが検察側は、これを不起訴処分にした。被告団や弁護側が怒るのは当然の話で、偽証しても起訴されないのなら、すねに傷持つ証人は皆自分の都合のいいうそを並べ立てるにきまっている。さらに裁判長が「同証人を不起訴にした検察側の態度は、今後証人として立つ警察官の偽証防止の見地からみて、はなはだ遺憾であった」と見解を述べたら、東京地検公安部長が早速「裁判長がそんな見解を述べるのは、裁判所のいわば越権と言ってよいと思う。不起訴処分には理由があり、メーデー公判自体に影響をおよぼす性質のものでない」との談話を発表した。何が影響をおよぼす性質のものでないのか。大いに影響をおよぼすことは、中学生にだって判ることだ。こういうむちゃなどす黒い談話が平然と語られることに、私たちは強く注意を払わねばならない。

 

[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年三月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「私が世田谷から練馬に引越して来て」の後には「(昭和三十年転居)」とポイント落ちの割注があるが、これは底本全集編者の挿入と断じて、除去した。なお、本文中で日曜の配達がないという不満が綴られているが、この当時は日曜の郵便配達が普通に行われていた。総務省公式サイト内の「情報通信統計データベース」の昭和四八(一九七三)年版「通信白書」のこちら(PDF)によれば(コンマを読点に代えた)、『郵便の配達は、明治以来毎日行われてきたが』、昭和二六(一九五一)年一月、『事業合理化の見地から一部の局で一時日曜配達の廃止を試みた。その後、我が国においても日曜週休制が普及し、日曜配達の必要性は次第に希薄となり、また日曜日に到着する郵便物も減少してきたため』、昭和四〇(一九六五)年五月から『東京神田局をはじめとして速達郵便を除き、日曜配達休止が試行され』、昭和四三(一九六八)年からは『本実施された』とある(下線やぶちゃん)。ネット上の外のデータでも一九六五年五月九日に東京神田の郵便局が全国に先駆けて一般郵便物の日曜配達を中止した、とする記載を現認出来た。因みに、私は幼稚園児であったが、この時、春生と同じ練馬区大泉学園に住んでいた。

「福原麟太郎」福原麟太郎(明治二七(一八九四)年~昭和五六(一九八一)年)は英文学者で名随筆家としても知られた。

「昨年末の全逓(ぜんてい)争議」「郵政労働運動の戦後史」(PDF)という資料によれば、この前年の昭和三四(一九五九)年十二月の項に、『全逓、団交権再開闘争で時間外拒否闘争。滞貨』(未配達滞留郵便貨物)全二千万通を『超える』とある。

「二尺五寸」七十六センチ弱。

「突貫工事」年末までの二千万通に、膨大な年賀状が加わったことから、完全に郵便システムがマヒしてしまうことを恐れ、推定だが、非組合員とアルバイトが年末年始に不眠不休レベルの作業をこなしたことをかく言っているものと思う。

「行政機関職員定員法」昭和二四(一九四九)年五月三十一日附法律第百二十六号。郵政省は二十六万六百五十五人とある。なお、この法律は翌年の昭和三六(一九六一)年四月一日から「国家行政組織法」となって廃止されている。

「メーデー公判で、先般検事側証人渡辺警視が偽証を行なった」梅崎春生も現場でルポルタージュした(私の電子テクスト「私はみた」及び「警官隊について」などを参照されたい)昭和二七(一九五二)年五月一日の第二十三回メーデーで、皇居前広場に入った一部のデモ隊に対し、警察官が拳銃を発砲、デモ隊に死者一名(都職労の一人で背中か心臓を撃ち抜かて即死)の他、法政大学生警棒で殴打されて死亡、警官らによる暴行障害行為によって千人を超える多数の重軽傷者が出た「血のメーデー事件」公判(デモ隊からは千二百三十二名が逮捕され、内、騒擾罪で二百六十二人が起訴された。裁判は検察側と被告人側が鋭く対立したために長期化し、昭和四五(一九七〇)年一月の東京地裁による一審判決は騒擾罪の一部成立を言い渡したものの、昭和四七(一九七二)年十一月の東京高裁による控訴審判決では騒擾罪の適用を破棄、被告の内、十六名が暴力行為等の有罪判決を受けた以外は無罪が言い渡され、検察側が上告を断念して確定)に於いて、警察官の拳銃発射が問題となった。発砲した警視庁第七方面第三中隊五名の内、四名の発砲は不法なもの(銃使用が許容される生命の危険に関わる緊迫したケースではない)であったが、彼らの隊長であった渡辺政雄警視(後に公安二課一係長)は「一人の巡査を助けに、止むを得ずピストルを撃った」旨の噓の「拳銃発射報告書」をこの四人の巡査に書かせ、その虚偽の報告書に基づいて渡辺政雄警視本人が昭和三二(一九五七)年七月と八月の二回、証人に立って、「五人ののがピストルを撃ったが、そは一人の警官がデモ隊に暴行さ、殺さそうになったので、その巡査を助けだ。これらの警官はいずれも地面とを狙って撃ったので、危害は加えていない。私は五人の警官に別個に会って、そういう報告を聞いた」と証言した。とこが、後の公判で当の四人の巡査らがそれが噓であったこと認めてしまう。渡辺警視は弁護団か厳しく追及され、「部下の発砲が不法なのであるらしいとわかったので、噓の報告書を部下に書かせた」と、法廷で自偽証したことを認た。弁護団は渡辺警視を偽証罪で告発、裁判長公正な裁判のたに厳正な処分を検察側に要求したが、その結果は渡辺警視は逮捕ず、不起訴処分となった(以上は『「冤罪と誤判」 前坂俊之著 田畑書店』(一九八二年五月刊)の一部(PDF)他、複数の資料を参照した)。

『東京地検公安部長が早速「裁判長がそんな見解を述べるのは、裁判所のいわば越権と言ってよいと思う。不起訴処分には理由があり、メーデー公判自体に影響をおよぼす性質のものでない」との談話を発表した』この当時の、とんでもない東京地検公安部長の姓名を調べようとしたが、行き当たらなかった。御存じの方は是非、お教え願いたい。その不法にして不道徳な男を永遠に忘れぬよう、名をここに刻したいと思う。]

諸國百物語卷之一 二 座頭旅にてばけ物にあひし事

 

     二 座頭旅にてばけ物にあひし事

 


Zatoukuwaru

 

 ある座頭みやこのものにて有りけるが、田舍へ下るとて弟子を一人めしつれ、かた山里をとをりしに、日くれ、とまるべき宿なくて、ある辻堂にとまりけるに、夜半すぐるほどに、女の聲にて、

「これはいづくよりの御きやくにて侍るぞ。わが庵みぐるしくは候へども、是れに候はんよりは一夜をあかし給へ」

といふ。座頭きゝて、

「御心ざしのほど忘れは侍れども、たびのならひにて候へば、こゝとてもくるしからず候ふ。そのうへ、夜のほども、ちかく候へば、參るまじき」

といふ。弟子、申すやう、

「御心ざしのほどにて候ふに、かやうなる所に御とまり候はんよりは、たき火などにもあたり、湯水のたよりよく候はんまゝ御越し候へ」

と申す。かの女もひらにと、申しけれども、とかく、われらはこゝがよく候ふとて、物もいわずゐければ、

「しからば、此子を、すこしの間あづかり給はれ」

といふ。

「いやいや盲目のことなり、ことに夜中にて候へば、あづかり申す事なるまじき」

と、かたぎつて申しければ、

「それはあまりにつれなき事にて候ふ、ぜひにあづけ申す」

とて、さし出だす。弟子申すやう、

「少しの間にて候はゞ、それがし、あづかり候はん」

と申せば、師匠きゝて、大いにいかり、

「無用也」

と申せども、

「別のしさいあらじ」

とて、弟子、子をあづかり、ふところにいだきゐければ、女、かへりぬ。少しの間に此子ふところにて大きになりければ、師匠に、かく、といふうちに、此子、十四、五さいほどの子となりて、かの弟子をくひにかゝる。弟子、

「こはなにごとぞ」

とかなしむうちに、ほどなく、くひころしけるに、又、さいぜんの女の聲にて、

「師匠の座頭どのに、いだかれよ」

と云ふ。座頭きもをつぶし、家につたわるわきざし、□□箱にありけるが、取り出だし[やぶちゃん字注:底本では二字の判読不能字の右に『琵琶』と編者注する。]、

「なに物にても我にかゝらば一さし」

と、ぬきもちゐければ、此脇指(わきざし)に、をそれて、よりつかず。女、

「なにとていだかれぬぞ」

としかりければ、子のこゑとして、

「何としてもそばへよられず」

と云ふ。しばらく問答して、かの女も、いづくとなく歸りぬ。座頭、おもふやう、扨(さて)もおそろしき事にあひつるものかなと、脇指をはなさずもちゐけるほどに、夜もすでにあけぬ。さらば、立ち出でんとおもひ、道にかゝりてあゆみ行く、しかる所に、だれともしらず、人にゆきあひけるが、此人申すやう、

「いかに、座頭どの、今日はいづれより出でられ、いづれかたにとまり給ふぞ」

ととふ。座頭、有りし事ども物がたりしければ、

「それには、ばけ物のすむ所なり。ふしぎのいのちをたすかり給ふものかな。まづまづこなたへ入らせ給へ。くはしく御物がたりをも承り候はん」

とて家に入れ、いろいろの馳走(ちそう)をして、

「さて件(くだん)の脇指を一目(ひとめ)御みせ候へ」

といふ。座頭しあんして、

「いや此脇指は人にみせ申す事なり申さず」

とて、はばきもとをくつろげゐければ、又、かたはらより、

「見せずは、くひころせ」

と云ふ聲、あまた聞へける。扨(さて)は件(くだん)のばけ物ぞと心得、脇指をぬき、四方八方、きりはらひければ、しばらく有りて世間もしづかにそらもはれて、まことの夜こそ明けにける。それより座頭は、あやうき命をたすかり、やうやう都へ歸りけると也。此脇指、三條小かぢがうちたる銘の物なるゆへに、そのきどくありけると也。

 

[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻三巻頭「いかなる化生(けしやう)の物も名作の物には怖るゝ事」に基づく、完全な同話。挿絵の右キャプションは「座頭ばけ物にくいころさるゝ事」。

「御きやく」「御客」。

「御心ざしのほど忘れは侍れども」不審。「忘れずは侍れども」ではなかろうか? 「ずは侍り」は「ずはあり」の丁寧表現ととれ、「ずはあり」は「ずあり」の強調表現であるから、「有り難いお志しの程は、これ、深く心に刻みおいてはおりますけれども」の謂いである。

「ひらに」何卒。是非とも。

「とかく、われらはこゝがよく候ふとて」ここも会話記号を附さないのは頷ける。「物もいわずゐければ」と後へ続く以上、上記の台詞は女にあからさまに答えたものではなく、弟子がそっちへ行きたいとぐずるのを、内輪で諭す師匠の言葉だからである。「我らはここが分相応なので御座るぞ、よいな。」というのである。

「かたぎつて」「かたきる」で「日本国語大辞典」に一方的に相手との交際や連絡を絶つという謂いを見出せる。出来ないときっぱり強く断って。ここまでの師匠の固辞があるのに、今度は子を預かて呉れなどとは言語道断という生理的拒絶感を思うと、自然な表現である。

「別のしさいあらじ」「しさい」は「仔細」で、ここは「不都合」「差し障り」の意。「別に、どうってこと、ありませんよ」。

「かく」「お、おっ師匠さま! こ、子(こお)が! な、何やらん、お、大きゅうなって参りまする!!」といったように叫んだのである。

「こはなにごとぞ」「こ、これっは! な、なんじゃあッツ!!!」

「かなしむうちに」歎き悲しみ、阿鼻叫喚する間(ま)もなきうちに。

「さいぜん」「先前」。

「なに物にても我にかゝらば一さし」「物の怪であろうが、盗賊の如き者であろうが、如何なるものをも我に襲いかかってきたら! これにて! 一刺し!」彼は座頭で目が不自由であるから、その子がみるみるうちに大きくなって頭から弟子を食い殺した(挿絵に従う)ことも知らず、女や子が変化(へんげ)のものと現認識しているわけではない点に注意しなくてはならぬ。それが後半の怪異のツボでもあるからである。

「ぬきもちゐければ」「拔き持ち居ければ」。

「をそれて」「恐れて」。但し、歴史的仮名遣では「おそれて」。

「はなさずもちゐけるほどに」「離さず持ち居けるほどに」。

「夜もすでにあけぬ」ものは見えずとも光りあるを僅かに感ずることはでき、また、虫の集く声の止んで、早朝の鳥の声が聴こえてきたのであろう。無論、それは総てが物の怪による演出、フェイクであることも知らんずに、なのである。なお、この時点で座頭は手探りして弟子の姿が消えており、多量の出血のあることなどを認知したであろうから、この時、かの女と子は、確かな人食いに鬼、変化のものと認識はしたはずである。

「いづれかた」「孰れ(が)方」。

「しあん」「思案」。

「はばきもとをくつろげゐければ」「はばき」は「脛巾」「行纏」「半履」などと書き、「脛巾裳(はばきも)」の略。旅行や外出の際に防護目的と、疲れを防止させるとして脛(すね)に巻きつけた布製のもの。後世の脚絆(きゃはん)と同じい。座頭がこの者(座頭が全く警戒しなかったのは声の主が男のそれであったからであろう)に気を許して、「はばき」のきつくまいたそれを緩めて足をくつろげ、ゆったりと座っていたところが。

『又、かたはらより、「見せずは、くひころせ」と云ふ聲、あまた聞へける』この声こそ、かの「女怪」の声なのである。それが「男」の「かたはらより」するということは、前の接待した「男」とは、それこそ、弟子を食い殺したかの「児怪」であったと読める。「あまた」というのは物の怪が複数いるというよりも、おどろおどろしく何重にも声が反響するという表現と読む。

「三條小かぢ」「三條小鍛冶」。平安時代の伝説の刀工三条宗近(生没年未詳)の流れを汲む刀工或いはその工房(古く、製鉄業者を相称して「大鍛冶(おおかじ)」と称したのに対し、特に刀鍛冶のことを限定して「小鍛冶(こかじ)」と呼んだ)。ウィキの「三条宗近」を参考までに引いておく。『山城国京の三条に住んでいたことから、「三条宗近」の呼称がある』。『古来、一条天皇の治世、永延頃』(十世紀末頃)『の刀工と伝える。観智院本銘尽には、「一条院御宇」の項に、「宗近三条のこかちといふ、後とはのゐんの御つるきうきまるといふ太刀を作、少納言しんせいのこきつねおなし作也(三条の小鍛冶と言う。後鳥羽院の御剣うきまると云う太刀を作り、少納言信西の小狐同じ作なり)」とある』。『日本刀が直刀から反りのある湾刀に変化した時期の代表的名工として知られている。一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられているが、作刀にこのころの年紀のあるものは皆無であり、その他の確証もなく、ほとんど伝説的に扱われている。実年代については、資料によって』「十~十一世紀」・「十二世紀」等と幅があるとする。『現存する有銘の作刀は極めて少なく「宗近銘」と「三条銘」とがある。代表作は、「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」』である。

「きどく」「奇特」。神仏の霊験(れいげん)。]

2016/08/23

諸國百物語 附やぶちゃん注 始動 / 諸國百物語卷之一 一 駿河の國板垣の三郞へんげの物に命をとられし事

 

諸國百物語 附やぶちゃん注 

 

[やぶちゃん注:カテゴリ「諸國百物語 附やぶちゃん注」を創始し、全百話の電子化注を開始する。

 「諸國百物語」は第四代将軍徳川家綱の治世、延宝五(一六七七)年四月に刊行された、全五巻で各巻二十話からなる、正味百話構成の真正の「百物語」怪談集である。この後の「百物語」を名打った現存する怪談集には実は正味百話から成るものはないから、これはまさに怪談百物語本の嚆矢にして唯一のオーソドックスな正味百物語怪談集と言えるのである。但し、著者・編者ともに不詳である(以下に示す「序」によれば信州諏訪の浪人武田信行(たけだのぶゆき)なる人物が旅の若侍らと興行した百物語を板行したとするが、仮託と考えてよい)。ウィキの「諸国百物語」によれば、『伝本はきわめて少数であり、現存する完本は東京国立博物館の蔵本が唯一』とし、特徴としては「諸國」とある通り、『地域を特定せず、北は東北地方から南は九州まで日本各地の怪異譚を扱っていることである』。『本書の内容は、それ以前に刊行された怪談集から引き写したとみられる話も多く、中でも』寛文三(一六六三)年の作者不詳の「曾呂利物語」『からの採用といわれる話は』二十一話にも及び、他にも先行する「沙石集」「奇異雜談集」「因果物語」「宿直草」などの古書を出所とする話も多い。以上の記載でも参考にさせて頂いた、基礎底本(後述)の太刀川清氏の解題によれば、『本書の怪異は幽霊が圧倒的に多く、全体の三分の一を占める』とあればこそ、十二分に怪異を味わって戴けるものと存ずる。

 底本は昭和六二(一九八七)年国書刊行会刊の「叢書江戸文庫」の第二巻太刀川清氏校訂「百物語怪談集成」に所収するそれを基礎底本としつつ、私のポリシーに従い、概ね漢字を恣意的に正字化して示すこととする(底本は新字旧仮名遣仕様)。読みは私が振れると判断したもの、或いは難読と判断したものに限った(一部に歴史的仮名遣の誤りがあるがママとし、原則、注記しなかった)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。本文は平仮名が多く、そのために却って読みにくくなっている箇所があるので、句読点を私が一部に追加し、また、直接話法箇所は改行を施して読み易くした。一部に添えられてある挿絵は基礎底本に載ものをトリミングし、汚れを除去して各標題の後に示した。目録下の底本編者の附した丸括弧入りのノンブルは省略した。注は怪異をかったるくさせぬよう、なるべくストイックを心掛けることとするが、若い読者をターゲットとする注なれば、識者には言わずもがなの注も多かろうとは存ずる。悪しからず。今日から百日後は本年11月30日……その夜の怪異が今から楽しみである……【2016年8月23日始動 藪野直史】] 

 

諸國百物語序

そもそも此百物語の出所を尋ぬるに、信州諏訪と云ふ所に武田信行といへる浪人あり。ある夜、雨中のつれづれに、伴なふ旅の若侍(わかさぶらひ)三四人よりあひ、四方山(よもやま)の咄をするついで、信行いへるやうは、昔より百物語と云ふことをすれば、かならずその座に不思議なる事ありといへり。いざ、こよひ語りて心見んとて、をのをの車座になみゐて、眞中に燈心百筋たてゝ、灯(ともしび)をとぼし、さて、咄をはじめ、順々にまわし、咄ひとつにて燈心一すぢづゝのぞきけるほどに、すでに咄も九十九になり、燈心も今一すぢとなり、何とやらん物すごき折ふし、座敷の天井へ大磐石(だいばんじやく)などのおつるごとく、おびたゞしき音して灯もきへければ、をのをのおどろきけるに、信行、さはがず、心得たり、といふまゝにとつておさへ、ばけ物はしとめたり。大きなる人の股(もゝ)にてあるぞ、火をともせといへば、手に手に灯をたてゝこれをとれば、その座につらなりし侍(さぶらひ)の股をとりふせゐたりけり。みなみな、どつと笑ひて退出しけり。そのとき執筆(しゆひつ)の書きしるしたる咄の書(しよ)を、今梓(あづさ)にちりばめ、世にひろめて老若男女(ろうにやくなんによ)のなぐさみ草とす。當時(そのとき)すでに百物語と云ふ雙紙(さうし)あれども、わらんべのもてあそび草にして、出所(しゆつしよ)正しからず。今、此雙紙は、その國々の諸人も聞きおよび、見及びたる咄の證據たゞしきをあつめ、五卷として諸國百物語と名付くると、しか云ふ。

[やぶちゃん注:「梓(あづさ)にちりばめ」その百話を書物に鏤(ちりば)め。上梓すること。「梓」は落葉高木の木大角豆(きささげ:シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata)の別名で、中国で本種を版木として用いたことに由来する。

「出所(しゆつしよ)正しからず」その話の出所(でどころ)がどれも正確でなく、話柄の一部にも事実は思われない不審な箇所が多い、というのである。本書の筆者の格別の自負が窺える附言である。

 なお、以下に全十巻分の目録が並ぶが、それぞれ各巻の頭に配することとした。] 

 

 諸國百物語卷之一目錄

一  駿河の國板垣の三郞へんげの物に命をとられし事

二  座頭旅にてばけ物にあひし事付タリ三小鍛冶(こかぢ)が銘の刀(かたな)の事

三  かわちの國くらがり峠道珍(どうちん)天狗に鼻はぢかるゝ事

四  松浦伊豫(まつうらいよ)が家にばけ物すむ事

五  木屋(きや)の介五郞が母夢に死人(しびと)をくいける事

六  狐山伏にあだをなす事

七  蓮臺野二つ塚(つか)のばけ物の事

八  後妻(うはなり)うちの事付タリ法花經の功力(くりき)

九  京東洞院(ひがしのとうゐん)かた輪車(わくるま)の事

十  下野の國にて修行者亡靈にあひし事

十一 出羽の國杉山兵部が妻かげの煩(わづらい)の事

十二 するがの國美穗が崎女の亡魂の事

十三 越前の國永平寺の新發意(しんぼち)が事

十四 せつちんのばけ物の事

十五 敦賀のくに亡靈の事

十六 栗田源八ばけ物を切る事

十七 本能寺七兵衞が妻の幽靈の事

十八 殺生をして白髮(はくはつ)になりたる事

十九 會津須波(あいづすは)の宮(みや)首番(しゆばん)と云ふばけ物の事

二十 尼が崎傳左衞門湯治してばけ物にあひし事 

 

諸國百物語卷之一

     一 駿河の國板垣の三郞へんげの物に命をとられし事

 


Itagaki

[やぶちゃん注:絵の右上のキャプションは「いたがきの參郞へんげの物にあふ事」。]

 

 するがの國の住人に儀本(よしもと)といふ人あり。あるよのつれづれに、家の子らうどうをあつめ、しゆゑんゆふけうをせられし折ふし、儀本、仰せられけるは、

「たれにてもあれ、此内に、せんげんの上のやしろまで、こよひ行きたらんや。」

と、の給へば、日ごろ手がらをいふものども、おゝしといへども、是れは、きこゆるましやうのすむ所なれば、たやすく見て參らんといふもの、一人もなし。こゝに甲斐の國の住人板垣の三郞とて、代、ゆみやをとりて、かくれなく、ぶゆうのほまれある人ありけるが、

「それがし、參らん。」

と申す。儀本、なのめならずおぼしめし、すなはち、しるしを給はりければ、板垣は御前(ごぜん)をたち、大かうの人なれば、物のてともせず、すぐに淺間へ、まいられける。ころは、九月中旬のことなれば、月、さへわたる森のうち、嵐、はげしき落葉のおと、すさまじき山みちを、心ぼそくもすぎゆきて、上のやしろの御まへに、しるしを立てをき、歸られける。

 かゝる所へ、いづくともなく白きねりのひとへきぬをかづきたる女(にう)ばうに行きあひたり。

『扨(さて)は、おとにきく、へんげの物、我を心みんとおもふにや。』

と、板垣、はしりかゝつて、かづきのきぬを、引きのけて見ければ、まなこは、一眼(いちがん)にて、ふりわけがみの下よりも、ならべる角(つの)は、かずをしらず、うすけしやうに、かね、くろくつけ、おそろしきこと、たとへていはんかたもなし。

 されども板垣はさわがずして、『なにものなれば。』とて、腰の刀に手をかくれば、けすがごとくに、うせにけり。板垣は、しづかに立ちかへり、儀本の御まへに參り、

「しるしをたておき、歸り候ふ。」

と申し上げれば、御前の人々、

「板垣なればこそ、つゝがなくかへり候ふ。」

と、をのをの、かんじあひけり。

「扨(さて)、めづらしき事はなかりけるか。」

と、御尋ね有りければ、

「いや、なに事も御座なく候ふ。」

と申し上げる所に、さしも、くまなき月の夜、にわかに、そら、かきくもり、ふる雨、しやぢくのごとく、はたゝがみ、なり、おびただし。

 一座の人々、儀本をはじめ、けうをうしなふ所に、こくうより、しわがれたる聲にて、

「いかに。板垣、さんげせよ。」

と、たからかに、よばはりける。

 その時、御まへなる人々、

「見申されたる事あらば、御前にて、有りのまゝ申し上げられよ。」

と、をのをの、申されけるゆへ、板垣、

『このていならば、とてもいのちはあるまじ。』

と、おもひ、淺間にての有りさま、のこらず申し上げけれども、雨風、なをも、やまずして、いかづち、おびたゞしくなり、時々、いなびかり、殿中にみちみちて、すさまじきこと、いふばかりなし。

「いかさま、此ていならば、板垣をとられんとおもふぞ、いそぎ、長持へ入れよ。」

とて、板垣を長持に入れ、をのをの、まわりに番をしけるに、やうやう、そら、はれ、夜もあけゆくほどに、

「板垣を、長持より取り出ださん。」

とて、あけゝれば、中には、なにも、なし。

「是れは。いかなることぞ。」

と、おのおの、ふしんをなして、儀本に、

「かく。」

と申し上げる所に、こくうより、二、三千人の聲として、一度に、

「どつ」

と、わらひけるを、はしり出でてみければ、板垣がくびを、ゑんの上へ、おとして、そのすがたは、みへずなりにける、となり。

 

[やぶちゃん注:「曾呂利物語」(冒頭注参照)巻一巻頭「板垣の三郞高名の事」に基づく(【二〇二四年十一月二十五日追記:既に先年の二〇二三年三月十七日に「曾呂利物語」正規表現版電子化注始動 / 「曾呂利はなしはし書」・「卷第一目錄」・「一 板垣の三郞高名の事」』を公開しているので、見られたい。】。原典では「駿河の國大森、今川藤(いまがはふじ)」を主人(城主)とするが、コンセプトは全く変わらない。『東京学芸大学紀要』湯浅佳子論文「曾呂里物語』の類話によれば、江本裕氏の指摘として、『「儀本」には今川義元、「板垣の三郎」には武田信玄の重臣板垣三郎佐衛門信形が想起されるとする。なお、板垣が化物と遭遇したという「千本」の上の社(不明)は、『諸国百物語』には「浅間」とある。現在の静岡浅間神社(静岡市)のことか。この浅間神社については、信玄と義元がそれぞれ当社との関わりを重視していた(『静岡県の地名』日本歴史地名大系、平凡社)。本話は、信玄の家臣板垣三郎が、府中の今川義元のもとで、その勇者ぶりを示すために肝試しに出かけた話か』と記しておられる。

「らうどう」「郞等」。

「しゆゑんゆふけう」「酒宴遊興」。歴史的仮名遣は「しゆえんいうきよう」が正しい。

「せんげん」後に出る「淺間」で、概ね、富士山を信仰崇拝の対象とする浅間(せんげん)信仰に基づく、各地の山や周辺一帯の地域で最高地点に近い箇所にそれを祀った。

「ましやう」「魔性」。

「ぶゆうのほまれ」「武勇の譽れ」。

「なのめならず」「斜めならず」で「『格別な気勢じゃ。』と」の意。

「しるし」後日、そこに行ったことを確かに示すために遺留し置く証拠となる物品。

「大かう」「大功」(既に非常な勲功を立てていること)或いは「大巧」(非常に武勇に長けていること)。歴史的仮名遣は「だいこう」でよい。

「物のてともせず」文法的構造に不審があるが、「物ともせず」の意でとっておく。

「白きねりのひとへきぬ」真白な上質の練糸で織った絹織の単衣(ひとえ:裏を打っていない衣)。

「かづきたる」被っている。

「女ばう」「女房」。

「心みん」「試みん」。

「うすけしやう」「薄化粧」。

「かね」「鉄漿(かね)」。お歯黒。

「なにものなればとて」校訂者の太刀川清氏がここに会話記号を附さなかった意図は、私は、判る。怪異は場合によっては最初に言上げすることによって負けることがあるからで、ここも私は心内語と採って二重鍵括弧で括った。

「さしも」副詞で「その時まであれほどにすっきりと」。

「しやぢく」「車軸」。

「はたゝがみなり」「霹靂神(はたたがみ)鳴り」鳴り轟く雷鳴(神鳴り)の意の一語の名詞としてとる。その方が朗読のリズムに合い、怪異の勘所を崩さぬからである。

「けうをうしなふ」「けう」は「興」であろうが、だとすると歴史的仮名遣は誤りで「きよう」である。しかし、ある意味、主人が物好きでやらねばよいのにやってしまった座興の興の余裕が驚くべき雷鳴によって失われるの謂いとしては自然である。或いは、「興」が、忽ち、「消えてなくなる・ふっとんでしまう」の「消失(けう)す」が頭にあって、かく記してしまったものとも読める。

「こくう」「虛空」。

「さんげ」「懺悔(さんげ)」。原義は仏教で過去の罪悪を悔いて神仏などの前に告白をし、その許しをこうことであるが、ここは我ら(変化(へんげ)のもの)に遇ったことを、主人に「包み隠さずに打ち明けること」を指している。近世中期以後に濁音化して「ざんげ」となったとされるが、基本的には「さんげ」が正しく、近代のキリスト教信仰の受け入れ以後に断然、「ざんげ」と読むようになったと私は考えている。

「てい」「體(てい)」。様子・状態。

「ふしん」「不審」。

「そのすがた」物の怪の姿であるが、実体として見えていた訳ではないから、物の怪の気配が辺りの急速な鎮静と静寂化とともに消え失せたと読むべきであろう。]

ハゼ釣り記   梅崎春生

 

 本誌先号の巻頭「絵と随想」欄に、私は「釣好き」と題する文章と画をかき、莫大(と言うほどではないが)の稿画料を貰った。これをどう費消すべきや。少時頭をかたむけて、私ははたと膝をたたいた。これは魚で得た稿画料だから、魚釣りに使ってやろう。あの文章にも書いた通り、私はほとんど東京では釣りに行ったことがないから、これが絶好の機会というものだ。

 早速家族をあつめて相談してみると、皆賛成で、ことに子供たちは大賛成で、魚釣りは社会科ならびに理科の勉強になるから(舟宿の仕組みや釣師の生態が社会科で、魚の分布状態や生態が理科だそうだ)学校を休んでも行きたいとの熱の入れ方である。その向学心の旺盛(おうせい)なこと、私の小学生の時にそっくりで、血は争えないものだとつくづく思った。

 でも、家族四人だけで舟一艘を借り切るのはもったいないから、遠藤周作君に電話で口をかけてみたら、

「もし舟がひっくり返ったら、かなづちで泳げないし、それに、ぼ、ぼくはあの、ミミズのたぐいが恐いものですから……」

 ミミズが恐いだなんて、日本男児にもあるまじきことだと思うが、折角恐がっているものを、無理に連れて行くわけにも行かない。

 で、十月二十三日。当日はいい天気で、風もなく、絶好の釣日和である。車を駆って浅草橋の舟宿に着いたのが午前九時半。同行者は新潮社のT君とS君、講談社のK君という顔ぶれで、うちと合わせて合計七人だ。

 目的はハゼ。私一人なら、も少し専門的な魚釣りをしたいのだが、うちのも前記三青年も釣りには初心者ばかりなので、大衆的なハゼ釣りというところに落着いた。つき合いだから、仕方がない。

 さわやかな河風を切ってと言いたいところだが、実状はどぶくさい河水をかきわけて、われらが乗舟はエンジンの音も軽やかに走り出した。途中で餌宿に寄ったら、ゴカイは売切れで、余儀なくイソメを買う。今年はゴカイは全国的に品薄の由である。何故品薄か。これは社会科の方に属するから、ここでは省略する。

 大きな橋を二つくぐって、海に出る。海に出ても、潮のにおいはしない。するのは芥(ごみ)のにおいだけ。見ると彼方に芥で島をつくっている。こんなところで釣るのはいやだから、更に遠出して大森沖に行き、釣り出したのが午前十一時。水深は二尋(ふたひろ)ぐらいのところだ。

 先ず最初に釣り上げたのがうちの長男で、四寸ばかりの型のいいやつである。それから長女、それから家内と、釣り上げるのは女子供ばかりで、男たちは顔を見合わせて苦笑、かつはあせっているうちに、私の竿にぶるると手ごたえがあり、三寸ぐらいのを引っぱり上げた。

 毎度のことながら、釣り上げる時の気持はこたえられない。

「フグだ。フグが釣れた」

 と、T君が騒ぎ立てたので、見たら一寸五分ぐらいの可愛らしいメバルであった。メバルと判っても、彼は気味悪がって、船頭さんに頼んで外(はず)して貰っていた。

 外道(げどう)としては他に長男が、スマートな魚を一匹釣った。舟中大騒ぎして(私と船頭は別だ)アユだヤマメだと評定していたが、東京湾にアユだのヤマメだのがいるわけがない。マルタの子供なのである。長男は大騒ぎされて、にこにこと鼻をうごめかしていた。

 あちこち移動して戦果を上げ、午後一時半、昼飯にしようということになった。船頭がテンプラの準備をしている間、私たちはウイスキーを傾けた。今夏信州の霧ガ峯に登った時もそうだったが、こんなところで飲むウイスキーは、安ウイスキーでも、スコッチみたいな味がするものである。男四人でまたたく間に一瓶空にしてしまった。

 船頭さんのてんぷら。これがまた絶品で、銀座の一流店もこれには及ばない。潮風に吹かれながら食べるから絶品なのであって、前記ウイスキーと同様である。

 てんぷらはハゼだが、そのハゼは舟宿から用意して来たもの。われらが釣ったのは、あとで他人に見せびらかすのに必要でもあるし、惜しくて供出する気にはなれない。

 こういう具合に、一時間ばかりかけて、われらは大いに飲み、大いに食って、陶然となった。

 ウイークデイだから、海面に釣舟はちらほらと見えるだけで、日はうららかに照っているし、四辺はしんと静かだし、全くいい気分である。

 午後はまた場所を移動して釣り始めた。

 時々他の釣舟とすれ違う。どのくらい釣り上げたか、お互いに探り合うような眼付きで、すれ違う。

 四時半になって、夕風がやや肌にしみて来たから、竿をおさめた。おのおの釣果をしらべてみると、K君が六十匹ぐらい、私もその程度、新潮組は意外に振わず、T、Sの両君を合わせて五十匹程度であった。新潮社はハゼには弱いらしい。

「でも、メバルを釣ったのは、僕だけだから……」

 いくらメバルでも、一寸五分じゃ話にもなりはしない。

 家内は三十匹。子供たちもそれぞれ二十匹ずつ釣った。

 新聞の釣欄によると、東京湾のハゼは大繁昌で、一束二束は楽だと書いてある。今日の釣果ではちょっと恥かしいというわけで、他人に発表する時は百匹を足すことにしようと、相談は一決した。その計算で行くと、私の釣果は百六十匹ということになる。

 舟脚も軽く浅草橋に戻って来た。静かな海面から戻って来ると、都会とは何とうるさいところだろうと、身にしみて判る。

 女子供は先に家に帰し、男たち四人で新宿におもむき、行きつけの店を二三廻って、獲物を見せびらかした。入れものの中では、ハゼがひしめき合い、まだ生きているのもいて、ほんとにハゼという魚は可愛らしい顔をしている。

 最後に「梅平」に落着き、ハゼを空揚げにして貰って、それを肴(さかな)に祝盃を上げ、それから解散した。

 その翌日から三日間、私は晩酌の肴に、ハゼばかりを食っていた。

 

[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年一月号『小説新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「本誌先号」の後には「(昭和三十四年十二月号「小説新潮」)」とポイント落ちの割注があるが、これは底本全集編者の挿入と断じて、除去した。なお、その先月号に梅崎春生が書いたという「釣好き」という文章は底本全集には所収しない。

「ハゼ釣り」東京湾には条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科 Gobiidae に属する多様な種が棲息するが、一般に東京湾内で「ハゼ釣り」の対象として人気があり、天麩羅にして美味いものはゴビオネルス亜科マハゼ属マハゼ Acanthogobius flavimanus ではある。

「ゴカイ」現在は環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ超科ゴカイ科カワゴカイ属のヤマトカワゴカイ Hediste diadroma・ヒメヤマトカワゴカイHediste atoka・アリアケカワゴカイHediste japonica の三種に分割されているものの総称通称。かつてはカワゴカイ属ゴカイHediste japonicaの正式単一和名と学名で示されてきたが、近年の研究によって、同属の近縁なこれら三種を一種と誤認していたことが判明、「ゴカイ」という単一種としての「和名」は分割後に消滅して存在しないので注意されたい。

「イソメ」多毛綱 Polychaeta に属する多様な種を釣り餌として「ゴカイ」「イソメ」と呼ぶが、狭義の「ゴカイ」とは縁遠い種を「ゴカイ」と平気で呼び、「イソメ」でないとんでもない種を広汎に「イソメ」と今も名づけているので、現物を見ないと分からぬが、ゴカイが「売切れで、余儀なく買う」と言っている以上、釣餌としては明らかに格下がりで(その代り安い)、体が柔らかく、直(じき)に切れたり、針から外れてしまう印象の謂いからは、私はこれはゴカイ科 Nereididae Tylorrhynchus 属イトメ Tylorrhynchus heterochaetus ではないかと思う。前記のカワゴカイに似るが別種で、「バチ」「エバ」などと呼称する種で、大潮時に起こる群泳生殖で知られる。私がブログ・カテゴリ「博物学」で十回に分けて電子化注した新田清三郎氏の『「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて』に出て来るそれで、まさにその研究対象の「いとめ」棲息地はこのロケーションの近くである(なお、カワゴカイ類と本種の違い等については同第一回目の私の注を参照されたい)。なお、現在では、「イソメ」と称する格安の釣り餌は朝鮮・中国産で本邦に産しない多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ科アオゴカイ Perinereis aibuhitensis であるが、本記事の頃に既にこれが一般流通していたかを考えると、やや疑問なので外しておきたく思う。

「今年はゴカイは全国的に品薄の由である。何故品薄か。これは社会科の方に属する」梅崎春生が「社会科」と言っているのは所謂、廃液による水質の汚染問題であろう(因みに、「公害」という単語は一九六〇年代前半には国語辞典には載っていなかった)。東京湾のカワゴカイ類の棲息していた東京湾奥の河口附近は家庭や工場のゴミや廃液の投棄によって有害物質(後の「ヘドロ」)が多量に堆積し、生物化学的酸素要求量(Biochemical oxygen demandBOD)が異様に高くなっていたと考えられ、この頃にはカワゴカイが激減していたものと思われる。多毛類は水質悪化にもかなりの耐性を持つ種が多いが、あの時代のそれは想像を絶していたと思われる。今一つ、それに連動して全国的にゴカイ採取が割に合わなくなって、ゴカイ採取に従事する人間が減ったとも考えてよいであろう。邦画の名作三本に私が必ず入れる小栗康平監督の映画「泥の河」(一九八一年自主制作)の中で、「ゴカイじいさん」がゴカイ獲りの小舟から落ちて死ぬシークエンスがあるが(舞台は大阪)、あの時代設定は昭和三〇(一九五五)年であった

「大きな橋を二つくぐって、海に出る」浅草橋で乗船しており、隅田川をそのまま下って大森沖へ向かっているから、永代橋と勝鬨橋と思われる。

「芥で島をつくっている」隅田川河口から東京湾に乗り出たところから真西六キロメートルほどの位置に現在の夢の島が見えたはずである。

「二尋(ふたひろ)」三メートル六十三センチほど。

「四寸」十二センチ。

「三寸」九センチ。

「一寸五分」三センチ。                        

「メバル」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科又はメバル科メバル属メバル(アカメバル)Sebastes inermis 或いは同属の近縁種シロメバル Sebastes cheni・クロメバルSebastes ventricosus の孰れか。

「マルタの子供」条鰭綱コイ目コイ科ウグイ亜科ウグイ属マルタ Tribolodon brandtii のこと。マルタウグイとも呼ぶ。本邦では神奈川以北の太平洋側及び富山以北の日本海側の、主に沿岸部から河川河口部の汽水域に棲息し、春の産卵期には川を遡上する遡河回遊魚。幼魚は一年ほど、河口付近で過ごして七~九センチメートルほどに成長してから海に降る。参照したウィキの「マルタウグイ」によれば、寿命は十年ほどと、比較的、長命で、『動物食性で、貝類やゴカイ類、エビなどの甲殻類といった小動物を捕食する』とある。

「一束二束」「いっそくにそく」で魚数で「百尾二百尾」のこと。「一束」は元は野菜などを十本(個)を一把(わ)とし、その十把を一束(そく)とするところから、広く数の「百」を指す語として、特に多い漁獲量の魚種の釣りなどに於いて「ハゼ一束半〔百五十尾〕の釣果」などと好んで使うようになった。

「梅平」不詳。現在、新宿や池袋(梅崎が帰路経由するはず)辺りにはこの名の飲み屋や割烹はない模様である。]

未見の風景   梅崎春生

 

 実を言うと、私はあまり風景には興味がない。子供の時からそういう傾向があった。遠足などに行き、失しい景色に接すると、ああきれいだなあと眼を輝かしはするが、三十秒も見ていると、倦きてしまうのが常であった。人間と違って、変化がないから、倦きてしまうのである。

 だから現在の私の小説には、あまり風景は出て来ないし、出て来ても描写に生彩を欠いでいる。(といって、人間描写に生彩があると、威張っているわけではない)

 しかし、昭和二十二三年頃書いた小説には、大いに風景を取入れた。その頃私は戦争小説をいくつも書いたから、そして戦争というものは室内で行われるものでなく、大体風景の中で行われるものだから、小説の中に風景を取入れざるを得なかったのである。

 その頃私は、行ったことのない国々、たとえばフィリッピンやブーゲンビル、またはシベリアなどを舞台とした戦争小説を度々書いた。そういう異国の風物を叙述するのに、たいへん苦労した。いろいろと人に聞いたり本で調べたりして、苦心を重ねたが、そのかわり張り合いがあつた。眼で見ぬ風景の描写だから、張り合いがあったのだろう。これがこの眼で見た風景なら、さほどの情熱は湧かなかっただろうと思う。

 で、その未見の風景描写は成功したかというと、半分成功し、半分成功しなかった。たとえばフィリッピン小説の場合、私同様フィリッピンに行ったことのない読者からは、実に現地にいるようだとほめられたが、フィリッピン行きの経験のある読者からは、首をかしげられた。

「日の果て」を書いたあと、しばらくして野間宏に会ったので感想を訊ねると、「フィリッピンで人間はあんなに速く歩けるもんかねえ」と首をかしげられたので、私はたちまち狼狽、あとの感想を聞く元気をうしなった。いくら技巧をこらしたって、やはり体験者にはかなわない。すぐに見破られる。

 今度未見の風景描写をやるとすれば、火星小説でも書く他はない。火星に行った人はまだ誰もいないのだから、その小説における私の風景描写は、おおかたの好評を博するであろう。

 

[やぶちゃん注:昭和三三(一九五八)年四月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。私は結果的に梅崎春生の遺作となった畢生の名作「幻化」の風景描写は、どこも皆、飛び抜けて優れていると思っている(リンク先は私の『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注』PDF一括縦書版。ブログ版分割がよろしければこちらで)。

「フィリッピンやブーゲンビル、またはシベリアなどを舞台とした戦争小説」例を挙げると、「フィリッピン」は「ルネタの市民兵」(昭和二四(一九四九)年八月『文芸春秋』初出)、「ブーゲンビル」は「B島風物誌」(昭和二三(一九四八)年八月刊『作品』(季刊誌)初出)、「シベリア」は「赤帯の話」(昭和二四(一九四九)年『文学界』初出。リンク先は私の電子テクスト)などである。

「日の果て」昭和二二(一九四七)年九月刊『思索』(季刊誌)初出。

『野間宏に会ったので感想を訊ねると、「フィリッピンで人間はあんなに速く歩けるもんかねえ」と首をかしげられた』野間は昭和一六(一九四一)年に応召し、中国やフィリピンを転戦している。野間と梅崎は同年齢で誕生日も、八日、梅崎の方が早いだけである。]

流感記   梅崎春生

 

 とうとう流感にとっつかまってしまった。

 今度の流感はたちが悪く、熱が一週間も続くという噂だったので、私はおそれをなして極度の警戒、外出もあまりせず、うがいもおこたりなく、暇さえあれば蒲団にもぐり込んでいたのに、とうとうやられてしまった。十一月二十七日のことだ。

 私は他人にくらべて、仕事の量はすくない方だが、週刊誌の連載を一本持っているので、一週間も寝込めば、たちまち休載の羽目になる。それにその時は「新潮」新年号の小説の〆切りも控えていた。

 朝ぞくぞくするから、熱をはかってみると、七度四分ある。これはたいへんだと、直ちに風邪薬を服用、蒲団にもぐり込んだ。それから刻々上って、午後には八度五分まで上った。その頃「新潮」編集部の田辺君から電話がかかって来た。原稿の催促である。

 家人が出て、熱が八度五分もある旨を伝えると、あと三日間でどうしても一篇仕立てろ、との答えだったそうだ。つまり田辺君は私の病気を、にせ病気だと疑っているのである。

 何故彼が疑うか。それにはわけがある。一週間ほど前、私は彼に冗談を言った。十一月二十七日の文春祭に行くつもりだが、きっとそこの人混みで風邪がうつり、翌日から寝込んで、お宅の仕事は出来なくなるかも知れないよ。冗談じゃないですよ、と田辺君はにがい顔をした。

 二十八日から寝込む予定だったのが、一日繰り上って、二十七日にかかったばかりに、私は文春祭に行きそこなった。

 翌二十八日の朝は、養生よろしきを得たか、七度二分まで下り、午後になっても七度五分どまりであった。そこへ田辺君が足音も荒くやって来た。そこで病室に通ってもらった。

 ちゃんとした病人であるから、枕もとには薬袋や薬瓶、体温計、水差しにコップ、うがい薬など、七つ道具が置いてある。一目見れば、これは単なるふて寝でなく、病臥であることが判るようにしてあるから、田辺君はがっかりしたような声を出した。

「ほんとに風邪ひいたんですか」

「ほんとだよ」

 私は努めて弱々しい、かすれ声を出した。

「見れば判るだろ」

「熱は?」

「うん。熱は八度七分ぐらいある」

 七度五分などと本当のことを言えば、たちまち起きて書くことを強要されるにきまっているから、とっさの機転で一度二分ばかりさばを読んだ。

「そうですか。八度七分もあるんですか」

 田辺君は信用した様子である。

「氷枕をしたらどうです?」

「うん。九度台まで上れば、氷枕を使うつもりだよ。八度台で使うと、くせになる」

「探偵小説なんか読んでんですか?」

 枕もとに積み重ねた探偵小説に、彼は眼をとめた。

「うん。読もうと思ったんだが、熱のせいかどうしても頭に入らない」

 なに、田辺君が来るまで、せっせと読みふけっていたのであるがそんなことはおくびにも出さない。おれは八度七分もあるんだぞと、自分に言い聞かせながら、かなしげな声を出す。

「詰碁の本もひろげたが、やはり八度七分じゃだめだ」

「そりゃそうでしょう」

「碁の話で思い出したが、尾崎一雄二段を二目に打ち込んだ話をしたかね?」

「え? 二目に打ち込んだんですか?」

「そうだよ。環翠で打ち込んだんだ。打ち込んで二子局の成績は、三勝三敗で打ち分けさ。まあ順当なところだろうな」

「それはお気の毒に。あんまり弱い者いじめはしない方がいいですよ」

「うん。弱いものいじめはしたくないが、そうそうサービスばかりもしておれないからな」

「大岡昇平さんとはどうですか」

「うん。あれもそのうち先に打ち込んでやるつもりだ」

 そんな具合に碁の雑談などして、

「ではお大事に」

 と田辺君は帰って行った。原稿はあきらめたらしい風であった。

 以上までは平凡な日記であるが、ここからがたいへんなことになる。

 田辺君が帰って直ぐ、何気なく体温計をつまみ上げ、脇の下にはさんで、五分間経って取出して見て、私はあっと叫んだ。水銀が八度七分を指していたのである。

「わあ。たいへんだ」

 と私は大狼狽したが、その八度七分の熱は、一時間ほど経つと、また元の七度五分に戻ったのは不思議である。

 思うに、田辺君との対話中、おれは八度七分あるんだぞ、八度七分もあるんだぞと、心中きりきりと念じていたものだから、身体がそれに感応して、あるいは義理を立てて、たちまち八度七分まで上ったに違いない。念ずるのをやめたら、たちまち元に戻ったことでも、それが判る。

 これで田辺君にうそをつかなかったことになり、良心の呵責(かしゃく)を受けずにすむことにもなる。両方おめでたい。

 以上、人間思い込んだら、どうにでもなれるという、お粗末の一席。

 

[やぶちゃん注:昭和三三(一九五八)年一月号『風報』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。『風報』は文芸雑誌で、「ふうほう」と読む。昭和二二(一九四七)年九月に尾崎一雄と尾崎士郎によって創刊され、創刊の前段階では坂口安吾が深く関わっていたらしい(昭和二十二年六月のクレジットで『国府津にて 風報編集会議』とキャプションのある両尾崎と安吾の三人の映った写真をネット上で現認出来る)。昭和三七(一九六二)年十月の通巻百号を以って終刊している。第二段落末の「十一月二十七日」の後には「(昭和三十二年)」とある。ややポイント落ちであるから、これは底本全集編者による割注と断じて除去した。傍点「ヽ」は太字に代えた。「二目に打ち込んだ」「二子局」(いろいろ見て見たが「にしきょく」と普通に読んでよいようである。碁石を数える数詞として単に「二子」と書いた場合は「にもく」と読むらしい)は全く判らないが、囲碁を学ぶつもりはないので一切、注しない。珍しく、特異的に意味も分からず、注もせずに放置する。悪しからず。

「環翠」神奈川県足柄下郡箱根町塔之澤にある「元湯 環翠楼」のことであろう。]

本日の「青空文庫」公開は谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」

本日の「青空文庫」公開は谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」だ。

ゲス谷崎の中でも名品の一つ。

しかしこれは是が非でも正字正仮名で讀まねば禮讚たるまい――

2016/08/22

空費された青春   梅崎春生

 

 青春を空費したことが、一番くやまれる。応召した間だけでなく、その前後の生活が、青春もなにもないものだった。弟が戦病死したのも悲しい。

 しかし、あの組織体のなかに入って、人間の極限状態を見たこと、人間とは、こういうものなんだなと分ったことは、いま小説を書いていて、役にたっているかも知れないが、当時は情ない気持だった。

 軍隊では、おとなしい人が残忍なふるまいをする。他人の苦痛に鈍感になり、たとえば、人がなぐられても、おれでなくって良かったと思ったりするのだ。海南島へ行ってきたという下士官が、こんな話をした。海南島で一人のスパイがつかまったのだ。日本軍は見せしめのために、彼をしばり、便所の横につないでそばに棍棒を置いた。用を足しに行く兵隊は、その棒で一つずつ彼をなぐれというのである。無抵抗のスパイは、なぐられ続けて三日ほどで死んだという。私は、この話を聞いてやり切れんと思った。

 実に、軍隊は人間の生地をさらけ出して見せるところだ。南京の虐殺事件も、普通の日本人なら考えられない行為なのだが、軍隊に入った人には出来たのだ。軍隊は、市民的良心を棄てさせてしまう。人間の欲望が表面に出てくる。ふだん高潔な人が、残飯あさりをやったりもする。

 戦争の悲惨さと同時に、人間の存在や生活の深さが、よく分った。私個人でもそうだ。ああ、おれも結局はこういう悪い感情を持ち、悪いことをするんだなと思うことがある。硫黄島へ部隊の一部が行って、一カ月あまりで玉砕したときは、「自分がそのなかに入っていなくて良かった」という気持が、「かわいそうだ」という気持といっしょに出てきたりした。自己嫌悪に襲われた。

 たとえば、私は戦争中、戦友を殺して肉を食うようなすさまじい場合になったならば、たぶん食われるほうになっただろうが、そこまで行かない場合は、真っ先に餓死するかどうかは自信がないのである。自分が食事当番になったときは、あさましいと思いつつ、自分の食器だけには飯を押しつけて沢山入るようにしたことがある。

 私などは生命の危険はなかった。桜島は洞窟陣地だったから、空襲の心配もない。苦労といえば、なにかといえば、精神棒のお見舞をうけるつらい内務班生活だった。その点、特攻隊は、われわれとは別の世界であった。あってみると、彼らは相当すさんでいた。朝から酒をのんでいたり、われわれがそばに寄ると「コラッ」とどなったりした。

 それもこれも、みな戦争のせいである。非情で同情心のない一種の変質者である職業軍人と、奴隷(どれい)のような部下。そこにある感情は、友情とは別のものだ。戦友とは文通もないし、会わない。会いたいとも思わない。

 

[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年八月四日号『週刊朝日』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「弟が戦病死した」梅崎春生の実弟梅崎忠生(昭和四(一九二九)年~昭和二〇(一九四五)年)は彼をモデルにした「狂い凧」によれば、出征中に喘息の治療薬として用いた麻薬の中毒に罹患し、敗戦直前に自殺している(この内、病態は金剛出版昭和五〇(一九七五)年刊の春原千秋・梶谷哲男共著「パトグラフィ叢書 別巻 昭和の作家」の「梅崎春生」(梶谷哲男氏担当)を参考にし、生年は「松岡正剛の千夜千冊」の第一一六一夜「『幻化』梅崎春生」の『長兄と末弟には17歳の歳のひらきがあった』という記載から逆算、没年は底本年譜に『終戦直前に自殺』という記載から推定した。彼忠生については事蹟記載がすこぶる少ない)。底本の別巻にはこの忠生のさらに下の弟(梅崎家は男ばかりの六人兄弟)であった梅崎栄幸氏の「兄、春生のこと」が載るが、そこに『戦後五年ほどして忠生兄の死は、実は戦死ではなくて睡眠薬による自殺であったことを聞いた』とある。喘息の治療薬による中毒からの自殺ならば、広義の「戦病死」という謂い方(というよりも軍歴上の処理)はおかしくはない。しかし、春生は感情的にも「自殺」とは書きたくなかったのであろう。]

夜戦   梅崎春生


 太平洋海戦史をひもとくと、電波兵器の発明が、海戦の様相を大きく変化させたことが判る。日本の軍艦にも電波探知機はあったが、米艦のそれにくらべると、精度に雲泥の差があった。

 もともと日本海軍は夜戦が得意で、碧い眼よりは黒い眼の方が夜はよく見えるという関係もあり、また数十年の伝統、それから数十年の猛訓練で、夜戦では絶対勝利の信念を持っていたらしいのだが、電探以下の電波兵器の出現によって、すっかりだめになってしまった。いくら黒い眼がよく見えたって、その前に電波の方が見てしまうのだから、勝負にもなりやしない。

 数十年の伝統と猛訓練が、一挙にくつがえり、何のための猛訓練だったか、わけがわからないことになった。

 近代戦というものは、もはや体力や精神力の優劣で争われるものでなく、器械や技術で戦われるものだから、器械や技術に一歩先んじられたら、それまでだ。

 文学は海戦とは違うから、同一にとりあつかうことは許されぬが、文学にもそれに似た現象があるように思う。小説とは自分の生活をきびしく見詰め、それを文章に表現することだという信念で、十年の苦節を積み、社会から疎外された場所に自分を置き、一剣を磨き来たっても、小説の方で変化してしまえば、十年の一剣も帝国海軍の夜戦と同じで、もう使いものにならなくなってしまう。

 小説というものは、文章の巧拙でなく、生き方や感じ方や考え方、それらを根幹として成り立っている。生き方とか感じ方は、時代によって変るし、変らざるを得ない。不動の生き方というようなものは、当今のように変転のはげしい時代には、存立を許されないだろう。

 だから、十年苦節も学校出たての若僧も、時代の曲り目ごとにおいて、同じスタートラインに立たされることになる。その点では、十年苦節組の方が、年齢によって硬化しているだけに、損なのである。損になっているだろうと私は思う。

 映画の方にも、そんなことがあるだろうと思う。映画の世界のことはよく知らないが、映画はエジソン(だったかな)が発明して以来、短時日に急速に発展、変転してきた。トーキーになったのはこの間のような(それほどでもないが)気がするのに、色彩、シネマスコープ、シネラマと、次々に変り行く気配がある。

 その変るたびに、映画製作に直接たずさわる人々は、大げさに言えば、やはり同じスタートラインに立たされることになる。

 折角黒白画面に美を盛り上げることに苦労して会得したのに、皆が色彩映画になれば、その技術はとたんに御破算になるのである。

 全体の発展のためには余儀ないとしても、個人として見れば残念なことであろう。

 人造米というのがあった。あれも苦労して考案し、パテントか何かとったらしいが、とたんに米が豊富に出廻って、器械の持ちぐされになった。帝国海軍の夜戦と同じである。

 あることを書こうとして筆を進めていたら、紙数が尽きた。以上はまくらである。

 

[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年四月号『世界』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。展開が脱線的で面白い。しかし最後に「あることを書こうとして筆を進めていたら、紙数が尽きた。以上はまくらである」とした、本論が何だったのか、判らぬのが、消化不良ではある。

「映画はエジソン(だったかな)が発明」一応、正しい。ウィキの「映画史」から引く。一八九三年(明治二十六年)に『アメリカのエジソンが自動映像販売機(映写機)キネトスコープを一般公開。さらに、フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフ・リュミエールという、現在のカメラや映写機と基本的な機構がほぼ同じ複合機(カメラ+映写機+プリンター)を開発し』、一八九五年三月に『パリで開催された科学振興会で公開』、同年十二月二十八日に『パリのグラン・カフェと言う名称のカフェ(現ホテル・スクリーブ・パリ)で有料の試写会を開いた』のを嚆矢とする。『他にフランス人のルイ・ル・プランスも同時期に映写装置を開発していた。しかし、透明で柔軟性に富むフィルム材料が手に入らず一時、頓挫していた』。『エジソンが開発したのは箱を覗き込むと、その中に動画をみることができるというもの。リュミエール兄弟が開発したのは、その仕組みを箱から、スクリーンへと投射するものへと改良し、一度により多くの人が動画を観賞することができるようにしたもの。現在の映画の形態を考慮すると、リュミエール兄弟の最初の映画の公開をもって映画の起源とする方が有力な説となる』。『リュミエール兄弟らが公開した世界最初の映画群は、駅のプラットホームに蒸気機関車がやってくる情景をワンショットで撮したもの(『ラ・シオタ駅への列車の到着』)や、自分が経営する工場から仕事を終えた従業員達が出てくる姿を映したもの(『工場の出口』)など』の計十二タイトルで、『いずれも上映時間数分のショートフィルムだった。初めて映画を見る観客は「列車の到着」を見て、画面内で迫ってくる列車を恐れて観客席から飛び退いたという逸話も残っている。これらの映画の多くは単なる情景描写に過ぎなかったが、やがて筋書きを含む演出の作品が作られるようになった。例えば『水をかけられた散水夫』という作品は、散水夫がホースで水を撒いていると、一人の少年がホースの根元を踏んで水が出なくなり、散水夫がホースを覗き込むと少年が足を離して散水夫がずぶぬれになり、散水夫は少年を追いかけ折檻するという筋書きで、数分の動画の中に筋書きと笑いの要素を含んでおり、コメディ映画の発端のひとつとなった』とある。

「トーキーになったのはこの間のような(それほどでもないが)気がする」ウィキの「トーキー」によれば、“talkie”は『映像と音声が同期した映画のこと。talkie という語は talking picture から出たもので、moving picture movie と呼んだのにならったもので』、『発声映画が最初に上映されたのは』一九〇〇年(明治三十三年)の『パリでのことだったが、商業的に成り立つにはさらに』十年以上を『要した。当初は映画フィルムとは別にレコード盤に録音したものを使っていたため同期が難しく、しかも録音や再生の音質も不十分だった。サウンドカメラの発明によって同期が簡単になり』、一九二三年(大正十二年)四月に『ニューヨークで世界で初めてその技術を使った短編映画が一般上映された』。『発声映画の商業化への』第一歩はアメリカで一九二〇年代後半(大正末から昭和最初期)に始まり、“talkie”という名称も、この頃に生まれたものである。『当初は短編映画ばかりで、長編映画には音楽や効果音だけをつけていた(しゃべらないので「トーキー」ではない)。世界初の長編トーキーは』、一九二七年(昭和二年)十月に公開されたアメリカ映画「ジャズ・シンガー」(The Jazz Singer:アラン・クロスランド(Alan Crosland)監督/ワーナー・ブラザーズ製作・配給)『であり、ヴァイタフォン方式』(Vitaphone:ワーナー・ブラザーズが開発したフィルム映像と録音された音を同期させるトーキー映画のシステム名)だった。『これは、前述のレコード盤に録音したものを使う方式で、その後はサウンド・オン・フィルム方式(サウンドトラック方式)がトーキーの主流となった』。翌一九二八年に、『サウンドトラック方式を採用した』、かのウォルト・ディズニー(Walt Disney)の監督した「蒸気船ウィリー」(Steamboat Willie)が公開された。これは『短編ながら、初のサウンドトラック方式による映画であると共に、トーキーとして初めてのアニメーション映画でもある』。

一九三〇年代(昭和五年から同十三年代)に入ると、『トーキーは世界的に大人気となった。アメリカ合衆国ではハリウッドが映画文化と映画産業の一大中心地となることにトーキーが一役買った(アメリカ合衆国の映画参照)。ヨーロッパや他の地域では無声映画の芸術性がトーキーになると失われると考える映画製作者や評論家が多く、当初はかなり懐疑的だった』。日本映画では昭和六(一九三一)年の「マダムと女房」(五所平之助監督・田中絹代主演・松竹キネマ製作)が『初の本格的なトーキー作品である。しかし、活動弁士が無声映画に語りを添える上映形態が主流だったため、トーキーが根付くにはかなり時間がかかった』とあり、同ウィキの「アジアにおける移行」によれば、一九二〇年代から一九三〇年代(大正九年から昭和一四年)の日本は『世界でも有数の映画製作本数で、アメリカ合衆国に迫る勢いだった。トーキーの製作はかなり早かったが、映画全体がトーキーに完全に移行するのに要した期間は西洋よりも長かった』。実は本当の日本初のトーキー映画は劇作家として知られる小山内薫が監督した「黎明」(昭和二(一九二七)年・松竹)であったが、『技術的問題から公開には至らなかったともいわれている』。『サウンド・オン・フィルム方式のミナ・トーキー(=フォノフィルム)を使い、日活は』昭和四(一九二九)年に二本の部分トーキーの映画「大尉の娘」(落合浪雄監督・水谷八重子主演)と「藤原義江のふるさと」(溝口健二監督)を『製作した。次いで松竹は』昭和六(一九三一)年に『初の国産サウンド・オン・フィルム方式(土橋式トーキー)での製作をおこなっ』ている。その間、二年の『月日が流れているが、当時の日本の映画はまだ』八割が無声映画で、『当時の日本映画界をリードしていた』二人の『監督、成瀬巳喜男と小津安二郎がトーキーを製作したのは』実に、それぞれ昭和一〇(一九三五)年と昭和一一(一九三六)年のことであった。その後、昭和一三(一九三八)年の段階でも、日本(国産の謂いであろう)では三分の一の映画が無声映画だった(以上、下線はやぶちゃん)。『日本で無声映画の人気が持続した背景には活動弁士の存在がある。活動弁士は無声映画の上映中にその内容を語りで解説する職業である。黒澤明は後に活動弁士について、「単に映画の筋を語るだけでなく、様々な声色で感情を表現し、効果音を発し、画面上の光景から喚起される説明を加えた(中略)人気のある活弁士は自身がスターであり、贔屓の活弁士に会うにはその劇場に行く必要があった」と語っている』。『映画史の専門家 Mariann Lewinsky は次のように述べている』。『西洋と日本における無声映画の終焉は自然にもたらされたものではなく、業界と市場の要請によるものだった。(中略)無声映画は非常に楽しく、完成された形態だった。特に日本では活動弁士が台詞と解説を加えていたため、それで全く問題はなかった。発声映画は単に経済的だというだけで何が優れていたわけでもない。というのも、映画館側が演奏をする者や活弁士に賃金を支払わずに済むからである。特に人気の活弁士はそれに見合った賃金を受け取っていた』。『同時に、活動弁士という職業があったおかげで、映画会社はトーキーへの設備投資をゆっくり行うことができ、製作スタッフも新技術に慣れる期間を十分にとることができた』。以上の記載から考えると、梅崎春生が映画がトーキーになったと感じたのは昭和一〇(一九三五)年から昭和一三(一九三八)年の間辺りと考えてよく、丁度、この頃、春生は熊本五校を卒業して、東京帝大に進学(昭和一一(一九三六)年三、四月)、無頼風の大学生活を送っていた時期と一致する。そこから本記事までは十九から二十二年ほどしか隔たっていないから、「トーキーになったのはこの間」という感覚は、必ずしもおかしくはないと言える。

「人造米」ウィキの「人造米」から引く。『米の代用食料として「麦」や「とうもろこし」などのでんぷん質から作った米状』食品。『戦後の食糧難の頃に食料問題を解決する手段として麦やトウモロコシのでんぷん質を加熱糊状にしてから』、『米粒の形に圧縮成型する方法で米の代用品を製造する方法が開発された。この米の代用品は人造米と呼ばれ』、昭和二八(一九五三)年十月二十七日の『閣議では「人造米育成要綱」『が決議されるに至り、国は国内にある多くの食品メーカーに人造米の製造を奨励した。人造米はその製法が簡単であり製造ラインに多額の投資をする必要もなかったため、人造米を作る工場はこのような国の働きかけも後押しするかたちで急速にその規模を拡大した。また、ビタミン等を添加した強化米を作るにも、原料に練り込むだけでよいという利点があった』。『しかし、国民の人造米に対する評価は「外米より不味い」とか「うどんを細かく刻んだようだ」など散散なものであったため、発売当初は物珍しさなども後押ししてそれなりに売れたものの「人造米育成要綱」の決議からわずか数ヵ月後の』昭和二九(一九五四)年の『春を過ぎた頃から全く売れなくなり、次第に製造量は減少した。そして』昭和三十年代前半には『市場から姿を消した』とある(私は昭和三十二年生まれで、食ったことはおろか、見たこともない)。『普通の米とまったく同じように炊く事ができ』るもので、『国などは、味が不味いのをごまかす方法として「米と人造米を同量混ぜて炊くと美味い」などと盛んに喧伝したが、売れ行きが向上する事はなかった』。『発売当時の価格は』一キログラム当たり八十円から八十五円程度で(昭和二十九年の本物の米価を調べると、一キロ当たり百二十円相当である)、製造のピークは昭和二十九年一月頃で、月産約四百トンほどだった、とある]

悪酒の時代――酒友列伝――   梅崎春生

   悪酒の時代

    ――酒友列伝――

 

 私が酒を飲みだしたのは、十代の末期、学生の頃であるが、今考えると、飲み出したというほど大げさなものでない。何かというと街に出て、おでん屋かどこかで、わいわい騒いだり歌ったり、それで他愛なく酔っぱらって、かついだりかつがれたりして帰る程度のもので、なにも切に酒を欲して飲むといった飲み方ではなかった。もっとも十代や二十代の初期くらいの年頃で、生理的に身体が酒を欲する、あるいは精神が切に酩酊(めいていい)を欲する、などというのは先ず異例のことだろう。

 私はその頃、酒は飲んでも、酒の味は判らなかった。ただ酩酊の味だけを少し知っていた。現在でも私は、酒の味はよく判らない。甘口と辛口、濃い薄いが弁別出来る程度で、もっぱら酩酊専門である。やはり飲み始めの頃の飲み方が、一生を決定してしまうものらしい。

 なんだか若い頃は、酒を飲めるということがたいへん得意で、酒の飲めぬ友達を軽蔑したり、おれは酒飲みの血筋だから一升酒はらくにいけると大言壮語してみたり、いろいろ威張ってはいたが、今にして当時の私の酒の腕前をかえり見ると、文壇囲碁会の位に直すと、さしずめ大岡昇平二段格といったところで、広言の割には実力がともなわなかったようである。

 私の腕前がおのずから輝き出したのは、戦争でそろそろ酒がなくなりかけてからのことである。

 外国の山登りの言葉に、何故山に登るかと問われて、そこに山があるからだというのがあるが、現在の私の心境もややそれに近い。何故酒を飲むか。そこに酒があるからである。

 ところが当時、つまり戦争中(昭和十七年以降)の私の心境は、今の心境と正反対であった。すなわち、何故酒を飲むか。そこに酒がなかったからである。

 

 戦争が進行してゆくにつれ、だんだん物資が少なくなる。酒もその例外でない。個人には配給制度になり、店には割当制となる。その割当量もだんだん減って行く。

 商人の良心、あるいは悪心というやつが、そうなると露骨に出て来るようになる。良心的な店は、客の都合やふところ具合を考えて、なるべく免税点(一円五十銭)以内で、客を満足させようとする。つまり貧しい酒飲みにとっては、肴というものはあまり必要でない。乏しいふところで酔うには、肴を犠牲にしてその分だけ飲みたい、ということになる。商人の側からすれば、割当の酒量はきまっているから、それをフルに活用して、つまり肴と抱き合わせにして、一儲けしたいというところなのである。

 かくして酒を飲むということは、楽しみにあらずして、闘いということになって来た。

 折角儲(もう)けのチャンスなのに、それを押さえて良心的営業をすることは、これは並たいていのことでない。すなわち戦争遂行につれて、良心的な店は寥々(りょうりょう)たるものになった。その良心的な店を探すのが一仕事で、またその店が今日は休みか開店か、今日は如何なる種類の酒を飲ませるか、ということを探るのが一仕事であった。そしてその良心的な店の前には、午後五時(六時?)の開店をひかえて、行列が出来るようになった。

 私の手元に昭和十八年の日記があるが、それを読むと、酒の記事がほとんどを占めている。一週間の中五日は酒を飲んでいる。飲むだけではなくて、必ず酩酊している。酩酊せざるを得ないのは、時代のせいで鬱屈したものがあったからである。乏しい給料で、そんなに酩酊出来たというのも、数少ない良心的飲屋のおかげであり、そこで出した焼酎やドプロクや泡盛のおかげである。当時の私たちは、ビールや清酒は軽蔑して、あるいは敬遠して、これを近づけなかった。それらが酩酊をもたらすには、多額の金を必要としたからである。

 日記に、店の名がいくつも出て来る。笠原。堀留。タルウ(太郎という名の沖縄読み)。はるみ。のろくさ。ゆんべ呼んだ子。飯塚。その他。

 本当の名のもあれば、私たちがつけたのもある。たとえば「のろくさ」というのは本郷の餌差町にあって、至極良心的な店だったが、主人夫婦の動作がにぶくて、皆をいらいらさせ、そしてこういう名がついた。飯塚というのは新潮社の近くにあって、ドブロクを飲ませた。そこで製造して売る。官許ということになっていて、ここもまことに繁昌(はんじょう)、大行列が出来た。店の前で行列をつくると、警察なんかがうるさいので、近くのしろがね公園というところに集結、定刻になると四列縦隊をつくり、ああ堂々の大行進を開始する。多い時は千名を越す状態だったかと思う。ここのドブロクは実力があった。焼酎が混ぜてあるという定連の話であった。

 飯塚酒場は、今でもある。元の場所で、ドプロクは製造していないが、こぢんまりと営業している。今でもこんな安い店は、東京でもざらにはなかろう。ここで五百円飲み食いするには骨が折れる。この間私は新潮に「飯塚酒場」という小説を書き、ここのおばあさんに見せたところ、ぷっとふくれた。飯塚のドブロクには焼酎が混ぜてあった、という箇所が気に入らなかったのである。

「焼酎なんか混ぜるもんですか。うちのは、つくり方がよかったから、よく利(き)いたんですよ」

 おばあさんはそう言って大いにむくれた。この飯塚のおばあさんとおじいさんの昔話は、いつ聞いても面白い。ここで昔話を聞こうと思ったら、まずおじいさんに話しかけるといい。おじいさんが話し出す。おばあさんは遠くでじっと聞き耳を立てている。おじいさんがちょっと間違ったことでも言うと、

「おじいさん。そりやあ違いますよ。そうじゃなくて、こうですよ」

 とおばあさんが割り込んでくる。そうなれば話はとめどもなくなって、そのとめどもない話を肴にして、六本か七本飲み、てんぷらだの山かけなどをいくつかおかわりをしても、五百円紙幣からおつりが来るのである。ここで腰を落ちつけると、梯子(はしご)がきかない。

 ここのドブロク時代に、私は一夜に四回行列に並んだことがある。一回に二本ずつ飲ませるから、計八本。あそこの徳利は大きくて一合二勺ぐらい入ったから、一升近く飲んだことになる。さすがにその夜は、まっすぐに歩いて帰れなかった。坂なんかは這って登った。

 

 そういう飲んだくれの生活をつづけていて、十九年にいきなり海軍に引っぱられ、てんでアルコールのない生活に入れられたわけだが、アルコールを断たれたということにおいて大へんつらかったかというと、そうでもなかった。まだアル中の域に達していなかったせいでもあるが、兵隊生活そのものがつらくて、思いをアルコールに馳(は)せる暇がなかったからである。断たれるつらさにかけては、酒は到底たばこの敵ではない。

 戦争の最末期には、急ごしらえの下士官になっていたから、すこしは余裕がつき、他の下士官などからすすめられて、燃料アルコールなんかを飲んだ。その頃燃料アルコールを飲むのは法度(はっと)になっていたけれども、かくれて飲んだ。あちこちの基地で、アルコールを飲んで失明した者があるという噂も聞いたが、その頃の私にはそれがよく納得出来なかった。つまり私は、アルコールに、メチルとエチルとがあるということを知らなかったのである。アルコールというからには、どれもこれも同じだと思っていたのだ。海軍航空用二号アルコールというのを、ずいぶん飲んだが、これがメチルかエチルであったか、今もって私は知らない。眠がつぶれなかったところをみると、メチルではなかったんだろう。

 石油としか思われないにおいのものを、一度鹿児島の谷山基地で飲んだが、その翌日は眼やにがどっきり出た。どうもあいつはメチルだったに違いない。湯呑み一杯で止めたから、失明をまぬかれたものらしい。

 どうも我が酒歴をふり返ると、悪酒の歴史ばかりで、戦争時代が過ぎると、今度はカストリ時代とくる。

 それまでにずいぶん口を慣らして置いたから、カストリというのも、それほど飲みにくいものではなかった。ただカストリの酩酊の仕方は正常な酒にくらべると、螺旋(らせん)状にやって来る。ふつうの酒の酔い方を針金とするならば、カストリのは有刺鉄線である。だからそれでずいぶん失敗したけれども、その頃のかずかずの失敗は、思い出すだに自己嫌悪のたねとなるばかりで、書く気持にはなれない。

 

 私には酒友というのはいない。元来がひとり酒である。ひとりで飲む分にはペースが乱れないが、たくさんの人と一緒に飲むと、どうも調子が悪い。

 戦後派という言葉が出来た頃、いわゆる戦後派の人たち、あるいは近代文学派の人たちは、あまり酒類を愛好しなかったようだ。(今はそうでもない。)椎名麟三も、今は大酒を飲むようであるが、私が知り合ったその頃は、全然飲まなかった。そして瘦せていた。野間宏も瘦せていた。

 何の会合の流れだったか記憶にないが、そこらでいっぱいやろうというわけで、椎名、野間、埴谷雄高その他二三名で、新宿のある飲屋に入ったところ、先客が五六人いて、河盛好蔵、井伏鱒二、その他中央線沿線在住の作家評論家が、ずらりと並んでカストリか何かを飲んでいた。私たちはその傍で、一杯ずつぐらい飲み、すぐに飛び出して他の店に行った。他の店に行って、異口同音に発したのは、

「あいつら、肥ってやがるなあ」

 という意味の嘆声であった。それほどさように、当時の戦後派の肉体は、やせ衰えていて、彼等のボリュームに完全に圧倒されたのである。私は今、当時の野間や椎名の身体や風貌を思い出そうとしてうまく思い出せないのであるが、その時の皆の嘆声だけは、ありありと思い出すことが出来る。それから十年経った今はどうであるか。十年の問にこちらの肉体はずいぶんふくらんで、野間、椎名、武田泰淳、中村真一郎と並べてみても、堂々たる体格ぞろいで、中央棟沿線をはるかにしのぐだろう。今思うと、あの時の中央線沿線にしても、私たちの眠から見たからこそ肥っているように見えたので、その実はそれほどでもなかったのだろう。中肉中背か、それ以下だったかも知れない。

 とにかくあの頃は、肥っているということはうしろめたいことであり、あるいは悪徳ですらあった。新聞の投書欄か何かで、外食券食堂の女中さんが肥っているのはけしからぬ、という意味の記事を読んだ記憶がある。肥ったって瘦せたって、当人の勝手である筈であるが、それがそうでなかった時代があったということは、いつまでも記憶されていていい。

 

 カストリという酒について、私は法廷に立って、証言したことがある。

 私の友人にMという男がいて、その頃私はMの住んでいる家にころがり込んで、同居していたわけだが、そのMがカストリを飲み、柿ノ木坂において通行の女性をおびやかし、金品を強要しようとして、とらえられた。それで裁判になった。昭和二十二年のことである。

 公判はたしか東京地裁の十二号法廷というところで、今メーデー裁判が開かれているのと同じ部屋であったと思う。だだっ広い法廷で、裁判官席の前に証人席がある。この間メーデー事件の証人に立った時、どうもこの場所に前にも立ったことがあるという感じがしたが、考えてみるとそれだったのである。

 裁判長が私に聞いた。Mがこんな犯行をしたのは、友人として貴下はどう思うか。私は答えた。それはカストリという酒のせいである。

 そして私は、カストリという酒を飲んでその酔い方、頭のしびれ方、ぎすぎすした気持になって何かいたずらでもやりたくなるという特徴、そんなものについてるると証言した。最後に裁判長が私に聞いた。貴下のその証言は、科学的に根拠のあることか。私は答えて曰く。科学的根拠はないが、もっぱら私の体験に即して申し上げたのです。よろしい、というわけで、私の証言は済んだ。Mは執行猶予になった。私の証言がどのくらい力があったのか判らない。私の前に伊藤整が証人に立ち(Mは伊藤整の弟子であったから)その証言がきいたのかもしれない。私は伊藤証言を聞くことはできなかった。(法廷の規則でそうなっている。)だから後日、どんな証言だったかをMから聞いた。なんでも私小説家の運命、破滅型と調和型、そんなことについて伊藤整は大弁論をふるったらしいのである。かねてから考えていたことをMにあてはめて証言したのか、Mの行動を合理化するためにあみ出したのか、知らないけれども、その弁論を聞けば私も勉強になっただろうと、今思っても残念である。

 Mは執行猶予中に、また同じような犯行をして、ついに実刑を科せられた。二度目となれば、私のカストリ説もききそうにないので、拱手傍観せざるを得なかった。やはりMは破滅型だったのであろう。

 さいわい私は破滅せず、今日までどうにか生きて来た。酒は相変らず飲んでいる。が、もう歳も歳なので(というほどでもないが)悪酒に手を出さず、わざわざ悪酒に手を出さずとも良酒が巷(ちまた)にあふれているので、それを毎夜静かに飲み、時には飲み過ぎて二日酔をしたりして、毎日を過している。

 今年の正月の某新聞から、今年は何をやりたいかとアンケートを求められ、どうも酒を飲み過ぎて二日酔をする傾向があるから、最後の一本をやめることにする、と答えたら、友人からそんなこと可能かどうかという抗議を受けた。これは可能である。我が家で飲む場合、最後の一本をつけさせ、それを飲まずに台所の料理用に下げ渡してしまう。料理用なら爛冷しで結構だし、むだにはならない。爛冷しが毎日一合ずつ出る勘定だから、料理にもじゃんじゃん使えて、料理そのものが旨くなる。二日酔はしないし料理は旨くなるし、一挙両得というものである。

 が、実際には、最後の一本をつけさせ、それを下げ渡すのが惜しくて惜しくて、ついそれを飲んでしまい、毎朝二日酔の状態にあるというのが、私の実状のようである。酒の乏しい時代に酒飲みとなったものだから、酒惜しみの根性がどうしても抜けきれないものらしい。

 

[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年十二月号『小説新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「寥々(りょうりょう)たる」元来は、もの淋しいさまであるが、ここはそうした店が殆んど少なくなって感覚的に荒涼と淋しくなったというのみでなく、そうした店が実際に仕舞た屋になって眼前にその荒れた様が見えるという謂いでなくてはならない。そうでなくては、その後に「その良心的な店を探すのが一仕事で」とあるのが屋上屋になってしまうからである。現実のリアルな映像的表現を梅崎春生はここでしているのである。

「本郷の餌差町」現在の東京都文京区小石川にあった。旧町名の「えさし」とは、古く慶長年間(一五九六年~一六一五年)のこと、鷹狩りの鷹の餌となる小鳥を刺し捕えることを司った「御餌差衆(えさししゅう)」の屋敷が置かれたことに由来する。

「海軍航空用二号アルコール」「ア号燃料」と呼ばれたアルコール。高志氏のブログ「国民年金の花柳な生活」の「ア号燃料」によれば、『原料は主としてサツマイモだったが、玉蜀黍を始め種々の雑穀類も使われた』とあるので、幸いにしてエチルであった(因みに、メチル・アルコールは木材由来による木酢液の蒸留・石炭或いは天然ガスの部分酸化で製造した一酸化炭素に酸化銅―酸化亜鉛/アルミナ複合酸化物を触媒として高圧高温状態で水素を反応させて製造する。なお、別に戦時中に航空機燃料として試作されたものの、効率が異様に悪く実用化に至らなかった「松根油」は、テレピン油等を含んだ油状物質でアルコールではない)。梅崎春生「幻化」「白い冒頭の回想シークエンスに「海軍航空用一号アルコール」というのが出てはくる。二号があるのだから、一号もとうぜんあるのであろうが、こちらは「幻化」の注を附した際(リンク先はそれ)にもよく判らなかった。再度、識者の御教授を乞うものである。

「メチル」「カストリ」ウィキの「メタノール」(メチルアルコール:methyl alcohol)の「各国の中毒における事例」の「日本」によれば、戦前の昭和八(一九三三)年に『メタノールで増嵩しした粕取り焼酎の飲用から』三十名以上の『死者が出たほか、第二次世界大戦後の混乱期には安価な変性アルコールを用いた密造酒によるメタノール中毒もしばしば起きた』。『エタノールは酒税の課税対象となるが、エタノールにメタノールなどを加えた変性アルコールは非課税であり、これらは安価であった。このエタノールにメタノールが混入された変性アルコールを蒸留して、すなわち、"メタノールとエタノールの沸点は異なるので、適切な温度で蒸留したら分離できるだろう"という目論見で、変性アルコールを加熱・蒸留してエタノールを分離しようとしたものを密造酒として供することが横行した。しかし、メタノール-エタノール混合溶液は共沸混合物であり、メタノールとエタノールの沸点が異なっていても、混合溶液となったものを単純に加熱してメタノールを取り除くことは不可能で(共沸)、この結果、メタノールを除去できていない変性アルコールがカストリ酒となって広く出回り、中毒事故が多発した。メタノールとエタノールは沸点が異なっていても、その混合溶液を蒸留してエタノールだけを得ることは不可能であるので、留意が必要である』。『失明者が多く出たことから、メタノールの別称である「メチルアルコール」を当てて「目散るアルコール」や、その危険性を象徴してバクダン等と呼ばれた』とあるのであるが、私が以前に読んだもの(書名失念。発見次第、明記する)によれば、「バクダン」とは先の引用可能な海軍航空機用燃料(或いは素材)である「ア号燃料」に引用できないようにするためにガソリンを混入したものが戦後に闇市に出回り、火をつけてガソリンを燃やし飛ばして飲料用にしたが、ガソリンが溶け込んでいて(航空用ガソリンは有鉛ガソリンで強い毒性を持つ)、混入したそれを多量に飲むと危ないところから、そうした処理をしたものを「バクダン」と呼んだという確かな記憶がある。これは教員時代の先輩からも実話として聴いたから、かなり確かなものである。「カストリ」は原義は新酒の粕を蒸籠で蒸留して取る焼酎であるが、ここはそれとは全く無縁な粗悪な密造焼酎の俗称である。

「河盛好蔵」(かわもりよしぞう 明治三五(一九〇二)年~平成一二(二〇〇〇)年)はフランス文学者で評論家。ウィキの「河盛好蔵」によれば、大阪府堺市生まれ。京都帝国大学仏文科を卒業後、関西大学でフランス語を教え、昭和三(一九二八)年、学校騒動(前年十月に起った理事排斥で千二百名の学生が同盟休校した学生紛争)で関西大学を辞職して渡仏、ソルボンヌ大学に学び、昭和五(一九三〇)年に帰国、堺の生家でジャン・コクトーの「山師トマ」を翻訳、その後、上京してファーブルの「昆虫記」を三好達治と共訳した。昭和六(一九三一)年には立教大学教授に就任、昭和一八(一九四三)年までフランス語を教えた。同年、随筆「新釈女大学」がベストセラーとなっている。『戦後は東京教育大学教授、共立女子大学教授を歴任し、主にモラリスト文学を研究』したとある。

「M」以下、最後には「Mは執行猶予中に、また同じような犯行をして、ついに実刑を科せられた。二度目となれば、私のカストリ説もききそうにないので、拱手傍観せざるを得なかった。やはりMは破滅型だったのであろう」(「拱手」は「きょうしゅ」と読み、両手を組み合わせること・手をこまぬくこと。転じて、手を下さず何もしないでいることの意)とこのエピソードを結んでいるのであるが、当初、この人物は梅崎をして「破滅」してしまったと呼ばしめた作家であり、これらの強姦未遂と思しい犯罪及びその実刑刑期も終えているであろうことから、個人情報と本人の名誉のためにも、調べずに注も附さないつもりでいたであるが、ところが試みにちょっと調べてみたところが、実は本人がそれを小説にして発表している事実、当人は既に故人となっており、「破滅」どころか作家として永く生きたことを知るに至り、これは名前も出して注してよい(寧ろ、梅崎春生が「破滅型」と評したことへの反論となる)と考えるに至ったこの「M」とは作家八匠衆一(はっしょうしゅういち 大正六(一九一七)年~平成一六(二〇〇四)年)である。ウィキの「八匠衆一」によれば、北海道旭川市生まれで本名は松尾一光(「まつお」で「M」である)。日本大学芸術科卒で、名古屋の同人誌『作家』に「未決囚」(これがその自身の強姦未遂事件をモデルとした小説である)を発表、これがまさに昭和三〇(一九五五)年の直木賞候補となっている梅崎春生はこの前年の下半期第三十二回直木賞を「ボロ家の春秋」で受賞している。但し、春生は自身、純文学作家としての強い矜持を持っていたことから、受賞辞退も真剣に考え、多くの友人作家に相談をしていたことは特記してよい)。昭和三三(一九五八)年には「地宴」で作家賞、昭和五七(一九八二)年には「生命盡きる日」で平林たい子文学賞受賞している(梅崎春生の逝去は昭和四〇(一九六五)年)。ウィキには最後にわざわざ『梅崎春生と親しかった』とまで記されているのであるが、不審なのは、この春生の文章は、その「未決囚」の翌年の発表になるものである点であり、八匠衆一はウィキの著書リストを見ても晩年まで作品を書いており、作家として「破滅」なんぞしてはいないのである(満八十七歳で逝去した破滅型作家というのは奇妙である)。なお、彼はこの「M」であり、小説「未決囚」が自分が起こした強姦未遂事件をモデルとしていること、彼が後も作家として精力的に活動し続けたことは、個人ブログ(ツイッターHN:pelebo)「直木賞のすべて 余聞と余分」の一度どん底まで落ちて。彼に小説を書く道がのこされていて、ほんとよかった。 第34回候補 八匠衆一「未決囚」に、詳細に書かれてあり必読である。そこには、ここで春生が「Mは伊藤整の弟子であった」と記している通り、伊藤整も、そして梅崎春生も登場する。それによれば、梅崎春生はこれよりずっと以前の昭和二四(一九四九)年五月号『新潮』に発表した「黄色い日日」で「八匠衆一」を「竹田春男」という名で登場させていたこと、さらには何と! 八匠衆一はその「未決囚」の中で、主人公「松井田」(八匠衆一)が、かつての友人「竹田」(梅崎春生)の書いた「黄色い日日」を読んで、ある感慨を述べる、というシークエンスがあるという驚天動地の事実を知った。これは実に面白い! その感懐は『あの頃は竹田も危険だったのだ。その危険を避けるために彼は自分から離れてゆかねばならなかったのだ。(引用者中略)しかし、もう一つ松井田には釈然としないものが残っていた。仮りにそうであっても、そういう状況をつくり出したのは竹田だといえないこともなかった。が、竹田が意識してそんな状況をつくり出したわけでもなかったし、彼は自分の至らなさを責めるより他に仕方がなかった。』と引用されてある。これは小説であるから何とも言えぬが、梅崎春生と八匠衆一はこの事件を契機に疎遠になったのかも知れないし、実際にはずっと仲が良かったのかも知れない(わざと「M」のことを意地悪く掛けるのはかえって親しかった故の作家仲間の悪戯とも読めるのである)。識者の御教授を乞うものではある。]

現代への執着   梅崎春生

 

 大学には四年いた。三年のところを勝手に一年引き伸ばしたのだから、学資を仰いでいた伯父に、もう一年分続けてくれとは言いにくく、自分で働いてやることにした。アルバイト生活である。

 神田駿河台に政府外郭団体の東亜研究所というのがあって、学生課の紹介で、そこの書庫で働くことになった。時間給二十銭というきめだ。時間給というのは、学生だから講義に出席せねばならない、だからそれを除いて、働いた時間だけ給料を呉れるという仕組みである。しかし毎日通って全時間を勤務しても、総額四十数円にしかならない。その頃といえども四十数円というのは、大学生としては最低の生活費である。私は他に収入は皆無なのだから、講義は放棄してそこに通わねばならなかった。書庫は地下室にあり、仕事は書籍の整理や貸出し。東亜研究所というのは、たしか近衛文麿が所長で、東亜各国の資料を集め調査研究をし、侵略の手づるにしようというあまりよろしくない団体だ。夏が過ぎ、秋ともなり、やがて卒業論文提出期が近づいてきた。

 以前に届けておいた論文題名は「森鷗外論」だ。私は不勉強な学生で、講義にも欠席ばかりしていたので明治以前の国文学についてはほとんど知るところがない。第一あの原典のぐにゃぐにゃした仮名や字が判読できない。だから森鷗外を選んだのだが、由来明治大正文学を選ぶのは、よほどの勉強家か怠け者ということになっていた。怠け者がとかく選びたがるのは、樋口一葉とか芥川龍之介。全著書を集めても大した量はないからである。私の森鷗外もそれに近い。と言うのは、私は鷗外の全著作を対象としたのではなく、もっぱらその範囲を鷗外の現代小説だけに限ったからだ。あの尨大(ぼうだい)な鷗外全集を読みこなす根気もなければ暇もなかった。すなわち翻訳を省き、論文も省く。史伝も省くし、詩歌も省く。小説の中でも初期文語体で書かれたのは敬遠。「大塩平八郎」のような歴史小説も同じ。残るのは「雁」とか「鷗」とか平明にして判り易い現代小説ばかりである。これならそう参考書や資料も要らないし、短時間に仕上げがきく。

 提出期がいよいよ切迫して、あますところ二週間ぐらいになってしまった。今度はアルバイトの方は放棄して朝から東大図書館にこもり、参考書を三四冊借り出し、ぶっつけに原稿用紙に書く。下書なんかこしらえる余裕はない。十日ばかりの間に八十枚ほど書き上げ、大急ぎで製本屋に頼んで製本し、研究所倉庫に行ってナンバリングで頁を打ち、そしてぎりぎりの日に提出した。こんな粗雑な論文でも、どうにか通過したからふしぎなものだ。

 この論文は、学校に保存されると大変だから、卒業時に取返して、ちゃんとしまって置いた。終戦時まであったが、この稿を書くために探したが、どこにしまったか見当らない。見当らない方が身の為である。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年四月三十日号『近代文学』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」の『エッセイ Ⅰ』に拠った。これをここ(前後は同底本の『エッセイ Ⅳ』)に挟むのは当該底本の編集権を侵害しないようにするためで、他意はない。但し、私は編集権とは底本を一冊丸ごと、同配列同文オリジナル注釈なし、PDFなどで同じ版組にして電子化した場合等に限って問題となると認識しているので、ブログ単発オリジナル注附きの現行の私の電子化を編集権侵害とは微塵も思っていないことを附け加えておく。

「大学には四年いた」梅崎春生は昭和一一(一九三六)年四月に東京帝国大学文学部国文科に入学、昭和一五(一九四〇)年三月に卒業している。当時は大学は三年制であったが、梅崎春生は自分の意志で一年留年(何年次をダブったのかは不明)している。但し、ここで彼はあたかも大学の講義には欠かさず出ていたかのように書いているが、底本全集別巻の年譜(常住郷太郎氏編と思われる)によれば、『大学生活は自分で留年をした一年間を通してほとんど教室に出なかった』とあり、また『十二年には幻聴による被害妄想から下宿の老婆をなぐり』、『一週間留置された』という驚天動地のエピソードを記す。

「東亜研究所」昭和一三(一九三八)年九月一日に企画院(戦前の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関)管轄の外郭団体(財団法人)として設立され、第二次世界大戦終結後まで存続した大日本帝国の国策調査・研究機関。略称を「東研(とうけん)」と呼んだ。ウィキの「東亜研究所により引く。『総裁には近衛文麿、副総裁には大蔵公望(満鉄理事、貴族院議員)、常務理事に唐沢俊樹らが就任したが、事実上の所長として運営を切り回していたのは大蔵であった。人文・社会・自然科学の総合的視点に立ち、東アジア全般の地域研究に加え、ソ連・南方(東南アジア)・中近東など、当時の日本の地域研究においてほとんど手つかずだった諸地域の研究を進め、日中戦争(支那事変)の遂行および、これらの地域に対する国策の樹立に貢献することが期待された』昭和一五(一九四〇)年『以降、満鉄調査部と共同で、中国社会に対する最初の総合的現地調査である「中国農村慣行調査」(華北農村慣行調査)を行ったことで知られている。太平洋戦争(大東亜戦争)期の南方占領地軍政においては』、第十六軍『(ジャワ軍政監部)のもとで柘植秀臣を班長として旧蘭印(インドネシア)のジャワ占領地における調査活動を担当した』。『所員としては講座派』(日本資本主義論争において労農派と対抗したマルクス主義者の一派で、岩波書店から一九三〇年代前半に出版された「日本資本主義発達史講座」を執筆したグループが中心となったのでこう呼ばれる)『経済学者の山田盛太郎など、日本内地の言論弾圧により活動の場を失った左派・リベラル派の知識人が多数採用されており(そのせいか企画院事件』(昭和一四(一九三九)年から一九四一年にかけて多数の企画院職員・調査官及び関係者が左翼活動の嫌疑により治安維持法違反として検挙・起訴された複数の事件の複合呼称)『で検挙された所員もいる)、より若年の世代では内田義彦・水田洋など、第二次世界大戦後の社会科学研究に学問貢献した高名な学者を多数輩出した。 また、敗戦後、新政府への奉職、貿易会社・商社勤務、新聞記者など実務家として活躍した者が数多くいる』。なお、敗戦後も「東研」は暫く存続し、戦後も資料収集を継続、『敗戦時の混乱で政府から正式な解散認可も出ないまま』昭和二一(一九四六)年三月辺り『(正確な月日は不明)に解散、その所蔵資料と土地資産は財団法人政治経済研究所に継承された。その後、主に、都内・駿河台近隣の旧制大学に所属する学者の論考を発表する場を提供してきた』とある。

「鷗」私は岩波版の新書版選集しか所持せず、熱心な読者でさえないのであるが(因みに私が高校教師時代に最初に担任した女子生徒であった大塚美保さんは現在、聖心女子大学日本語日本文学科教授として本邦トップ・クラスの森鷗外研究家となっておられる)、森鷗外に「鷗」という現代小説があったようにはどうも思われない。これは思うに、「鷄(にわとり)」(明治四二年(一九〇九)八月『スバル』第八号初出)の誤植ではあるまいか?(梅崎春生の誤りではなくである)「鷄」は小倉に赴任した少佐参謀石田小介が主人公の現代小説で、福岡生まれの春生の郷里との親和性もあるからである。それとも鷗外に「鷗」という小説があるんだろうか? 大塚さんに聴くのも恥ずかしい。誰か、こっそり教えてくれないか?]

2016/08/21

合歓の花…………

あぁ……合歓の花……見たいなぁ…………

幾年故郷来てみれば ――福岡風土記――   梅崎春生

   幾年故郷来てみれば

     ――福岡風土記――

 

 今度の「故郷に帰る」の係りの本誌の丸山泰治さんが、事前の相談にあたってこぼした。「他の見なら、まだ行ったことがない県でも、すらすらとスケジュールが立つのに、福岡県だけはどうにも手がつかない」

 福岡というのは雄大にして複雑な県で、力点があちこちにあり、どこかをぎゅうと押さえれば判るというような簡単な県ではないのである。

 私も福岡の出身だが、福岡市とその周辺を知っているぐらいなもので、福岡県全体となると、旅人と、あまり大差がない。

 何はともあれ福岡市に直行。そこに待機中のカメラの小石清さんと落合い、行程を相談し、大まかなところを決定した。

 第一日日は八月二十二日。福岡市のあちこちを見物というスケジュール。

 朝七時、宿舎にて起床。

 この旅行のために、ここ一箇月早寝早起の訓練をしたから、七時と言っても別に苦にならない。

 朝食に私の注文でオキウトが出る。海藻からつくった博多独特の食物で、私など口になつかしき限りだが、他国人にはこの味は判らないらしい。丸山さんなど一片一片箸でつまんで止めにした。九時、自動車が来る。

 福岡市はまん中に那珂(なか)川が流れ、それから東を博多と呼び、西地区を福岡と呼ぶ。博多は町人街、福岡はさむらいの街。その西地区の中央に福岡城がある。戦前までは連隊が占拠していたが、敗戦と共にたちまち平和台と名をかえ、野球場や競技場がつくられた。競技場は四百米トラックが整備中で、なかなか立派なものである。

 そこから隣接した大濠公園に向かう。案内して呉れるのは西日本新聞の草場毅君。小学校からの友人で、心易い。

 大濠公園は城の濠を中心に整備した公園で、私が中学に入った年につくられた。その頃を思い出しながら、ぶらぶらと歩く。

 西公園もすぐ近く。平和台と大濠公園と西公園、この三つをもっと有機的につなげば、おそらく日本一の立体的な公園になるだろうと思うが、今はまだばらばらで統一がない。

 西公園に向かう途中、私が生れて中学二年まで過した家がある。荒戸町四番丁。今は東さん御一家が住んでいて、頼んで中を見せてもらう。間取りは昔と同じ。庭にも私の見覚えのある樹がいくつか立っている。玄関前の柿の木。私の幼ない時も、秋になるとこの柿は実をたわわにつけて、私たちを喜ばせた。今でもたくさん実るという。大へんサービスのいい樹だ。あまり大きな樹ではないが、樹齢は五十年以上であろう。「故郷の廃家」という小学唱歌を思い出した。もちろんこの家は廃家でなく、東さん御一族がちゃんと住んでおられるのだけれども。

 生れた家というものには、どうも小学唱歌のにおいがあちこちにしみついている。

 車にて修猷館(しゅうゆうかん)高校に向かう。私が学んだ頃は修猷館中学と言ったが、今では高校となり、男女共学となった。しかし男子学生は私の頃と同じ帽子をかぶっている。帽子だけが元のままというのが、ちょっと異様な感じであった。

 この中学は、政治家や軍人には大物をたくさん出したが、文士というと、豊島与志雄氏亡きあと、私ぐらいなもので、一向にふるわないのである。

 安住正夫先生に会う。先生から私は英語を教わった。先生は私を見て、年を取ると梅崎君みたいな高級文学は面倒くさくて読めなくなった、と言われる。いえいえ、何が高級なもんですか。

 辞して今度は、博多の街を横断、東公園に向かう。

 東公園には、亀山上皇と日蓮上人の銅像が立っているが、この日蓮銅像が異色である。銅像だけの高さは三十五尺。台座まで入れると七十尺で、奈良の大仏を抜く。私は幼ない時、初めてここに連れられて、もう帰ろうよとおやじにせがんだ記憶がある。あまりにも大きいので、怖かったのである。像の前にひざまずき、線香を立て、経を誦(ず)している信者が何人もいた。それから筥崎(はこざき)宮に廻る。

 形のいい巨松を撮(と)ろうと、カメラの小石さんと一緒にずいぶん探したが、上記のコースのどこにも見当らなかった。戦前はずいぶんいい松があったのに、どういうわけか、戦後はすっかりあとを絶ってしまった。残念なことである。

 博多の街に戻ってぶらぶら歩き。

 戦後街筋も変化し、また大きな建物があちこちににょきにょきと建って、私の記憶の博多から大変貌をとげている。それから空を飛び交うジェット横。博多名物は、もう博多人形やにわかせんべいではなく、このジェット機だと言った人があるが、迷惑な名物もあればあったものだ。九州大学を始め各学校も、この狂騒音には手を焼いている由。

 午後の汽車で門司に向かう。門司港着。小石さん、指をあげて、

「あ。興安丸だ」

 と叫ぶ。

 興安丸が夕焼けの海を、今しずしずと出港して行く。

 

 八月二十三日

 朝九時半、関門国道事務所門司出張所におもむく。

 西村技官から約三十分、国道トンネル工事の説明を聞いた後、門司竪坑(たてこう)からエレベーターでトンネルに降りる。海底六十米の深さである。

 自動車道、人道とあって、前者の幅は七米五〇、後者は三米八〇ある。下関の近くまで徒歩で往復したが、なかなか大規模の工事である。これが出来上ると、ずいぶん便利になるだろう。三十三年三月完成の予定だそうである。

 辞して和布刈岬に登る。公園になっていて、早柄の瀬戸、門司港が一望に見おろせて、眺望が佳い。厳流島も見える。早柄の瀬戸というのは、本州と九州の最短距離のところで、潮が早い。

 国道トンネルはつまり丁度この下を通るのである。

 自動車にて八幡。腹がへってきたので、八幡の町をぶらぶら歩き、行き当りばったりに小さなうどん屋に飛び込む。瓢六(ひょうろく)うどんという屋号で、その味推奨するに足る。値段もたいへん安い。東京ではとてもこんな手打ちうどんは食べられない。

 腹ごしらえをすませて、八幡製鉄所に向かう。

 なにしろ東洋第一の大工場であって、敷地も広大だし、従業員も三万五千人、並び立つ巨大な煙突が七色の煙をはいている。

 自動車であちこち案内されたが、やはり花形は熔鉱炉。これも見学したが、こわいみたいなものである。熔鉱炉の中心部は千八百度あるという。そこから熔かされた銑鉄(せんてつ)が、ぎらぎら光りながら、どろどろの小川になって流れてくる。ちょっと近寄ってたばこの火を拝借、というわけには行かない。その流れですら千四百度ある。線香花火の火花を百倍ぐらいにしたような大きな火花が、ばさっばさっと飛んでいる。

 写真を撮られるために辛抱したが、ほんとに地獄のように熱かった。

 製鉄所の車で戸畑の埠頭(ふとう)まで送っていただく。

 連絡船にて洞海湾を若松に渡る。所要時間三分。切符代十円也。

 若松港の貯炭場より、石炭を船に積み込む作業。

 軽子(かるこ)がもっこにて運ぶという原始的作業だ。それを見て小石さんがカメラに撮っていると、軽子の群のあちこちから、写真に撮ってはだめだ、というような声があがる。彼等は働いているのに、私たちがのんびり眺めたり撮(うつ)したりしているのが、しやくにさわったらしい。

 だから早々にして退散。若松の街に行き、紅卯(べにう)という喫茶店でミルクセーキを飲む。若松に来たからには火野葦平親分にあいさつしなくては、と丸山氏、紅卯より電話をかける。ところが親分は、夏期大学講師として佐賀に行き、留守であった。紅卯の美しき女主人も、火野親分の親戚にあたる由。

 小雨を冒して、高塔山に登る。ここも山頂は公園になっていて、眺望絶佳の由であるが、小雨のため眼界は煙っている。八幡の製鉄所が真下に見える。

 河童(かっぱ)堂というのがあり、河童封じの地蔵尊が本尊で、この地蔵尊の中にあまたの河童が封じてある。地蔵尊の背中に釘が打ち込んであり、そのために河童が出られないのである。よっぽどその釘を引抜いてみようかと思ったが、生憎(あいにく)釘抜きを持って来なかったし、またぞろぞろと河童が出て来たら私の責任にもなるので、残念ながら止めることにした。

 下山し、連絡船にて戸畑に戻り、国鉄のディーゼルカーにて福岡に戻る。

 今日はあちこちとずいぶん歩き廻ったので、福岡まで一時間半、満員で立ちん坊はすこしつらかった。国鉄職員あるいは組合員とおぼしき一群(駅に着くたびに駅員に通信筒みたいなものを渡していた)が、満員の中に悠々と席をしめ、騒いだりしていたのは、言語道断であった。

 

 八月二十四日。

 細雨の中を宿舎発、都府楼に向かう。つまりこれは、昔の鎮西の役所太宰府の跡であって、建物は全然残っていない。大きな礎石があちこちに残っているだけであるが、その礎石の大きさから、昔日の盛観を偲ぶことが出来る。草が茫々(ぼうぼう)と生い茂っている。小学生の頃ここに遠足に来たら、附近の田んぼから、当時の瓦の破片が拾えたが、今ではもうそれも拾いつくしたらしい。

 

  菜の花ばたけに入日うすれ

  見渡す山の端かすみ深し

 

 小学唱歌のこの歌を聞くと、私は必ずこの都府楼附近の春色も思い浮べる。そのような地勢であり、風景なのである。

 それより観世音寺に向かう。鏡西一の名刹(めいさつ)であり、歴史も古い。

 閑寂な境内に入り、右手に国宝の鐘がある。菅原道真の詩に、

 

  都府楼纔看瓦色

  観音寺只聴鐘声

 

 というのがあるが、これがその鐘であって、国宝になっている。石田住職の許しを得て、私はそれを突いてみた。小雨の筑紫野に、鐘声はしずかに拡って行った。いい音である。

 この寺には実に仏像が多い。薄暗い講堂の中に、屋根裏につかえるばかりの巨大な観音像五体を始め、大小さまざまの像があちこちの建物に充満している。石田住職の案内で、私たちは次々に見て廻った。

 雨はやんだり、また降り出したり。晴れ間には熊蟬やつくつく法師が啼(な)く。丸山氏は熊蟬の啼き声は初めてらしく、めずらしそうに耳を傾ける。

 私たちはこの蟬のことを、わしわしと呼ぶ。東京では聞けない。

 ところでここに困ったことがおきた。丸山氏が貴重な金ぶちの眼鏡を落したという。都府楼徘徊(はいかい)中にちがいないというので、車を戻し、草の根を分けて探したが見当らず、千載(せんざい)の恨みを残して、大宰府へと向かう。(後日この眼鏡は、近所の子供に拾われ、石田住職の手を通して、丸山氏の手に戻った由。めでたし)

 太宰府天満宮は道真公をまつった神社。丹青の本殿、楼門、廻廊、池、反(そ)り橋など、観世音寺の閑寂にくらべて、すべてきらびやか豪華に出来ていて、したがって、俗臭紛紛といった傾向がないでもない。

 裏は梅林になっていて、私たちは茶店で小憩、茶をすすり、梅枝餅を食べた。

 ここで私が最も感心したのは、社務所近くにある巨大なく樟(くすのき)で、大きいのなんのって、ちょっと見には丸ビルぐらいある。樹齢千年也という。

 千年と一口に言うけれども、千年もひとつところに動かず、そしてこんなに大きくなったということは、大したことである。真似の出来ることではない。

 二日市を経て、急行電車にて久留米。昼飯を食べようと適当な店を探したがなし。駅近くの大衆食堂に入る。ここはサービスも悪いし、ひどいものを食わせた。もっとも駅近くの食堂というやつは、どこでもひどいものを食わせるものだから、あながち久留米ばかりを責めるわけには行かないが。

 石橋文化センターに向かう。ここはブリヂストンの石橋正二郎氏がつくって、久留米市に寄贈したもの。中央に庭園があり、体育館、美術館、プールがその三方にある。敷地約一万坪で、たいへん立派なものである。美術館では丁度(ちょうど)郷土出身の青木繁、坂本繁二郎両画伯の作品展が開かれていて、たいへんたのしかった。作品もよく集められていた。

 二時半、水天宮に向かい、筑後川を眺め、また急行電車にて柳川に向かう。

 柳川では、殿様経営にかかるところの料亭「於花(おはな)」に泊る予定であったが、いかなる手違いにや、ぬる茶一杯飲みたるだけで、部屋なしと無情にも追い出さるる。一行三人、無念やるかたなく、近所の若松屋なるうなぎ屋に押し上り、うなぎを食べ、酒を飲む。風貌姿勢プロレスの東富士にそっくりの仲居ありて、名を問えば西の富士と答う。大いに東と張り合っているつもりらしい。柳川はうなぎの名産地だというが、私の舌にはたれが少し甘過ぎた。みりんのかわりに飴を用いるという。値段は安く、東京の半分以下である。

 柳川は掘割が縦横に通り、古くてうつくしい町である。

 白秋の碑を見る。この碑はたしか長谷健等が、ねばりにねばってこさえ上げたものである。詩碑には詩が彫ってあるだけで、横に廻ってもうしろに廻っても、他には字は一つも彫ってない。さっぱりしたもので、さすがは長谷親分の仕事だけある。

 車にて船小屋温泉に向かう。ここは矢部川に沿った含鉄炭酸泉で、風光も明るく、予定外の掘出しものであった。樋口軒に泊る。矢部川を隔てた対岸の堤は、樺の大木が二里もつづいていて、壮観である。

 これは植林で、すべて樹齢三百年に及ぶという。

 若松屋でうなぎを詰め込んだので、腹いっぱいでお酒では酔わない。ウイスキーを持って来させ、ここの含鉄炭酸泉水に混ぜ、ハイボールにして飲んだ。いささか鉄のにおいが気になるが、そのうち結構酔っぱらってきた。「於花」で追い出されたばかりに、鉄くさいハイボールを飲むことになろうとは、思いがけぬめぐり合わせで、旅情ここにおいていよいよ深まった感がある。

 

 明くれば八月二十五日。行程最後の日である。

 いささか二日酔の気味で、つい寝過した。

 丸山、小石の両氏は、朝早々と起き出で、そこら一帯を散歩してきたという。

 朝食がわりにビールを一本飲み、身仕度して対岸に渡る。

 ここの樟並木はうっそうとして、ほとんど日も通さない。

 国鉄船小屋駅に行き、汽車で大牟田に行く。ここは有明湾の東岸に位する本県最南端の工業都市であり、三池炭山の所在地である。ここで炭鉱を見ようとのスケジュールだ。

 三井鉱山の人に案内されて、第二人工島に行く。

 ここではすでに地下の石炭は掘り尽して、今は海底を掘っている。そのための換気坑が必要で、人工島をつくった。第一のはすでに完成、三池港の沖合二キロの地点にあり、初島と名付けられている。第二のが今つくられつつあるところで、防波堤の先を埋立てたへんてつもない島の相である。

 戻って会社のクラブで、五高で一緒だった石田朴君(三池鉱業所勤務)より昼飯の御馳走となる。

 午後、いよいよ入坑。

 入坑するには、やはりふつうの服装では入れない。巻頭のグラビヤにあるような恰好となる。丸山さんも小石さんもそういう恰好になったら、もう鉱夫と見分けがつかなくなった。

 人車に乗り、三川鉱の斜坑を、一気に千七百米まで降る。人車というのは、トロッコに天井をつけたもので、遊園地などにある子供電車みたいなものと思えばいい。それが数十台つながって、轟々と斜めにくだって行くのである。

 慣れると何でもないだろうが、初めてだとちょっと悲壮な感じがある。人車を降りて、坑内のあちこちを歩く。巨大な地下変電所などがある。温度も、とても暑い坑と涼しい坑がある。

 涼しい坑では、つめたい風が吹き抜けていて、気分がいい。

 一時間ばかりあちこち歩き、待合所に戻って、上り定期便を待つ。待合所には、八時間の仕事を終えた鉱夫たちが、たくさん群をなして待っている。その人々の動作や表情には、地下で働く人とは思えぬほどの明るさとにぎやかさがある。もっとも明るい気分を保持してないと、とても陽(ひ)のささぬ場所では働けないだろう。

 やがて人車が来た。皆乗り込み、轟々と音を立てて登って行く。人車がとまり、真昼の外に出る。

 わずか一時間ばかりの入坑であったが、その日の光がありがたかった。地上にうつる自分の影が、実に新鮮であった。冷たい水を貰って、むさぼり飲む。

 かけ足の四日間ながら、これで福岡県の大略か上っ面かを、ほぼ見て廻った。

 

[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年十一月号『小説新潮』初出で、昭和三二(一九五七)年一月現代社刊の単行本「馬のあくび」に再録された(書誌は以下の底本解題の複数記載を参照した)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。文中冒頭の「本誌」の後には「(小説新潮)」、「グラビヤ」の後には「(昭和三十一年十一月号「小説新潮」)」という丸括弧附きのポイント落ち割注が入るが、これは底本全集編者の挿入と思われ、或いは「馬のあくび」では入っているのかも知れないが、初出形を想定して除去した。

 今まで通り、馬鹿正直に注を附すことも考えたが、生家附近の町名などは既に注してきたので、今回は気になったものだけをストイックに注した(つもりが、やっぱり長くなった。悪しからず)。

「そこに待機中のカメラの小石清さん」福岡で落ち合ったカメラマンの「小石清」となると、これはかなり知られた(私でさえ知っている)不世出の写真家小石清(こいしきよし 明治四一(一九〇八)年~昭和三二(一九五七)年)のことではあるまいか? ウィキの「小石清」から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『日本の戦前を代表する写真家。戦争のために創作の機会を奪われた末に早世した悲劇の天才として知られる』。『大阪で高級雑貨商の家に生まれる。高等小学校を卒業後の一九二二年に浅沼商会大阪支店技術部に入社して本格的に写真の技術を学んだ。一九二八年に浪華写真倶楽部に入会。一九三一年には大阪にスタジオを開設し、写真家として独立。この間、浪展、国際広告写真展、日本写真美術展などで次々と入選。同年には大阪で行われた独逸国際移動写真展で新興写真に触れ、大いに刺激を受けた』。『一九三二年、写真及び自作の詩を収めた「初夏神経」を浪展に出品、翌年、ジンク板の表紙及びリング閉じにより出版。一九三六年、これまでに培った前衛写真の手法を集大成した解説書「撮影・作画の新技法」を発表』。『一九三八年、政府による写真情報誌「写真週報」の写真を担当。日中戦争に従軍写真家として赴いた際に撮影された写真をまとめた連作「半世界」(一九四〇ねん)でも前衛手法を用いて斬新な表現を試みているが、その後戦時下では小石の前衛手法は制限を余儀なくされた。だがその最中にあっても、一九三九年に南支において現地住民の写真を多数撮影し、『南支人の相貌』と題して雑誌「カメラ」に発表している』。『戦後は福岡県門司市(現在の北九州市門司区)に移り、門司駅付近にカメラ屋「小石カメラ」を創業する一方で門司鉄道管理局嘱託として活動を続けたが』、『ほとんど作品を残せなかった。晩年の小石と話をした中藤敦によれば、小石からは「昔程の作画意欲と夢が喪失した」と感じたという。そして一九五七年、門司駅構内での転倒で頭を打ったことが原因で七月七日に同市の病院で死去した。小石は酒好きだったためにメチルアルコールに手を出して視力を悪化させたのが事故死の原因だといわれている。死の直前には内田百閒の取材に同行して写真を残しており、内田は小石との別れについて「千丁の柳」(『ノラや』(中公文庫)に収録)に記している』。『戦前の小石はあらゆる写真的技術を軽々と使いこなし、芸術写真、新興写真、前衛写真、報道写真と、ジャンルを問わず作品を残している。なかでも、一九三三年に刊行された写真集『初夏神経』は、その装幀、各作品、そして各作品に使われた二重露光、フォトグラム、ソラリゼーションなどのテクニックから考えて、日本の戦前の写真集の一つの到達点ともいえる』とある。もし彼なら(彼であろう)、不慮の死の凡そ一年前の仕事であったことになる。

「オキウト」「おきゅうと」として最近はスーパーでも普通に見かける全国区となった海藻加工食品であるが、元は福岡県福岡市を中心に食べられてきたもので、私の好物でもあり、海藻フリークの私としては注せざるを得ない。ウィキの「おきゅうと」から引くと、漢字では「お救人」「浮太」「沖独活」などとも表記されるそうで、『江戸時代の『筑前国産物帳』では「うけうと」という名で紹介されている』。『もともとは福岡市の博多地区で食べられていたようだが、その後福岡市全体に広がり、さらには九州各地に広がりつつある。福岡市内では、毎朝行商人が売り歩いていた』。『作り方は、原料のエゴノリ(「えご草」、「おきゅうと草」、博多では「真草」とも呼ばれる)』(紅色植物門紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属エゴノリ Campylaephora hypnaeoides)『と沖天(イギス、博多ではケボとも呼ばれる)』(紅藻綱イギス目イギス科イギス連イギス属イギス Ceramium kondoi)『やテングサ』(紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae に属する海藻類の総称であるが、最も一般的な種はテングサ属マクサ Gelidium elegans)『をそれぞれ水洗いして天日干しする』(状態を見ながら、干しは一回から五回ほど繰り返したりする)。この時の歩留まりは七割程度であるが、『この工程を省くと味が悪くなり黒っぽい色のおきゅうとができるため、手間を惜しまない事が重要である(ただし、テングサは香りが薄れるので自家用の場合は洗う回数を減らすことがある』)。『次に天日干しした』エゴノリと同じく天日干ししたイギス(或いはテングサ類)を、凡そ七対三から六対四の割合で混ぜて、よく叩く。『酢を加えて煮溶かしたものを裏ごしして小判型に成型し常温で固まらせる』。『博多では、小判型のおきゅうとをくるくると丸めたものが売られている』。『おきゅうとの良し悪しの見分け方として、あめ色をして、ひきがあるものは良く、逆に悪いものは、黒っぽいあめ色をしている。また、みどり色をしたものは、「おきゅうと」として売られているが』、全くエゴノリが『使われていないものもあり』、テングサ類が『主原料の場合は「ところてん」であり』、『「おきゅうと」ではない』(これは絶対で、舌触りも異なる)。『新潟県や長野県では』、エゴノリのみを『原料とした』殆んど「おきゅうと」と『製法が同じ「えご(いご)」「いごねり(えごねり)」が食べられている』。「おきゅうと」との『製法上の相違点は』、エゴノリを『天日干しせず、沖天を使用しないところである』。食べ方は、五ミリから一センチの『短冊状に切り、鰹節のうえに薬味としておろし生姜またはきざみねぎをのせ生醤油で食べるか、または芥子醤油やポン酢醤油やゴマ醤油などで食べるのが一般的である。もっぱら朝食の際に食べる』。この奇妙な『語源については諸説あり』、『沖で取れるウドという意味』・『キューと絞る手順があるから』・『享保の飢饉の際に作られ、「救人(きゅうと)」と呼ばれるようになった』・『漁師に製法を教わったため、「沖人」となった』、『などが挙げられる』とある。

「大濠公園」「おおほりこうえん」と読む。

「安住正夫先生」昭和三六(一九六一)年にここにも出る、『西日本新聞』に連載した「南風北風」の第三十三回目の二月五日附分「伊崎浜」にもその名が出る、梅崎春生にとって忘れられぬ修猷館の名物先生のようである(リンク先は私の電子テクスト)。まだ現役で勤務されておられたものかと思われる(としても定年間近であられたか)。

「東公園には、亀山上皇と日蓮上人の銅像が立っている」何故、この二人の銅像なのか?しかも金のかかっていそうな巨大なものが? と、疑問に思って検索してみたところ、駄田泉氏のブログ記事「なぜ亀山上皇像なのか」で氷解。まず建立は日露戦争が始まった明治三七(一九〇四)年で、戦意高揚のために元寇に際して重要な役割を担ったとしてこの二人が選ばれたとあるが、駄田泉(「ダダイズム」のパロディっぽい)氏も記されておられる通り、『蒙古襲来を予見した日蓮はともかく、時の為政者として元寇に対処したのは執権・北条時宗である。なぜ、時宗像ではなく亀山上皇像なのだろうか』と疑問は頻り。以下、引用させて戴く(アラビア数字を漢数字に代え、段落間の行空きを省略させて戴いた)。

   《引用開始》

 八尋七郎氏という方が一九九二年に『県史だより』に書かれた「亀山上皇銅像について」という文章を最近読む機会があり、疑問が解けた。やはり、最初は「馬に乗る時宗」像建立が計画されていたようなのである。それがなぜ上皇像に変わったのか。このあたりの経緯が『福岡県議会史 明治編下巻 附録』に記されており、八尋氏の一文はこれを紹介したものだ。

 県議会史に収録されている原典は福岡日日新聞記者の執筆で、孫引きで申し訳ないが、面白い話なので八尋氏の一文から要約させてもらう。

 元寇記念碑(時宗像)建立の計画が持ち上がったのは安場保和知事(在任期間はウィキペディアによると一八八六~一八九二年)の時代だったという。当時の福岡署長だった湯地丈雄が知事に命じられて資金を集めたが、この金を安場知事が第二回衆院選(一八九二年)での選挙干渉に流用してしまった。選挙干渉とは、明治政府よりの政党を勝利させるため、知事自ら警官隊を動員して立憲自由党や立憲改進党の選挙活動等を妨害したという悪質な事件だ。死者さえ出している。

 この資金流用は、後々福岡県政の負の遺産となったが、安場の十年後に知事を務めた河島醇(在任期間は一九〇二~〇六年)の時代、日蓮宗の僧侶から願ってもない許可願が出された。それが日蓮像建立のための資金集め。河島知事は許可する代わりに、これ幸いと「像二つ分」の資金集めを持ちかける。ただ、日蓮を迫害した鎌倉幕府の執権では具合が悪いだろうということで、時宗から亀山上皇の像に計画を切り替えたのだという。

 建立を巡って巷間伝わっている話とはずいぶん違い、信ぴょう性については分からないが、少なくとも「なぜ亀山上皇なのか」の疑問には十分に答えてくれる内容だとは思う。

   《引用終了》

私も十二分に納得出来た。銅像だけに如何にも金(かな)っけ臭いリアリズムがあるではないか。

「三十五尺」十メートル六十一センチ弱。

「七十尺」約二十一メートル二十一センチ。

「興安丸」敗戦後の引き揚げ船として知られるた昭和を代表する船で、この当時も未だナホトカ・ホルムスクと舞鶴の引き揚げ船としても現役で使われていたようである(ウィキの「興安丸」の「戦後」の項を参照されたい)。

「自動車道、人道とあって、前者の幅は七米五〇、後者は三米八〇ある。下関の近くまで徒歩で往復したが、なかなか大規模の工事である。これが出来上ると、ずいぶん便利になるだろう。三十三年三月完成の予定だそうである」関門トンネル国道二号は戦前の昭和十二(一九三七)年に試掘導坑の掘削を開始し、二年後に完了。同年中に本坑掘削に着工して昭和一九(一九四四)年十二月に貫通はしたものの、第二次世界大戦による相次ぐ戦災によって昭和二〇(一九四五)年の六月或いは七月には工事が中断していた。敗戦後の昭和二七(一九五二)年、「道路整備特別措置法」による有料道路として工事を再開、ここで述べられている予定通り、昭和三三(一九五八)年三月九日に開通している(以上はウィキの「関門トンネル(国道2号)」に拠った)。

「和布刈岬」「和布刈」は「めかり」と読み、福岡県北九州市門司区門司にある岬で、この和布刈公園の西直下に「和布刈神事」で知られる和布刈神社がある。ウィキの「和布刈神社」に、『神社名となっている「和布刈」とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える「和布刈神事」(めかりしんじ)が行われる』。和銅三(七一〇)年には『神事で供えられたワカメが朝廷に献上されているとの記述が残って』おり、現在、この神事は『福岡県の無形文化財に指定されている』とある。因みにこの神事、私には中学生の頃に貪るように読んだ松本清張の一作「時間の習俗」以来、耳馴染みの神事である。壇ノ浦に面した海岸に鳥居が建っている。

「早柄の瀬戸」「はやとものせと」と読む。福岡県北九州市門司区と山口県下関市壇ノ浦の間にある水道で、関門海峡の最狭部に当たる(幅は約六百五十メートル)。潮流が最高八ノットに達する航行の難所で、源平の古戦場として知られる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「軽子(かるこ)」魚市場や船着き場などで荷物運搬を業とする人足。縄を編んで畚(もっこ)のようにつくった軽籠(かるこ)と呼ばれる運搬具を用い、これに荷物を載せ、棒を通して担いで運んだところから、この称が出た(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「河童(かっぱ)堂というのがあり、河童封じの地蔵尊が本尊で、この地蔵尊の中にあまたの河童が封じてある。地蔵尊の背中に釘が打ち込んであり、そのために河童が出られないのである」私の電子テクスト火野葦平の「石と釘」の注を参照されたい。「地蔵尊」とあるが、正しくは「虚空蔵菩薩」。公開当時、パブリック・ドメインとしての使用が許可されてあった、参照させて頂いた『大雪の兄』氏の「若松うそうそ」の「カッパ封じ地蔵」の写真(打たれた釘もしっかり見える)も掲げてあるので、是非、ご覧あれ。

「都府楼纔看瓦色/観音寺只聴鐘声」菅原道真の以下の七言律詩の頷聯。

 

   不出門

 一從謫落在柴荊

 萬死兢兢跼蹐情

 都府樓纔看瓦色

 觀音寺只聽鐘聲

 中懷好逐孤雲去

 外物相逢滿月迎

 此地雖身無儉繫

 何爲寸步出門行

 

    門を出でず

  一たび謫落(たくらく)せられて 柴荊(さいけい)に在りしより

  萬死(ばんし) 兢兢(きようきよう)たり 跼蹐(きよくせき)の情

  都府樓は 纔(わづ)かに 瓦色(ぐわしよく)を看(み)

  觀音寺は 只(ただ) 鐘聲(しやうせい)を聽く

  中懷(ちうくわい)好し 孤雲を逐ひて去り

  外物(がいぶつ) 相ひ逢ひて 滿月 迎ふ

  此の地 身(み)に檢繫(けんけい)無しと雖も

  何爲(なんす)れぞ 寸步(すんぽ)も門を出で行かん

 

簡単に語釈する。「柴荊」柴や茨作りの粗末な門を持つ陋屋。「萬死」(無実ながら、帝より)万死に当たる罪(を給い、かく左遷させられたこと)。「兢兢」恐れ慎むさま。「跼蹐の情」身の置きどころのないこの境涯に陥った思い。「觀音寺」太宰府の東方にあった、ここに出る現在の福岡県太宰府市観世音寺にある天台宗清水山(せいすいざん)観世音寺のこと。「中懷」 胸中の思い。「檢繋」束縛。

「梅枝餅」ウィキの「梅ヶ枝餅」によれば、『小豆餡を薄い餅の生地でくるみ、梅の刻印が入った鉄板で焼く焼餅で』、『出来上がると中心に軽く梅の刻印が入るようになっている。その名称は太宰府天満宮の祭神である菅原道真の逸話に由来しており、梅の味や香りがする訳ではない』。『よく饅頭と勘違いされることがあるが、実際は餡』『入りの焼餅である』。『菅原道真が大宰府へ権帥として左遷され悄然としていた時に、安楽寺の門前で老婆が餅を売っていた。その老婆が元気を出して欲しいと道真に餅を供し、その餅が道真の好物になった。後に道真の死後、老婆が餅に梅の枝を添えて墓前に供えたのが始まりとされている』が、『別の説では、菅原道真が左遷直後軟禁状態で、食事もままならなかったおり、老婆が道真が軟禁されていた部屋の格子ごしに餅を差し入れする際、手では届かないため』、『梅の枝の先に刺して差し入れたというのが由来とされており、絵巻にものこっている』とある。

「長谷健」(はせ けん 明治三七(一九〇四)年~昭和三二(一九五七)年)は小説家・児童文学者。ウィキの「長谷健」より引く。『福岡県山門郡東宮永村下宮永北小路(現・柳川市下宮永町)生まれ。因みに、東宮永小学校は大関琴奨菊の母校でもある。旧姓は堤、本名は藤田正俊』。大正一四(一九二五)年、『福岡師範学校卒業。柳川の城内小学校教師をした』後、昭和四(一九二九)年に『上京、神田区の芳林小学校に勤務。このころからペンネームを長谷健とする』。昭和七(一九三二)年、『浅草区浅草小学校に転勤』。昭和九(一九三四)年には同人誌『教育文学』を、昭和一一(一九三六)年には『白墨』を創刊している。『小学校教師として教育にあたり、文学者としても活動を行う』。昭和一四(一九三九)年、『浅草での教師体験をもとにした『あさくさの子供』を『虚実』に発表し、第九回芥川賞を受賞』した。昭和一九(一九四四)年、『柳川へ疎開し、国民学校に勤務する。同人誌『九州文学』の同人として』五年間を『郷里で過ごした後、再び上京』、『火野葦平の旧宅に同居し、日本ペンクラブ、日本文芸家協会の要職につく。児童文学の著述とともに、北原白秋を描いた』「からたちの花」「邪宗門」などを発表した。本記事発表の一年後、『東京都新宿区西大久保にて、忘年会の帰りに寄った屋台を出て道路を渡ろうとしたところ、タクシーにはねられる交通事故に遭』って死去した、『葬儀委員長は火野葦平が務め』ている。梅崎春生より十一年上。

「船小屋温泉」「ふなごやおんせん」と読む。福岡県筑後市南部にある温泉。源泉温度が十九しかない冷鉱泉。

「第二人工島」「第一のはすでに完成、三池港の沖合二キロの地点にあり、初島と名付けられている」「大牟田の近代化遺産」で各所の往時の写真が見られる。必見!

「人車」「じんしゃ」。]

烏鷺近況   梅崎春生

 

 どうも碁について書くと、自慢話になる傾向がある。

 それは私だけでなく、自分の余技について語る時、たいていの人はそうなってしまうようだ。まれには卑下の形をとることもあるが、それは自慢の裏返しなので、慇懃(いんぎん)無礼というのと同じ形式である。

 人間は、自分の余技について語る時、何故必ず自慢話になってしまうか。

 余技とは、専門以外の芸の謂(い)いであり、つまり専門以外であるから、自分の力量について、誤算する傾きを生ずるのだろう。人間は誤算する場合、たいてい自分の都合のいいように誤算するものだ。だから正直なところを語っているつもりでも、はたから見れば自慢話ということになる、ということも考えられるだろう。

 それからもう一つ、人間が余技において自慢するのは、本業においては自慢しにくいという事情にもよるらしい。

 私の場合で言えば、どうだ、おれの小説はうまかろうと、人に語ったり物に書いたりするわけには行かないということがある。内心ではそう思っていても、それを外には出せないのである。比較的謙譲な私ですら、内心奥深くではそう思っているのであるから、私以外の大部分の同業者、また同業者以外の連中も、ほんとは本職において威張りたいのである。

 ところが、本職において威張るのは、周囲の事情が許さないから、余儀なくその余技において威張るということになる。メンスのかわりに鼻血を出すようなもので、つまり余技自慢は抑圧から生ずるものであり、代償性のものなのである。

 それからもう一つ、余技が碁や将棋の場合は、どうせこれは遊びであるから、競争心や敵慌心(てきがいしん)がないと面白くない。競争心がないところに、勝負の面白さはない。だから余技を語る時に、実際以上に自分を強しとし、実際以下に相手をけなしつければ、その相手はなにくそと奮起し、次の勝負が面白くなるだろう。余技自慢というのは、そういう効用も持っている。

 

 私が今まで碁を打った相手で、一番打ちにくかったのは、故豊島与志雄氏である。

 打ちにくかったというのは、豊島さんが強かったという意味ではない。その頃の私と実力はおっつかっつか、幾分私の方が強かったかも知れない。

 何故打ちにくかったか。それは豊島さんに全然競争心、または敵愾心というのがなかったからである。

 相手が競争心を持たないのに、こちらばかりが競争心を燃え立たすということは、至難のわざであり、不可能のことである。

 では豊島さんはやる気がないのかと言えば、それはそうでない。大いにやる気はあったのである。いつか一遍泊りがけで遊びに行った時、夜中の十二時になっても一時になっても離してくれないので、弱ってしまったことがある。

 つまり豊島さんの碁は、相手に打ち勝とうという碁ではなく、石を並べることそれ自身が面白いのだ。相手があっても、ひとりで並べても、同じようなもので、人間の碁というよりは、仙人の碁に近い。

 私はと言えば、相手に打ち勝つことを唯一の楽しみとする棋風だから、やはり仙人棋客とは打ちにくかった。

 

 現在文壇囲碁会というのがあり、私もそれに属しているが、年に数回囲碁会が開かれる。一昨日もそれが日本棋院で行われた。

 私も出席して、力戦敢闘して、賞品をもらった。私がもらったのは、高級ウイスキーだ。

 参考までに他に成績の良かった人たちの賞品をあげると、大岡昇平二段格がシロップ、高田市太郎三段がビスケット、三好達治初段が並級ウイスキー、ここらが目ぼしいところで、尾崎一雄二段などは全敗で、手拭一本しか貰えなかった。

 賞品が全然ないのも張合いがないし、また沢山あり過ぎても困る。この程度が適当というところであろう。

 この会も、その前の会においても、大岡二段格は大いに敢闘、好成績をとった。

 昨年某新聞に、私は文人囲碁の面々について書き、大岡二段格については、

「大岡初段は、互先の碁は不得手のようで、われわれと打つと、大岡初段の石はとかく俘虜(ふりょ)となる傾向がある。対局態度は坂田栄男九段にそっくりで、典型的なぼやき型である。ただ違うところは、坂田九段がぼやきながら勝つに反し、大岡初段はぼやきながら負けるのである」

 この私の昨年の評価は、訂正する必要があるように思う。この前の碁会では、大岡初段は久しぶりに出席、相変らずぼやきながらも面々をなぎ倒し(私も不覚にもなぎ倒された)全戦全勝、優等賞を小脇にかかえて揚々と帰って行った。昨年はそれほど強いと思わなかったのに、今年は俄然(がぜん)強くなったのは、あるいは人にかくして猛勉強をしたせいかも知れない。そこで衆目の一致するところ、大岡初段は二段格ということに格上りをした。

 三好達治初段もいい成績を振ったが、前述の某新聞の碁随筆において、私は三好初段のことを、

「風格正しき碁を打つ三好達治初段」

 と書いたが、これも取消した方がよさそうだ。

 自分の書いた文章を取消したり訂正したり、あまりそういうことをしたくないのだが、やはり事実に反したことを書いたことには、責任を持たねばならない。

 では、どこを取消すかというと「風格正しき」という部分であって、この前の碁会で対局して見たら、三好初段の碁は一向に風格正しくはないのである、相手の目に指を突込んでくるような、猛烈なけんか碁であった。

 では、何故昨年「風格正しき」などと書いたかというと、それまで私はあまり三好初段と手合わせしたことがなく、したがってその棋風をよく知らなかった。だからその文章を書くにあたって、私はその棋風を、三好初段の詩業から類推したのである。

「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ」

 この詩人が、一目上りの碁になると、俄然人が変ったようになるんだから、判らないものであるという他はない。

 もっとも碁風とか棋風とかは、その人の性格と一致しているかどうか、性格という言葉の解釈にもよるけれども、一致してないことの方が多いようだ。

 たとえば、女は男よりおとなしい(いやいや、そうではないぞと言う人もあるだろうが)とされているが、碁においては、女の碁打ちというのは、猛烈なけんか碁が多いのである。女流専門棋士からアマチュア女流にいたるまで、大体そういうのが多い。だから碁風でもってその人の性格を忖度(そんたく)したり、その人の性格からその棋風を類推したりす

ることは、たいへん危険で誤りが多いという結果になる。その誤りをおかしたという点で、私は前述某新聞の文章の一部を、訂正し取消す。

 

 では最後に、私の棋風はと言えば、これも私の性格とは正反対で、相当に荒っぽいのである。定石通り打って地を囲い合うというのではなく、敵の陣地の中に打ち込んでむりやりに荒すのが好きで、またそういうけんかが得意である。けんかという点では、文壇碁会の面々におくれをとらない。

 どうしてそんなけんかが得意になったかというと、大学生時代に毎日碁会所通いをしたからで、またその碁会所にけんか碁の得意な老人がいて、それからもまれたせいである。碁会所流と言えば、けんかが上手で、手の早見えがする。私の碁も、形において欠けるところがあるが、力闘型で早見えがする方だ。

 いつか某新聞で新聞碁(素人の)を打った時、日本棋院の塩入四段が観戦記で、私のことを次のように書いた。

「素人(しろうと)で梅崎サンだけ打てれば、何処へ出しても恥かしくないし、田舎へでも行けば立派な先生格である。だが若し人に教えるとすれば、適任者でないかも知れない。よい力はしているが、まだ形が整備しない点が多いからである。少し本を読んだり専門家のコーチを受けたりしたならば、強さが増すことと思う。云々」

 私もあまり自慢はしたくないのだけれども、専門家の塩入四段がそう書いているんだから仕方がない。田舎に行けば先生格になれるというのはありがたいことだ。その中に小説の方がだめになれば、田舎に行って、碁の師匠として余生を送ろうかとも思う。もっとも弟子がつくかどうかは不明であるけれども。

 

[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年七月号『新潮』初出(書誌は以下の底本解題に拠る)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。私はスポーツを含み、勝負事に一切興味関心がない。碁は愚か、将棋の金銀の駒の動かし方も知らない。されば、「烏鷺」以外、ここでは知ったかぶりの囲碁用語及び棋士の注をつけるのは一切止めとする。無論、よく知っている作家連中の注も附さない。

「烏鷺」「うろ」と読み、原義の「カラスとサギ」から転じて「黒と白」、そこから更に碁の異名となった。

「高田市太郎」(明治三一(一八九八)年~昭和六三(一九八八)年)はジャーナリスト。滋賀県生まれ。米国ワシントン大学卒業、東京日日新聞社に入社、米英など諸外国特派員・ニューヨーク支局長・渉外部長・欧米部長・編集局次長・編集局顧問などを歴任した(全く私の知らない人物なので「はてなキーワード」を参照した)。]

強情な楽天家 ――妻を語る――   梅崎春生    

  強情な楽天家

    ――妻を語る――

 

 昭和二十二年春に結婚して、もうほぼ十年になる。結婚当時はひどい貧乏で、その後もいろいろ苦労したし、糟糠(そうこう)の妻といえるだろう。

 苦労した割には、彼女は老けていない。もともとあまりくよくよしない性質で、苦しくてもねを上げない。どちらかというと、楽天的な性格だ。

 といっても、強情な面がないでもない。結婚以来、彼女が私に頭を下げてあやまったことは一度もない。なんか失敗しても、自分の非を間接的には認めるが、頭を下げてあやまることを絶対にしないのである。その点ちょっとNHKに似ている。

 なかなか器用なたちで、絵も描くし、詩や俳句もつくるし、料理もうまいし。

 その他いろいろと声を大にして語りたいこともあるが、あとは被写体に譲るとします。

 

[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年三月『週刊朝日』初出(書誌は以下の底本解題に拠る)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。]

日記のこと   梅崎春生

 

 昭和十九年五月召集令状が来たとき、日時が切迫していたので、持ち物を整理する余裕もなく、そのほとんどをHという友人に預けて出発した。終戦後復員、その年の十月に上京してみると、Hの行方が判らない。さんざん苦労して、やっと川崎市のはずれの稲田堤の農家の二階にいるのを探しあてた。で、私もその二階に居候になってころがりこみ、三カ月ばかりそこで暮した。この頃の生活のことは「飢えの季節」という小説にも書いたが、毎日毎日が空腹の連続で、ことに階下の百姓一家は鬼の牙のような白飯をたらふく食べているのだから、とてもやり切れた生活ではなかった。

 しかしここでは空腹のことを書くのが目的でなく、荷物のことなのだが、Hもいろんな事情で住居を転々とした関係上、私の荷物もHの友人たちに分散されていて、布団だの衣類だのの生活必需品は一応戻ったが、書籍その他は大体焼けてしまったらしい。この方はほとんどと言っていいほど戻って来なかった。

 その戻ってこない物品の中で、私は今でも痛惜にたえない品物が一つある。それは昭和七年以来書きためた日記帳のことだ。

 私はもともと几帳面(きちょうめん)な性分でなく、毎日毎日はきちんと日記をつけるたちではない。気まぐれなつけ方で何も書かないのが半年もつづくと思えば今度はやけに詳しく、一日分を十数頁にわたって書いたりする。昭和七年高等学校入学当初から昭和十九年までだから大型ノートとか自由日記とりまぜて十数冊はあったと思う。Hはその日記類だけとりまとめて、Aという女友達に保管を託した。A女は終戦時まで確実にその日記類を保管していた。戦災は蒙(こうむ)らなかったわけだ。

 そこで私は上京後直ぐA女に連絡して、それを返還してもらえばよかったのだが、なにしろ時勢が時勢で、昔の日記どころのさわぎでない。生きるため食うためにじたばたせねばならぬ時代だから、ついそのまま放っておいた。それが悪かった。

 そして私がA女(未だ会ったことがない)に連絡の手紙を出したのは、翌年の春のことだ。そのA女の返事は私をすっかりがっかりさせ、またむしゃくしゃさせた。A女は私の日記をとりまとめて、二カ月ほど前屑屋に売ってしまったというのだ。

 焼けたら焼けたであきらめがつくが、屑屋とはあきらめ切れない。あんなものは、書いた当人にとっては絶大の価値があるが、他人にはいささかのねうちもないだろう。屑屋だってそれを紙屑並みの目方で買って行ったにちがいない。

 それにその後文筆を業とするようになって、昔のことを書くような場合も出てくる。そんな場合、私はあまり記憶力がいい方ではないから、あの日記帳が残っていたら、と思うことがしばしばだ。あの日記帳や大型ノートには単に日常の記録のみならず、小説の習作みたいなのも書いてあった筈だし、まことに痛恨極まりない。

 そういう関係上私はがっかりして戦後はしばらく日記をつける気にもならなかったが、近頃またすこしずつ書く習慣をつけてきた。近頃のは自由日記ではなく、毎日毎日が一頁におさまる当用日記というやつで、これは主情的な記述は全然入れず、人の来往、食事のおかずのことまで、簡単に書き入れる。

 誰にも経験があることと思うが、日記というやつはそういうやり方の方が長つづきするものだ。

 そしてそんな簡単な記述でも、文字として残しておく限り、何年経ってもその日のことを想い出すめどとなる。人間の記録などというものは、堆積(たいせき)する雑多の日常におしつぶされて空々漠々としているが、それでも何かめどなりヒントなりがあれば、割にあざやかに過去を再現出来るものだ。やはり生きてきた過去を記憶の彼方に押し流してしまうのは、私にとってはやり切れない気がする。

 といって、私はここで別に日記の効用を説く心算は全然ない。私の場合をただ書いてみただけである。

[やぶちゃん注:初出誌未詳。昭和二九(一九五四)年二月の執筆クレジットを持ち(推定)、昭和三二(一九五七)年一月現代社刊の単行本「馬のあくび」に所収(書誌は以下の底本解題の複数記載を参照した)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。ここに記された内容では、昭和七(一九三二)年から昭和一九(一九四四)年までの梅崎春生の日記は完全に消失したかのように読めるが、底本の解題によれば、昭和七・八・九・十年度分の日記が一冊の厚表紙ノートに記載されたものが残っており、また昭和十一・十四・十六・十八年(昭和十二・十三・十五が欠損か)がそれぞれ「当用日記」記載で残っており、昭和十九・二十・二十一・二十二年度分は一冊の大学ノートに合わせて記入したものが残っているとある(但し、同底本全集本文にはそれらから抄録されたそれが載っているだけである)から、どうもおかしい。ここで語ったものとは別に記した日記が、どこかに保存されて残っていたと考えるしかない。

「H」底本全集の別巻の年譜によれば、『川崎の稲田登戸の友人、波多江』とある。

「飢えの季節」昭和二三(一九四八)年一月号『文壇』初出。]

小品 メシ粒   梅崎春生


   
小品 メシ粒

 

 歯を抜いたあと、歯ぐきに大きな穴ができた。右下側の、第一白歯である。

 重助は、毎日、歯医者に通った。肉の盛上りがわるくて、なかなか穴がふさがらないのである。それも歯医者のせいのような気がして、重助は面白くなかった。

「へえ。今日は仁丹が入っていますな」

 ちょび髭(ひげ)を生やして、眼鏡をかけた歯医者は、ピンセットでつまみ出して、にやにやと笑った。

「呑んだつもりでも、ちゃんとここに入っているですな」

 次の日は、こんにゃくのかけらをつまみ出したし、その次は、鯨肉の破片をつまみ出した。牛肉じゃないということは、そのにおいか何かで、判るらしかった。

「おや、今日は御飯粒だよ」

 と医者は、ピンセットではさみ上げた。

「形が細長いから、こりや外米ですな。なるほど、なるほど」

 家へ戻っても、重助ははなほだ面白くなかった。俺が貧乏だから、きっとばかにしてやがるんだ。なんだい、あのちょび髭め!

 彼は翌朝、女房に言いつけた。

「うちになければ、隣の大坪さんから、借りてこい。糊にしますから、四五粒でいいってな」

 女房が、内地米のめし粒を借りに行ったあと、重助は鏡の前に大口をあいて、歯ぐきの穴を眺めていた。借りためし粒を、どうやってこの穴に押し込もうかと考えたり、それをつまみ出す医者の手付きを想像したり、またそのことに、急に腹立たしくなったりしながら。

 

[やぶちゃん注:初出誌未詳。以下の底本解題によれば、昭和二九(一九五四)年の作とする。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。言っておくが、これは底本の『エッセイ Ⅳ』のパートに所収されており、小説扱いでは、ない。]

昔の町   梅崎春生

 

 昨年秋、九州旅行の途次、博多駅に下車した。ふと思い立った気ままな旅で、福岡では少年時代のあとを、熊本では高等学校、鹿児島では軍隊の陣地のあとなど、そんなものを見て歩こうという予定であった。義務も責任もない、気楽なひとり旅である。

 博多駅前でタクシーをひろい、黒門橋からずっと伊崎の方に入ったお寺の前で止めてもらった。掘割の橋をわたり、荒戸町に入る。小学校中学校時代を過した家が、荒戸町四番丁にある。旧師範学校の運動場から、東へ二軒目の家だ。その家が今もって健在であるかどうか、焼失していないか、それは判らなかった。歩がそこに近づくにつれて、なんだか身内がじんじんと湧き立ってくるような気がした。

 師範学校の運動場の土手に登り、あたりをずっと見渡した時、いきなり三十年前の風景を眼前にして、突然涙が出そうになった。ポプラや栴檀(せんだん)の木のたたずまいも、昔のままだし、そのひとつひとつの枝ぶりにも、はっきりと手ごたえのある記憶があった。子供たちがたくさん遊んでいたが、それらも三十年前と全く同じである。五分間ばかり私はそこに佇(た)ち、あかずその景色に眺め入っていた。その五分間の感じは、どうも文章では書けそうもない。

 私の家は、焼け残っていた。私の家と言っても、もう今は他人の家で、見知らぬ表札がかかっている。内部を見せて貰いたいと思って玄関にまで入ったが、案内を乞う元気がどうしても出ず、そのまま外に出た。表から見ると、思っていたよりも案外小さな家である。よほど大きな家に住んでいた記憶が、完全に裏切られた。庭の柿や蜜柑(みかん)の木などの丈も、記憶の中のそれとくらべると三分の一ぐらいしかない。子供は子供なりに自分の身長で大きさをはかっていたのだろう。

 そこから西公園の通りに出、港町、簀子町、大工町ととうとう天神町まで徒歩で歩いた。夜は西日本新聞の木村節夫先輩から、おいしいフグと酒を御馳走になり、大へん酩酊(めいてい)した。昔の町を歩き廻った関係上、酒席の間でも私はいくらか感傷的になっていたと思う。

 この次福岡に行く時は、修猷館(しゅうゆうかん)を見ようと思っている。どうも私は人見知りをするたちだし、卒業後二十年余り経つので、修猷館には手懸りがない。それでつい昨秋は行きそびれた。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年四月刊『修猷』八十六号初出(同誌は修猷館高校発行の学校誌と思われる)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。このエンディングの記事で『修猷』に載せるというのは如何にもシャイな梅崎春生らしい。春生の感傷に水を差したくないので、注は控える。幸い、殆んどの地名については過去の私の注で考証しているのでそちらを参照されたい。]

博多美人   梅崎春生

 

 博多美人と言えば、下町風の美しさであり、理智的というよりは、はなはだしく情緒的である。博多小女郎の昔から、その実は連綿とうけつがれているのだろう。

 大体博多の文化は、上方系統であって、それに長崎方面から来た異国文化がこれに加わる。両方の微妙な混交が博多文化の特徴である。その市民の嗜好や好尚が、かくて万国無比(大袈裟(おおげさ)な!)の博多美人をつくり出し、幾多の男たちの魂を震蕩(しんとう)せしめた。

 しかしまあこんな美というものは、時代と共に当然亡ぶべき美なのだから、それ故にこそ切々たる哀艶を加えているとも言えるだろう。

 

[やぶちゃん注:初出誌未詳。昭和二七(一九五二)年七月の執筆クレジットを持ち(推定)、昭和三二(一九五七)年一月現代社刊の単行本「馬のあくび」に所収(書誌は以下の底本解題の複数記載を参照した)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「博多小女郎」「はかたこじょろう」は近松門左衛門作の浄瑠璃「博多小女郎波枕(なみまくら)」の登場人物。博多柳町奥田屋の遊女で、京都の商人小町屋惣七に身請けされて夫婦になる。惣七は毛剃九右衛門(けぞりくえもん)を首領とする密貿易を海賊の一味に加わることとなるが、公儀に露見、惣七の父惣左衛門の機転で二人は都から手に手をとって逃れようする。しかし惣七は道行きの途中で追手に捕らえられ、即座に覚悟の自害をしてしまうが、そこに検非違使が到着、天皇即位の恩赦として死罪一等減刑と伝えられるも、時すでに遅し、後に残された小女郎は狂ったように独り嘆き悲しむ(以上は講談社「日本人名大辞典」の記載と「南条好輝の近松二十四番勝負」の其の二十「博多小女郎波枕」に拠った。後者は梗概がより詳しいので参照されたい)。

「震蕩」は「震盪・振盪」に同じい。激しく揺り動かすこと。]

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   飛行(ひぎやう) 人に在り 鳥羽の海 / 宗祇諸國物語~了

    飛行(ひぎやう)在ㇾ人(ひとにあり)鳥羽海(とばのうみ)

 

猿はよく樹にのぼり、水獺(かはうそ)は水にかしこく、鳥の雲に遊び、蟲の池底に集(すだ)く、皆、天性(てんしやう)の得たる所、それすら、人の教ふれば、輪をぬけ、舞をまひ、さまざまの藝を、なす。人は猶、能事の一藝有るべし。一とせ東國行脚の頃、志州(ししう)鳥羽の長汀(ちやうてい)、巡見しける、ある磯部に遊戯(ゆげ)の體(てい)とみえて、侍二十餘人、松陰(まつかげ)の席(せき)を設け、餉(かれいひ)よそひ、魚鳥を鹽梅(あんばい)し、十六、七なる扈從(こじう)の若者にわたす、此の者、とりて波上を靜々(しづしづ)と半町計りゆく。怪しや、化生(けしやう)の所爲(しよゐ)なるべしと、物かげより見居れば、又、沖の方より、四十計りの男、狩衣(かりぎぬ)に太刀帶びたる、此の中にては主人と見えしが、波を步みて則ち水に座して、食器をひかへ、酒飯(しゆはん)を味(あじは)ふ事、常の人の、席(むしろ)に座せる如し。若者、又、配膳給仕する事、波の上の往來(ゆきき)、先のごとくして、後(のち)、主從ともに岸に上る、侍共、皆首(かうべ)をたれ、渇仰(かつがう)す。主人の云く。今日は海上(かいじやう)風なくて波たゝず、無興(ぶきよう)也、歸らんにはしかじ、と、各、率(ひき)ゐて磯づたひに行きぬ。是迄も猶、人のやうには、おもはざりし。爰に此のあたりの蜑(あま)の子とみえて、寄藻(よりも)かく童部(わらはべ)ども、ふたり、みたり、來ぬ。子供よ、今、かゝるふしぎを見しは、と、いへば、夫(そ)れは當所に隱れなき大淀雲藏(おほよどうんざう)殿とて武勇の人、若者は玉繩(たまなは)兎(う)の助、主人におとらず、共に水練の上手と語りしにぞ、扨は人にて有りける、と、しりぬ。月日經て下の野州(やしう)にくだり、千葉常緣(ちばのつねより)に逢ひて、萬の物語りの次で、此の事をいひ出で、人にはかゝる拔群の一藝、あらまほし、と、いへば、常緣、きゝて、祇公もすぐれたる隱し藝はなきか、と、たはふる、予が藝こそ多く侍れ、食を飽迄(あくまで)たうべ、茶をしぶく好み、身、温かに着て、行きたき方に行く、かしかましく口をきく事、此の外、此類ひの藝、數ふるに不ㇾ足(たらず)、と、いへば、笑ひになりて止みぬ。

 

■やぶちゃん注

 末尾に「宗祇諸國物語卷之五大尾」とある。本篇を以って「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注」を終わる。

・「能事の一藝」生涯に於いて必ず成し遂げるべき、修練によって身につけたところの、特別の一つの技能・技術・技芸。

・「長汀(ちやうてい)」長い水際(みぎわ)・海浜。

・「遊戯(ゆげ)」ここは物見遊山の謂い。

・「扈從(こじう)」貴人につき従う家来。

・「半町」凡そ五十四メートル強。

・「渇仰(かつがう)す」心から敬愛して仰ぎ慕って丁重に挨拶しているさまを指す。

・「寄藻(よりも)かく」浜辺に寄せる食用に供する藻を搔き獲っている。

・「大淀雲藏(おほよどうんざう)」不詳。

・「玉繩(たまなは)兎(う)の助」不詳。

・「千葉常緣(ちばのつねより)」宗祇に古今伝授をした東常縁(とうのつねより 応永八(一四〇一)年?~文明一六(一四八四)年?)のこと。ウィキの「東常縁」により引く。『室町時代中期から戦国時代初期の武将、歌人。美濃篠脇城主。官職が下野守だったため一般には東野州(とうやしゅう)と称される』。『東氏は千葉氏一族の武士の家柄であったが、先祖の東胤行は藤原為家の娘婿にあたり、藤原定家の血を受け継いでいる』(下線やぶちゃん)。『室町幕府奉公衆として京都にあり、冷泉派の清巌正徹にも和歌を学ぶが』、宝徳二(一四五〇)年、『正式に二条派の尭孝の門弟となる』。康正元(一四五五)年、『関東で享徳の乱が発生、それに伴い下総で起きた本家千葉氏の内紛を収めるため』、第八代『将軍足利義政の命により、嫡流の千葉実胤・自胤兄弟を支援し馬加康胤・原胤房と戦い関東を転戦した。だが、古河公方足利成氏が常縁に敵対的な介入を図ったために成果は芳しくなかった上、同行していた酒井定隆も成氏に寝返った』。『更に関東滞在中に応仁の乱が発生し、所領の美濃郡上を守護土岐成頼を擁する斎藤妙椿に奪われた。しかし、これを嘆いた常縁の歌に感動した妙椿より所領の返還がかなった。その後、二人は詩の交流を続けたという』。文明三(一四七一)年、『宗祇に古今伝授を行い、後年「拾遺愚草」の注釈を宗祇に送っている』(下線やぶちゃん)。『常縁は古今伝授の祖として注目されるが、当時の歌壇の指導者であったわけではなく、むしろ二条派歌学の正説を伝えた歌学者としての功績が大きい。家集には『常縁集』、歌学書には『東野州聞書』がある』。宗祇より二十年上。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   千變萬化

    千變萬化

 

越後に居し時、ある夜、雨のつれづれ、野本外記、音づれ、なにはの物がたりし侍り。外記の云く。凡そ此の世に生をうる物、胎、卵、濕、化(け)の四つに限る。此の内に化生(けしやう)は神變にひとしく、形ち、自在を顯す物としれたれば、不思議、却(かへつ)てふしぎならず。胎、卵、濕の三つは、各(おのおの)、定まりあり。其の中にして、希に異形あるこそ、誠にふしぎに侍れ。祇は日本國中、ひろく巡り給へば、をかしき物も珍しき物も見給はん、と、此の國にも、ある百姓の娘に目の一つある者あり、と、いふ。祇、さも有なん、東國にて手の三つ有る男を見し、二つは常のごとく、今ひとつは背に有りて、指のならびは右の手におなじ。又、飛驒(ひだ)の國にて、女の髮の二丈にあまるあり。俗に、髮の長きは毒蛇の相なり、と、いふほどに、己れも、うるさくおもひて、能きほどに切りて捨(すつ)れど、一夜の内に、もとのごとくなるとぞ、上野佐野(かんづけさの)の西には、女のくびに、釣瓶(つるべ)の繩を卷きたるほどにふとき筋あり。是も俗に、ろくろくびとかや、いふ。あはぢの國には、面に大きなる口ひとつあつて目も鼻も耳もなき者あり。食類(しよくるゐ)、よのつね、五人ほど、おほく食ふ、と、いふ。讃岐(さぬき)には手足の指、各、三つゞ生れつきたるあり。是らは皆、賤しきものゝ類ひ人ちかく見侍り。此の外、よき人の家にもさまざまの不具の人、有り、と聞けど、みぬきはゝかたるにたらず。人間ならぬ者にも、天性(てんしやう)の外(ほか)、生れつくもの、多し。是も讃州(さんしう)に、一頭(づ)にして四足(そく)四翼(よく)の鷄(にはとり)あり。豐前にては三足の犬を見たり。若狹(わかさ)にては鰤(ぶり)とやらんいふ魚の、跡先(あとさき)に首あつて尾のなきを釣りたり。阿波(あは)に馬に角(つの)生(お)たるを三疋迄、見たり。其のわたりには珍しともいはず。播磨(はりま)にて猫二疋、橫ばら、ひとつにとぢつきて、二疋一度に起臥(おきふし)するあり。是は生(むま)るゝ時、おや猫、穢血(ゑけつ)をくらはず、暫し捨て置たるおこたり也と、いひし。さもあらんか、又、人畜の外、非情の類ひにも多し。つの國、川尻(かはじり)の北に、椿の花の、赤白黃紫(しやくびやくくわうし)の四色に咲分けたるあり。實を取りて外に植うれども、生(お)ひつかず、と、いひし、陸奧(むつ)の仙臺に、赤白に染分けたる桃の花、在りし、珍らしく見しが、漸(やうや)う此の頃は世に多くなり侍れば、後々(のちのち)は目にたつべくもなし。伊豆の北條(ほうでう)にて、七葉(えふ)の松をみたり。五葉三葉は世におほし。是さへ、ことやうなりかし。同所に栢(かや)の菓(このみ)を松に結びし事あり。此の外、少し計りのけぢめどもかぞふるにいとま非ず。

 

■やぶちゃん注

・「野本外記」「怪異(けい)を話(かた)る」で既出の「情報屋」。

・「胎、卵、濕、化(け)の四つ」通常の仏教上の生物学では、これを「四生(ししょう)」と称する。「胎生」と「卵生」は現行の認識とほぼ同じと考えてよいが、「湿生」は湿気から生ずることで、例えば蚊や蛙がこれに相当すると考えられ、「化生(けしょう)」とは、それ自体が持つところの、一般的には人知の及ばない、超自然的な力によって忽然と生ずることを指す。天人や物の怪の誕生、死者が地獄に生まれ変わることなどをも広汎に指す。

・「目の一つある者あり」実際の奇形とすれば、先天奇形の単眼症(cyclopia:サイクロピア)である。また、民俗社会の「一つ目」の象徴性についてなら、私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で『柳田國男「一目小僧その他」』の電子化注を行っているので、そちらも参照されたい。

・「手の三つ有る男」多手(肢)症。実際に奇形(結合胎児ではなく)として存在するが、正常位置にない三本目の腕は意志によって動かすことが困難な場合が多い。

・「二丈」六メートル強。但し、この話は「一夜の内に、もとのごとくなる」で眉唾。

・「上野佐野(かんづけさの)」現在の群馬県高崎市内の旧佐野村地区。

・「女のくびに、釣瓶(つるべ)の繩を卷きたるほどにふとき筋あり。是も俗に、ろくろくびとかや、いふ」これは轆轤首伝承ではしばしば聴くもので、単に頸部の皺が色素沈着を起こして赤黒くなっているのを、首が外れる(切れて飛翔するタイプの中国系の飛頭盤型)或いは延びる箇所と気味悪がったに過ぎぬ。

・「面に大きなる口ひとつあつて目も鼻も耳もなき者あり」先に示した先天性奇形の単眼症(cyclopia:サイクロピア)の変形型では絶対にあり得ないことではないが、通常の食物を食し、しかもその量が成人の五人分も食すというのであるから、全くの眉唾である。

・「手足の指、各、三つゞ生れつきたるあり」四肢欠損児はサリドマイド児や合指(複数指が癒着したもの)など、それほど稀な奇形ではない。逆の多指症もやはり同様である。

・「賤しきものゝ類ひ人ちかく見侍り」「たぐひびと」で結合した語句か。続く部分からも、賤民に特に業(ごう)によって奇形が起こるとする誤った仏教的差別認識が強く臭う。

・「みぬきはゝかたるにたらず」見ぬ際(実見し得ぬ高貴な家柄の内輪の事柄)は語るに足らぬ、空言である。

・「人間ならぬ者」人間以外の外の動物。

・「天性(てんしやう)の外(ほか)」本来の正常な状態以外の形状。

・「一頭(づ)にして四足(そく)四翼(よく)の鷄(にはとり)」二羽の結合奇形であろうが、これは摂餌もままならず、生育し得ないと思われる。或いは、成鳥になる過程かなった後に、何らかの羽根状及び脚状の腫瘤や腫瘍が形成され、それが別な対の羽、後肢に見えただけかとも思われる。

・「三足の犬」これは普通に奇形として出現する。

・「鰤(ぶり)とやらんいふ魚の、跡先(あとさき)に首あつて尾のなき」双頭で尾部を持たないブリ(条鰭綱スズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata というのであるが、プラナリア(Planaria:動物界扁形動物門渦虫(ウズムシ)綱三岐腸(ウズムシ)目 Tricladida に属するウズムシ類。頭部に三つの切れ込みを入れると三つの頭を再生させる)じゃあるまいし。

・「馬に角(つの)生(お)たる」伝説上に角を持った馬の話があり、角質化した皮膚腫瘤が角状になるというのはあり得ぬことではない。しかしここで宗祇が「三疋迄、見たり」というのは、民俗風習か何かで、馬の頭に何かを被せたものを誤認したと見る方が自然である。「其のわたりには珍しともいはず」というのが却ってそれである可能性が深く疑われることを、よく示していると言える。

・「猫二疋、橫ばら、ひとつにとぢつきて、二疋一度に起臥(おきふし)するあり」猫の先天性結合胎児奇形。

・「穢血(ゑけつ)をくらはず、暫し捨て置たるおこたり也と、いひし」「穢血」は胎児に附着した後産の胞衣(えな)などのことであろう。母猫が、それを食べ嘗めて、双生児の小猫を綺麗にしてやらず、そのままに放置していたから、そのままに弾きが横腹の部分で癒着してしまったのだ、とまことしやかに説明しているのである。

・「非情の類ひ」仏教では人間と動物を「有情(うじょう)」とし「山川草木」は非情とする。

・「つの國、川尻(かはじり)の北」摂津国で「川尻」に相当する現在の地名は、大阪府豊能郡豊能町川尻と、同地の十六キロメートル西方の兵庫県宝塚市下佐曽利川尻があるが、前者か。識者の御教授を乞う。

・「椿の花の、赤白黃紫(しやくびやくくわうし)の四色に咲分けたるあり」挿し木にすれば普通に生ずる。稀なケースではない。

・「赤白に染分けたる桃の花、在りし、珍らしく見しが、漸(やうや)う此の頃は世に多くなり侍れば、後々(のちのち)は目にたつべくもなし」既にこの文章を記している時制に於いて、もう少しも珍しくなっている、と宗祇本人が述べている通り、これも全く以って今は珍しくも何ともない。

・「伊豆の北條(ほうでう)」現在の伊豆の国市韮山一帯。

・「七葉(えふ)の松」伊豆では確認出来なかったが、調べてみると、新潟県新発田市上館加治山に伝わる伝説に「七葉の松」というのがあった(個人サイト「登山日記  静かな山へ」の「要害山~箱岩峠」を参照されたい)。通常の松は二葉。

・「五葉」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属ゴヨウマツ Pinus parviflora は和名の通り、五葉。

・「三葉」現に私の家の居間に、二十年も前に京都の寺で拾った三葉の松の葉(千切ったのでは断じてない)が飾ってある。

・「栢(かや)」マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera はご覧の通り、マツ目ではあるが、マツにカヤの実は生えない。たまたま直近にカヤの木があって、枝が混成していたか、或いは松の洞(うろ)などの中にたまたまカヤの種子が落ちて根付き、成長して実をつけたものか。

・「けぢめ」本来は、ある物と他の物との相違・区別の謂いであるが、ここでは、次第に移り変わってゆく対象物の、前と後の相違、の意も含んでいる。

あまり勉強するな   梅崎春生

 

 夏休みも終りに近づいて、うちの子供たちも、たまっている夏休みの宿題の整理に大わらわである。おやじも協力を要請されて、手つだったりしているが、どうもいまの子供たちの宿題の量は、私たちが子供の時のそれよりも、ずっと多いようだ。つまりいまの子供は、昔の子供より、ずっと多量の勉強を課せられているようである。そうなった一因は、戦後とみに激烈になった入試競争にたえて行かねばならぬことであろうが、しかしこの競争というやつは、とかく人間を非人間的に育てるものである。

 現今の大学の入試競争というのは、たいへんなものらしい。

 私が東大文科に入学したのは昭和十一年で、定員四百人に志望者が三百人そこそこで、もちろん無試験で、のんびりしていた。そのころ法科の方は、四倍か五倍の競争率で、四人か五人の同輩を蹴落して入学、さらにがりがりと猛勉強、同輩をぬきん出て役人の試験に合格したのが役人となる。

 官僚というものの非人間的なつめたさ。中にひそむいやな立身主義などの一因は、その構成分子の役人たちが、学生時代に凄惨(せいさん)な競争をしてきたからではないのか。勝つためには相手をおとしいれるのも辞さぬという、あまりにも非人間的な競争の場に、若い時からしょっちゅう臨んできたからではないか、と私は思っている。

 青年よ。あまり勉強をするな! 勉強が過ぎると、人間でなくなる。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年八月二十九日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。本篇を以って底本の「憂楽帳」パートは終わっている。]

合歓の花

僕はもう十数年、僕の偏愛する合歓の花の咲いている景色を生で見ていない――だから夏が淋しいのだ――と昨日、気づいた……

2016/08/20

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   貧福、定まり有り

    貧福有ㇾ定(ひんふくさだまりあり)


Hinphukusadameari

此世の有樣、能きもあしきも前業(ぜんごふ)による事、いふは更なれど、殊に貧福の分ち計り正しきはなし、都京極春日のわたりに、甚六といふ者あり。俄かに家とみ、豐かなれば、世に沙汰する。此の男、工商の家業もなく、士農の勤めもせず、醫(い)にあらず、巫(ぶ)ならず、何によつて德をつき、かく富裕に成りぬらん。疑ふらくは盜賊(たうぞく)の徒(と)か、博奕(ばくえき)の手利(てきゝ)か、と、いふほどに、其の町、上(かみ)を恐れ、後難をはかつて、一和尚(わじやう)三太夫といふ者に、ひそかに此の不審を問はする。甚六が云く。疑ひはさる事に侍り、我れ、衣服、金銀のゆたかなる事、大事の所作(しよさ)によつて也。他人は申すにおよばず、妻子從者(じうしや)にも深く包みて申さぬ事なれども、各(おのおの)、後(のち)を憚り給ふ所を聞きて申すに侍り。我れ、元來、家、貧しく、身、つたなければ、朝(あした)の煙(けむ)り、たえだえに、夜の肌、衾(ふさま)、薄し、ねらぬまゝに思ひ出づるは、賣買(ばいばい)も、道、うとく、細工も刀(かたな)きかず、さる無骨(ぶこつ)の身は、奉公せんも扶持(ふち)する人なし。強盜は又、さすが、恥しくもおそろし、果報を天に任せ、人の落したらん物を拾はんと思ひ、夜每に小路々々(こうぢこうぢ)をありくほどに、或時は帽子、かづら、紙扇(かみあふぎ)の小分(せうぶん)を、ひろふ折りもあり。宵より朝(あした)迄、一物(もつ)も得ぬ事も、又、多し。ある夜、さる所にて金子三百兩をひらふ。それより、かやうの有德と成り侍る。今に至りて、月夜には、そことなく縱橫(じうわう)に、ありく。されど、身の貧しき時のごとき、更くる迄も、をらず、歸る也、と、かたる、もとより、三太夫は欲心無道の男、うらやましく、扨、珍しき事をもたくみ出で給ふ事よ、と、いひて、甚六は歸しぬ。扨、つくづくと思ふ。此の事、人に披露せば、外(ほか)に此のたぐひの者、出來べし、と暫し包みて、己(おの)れ、又、甚六を眞似て、ひろひに出で、傾城町こそ、金銀もてる若き者共の往來(ゆきゝ)する所なれば、落し置く事もあらめ、と、才覺(さいかく)らしく九條の町に行くに、畑(はた)の細路(ほそみち)を黑面(こくめん)にうつむきて、爰を大事と目をくばる、道の左右(さう)に相向(むか)うて革袋(かはぶくろ)などやうの物ふたつ有り、月さへ入りてくらき夜なれば、定かならねど、嬉しさ限りなく、兩の手にて、一度に、つかむ。見れば、一つは古き馬の沓(くつ)、ひとつは大きなる蟇(ひきがへる)にて在りし、驚きてなげ捨て、猶、こりずまの、淋しきかたこそ心惡(にく)けれ、と、あわてありく、ある人の門に、くろき小袖とみえし在り、あはや、と立ちよつて、引きあぐれば、人くふ犬の黑きが、餘念なくねいり居たる、なじかはこらふべき、散々にくらひつかれ、はうはう逃げて歸るとて、若侍の、遊女町より醉(ゑ)たゞれて歸るに、情(なさけ)なく行きあたる、惡(にく)きものゝしわざ、と刀(かたな)を拔きて追ひつくるに、足は早くて逃(のが)れ去りぬ。あくる夜も猶、殘り多く思ひ、又、出る。今夜は觀世音阿彌(くわんぜおんあみ)が猿樂(さるがく)の棧敷(さじき)の砌(みぎり)に心がけ、東畑(ひがしはた)を、さすらふ。爰かしこ、みぬくまもなく、搜せども、ちり計りの物も、ひろはず。打腹立(うちはらだ)ちて歸り足に、白川堤(しらかはづゝみ)の柳かげに、女のかづら有り、是よ、と、いひて、引きあぐれば、黑蛇の、俗に、からすぐちなは、といふ物也けり。取るや否や、腕くびにまとひつきて、ふれども投(なぐ)れども更に解けず。片手を添へて、もぎはなさん、とすれば、同じくまき添へて兩手(りやうしゆ)ひとつにしむる。せんかたなく其さまながら宿に歸り、人の力(ちから)にて漸々(やうやう)とき捨てけり。此の後、おのが貧分(ひんぶん)の因果を知りて、おもひとゞまりにけり。おもふに蛇は陽蟲(やうちう)にて、夏出で、冬蟄居し、晝、ありき、夜、かくるゝ物なるに、夜かげに是が手にかゝる事、貪心(どんしん)のまよひを天のにくみ給ふより、災難にあひける物ならし。

 

■やぶちゃん注

 今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)のそれを用いた。

・「都京極春日」現在の京都府京都市西京区大原野南春日町附近か。他にも「春日」と名うつ場所はあるが、孰れも「京極」と冠するのが不審であるからである。この「京極」とは通り名ではなく、平安京に於ける東西の果て(の外)の謂いと読む。

・「巫(ぶ)」「神降ろし」をする下級の神職、或いは民間の祈祷師。

・「德をつき」この「つき」は他動詞の「付く」で「身につける」の意。

・「手利(てきゝ)」手業(てわざ)の優れている者。腕利き。

・「其の町、上(かみ)を恐れ、後難をはかつて」その町方の甚六の家の者以外の者どもが、彼が何か不法な行為に手を染めて裕福になったのだと邪推し、それによって町方一同が連帯責任を負わされて罰せられる(知っていたのに訴え出なかったという不作為犯である)かも知れない、とお上を恐れ、そうした後の難儀を想定、それを防ぐために合議して。

・「一和尚(わじやう)」狭義にはかく読んだ場合は、律宗・法相宗・真言宗で授戒の師となることの出来る修行を積んだ高僧を指すのであるが、名を「三太夫」と称し、後に本文で「三太夫は欲心無道の男」と出、何より、挿絵に出るその「三太夫」の姿形(どう見ても遊び人である)から、この「和尚」とは一種の、ある程度、その時代の裏世界にも通じた、いろいろなトラブルの際の交渉人、何でも屋「三太夫」という手合いと見てよかろう。

・「大事の所作(しよさ)」さる重大なある出来事に遭遇したこと。

・「各(おのおの)、後(のち)を憚り給ふ所を聞きて申すに侍り」今、あなたのおっしゃったように町衆が皆、後々に降りかかるかもしれない禍いなどを心配し、あなたに私を質すよう依頼したということを知りまして、申し上げるので御座います。

・「かづら」頭髪の少ないのを補うために添える毛髪。かもじ。添え髪。

・「小分(せうぶん)」とるに足らない金にもならぬ物。

・「傾城町」「けいせいまち」と読み、所謂、遊里遊郭、「いろまち」のこと。

・「才覺(さいかく)らしく」小賢しく智恵を働かせたつもりで。

・「九條の町」現在の京都市営地下鉄烏丸線「九条駅」(烏丸通と九条通が交差する九条烏丸交差点の地下)のある京都市南区東九条南烏丸町附近か。

・「馬の沓(くつ)」蹄(ひづめ)を保護するための藁(わら)や皮革・和紙などで作った馬用の履物。

・「こりずまの」「懲りずま」で一般には副詞として「懲りずまに」で用いられる。「ま」は「~のような状態である」の意を表す接尾語で、全体で「前の失敗に懲りもせずに・性懲りもなく」の意である。

・「淋しきかたこそ心惡(にく)けれと、あわてありく」傾城町に入る、畑中の淋しげな細道だったからこんないぶかしくもつまらぬ拾い物をこそしたのだ、と、慌てて相応な屋敷のある方へと向かって歩いてゆく。

・「なじかはこらふべき」反語。主語主体は「犬」。どうして野良の狂犬が「こらふ」、耐える、ただ静かなままにされていることがあろうか、いや、あろうはずがない。

・「とて」格助詞で「~しようとした際に」。

・「醉(ゑ)たゞれて」すっかりだらしなく酔っ払ってふらふらして。

・「情(なさけ)なく」あきれたことに運悪く。

・「殘り多く思ひ」やはり大枚を拾えるかもしれぬという未練が多く残って。

・「觀世音阿彌(くわんぜおんあみ)が猿樂(さるがく)の棧敷(さじき)の砌(みぎり)に心がけ」猿楽能役者の三世観世大夫音阿弥(「おんなみ」とも 応永五(一三九八)年~文正二(一四六七)年)の猿楽興行(ここは一般庶民向けであるから勧進興行)を見るために高く作った桟敷席の軒下辺りを目当てとして。音阿弥は室町時代の猿楽能役者。観世三郎元重。観阿弥の孫、世阿弥の甥に当たる。ウィキの「音阿弥によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『足利義教の絶大な支援の下、世阿弥父子を圧倒し、七十年近い生涯を第一人者として活躍した。世阿弥の女婿・金春禅竹らとともに一時代を担い、他の芸能を押しのけて猿楽能が芸界の主流となる道を作って、祖父観阿弥、伯父世阿弥が築いた観世流を発展されることに成功した』。『その芸は連歌師心敬に「今の世の最一の上手といへる音阿弥」と評されたのを初め、同時代の諸書に「当道の名人」「希代の上手、当道に無双」などと絶賛され、役者としては世阿弥以上の達人であったと推測されている』。『実父は世阿弥の弟四郎。この四郎については詳しい来歴は知れず、諱も清信とする後代の伝書、元仲とする近世の系図、久次とする説など一致を見ない。世阿弥・音阿弥という天才の間に埋もれた「殆ど見るべきものの無い存在」と見る向きもあったが、世阿弥から著書『風姿花伝』を相伝されたことが分かっており、最近では観世座の脇之仕手として兄を支えて大夫にも匹敵する活躍をしていた人物と考えられている。子の大成後はそのワキも務めたようだ』。『音阿弥の少年時代については不明だが、「三郎」の通称は祖父の観阿弥、伯父の世阿弥も使用したものであり、これを継承していることから、幼くして伯父・世阿弥の養嗣子になっていたと考えられている。間もなく世阿弥には実子の元雅が生まれるが、音阿弥の元服に際してこの「三郎」の名を与えたことからも分かるように、世阿弥は観世座の後継者として音阿弥を考えていた時期があると思われる』。『その期待に応えて成長した音阿弥は、二十代前半の応永二十年代からその活動記録があり、若くして観世座の次世代の担い手として活躍を始めていたことが分かる』。『しかしながら、応永二九年(一四二二年)、観世大夫の地位を受け継いだのはいとこの元雅であった。しかしこの頃世阿弥父子はその創作活動の充実と反比例するように、田楽の増阿弥などに圧され、将軍家の寵を失いつつあった。一方で音阿弥は青蓮院門跡義円の寵愛を受け、応永三四年(一四二七年)には義円の後援の元で勧進猿楽を行い、成功を収めた』。『正長二年(一四二九年)、この義円が還俗して将軍・足利義教となったことで、観世座の運命は大きく変わることとなる。義教は音阿弥を熱烈に支援する一方で世阿弥父子を冷遇し、永享元年(一四二九年)には、世阿弥と元雅の仙洞御所での演能が中止となり、翌年には世阿弥の有していた醍醐寺清滝宮の楽頭職が剥奪され、音阿弥に与えられている。またこの年の興福寺薪猿楽では、前年の元雅に代わり、音阿弥が大夫として参勤している。なおこの際、興福寺は彼の都合に合わせてか日程の変更・延長まで行っており、その権勢のほどがわかる。こうして「観世大夫両座」と言われるように、音阿弥の活動も独立性を強め、ついには観世座の主導権を握るに至った』。『そんな中で永享四年(一四三二年)元雅は伊勢で没し(暗殺説も)、同六年には世阿弥自身が佐渡に流罪となる。かくして観世座から世阿弥父子の勢力は一掃され、これを受けて永享五年、音阿弥は正式に観世大夫の地位に就き、名実ともに能楽界の第一人者となる』。『永享五年四月、音阿弥の大夫就任披露の勧進猿楽が、京の糺河原で挙行された。これを祝って人々が義教の元に参上していることから、この催しが義教の手で行われたものであり、音阿弥が将軍家の御用役者として認められていたことが分かる。諸侯は義教の意を迎えるためもあって音阿弥を厚遇し、将軍をもてなす席には音阿弥の能が欠かせぬほどであった』。『我が世の春を謳歌する音阿弥であったが、一方で同九年、突如義教の勘気を蒙っている。この事件は貞成親王の耳にまで届き、「不定之世毎事如此」と驚嘆させしめたが、赤松満祐のとりなしで十日ほどで許されている』。『嘉吉元年(一四四一年)、その赤松満祐が、自邸で義教を暗殺するという挙に出る(嘉吉の乱)。それはまさに、饗応のため呼ばれた音阿弥が能「鵜羽」を舞うさなかでの出来事であった』。『最大の後援者を失った音阿弥は一時困窮し、私的な勧進能を行うなどしてその打破に努めたようだ。文安元年(一四四四年)の勧進能では観客席の値段を下げるなどの努力をしている。一方で金春座とともに幕府に訴えて、他座が京で猿楽を舞うのを妨害したりもしている』(下線やぶちゃん)。『しかし義教の子・足利義政が長じて後の享徳元年(一四五二年)頃からは、その厚遇を受けることになる。応仁の乱の中でも能を見ていたほどの愛好家である義政は音阿弥を高く評価し、再び表舞台に引き上げた』。『六十歳を迎える長禄二年(一四五八年)頃には子の又三郎正盛に大夫の座を譲って出家し、以後法名の「音阿弥」を名乗るこの名は観阿弥・世阿弥の後継者としての自負を示すものであろう(一字目を並べると「観世音」となる)世阿弥同様に出家の後も第一線で活動を続け、寛正五年(一四六四年)には正盛が義政の後援で行った糺河原での勧進猿楽でも、「邯鄲」「恋重荷」「二人静」「養老」など二十九番のうち十二番でシテを務めている。この催しには義政・日野富子夫妻は無論のこと、関白二条持通、また有力守護大名たちが臨席し、観世座の権威を見せ付けた。同年には後花園院の御前で能を舞い、「老いて益々健在である」と義政を感嘆させた』。『とはいえ政情の不安もあり、暮らし向きはそれほど楽でなかったようで、文正元年(一四六六年)には相国寺の蔭涼軒を訪ね、押し売り同然に小歌・小舞を披露したことが記録に残っている』(下線やぶちゃん)。『翌二年に死去。一休宗純に帰依してその引導を受けたと『四座役者目録』などに語られるが、疑わしい』とある。宗祇(応永二八(一四二一)年~文亀二(一五〇二)年)より二十三も年上で、宗祇が四十六の時に死んでいる。本篇はそもそも宗祇が出て来ないから、歴史的事実との齟齬などの問題の生じようはない。あるとすれば、ここで勧進興行をしている音阿弥は上記のどの時期のことかという点一つであろう。下線を引いた中期の足利義教暗殺直後の辺りの不遇な時期と考えると面白いが、話者の宗祇が如何にも若過ぎる(満二十歳)。寧ろ、この本文ではっきりと「音阿彌」と呼称していることを考えれば(引用の後の下線部分)、彼が隠居後、実際に「音阿彌」を名乗った長禄二年(一四五八年)頃から、経済的には苦しかったとする死去までの九年間辺りを措定すると、自然な感じにはなる気がする。

・「みぬくまもなく」「見ぬ隈もなく」。見なかった物蔭は一ヶ所としてないほどに。

・「歸り足」帰りがけ。

・「白川堤(しらかはづゝみ)」鴨川右岸の祇園白川の堤。

・「黑蛇」「からすぐちなは」俗称と黒い個体という条件から考えると、気性の荒い無毒蛇シマヘビ(爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata)の黒化型(メラニスティック)個体と断定してよい。ウィキの「シマヘビによれば、『黒化型(メラニスティック)もいて、「カラスヘビ」(烏蛇)と呼ばれる』(下線やぶちゃん)とあり、『主に耕地や河川敷に住み、草原や森林にも住む。危険を感じると尾を激しく振るわせ、地面を叩いて威嚇す』行動をとり、『あまり木に登らず、地表を素早く動く』。『本種はアオダイショウ、ヤマカガシとともに、日本国内の農村でよく見られるヘビである。シマヘビの食性はヤマカガシよりも幅広いが、やはり主にカエル類を主食とするため、稲作の発達と共にカエルの分布が拡大し、それに伴い本種の生息範囲も広がった。木に登ることがほとんどなく、地表を這い回るため、交通事故に遭いやすく、生息域が道路や塀などで分断されてしまうとそれを越えることができなくなり、現在では都市の周辺では見かけなくなってきている』。『性質には個体差はあるものの、アオダイショウやヤマカガシに比べると神経質で攻撃的な個体が多いとされる。また、無毒ではあるが、歯は鋭く、咬まれると痛い。他のヘビに比べ動きも素早く、油断すると危険。口内から破傷風菌が検出されたとの報告もあるので、咬まれたら』、『患部を水でよく洗い、消毒すること』が肝要である、とある。なお、本属の和名「ナメラ」は学名の音写ではなく(属名Elapheは音写すると「エラフェ」)、純粋な和称で、この属の鱗の特徴である「滑(なめ)」らかな甲「羅(ら)」の意味(「甲羅」の「羅」は鱗の意の外、「表面」の意もある)である。眉唾と思われる方は、どうぞ、ウィキの「ナメラ属の解説をご覧あれかし。

・「貪心(どんしん)」「西村本小説全集 上巻」では右に「とんしん」、左(二字全体に)に「むさぼる」とルビする。

譚海 卷之一 水戸家軍器等の事

水戸家軍器等の事

○水戸家用(もちひ)らるゝ諸帳面は皆西(にし)の内紙(うちがみ)也。國産なる故也。扨(さて)勘定濟(すみ)たる帳面反古をば諸役所より經師(きやうじ)の役所へ納(をさむ)る。其役所にて經師數人右の反古を以て毎日諸器物を張立(はりたて)、柹澁(かきしぶ)にてこしらふる也。反古にて張立たる船三人乘らるゝやうに製したるあり。常は疊み仕舞(しまひ)て進退し安き樣にしたるもの也。その外軍器甲冑等に至るまで、紙細工にて仕立(したて)るものあり。享保中日光御社參の御供の大名小屋ふしん懸合(かけあひ)に造るも、日をわたり混雜せし事なるに、水戸家の小屋ばかりは着日已前まで取懸(とりかか)る沙汰なし。其時に臨(のぞみ)て竹木を伐(き)り柱となし、屋根は右紙細工の澁引(しぶびき)にしたる折手本(をりてほん)のやうに長く續(つづき)たる紙を重ねて屋根となし、暫時に小屋出來(しゆつたい)せり。霖雨(りんう)に遇ふても五六日は防(ふせが)るゝ事とぞ。退散の時も居小屋(ゐごや)取崩(とりくず)さず、そのまゝにて立退(たちのき)たる奇特(きどく)の事也と申せし。又同家中鳥銃(つつ)稽古にあるき、鵜鳥(う)の類うち得たるを皆々其役所へ納る、即それを役所にて弓師數人ありてそのはねを矢にこしらゆる事、日々に數千本に至る。矢の出來不出來に構はず、只矢かずの多く出來るため製し貯置(ためおく)事とぞ。

[やぶちゃん注:「西の内紙」もと水戸藩内であった、現在の茨城県常陸大宮市西野内で産した、質はやや粗いものの、非常に丈夫な生漉き(きずき/きすき:楮(こうぞ)・三椏(みつまた)・雁皮(がんぴ)だけを原料にして紙をすくこと)の和紙。明治以降には選挙の投票用紙や印鑑証明用紙に指定されて全国的に知られるようになった。

「反古」現行は「ほご」と読むが、古くは「ほうぐ」「ほうご」「ほぐ」「ほんぐ」「ほんご」などと多様に読んだので、確定出来ない。不要な紙。

「經師(きやうじ)」書画・屛風・襖などの表装を担当する表具師。ここは「役所」とあるから、水戸藩内の公の表具担当者。

「進退し安き樣に」移動(保存管理及び収納引出)させ易いように。

「享保中」一七一六年~一七三六年。

「大名小屋」これは将軍の供をする大名が一時的に休憩するための日差しや雨風を凌ぐための仮小屋であろう。

「ふしん」普請。

「懸合(かけあひ)に造るも」指名された複数の藩が分担して造営したのであるが。

「着日」大名が実際に到着するまさにその日。

「霖雨(りんう)」何日も降り続く長雨。

「退散の時」将軍家御社参が終わって片付けとなった折り。

「居小屋(ゐごや)」前の「大名小屋」に同じい。

「奇特(きどく)の事也と申せし」恐らくは現地の大名小屋管理の担当者に仕舞い方を伝え、何かの折りに再利用なされよと伝えたのである。だからこそそれを聴いた人々が「奇特」無駄のない感心ななされようだと、讃嘆したのである。

「鳥銃(つつ)稽古」読みは私の推定。生きた鳥を狙いとした鉄砲の稽古。

「鵜鳥(う)」読みは私の推定。くだくだしいので、二字で「う」と読んでおく。

「其役所」先の「經師の役所」。

「そのはねを矢にこしらゆる」矢羽は一般には鷲や鷹の羽根が風合いもよく、耐久性があるため最良とされる。「矢の出來不出來に構はず」と述べているように、要は太平の世になって実践で使うことがなくなってしまったが、用意はしておかねばならぬ弓矢の「矢かず」をともかくも安価に(素材仕入れ代がこの場合は全く無料である)「多く」作製し、それを余裕の予備矢として多量に「貯置(ためおく)」ことが出来るというのである。]

甲子夜話卷之二 8 富士馬の事

2-8 富士馬の事

先年【寛政己未】御馬預鶴見淸五郎の宅に立寄たるに、出逢て物語に及ぶ。予云ふ、先年旅路蒲原の驛にて聞しは、富士の麓に馬を産す。其馬の始は賴朝卿の放たれし種の蕃生せしにて、今も尚其性神駿にして、山谷を飛行し迅速なる事常に異りと。其後の旅行に原の驛に宿せしに、岩本内膳正に仰て、此馬を取て乘用となさしめらるゝ迚、これを繋ぎをく處などしつらへたるを見たり。此事思出しかば、取らせられし馬の何かゞなりしや、果して駿逸にやと尋しに、鶴見云は、我も其頃見しまゝにて、預ならねば其後は知らず。見し頃には彼駒の三歳の時にて有しが、長三尺ばかり、犬の大なるが如し。父馬は三尺にもこへ四尺にも及なん、少しく大なりしと語る。因其性はいかにと問に、殊に勝れたるとは覺えず。常馬に違ふことなし。仙南の産に比すれば、劣れること多しと答ふ。然ば先年聞しはひが言にてやありし。

■やぶちゃんの呟き

「寛政己未」「つちのとひつじ」は寛政一一(一七九九)年。第十一代将軍徳川家斉の治世。「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜(十七日)であるから、二十二年前で、静山の隠居は文化三(一八〇六)年であるから、未だ平戸藩第九代藩主現役の頃の話柄である。

「御馬預」「おんうまあづかり」は幕府実用需要分及び諸大名以下へ下賜するための御馬及び御馬具の修繕を掌った役職。

「鶴見淸五郎」不詳。

「蒲原の驛」東海道五十三次十五番目の宿場である蒲原(かんばら)宿のこと。現在の静岡県中部の静岡市清水区内。

「蕃生」「はんせい」と読み、繁殖に同じい。

「常に異り」「つねにことなれり」。

「原の驛」江東海道五十三次十三番目の宿場である原(はら)宿。現在の静岡県沼津市内。ウィキの「原宿(東海道)」によれば、『宿場として整備される以前は浮島原と呼ばれ、木曾義仲討伐のために上洛する源義経が大規模な馬揃えを行ったことで知られていた』とある。

「岩本内膳正」幕臣で寛政一一(一七九九)年当時、西丸側衆であった岩本正利のことか。なお、彼の娘の「お富」は一橋徳川家の第二代当主徳川治済(はるさだ/はるなり)の側室であった。

「仰て」「おほせて」。将軍が主語主体であろう。

「預ならねば」私の担当の御馬ではなかったので、の謂いか。

「長三尺」「長」は「たけ」で馬の場合は、馬の場合は蹄(ひづめ)から背までの高さを指す。九十一センチ弱。「犬の大なるが如し」は言い得て妙。

「四尺」一メートル二十一センチ。

「及なん」「およびなん」。

「因」「よつて」。

「問」「とふ」。

「常馬」「つねのうま」。

「仙南」仙台藩の南部を表わす地名。仙台は古えから馬産に適した土地として知られ、駿馬を輩出したが、特に伊達政宗が兵馬育成に熱心に取り組み、藩内の産馬の改良や増産訓練に努め、第四代藩主綱村の代には馬政の大綱「仙台藩産馬仕法」を定め、勘定奉行支配の下に「馬生産方」という役方を配置し、二歳駒の登録、馬市の開設などを行って、仙台藩における産馬事業は藩行政の大きな柱となった(以上は「仙台藩における馬の歴史(馬政史)、宮城県の馬政史について」(PDFファイル)に拠った)。

「然ば」「しからば」。

「聞し」「ききし」。

「ひが言」間違い。

街に死ぬ覚悟   梅崎春生

 

 近ごろあちこちで飛行機が落ちたり、汽車が衝突したりして、たくさんの人が死んでいる。またそういう派手なのではなく、そこらの交番の掲示を見ると、死亡何人、重傷何人と、毎日着々ひき殺されたり、はね飛ばされたりしている。

 交通機関に関する限り、現代は乱世時代と呼んでいいだろう。

 昔乱世の武士たちは、弓矢や刀剣をとる身として、いかに立派に死ぬべきかを、真剣に考え、修養し、自己訓練をした。

 現代における我々も、いかにひかるべきか、いかに立派にはね飛ばさるべきかを、本気で考えるべき時期が来たようである。ぶざまなひかれ方をしてはならぬ。

 たとえば下着について。

 神風タクシーにはねられて救急車で病院に運ばれる。衣服をぬがされる。その際よごれた下着を着用していては、日ごろのたしなみがしのばれる。外出の際には、さっぱりした下着に坂換えるのが得策というものである。

 ところがこれと反対の考え方をする人がいる。私の知人で、外出に際して、下着を全部よごれたのに取換えるのがいる。よごれたのを着ていたら、もしはね飛ばされた時、大いに恥をかくから、精神が緊張して、タクシーやオート三輪に用心するようになるそうだ。自分の廉恥心を利用して、注意力、警戒力を鋭敏にさせるというやり方である。

 なるほど。それも一法といえるだろう。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年八月二十二日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「近ごろあちこちで飛行機が落ちたり、汽車が衝突したりして、たくさんの人が死んでいる」まず、この記事掲載の十日前に、大きな航空機墜落死亡事故が発生している。ウィキの「全日空下田沖墜落事故。これは『全日本空輸が創業後はじめておこした人身死亡事故(航空事故)で』、一九五八年八月十二日、『東京・羽田空港発名古屋飛行場(小牧空港)行きの全日空25便はレシプロ双発旅客機であるダグラスDC-3(機体記号JA5045)で運航していた。伊豆半島下田市沖上空を飛行中の午後830分ごろ、たまたま近傍を大阪発東京行きとして飛行していた同僚機16便に対し、左側エンジンが不調になり停止したこと、これから羽田空港に引き返すことを伝えた後、午後855分の通信を最後に消息を絶った』。『翌日になって、伊豆下田沖の利島付近の海上に25便が墜落しているのが発見されたが、乗員3名、乗客30名のあわせて33名全員が犠牲になった。最終的には犠牲者18名の遺体が収容されたが、残りの犠牲者と機体の大部分は収容されなかった。また機体は水深600mの海底に沈んでおり、当時の技術では引き上げることは不可能であった』(下線やぶちゃん)。『当時の航空機にはフライトデータレコーダーやコックピットボイスレコーダーなどといった装備は取り付けられておらず、事故原因が完全に解明されることはなかった。ただし回収されたトイレの扉がロックされた状態であったことから、事故直前に使用していた乗客がいたと思われ、トラブル発生から僅かな時間で墜落したと見られている。また事故原因になったと思われるトラブルについてはエンジンの不調に加え、手動式ジャイロコンパスも不具合になったとの説もあった。また地上からの目撃証言には残された右側エンジンも出火したというものもあった。そのため同時に多数のトラブルが発生したため墜落に至ったとの推測があった。しかしながら、いずれにしても事故原因を解明するには至らなかった。92日に運輸大臣に提出された事故調査報告書もこれらの可能性を指摘した上で、原因を特定するのは困難であると結論付けていた』。後に『唱えられた説に、水平儀のポンプが不調になり、操縦士が切り替えに失敗して不作動になり、盲目飛行になり夜の海に墜落したというものがある。当時の全日空は資金に乏しく、所有していたDC-3はアメリカの航空各社から中古機を集めたものであったため、仕様が統一されていなかったという。そのため操縦室の計器板やスイッチ類の配置も機体によって違いがあり、操縦者が戸惑っていたという。左右エンジンのいずれかが作動しなくなった場合に水平儀を回す真空ポンプをスイッチで切り替える必要があったのは、事故当時就航していた9機のDC-3のうち事故機のみであったという(ほかの機体は片方のエンジンが止まっても切り替える必要が無かった)。そのため、操縦者が切替スイッチがどこにあるかがわからず、水平儀を不作動にしてしまったというものである。ただし操縦席部分のサルベージは行われなかったため、真偽は不明である』とある。次の汽車の死亡事故であるが、恐らく、記事の二ヶ月前、一九五八年六月十日午後三時二十八分に発生した「山陰本線列車バス衝突事故」のことと思われる。ウィキの「日本の鉄道事故1950年から1999により引く。山陰本線八木駅と千代川駅間の『愛田川関踏切で、園部発京都行き普通列車に京都交通の貸切バスが衝突、引きずられ大破し麦畑に転落した。この事故でバスに乗っていた亀岡市立亀岡小学校5年生一行のうち、4名が死亡38名が重傷、50名が軽傷を負った。列車側も牽引していたC55蒸気機関車が転覆し、客車2両が脱線』した(下線やぶちゃん)。実はこの記事掲載の八日前一九五八年八月十四日午後二時三分にも国鉄山陽本線南岩国駅と岩国駅間の菊池踏切で「特急かもめ米軍トレーラー衝突事故」が発生している(同ウィキによれば、博多発京都行の特急「かもめ」(十両編成)に米海兵隊岩国基地所属の米軍人が運転するトレーラー・トラックが衝突、トレーラーは五十メートル引きずられて大破し、「かもめ」側も『牽引蒸気機関車(C62 4)と1両目客車(ナハフ11 9)が脱線し「く」の字状に転覆した。また後続の客車2両も脱線した』『事故原因はトレーラーの運転手の警報無視による。これは下り貨物列車の通過後、引き続いて上り特急列車が通過する警報が出ていたのを無視して横断を強行したため。また踏切には遮断棒がなく事故現場が緩やかなカーブであったのも災いした』とある)が、この事故では特急の乗員乗客四十三名が重軽傷を負っているものの、死亡者は出ていないので一応、除外はされる。但し、春生の意識の中には当然、想起された事故ではあろう。

「そこらの交番の掲示を見ると、死亡何人、重傷何人と、毎日着々ひき殺されたり、はね飛ばされたりしている」ウィキの「交通事故によれば、『戦後の高度経済成長期に自動車保有率の上昇と呼応して交通事故が増加し』、本記事のまさに翌年の一九五九年には年間交通事故死者数が一万人を突破、『戦争でもないのに膨大な人数が犠牲となることから、「交通戦争(第一次交通戦争)」と比喩される事となった』とある。

「神風タクシー」ウィキの「神風タクシーより引く。主に昭和三〇年代(一九五五年~一九六四年)に、『日本で交通法規を無視し、無謀運転を行っていた日本のタクシーを』呼ぶ語(死語)。一九五〇年代(昭和三〇年代前半)になると、『日本はモータリゼーションの進行に伴い、道路渋滞も起き始めた。歩合給を稼ぐために、速度制限無視、急停車、急発進、赤信号無視、強引な追い越しなどを行って、早く客を拾い、あるいは一瞬でも早く目的地に着いて、客回転を上げようと、無謀な運転を行うタクシードライバーが増加した』。『この無謀な運転ぶりを「神風特別攻撃隊」になぞらえて、人々は『神風タクシー』と呼んだ。その命名は誰によるものかは不明だが、「週刊新潮」の記事からと思われる』。『この無謀運転の主な原因は、運転手の固定給の少なさや、ノルマ制などの労働条件であった。これが社会問題になると共に、タクシー労働組合などの運動によって、神風タクシーは基本的に無くなった』。昭和三四(一九五九)年八月十一日に『優良運転者に個人タクシーが初めて認可された。これも神風タクシーが無くなった要因となった』。また同年には、昭和三九(一九六四)年の『東京オリンピック開催が、国際オリンピック委員会総会で決定されたこともあり、国家規模で日本のイメージアップのため、道路交通法が厳しく運用され、神風タクシーは警察の取締りにより厳しく摘発され、その姿を消した』とある。]

左耳劣化

 

……今朝、寝床で気づいた。

左を枕にしていると、軒を打つ雨の音の彼方に蜩の声が聴こえる……

 
しかし……
 
右をまくらにしてみると……軒を打つ雨の音のしか聴こえない……蜩かと思うのは「シーン」というこの数年来の耳鳴りだけだ……
 
私の左耳は蜩を聴けなくなった――それを半分淋しく思った……

2016/08/19

北條九代記 卷第九 時賴入道諸國修行 付 難波尼公本領安堵

       ○時賴入道諸國修行  難波尼公本領安堵

 

時賴入道の政道、理非分明にして、奉行、頭人、評定衆、其掟、少(すこし)は古風に立歸るかと見えしかども、諸國の守護、地頭等(ら)は、猶も私欲非義の事あり。訴論、更に絶遣(たえや)らず。時賴入道、是を歎き、頭人、評定衆を集めて宣ひけるは、「諸國無道の科人(とがにん)を罪罸(ざいばつ)に行ひし事、數百人なり、三浦泰村父子叛逆(ほんぎやく)より以來(このかた)、是程に人多く損じたる事はなし。奉行、頭人、評定衆の奸曲(かんきよく)なるが致す所、其罪、既に我が愚にして、下(しも)の歎(なげき)を知らざるに起れり。萬民を惱(なやま)し、惡徒を損ず。 我、何の面目ありてか諸人に見(まみ)えて、國家を治むと云ふべき。然るに時賴入道が天下の執政たる事は、時宗未だ幼稚なるに依(よつ)て、代官として暫く諸事を綺(いろひ)はべりき、時宗、幸(さいはひ)に、今、成長して、しかも執政の器量に當り給へり。外には學問を好み、内には道德を嗜(たしな)み、進みては仁を專(もつぱら)とし、退(しりぞ)きては行(かう)に失(しつ)あらんことを悔省(くひかへりみ)て、賢君子の德、備(そなは)れり。今は早(はや)、世の中の事、心易く存(ぞん)ずるなり。我が愚案を以て、久しく諸人を苦むべきは、天道の譴(せめ)、遁(のがれ)難し。向後の事は、太郎時宗に讓り侍る。將軍家の執政として、頭人、評定衆の邪(よこしま)を禁じ、泰時(やすとき)の政理(せいり)に從ひて、國家を治め給へ」とて、涙をぞ流されける。暫(しばらく)ありて、また、宣ひけるは、「某(それがし)が愚の一つに依(よつ)て、現當(げんたう)二世を失はんとす。佛神の冥慮(みやうりよ)、誠(まこと)に恐るべし。父祖の善惡は、必ず子孫に報ゆ、と云へり。因果の道理、遁(のが)るまじければ、我が愚を以て、多少の人を損害せし故に、子孫の後榮(こうえい)も賴(たのみ)なし。未來もさこそ悲(かなし)かるべけれ」とぞ宣ひける。是を承りし輩(ともがら)は、只、理に屈して申すべき言葉なく、坐(そゞろ)に涙を催しけり。時賴入道は天臺、法相(ほつさう)、律、三家の智識に逢(あ)うて佛法の奧義を極め、又大覺禪師に謁し、その外、數多(あまた)の禪師に相看(しやうかん)して、心地(しんぢ)を大悟(たいご)せられたり。實(じつ)に理世安民(りせいあんみん)の爲にや、諸人の中にして、かく仰のありける殊勝(しゆしよう)さよと、心ある人は申合へり。その後は一室に閉籠(とぢこも)り、親しきにも對面無し。靑砥(あをとの)左衞門尉藤綱、二階堂信濃入道と只二人計(ばかり)、常は參りてはべりしが、幾程なく時賴禪門、死に給ひけり。二階堂入道悲(かなしみ)に堪(たへ)ず、後世の御供せんとて自害致されけり。左馬頭時宗、歎(なげき)の色深く、樣々の佛事をなし給ふ。鎌倉中は云ふに及ばず、諸國の貴賤、是を歎く事、赤子(せきし)の母を喪(うしな)ふが如し。實(まこと)には然らず。世にはかく披露して、二階堂入道、只(たゞ)一人を召倶(めしぐ)し、密(ひそか)に鎌倉を忍び出で、貌(かたち)を窶(やつ)して、六十餘州を修行し給ふ事三ヶ年、在々所々の無道殘虐を聞出さんが爲とかや。中にも哀(あはれ)なりける事は、或時、攝津國難波(なには)の浦に至り給ふ、世渡る業(わざ)の苦しさは何國(いづく)も同じ事ながら、殊更、難波の蘆の屋の鹽汲(しほくむ)海郎(あま)の暇(いとま)なみ、營む事の易からぬ、身の有樣こそ哀(あはれ)なれと、愈(いよいよ)、心に感慨し給ふ。日、既に西に傾きて、人の往來(ゆきゝ)も稀々(まれまれ)なり、鳴送(なきおく)る蜩(ひぐらし)の聲も遠近(をちこち)淋しき暮に及びて、とある所の家に立寄り、宿を借(か)らんと見給ふに、昔はさもありける人の住荒(すみあら)しけん跡と見えて、垣(かい)、間疎(まばら)に、軒、傾(かたぶ)き、時雨(しぐれ)も月も漏るらめや、さこそ侘しき草の戸差(とざし)、露深く閉ぢられて、いとゞ袂は霑(ぬる)る計(ばかり)なるに、立入りて宿を借り給ひければ、年闌(た)けたる尼公(にこう)の、杖に縋(すが)りて出でられ、「御宿(おんやど)借し奉るべき事は易けれども、佗(わび)て住(すむ)なる賤(しづ)の伏屋(ふせや)、藻鹽草(もしほぐさ)ならでは敷忍(しきしの)ぶべき物もなく、磯菜(いそな)より外には進(まゐ)らすべき設(まうけ)も候はねば、中々、御宿參せても甲斐(かひ)なくこそ」と聞えけるを、「さりとては日も早(はや)、暮(くれ)過ぎたり。來方(こしかた)遙(はるか)に、往前(ゆくさき)も覺束(おぼつか)なし、枉(まげ)て一夜を明させて給(た)べ」と云佗(いひわ)びてぞ留(とゞま)り給ひける。旅寢の床(とこ)に秋深(ふ)けて、浦風(うらかぜ)渡る浪の音、夜寒(よさむ)の衣、袖冴(さ)えて、夢も結ばず、明(あか)されたり。朝朗(あさぼらけ)の霧間(きりま)より起出(おきい)で給へば、主(あるじ)の尼公、手つがら飯匙(いひがひ)とる音して、椎の葉を折敷(をりし)きたる上に飯盛りて持出でたり。甲斐甲斐しくは見えながら、斯(かゝ)る業(わざ)なんどに馴れたる人とも見えねば、覺束なく覺えて、「などや御内に召仕(めしつか)はるゝ人は候はぬやらん」と問ひ給へば、尼公さめざめと打泣(うちな)きて、「左(さ)候へばこそ。尼は親の讓(ゆづり)を得て、この所の一分の領主にて候ひしが、夫(をつと)にも子にも後(おく)れて、便(たより)なき身と成果(なりは)て候ひし後、惣領某(ないがし)と申す者、關東奉公の權威を以て、重代相傳の所帶を押取(おさへと)りて候へども、京、鎌倉に參りて訴訟申すべき代官も候はねば、此二十年、家、衰へて窶(やつやつ)しく、麻(あさ)の衣の淺ましく、樵積(こりつ)む柴のしばしばも存(ながら)へ住むべき心地もなく、袖のみ濡るゝ露の身の、消えぬ程とて世を渡る、朝食(あさげ)の煙(けぶり)の心細さ、只、推量(おしはか)り給へ」とありければ、抖藪(さう)の聖、熟々(つくづく)と聞給ひ、「其(それ)は御痛(おんいたは)しき御事なり。押領(おふりやう)せられし人の御名をば誰とか申し候ぞ」と問はれたり。尼公、申されしは、「その先は、右大將賴朝卿、平家追罸の時、難波の六郎左衞門と申せし者、梶原景時の手に屬(しよく)して、軍功を抽(ぬきん)でたりしかば、勸賞(けんじやう)行はれて賜(た)びたりける所領なるを、尼が世迄は斷絶なく相傳して、夫(をつと)にて候難波三郎兵衞尉、身罷りて、世を嗣ぐべき子さへ打續(うちつゞ)きて死に候へば、尼が身の置所なく、悲しさは限(かぎり)もなし。何しに命の存(ながら)へて憂目を三保の浮海松(うきみる)の、今は寄邊(よるべ)もなき所に、尼が爲には小舅(こじうと)にて候、瓜生(うりふの)權(ごんの)頭に、押領せられ、斯る有樣に潦倒(おちぶ)れて、甲斐なき身と成果てて候ぞや」とて涙にのみぞ咽(むせ)びける。聖は餘(あまり)に哀(あはれ)と覺えて、笈(おひ)の中より小硯(こすゞり)取出(とりいだ)し、卓の上に立ちたりける位牌の裏に一首の歌をぞ書かれける。

  難波潟潮干(しほひ)に遠き月影のまたもとの江に澄まざらめやは

聖(ひじり)は尼公に暇乞して、「もし鎌倉殿に對面申す事あらば、忘置(わすれお)かず披露して參らせん」と白地(あからさま)に云ひ置きて、宿を立出で給へば、尼公も名殘惜(をし)げに見送り奉りぬ。斯(かく)て時賴禪門、諸國抖藪(とそう)畢(をは)りて鎌倉に歸り給ふ。軈(やが)て、彼の位牌を召出し、瓜生が所帶を沒收(もつしゆ)して、尼公が本領に副(そへ)て賜りけり。是のみなず、諸國の間に三百四餘人の非道の者を記して歸られ、皆、各々、召上せて、賞罸正しく行はれ、先代忠勤の家督を相續せしめ給ひけり。是に依(よつ)て、諸國の武士共、近年、鎌倉の奉行、頭人の私欲奸曲なるに恨(うらみ)を含みし輩(ともがら)、一朝に憤(いきどほり)を散じ、望(のぞみ)を達して、時賴禪門を慶賀し進(まゐら)せたり。邪曲(じやきよく)の奉行、頭人に媚諂(こびへつら)ひける者共、身を抱き、先非を悔いて、正道に入りける有難さよ。靑砥左衞門申しけるは「この事、今十年とも御沙汰なかりせば、叛逆(ほんぎやく)の者、多かるべし、誠に貴(たうと)き賢才(けんさい)かな」と感じ奉りけるとかや。

 

[やぶちゃん注:くどいが、最初に再度、述べおく。前章注の冒頭で述べた通り、この時頼諸国回国譚は素人が「吾妻鏡」を見ても判然とする通り、あり得ない笑止千万な話である。

 ともかくも私は糞狸爺北条時頼が大嫌いである。

 本章の後半の難波の尼公との邂逅譚は「太平記」巻三十五「北野通夜物語の事 付 靑砥左衛門が事」に基づく。このシークエンスが優れているのは参考元自体が「平家物語」などを参考にして、よく書けているからである(無論、「北條九代記」の筆者の書き換えも上手い)。冒頭に当該箇所を引いておく。同章はかなり長いが、以下は見るように、泰時逝去(「太守逝去」がそれ)から、世が乱れることを簡単に述べて枕とし、一気に時頼の諸国回国に繋がっている。底本は「新潮日本古典集成」の山下宏明校注「太平記 五」(昭和六三(一九八八)年刊)を参考底本としつつ、読点を適宜追加し、恣意的に漢字を正字化し、記号の一部を変更した。一部、読みも追加してある。

   *

しかるに太守逝去の後、父母を背き、兄弟を失はんとする訴論(そろん)出で來て、人倫(じんりん)の孝行、日に添うて衰へ、年に隨ひてぞ廢(すた)れたる。一人(いちじん)正しければ萬人それに隨ふ事、分明(ぶんみやう)なり。しかるあひだ、なほも遠國の守護・國司・地頭・御家人、如何なる無道猛惡(ぶだうもうあく)の者有りてか、人の所領を押領(あふりやう)し、人民百姓を惱すらん。みづから諸國を囘りて、これを聞かずは叶ふまじとて、西明寺(さいみやうじ)の時賴禪門(じらいぜんもん)、ひそかに貌(かたち)を窶(やつ)して六十餘州を修行したまふに、ある時、攝津國難波(せつつのくになには)の浦に行き至りぬ。鹽汲(く)む海士(あま)の業(わざ)どもを見たまふに、身を安くしては一日も叶ふまじきことわりをいよいよ感じて、すでに日暮れければ、荒れたる家の、垣間(かきま)、まばらに、軒(のき)、傾(かたぶ)いて、時雨(しぐれ)も月もさこそ漏らめと見へたるに立ち寄りて、宿を借りたまひけるに、内より年老たる尼公(にこう)一人出て、「宿を貸したてまつるべき事は安けれれども、藻鹽草(もしほぎさ)ならでは敷く物もなく、磯菜(いそな)より外はまゐらすべき物も侍らねば、なかなか宿を借したてまつても甲斐(かひ)なし」とわびけるを、「さりとては日もはや暮れはてぬ。また問ふべき里も遠ければ、まげて一夜を明かしはべらん」と、とかく言ひわびて留(とま)りぬ。旅寢の床(ゆか)に秋深(ふ)けて、浦風寒くなるままに、折り焚く葦の通夜(よもすがら)、臥しわびてこそ明かしけれ。朝に成りぬれば、主(あるじ)の尼公、手づから飯匙(いひかひ)取る音して、椎(しひ)の葉折り敷きたる折敷(をつしき)の上に、餉(かれいひ)盛りて持ち出で來たり。甲斐甲斐(かひかひ)しくは見へながら、かかるわざなんどに馴(な)れたる人とも見えねば、おぼつかなく覺えて、「などや御内(みうち)に召し仕はるる人は候はぬやらん」と問ひたまへば、尼公、泣く泣く、「さ候へばこそ、われは親の讓りを得て、この所の一分の領主にて候ひしが、夫(をつと)にも後(おく)れ、子にも別れて、たより無き身と成りはて候ひし後、惣領(そうりやう)なにがしと申す者、關東奉公の權威を以つて、重代相傳(じゆうだいさうでん)の所帶を押さへ取りて候へども、京・鎌倉に參りて訴訟申すべき代官も候はねば、この二十餘年、貧窮(ひんぐう)孤獨の身と成りて、麻の衣(ころも)のあさましく、垣面(かきも)の柴のしばしばも、ながらふべき心地(ここち)はべらねば、袖のみ濡(ぬ)るる露の身の、消ぬ程とて世を渡る。朝食(あさけ)の煙(けぶり)の心細さ、ただ、推し量(はか)り給へ」と、くはしくこれを語りて、淚にのみぞ咽(むせ)びける。抖擻(とそう)の聖、つくづくと是を聞きて、あまりに哀れに覺えて、笈(おひ)の中より小硯(こすずり)取り出だし、卓(しよく)の上に立てたりける位牌(ゐはい)の裏に、一首の歌をぞ書かれける。

  難波潟(なにはがた)鹽干(しほひ)に遠き月影(つきかげ)のまたもとの江にすまざらめやは

禪門(ぜんもん)、諸國抖擻ををはつて、鎌倉に歸りたまふとひとしく、この位牌を召し出だし、押領(あふりやう)せし地頭が所帶を沒收(もつしゆ)して、尼公が本領の上にそへてぞこれをたびたりける。このほか到る所ごとに、人の善惡を尋ね聞きて、くはしくしるし付られしかば、善人には賞を與へ、惡者には罰を加へられける事、あげてかぞふべからず。されば、國には守護・國司、所には地頭・領家(りやうけ)、威(ゐ)有りて驕らず、隱れても僻事(ひがごと)をせず、世、淳素(じゆんそ)に歸し、民の家々、豐かなり。

   *

本文と重ならない箇所(一部例外有り)を「・」で簡単に注しておく。

・「身を安くしては一日も叶ふまじきことわり」己が一人の身の安楽ということを考えたとすれば、一日として生きて行くことはかなわない(現実世界での「安楽」は「絶対に」「ない」からである)という、この世の道理。

・「領主」参考底本の山下宏明の頭注に『「領主」は「地頭」が正しい。もともと一人の地頭が統轄していた荘や郷を複数で相続するため、分散したそれぞれの地頭。小地頭』とある。「小地頭」とは「子地頭」とも書き、鎌倉時代に地頭職の分割相続によってその一部分を持つこととなった地頭のことで、「半分地頭」「三分二(さんぶに)地頭」などとも呼ばれた。同じ誤りを「北條九代記」もしているので、ここに注しておく。

・「訴訟申すべき代官」幕府の御方へ訴訟を起こし申し上げるにしても、その代理となって呉れる者。この「代官」は官職ではなく、訴訟の起こすために京の六波羅探題や鎌倉に行って実際に訴訟を行うための代理人である。

・「抖擻(とそう)の聖」修行僧・行脚僧の意(本来は「一所に定住している僧」の対語で非定在性の行脚を修行の本分とする僧を指す)。本文の「抖藪」(とそう)」及び頭陀袋の「頭陀」に同じい。梵語の漢訳で、衣食住に対する欲望を払いのけて身心を清浄にすること、また、その修行。或いは、雑念をはらって心を一つに集めること。

・「卓(しよく)」参考底本の山下宏明の頭注に『仏壇の、本尊の前に置いて花や燭などを供える机。よみは宋音』とある。「宋音」は宋以降の漢字音で、現在の「唐音」と同じ。室町時代には「唐音」は「宋音」と呼ばれ、現在でも「唐宋音」とも呼ばれる。遣唐使の中止によって一時、途絶えた形になった日中間の交流が、平安末から鎌倉初期に再開、その後も室町・江戸を通じて盛んになって禅宗の渡来僧や留学僧及び民間貿易の商人たちによってもたらされた、比較的新しい中国語音である(一部、ウィキの「唐音に拠った。リンク先の唐音の例が勉強になる)。

 

以下、本文注に入る。

 

「頭人」狭義には評定衆を補佐して訴訟・庶務を取り扱った引付衆の長官を指すが、ここは結果的に引付衆全体を指すと読むべきであろう。

「其掟」「そのおきて」。

「三浦泰村父子叛逆(ほんぎやく)」宝治元(一二四七)年六月五日の三浦氏が滅ぼされた宝治合戦(ほうじかっせん)であるが、「父子」というのはややおかしい気がする。泰村には景村・景泰・三浦駒孫丸などの子はいるが、合戦の表舞台には出て来ず、実際、年齢も若かったものと思われ、寧ろ、宝治合戦に於ける三浦方の主戦派はプレの宮騒動にも確信犯で加担していた弟の三浦光村である。彼は、最後まで優柔不断であった兄泰村に合戦の敗因はあると考えていたに違いなく、その死にざま(一族が頼朝の法華堂内で一気自刃した)も幕府方が検分出来ぬように自身の顔をずたずたに斬り刻んだ後に自害している強者であった。ここは彼の執念のためにも「三浦兄弟叛逆」とすべきところである。

「奸曲」心に悪だくみのあること。

「惡徒を損ず」(好き好んでやったのではないが、一見、残虐に)悪い輩を(数多く重く)罰することとなった、罰せざるを得なかった、そういう最悪の事態に自らを追い詰めてしまったのだ、というニュアンスであろう。しかし文脈上はやや不自然である。

「綺(いろひ)はべりき」「いろふ」は「関わる・口出しする・干渉する」の意。執権を退いたものの、引き続き、執権の実務にいろいろと口出しをして参ったのであった。

「現當(げんたう)二世」ここは表向きは現実社会の現在と未来の事実の状態を指しながら、しかし後文への因果応報の、業としての父子への応報、北条氏滅亡への予感をも含んでいる(「子孫の後榮(こうえい)も賴(たのみ)なし。未來もさこそ悲(かなし)かるべけれ」)。まあ、しかしここは歴史的事実を知っている後世の本作者の筆が、言わずもがなに滑った感じではある。時頼が嫌いな私としては、私が彼以降の北条の関係者だったら、「こいつに言われたくないよ!」という気はする。

「坐(そゞろ)に」知らず知らずのうちに。

「法相(ほつさう)」法相宗は唐の玄奘(げんじよう)が伝えた護法・戒賢の系統の唯識説を、その弟子の窺基(きき)が大成したもので、一切の存在・事象を五位百法に分類し、すべての実在の根源は「阿頼耶識(あらやしき)」にあるとするもの。日本へは白雉四(六五三)年に道昭により初めて伝えられ、その後もさらに三度、伝来されている。元興寺・興福寺を中心に奈良時代に盛んに行われた。現在の本山は興福寺と薬師寺。「慈恩宗」「唯識宗」とも呼ぶ。

「律」中国で興った仏教の一宗。戒律を絶対の拠り所として受戒を成仏の要因と考える。日本へは天平勝宝六(七五四)年、鑑真によって伝えられた。本山は唐招提寺。

「智識」有徳の高僧。

「大覺禪師」蘭渓道隆。

「相看(しやうかん)」対面。

「心地(しんぢ)を大悟(たいご)せられたり」悟りの境地に達せられた。

「理世安民(りせいあんみん)」絶対正当な、真の仏法に基づく道理を以って世を治め、人民総てを心の底から安んじさせること。

「仰」「おほせ」。

「二階堂信濃入道」既注であるが再掲しておくと、政所執事二階堂行実(嘉禎二(一二三六)年~文永六(一二六九)年)のこと。彼は文永二(一二六五)年に鎌倉幕府政所執事で引付衆となって、文永五(一二六八)年に従五位下で信濃守に叙爵されているが翌年には死去しており、引付衆であったのはたった四年であった。北条時頼は安貞元(一二二七)年生まれで弘長三(一二六三)年没(ここでは生きていることのなってはいるが)であるから、彼が引付衆となったのも、信濃守になったのも、孰れも歴史上は時頼が死んだ後であり、この二人回国の相手が二階堂行実という設定自体が如何にもな噴飯物であることが判るのである。

「二階堂入道悲(かなしみ)に堪(たへ)ず、後世の御供せんとて自害致されけり」言うまでもないが、こんな事実はない。前注参照。

「攝津國難波(なには)の浦」現在の大阪市中央区の海浜地帯の広域古名。

「草の戸差(とざし)」粗末な戸。教育社版の増淵勝一氏の訳は『戸をとざし』とするが、採らない。底本は「とざし」のルビであり(「と」「さし」ではない)、しかも「露深く閉ぢられて」がそれを受けるのであれば、ここは扉・戸の意の名詞でなくてはならないからである。

「年闌(た)けたる」だいぶ年をとった。

「尼公(にこう)」尼君。

「伏屋(ふせや)」棟の低い小さな家。粗末な家。みすぼらしい家。

「藻鹽草(もしほぐさ)」塩を作るために焼く海藻。古くは神馬藻(ほんだわら:不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ホンダワラ Sargassum fulvellum)などの海藻類を簀子に並べ、海水を注ぎ掛けて塩分を多く含ませた上で、乾燥、さらにそれを焼いて水に溶かし、その上澄みを煮詰めて塩を製した。

「敷忍(しきしの)ぶべき物」寝床として敷くに適した物。

「磯菜(いそな)」神馬藻(ホンダワラは食える。私は好物である)や鹿尾菜(ひじき:ホンダワラ科ホンダワラ属ヒジキ Sargassum fusiforme)のように岩礁帯に生え、食用となる海藻類。

「飯匙(いひがひ)」杓文字(しゃもじ)。

「椎の葉を折敷(をりし)きたる上に飯盛りて持出でたり」「太平記」の「椎(しひ)の葉折り敷きたる折敷(をつしき)の上に、餉(かれいひ)盛りて持ち出で來たり」の「折敷」(おしき:薄く剝いだ木の板を折り曲げて四方を囲った盆)を消失させて、より貧家のリアリズムの宿を描いて秀逸。「餉(かれいひ)」は一度軽く煮た米を保存出来るように干したもの。

「この所の一分の領王」この辺りを管轄した惣地頭(先の「太平記」の山下氏の頭注に、『一分地頭の上位に発って軍役などを統轄する、一族の惣領地頭』とある)。先の「太平記」の注も参照のこと。

「惣領」夫の一族の惣領。

「所帶」官職や所領。

「樵積(こりつ)む柴のしばしばも存(ながら)へ住むべき心地もなく」前半は「しばしば」もを引き出すための序詞的表現。樵(きこり)が切り出し、それを截ち切り、小枝のように細かになったそれを積み上げた柴(しば)、「しばしば」、暫く短い間だけでも生き永らえて住もうという気力さえなくなってしまい。

「抖藪(さう)の聖」行脚の僧。先の「太平記」の「抖擻(とそう)の聖」の私の注を参照されたい。

「難波の六郎左衞門」「北條九代記」の筆者が以下をもとに創出した架空の人物であろう。歌舞伎や錦絵では、実在したとされる平清盛の家来難波(なんばの)三郎経房(源義平を処刑した人物で、仁安二(一一六七)年に平家一門で布引の箕面滝(みのおたき/みのおのたき/みのおだき:現在の大阪府箕面市の「明治の森箕面(みのお)国定公園」内にある滝)に訪れた際に落雷により落命したとされる)その子の六郎経俊(父と混同された伝承が残る)をモデルとした、難波六郎経遠・難波六郎常任・南場六郎、難波六郎・難波六郎常利・難波六郎経俊などが知られていた。五代目徳左衛門氏のブログ「難波一族」の難波六郎とは何者か?を参照されたい。「梶原景時の手に屬(しよく)して」とあり、景時は平家の出身であり、彼の家来であったとすれば元平家方の武士であったとしても少しもおかしくはない。

「勸賞(けんじやう)」「かんじやう(かんじょう)」と読んでもよい。所謂、論功行賞。功労を褒めて官位・領地・物品を与えること。

「難波三郎兵衞尉」前の「難波の六郎左衞門」を参照。

「憂目を三保の浮海松(うきみる)の」「三保」憂き目を見るの「み」を掛け、「三保の」「松」(原)を引き出してさらに、その浜辺に漂着する「浮き」(ダメ押しで「憂き」をたたみ掛ける)「海松(みる)」(緑色植物亜界緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile 。本海藻は「海松布」と書いて「みるめ」とも呼ぶので、またしても「憂き目」を「見る」が掛けられるようになっている)で、テツテ的に「憂き目を見る」の多重化がなされており、リズムとともに優れた章句と思う。

「小舅(こじうと)」ここは亡き夫の兄弟。

「瓜生(うりふの)權(ごんの)頭」一応、調べては見たが、不詳。やはり架空人物であろう。

「潦倒(おちぶ)れて」は落魄(おちぶ)れた様子。「窮途潦倒(きゅうとろうとう)」(辛い境遇の中で落ちぶれた様子・行き詰まって望みが叶わずにがっかりしている様子)などと使う。

「卓」先の「太平記」に従い、「しよく(しょく)」と読んでおく。前の「太平記」注参照。

「難波潟潮干(しほひ)に遠き月影のまたもとの江に澄まざらめやは」――難波(なにわ)潟の引き潮で今は遠くにある海の水面(みなも)を照らして輝いている月の光(もともとの尼君の領地、その正当な一分地頭としての所有権を譬える)が、また元通り、満ち満ちた入り江のすぐ眼前に曇りなく美しいその月の姿を映さないはずがあろうか、いや、必ず、潮の満ちて、皓々たる美しき栄えある月光が貴女の面前にたち現われれるであろう――予祝の和歌である。

「白地(あからさま)に」はっきりと。

「召上せて」「めしのぼせて」。召喚して鎌倉に出頭させ。]

外人の眼   梅崎春生

 

 旅行に出る。

 汽車に乗る。乗った直後は、列車内はさっぱりしている。それが三時間とたたぬ間に、床は紙くず、弁当のあきがら、果物の皮、その他いろいろで、まるでごみためみたいになってしまう。外国人はこれをどう感じているかと思うと、身を切られるように恥かしい。

 沿線の風景はどうか。景色はいいが、あの広告看板はどうだ。どんな山間辺地に行っても、鉄道が通っている限り、あの無神経な看板がべたべた並んでいて、風景をめちゃめちゃにしてしまう。外国にはあんな無神経な看板は立っていない。恥かしいことだ。

 宿屋に泊る。すると団体客が必ず来ていて、大広間で飲めや歌えやの大騒ぎ。それも九時ごろまでですめばいいが、深更まで騒いでいる。外国人が見て、その野蛮さにあきれている。ああ、恥かしい。

 というふうな調子の文章が、時々雑誌や新聞に出ることがあるが、これはちょっとおかしいのじゃないか。

 列車がごみためになる。これはよろしくないことだ。しかしそれは、外人が見ているからよくないのではなく、見た目も悪く不潔で、我々日本人が迷惑するから、よくないことなのである。

 広告看板だって、外人が見て美観をそこねるからいけないのではなく、我々が見て不快だからいけないのだ。わかり切ったことだ。

 自分の中に、やたらに外人の眼を想定するな!

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年八月十五日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。昨今のニュースは、ますます外国人観光客誘致ばかりを主眼とした都会や地方の対策を報じ、国政自体が四年後のオリンピックに向けて「外人の眼」ばかり気にしている。今は車内も沿線風景も旅館も見た目は改善されたが、しかし我々はますます「自分の中に、やたらに外人の眼を想定する」ようになった。いや、それは最早、日本人は外人となり、日本人ではなくなった証左なんだ、と考えれば、私は「フン」と微苦笑出来る。それで、沢山だ。]

アリ地獄   梅崎春生

   アリ地獄

 

 私の家の軒下の砂地に、小さなじょうご状の穴が並んでいるのを見つけた。数えてみると、十三ある。十三のアリ地獄が、こうしてアリの通るのを待っているのである。

 ところがここらは、あまりアリが歩き廻らない地帯で、十三のアリ地獄は目下のところ開店休業といった状態である。アリ地獄といえども、何か食っていないと、生きてはゆけないだろう。も少しアリがいる地帯に、穴をつくればいいのに、彼らの心事は不可解である。

 穴ぼこばかり見ていては何も面白くないので、わざわざ遠くからアリをつまんできて、穴に入れてやる。するとアリは必死になって、はい上ろうとする。ところが砂地だから、しがみついた砂がアリの重さでころがり落ちる。あわてて別の砂にしがみつくが、それもころがるという仕掛けで、なかなかはい出られない。はい出られそうになると、穴の一番底のところで、アリ地獄の奴が鋏か何かでぼこっぼこっと砂を調節するから、たちまちアリはずり落ちて、アリ地獄の餌食になってしまうのだ。

 いま問題になっていることの一つに、ぐれん隊がある。ぐれん隊に一度なるとなかなか更生できないものだそうであるが、やはり彼らの世界にもアリ地獄に似た仕掛けがあるのだろう。ぐれん隊といっても、生れた時からぐれん隊というのはいないはずだ。だから個々を補導するより、アリ地獄に似た仕掛けを壊滅させることに、主力をそそぐべきである。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年八月八日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「アリ地獄」アリジゴクは昆虫綱内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属するウスバカゲロウ類の一部の種の幼虫形態を指す(本科の全ての種の幼虫がアリジゴクを経るわけではないので注意されたい)。体長は凡そ一センチメートルで鎌状の大顎を持ち、乾燥した土を擂鉢状に掘って巣を作り、底に潜んで、落ちたアリ及びダンゴムシ・クモ・各種甲虫類などの節足動物を捕らえて摂餌(体液吸引)する。なお、彼らの捕食用に用いる毒成分は極めて高い毒性を持つことは余り知られていないので、以下に主にウィキの「ウスバカゲロウ」の「アリジゴク」の項から引いて記しておく(一部は私が加筆した)。『このグループの一部の幼虫はアリジゴク(蟻地獄)と呼ばれ、軒下等の風雨を避けられるさらさらした砂地にすり鉢のようなくぼみを作り、その底に住み、迷い落ちてきたアリやダンゴムシ等の地上を歩く小動物に大あごを使って砂を浴びせかけ、すり鉢の中心部に滑り落として捕らえることで有名である。捕らえた獲物には消化液を注入し、体組織を分解した上で口器より吸い取る。この吐き戻し液は獲物に対して毒性を示し、しかも獲物は昆虫病原菌に感染したかのように黒変して致死する。その毒物質は、アリジゴクと共生関係にあるエンテロバクター・アエロゲネス』(真正細菌プロテオバクテリア門γプロテオバクテリア綱腸内細菌目腸内細菌科エンテロバクター属エンテロバクター・アエロゲネス Enterobacter aerogenes:グラム陰性桿菌で土壌や水中に棲息する)『などに由来する。生きているアリジゴクの』嗉嚢(そのう)状器官に『多数の昆虫病原菌が共生しており』、その殺虫活性は、なんと、かの強毒で解毒剤のないフグ毒としてよく知られるテトロドトキシン(tetrodotoxinTTX:ビブリオ属(真正細菌プロテオバクテリア門γプロテオバクテリア綱ビブリオ目ビブリオ科ビブリオ属 Vibrio)やシュードモナス属(γプロテオバクテリア綱シュードモナス目シュードモナス科シュードモナス属Pseudomonas)などの一部の真正細菌によって生産されるアルカロイド毒。フグの場合は現在では、海中の有毒渦鞭毛藻(アルベオラータ上門渦鞭毛虫門渦鞭毛藻綱 Dinophyceae に属する種の内で有毒物質を産生する種群)などの有毒プランクトンや、ここに示された一部の真正細菌が産生したそれが、フグの摂餌対象となる貝類やヒトデなどの底性生物を通して生物濃縮され、体内に蓄積されたものと考えられている)の百三十倍もあると言われている。但し、主実験はゴキブリを用いたもので、あくまで節足動物に対する毒性であって人に同様に作用するわけではない。アリジゴク咬傷による死亡例は世界のどこからも報告はされていないのでご安心を。『吸い取った後の抜け殻は、再び大あごを使ってすり鉢の外に放り投げる。アリジゴクは、後ろにしか進めないが、初齢幼虫の頃は前進して自ら餌を捉える。また、アリジゴクは肛門を閉ざして糞をせず、成虫になる羽化時に幼虫の間に溜まった糞をする。幼虫は蛹になるとき土中に丸い繭をつくる。羽化後は幼虫時と同様に肉食の食性を示す』。『かつてはウスバカゲロウ類の成虫は水だけを摂取して生きるという説が存在したが、オオウスバカゲロウ』(ウスバカゲロウ科オオウスバカゲロウ属オオウスバカゲロウ Heoclisis japonica)『など一部の種では肉食の食性が判明している』。『成虫も幼虫時と同じく、消化液の注入により体組織を分解する能力を備えている。ウスバカゲロウの成虫は』真の「かげろう」であるカゲロウ(有翅亜綱旧翅下綱Ephemeropteroidea上目蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeropteraのカゲロウ類の『成虫ほど短命ではなく、羽化後二~三週間は生きる』。『一般にはアリジゴクは、羽化時まで糞だけでなく尿も排泄しないということが通説化していたが』、二〇一〇年に『これが覆されたと報道された』。『報道によれば、千葉県袖ヶ浦市在住の小学校』四年生が『アリジゴクの尻から黄色い液体が出ることを発見し、日本昆虫協会に報告した』。一九九八年には『研究者が「糞は排泄しないが尿はする」ことを調べ、尿の成分に関する論文も発表していたが』、多くの人が長年、『確かめようとしなかった昆虫の生理生態を小学生が自力で発見したことが評価され、この研究に対して協会より「夏休み昆虫研究大賞」が』この少年に授与されている。彼は千葉県袖ケ浦市の小学四年生吉岡諒人君(九歳)である。二〇一〇十一の「アメーバニュースを参照されたい。なお、真正の「蜉蝣(カゲロウ)」類と、本種群のように「カゲロウ」を名の一部に持つ「真正のカゲロウ」に酷似しているが、種としては全く縁遠い「真正でないカゲロウ」類の昆虫については、私は各所で散々書いてきたので、ここでは省略するが、例えば「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽命」の私の注などを参照して戴けると幸いである。

「ぐれん隊」愚連隊。ネット上の日本語俗語辞書から引く。『暴力や不正行為を行う不良少年の一団のこと』。『不良になるという意味の「ぐれる」と「連帯」の合成語である。戦後、暴力行為やゆすり、たかりといった不正行為をしていた不良少年の一団で、後にテキヤや博徒と並び、暴力団(ヤクザ)の起源のひとつとな』った。現行では死語に近いと思われる。]

腹芸   梅崎春生

 

 暑い東京を逃げ出して、今ある高原にきている。

 昨年ここにわずかの土地を借り、小屋みたいなものを建てた。小屋から見える風景は、絶佳にして雄大で、南アルプスその他の山々が一望の中にある。

 居は気をうつすの言葉どおり、東京ばかりにいると考え方や感じ方が固定するから、時々環境を変える方が、精神衛生上にもよろしいようだ。時々村の人たちが、私の小屋を訪ねてくる。そして感嘆する。その方言を標準語に直すと、次のとおりになる。

「ほう。何といういい景色だろう。まるで坪庭みたいだ」

 ところが村の人が感嘆しているのは、南アルプスの雄大な眺望なのではない。それに背を向けて感嘆しているのである。

 私の庭の一隅に、自然岩が露出していて、それにひねこびた松の木が数本、くねくねと寄生している。村の人が嘆賞おくあたわないのは、この岩と松の眺めなのだ。

 どんなに眺望絶佳の地方に住んでいる人でも、それが日本人であるからには、庭石趣味と松の木趣味から脱却できないものらしい。

 雄大なもののかわりに、こぢんまりしたもの。剛直なもののかかわりに、ひねくれたもの。素直なもののかわりに、渋いもの。そういう日本人の好尚が、たとえば政治にあっては、率直な話し合いのかわりに、腹芸としてあらわれるのだろう。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年八月一日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。梅崎春生はこの前年の夏、蓼科高原に別荘を新築、以来、毎年の夏をここで過ごすようになった。東京の家が近く、家族ぐるみで親しかった作家遠藤周作(春生より八つ年下)も同じく蓼科に別荘を持って、ここでも交流、互いを「蓼科大王」「狐狸庵主人」と呼び合ったという。

「腹芸」(はらげい)とは、芝居で役者が台詞や動作に拠らず、感情を内面的に抑えて逆にその人物の心理を表現する演技を指すが、そこから転じて、謀(はか)り事を一切、言動に出さずに、腹の中で企(たくら)むこと。また、直接の言葉では指示せずに、度胸や迫力で物事を処理すること、或いは、そうしたやり方を指す。]

2016/08/18

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   化女 苦し 朧夜の雪

    化女(けじよ)苦(すご)し朧夜(おぼろよ)の雪


Yukionnna

きくならく、越路(こしぢ)は年ごとの雪、深く、去年(こぞ)の名殘の村消(むらぎえ)より、ことしの雪降つゞくとかや。其の國の人は馴れこし身のならはしに、物うくも思はざらん、我は南紀の陽國(やうこく)にそだち、花洛(くわらく)の中央にありし程だに、故郷に增(まさ)りつめたかりし、越後にむつまじくいふ人の來よ、と物する、老苦さへあるに、と暫(しば)しまからず侍るを、さりとて、風厭(いと)ふ計りのしつらひは心安かんものを、無下(むげ)に憶病(おくびやう)の人哉(かな)、と物せられ、行きて二とせを送りにけり。初めのとしの雪、わきておびたゞしく、所の人も近き年に稀れなり、と、いひき。長月の末、蝶の羽うつ計り、大ひらに降りそめてより、神無月(かんなづき)の最中(もなか)は野路(のぢ)の草葉ひとつも見ゆるなく、山邊の木立(こだち)も七尺計りより下はふりうづみぬ。今さへかゝれば、極寒の末いか計り、と思ひやれど、はや、往來(ゆきき)の道たえて、袖打はらふ陰(かげ)もなしといひし人の、又、其かげさへなければ、京にも得歸らざりけり。霜月の始めは、民家、悉く、埋れて、屋の棟(むね)より出入するほど也。されど、祇は人の情(なさけ)にたすけられ、身に衣服を取重ね、口に羹(あつもの)を飽(あ)く、此の年、漸うくれて、陸月(むつき)も寒く、二月(きさらぎ)もさえかへれど、誠は冬のやうにもなし。南面は稍(やゝ)きえにけり。ある曉、便事(べんじ)のため、枕にちかきやり戸押しあけ、東の方を見出でたれば、一たん計りむかふの竹藪の北の端(はし)に、怪しの女、ひとり、たてり。せいの高さ一丈もやあらん。かほより肌、すきとほる計り、白きに、しろきひとへの物を着たり。其の絹、未だ此國にみなれず、こまかにつやゝか也。糸筋(いとすぢ)、かくやくとあたりを照し、身を明らかに見す。容貌のたんごんなるさま、王母(わうぼ)が桃林(たうりん)にま見え。かくや姫の竹にあそびけん、かくやあらん。面色(めんしよく)によつて年のほどをうかゞはゞ、二十歳(はたとせ)にたらじ、と見ゆるに、髮の眞白(ましろ)に、四手(しで)を切りかけたるやうなるぞ、異(こと)やうなる、いかなるものぞ、名をとはん、とちかづき寄れば、彼(か)の女、靜かに薗生(そのふ)に步(あゆ)む。いかにする事にや、見屆けて、と思ふほどに、姿は消えてなく成りぬ。餘光(よくわう)、暫し、あたりを照して、又、くらく成りし、此の後、終(つひ)に見えず。明けて、此の事を人に語りければ、夫は、雪の精靈、俗に雪女といふものなるべし。かかる大雪の年は稀れに現はるといひ傳へ侍れど、當時(たうじ)、目(ま)のあたり見たる人もなし。ふしぎの事に逢ひ給ふかな、と、いはれし、予、不審をなす。誠(まこと)、雪の精ならば、深雪(しんせつ)の時こそ出づべけれ、なかば消失(きえう)せて春におよびて出づる事、雪女ともいふへからず、と、いへば答へて、去る事なれど、ちらんとて花うるはしく咲き、おちんとて紅葉(こうえふ)する、燈(ともしび)のきえんとき、光り、いや、ますがごとし、と、いはれし、左もあらんか。

 

■やぶちゃん注

 恐らく「宗祇諸國物語」の中でもよく知られた一篇であり、いろいろなところで、学術研究者を含め、この一篇をかの小泉八雲の「怪談」の名品「雪女」の原典とし、鬼の首を獲った如くに賞揚すること頻りなのであるが、どこがどう原典なのか、どこをどうインスパイアしたら、あの名品に書き換えることが出来るのか、私にはさっぱり分らない。これは小泉八雲の「雪女」の原典(素材の一つとして参考にしたとしても)ではあり得ない。但し、この話柄は話柄として、私は雪女を語る一話として嫌いではないと言い添えておく。なお、終りの方の「予、不審をなす。」の箇所は底本では「予れ不審をなす。」となっているが、これでは読めない。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)は「予(よ)不審(ふしん)をなす。」となっており、自然に読める。特異的に訂した。今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」のそれを用いたが、今回は、雪女イメージを押し出すため、図の枠部分を恣意的に除去し、汚れも可能な限り、除去して白くした

・「村消(むらぎえ)」「斑消(むらぎ)え」という名詞で、雪などが斑(まだ)らに消え残ることを指す。従って、昨年の斑らとはいえ、残雪が消えぬうちに、翌年、雪が降り出すというのである。

・「風厭(いと)ふ計りのしつらひは心安かんものを」寒風を嫌がるぐらいのことは承知の上、そのための防寒の備えについては心配せずともちゃんとしておるのに。

・「長月」旧暦九月。

・「大ひらに」非常に大きな平たい切片になって。

・「神無月」旧暦十月。

・「七尺」二メートル十二センチメートル。

・「袖打はらふ陰(かげ)もなしといひし人の、又、其かげさへなければ」「袖打はらふ陰(かげ)もなし」は言わずもがな、「新古今和歌集」「卷第六」の「冬歌」の藤原定家(六七一番歌)、

 

   百首歌奉りし時

 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ

 

である(「佐野」は大和国のどこかの渡し場で歌枕とされる)。この歌では馬を留めている主人公の姿だけは吟詠の映像の中にいるわけだが、その一人の人影(「人の形」の謂いで、これが怪異の伏線になっている)さえも、七尺も積もってしまった雪だらけの景色の中には全く見出せないというのである。

・「得歸らざりけり」「得」は呼応の副詞の「え」に当て字したもので、帰京しようと思うのに帰京それが全く以って出来なくなってしまった、の謂い。

・「霜月」旧暦十一月。

・「埋れて」「うもれて」。

・「羹(あつもの)」元は「熱物(あつもの」で、ここは野菜を煮込んだ熱い吸い物。

・「漸う」「やうやう」。

・「陸月(むつき)」ママ。「睦月」で旧暦一月。

・「さえかへれど」厳しく冷え込みはするが。暦上では春になっているけれど、寒さがぶり返しはする、しかし。

・「便事(べんじ)」厠へ行くこと。

・「一たん」十二メートル五十センチメートル。

・「一丈」約三メートル。

・「かほより肌」顔より顎や首、胸の合わせの間の露出している肌部分。

・「かくやく」既出既注。「赫奕」で、光り輝くさま。

・「たんごん」既出既注。「端嚴」で、きちんと整っていて威厳のあるさま。

・「王母(わうぼ)が桃林(たうりん)にま見え」不老長寿の妙薬たる桃の生い茂った仙境の林の中で絶世の美神西王母を拝謁し。

・「四手(しで)を切りかけたるやうなるぞ、異(こと)やうなる」「四手」は当て字で「垂(しで)が正しい。これは動詞「垂(し)づ」(物を垂らす・垂らし下げる)の連用形が名詞化したもので、神道で玉串(たまぐし)や注連縄(しめなわ)などに下げる紙のことを言う。ここは――その女の真っ白な髪が、梳かれたり、削ぎ揃えられるた感じが一切なく、垂(しで)の如くに奇妙なリズムで独特の感じに切ったように長く垂れているのが、如何にも異様な感じがした――というのである。

・「薗生(そのふ)」庭、或いは、菜園。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   人面、巖に休らふ

    人面(じんめん)巖(いはほ)に休らふ

 

猶、南(みんなみ)に山路、暮して行く。案内しらず、とふべき家なき時は、草結(くさむすび)と云ふ物をして柴(しば)の枝(はし)ずえをくゝりて、後(しり)への人の道しるべとする事にて、みちみちそれを便に步み、それに又、むすびそへて、とまる、やけ山といふにかゝる。爰は近き頃まで、諸木(しよぼく)、いやが上に生茂(おひしげ)りて、枝と枝とすれあふ程に、火をもみ出して、やきはらふ。その故、草むすびのしるしも、なし。跡(あと)の里(さと)にて問ひたる儘に、右につき、左にまはり、いくばくの難所(なんじよ)をしのぎ、又、ひとつのしげ山に入る。いつしか、道をふみまよひ、こしかた、遠く行べき道、たえたる所に、亡然(ばうぜん)と、あきれ果つる。爰に熊のごとく眞黑(まくろ)なる男、大弓に大のかりまたを、くはへ來る。狩人(かりうど)と覺ゆ。嬉しくて立ちむかへば、此の男、肝(きも)をけし、爰は抑(そも)、人倫かよふ所にあらず、化生變化(けしやうへんげ)の我れをたぼらかさんとするにぞあらん。おもひよらず正體をみせずは、一矢(や)の下に射ころさん、と、肘(うで)まくり、氣色(きそく)し、すびきしたる。否(いや)とよ、左樣(さやう)の類ひにはあらず。かやかやうの者にて。此の山道にふみまよひたり。平(ひら)に疑ひをやめ給へ、と斷りけるにぞ、弓絃(ゆんづる)はゆるめたれど、猶、打解けぬ氣色(けしき)見ゆ。しみじみと語り續くるに、信じにけり。人里を教へ給へ、と、いへば、待せ給へ、をしへ參らすとも、ひとりはいかで道に出で給はん、某、歸さに同道し侍るべし。但し、今日は狩の料(れう)なく侍る。兎のひとつもとめて歸らんに、と、いふほどに。風、一とほり、さはがしく、村雨(むらさめ)、しきりにして、松柏、左右にわかつて一筋の道をなす、一町あまり向(むか)ふの岩の上に、異形のものこそ見えたれ、縱(たと)へば、大さ三尺計りの女の顏(かほ)、うるはしくゑめる、髮は赤くして長し、肩より下は岩にかくれて見えず、狩の男、射とらん、と、いふを押しとめて、自然(しぜん)、射損じ給はん時、此の者、いかなる仇(あだ)とやならん。先づ、是は、何といふ物ぞと問へば、獵師も未だかゝる異形を見ず、と、さゝやきて、問答する内に、かの首(くび)、岩のあなたに入りて、なくなる、と、みえし、諸木、又、もとのごとく、起きあがりて、道もふさがりぬ。是より、此の男も、今日の狩をやめて、家に歸り、我も里にいさなはれぬ。

 

■やぶちゃん注

 最後の一文中の「家に歸り、」は底本では「家に歸り。」で句点であるが、特異的に読点に訂した。この山中の女怪(これはシミュラクラSimulacra)現象なんぞではないので注意!)は、突如、岩の上に巨大な首だけを見せて、そして岩に向うに姿を消し、さらに「ザワザワ」と動物の如くに周りの草木が動いて、その岩影自体が茂みの中へと消えてゆくのである。正体も澄江堂遺珠釣原の理由も一切、説明がない。そこが又、すこぶる高品位の怪談に仕上がっていると言えるのである。

・「草結(くさむすび)」ここでは草に小枝を結びつけて、旅の道中の道標(みいしるべ)とした、実用的なもの(後に来る旅人のためや(ここでも「やけ山」は摩擦熱による自然発火のためにそのあった草結びが焼失してしまって、存在しないので、道に迷ったという設定になっていることから、ここ以外では宗祇自身も先達(せんだつ)の結んだそれに助けられたことを暗示している)、自分自身が迷ってリングワンデルング(ドイツ語:Ringwanderung:方向感覚を失調して同一地帯を何度も彷徨してしまう現象)をした場合の、或いは元の道筋に戻る目印にする)を指すが、本来は上代、男女が二人して草と草を結び合わせることによってそこに互いの魂をとり籠めて両者の心が永遠に離れないように祈ったり、或いは旅する自分や相手の安全や幸運などを願ったりする民俗信仰に基づく宗教的儀式に起源する(なお、草を束ねて枕にする意から旅の野宿・旅寝の単純な意味もある)。

・「やけ山」やはり熊野古道の難所として恐れられた、現在の三重県尾鷲市南浦にある八鬼山(やきやま)(峠)であろう。尾鷲市のほぼ中央に位置し、標高は六百二十七メートル。「八木山」「焼山」などの他称がある。

・「跡(あと)の里」前に最後に発った人里。

・「氣色(きそく)し」怒りや強い警戒の表情を見せ。気色(けしき)ばみ。

・「すびきしたる」「すびき」は「素引く」弓の弦を引いて張ること。ちゃんと矢を番えずとも、その準備動作として即座に矢を放てるように見せて、相手を威嚇しているのである。

・「待せ給へ」「またせたまへ」。

・「某」「それがし」

・「歸さ」「かへさ」或いは「かへるさ」。名詞。帰り・帰りがけ・帰り道。

・「一町」約百九メートル。

・「大さ」「おほいさ」。

・「三尺」九十一センチメートル弱。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   侘びて住む南山の月

    侘びて住む南山の月

 

伊勢より熊野へこゆる行程百餘里、山、峻(けは)しく、川、深し。ある所には、山、皆、巖(いはほ)こりかたまつて、一寸の土なく、家居(いへゐ)、悉く、板を壁とし、石を竃(かまど)とす。ある所には、四方二、三里、水なくて雨を賴み、用水(ようすゐ)にし、雪を封(ふう)じて食をかしぐ、或は、一生、五穀をくらはず、樫の實おち、椎(しひ)を拾ひためて、命(いのち)の便りとし、猿、狸、狩りつくして、常の糧(かて)とす。男女ともに髮(かみ)けづらず、湯あみせず。眼(まなこ)のみ白く、一身に毛(け)生(お)ひたれば、つかれたる牛のごとし。他(ひと)の國にこそかゝる異形の人間はありと聞きし、目(ま)の邊りみるこそ哀れにも覺えけれ、旅の用意に遠く持ちし八木(はちぼく)、少々ありし、油單(ゆたん)より取出で、自(みづか)ら煮て食(くら)ふを、一家の者ども、詠め入りたる淺ましさ、我れも食するにたへず、當用に分散(ぶんさん)して家内(かない)七人に與ふ。其の中に此の家の祖父(おほぢ)と見えて七十計りの翁が云く。やよ、孫共、汝等は果報の者かな。生れて十年(とせ)過ぎぬ内に飯(いひ)くらふ、此の翁は、五十一歳の時、始めてたべたるさへ、大かたの宿世(すくせ)とは思はざりし、相かまへて旅僧を疎(おろそ)かに思ひ參らするな、と、いひしも、耳なれず哀れ成りし。此わたりの者は、次生(じしやう)には必らず、王城(わうじやう)に生ぜしめ給へ、と祈るとぞ、實(げ)に人界(じんかい)の内にして、雪墨(せつぼく)のかはりめあれば、淨刹(じやうせつ)の説なんどは、一向(ひたすら)、願ふとも及ばじ、と思ふは、愚かながら、理(ことわ)りにこそ覺ゆれ。爰を出て行くに、殊に勝(すぐ)れたる高山あり。千木生ひ茂りて茸々たり。名を蜘取(くもとり)山といふ。ふもとの家に立ちより、休む所に、山の上より一つの鯉魚(りぎよ)、祇が前に落ちけるが、撥々(はつはつ)と尾をふるひて踊る。怪しや、此の嚴(いたゞき)に、山川か、若しは、池水のあるにや、と家の主に問ふ。答へて。去れば、此の邊(ほと)り、山のみつゞきて、江河(かうが)遠し、と、然らば、此の魚の落つる事、不審(いぶかし)、と、いへば、主(あるじ)の云く、惣而(そうじて)、鯉魚に不ㇾ限(かぎらず)、種々(しゆじゆ)の魚の、かくの如くなる事、間間(まま)、多し。此の山上に、人倫至らぬ一峰の嶮岨(けんそ)あつて、前後數千丈の谷、深し。巖(いはほ)の肩(かた)にひとつの鷲(わし)の巣有りて、卵(かいご)をあたゝむ。卵(かいご)われ、鷲の子、漸々(やうやう)巣(す)出でん、と、する頃、親鳥、是に餌(ゑ)を與へんため、江河(こうが)の上を飛行す。水上にうかめる所の魚大魚小魚に不ㇾ限、摑んで、此の山に至る。然るに鷲の餌をふくむるは、諸鳥にかはれり。巣より一段高き梢に羽を休め、件の餌物を巣の前へ落すと否や、巣より出でゝ是を取る。若(も)し誤りて取得ざれば、此の所へ落り侍る、と語りし、かゝる深山邊鄙(しんざんへんぴ)をめぐれば、めづらしきけはひをも見聞く事かな。此の家の主(あるじ)なからましかば、かゝる不思議は、はれまじきを、かしこくも尋ねける、誠に道は道に入りてとふにしかず、と、いひし、宜(むべ)なるかな、と、ひとりごちて行く。

 

■やぶちゃん注

・「八木(はちぼく)」米の異名。「米」の字を分解して「八」(上下回転)と「木」の二字に分けたもの。

・「雪墨(せつぼく)のかはりめ」「雪墨」は想像だに及ばぬほど、二つの対象が正反対であることの譬え、或いは、二つの対象の違いが余りに大き過ぎて、比較にならないことの譬え。「かはりめ」は極端なその違い、その状態・様態の謂いであろう。

・「淨刹(じやうせつ)」清浄(しょうじょう)なる領域、即ち、浄土。

・「茸々たり」「じようじようたり(じょうじょうたり)」と読み、草が盛んに茂っているさまを指す形容動詞。

・「蜘取(くもとり)山」現在の和歌山県南東部の那智山の一部である大雲取山。九百六十六メートル。大雲取越え・小雲取越え(小雲取山という固有の山はない)は熊野三山の那智と本宮を結ぶ山越えの道で熊野古道最大の難所とされる。

・「撥々(はつはつ)と」元は魚が生き生きとして泳ぐさまを指すが、ここはまさにピチピチと尾を元気に跳ねらかすことを指す形容動詞。

・「數千丈」誇張表現であるが、馬鹿正直に計算してみると(教科書などでは誇張表現と言って終りにして実数を示さないのは私はアウトだと思う。だから多くの若者は古い度量衡を何時までたっても覚えず、古文が何時までも嫌いなのだと思う)、一丈は三・〇三メートルであるから、千で三千三十メートルで、単純数値(不定数「數」を私は常に「六」前後と採る)として出すなら、一万八千メートルとなり、対流圏と成層圏の境目に相当する。

・「卵(かいご)」歴史的仮名遣は「かひご」が正しい。卵の古い呼称で「殻(かい)子」(殻を持った(中の)子」の意。

・「江河(かうが)」後では「江河(こうが)」とルビするがママとした。何故なら「江」は呉音では「コウ」で歴史的仮名遣でも「コウ」であるが、漢音の場合は「コウ」でも歴史的仮名遣は「カウ」と表記するからである。

ブログ850000アクセス突破記念   亡靈   火野葦平

 

[やぶちゃん注:底本(昭和五九(一九八四)年に国書刊行会が復刻し、平成一一(一九九九)年に新装版として再刊されたもの)の仲田美佐登氏の「跋 編集覺書」(クレジット:昭和三二(一九五七)年四月一日)の中の記載と、ネット上の古本屋の書誌情報から、本編は昭和二二(一九四七)年八月号『文學界』(復刊第一巻第八号)が初出であることが判った(底本には初出書誌情報は載らない)。敗戦から二年後の夏。本作は決してその時制と無縁ではないものとして読める。

 一ヶ所だけ、第三段落末尾「やはりきいていただかなくてはなりません。」は底本では「やはりきいていただかなくてはなりまん。」であるが、脱字と断じて訂した。

 「蓊鬱(をううつ)」(おううつ)とは草木が盛んに茂るさまのこと。

 なお、本テクストは私のブログが2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、850000アクセスを突破した記念として公開するものである。【2016年8月18日 藪野直史】]

 

   亡靈

 

 驚かれましたか? しばらく足をとめてください。その栗の木の下の石に腰をおろしてくれませんか。おいそぎでもない旅の御樣子、しばらくわたくしの話をきいていただきたいのです。……あなたを待つてゐました。この淵のほとりをこれまでも何人もの旅人が過ぎてゆきましたが、たれもかれもせかせかと忙しさうで、おまけにこの一帶に特別に不氣味さでも感じるのか、一刻も早くここを通り拔けようとでもいふやうに、足を早める者が多いのでした。或る者はまるで追つかけられてでもゐるやうに走りだし、つれのある者は自分たちの恐怖をまぎらすやうに、不必要に聲高で喋舌(しやべ)りながら、やはり速度を早めてこの淵のかたはらを過ぎるのでした。なるほど、この晝間でもたそがれのやうに暗い森林のなかは、さう氣持のよい場所ではない。山としてはさう深くはないけれども、樹々はいづれも苔むす古さと高さで蓊鬱(をううつ)と茂つて居り、たれさがつた氣根を縫つて年中蜘蛛(くも)が巣を張り、そのなかに足のやたらに長い、まつ黃色と黑とのあざやかな縞になつた女郎蜘蛛が、びいどろ玉のやうな二つの眼を光らせてゐたり、蜥蜴(とかげ)や蛇が熊笹を鳴らして濕氣の多い斜面を走つてゐたり、またときどき鳥か獸か蟲かわからない奇妙な啼き聲がするのでは、旅人もさうよい氣持もしないでせう。しかし、旅井人が氣味惡がるのはそんなことよりも、この淵のやうです。……あなたも現に驚かれてゐるが、姿の見えないわたくしの聲が、この淵のなかから起つてゐる。そして、その淵といふのは、あなたのごらんになつてゐるとほり、さして廣くはないけれごも、どこからも水の流れるところを持つてゐない。水源もなければはけ口もない一種の淀み、靑苔を溶かしたやうなどろどろの水、水ともいへない奇妙な液體、汁といつた方がよいか、つまり旅人がいたるところで見つけてゐるどんな淵とも池とも湖とも沼ともちがふ汁のたまり、おまけに異樣な臭氣、糞尿よりももつといやな惡臭、これでは旅人を辟易(へきえき)させるのも無理のない話でせう。にもかかはらず、旅人がやはりこの淵の、(淵と假りにいつて置きませう)ほとりを通るのは、麓から峠を越すにはいやでもこの道を通らなければ拔けられないからです。

 あなたを待つてゐました。あなたのやうな人ははじめてです。遠くにあなたの落ついた足音をきいたときから、わたしはもうおさへきれぬ期待で胸をはずませて、近づくのをお待ちしてゐました。あなたがこの淵のほとりに來て、しづかにあたりを見まはし、なにかしきりにうなづいて、旅の杖を曳いて、わたくしのいふとほりに、その栗の木の下の石に腰をおろされたときには、わたくしはうれしさで涙の出る思ひがいたしました。あなたはきつとあしへいさんの友人にちがひない。われわれ河童について變らぬ深い理解と愛情とを持つてくれるのは、傳説を輕蔑し、詩を否定し、浪漫をすらも異端視して、科學と實證とばかりを現實の價値とするやうになつた現代では、あしへいさんをおいてはなくなつたのでありますから、わたくしはいつかここへあしへいさんが氣まぐれでもよいから通りかかる日のことを夢にえがいてゐたのですが、このごろあしへいさんはつまらぬ世俗のことにかまけて、昔のやうにかういふ山間僻地(へきち)をおとづれる趣味をわすれ、おでん屋などをさまよひ、好きなビールを夜な夜なくらつてゐるといひますから、なにかの突然の啓示によつて、あの人がふたたびさういふ頽廢(たいはい)と惡德とにまみれることから逃れでる日を待つてゐるのですが、いつのことやら、……いや、わたくしはなにをいつてゐるのでせう。あなたで結構なのです。あなたがあしへいさんの友人で、わたくしたち河童の知己であることばもう疑ふ餘地がありません。あなたに是非おききねがひたい。そしてこれから話すことをあしへいさんにも傳へて貰へばたいへんありがたいと思ふわけです。

 わたくしは河童だと申しましたが、じつはいまは河童ではなくなつてゐるのです。形も影もなくなつて、いまは液體になつてゐます。この淵がわたくしなのです。いや、わたくしたちなのです。あなたは笑はれますか? どうもあなたの薄笑ひは氣味がわるい。あなたは河童が本來暗愚なものであることを知つて居られるので、いままたわたくしたちの暗愚についてくりかへすのは氣取かしいのですが、何故わたくしたち大勢の仲間がこんな淵になつてしまつたかは、やはりきいていただかなくてはなりません。

 昔、(昔といつても百年にもなりませんが)この山間一體には千匹ほどの河童が雜然と棲んでゐました。そのころはこんなに樹も茂つてゐず、淵ももとよりなく、いまよりはずつと明るいからつとした谷間で、千匹ほどの仲間たちもどちらかといふと仲よくたのしく暮して居りました。わたくしたち河童が馬の足あとの水のたまつたのにさへ三千匹は棲めることはあなたの御存知のとほりで、そのころ池とか川とかいふものはなかつたのですが、點々とある水たまり、山水、岩淸水のながれ、露の玉などで充分で、まづそのころは平和でありました。さやう、平和とい言葉がいちばんあたつてゐませうか。よその國々では河童同士が繩張りあらそひをして戰爭をしたり、昇天しようなどといふ途方もない考へをおこしてたくさんの死傷者を出したり、火山のうへを飛翔(ひしやう)して火傷(やけど)したりしたやうなこともききましたが、われわれのところではさういふ事件らしいものはなにもなく、日々はきはめて平和に、單調に過ぎてゆきました。すこし數がまとまつて生活してゐると、えてしてこれを支配しようとか、威張らうとかいふ者が出て來て、いつか權力といふものが生まれ、なにかの政治的な體制ができ勝ちなものでありますが、さういふこともなくて、政府をつくらうとか、黨派を立てようといふ野心を抱く者もなく、ただわけもなく雜居して暮してゐるばかりで、日が過ぎました。それはきつと衆にぬきんでた者がゐなかつたせゐもありませう。いづれも似たりよつたり、團栗(どんぐり)のせいくらべて、多少國體が大きかつたり、聲がたかかつたり、腕力が強かつたりで、幅をきかす者がなくもなかつたのですが、衆望が一敦して頭目に仰ぐといふほどの者はゐず、まづ長閑(のどか)なものでした。春夏秋冬の季節の變化も順調で、花や鳥を相手にたのしみ、太陽も月も適度のうつくしさで生活にめぐみをたれ、食餌も豐富で、なにひとつ不足もないのでした。支那にある桃源境、西洋のユートピアといふものがどういふものか知りませんが、そのころのこの山間の生活はひよつとしたらそれに近いものではなかつたでせうか。さういふ生活がわたくしたちの覺え知らぬ昔から長くつづいてゐたのです。少くとも、わたくしたちが今日の不幸に陷ちた百年前まで。

 百年ほど前の或る日、仲間のうちの頭のよい者から、奇妙な申し出がありました。その申し出の斬新(ざんしん)さがこのやうな結果を招來しようとはさらに思ひいたらず、仲間たちはたちまちその説に贊同いたしました。いま考へますと、そんな思ひつきがなにから生まれたかと腹が立ちます。それは精緻(せいち)な理論と、明晰(めいせき)な科學的根據をもつてゐて、たしかに學問としての權威すら示してゐたのですが、じつはそれは表面だけで、眞の動機といふのは、たしかにただの退屈にすぎなかつたのです。眼の色を變へて勝敗をあらそふやうな精神の緊張はさらになく、空腹をかかへて食を求める切實さもなく、單調な明け暮れにぶらぶらとただ時間ばかりを消してゐるやうな毎日、權力にたいする反逆もなく、征服にたいする慾望もない平和な日々、かういふときには、ただ頭腦ばかりが活躍するほかはなく、さまざまの思索がくりひろげられ、強ひて思想と哲學の體系が組みたてられて、したりげに發表されますが、それを仲間たちはただ漫然と眠たげにきいてゐて、なかなか立派な思想だ、おどろくべきである、などとはいひますが、生活へつながつて來るものはなにもありませんからすぐに忘れてしまひます。かういふ狀態でありましたから、或るとき、仲間の一人のをかしな申し出が熱狂して迎へられたのでありました。その申し出がただちに行動につながつてゐたものであつたからです。

 鼻まがりで嘴が短かく、頭の皿の毛が茶色なので、仲間からは大して重きをおかれてゐなかつた一匹の河童が、その案の提唱者でした。彼はいふのです。科學に革命をもたらす實驗をする時が來た、それは音響に關する物理現象で、諸君の協力なくしては成りたたない、蹶起(けつき)をのぞむ、と。なにか鹿爪らしい理論と、妙な記號のついた方程式のやうなものを彼はわたくしたちに示しましたが、わたくしたちにはさういふ學問的なものはわからない。また興味もない。にもかかはらずそれに贊同したのはわたくしたちがすでに底知れぬ倦怠に腐りきつてゐたからです。ただ寢そべつたり欠伸(あくび)をしたり、頭のわるくなるほども眠つたり、用のあることといへば女とのたはむれくらゐのもの、したがつてやたらに子供ばかりを生んでゐるやうな生活。さういふやりきれぬ退屈さ。なんでもかまはないから、その單調を破るものを求めてゐた。そこへその仲間が全部がともかくも一つの行動に出る案を持ちだしたのですから、盲目滅法(めくらめつぽふ)に飛びついたわけです。またその案を提出した仲間とて同樣で、そんなことは退屈のあまりに考へ出したことにちがひないのです。ところがそれだつて、ただ、この谷の河童が全部揃つて、時刻をあはせて、一齊にどならうといふだけのことでした。これまではあらこらで勝手なことをしやべつてゐる、それを或る時刻にいちどきにみんなで喚(わめ)いたら、どういふ聲になるか、音響に關する物理現象の實驗といふのはそれだけのことです。これには多少の反對がなくもありませんでした。しかしそれは學説としてではなく、面倒くさいといふ者と、そんなことをしてみてもつまらないといふ者と、その提唱者を日ごろからこころよく思つてゐなかつた者とで、提案者がすこし腕力が強くて仲間から煙たがられてゐる者を買收して、反對者を説き伏せたので、ともかく全員一致、早速實行にうつることに一致しました。

 わたくしにはその日のことが忘れられません。どうして忘れることができませう。傳説のきびしい掟がその日たちまちわたくしたちの運命を轉換させてしまひました。しかも、その悲痛な宿命がきはめて簡單にあつけないほどの過程で、わたくしたちを今日の羽目におとしいれたのです。

 紅葉が谷をあかく染め、蜩(ひぐらし)ももう鳴きやんで落葉のにほふ秋のある日でした。わたくしたちは谷の窪地にあつまつて提案者の鞭のうごくのを凝視してゐました。赤毛で鼻まがりの河童は一段たかい丘のうへに立つて、右手に葦の鞭を握り、氣どつた樣子で頃あひをはかつてゐました。千匹ほどの河童たちは、老いも若きも、男も女も目白押しにならんで、奇妙な期待に胸ときめかし、鞭の振られるのを待つてゐました。これまでの退屈を破る試みに有頂天になつてゐました。まだ朝まだきで、木の間越しの陽(ひ)はさわやかに、しめつてゐる河童たちの靑苔色の甲羅を光らせ、皿の水に反射して、ぴかつぴかつとかがやきました。千匹の河童が一齊にありつたけの聲をしぼつて怒鳴る、どんな聲になるか? わたくしは好奇心でいつぱいでした。そして白狀しますとわたくしはそのとき良からぬたくらみを胸に藏してゐたのです。それは自分でぜひその聲をききたいが、自分が怒鳴つたのではきくことができない、自分の喚く響が鼓膜(こまく)にひびきますから、これは自分は聲をたてないで、全員の合唱を聞いてやらうといふことでした。この思ひつきは大いにわたくしの氣に入りました。千匹のうち自分一人くらゐ默つてゐてもわかる筈もないし、影響もあるまいと考へたわけです。それにしても約束を破ることになるので、すこしは氣がとがめ、きよろきよろとあたりをうかがひましたが、もとよりわたくしのひそかな企みなどたれも氣づく筈もなく、みな眼をむいて丘のうへの赤毛の河童が鞭を振るのを、ひどく興奮した樣子で凝視してゐました。

 やがて曲つた鼻のさきがにぶく陽に光つて、ちよつと背を反(そ)らすやうにすると、提案河童はけけつといふ鳥のやうな聲を發しました。いよいよ振るぞといふ合圖です。わたくしはこのときこの見榮(みば)えもせぬみすぼらしい河童がいまや嘗てない得意の心境にあることを看(み)てとりました。これまでは輕蔑されてゐたのに、いまや千匹の河童の指揮をしてゐる。この鞭一つで全體がどうにでもなる。その得意さはふと傲岸(がうがん)なひらめきと、一種復讐めいた眼の色となつて、物理現象に對する學問的情熱以外の不純なものを、あきらかにその姿態に示してゐました。わたくしはにはかに反撥を感じて、そのためにも聲を發しまいと思ひさだめました。この瞬間の動搖ののち、待望の葦の鞭がかすかに風を切つて振りおろされました。思はずわたくしは息をのみました。全身を耳にしました。

 なんといふことでせうか。わたくしはその刹那の恐しい息苦しさをいまでも慄然と思ひ浮かべます。けたたましく荒々しいどよめきが鼓膜をも破るひびきをもつておこると思つてゐましたのに、その一瞬は世にもめづらしい靜寂のひとときでした。あまりにも巨大すぎる響は無音の錯覺をあたへるともきいてゐます。そこでわたくしもひよつとしたらさういふことではないかと息をつめて、耳の穴をほじくつてみたのですが、やつぱりその瞬間の逼塞(ひつそく)は全然音響のないためのものであることがたしかに解りました。なんといふことか。たれひとり聲を出した者がなかつたのです。あきれたものです。丘のうへにぼかんと嘴をあけて立つてゐる河童の姿ががくんと折れるやうにくづれて、まるで提燈をたたむやうにしぼんでゆくのが見えました。わたくしもそのとき自分の身體の關節がゆるんで來て解體されてゆくやうな、空間に浮いてしまつたやうで、足がなくなつたやうな空虛さを覺えました。そして、頭腦のはたらきも緩慢になつてゐましたが、事態の推移だけはまだ判斷する餘裕はのこつてゐました。團栗のせいくらべであつたわれわれの仲間ですから、考へることも似たり寄つたり、自分ひとりの思ひつきとして得意であつたことが、じつは全部の共通した考へであつたわけです。みんながわたくしと同じ企みをいだいてゐた。その結果、荒々しい騷音のかはりに不氣味な沈默があらはれた。それだけのことです。指揮者に封する反撥があつたかなかつたか、それはわたくしにはわからない。わかつてゐるのはたれひとりとして聲を發する者がなかつたといふ事實だけです。そして、それだけで充分でした。全員絶叫のかはりに全員沈默といふまつたく逆の現象、効果、それは別の意味では學問としての價値を生じたかも知れないのに、そんなことなどはもう問題ではありません。この歷史的な一瞬ののちに、ゆるがすことのできぬ鐡の規律、かの戰慄すべき傳説の掟が冷酷にわたくしたらの頭上にくだつて來ました。

 この山間の平和な生活はあとかたもなく崩れて、ゆるやかであるが恐しい破滅がはじました。違約と驚愕とが精神と肉體とのどちらをも亡ぼして、指揮者をはじめ千匹の河童たらは、そのとき、靑いどろどろの液體となつて溶けてしまひ、いつかこの窪地に一つの淵ができてゐたのです。

 その時から百年經ちました。からつと明るかつた森の樹々はわれわれの身體から發散する靑苔の肥料のために、短時日の間に必要以上の成長を遂げ、枝ははびこり、實はしげり、毛髮のやうに氣根が垂れて、そこには女郎蜘蛛が巣をかけ、蝶や兎はゐなくなつて、蜥蜴や蛇が巣くひ、陽の光がささぬために羊齒や熊笹のしげつた斜面はいつもじめじめと濕氣があつて、毒茸の發生にはもつて來いとなつたのです。旅人が快適な步調で通つた場所であつたのに、いまは恐怖を持つて駈け拔ける不氣味な森林となりました。ごらんのとほり、この淵は千匹の河童が百年前に溶けてできたものですから、水源も出口もなく、重々しく腐るばかりです。さうして嘗ての平和な日のことを思ひおこし、悔恨と悲哀と苦惱と、ただ歎息ばかりをしてゐたわけなのです。

 あなたを待つてゐました。きいて貰へばいくらか胸の苦しみもなごんだ氣持がします。……あなたはなにをなさるのですか。なにをするのです?……おや、これはどうしたことだ? わたしはいつたいどうしたのだらう。あなたはどなたですか。……わたしたちの知己であるとばかり思つてゐたのに、わたしの錯覺だつたのか。百年の苦痛と沈默とでわたしの智慧もにぶつてゐたのか。あなたを見そこなつた。……あなたはわたしたちと無關係の人だ。知己を求めてゐたわたくしの感傷にすぎなかつた。……あ、この淵のなかに小便をしないでください。小便をしないでくれ。たのみます。たのむ。傳説の掟が恐しい。……なんといふ愚かなことか。……小便をかけられれば俺たちはまたもとの河童に後もどりしなくてはならん。それはいやだ。小便をしないでくれ。……あなたはなにもきこえないのだな。あ、あ、あなたは不具なのだな。もつともらしい樣子に騙(だま)された。落ちついた足音に馬鹿な期待をしたのが誤りだつた。落ちついてゐたんぢやない。眼がわるいから急いで步けなかつたんだ。深刻さうに見えたのは明き盲目だつたからだ。おまけに聾で、鼻も利(き)かないのだな。でなかつたら、この淵の臭氣をそんなに長く平氣で堪へられる筈がない。栗の下の石に腰かけてくれといつたときに、そのとほりにしたのは偶然の一致だつたのだな。……おい、やめてくれ。小便をするな。尿のために原型にかへるのは先祖からのならはしだ。俺たちはもう河童にかへりたくない。またあの單調で退屈な日が蘇(よみがへ)るかと思ふとぞつとする。俺たちは百年間、苦しみと悲しみと、回想と希望とですこしも退屈しなかつた。それで生き甲斐を感じて來た。いまのままで澤山だ。……やめてくれ。なんとかいへ。聾のうへに啞だな。……あ、たうたう初めた。もう取りかへしはつかない。……もう取りかへしはつかない。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   始めて聞く飯綱の法

    始めて聞く飯綱(いづな)の法(はう)


Idunanohou

宮古左目牛(さめうじ)に、舟や文治といふ富裕の者有り、萬(よろづ)、利根(りこん)に人をみくだす本姓なれば、惡むものおほかれど、彼れが有得(うとく)に媚びへつらひて、出入る族(やから)も亦多し。高倉楊梅(たかくらやまもゝ)に重次郎とかやいふ者、刀を磨ぎて世を渡る。日頃、文治か家に行來(ゆきゝ)けるほどに、いつしか兄弟の交りをなす。此の者、或夜の夢に、飯綱(いづな)の靈像(れいざう)、口より入り給ふと覺えてより、忽ち、幻術士(げんじゆつし)となる。我れながら、ふしぎに覺えけるのみにて、親類朋友にもかたらず、され共、いはぬ事の洩るゝならひ、ひとりふたり聞つけ、さまざま取沙汰しければ、今は包まず人の好みによりて慰めける程に、世人、是がふしぎの術(じゆつ)を稱美する、然れ共、文治は例(れい)の疑心(ぎしん)つよく、己(おの)れをたかぶりて、更に信用せず、ある時、重次に云ふ。其方は魔法(まはふ)を得たりと聞く、いか計りのふしぎをかなす。答ふ。幻術さまざまなる内、勝(すぐ)れて過不及(かふきふ)なるをいはゞ、芥子(けし)の中に須彌(しゆみ)を隱し、蒼海(さうかい)を掌(たなごゝろ)に顯(あらは)し、大船を往來(ゆきゝ)させ、灯心を以て盤石を釣り、焰(ほのほ)の中に魚を踊らせ、其の外、夏の雪、冬の螢、春の紅葉(もみぢ)、秋の梅、好みに應じ見すべし、と云ふ。文治、氣早(きはや)き男なれば、彼(か)れ、昨日今日迄、何のあやめも知らぬものゝ、左計り、神通を得べき樣(やう)なし、詮ずる所、斯樣の亂氣者、長命(ながいき)させて恥(はぢ)かましき目を見せんより、我が手にかけて失はんは、此の者が爲め、情(なさけ)なるべし、と、術者に云く。わどのがいふ所、我れ、更に信用する事なし、螢雪梅楓(けいせつばいふう)の外をもとめて益なし。手近き證據を見んには、某、此の匕首(ひしゆ)を持て切付けんに、隱れ遁(のが)るべきや、と、重次、聞きて打笑ひ、愚かのいひ事や、汝が手に及ばゞ、討ちてみよ、と、いふ。討ちおほせたらん跡にて、我が誤ちとならん、支證(ししやう)の一筆、をせよ、と、いへば、又、笑つて、千にひとつもうたれんにこそ支證も入るべけれ、と、あざける。文治、こらへで、言下(ごんか)に引きぬいて切付けたり。正(まさ)しく目の前に座したるが、忽ち、後に立ちて、予は爰に侍り、と、いふに、ふりかへし、後ろを討てば、又、右の座に立ちたり、心得たり、と切付くれば、天井に、ひし、と、とりつきたるさま、ひとへに蜘蛛(ちちう)のごとく、きつさきにて、空(そら)さまを突けば、いや、爰に、とて、疊に臥す、此時より、おなじ形(かたち)のもの、五人、四方に立ち竝びたり、今は爲方(せんかた)なく、草臥れ、さりとも、ふしぎの所爲(わざ)を覺えたり。今は、さみする事なし、と、いふに、いで、さらば、浴室(よくしつ)に入れて、今の疲れを休め申さん、と、いふとひとしく、障子の間より、あつからず、ぬるからぬ湯、蕩々と湧出(わきい)でゝ、座したる首だけにみつる時、又、もとの道より流れ去りて、いづちへ行きけむ、不ㇾ知。此の後、まゝ術を行ひける事、怪しくも、ふしぎの事のみ多かりし、此ののち、都を出でゝ、我れは修行の身となりしかば、彼ものゝ終(をは)る所をしらず。

 

■やぶちゃん注

 今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」のそれを用いた。

・「飯綱(いづな)の法(はう)」管狐(くだぎつね。或いは「イヅナ」「エヅナ」とも呼んだ。後述)と呼ばれる霊的小動物を使役して、託宣や占い、呪(のろ)いなど、さまざまな法術を行った民間の呪術者である「飯綱使い」の法術。飯綱使いの多くは修験系の男であった。「管狐」ウィキの「管狐」より引く。『日本の伝承上における憑き物の一種である。長野県をはじめとする中部地方に伝わっており、東海地方、関東地方南部、東北地方などの一部にも伝承がある』。『関東では千葉県や神奈川県を除いて管狐の伝承は無いが、これは関東がオサキ』(「オサキギツネ」とも呼ぶごく典型的な狐の憑き物。「尾先」「尾裂」「御先狐」「尾崎狐」とも表記呼称する)『の勢力圏だからといわれる』。『名前の通りに竹筒の中に入ってしまうほどの大きさ』、或いは、『マッチ箱くらいの大きさで』七十五匹に『増える動物などと、様々な伝承がある』。この「管狐」自体を『別名、飯綱(いづな)、飯縄権現とも言い、新潟、中部地方、東北地方の霊能者や信州の飯綱使い(いづなつかい)などが持っていて、通力を具え、占術などに使用される。飯綱使いは、飯綱を操作して、予言など善なる宗教活動を行うのと同時に、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪なる活動をすると信じられている』。「管狐」の呼称通り、『狐憑きの一種として語られることもあり、地方によって管狐を有するとされる家は「くだもち」』・「クダ屋」「クダ使い」「くだしょう」と『呼ばれて忌み嫌われた。管狐は個人ではなく』、『家に憑くものとの伝承が多いが、オサキなどは家の主人が意図しなくても勝手に行動するのに対し、管狐の場合は主人の「使う」という意図のもとに管狐が行動することが特徴と考えられている』。『管狐は主人の意思に応じて他家から品物を調達するため、管狐を飼う家は次第に裕福になるといわれるが』、『初めのうちは家が裕福になるものの、管狐は』七十五匹にも『増えるので、やがては食いつぶされて家が衰えるともいわれている』とある。

・「左目牛(さめうじ)」左女牛小路(さめうしこうじ)。サイト「花の都」の「左女牛小路」によれば、現在の通称、上ノ口通(かみのくちどおり)・花屋町通(はなやちょうどおり)・旧花屋町通(きゅうはなやちょうどおり)に相当するとある。名の由来は『六条若宮の邸内にあった「左女牛井(さめがい)」という名水に由来するという』とある。因みにこの六条若宮邸は西洞院大路との交差点の北東角とあり、ここで単に「左目牛」と呼んで位置を示す以上は、由来の地に近いと考えてよく、この「舟や文治」なる男は「舟や」であることからも同小路の東寄り、鴨川の六条河原直近であったと考えてよかろう。位置は同サイトのこちらが分かり易い。同小路が左京(右側)の南端東西の九条大路から北へ十二番目のところに示されてある。このサイト、凄い!

・「利根(りこん)」口が達者で小賢しいこと。

・「惡む」「にくむ」。

・「有得(うとく)」特に室町時代以降、「有福・金持」の意で用いられるようになった語である。

・「高倉楊梅(たかくらやまもゝ)」先のサイト「花の都」によれば、高倉小路(現在の「高倉通」)と楊梅小路(現在の「楊梅通(ようばいどおり)」と「中堂寺通(ちゅうどうじどおり)」)の交差附近の謂いである。前に示した同サイトの地図で確認されたい。高倉小路は左京の東端南北の東京京極大路から西に四番目、楊梅小路は南端東西の九条大路から十四番目。旧六条院の東南角、旧河原院の西近くに当たり、先の左女牛小路とは、間に六条大路を挟むだけで、ごく直近であることも判る。

・「過不及(くわふきふ)」度が過ぎることと及ばないことで、まず「適度でないこと・過不足」の意であるが、そこから転じて、「過不足がない適度な状態であること・丁度良い」の意となり、ここは後者で、この場ですぐに見せ得る術の中で最適なもの、の意。

・「芥子(けし)」小さなケシの実。

・「須彌(しゆみ)」本来は「須彌山(しゆみせん(しゅみせん))」で、仏教の宇宙観に於いてこの世界の中央に聳える山の固有名詞であるが。ここは単に峨々たる高山の意の一般名詞である。

・「盤石」「ばんじやく(ばんじゃく)」と読んでおく。巨大で重い岩の塊。

・「何のあやめも知ぬものゝ」「あやめ」は「文目」で物事の道理・筋道の意。刀研ぎという下賤な分際で何の道理も弁えぬ愚か者が。

・「亂氣者」乱心者。狂人。

・「某」「それがし」。

・「匕首(ひしゆ)」あいくち。鍔の無い短刀。しかし、挿絵のそれは鍔があってしっかり長い太刀であるのは御愛嬌。ドスでは描いても今一つ、さまにならぬ。

・「支證(ししやう)」明白な証拠。具体には、それ(術の実験であって殺意を以って彼を切り殺したのではないことを証明する証文のこと。

・「障子の間(ま)」障子の間(あいだ)の意。

・「我れ」仮託された主人公宗祇の一人称。

こわいもの   梅崎春生

 

 いまではそうでもないが、私は幼ない時分はたいへん憶病で、幽霊だのばけものだのがひどくおそろしかった。夜は便所に一人では行けなかった。

 いまうちの子供たちを見ると、子供の時の私ほどには、幽霊だのばけものだのを、こわがっていないように見える。これはいまの子供が昔の子供より大胆なわけでなく、幽霊をこわがる素地が欠けているからだろう。

 昔はいまとくらべて、電燈も暗かったし、暗闇も多かったし、樹木もいまよりもうっそうと茂っていた。ラジオもなければ、もちろんテレビもなかった。人間もいまよりもずっと少なかった。つまり幽霊やばけものが活躍するチャンスが、いまよりもずっと多かった。

 私があまり憶病なので、私の父が戦争の話をしてくれた。私の父は日露戦争で満州で戦ったのである。

 まっくら闇の中で歩哨に立ったり、あるいは単独で斥候に出されたりした時、何がこわかったと思うか。幽霊だのばけものだのは全然こわくない。万一出て来たとしても、こわいとは決して思わない。こわいのはただひとつ、それは敵なんだよ。敵ほどこわいものはない。

 幽霊より敵がこわいというのは、おやじの実感だったのだろうと思う。

 いまの東京だって、くらがりを歩く時、幽霊なんかをこわがってはいられない。もっともっとおそろしいものが、どの曲り角から飛び出して来るかわからない。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年七月二十五日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠ったが、底本の傍点「ヽ」は太字に代えた。ここで語りの中に登場する梅崎春生の父親梅崎健吉郎は陸軍士官学校十六期出身の歩兵少佐であった昭和六(一九三一)年に定年退職し、麻雀荘を開いたが、恐らくほどなくして脳溢血で倒れ、春生が東京帝国大学学生だった昭和一三(一九三八)年二月、二十三歳の時、父は長らく病床にあったために生じた床ずれから敗血症を起こして死去している。参照した底本別巻の年譜によれば享年五十八とあるから、これが数えならば、父健吉郎の生年は明治一四(一八八一)年となる。日露戦争は明治三七(一九〇四)年二月八日から翌年九月五日までであるから、当時の健吉郎は満二十二から二十四ほどであったと考えられる。]

文士のスタイル   梅崎春生

 

 この間久しぶりに高等学校の級友が集まって同窓会をやった。すると友だちの一人が私に向かって、

「お前、鞄(かばん)なんか持っているのか。中に何が入ってるんだい」

 とふしぎそうに質問した。文士が洋服を着て鞄をさげているのがふしぎでならなかったらしい。

 でも、洋服鞄姿は現代文士の普通のスタイルで、鞄の中には資料とか、メモ風の帳面なんかが入っている。

 髪を長くして和服の着流し、本を二三冊ふところに入れて歩くというのは、昔日の文士のスタイルで、どうしてそんなスタイルをとったかというと、昔の文士が貧乏だったからだと、私は思っている。

 貧乏はしているけれども、ただの貧乏人ではないぞ。おれは芸術にたずさわっているんだぞという、負け惜しみか虚勢か知らないけれども、その気持があのスタイルを産み出した。つまり自分を俗人から区別する方法として、あれが案出されたのである。

 ところがいまの文士たちは、文運隆盛の波に乗り、昔日の如く貧乏ではなくなった。その点において、自分を一般市民から区別する必要がなくなった。だから長髪和服という不便なスタイルはすたれ、活動的な洋服鞄姿となり、サラリーマンなんかとも区別がつかなくなったのである。

 絵かきさんには、まだまだ特有の身なりやスタイルが残っているようだ。すなわち絵かきさんは、文士ほどには、収入に恵まれてないらしい。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年七月十八日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。]

2016/08/17

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   秀句問答

宗祇諸國物語卷五

    秀句問答Syuukumondou

京都に侍りし時、大炊御門信宗(おほひのみかどのぶむね)公の御所に、折々參り侍り。或日、御歌物がたりに、夜更る迄侍りて、其夜は御所にあかしぬ。御内に若侍、多し。中に飯島造酒、草尾杢工丞といふ在り、飯島は武藏の國兒玉黨(こだまたう)が族(やから)也。草尾は御家相傳の侍なりしが、二人ともに歌に志し有りて、當話戯語(たうわげご)をなす。こよひ、祇と襖一重を隔てゝいねたり。ねながらの戯(たは)ふれと聞えて、草尾がいふ。何と、飯島は關東の武(ぶ)、弓矢(きうし)の家に生れながら、いかにや、名字も名も賤しき食物(しよくもつ)をつぎ給ふといへば、答ふ。愚かのいひ事や、世の中の寶(たから)の最上、食類に過ぎず。貴(たと)より賤しき迄、此の樂しみつくる時、命(のち)、更に、むなし。空しくば、萬寶(ばんぱう)、何の益かある、殊に軍場に兵糧(ひやうらう)を以て第一とす。去るによつて昔しより、猛き武士に食類の名をつく人多しと、いへば、こは珍し、うけ給はらん、と、いふ。あらあら語り侍らん、と數ふるこそおかしけれ。まづ、大友の眞がも、藤原の煮方(にかた)、江豚(いるかの)臣、石首魚山丸(いしもちのやままる)、肴上田村丸(さかなうへのたむらまる)、相馬鱒門(さうまのますかど)、米喰俵藤太(こめかみのたはらのとうだ)、多田饅頭(ただまんぢう)、渡部源五鮒(ふな)、肴金時(さかなのきんとき)、薄身貞光(うすみのさだみつ)、浦部椎茸(うらべのひたけ)、八幡鱈尾(はちまんたらを)、鱧次郎(はもじろう)、鱰三郎(しいらさぶらう)、珍膳(ちんぜん)八郎、かまぼこの御曹司、武藏坊辨當(むさしばうべんたう)、源九郎はうはん汁、ひたち坊貝藻(かいさう)、鱸(すゞき)三郎、弟の鰈(かれひ)の六郎、砂糖兄弟、紫蘇冠者義仲(しそのくわんじやよしなか)、紫蘇四天王(しそがしてんなう)に、うま井、干鮻(ひぐち)、蓼(たで)、根芋(ねいも)、煮〆(にしめ)、高梨子(たかなし)、鯛等貞文(たいらのさだぶみ)、粘(あめ)の貞任(さだたう)、畠山(はたけやま)の精心(しやうじん)物重忠(しげたゞ)、鯣鮫(さはらの)十郎、腸義盛(わたのよしもり)、佐々木餅綱(もちつな)同四郎蛸綱(たこつな)、※(えぶな)源八[やぶちゃん字注:「※」=「魚」+「子」。]、岡鮭(おかさけ)四郎、粥板蠣(かゆのいたがき)、鹽漬(しほづけ)になすの與一、其外、熊谷平(くまがやら)山が一の谷のせんじちや、梶原(かぢはら)が二度懸鯛(にどのかけだい)、或は、このしろに籠り、又、魚鱗(ぎよりん)、鶴翼(くわくよく)の備へ、太刀に鯰尾(なまずを)あり、矢に蕪(かぶら)あり、武のすぐれたるを大こんの兵(つはもの)といひ、智謀あるを葡萄(ぶだう)の達者と、ほむ、猶、數ふるに詞(ことば)たへたり、と、いふ。さてさて、いへば、いはるゝ物かな、と笑ふ。飯島の云く。和殿は數代(すだい)御家にあつて文を學(がく)し、和歌に遊ぶ。何ぞゆへなき草木(さうもく)を名字と名とに顯す、歌人は草木に便(たよ)りありや否や、と、とふ。答ふ。見給はずや、古今(こきん)の序に、やまと歌は人の心をたねに蒔きて萬(よろづ)の物の葉とぞなれりける。野の中にある人、言草(ことぐさ)しげき物なれば、蒜(ひる)の事、菊の事につけて、いひ出せる也。花になく鶯菜(うぐひすな)、水にすむ川柳(かはやなぎ)、いづれか歌によまざりける。力をも入れずして、城菖(あやめくさ)を引拔き、目にあぶなき鬼薊(おにあざみ)をも哀れとおもはせ、男(を)松女(め)松の枝をも和(やはら)げ、高き椵(もみ)の木の梢をもなびかするは、歌也。此の歌、赤土(あかつち)のひらきはじめける時よりや、はへ出でけむ。しかありて、世にはびこる事、久かたの雨ふりには、下てるもみぢにはじまり、あら鍬の土をほりては、苣(ちさ)のをの實植(みうゑ)よりぞ、おこりにける。白茅(ちがや)なる神代には、餅(もち)つゝじのねばつきて、苔(こけ)の下道、分けがたかりけらし、人の世となりてぞ、鼠尾草(みそはぎ)のあたり、葱(ひともじ)はよみける。【下略】或は萬葉金葉詞花前栽(しくわのぜんさい)、皆、植物に名づく。又、歌人をいはゞ、橘諸枝(たちっばなのもろえ)、柿本人丸(かきのもとのひとまる)、山邊赤草(やまべのあかぐさ)、猿丸猿(さるまるのさる)すべり、藍(あゐ)の仲丸、在原水葱平(ありはらのなぎひら)、文屋康稗(ぶんやのやすひえ)、樹貫之(きのつらゆき)、棟柑子躬垣(あふちかうじのみつね)、實生忠岑(みばえのたゞみね)、坂上苔則(こけのり)、竹の深藪(ふかやぶ)、木友則(きのとものり)、源下刈(みなもとのしたかり)、清原元菅(もとすげ)、藤原荻風(をぎかぜ)、山椒右大臣(さんしやうのうだいじん)、大納言鷄頭(けいたう)、參義竹村(さんぎたけむら)、茅原(かやはらの)左大臣、平枯森(たひらのかれもり)、源の橡賴(とちより)、大江苣人(ちさと)、春道椿(はるみちのつばき)、參議葱(さんぎひともじ)、定家蔓(ていかかづら)、從(じゆ)二位(ゐ)刈穗(かりほ)、後京極石菖(ごきやうごくせきしやう)、僧には花山遍照(くわざんのへんせう)、草生法師(さうせいはふし)、木仙(きせん)法師、白蓮(びやくれん)、農人(のうにん)、女には小野小松(をのゝこまつ)、泉樒(いづみしきみ)、伊勢が櫻(さくら)、紫(むらさき)が藤(ふじ)、赤染蓬(あかぞめのよもぎ)、蘇枋内侍(すはうのないし)、芹少納言(せいりせうなごん)、大二の山歸來(さんきらい)、議同梔子母(ぎどうさんしのはゝ)、二條院茶木(ちやのき)、或ひは和歌を守りの住吉の神は姫松(ひめまつ)にまじはり、玉津島(たまつしま)の御社(みやしろ)は蘆邊(あしべ)の波にたゝせ給ひ、伊勢の濱荻、三輪の杉、立田(たつた)の紅葉(もみぢ)に、難波の梅、いづれか、植物にあらざる、此外、指を折るにいとまなし、と、わらひて止みぬ。しどけなきたはふれなれど、きゝし當座(たうざ)のをかしさにかき付けぬ。

■やぶちゃん注

 冒頭の一文中の「御所に、折々參り侍り」の「參り」は底本では「來り」となっているが、「御所」なのにおかしい。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)は「参り」となっており、自然に読める。特異的に訂した。同じく後の「定家蔓(ていかかづら)」は底本では「定家(ていか)、蔓(まんまん)」となっているのであるが、これでは一向に洒落になってこない(とわたしは思う)。やはり、「西村本小説全集 上巻」によって特異的に訂した。今一つ、変えた箇所があるが、それは注で述べる。なお、今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」のそれを用いた。

・「大炊御門信宗(おほひのみかどのぶむね)公」大炊御門信宗(明徳二/元中八(一三九一)年~応仁二(一四六八)年?)は公卿。ウィキの「大炊御門信宗」によれば、応永二五(一四一八)年一月従三位となり、公卿に列し、応永二六(一四一九)年三月、陸奥権守を兼任。応永二八(一四二一)年、正三位権中納言、応永三二(一四二五)年、従二位権大納言に叙任される。永享元(一四二九)年、右近衛大将を兼ね、さらに左近衛大将に転じる。永享四(一四三二)年一月正二位に昇り、八月内大臣に任じられたが、十一月には左大将を辞任し、翌年十月には内大臣も辞任している。嘉吉二(一四四二)年一月には従一位に昇叙、享徳二(一四五三)年に『出家したが、その後の消息は明らかでない』。彼は『後土御門天皇の養外祖父であることから』、文明一二(一四八〇)年一月二十六日に『太政大臣を追贈された。『宣胤卿記』によれば、当日は信宗の十三年忌に当たるという』とある。宗祇より二十一年上である。

・「飯島造酒」「西村本小説全集 上巻」に「いひじまみき」とルビ。不詳。

・「草尾杢工丞」「西村本小説全集 上巻」に「くさをもくのぜう」とルビ。不詳。「杢工丞」(木工丞)は土木関連職由来の通称や名で、必ずしも珍しいものではない。

・「兒玉黨(こだまたう)」ウィキの「児玉党」によれば、『平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一つ。主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に入西・秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた』。武蔵一円の同族武士団の集団名数である武蔵七党(諸本で異なり、横山党・猪俣党(いのまた)・児玉党・村山党・野与(のいよ/のよ)党・丹(たん)党・西(にし)党・綴(つづき)党・私市(きさい)党の九党の内)の『一つとして数えられる児玉党は諸々の武士団の中では最大勢力の集団を形成していた。本宗家の家紋(紋章)は、軍配団扇紋であるが、随身・随兵して行くことで諸氏による派生紋・続葉紋が生まれた。その後、時代の流れと共に各地へ散らばってゆく。児玉党をはじめとする武蔵七党の各武士団・諸氏族は蒙古襲来(元寇)に備えるため鎌倉幕府の命により西方遠くは、安芸国・九州(最西は、小代氏の肥後国・野原荘)まで及びその防備につくため下向し土着してゆく』。『氏祖は、藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能が藤原伊周の失脚により武蔵国に下向し、その子息の有道惟行が神流川の中流部にあった阿久原牧を管理し、ここに住して児玉党の祖となった』有道(ありみち)氏である。『子孫の多くは神流川の扇状地に広がって、猪俣党と共に児玉の条里地域を分けていた。牧に発し、子孫が条里地域に広がっている』。『児玉党の本宗家は、初めは児玉氏(平安時代後期から末期)、次に庄氏(平安時代末期から鎌倉時代初期)、そのあとを本庄氏(鎌倉時代前期から室町時代)が継いだ。この』三『氏族の内、庄氏は戦国時代の備中国で華々しい活躍を見せる事となる。また、本庄氏は東国における戦国時代の遠因となった五十子の戦い、つまり、その最前線地に立つ事となった』。『児玉(遠峰)氏は児玉郡の阿久原牧を運営しながら河内庄(河内村)を本拠地としたが、庄氏の時代となると、北方へ移り、児玉庄』『(栗崎村)を本拠地とした。本庄氏は北堀村を拠点としながらも児玉庄を引き継いだと考えられる』。『古い本などでは、児玉党を「武蔵七党中、最大にして最強の武士団」と書いているが、集団の規模が大きかった為に滅びにくかったと言うだけの事であり、負け戦も少なくはない。但し、他の武蔵国の中小武士団と比べれば、長続きしたのも事実である。南北朝以降は弱体化し、党の本宗家たる本庄氏も小田原征伐で没落し、事実上解体している。弱体化の遠因は南朝廷側についた事と、本庄氏の拠点が武蔵国北部の国境付近、台地上であり、戦国時代ではその地理上、激戦区の一つと化してしまった事が挙げられる』とある。

・「當話戯語」当意即妙な戯(ざ)れ言を上手く詠み込むこと。

・「大友の眞がも」大伴家持の「やかもち」を鴨に代えたパロディ。以下、原則、パロディ元を示すにとどめる。中には同定を誤っているものもあると思う。識者の御教授を乞うものである。

・「藤原の煮方(にかた)」藤原鎌足の「かまたり」の「か」「た」をパロッたか。

・「江豚(いるかの)臣」廷臣蘇我入鹿。

・「石首魚山丸(いしもちのやままる)」石上麻呂か。「石首魚(いしもち)」は条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目ニベ科シログチ属シログチ Pennahia argentata、或いは同じニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii を指す。

・「肴上田村丸(さかなうへのたむらまる)」坂上田村麻呂。

・「相馬鱒門(さうまのますかど)」平将門。彼は母の県犬養春枝女(あがたのいぬかいのはるえのむすめ)の出身地相馬御厨(そうまのみくり)で育ったことから「相馬小次郎」とも称したと伝える。

・「米喰俵藤太(こめかみのたはらのとうだ)」藤原俵藤太秀郷。「俵」から「米」に洒落た。

・「多田饅頭(ただまんぢう)」多田源氏の祖源満仲。彼は実際に多田満仲(ただのまんじゅう)とも音で呼ばれる。

・「渡部源五鮒(ふな)」源頼光四天王の筆頭渡辺綱。

・「肴金時(さかなのきんとき)」頼光四天王の一人、坂田金時。

・「薄身貞光(うすみのさだみつ)」頼光四天王の一人、碓井(うすい)貞光。「薄身」は鯛や鮭の脇腹の薄い身の部分を指す。通人はここを美味とする。

・「浦部椎茸(うらべのひたけ)」頼光四天王の一人、卜部季武(うらべのすえたけ)。

・「八幡鱈尾(はちまんたらを)」源八幡太郎義家。

・「鱧次郎(はもじろう)」源義綱。義家の同腹の弟。京都の賀茂神社で元服したことから「賀茂次郎」と称した。

・「鱰三郎(しいらさぶらう)」源義綱のやはり同腹の弟源新羅三郎義光。通称は近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことに由来する。

・「珍膳(ちんぜん)八郎」源鎮西八郎為朝。

・「かまぼこの御曹司」鎌倉の御曹司で源頼朝か。しかし、彼を「鎌倉の御曹司」とは逆立ちしても呼ばないが。

・「武藏坊辨當(むさしばうべんたう)」武蔵坊弁慶。

・「源九郎はうはん汁」源九郎判官義経。「判官(ほうがん)」に「芳飯(ほうはん)」を掛けた。芳飯は室町から戦国にかけて流行した飯料理の一つ。ウィキの「芳飯によれば、『飯の上に野菜や魚を刻んで乗せ、その上から味噌汁を注いで食べたもの』、或いは『具材をそれぞれの持ち味に合せた下味で煮て飯に乗せ、夏には冷した汁、冬には温めた汁をかけたとも』、『煮たり焼いたりした野菜や魚を飯に乗せて汁をかけたともいう』。『食べやすい上に見た目も綺麗なことから人気を博し、特に上流階級で流行した』。『室町期に僧たちが食べ始めた「法飯」が起源とされ』、『僧たちの間では精進料理として肉類を用いず』に『野菜のみを具として食べられていた』。『また、中国にはスープを飯にかける』「泡飯」という料理があり、『日本の室町期にあたる時代から食べられていたため、日本の芳飯は中国から伝来したものとも考えられている』。『後世のちらし寿司』や丼(どんぶり)物、『茶漬けの原型になったとも見られている』とある。

・「ひたち坊貝藻(かいさう)」常陸坊海尊。

・「鱸(すゞき)三郎」鈴木三郎重家。義経の忠臣で、衣川の戦いで義経と最期をともにした。

・「弟の鰈(かれひ)の六郎」鈴木重家の弟亀井重清(しげきよ)。同じく衣川で兄とともに自害した。

・「砂糖兄弟」義経郎党の兄佐藤継信(屋島の戦いで討ち死)と、浄瑠璃「狐忠信」で知られる弟佐藤忠信(都落ちする義経に同行するも、宇治の辺りで別行動をとり、京に隠れ潜んでいたが、潜伏先の中御門東洞院を知られて襲撃されて自害した)。

・「紫蘇冠者義仲(しそのくわんじやよしなか)」源木曾冠者義仲。

・「紫蘇四天王(しそがしてんなう)」木曽義仲四天王。

・「うま井」義仲四天王の一人、今井兼平。「美味い」に掛けた。

・「干鮻(ひぐち)」義仲四天王の一人、樋口兼光。先に出した「グチ」、条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目ニベ科シログチ属シログチ
Pennahia argentata
の干物に掛けた。

・「蓼(たで)」義仲四天王の一人、楯親忠(たてちかただ)。

・「根芋(ねいも)」義仲四天王の一人。根井行親(ねのいゆきちか)。

・「煮〆(にしめ)」大江広元の五大孫の兵部丞公広なる人物に始まる西目氏がいるが、これか?

・「高梨子(たかなし)」高梨高信・高梨忠直など、木曾義仲傘下の高梨氏がいるが、建久元(一一九〇)年に頼朝上洛の際の御家人の中には「高梨次郎」の名が見えることから、鎌倉時代も御家人として存続していた(ウィキの「高梨に拠る)。言わずもがな、「梨」の実に掛けたもの。

・「鯛等貞文(たいらのさだぶみ)」平中物語で知られる好色家として知られる歌人平貞文。

・「粘(あめ)の貞任(さだたう)」安倍貞任。

・「畠山(はたけやま)の精心(しやうじん)物重忠(しげたゞ)」畠山重忠。彼の別名「庄司次郎」を「精進」(物:料理)に掛けた。

・「鯣鮫(さはらの)十郎」佐原(さわら)十郎義連(よしつら)。三浦義明の子で三浦氏の本拠相模国衣笠城の東南の佐原(現在の神奈川県横須賀市佐原)に居まっていたことから佐原氏を称した。スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科サワラ族サワラ属サワラ Scomberomorus niphonius に掛けた。

・「腸義盛(わたのよしもり)」和田義盛。

・「佐々木餅綱(もちつな)」後に佐々木高綱を「同」として出しているところからは、後の「承久の乱」で官軍に属して梟首された高綱の兄佐々木広綱(佐々木定綱嫡男)か? しかし「廣(広)」と「餅」では繫がらぬ。不審。

・「同四郎蛸綱(たこつな)」宇治川の梶原景季との先陣争いで知られる佐々木四郎高綱。

・「(えぶな)源八」(「」=「魚」+「子」)海老名源八季貞のことであろう。頼朝の挙兵時には大庭景親に属して敵対したものの、後に許され幕府御家人となっている。根拠地は相模国の高座郡で現在の神奈川県海老名市に当たる。一見、「海老名」でそのままエビで使えばよいと思われるが、それでは洒落にならないのである。

・「岡鮭(おかさけ)四郎」義朝以来の源氏の忠臣岡崎義実。

・「粥板蠣(かゆのいたがき)」平安末期の清和源氏義光流の武将板垣兼信。甲斐源氏武田信義三男。板垣氏の始祖。言わずもがな、「甲斐」を「粥」に掛けた。

・「鹽漬(しほづけ)になすの與一」那須与一。「那須」を「茄子」に読み換え、その塩漬けとしたもの。

・「熊谷平(くまがやひら)山が一の谷のせんじちや」熊谷直実。言わずもがな、彼は寿永三(一一八四)年二月の「一ノ谷」の「戦陣」で、「先陣」を争った同僚の「平山」季重ともども討死しかけ、さらに少年武将「平」敦盛の首を泣く泣く斬っている。個人的には諧謔の度が過ぎる洒落で、ちょっと厭な感じがする。

・「梶原(かぢはら)が二度懸鯛(にどのかけだい)」梶原景時。ウィキの「梶原景時」によれば、一ノ谷の戦いで、当初、景時が源義経の侍大将、土肥実平が源範頼の侍大将になっていたが、これが孰れもそれぞれが全く気が合わず、所属を交替、範頼の大手軍に替わった景時は嫡男景季及び次男景高らと『生田口を守る平知盛と戦い、大いに奮戦して「梶原の二度駆け」と呼ばれる働きをした。合戦は源氏の大勝に終わ』ったとあり、この「二度駆け」を「二度懸鯛」(昔の正月飾り。二尾の鯛の尾を奉書紙で包み、双方の喉を藁繩で繋いだものを竈の上や門松などに掛けたもの)に掛けた。当然、祭祀が終われば、食されたものと思われるから(神人共食は古祭儀の基本)、おかしくない。

・「このしろに籠り」「此(こ)の城に籠り」に新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus に掛けた。

・「魚鱗(ぎよりん)、鶴翼(くわくよく)」本邦に於ける戦闘の陣形を示す語で対称的な陣形である。ウィキの「陣形より引く。「魚鱗(ぎょりん)」は、『中心が前方に張り出し両翼が後退した陣形。「」の形に兵を配する。底辺の中心に大将を配置して、そちらを後ろ側として敵に対する。戦端が狭く遊軍が多くなり、また後方からの奇襲を想定しないため駆動の多い大陸平野の会戦には適さないが、山岳や森林、河川などの地形要素が多い日本では戦国時代によく使われた。全兵力を完全に一枚の密集陣に編集するのではなく、数百人単位の横隊(密集陣)を単位として編集することで、個別の駆動性を維持したまま全体としての堅牢性を確保することから魚燐(うろこ)と呼ばれる』。『多くの兵が散らずに局部の戦闘に参加し、また一陣が壊滅しても次陣がすぐに繰り出せるため消耗戦に強い。一方で横隊を要素とした集合のため、両側面や後方から攻撃を受けると混乱が生じやすく弱い。また包囲されやすく、複数の敵に囲まれた状態のときには用いない。特に敵より少数兵力の場合正面突破に有効である。対陣のさいに前方からの防衛に強いだけでなく、部隊間での情報伝達が比較的容易なので駆動にも適する』。『実戦では、武田信玄が三方ヶ原の戦いに於いてこの陣形で徳川家康と戦闘し、これを討ち破っている。家康は後の関ヶ原の戦いで西軍の鶴翼に魚鱗をもって対峙した』。「鶴翼(かくよく)」とは、『両翼を前方に張り出し、「V」の形を取る陣形。魚鱗の陣と並んで非常によく使われた陣形である。中心に大将を配置し、敵が両翼の間に入ってくると同時にそれを閉じることで包囲・殲滅するのが目的。ただし、敵にとっては中心に守備が少なく大将を攻めやすいため、両翼の部隊が包囲するまで中軍が持ち堪えなくてはならないというリスクも孕んでいる。そこで中央部本陣を厚くし、Y字型に編成する型がある。完勝するか完敗するかの極端な結果になりやすいため、相手より兵数で劣っているときには通常用いられない。こちらの隙も多く、相手が小兵力でも複数の方向から攻めてくる恐れのある場合には不利になる。部隊間の情報伝達が比較的取りにくいため、予定外の状況への柔軟な対応には適さない』。『実戦では、徳川家康が三方ヶ原の戦いにおいてこの陣形で武田信玄と戦闘し、惨敗している。第四次川中島の戦いでは、武田信玄の本隊が別働隊が帰ってくるまでの間、車掛の陣形で襲い掛かる上杉謙信の軍勢を鶴翼の陣形で凌いだ』。

・「鯰尾(なまずを)」鎌倉時代中期の刀鍛冶で、正宗と並ぶ名工とされ、特に短刀作りの名手として知られた田口吉光(あわたぐちよしみつ)の作刀中、彼の特異とした焼き直しの代表格として、小薙刀を磨り上げて脇差に直した名物「鯰尾藤四郎(なまずおとうしろう)」があり、この名はその姿が鯰の尾を連想させるような、「ふくら」(刀の切先のカーブしている部分)がふっくらしている姿が鯰の尾に似ていることに由来するという。豊臣秀頼が好んで差したと伝えられる(以上は主にウィキの「粟田口吉光」に拠った)。

・「蕪(かぶら)」鏑(かぶら)矢。

・「大こんの兵(つはもの)」「大こん」は「大魂」か?

・「葡萄(ぶだう)の達者」武道の達者。

・「數ふるに詞(ことば)たへたり」「たへたり」は「たえたり」(絶えたり)ではあるまいか? 説明する言葉がなくなってしまうほどに多く例はある、と私は読むからである。

・「蒜(ひる)の事、菊の事」対句になっている意味がよく判らぬ。「蒜」は葱・大蒜(にんいく)・野蒜(のびる)など百合の仲間(単子葉植物綱ユリ目ユリ科 Liliaceae)の多年草の古名であるが、これらは食用となり、精もつく代わりに、臭いが強く、下賤の物として気品のある雅びな菊に対称させたものか。

・「鶯菜(うぐひすな)」双子葉植物綱フウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種コマツナ Brassica rapa var. perviridis

・「川柳(かはやなぎ)」双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ヤナギ目ヤナギ科ヤナギ属ネコヤナギ Salix gracilistyla 

・「城菖(あやめくさ)」単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属アヤメ Iris sanguinea 

・「鬼薊(おにあざみ)」双子葉植物綱キク目キク科アザミ属オニアザミ Cirsium borealinipponense

・「椵(もみ)」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科モミ属モミ Abies firma 。「西村本小説全集 上巻」は「樅」となっている。

・「赤土(あかつち)のひらきはじめける時よりや、はへ出でけむ」過去推量の助動詞を用いているところからは、原初、神代の時代の、噴火して積もり積もった赤土から最初の植物が萠え初めた頃のことを語っているものか。

・「あら鍬」荒鍬。農事の初めに最初の土の粗(あら)起こしに使う鍬。

・「苣(ちさ)のをの實植(みうゑ)」キク目キク科アキノノゲシ属チシャ(萵苣・苣) Lactuca sativa はレタスのこと。地中海沿岸・西アジア原産であるが、本邦では古くから栽培されてきた。「をの實」はレタスの実を「麻実/苧実」(をのみ(おのみ)、即ち「麻の実」(バラ目アサ科アサ属 Cannabis の種子)に譬えたものが? 但し、レタスの種子は滴形であるのに対し、麻の実は丸い粒子状で、かなり異なる。識者の御教授を乞う。

・「白茅(ちがや)なる神代」茅(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica )の生い茂っていた神代(かみよ)の昔。

・「餅(もち)つゝじ」ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属モチツツジ Rhododendron macrosepalum ウィキの「モチツツジ」によれば、『花の萼や柄、葉(両面)、若枝、子房、果実に腺毛が多く見られ、そこから分泌される液滴によって粘着性を持つ。野外ではここに多くの昆虫が粘着してとらえられているのが観察される。この腺毛は花にやってくる、花粉媒介に与る以外の昆虫を捕殺して、花を昆虫に食害されるのをふせぐために発達したものらしく、実験的に粘毛を剃ると、花は手ひどく食害される』。『また、ここに捕らえられた昆虫を餌とする昆虫も知られる』とあり、『花柄の粘りが鳥もちなどに似ているとして、名前の由来となっている。また、餅が由来として餅躑躅と書かれる場合もある』とある。

・「鼠尾草(みそはぎ)」フトモモ目ミソハギ科ミソハギ属ミソハギ Lythrum anceps

・「葱(ひともじ)」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ネギ Allium fistulosum 

・「【下略】」は底本原本の割注をかく表現したもの。読者の飽きをしっかりと見据えた原著者の感覚が凄いと私は思う。

・「前栽(ぜんさい)」「千載和歌集」を庭の植え込みの意の「前栽(せんざい)」に掛けた。

・「橘諸枝(たちっばなのもろえ)」橘諸兄。

・「柿本人丸(かきのもとのひとまる)」柿本人麻呂。これは特異的にまんまで捻られていない。

・「山邊赤草(やまべのあかぐさ)」山部赤人。

・「猿丸猿(さるまるのさる)すべり」猿丸太夫。

・「藍(あゐ)の仲丸」阿倍仲麻呂。

・「在原水葱平(ありはらのなぎひら)」在原業平。「水葱」は「菜葱(なぎ)」「みずなぎ」は単子葉植物綱ツユクサ目ミズアオイ科ミズアオイ属ミズアオイ Monochoria korsakowii、或いは同じミズアオイ属のコナギ Monochoria vaginalis var. plantaginea を指す。

・「文屋康稗(ぶんやのやすひえ)」文屋康秀。

・「樹貫之(きのつらゆき)」紀貫之。

・「棟柑子躬垣(あふちかうじのみつね)」凡河内躬恒。ここは「楝」(おういち:ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach の別名)「柑子」(こうじ:バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属コウジ Citrus leiocarpa 或いは近縁の柑橘類の総称)の二種が掛けられてある。

・「實生忠岑(みばえのたゞみね)」壬生忠岑。

・「坂上苔則(こけのり)」坂上是則(これのり)。

・「竹の深藪(ふかやぶ)」清原深養父。

・「木友則(きのとものり)」紀友則。

・「源下刈(みなもとのしたかり)」源順(したごう)。

・「清原元菅(もとすげ)」清原元輔。

・「藤原荻風(をぎかぜ)」藤原興風。

・「山椒右大臣(さんしやうのうだいじん)」「小倉百人一首」の「三条右大臣」の名で知られる藤原定方。

・「大納言鷄頭(けいたう)」大納言公任で藤原公任のこと。

・「參義竹村(さんぎたけむら)」参議小野篁(たかむら)。

・「茅原(かやはらの)左大臣」河原左大臣源融(とおる)。

・「平枯森(たひらのかれもり)」平維盛(これもり)。

・「源の橡賴(とちより)」源俊頼。

・「大江苣人(ちさと)」大江千里。

・「春道椿(はるみちのつばき)」「小倉百人一首」に所収される平安前期の官人で歌人の春道列樹(はるみちのつらき)。

・「參議葱(さんぎひともじ)」「小倉百人一首」に「参議等」の名で所収される平安前期から中期にかけての公家で参議であった歌人源等(みなもとのひとし)。

・「定家蔓(ていかかづら)」藤原定家。リンドウ目キョウチクトウ科キョウチクトウ亜科 Apocyneae 連テイカカズラ属テイカカズラ Trachelospermum asiaticum ウィキの「テイカカズラによれば、『和名は、式子内親王を愛した藤原定家が、死後も彼女を忘れられず、ついに定家葛に生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説(能『定家』)に基づく』とある。

・「從(じゆ)二位(ゐ)刈穗(かりほ)」この「從二位」は実は底本では「從(じゆ)一位」となっているのであるが、どうもこれでは人物同定出来なかった。「西村本小説全集 上巻」を見ると、ここは「従二位(しうにゐ)」となっており、これで眼から鱗であった。これは「小倉百人一首」に「従二位家隆」の名で所収される鎌倉初期の公卿で歌人の藤原家隆のことで、この名「家隆」は有職(ゆうそく)読みでは「かりう(かりゅう)」とも呼ばれるのである。而して、特異的に本文を訂した。

・「後京極石菖(ごきやうごくせきしやう)」「小倉百人一首」に「後京極摂政前太政大臣」の名で所収される九条良経。

・「花山遍照(くわざんのへんせう)」僧正遍昭。「花山僧正」とも号した。これもまんま(僧名は「遍照」とも書く)で芸がない。

・「草生法師(さうせいはふし)」素性(そせい)法師。

・「木仙(きせん)法師」喜撰法師。

・「白蓮(びやくれん)」寂蓮法師。

・「農人(のうにん)」能因法師。

・「小野小松(をのゝこまつ)」小野小町。

・「泉樒(いづみしきみ)」和泉式部。

・「伊勢が櫻(さくら)」三十六歌仙の伊勢。それに地名の「伊勢」を掛けて、さらに伊勢神宮神領の境界を成す神域に入るための禊(みそぎ)をする神聖な川とされる宮川の、京や東国方面からの入口となる「桜の渡し」(下の渡し)を掛けたものであろう。

・「紫(むらさき)が藤(ふじ)」紫式部と「源氏物語」の「紫」の所縁(ゆかり)の「藤」、源氏の母「藤」壺や、「若紫」(紫の上)なども連想するように仕掛けてもある。

・「赤染蓬(あかぞめのよもぎ)」赤染衛門。キク目キク科キク亜科ヨモギ属 Artemisia indica 変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii は染料(黄色みのある草色)とする。

・「蘇枋内侍(すはうのないし)」周防内侍。「蘇枋」はマメ目マメ科ジャケツイバラ亜科ジャケイツイバラ連 Caesalpinieae ジャケツイバラ属スオウ Caesalpinia sappan

・「芹少納言(せりせうなごん)」清少納言。    

・「大二の山歸來(さんきらい)」「小倉百人一首」に「大弐三位(だいにのさんみ)」の名で所収される藤原賢子(かたいこ/けんし)。藤原宣孝の娘で母は紫式部。「山歸來」は単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属ドブクリョウ Smilax glabra、或いはシオデ属サルトリイバラSmilax chinaを指す。    

・「議同梔子母(ぎどうさんしのはゝ)」「小倉百人一首」に「儀同三司母(ぎどうさんしのはは)」として所収される高階貴子(たかしなのきし/たかこ)。「儀同三司」は息子藤原伊周の官職であった「准大臣」の唐名。「梔子」はリンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシGardenia jasminoides のこと。

・「二條院茶木(ちやのき)」二条院讃岐。

・「和歌を守りの住吉の神は姫松(ひめまつ)にまじはり」現在の大阪府大阪市住吉区住吉にある住吉大社周辺は白砂青松の風光明媚なことから、万葉の時代から歌枕として知られ、平安時代以降は歌道を志しす者が必ず参拝する和歌の神として崇敬されているが、中でも「古今和歌集」の「卷第十七 雜歌上」のよみ人知らずの歌(九〇五番歌)、

 我見ても久しくなりぬ住吉の

     岸の姫松いく代へぬらむ

があり、この歌は現在でも神楽の曲として歌われていると住吉公式サイト内の解説にもあるから、この「まじはり」とは、そうした神が姫松に感応交合し、豊饒とミューズの霊感を産み出すとでもいうのであろうか。

・「玉津島(たまつしま)の御社(みやしろ)」和歌山県和歌山市和歌浦にある玉津島神社(「玉津嶋神社」とも書く)も古来より和歌の神様を祀る神社として尊崇されてきている。

続「乱れ髪」   梅崎春生

 

 九、十の二日第十三期本因坊戦があって、私は観戦記者として観戦した。私は年に一度や二度、こんな大勝負を見る機会があるが、いつ見ても気合がはいっていて、感銘させられる。やはり玄人の勝負は、素人の勝負とちがって、気迫がこもっているものだ。

 玄人のそれが素人とちがって気迫がこもる所以(ゆえん)は、我々の碁だったら勝っても負けても大したことはないが、専門家がもし負けたら、それだけ成績が下り、収入に響いてくることに一因があると思われる。ただ個人の面子(メンツ)だけで負けられぬのではなく、全生活をかけても負けられぬのである。だからひたむきになり、そのひたむきさが私たちの心をうつのだ。

 数日前の憂楽帳欄で、阪本勝氏が「乱れ髪」の中で「あの乱れ髪に象徴される勝負のきびしさが、大衆の心をかき立てるのだ」と書き、つづいて政治家の堕落を嘆いているが、収入に響くという点からしても、髪を乱しても勝負には勝たねばならぬ。

 ところが政治家の場合は、良い政治をしていては、大した収入にならぬ。膨大な収入を得るためには、どうしても悪い政治をやらねばならない仕組みに、いまの社会はなっている。だからいまの政府は、国民の嘆きを無視して、悪い政治を強行しようとしているのである。彼らが乱れ髪になるのは、選挙の時だけだ。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年七月十一日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。底本の解題に、この『続「乱れ髪」』というだについて、これは『同じコラム欄の七月七日号に阪本勝が「乱れ髪」のタイトルで執筆したのを踏まえて〈続〉としてもの』である旨の注記がある。『数日前の憂楽帳欄で、阪本勝氏が「乱れ髪」の中で「あの乱れ髪に象徴される勝負のきびしさが、大衆の心をかき立てるのだ」』と梅崎春生は述べているだけであるが、「乱れ髪に象徴される勝負のきびしさが、大衆の心をかき立てる」という下りは囲碁将棋の対戦とは読める。「数日前」とあるから、ここで梅崎春生が述べている「第十三期本因坊戦」ではないと思われるが、或いは直近に行われる予定の「第十三期本因坊戦」に絡めて囲碁の対戦の真剣勝負を阪本は語った者かも知れない。当該の阪本記事を御存じの方は、お教え願えれば幸いである。

「第十三期本因坊戦」は本因坊高川格と挑戦者杉内雅男戦。予想は五分五分と言われたが、二勝四敗で杉内が敗れている。しかし参照したウィキの「杉内雅男」によれば、勝者『高川は後に、この時が本因坊』九『連覇中の最大の危機と述べた』という。

「阪本勝」(まさる 明治三二(一八九九)年~昭和五〇(一九七五)年)は戯曲作家で政治家。衆議院議員を一期、兵庫県知事を二期、務めている。ウィキの「阪本勝」によれば、『兵庫県川辺郡尼崎町(現在の尼崎市)で眼科医の家に生まれる。家は尼崎藩の藩医の家柄であった。北野中学校・第二高等学校を経て』、大正一一(一九二二)年に『東京帝国大学経済学部を卒業、学生時代は新人会(前期新人会)に属した。北野中学時代の同級生には、後に洋画家となった佐伯祐三がいた』。『卒業後は福島県立福島中学校の英語教諭や大阪毎日新聞学芸部記者などを務めたが、水平社運動との関わりなどで』大正一五(一九二六)年三月に『大阪毎日新聞を辞し』、翌年には『関西学院大学の講師となった』。また、『同年に賀川豊彦、河上丈太郎らの勧めで兵庫県議会議員選挙に日本労農党から出馬して当選』(一期目は神戸市、二期目以後は尼崎市)、『県議会議員活動の傍ら、社民系の政治団体「社会思想社」に所属して『洛陽飢ゆ』や『戯曲資本論』などを発表し、プロレタリア文学や唯物史観評論の分野で活躍した。しかし』、三期目の『当選直後に選挙違反の疑いを受けて失格とされ、以後は実家の病院を経営しながら』、『作家活動に入』った。昭和一五(一九四〇)年に『元兵庫県知事の湯沢三千男が理事長を務める大日本産業報国会に招かれて文化部長に就任、続いて湯沢が内務大臣のもとで行われた』昭和一七(一九四二)年の第二十一回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)では『大政翼賛会推薦候補として兵庫県』第二区『から立候補し、当選した。同年には『新世界観の構想』を著し、次第にファシズム・浪漫主義への接近を見せ』た。敗『戦後は神戸市から招かれて民生局長となるが』、昭和二一(一九四六)年に『公職追放処分を受け』ている。追放解除後の昭和二六(一九五一)年には『日本社会党公認で尼崎市長選挙に出馬し、現職で保守系の六島誠之助が有利とされた下馬評を覆して当選する』。『当選後は市長室の扉を施錠せず』、『市民に開放したのを皮切りに、尼崎港沖の防潮堤建設指揮や当時不十分であった労働保険・市民保険制度の導入、尼崎競艇場の誘致、ハエ・カ撲滅運動などを行った』。昭和二九(一九五四)年、『兵庫県庁では岸田幸雄知事と吉川覚前副知事の政争に端を発する混乱が尾を引き、年内にも出直し選挙が行われる公算が強まっていた。社会党は左派・右派統一推薦候補として阪本に知事選挙への出馬を要請し、保守分裂で岸田・吉川の両陣営が疲弊した間隙を衝く形で両名に大差を付けて当選する』。『知事在任中は、瀬戸内海沿岸地域に比べて発展が遅れていた内陸部や北部の振興に尽力し「文人知事」として親しまれた。昭和三三(一九五八)年の『知事選挙で再選された後は「県営ギャンブル全廃」を掲げて神戸と明石の競輪場を廃止する方針を表明し、跡地はそれぞれ御崎公園球技場(神戸ウイングスタジアム)および県立明石公園球技場兼自転車競技場となっている』(ここに出る彼の記事は、その知事在任中の執筆ということになる)。昭和三七(一九六二)年、二期目の任期満了に際して、「知事は三期以上務めるべきではない」として出馬しなかったが、翌年四月の統一地方選挙においては『東京都知事選挙に革新統一候補として立候補したが、自民党が推薦する現職の東龍太郎に敗れて落選し』ている。]

切手集め   梅崎春生

 

 近ごろうちの娘と息子が、切手の収集にこり出した。別段それでもうけようとの気持ではないらしく、友だちが集めているから自分も集めたいという単純な動機のようで、間もなく熱がさめるだろうと思うが、切手を買ってくれ買ってくれと、毎日うるさいことだ。

 私は昔から、物を散ずる趣味はあっても、集める趣味は一度も持ったことがない。だから、集める人の気持がよくわからない。

 世界中に数が限定されているもの、たとえば埴輪とか印籠とか、今後生産される可能性のないもの、それらを集めたいというのなら、ぼんやりとわかる。究極は一堂に集められるという限界があるからだ。

 切手集めも、古切手集めにはその一面があるが、切手であれば何でも集めようというのは、私には解せない。つまり切手なんてものは、過去から将来にわたって、ほとんど無限の数と種類にわたって生産されてゆく。無限のものの一部分を集めたって、それは無意味である。集める人の気が知れぬ。

 こけし人形を集めてやに下っている人があるが、あれなんかどういうつもりだろう。こけしなんて、芸術的価値は零だし、観光地、温泉場があれば、そこで必ず生産されているんだから、集めても集めても果てしがないだろう。

 そんな徒労をあえてするというのも、その人の精神が頽廃しているせいだろう。うちの子供たちも、早くあきてくれるといいが。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年六月二十七日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。]

クツの付属物   梅崎春生

 

 大体どんな商売でも、取引きが成立するまでに、その商売人と客との間に、どういう形でかの会話をともなう。たばこ屋に行けば、何というたばこを何個、肉屋に行けば、何肉を何グラム、と客がいい、毎度ありがとうございます、と物が渡される。

 ところが会話の不必要な商売もある。たとえばふろ屋。湯銭をぽんと番台に置けば、自動的に入湯の権利が得られるから、会話の必要がない。地下鉄の切符売りも、大体会話はいらない。

 街角の靴みがきもそうだ。台に靴を乗せることが、みがいてくれという意志表示である。だから靴みがきは、黙ってせっせとみがく。みがき終れば、みがき代はきまっているから「いかほど」なんて客も聞かない。黙って渡すだけだ。わずかな金だから靴みがきも、毎度ありい、なんていわない。

 ある靴みがき屋さんに聞いた話だが、長年靴みがきをやっていると、本来なら足に靴が付属しているのだが、それが逆に見えてくるという。つまり靴が本体で、足はその付属物で、台の上の靴が動かないようにつめ物の役目を果たしているだけだ、と見えてくるらしいのである。足が付属物だから、その足につながる胴体や頭も靴の付属品で、すなわち人間全部が靴の付録ということらしい。

 商売商売によって、人間の見方、評価のしかたが違うもんだと、私は感心した。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年六月二十日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。]

人口が半減すれば   梅崎春生

 

 この狭い国土に、四つの小さい島に、一億近くの人間がひしめいている。いくらなんでも一億とは多過ぎる。せめてこれが半分の五千万なら、風通しもよくなるし、各自の所得もふえて、暮しよくなるだろう。とある人に語ったら、その人がいった。

「暮しよくなるかねえ。たとえば君の場合で考えてみよう。人口が半分になれば、雑誌の発行部数も半分になる。五十万の雑誌は二十五万に、十万のは五万となる。すると原価計算の関係で、君の稿料もそれに応じて減らされる。それから単行本を出すとして、君の本がいま一万出ているとすれば、当然それは五千部しか出ないことになり、したがって印税収入も半分になる。人口が半分になれば、映画産業も縮小される。縮小されれば、まっさきに買いたたかれるのは原作料だ。あらゆる点において、君の収入は減って、大体いまの半分以下になってしまう。

 いま君は飲むや飲まず(お酒)の生活をしているそうだが、人口が半分になれば、親子四人、本当に食うや食わずの生活に追い込まれてしまうよ。

 それでいいかね?」

 それは困る。食うや食わずの生活はしたくない。

 したくないけれども、この狭い国土に一億人とは、どう考えてみても、多過ぎるような気がする。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年六月十三日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。なお、この昭和三十三年当時の日本の総人口は九千百七十六万七千人、内、男性は四千五百七万八千人、女性は四千六百六十八万九千人であった。]

PTA会長   梅崎春生

 

 娘がかよっている小学校のPTAの会長に、こんど私はなった。厭だ御免だと、ずいぶん辞退したのだが、総会の選挙できまったことだし、そのためにも一度総会を開くのは、不可能だという。とうとう押しつけられてしまった。

 数日前の読売新聞に、伊藤整が次のようなことを書いていた。文士が良識人の代表のように見られている風潮が現在あるが、これは危険なことである。小説家は良識人にはなり得ない。いわゆる健全な常識に従ってものを考えるという気持は、全く私にはない。うんぬん。

 この伊藤説に私は大賛成で、私も健全な常識でものを考えたり、ことを運営したりする気持は全然ない。そういう気持を持ち始める時から、自分が小説家でなくなることを、私はよく知っている。だから厭だ御免だと、ずいぶん頑張ったのだ。

 ある人の話によると、PTA会長を何年かやって、それから区会議員に立候補するとそのPTAの票だけで、大体当選するものだそうである。お前は区議に立つ気持はなかろうから、それで選ばれたのではないか、とのことだったが、それでは私の役目はまるで防波堤みたいなものか。

 しかし実際ことにたずさわってみると、気骨は折れるし、時間は取られるし、しかも無報酬と来ている。どうにも得な仕事ではない。利用できるのは、気に染まぬ原稿を頼まれた時、PTAの仕事がうんぬんと逃口上ができるという点だけである。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年六月六日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

 底本では以下、「あまり勉強するな」まで、「憂楽帳」という総標題パートにあるが(当時の毎日新聞東京本社があった「有楽町」に掛けているものと思う)、この「憂楽帳」とは『毎日新聞』のコラム欄の標題である(以下、この注は略す)。

「伊藤整」因みに言わせて貰うと、伊藤はこの年に東京工業大学の英語専任講師から同大教授に昇進している。凡百の良識人然とした大学の「先生」などというのは私の仮の姿で、良識人ではない小説家や芸術家こそが本職であり本地(ほんじ)だ、などと宣うとしても、こりゃ、通用しない。敢然とそう主張するなら、彼は大学教師を蹴って辞めるべきであろう。一般人が小説家で大学の「先生」というのを見たら、伊藤の職業は何だと問われれば、後者を採る(私でさえそうである)。そうして職業としての大学の「先生」は良識人と思われても、これ、仕方がない。盗撮や猥褻や違法薬物使用で逮捕される大学教授のいる昨今でさえそうなのだから、この伊藤の謂いは全く通らない。その点、専業作家で、その作風の奇異さが際立ち、アルコール依存症っぽくて肝臓もやられてる三拍子揃った春生「先生」なら、私は「非『良識人』」(くれぐれも「反『良識人』」ではないので注意)と認定することに躊躇しない。]

M式二十一箇条   梅崎春生

 

 昨年のいつごろであったか「楢山節考」の評判が高かったころ、某雑誌社のA君がやってきて、M氏の話を聞かせてくれた。以下はA君の話であるが、M氏とは深沢七郎氏の師匠にも当る人で、深沢氏という作家をつくった産みの親とでもいった人物だ。

 M氏はまず深沢氏(しろうと時代の)を訓練するに当って、まず本を読むことを厳禁したそうである。つづいてM式二十一箇条という規則があって、これを徹底的に守らせた。守らないとなぐる。そういう訓練に耐えて、やっと作家深沢氏が誕生し、M氏の信念や方法は見事に成功をおさめた。

 昨年は深沢氏を生んだが、M氏は同じ方法をもって、ことしはストリッパー作家、明年はオー・ヘンリイ型の短篇作家、明後年は劇作家を一人、文壇に送り込む予定だというのが、A君の説明であった。明後年までのスケジュールが組んであるとは、おどろいた。

 私はその時、ほんとかいなという気持がしたが、案外ほんとなのかもしれない。昔日の師弟関係、文壇の徒弟制度は、紅葉、鏡花のように、師匠の家の掃除や水くみ、時には代作などして、その修業の後文壇に出たが、これはまことに前近代的方法で、現代ではもっと合理的修業があるはずである。つまり白井選手を育てたカーン博士のようなやり方で、文壇の旗手を育てる手があるだろう。M氏のことがほんととすれば、さしずめそれに当る。M式二十一箇条というのを、私は知りたい。

 つまり二十一箇条訓練で、作家が産出されるほど、現在の小説は質的変化をとげている、ということにもなるか。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年一月二十日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「昨年」の後には「(昭和三十二年)」というポイント落ち割注が挿入されているが、これは底本編者が入れたものと断じ、除去した。これを以って底本の随筆群「宇宙線」は終わっている。

「楢山節考」は深沢七郎(大正三(一九一四)年~昭和六二(一九八七)年:山梨県東八代郡石和町(現在の笛吹市石和町)生まれ。勘違いするといけないので言っておくと、梅崎より一つ年上である)が、この二年前の昭和三一(一九五六)年に「第一回中央公論新人賞」に応募し、美事、受賞作となった作品。三島由紀夫らが絶賛、ベストセラーとなった。これ以前の深沢は昭和二九(一九五四)年以降、「桃原青二(ももはらせいじ)」の芸名で日劇ミュージックホールに出演していた(後の「M氏」の注も参照)。

「某雑誌社のA君」不詳。

「M氏」作家で演出家の丸尾長顕(まるおちょうけん 明治三四(一九〇一)年~昭和六一(一九八六)年)。大阪府生まれ。本名は一ノ木長顕(ながあき)。ウィキの「丸尾長顕によれば、『関西学院高等商業学校卒。宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の文芸部に所属し、同歌劇団機関誌「歌劇」の編集長も務めた』。昭和三(一九二八)年に「小説芦屋夫人」が『週刊朝日』の『懸賞に当選、作家と舞台演出家をともに行う』。昭和二六(一九五一)年には『日劇ミュージックホールのプロデューサーとなり、踊り子を養成し、ヌードショーを名物にし、芸術的なものにした』とある。彼が深沢の師匠であったというのは、Yumenonokoriga氏のブログ「夢の残り香~日劇ミュージックホールの文学誌」の「久里洋二が見た丸尾長顕と深沢七郎」に拠った(因みに丸尾は谷崎潤一郎に師事していたらしい)。この前後記事(丸尾と深沢の師弟絶縁に至る記事)も非常に興味深い。必見!(言っておくと私は「楢山節考」と「風流夢譚」は評価するが、深沢七郎という「人間」は正直、生理的に嫌いである)。]

人の師表   梅崎春生

 

 この間人手がなくて、犬の散歩がおこたり勝ちになり、運動不足のやつれが目立ってきた。そこで夕方犬を放し、朝回収するという方法を取ったところ、ある晩私の留守中に、抗議の電話がかかってきた。お前んとこの犬が毎晩うちの庭で騒いで、やかましくて眠れぬ。放してはいけない規則になっているのに、どうして放犬するのか。名前をあかさない匿名(とくめい)の電話だ。

 そこで家人は平あやまりにあやまって、以後つつしむ旨を約すると、大体お前さんのような家は、近所の模範となり、師表に立たねばならぬ家だ、以後注意しなさい、ということで電話が切れたそうだ。

 帰来その報告を受け、私も恐縮したが、しかしちょっと不審に思った。犬を放したことは当方が重々悪いが、わが家が近所の模範にならねばならぬというのは、ちょっとおかしいのではないか。

 これが学校の先生とか警察官とか裁判官とか、他人を教育したり悪人をつかまえたり裁いたりする人の家なら、近辺の模範となり師表にも立つべきだろうが(これにも異論がある)一介の小説書きにそれを要求するとは、どういう考え方なんだろう。ことに私なんかは、人の師表に立ちたくないし、立てるような人柄でもない。ずっと以前は、新聞記者だの文士だのは、やくざな職業の代表みたいに見られて、大家さんから家も貸してもらえなかった。今では師表に立たねばならぬ。文運隆盛か、衰退か。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年一月十七日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「師表」先んじる師として、人の手本・模範となること、或いはそういう人物。

「夕方犬を放し、朝回収するという方法を取った」私が小学二年生の昭和三九(一九六四)年頃、「エル」という雑種の雄の柴犬を飼っていたが、やはり、そうしていた。私の家は藤沢市と鎌倉市の市境にあるが、何時も家に牛乳を配達してくれていた人の話では、三キロほど離れた大船の町まで支配を広げ、野良犬を従えてはまず地域のボスとなり、川向うの野犬の群れをもコテンパンにやっつけて、遂には大船全域の夜の帝王の地位にまで登っていたらしい。家では人に嚙みついくこともなく、吠えもしない静かな犬だったのだが。その話を聴いた時、東京からの転校生として毎日のように学校でいじめられていた貧弱な私は、心の中で快哉を叫んでいたことを今、告白する。

「帰来」「きらい」通常は名詞であるが、ここは副詞で「返ったところで(~する)」の意。]

推理小説   梅崎春生

 

 雑誌「宝石」が江戸川乱歩編集になって以来、毎号一人か二人かの文学畑の作家に、推理小説を書かせた。結果はどうであったかというと、雑誌評なんかではあまり好評でなかった。純文学の方では専門家でも、推理小説では素人だ。素人はやっぱりだめだ。乱歩編集長も道楽はもうやめた方がいい、というような批評が多かった。

 私も書いて不評だった一人であるが、なぜ私が書けといわれたかというと、私が推理小説好きだということになっていたからだろう。江戸川乱歩編集長が編集員を帯同、威風堂々とわが家に来訪、執筆を慫慂(しょうよう)した。乱歩先生じきじきの慫慂では、断るわけにはいかない。

 うちの子供たちなんかは、少年探偵団の団長が来たというので、大喜びであった。

 引き受けてはみたものの、さっぱり自信はない。結局一カ月延ばしてもらって、苦吟して書き上げて送ったが、あまり会心のできではなかった。その反対のできであった。果たして評判も良好でなかった。

 つまり私が推理小説が好きだということは、読むことが好きなのであって、書くことが好きなのではない。好きにも二種類あって、そこを誤解したのである。小説好きにも種類がある。

 おれは犬が好きだ、という場合、愛犬家の意味の犬好きと、犬の肉を食べるのが好きだ、という二種類がある。それとよく似ている。つまり私は愛玩(あいがん)すればよかったのに、ついあやまって肉を食べて、失敗したのである。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年一月十六日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。梅崎春生の推理(風)小説については「南風北風」の「多情多恨」に注したように、昭和三〇(一九五五)年九月号『小説新潮』発表の「十一郎会事件」、昭和三二(一九五七)年一月七日号『週刊新潮』発表の書簡体探偵物「尾行者」辺りがあるが、孰れも初出は『宝石』ではない。ところが、ネット上で調べてみると、彼の小説の中では本格物推理小説と言える「十一郎会事件」は昭和三一(一九五六)年十一月一日発行の『別冊宝石 文芸作家推理小説集』(第九巻八号通巻六十号)にも初出している。書き下ろし出ない以上、これを指しているとは思われない。今一つ、「カタツムリ」という推理小説(沖積舎版全集未収録で私は読んだことがない)が『別冊宝石エロティック・ミステリー 十八集』(第十一巻十号通巻八十二号)に載るが、これは昭和三十三年十二月十五日発行で、本記事後の発表である。不審。]

2016/08/16

甲子夜話卷之二 7 中川氏幷鳥取侯家紋の事

2-7 中川氏鳥取侯家紋の事

中川氏の家紋に、[やぶちゃん注:図Ⅰ。]此ごとき紋あり。彼家には轡くづし、又クルスとも云と聞く。予竊(ひそか)に思ふ、彼先(かのせん)、瀨兵衞の頃は南蠻寺盛に行はれて、瀨兵衞も此宗なりしと云。然ばこの紋は、彼の崇奉する所の十字聖架なるべし。今轡くづしと謂は、忌諱を避るなるべし。又クルスと云もキリスの蠻語轉ぜしにや。一日此ことを松平冠山【因幡鳥取の支侯】に語れば、曰く、吾家に、この紋[やぶちゃん注:図Ⅱ。]を用ること由緒詳ならず。傳る所は天王より拜領せし紋なりと云。世上には祗園守と云なれど、思ふに中川の紋の類にて、恐くは十字ならん。天王の王は主の字なりしも計がたし抔、話りて一咲して止ぬ。又思に兩氏の紋いかにも蠻物の象をなせり。薩の轡紋もやはり十字と見へたり。封内霧島山の絶頂に建る天の逆鉾と云もの、これ亦彼徒の立し十字なるべしと、或人云しは、げにもとぞ思はるれ。

■やぶちゃんの呟き

図Ⅰ

Kutuwqakuzusi

図Ⅱ

Gionmori

 孰れも基礎底本(一九七七年平凡社刊東洋文庫「甲子夜話」)よりトリミングした。

「中川氏」サイト「戦国大名探究」の「中川氏」によれば、多田源氏で清和源氏の酒呑童子退治で知られた源頼光の流れを汲むように系図では見える。

「鳥取侯」「因幡鳥取の支侯」鳥取藩の支藩の藩主。若桜藩(わかさはん:別称「鳥取西館新田藩」)。藩庁は鳥取に置かれた。鳥取藩から蔵米で支給を受けていたため、実際の領地はなく、鳥取藩からの独立性も薄かった。

「轡くづし」「くつわくずし」。「轡」は馬具の一種で、馬の口に噛ませて手綱に繫いで馬を制御する道具。馬の口に入るところを「馬銜」(はみ:「喰」とも書く)と称し、その両端にある板を鏡板(かがみいた:或いは単に「鏡」)というが、鏡板には丸に十文字の形状は普通にある。

「瀨兵衞」「せびやうゑ」と読み、戦国大名中川清秀(天文一一(一五四二)年~天正一一(一五八三)年)の通称。ウィキの「中川清秀によれば、摂津国福井村中河原(現在の大阪府茨木市)に生まれ、『はじめ摂津国人であった池田勝正に仕え、織田信長が上洛してくるとそれに従ったが、後に主家の池田氏で内紛がおこり、勝正が追放され池田知正が当主となると』、一時、信長と敵対、元亀三(一五七二)年、『同じく知正に仕えていた荒木村重と共同して織田方の和田惟政を討ち取り(白井河原の戦い)、戦後はこの戦いで滅んだ茨木氏の居城であった茨木城の城主となった』。『摂津で有力であった和田氏や茨木氏、伊丹氏、池田氏が相次いで衰退・没落すると村重や高山右近と共に摂津にて独立勢力となる。後に信長が村重を摂津の国主に据えると清秀もそれにしたが』い、天正六(一五七八)年に『村重が信長に対して反旗を翻すと(有岡城の戦い)』、初めはともに信長に敵対したものの、『織田軍が大挙して攻めてくると右近と共に降参して家臣となり、逆に村重を攻める側に回った』。天正一〇(一五八二)年に『本能寺の変で信長が横死した後は右近と行動を共にして羽柴秀吉につき、山崎の戦いで大いに活躍した』。翌年の『賤ヶ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦したが、大岩山砦を右近、三好秀次らと守っている時、柴田勝家軍の勇将・佐久間盛政の猛攻に遭って奮戦したものの戦死した』。『家督は長男の秀政が相続、次男の秀成は後に豊後岡藩初代藩主となり、中川家は藩主として幕末まで存続した』とある。前注に示したサイト「戦国大名探究」の「中川氏」には『清秀は熱心なキリシタンとして育ち、幼少から十字架を離さなかったという。その名残りが、中川氏の家紋のちに「中川久留子」』(なかがわクルス)『とよばれるものに伝わっている。こんな話も伝わっている。清秀が同じキリシタン信者である和田惟政を討ち取ったとき、惟政の前立てが、バテ十字と呼ばれる変わった十字紋であった。これが「中川久留子」の原形となった。信仰もさることながら、清秀、武功の紋でもあった』とある。

「然ば」「しからば」。

「忌諱」この場合は本来は禁制の切支丹由来であることを忌み嫌って、隠すためにという謂いである。

「避る」「さくる」。

「松平冠山」鳥取藩支藩若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)のこと。旗本池田政勝次男で冠山は号。第二代藩主池田定賢が享保五(一七二〇)年に五千石の加増を受けて二万石の大名となって、さらに幕府から「松平」姓を許され、柳間詰となった(但し、養子である定常とは直接の血縁はない)。歴代藩主の中では優れた藩主として知られ、藩政改革を行い、文学者としても有名で「柳間の三学者」「文学三侯」とも称された。

・「祗園守」「ぎをんもり」と読み、一般には京都東山にある八坂神社が発行する牛頭天王の護符のこととされる。詳細はサイト「家紋world」の祇園守紋を参照されたいが、そこにはまさにこの条のこの下りが現代語訳で引かれており、こ『の池田氏はキリシタンとして知られた摂津池田氏の一族といい、摂津池田氏は「花形十字紋」を旗印に用いた ことが知られている。加えて、摂津から出たキリシタン大名中川清秀の子孫で豊後竹田藩に封じられた中川氏は、抱き柏紋とともに中川車あるいは轡崩しと呼ばれる家紋を用いている。同紋は、別名中川久留守といわれるように 十字架を象ったものであった。同じく、摂津能勢を領した能勢氏の「矢筈十字」紋は「切竹十字」ともいわれ、クルスを 象ったものという。さらに丹波の戦国大名波多野氏は「出轡(丸に出十字)」を用いたが、これも キリシタンとの関係を秘めたものであろうといわれている』と解説されてある。

「天王の王は主の字なりしも計がたし抔、話りて一咲して止ぬ」「一咲」は「いつせう」で「一笑」のこと、「止ぬ」は「やみぬ」。祇園が祀る神仏は徹底した神仏混淆で、祇園の守護神というのはインドの祇園精舎の守護神とされた牛頭天王(ごずてんのう)であるが、ここは要は、――天王の「王」は実は「主」から一画目の点を取り去って「王」としたに過ぎぬ、元は「天主」(デウス:ヤハゥエ)の「主」の字であったかどうか、さてさて、推定することも難しい、ははは!――と、さっさと、二人きりの戯言として笑って済まさないと、壁に耳あり、禁教由来などと真面目に取沙汰されては大変なことになるからである。

「思に」「おもふに」。

「蠻物の象」「ばんぶつのかたち」。西洋の記号の形象。

「薩の轡紋」薩摩の丸に十の字のくつわ紋。

「封内」薩摩藩領内。

「霧島山」現在の宮崎県と鹿児島県県境付近に広がる火山群の総称で最高峰は韓国岳で標高千七百メートル。日本神話の天孫降臨説話の舞台とされ、高千穂峰の山頂には天孫降臨に際して逆さに突きたてたという「天の逆鉾」(あめのさかほこ)が立てられている。「霧島」が最初に登場する現存文献は「続日本紀」の承和四(八三七)年八月の条である。

「建る」「たつる」。

「彼徒」「かのと」。

「立し」「たてし」。

「げにもとぞ思はるれ」そうかぁ? 私しゃ、そうは思わんが、ね、静山センセ。

譚海 卷之一 江戸鈴ケ森罪所榎事

江戸鈴ケ森罪所榎事

○品川鈴が森にある榎樹(えのき)は、八百屋お七死刑に處せられたる年うえられたりと云(いふ)。又麻布一本松とて其所に年經し松有(あり)しが、安永元年三月目黑大火事にて江戸御城桔梗(ききやう)の御矢倉(おやぐら)をはじめ、深川・淺草・山谷まで燒たる大火に燒失して、今あるは後に植(うゑ)かえたる也。

[やぶちゃん注:本「譚海」は津村淙庵(元文元(一七三六)年?~文化三(一八〇六)年)が安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙って見聞した奇譚を載せたものであるから、ここに出る年代はその辺りを起点に計算されたい。

「鈴ケ森罪所」「品川鈴が森」現在の東京都品川区南大井にあった鈴ヶ森刑場のこと。ウィキの「鈴ヶ森刑場によれば、『江戸時代には、江戸の北の入口(日光街道)沿いに設置されていた小塚原刑場とともに、南の入口(東海道)沿いに設置されていた刑場であった』。『元々この付近は海岸線の近くにあった』一本の『老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現磐井神社)の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったという』。慶安四(一六五一)年に開設され、元禄八(一六九五)年の検地記録によると、間口四十間(約七十四メートル)、奥行九間(十六・二メートル)、であったとする。明治四(一八七一)年に閉鎖されるまで二百二十年の間に十万人から二十万人の『罪人が処刑されたと言われているが、はっきりした記録は残されていない。当時は東京湾沿いにあり、刑場近くの海で水磔による処刑も行われたとの記録も残されている』。『当時の東海道沿いの、江戸の入り口とも言える場所にあるが、刑場設置当時』、『浪人が増加し、それにともない浪人による犯罪件数も急増していたことから、江戸に入る人たち、とくに浪人たちに警告を与える意味でこの場所に設置したのだと考えられている』。『最初の処刑者は江戸時代の反乱事件慶安の変の首謀者のひとり丸橋忠弥であるとされている』。『反乱は密告によって未然に防がれ、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われた際に死んだが、改めて磔刑にされた。その後も、平井権八や天一坊、八百屋お七といった人物がここで処刑された』とある。

「八百屋お七死刑に處せられたる年」八百屋お七は天和三年三月二十八日(一六八三年四月二十四日)処刑されたとされる。但し、参照したウィキの「八百屋お七」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・追加或いは省略した)、『古来よりお七の実説(実話)として「天和笑委集」と馬場文耕の「近世江戸著聞集」があげられ「恋のために放火し火あぶりにされた八百屋の娘」お七が伝えられていたが、実はお七の史実はほとんどわかっていない。歴史資料として戸田茂睡の「御当代記」の天和三年の記録にわずかに「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記録されているだけである。お七の時代の江戸幕府の処罰の記録「御仕置裁許帳」には西鶴の好色五人女が書かれた貞享三年(一六八六年)以前の記録にはお七の名を見つけることができない。お七の年齢も放火の動機も処刑の様子も事実として知る事はできず、それどころかお七の家が八百屋だったのかすらも、それを裏付ける確実な史料はない』。『東京女子大学教授で日本近世文学が専門の矢野公和は、「天和笑委集」や「近世江戸著聞集」を詳しく検討し、これらが誇張や脚色に満ち溢れたものであることを立証している。また、戸田茂睡の「御当代記」のお七の記述も後から書き加えられたものであり、恐らくはあいまいな記憶で書かれたものであろうと矢野は推定し、お七の実在にさえ疑問を呈している』。『しかし、大谷女子大学教授で日本近世文学が専門の高橋圭一は「御当代記」は後から書き入れられた注釈を含め、戸田茂睡自身の筆で書かれ、少なくとも天和三年』に『お七という女が江戸の町で放火した、ということだけは疑わなくてよいとしている。また、お七処刑のわずか数年後、事件の当事者が生きているときに作者不明なれど、江戸で発行された「天和笑委集」と大阪の西鶴が書いた「好色五人女」に、違いはあれど、八百屋の娘お七の恋ゆえの放火、という点で一致しているのは、お七の処刑の直後から東西で広く噂が知られていたのだろうとしている。お七に関する資料の信憑性に懐疑的な江戸災害史研究家の黒木喬も、好色五人女がお七の処刑からわずか三年後に出版されている事から、少なくともお七のモデルになった人物はいるのだろう、としている。もしも、お七のことがまったくの絵空事だったら、事件が実在しないことを知っている人が多くいるはずの、お七の事件からわずか三年後の貞享三年にあれほど同情を集めるはずが無いとしている』とある。「譚海」執筆当時は既に百年前後が経過している計算になる。榎の寿命は凡そ四百年とされる。

「麻布一本松」現在位置や松の由緒(伝承)は宮村霞氏のサイト「麻布細見」の「麻布一本松町」を参照されたい。

「安永元年三月目黑大火事」明和九年二月二十九日(一七七二年四月一日)に目黒行人坂の大円寺(現在の東京都目黒区下目黒一丁目)から放火によって出火した「明和の大火」のこと。この後の同年十一月十六日に後桃園天皇即位の外、本大火を含む多発した火事風水害によって「安永」に改元された。「譚海」の起筆は安永五(一七七七)年である直近の五年前であるから、植え替えほやほやである。

「桔梗(ききやう)の御矢倉(おやぐら)」桔梗門は二重橋の東北直近にあり、「内桜田門」とも呼ばれる。名前の由来は、昔、この門の瓦に江戸城を作った太田道灌の家紋である桔梗紋がついていたことからとも伝える。]

ナサニエル・ホーソン「いわおの顔」について

小学校五年生の時の教科書に載っていたナサニエル・ホーソンの「いわおの顔」を私は忘れることが出来ない。その複数の挿絵まで私は鮮やかに想起出来る。幾つかの訳本を持っているけれども孰れもパブリック・ドメインでない。しかし、国立国会図書館デジタルコレクションの中に村岡花子訳の「巨人岩」を見つけた!(村岡花子は著作権存続であるが、掲載許諾によってここで「全文」を読める!)
 
訳も平易でよい。PDFファイルで一発でダウンロードも可能である。
是非、どうぞ!

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   老栖(らうせい)は古猿(こゑん)の宿り

    老栖(らうせい)は古猿(こゑん)の宿り

 

愛宕(あたご)山に詣でゝ、峯ごしに高雄、栂尾(とがのを)にこゝろざし、行く道の中間より、月の輪、遠からず、と、きけば、柴の翁(おきな)に道をたづねて、觀音の靈場を拜す。かたへに、怪(あや)しの庵室(あんしつ)あつて、いたう年たけたる僧ひとり住めり。とへば、御堂の承仕法師(しようじはふし)、俗に、火ともし、と、いふ者なり。かゝる幽谷の人倫たえたる所に、晝さへあるに、夜なんど、さぞ物すごく、あぢきなき思ひあらん、と、いへば、左も覺え侍らず、わかくより此所に住みて、古來稀れ也といふ此の齡迄、さしてふしぎも見え侍らず、なれぬ程は、鹿、狼(おほかみ)の聲もけうとく、村猿(むらさる)の數千つゞき、狐火(きつねび)の幽(かす)かにともしけつなんど、心よき物にも侍らず、されど、おもひ入りて、佛につかふまつる身を、いかゞ、けだ物も心なくては、と、たのもしく自(みづか)らおもひあがりて年月をふるほどに、中古ののちは、此の獸類(じうるゐ)も馴(な)れしたしみて、己が友とひとしくなつきぬ。我れ、また、かれらが來ぬ時は、松のあらしの物さびて、須磨の浦に時雨(しぐれ)聞く心ち、し侍る。物はなるゝ程こそ、うゐうゐ敷く、是をおもふに、生死出離(しやうじしゆつり)の道、曠劫(くわうごふ)より馴染(なれそ)めて、出がてに、まよひ來ぬるは、理(ことわ)りにこそ侍れ。始め、獸(けだもの)、おそろしく、ねんじ兼たる時、終焉をとらば、中々、世におもひのこす事は有るまじきを、今はこれらの獸さへ、かはゆく覺えて、心苦し、世にある人の財寶にみち、子孫多く、時めくは、いかばかり、と推量られ侍る、と、いふも、すせう也。去る折しも、猿の大きなるが、ふたつつれて、覆盆子(いちご)のうるはしきを一つかね宛(つゝ)持ち來り、庵(いほ)にいらんとせしが、祇のあるを見て、足はやにかへるを、主の法師手うつてよび返すに、いちごをさゝげ、庭をさらず遊ぶ。あるじの云く、見給へ、かくの如く、山野の菓(くだもの)を、かはるがはる持ちはこびて、我れに親しんずるを、と、いふにぞ、實(げ)に往生の期(ご)に思ひや出でん、と迄、苦しがりし理(ことわ)り、と、おもひしりぬ。此の後、あるじ緣(えん)に出でゝ手をうつに、目なれぬ獸類、雲霞(うんか)のごとく、鳥類、又、群りて、梢に羽を休む。此の時、主の僧、一つの猪(ゐのしゝ)に跨(またが)つて、庵(いほ)の外に出でけるが、彷彿と消えて、行きがたなし。只、むすび捨てたる庵計りぞ殘りける。

 

■やぶちゃん注

 底本では末尾に「宗祇諸國物語卷四」とある。

・「愛宕(あたご)山」現在の京都府京都市右京区の北西部、山城国と丹波国の国境にある山で標高九百二十四メートル。信仰の山としても知られる。

・「高雄」京都府京都市右京区梅ヶ畑(うめがはた)にある標高四百二十八メートルの山で、中腹に真言宗高雄山神護寺(じんごじ)があり、ここはその寺を指す。

「栂尾(とがのを)」現在の右京区梅ヶ畑栂尾町にある、明恵の寺として知られる真言宗栂尾山高山寺(こうざんじ/こうさんじ)。

・「月の輪」現在の京都市右京区嵯峨清滝月ノ輪町にある天台宗鎌倉山(かまくらやま/けんそうざん)月輪寺(つきのわでら/がつりんじ)。本尊は阿弥陀如来であるが、十世紀に遡ると考えられている平安中期の古式の木造十一面観音立像の外、平安後期の木造千手観音立像や木造聖観音立像がある。

・「承仕法師(しようじはふし)、俗に、火ともし、と、いふ者なり」仙洞 (せんとう)・摂家・寺院などの雑役を務めた者で僧形 であったが、妻帯は随意であった。単に承仕とも呼ぶ。灯明を守る堂守。

・「古來稀れ也といふ此の齡」「齡」は「よはひ」と訓じておく。杜甫の「曲江」の「人生七十古来稀」に基づく謂いである。

・「けうとく」「氣疎く」で、気味が悪くの意。

・「村猿(むらさる)」群猿。

・「たのもしく」(かえって)頼もしいものにも感じられるように。直には「自(みづか)らおもひあがりて」を修飾していると読む。前の「けだ物も心なくては、と、」を受けると読んでも問題はない。述懐の意味上は同等である。

・「中古ののちは」棲みついてから後、今までの期間の半ば頃には。

・「うゐうゐ敷く」歴史的仮名遣は「うひうひしく」が正しい。(遁世者としてははなはだ)気恥ずかしく。

・「出がてに、まよひ來ぬる」「出がてに」「いでがてに」これは自身のことを指す(「がてに」は本来は「~しにくく・~しかねて」の意の上代語「かてに」(補助動詞「かつ」(~できる・~に堪える)の未然形「かて」+打消の助動詞「ず」の上代の連用形「に」)であったものが、後世、「かてに」の「かて」を「難(がた)し」の語幹と誤認にし、濁音化したものである)。遁世者は須らく厭離穢土の心であるべきでありますが、しかし、やはりこの世の情愛というものからは鮮やかに出離することは難く、このように迷ったままに棲みきたっておることは。

・「ねんじ兼たる時」こらえかねるに至った折りには。「終焉をとらば、中々、世におもひのこす事は有るまじきを」と、さらに「念じ」て我慢して参ったのですが。

・「推量られ」「おしはかられ」。

・「すせう」「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)も同じ。本性の意の「素性」であろうか。しかし、だとすると、歴史的仮名遣は「すしやう」でなくてはならない。識者の御教授を乞う。

・「此の後、あるじ緣(えん)に出でゝ手をうつに、目なれぬ獸類、雲霞(うんか)のごとく、鳥類、又、群りて、梢に羽を休む。此の時、主の僧、一つの猪(ゐのしゝ)に跨(またが)つて、庵(いほ)の外に出でけるが、彷彿と消えて、行きがたなし。只、むすび捨てたる庵計りぞ殘りける」私はこのエンディングが好きだ。上田秋成の「頭巾」や、それをインスパイアした小泉八雲の「鬼」のそれと比した時(孰れも私の電子テクスト。後者は拙和訳。英語原文はこちら)、私は――「喝!」なんどの怪しげな一声によって、悟ったんだか、何だか分らずに、ただの骨の山となるのよりも――この猪に跨って、山中へと消えて行く、生き物たちへの愛敬(あいぎょう)を捨てられずに現世の山野を永遠に彷徨っているこの僧を――確かに――選ぶ。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   敵(かたき)を知らぬ假寐の枕

    不知敵假寐枕(かたきをしらぬかりねのまくら)


Katakisiranukarinenomakura

若狹の國に入りて、靑葉山の邊り、徘徊しけるに。里を遙にはなれ、あやしの草の庵を結びて、おこなふ僧あり。年いとわかう、天性(てんしやう)きよらに、げしうはあらぬ人の發心と見ゆ。立ちより、湯ひとつ給はらん、と、いへば、安き御事、いづこよりいづこへとをり給ふぞ、日もやうやう暮れちかく成りぬ。里も遠く侍れば、是にとまり給ひてんや、と、いふ。こなたより望み侍らんを、嬉しくもの給はせける哉、と、打ちとけて、足を休む。國さとの出所(しゆつしよ)などとはれけるほどに、つゝまずかたりて、扨、御僧は、と發心の始えを尋ねければ、僧の云く、某(それがし)は筑紫(つくし)の者に侍り、弓馬の家に生れながら、襁褓(むつき)の内より父におくれ、母の養育にて成長(ひとゝなり)、七才より出家し、豐後の松浦寺(しようほじ)に入りて學をつとめ、十九歳迄、爰に侍り。其の年の暮、薩州上求寺(じやうぐじ)といふに法會(はふゑ)あり。師の名代(みやうだい)に爰に下りて、ある旅店(りよてん)にやどる。此の屋の主(あるじ)、五十有餘とみえ、せい、あくま高く、筋骨(すじほね)ふとく、眼(まなこ)、よのつねにかはれり、宵のほど、あるじも我もならび寢ながら、世間の物語りして、亭主は寢入れども我、れはしぶ茶を過ぐしたるげに、つやつや目もさえて、夢もむすばず、爰に亭主あはたゞしく、御坊々々、と、いふ。我れ、聞く、寢言(ねごと)の相手して言(もの)いふ時、いひまけたる方、即座に死す、と、言(もの)をもいはず、猶、亭主がねごとをきくに、御坊をこよひ、殺す子細あり、覺悟せよ、と、いふ。此の時にこそ驚き、何の科(とが)あつて我を殺さんといふや、と問ふ。和僧(わそう)が親の津山源吉は、力量といひ剣術弓矢のきり者成りし、豐後にて、某(それがし)と傍輩(ぼうはい)、相互(あひたがひ)に威(ゐ)を諍(あらそ)ふといへど、動(やゝ)もすれば、威勢兵術、我れにすぐれける程に、十九年以前、明神の森にたばかり出し、我が弟子共に心を合せ、手ごめにして討ちぬ。暫らく、人に包むといへど、世にかくれなく、津山が弟子、又、我れをねらふ。是によつて、跡をくらまし、此所にかくれすめども、旦暮(たんぼ)に安き思ひもなし。其の頃に僧は生れたり、と、きけば、根をたち、葉をからんとするに、母が懷(ふところ)に隱して、いづちしらず、落ちかくれぬ。津山が弟子、多くとも他人なれば、さりとも、年月(としつき)過ぐるにしたがつて、遺恨はうすく成るべし。此の子は生長するに隨つて、我れを討んと思はん、眼前に今、敵(かたき)の末(すゑ)を置きて、徒(いたづら)に生けて歸すべきや、と、いふ。我れ、此の事を聞くに定かに覺えたるにも非ず、又、所々、身の上の有りこし事もきこゆれど、詮ずる所、寢言なれば用ふるに不ㇾ足(たらず)、唯、いひまけぬまでよ、と思ひ、おことがいふ所、更に理(り)にあたらず、科(とが)なき津山を殺して、あまつさへ、子孫まで害せんとは、頗る重罪、のがるに所なからん。返答あらば申さ給へ、と、たゝみかけていふに、此の後、一言(ごん)のいひなく、亭主、いたく寢入ると覺えし。われも又、ねぶりきざしければ、打ち寢(ね)ぬ。あくる朝(あした)、あるじを起せば、息絶え空しく成りぬ。此の法師、曲もの也、と一在より詮義すれど、毒害刀杖のわざならねば、卒病(そつうびやう)に糺明(きうめい)して、我れは、のがれぬ。行程、遙ならねば、故郷(ふるさと)母のもとによりて、有りし次第をかたる。母、驚きて云く。天命なるかな。其の者は文月(ふづき)新九郎、和僧が親のかたき也。父源吉といひしを、かの者、非法を以て、うつ、此の恨み、骨髓に透れども、きくならく、仇(あだ)を以て仇を報ゆるは、曠劫(くわうごふ)にも、つきず、と、所詮、敵(かたき)を忘れ、一子に出家をすゝめ、父の菩提をとはせんに、眞實を語らば、和僧も父のかたきよ、と、しつて、害心(がいしん)をおこさん、と父が名も、今迄、隱し、かへ名をして、最後のさまをも病ひに死に給ひぬ、と、かたり置きぬ。今、此の事を聞くにぞ、因果の業報は、のがれぬ事なり、と語られけるにぞ、我れも始めて驚き侍る。倩(つらつら)おもふに、父は人に討たれ、人、また天の爲めに命(めい)をほろぼす、我れ此の跡を吊らはでは、と思ふに、寺院のにぎにぎしき中にては、世事に紛ぎて信(しん)起らず、遁(のが)るにはしかじ、と生國を遠くはなれ、爰にすみ侍り、と、かたり終はる。ぼだいは緣よりおこる、と、いへど、かゝるふしぎなる發心(ほつしん)の因緣は、きかず侍り。

 

■やぶちゃん注

 今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)のそれを用いた。

・「げしうはあらぬ人」身分・才知などが悪くはない、かなり立派なである人物。

・「豐後の松浦寺(しようほじ)」不詳。識者の御教授を乞う。

・「薩州上求寺(じやうぐじ)」不詳。識者の御教授を乞う。

・「寢言(ねごと)の相手して言(もの)いふ時、いひまけたる方、即座に死す」民俗社会では多く、寝言は寝ている本人の霊的存在が語っていると考えた。

・「此の法師、曲もの也」変死した僧の庵にいたこの若き僧を指して一在の村人が言った台詞である。

・「詮義」詮議。

・「曠劫(くわうごふ)」極めて長い年月。

・「吊らはでは」「とむらはでは」。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   連歌、知らぬ國

    連歌不ㇾ知國(れんかしらぬくに)

 

播州印南野(いなみの)を過ぐるに、野中の淸水すみて、久しきもとの心をくみて、古き名所をも、とはまはしけれど、此のわたり、女郎花(をみなへし)のさかり、みごとなるにぞ、數ならねど、世をそむく我がために、あやなく、あだ名のたゝん、と、やすらひかねつ、行きも得ず、誠に別れを惜しむ歌(うた)社(こそ)あれ。

 

   女郎花我れに宿かせいなみのゝ

       いなといふとも爰を過ぎめや

 

爰に久しき行基(ぎやうき)の作とやらん、たとき藥師の像、まします。去んぬる應仁の兵亂に、此の堂も兵火の爲め、燒失しけるを、ちかき頃、再興して、今日、徑移(わたまし)のことぶきとて、連歌(れんか)の百韻を催ふし、一在のしかるべき者ども、集まり、席(せき)ぶり、物々しく居ながれたるが、兼日(けんじつ)の一順(じゆん)もなかりけるにや、當座の發句(ほく)を案ずる折りなりし、祇は、それとも不ㇾ知(しらず)、此の御堂の結構(けつこう)を人にとふに、しかじかといひしほどに、佛、拜まん、と寺前(じぜん)に詣ず、とある一間に座をしめて、文臺、硯、懷紙、いみじく、執筆(しゆひつ)の男、文臺わきに宗匠(そうしやう)とおぼしき法體(ほつたい)、首(かうべ)をかたぶけ、扇(あふぎ)手まさぐりたる、其の中に小賢(こざかし)き男、祇を見付け、御僧は都方の人と見え侍り。連歌など存じならば、休らひながら一順めされよとすゝむ。もとよりすける道さのみいなみもやらず、席にのぞむ。宗匠、祇に向ひしかじかの會(くわい)にて侍れば、わたましの心をこめて發句(ほく)し侍り、旅僧に脇(わき)を賴み侍る、と吟ずるを聞けば、

 

  あたらしく作りたてたる藥師堂かな

 

といひて、會釋もなく、懷紙に書く、祇、是を味はふに、其の時節の季もきこえず、歌の下の句に似て、左にも非ず。發句にてもなけれど、一座のかんじけるほどに、祇もともに稱美するに、旅僧に脇を、と、のぞみけるまゝ、

 

物ひかる露のしら玉

 

と吟じければ、宗匠、聞きて誠に僧は連歌未練(みれん)に侍り、文字ふたつ不足いたし侍る、と、祇、こたへて、いやとよ、我が手習ひしは歌一首を上下にわけ、發句と付句(つけく)とになす、と侍れば、發句、既に二字あまるを此の脇にそへて、

 

  あたらしくつくりたてたる藥師堂

   かな物ひかる露のしら玉

 

と委細に吟し教ふるに、一座、肝をけし、宗匠、おもなげに成りて、名をとふに、白地(あからさま)にもかたらず、猶、此所に滯留して一道を指南しけり。是より、日每の連歌、間(ま)なく、一村、道を得けり。

 

■やぶちゃん注

・「播州印南野」兵庫県南西部に広がる播磨平野東部の「印南野(いなみの/いんなみの)」と呼ぶ、なだらかな段丘台地。明石川・加古川・美囊(みのう)川に囲まれた三角状を成し、東西約二十キロメートル、南北約十五キロメートル。古くは「伊奈美野」「稲日野」とも書いた。播磨町の大中遺跡などの弥生・古墳時代の遺跡が多い。台地の周囲を流れる河川と急崖で隔てられているために水利が悪く、近世初期になってやっと開発が始まった。溜め池が多い(平凡社「世界大百科事典」などに拠る)。

・「行基の作とやらん、たとき藥師の像」ここかどうかは分らないが、これらの条件で合致する現存寺院を調べると、播磨八薬師第一番霊場・明石西国第七番霊場である明石市魚住町西岡清冷山閼伽寺薬師院が候補にはなる。寺伝によれば、天平年間(七二九年~七四九年)に行基がこの地を訪れた際、錫杖を地に突き立てると霊水が湧き出し、その中から薬師如来の尊像が得られたので、帝に奏上、勅命によって創建されたと伝える。

・「徑移(わたまし)」通常は「移徙」「渡座」と漢字表記する。原義は貴人の転居の敬語であるが(神輿の渡御も言う)、ここは再興成って本尊薬師如来を仮の場所から新しい御堂に安置することを指している。

・「ことぶき」「壽(寿)」で慶事・祝事。

・「居ながれたる」「居流れたる」は、多くの人が上席から順に並んで列座する、居並ぶの意。

・「兼日(けんじつ)」「兼日題」の略で、歌会・句会などで、予め出しておく題及びその題で事前に作っておく歌や句。兼題とも言う。「当座」の対語。

・「一順(じゆん)」連歌や俳諧で会席に連なった人々が発句以下順次に一句宛付けて、それが一渡り終わること。このような落慶法要の席の場合、普通は兼日題によって準備されてあって滞りなく済むところである。

・「結構(けつこう)」ここはその寺院の由来や復興の経過、新御堂の善美を尽くした構築の様子やらを問うたのであろう。

・「おもなげ」「面無げ」で恥ずかしくて合わせる顔がない、面目(めんぼく)ない様子の意。

・「是より、日每の連歌、間(ま)なく、一村(そん)、道を得けり」女郎花の儚い美しさに宗祇が思わず去りがてになった「一道」を入った「一村」にて、連歌の心の「一道」を教え、それより村を挙げて連歌に「一心」を傾けるようになり、この「一村」、正統の連歌の「一道」を得たという二部構成になっている。連歌自体はつまらぬものだが、この結構はまことに結構である、と私は思う。

弓流し   梅崎春生

 

 屋島の海戦で、源義経は不覚にも自分の弓を海に落した。すると義経はむきになって、危険をかえりみずして海に飛び込み、それを取り返した。理由は、弓を敵に取られて、義経はあんなに弱い弓を引いていたかと、敵に知られるのがつらかったからである。これは義経の弓流しという有名な故実で、武将の廉恥の標本だというぐあいに私は小学校で教わったが、つまりこれは劣等感のなせるわざで、いまでも人間は劣性をかくすために命がけのことさえやる。私は職業がら時折、短冊や色紙に字を書くことを頼まれるが、そのつど顔をしかめ、どうにかして書かずに済ませる方法を考える。しかしこちらは字を書く商売なので、私は文盲であるとか、字を忘れたとかいう遁辞(とんじ)は通らない。すずりと筆とをつきつけられて、ついやむなく書いたあと、いつも私は義経の弓流しの故事を思い出し、義経公の心境に全く同情共感するのである。幸いにして義経は取り戻せたからよかったが、私の場合、そういうふうにして書かされたのが、何十枚何百枚あるかは知らないが、日本のあちこちに現存して、ああこれが梅崎春生の字か、なんて下手くそな字だろうと、見る人見る人が思うさまを想像すると、身がすくむ。

 歳末なんかになると、助け合い運動色紙の会とか、疾病少年保護の会とか、あちこちの団体から色紙の類が送られてくる。それを展示即売して、救恤(きゅうじゅつ)金にあてようとの趣旨なのだが、その趣旨は賛成でも前述のいきさつで、私は良心をちくちく痛めながら、染筆はすっぽかし、色紙短冊は取り込んだまま、というのが毎年の例になっている。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年一月十五日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「弓流し」「平家物語」の知られた屋島の戦いで那須与一が扇の的を射落とした直後のシークエンス、巻第十一「弓流」が最も知られる。

   *

船の中(うち)より熊手薙鎌(ないがま)を持つて、判官(はうぐわん)の兜(かぶと)の錏(しころ)に、からりからりと打懸け打懸け、二、三度しけれども、御方(みかた)の兵(つはもの)ども、太刀長刀(なぎなた)の鋒(さき)にて、打拂ひ打拂ひ攻め戰ふ。されども、いかがはし給ひたりけん、判官、弓を取り落とされぬ。うつぶし、鞭を以て搔寄(かきよ)せ、取らん取らんとし給へば、御方の兵ども、「只捨てさせ給へ、捨てさせ給へ」と申しけれども、遂に取つて、笑うてぞ歸られける。おとなどもは、皆、爪彈(つまはじ)きをして、「縱(たと)ひ千疋(びき)萬疋に、代へさせ給ふべき御(おん)だらしなりと申すとも、いかでか御命には、代へさせ給ふべきか」と申しければ、判官、「弓の惜しさにも、取らばこそ。義經が弓といはば、二人(ににん)しても張り、若(も)しは三人しても張り、叔父爲朝などが弓の樣ならば、わざとも落といて取らすべし。尫弱(わうじやく)たる弓を、敵(かたき)の取り持つて、これこそ源氏の大將軍(たいしやうぐん)、九郎義經が弓よなど、嘲弄(てうろう)ぜられんが口惜しさに、命(いのち)に代へて取つたるぞかし」と宣へば、皆、又これをぞ感じける。

   *

簡単に語注すると、「薙鎌」は二メートル余の棒の先に鎌を附けた武器(恐らくは海底の海藻や舟に絡まったそれを排除する漁具の転用)。「錏」兜の鉢の眉庇(まびさし)の両端から両頰及び後頸部を蔽う防具部分。「おとな」老武者。「爪彈き」指弾。指を指してあからさまに批判すること。「疋」弓の助数詞。「だらし」接頭語からの連濁で元は「たらし」、その元は「執(と)らし」で「貴人が手にお持ちになるもの」の意で、貴人の持つ弓の意。「叔父爲朝などが弓」「保元物語」によれば弓の達人叔父為朝(源為義八男で義経の父義朝の弟)は身長七尺余(二メートル十センチ)の大男で彼の使った弓は、「五人張り」(通常成人が四人で曲げて一人が弦を張ること)で八尺五寸(約二メートル五十五センチ。普通の実践弓は七尺(二メートル十二センチ)、十五束(そく)の矢(約一メートル十四センチ弱。「束」は「つか」とも読み、矢の長さの単位。「一束」は元は拳(こぶし)一つ分を指し、普通の矢は十二束(九十一センチ弱)であった)を用いたという。弓の鍛錬の余り、左腕が右腕より四寸(約十二センチも長かったとも伝える。「尫弱」つまらなく弱々しいこと・取るに足りないもののことで、ここは小さく、しかも張りの弱い弓のことを言う。

「救恤金」「恤」は「めぐむ」の意で、「救恤」で困っている人に見舞いの金品などを与えて救うことを指し、災害被災者や貧困者などを援助するための義捐(ぎえん)金のこと。]

夏の朝は

蜩は冥界の通奏低音……

キジバトは遠い時代のシュプレヒコール……

三光鳥は道士の唱える仙術の呪文――

2016/08/15

好きな作家   梅崎春生

 

 配達される郵便に混って、毎日一つか二日に一つぐらい、アンケートの葉書がある。往復はがきで、その復の方に答をしたためて返送する仕組みだ。私はたいていそれに答えない。理由は二つある。一つはたいていその質問が答えにくくできている。もう一つは、返事をしても金をくれない(まれにはくれるところもある)からである。

 アンケートでも答えないが、面と向かっての質問で困らさせるのは、好きな作家、尊敬する作家はだれか、という問いだ。

 私には好きな作家はいない。きらいな作家はいる。もちろんその人間でなく、作品がきらいな作家のことだ。これは指を折って、次々に名前を上げることができる。そのきらいな作家をのぞいた残りが、好きな作家とならないか。それはならない。その残りの中で、私が関心を持たない作家がずいぶんいるからだ。関心がないことは、好きということとずいぶん違う。

 では、それをのぞくと、どうなるか。だんだん数は減ってくるが、それらの作家に私は関心を持っている。それも一様の関心ではなくて、関心の強弱がある。

 では、強い関心を持っている作家が、好きな作家といえないか。

 それはいえない。関心と好悪とは別ものである。

 好きな作家はいないぐらいだから、ましていわんや、尊敬する作家なんか、古今東西、一人もいない。尊敬という感情を、物心ついて私はだれにも持ったことはない。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年一月十四日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

 底本では以下、「M式二十一箇条」まで、「宇宙線」という総標題パートにあるが、調べる限り、この「宇宙線」は『毎日新聞』のコラム欄の標題であって彼の附したそれではない(以下、この注は略す)。]

譚海 卷之一 同國最上領山寺の事

同國最上領山寺の事

○同國最上領に山寺と云(いふ)あり。慈覺大師の開基の地にて致景の所也。七夕の夜、ふもの町近在より男女登山し、人家に宿し枕席(ちんせき)を共にす、新舊識をわかたず、大原のざこ寢といへる如し。又此奧最上川の邊にめたくた村といふあり、谷中二三十軒もある村也。この風俗も常に男女の差別なく、往來寄宿する事なり。めたくたは滅他無性(めつたむしやう)になどと云(いふ)詞(ことば)のごとしとぞ。

[やぶちゃん注:「同國最上領山寺」前項を受けて出羽国で、無論、「山寺」は現在の山形県山形市大字山寺にある天台宗宝珠山(ほうじゅさん)立石寺(りっしゃくじ)。古くは「りふしやくじ(りゅうしゃくじ)」と読んだ。

「七夕の夜、ふもの町近在より男女登山し、人家に宿し枕席を共にす、新舊識をわかたず、大原のざこ寢といへる如し」「新舊識をわかたず」老若男女僧俗(「識」は僧の謂いであろう)の区別なく。「大原のざこ寢」山城国の大原(現在の京都府東北部の広域地名)で節分の夜、同地区の江文(えふみ)神社(現在の京都市左京区大原野村町(おおはらのむらちょう)に現存)で男女が枕席をともにする民間習俗があった。同様のものは大和の十津川(現在の奈良県最南端に位置する吉野郡の十津川村)でもあった。底本の竹内利美氏の注に、『七夕の夜に性解放の習俗で、なお各地にその伝承があった』とある。所謂、八朔の祭りなどのように、期日は異なるけれども全国にごく普通に遍在したが、近代以降に悉く禁止されて廃されてしまった。個人ブログ「共同体社会と人類婚姻史」の中山太郎の「日本婚姻史」から~共同婚~☆8☆大原の雑魚寝とは?がよく蒐集されてある。参照されたい。

「めたくた村」不詳。]

甲子夜話卷之二 6 白川侯御補佐のとき狂歌

 

白川老侯御補佐の時は、近代の善政と稱す。何者か作けん、世に一首の歌を唱、

 どこまでもかゆき所に行とゞく

      德ある君の孫の手なれば

此時武家の面々へ、尤文武を勵されければ、太田直次郎【世に呼て寢惚先生と云、狂歌の名を四方の赤良と云へり】といへる御徒士の口ずさみける歌は、

 世の中に蚊ほどうるさきものはなし

      ぶんぶ(文武)といふて夜もねられず

時人もてはやしければ、組頭聞つけ、御時節を憚ざることとて、御徒士頭に申達し、呼出して尋ありければ、答申には、何も所存は無御座候。不斗口ずさみ候迄に候。強て御尋とならば天の命ずる所なるべしと言ければ咲て止けるとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「白川侯」寛政の改革を推進した陸奥白河藩第三代藩主松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政一二(一八二九)年)。第十一代征夷大将軍徳川家斉の、天明七(一七八七)年六月に老中上座、翌年三月、将軍輔佐を兼務。寛政五(一七九三)年七月、将軍輔佐及び老中等御役御免、寛政元(一七八九)年に隠居。

「唱」「うたふ」。

「德ある君の孫」松平定信は御三卿の田安徳川家の初代当主徳川宗武の七男で、第八代将軍徳川吉宗の孫に当たる。

「太田直次郎」「大田」が正しい。天明期を代表する文人で狂歌の名人として知られた御家人大田南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)のこと。彼は勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚でもあった。ウィキの「大田南畝によれば、『名は覃(ふかし)。字は子耕、南畝は号で』『通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別号、蜀山人、玉川漁翁』(たまがわぎょおう)、『石楠齋、杏花園、遠櫻主人』(えんおうしゅじん)、巴人亭(はじんてい)、風鈴山人(ふうれいさんじ)、四方山人(よもさんじん)など多数ある。『山手馬鹿人(やまのてのばかひと)も南畝の別名とする説がある。狂名、四方赤良』(よものあから)。『また狂詩には寝惚(ねぼけ)先生と称した』とある。当時、『商人文化が隆盛を極める一方、農村は飢饉などにもよって疲弊していた』ことから、『これを改めるべく』、天明七(一七八七)年に『寛政の改革が始まると、田沼寄りの幕臣たちは「賄賂政治」の下手人としてことごとく粛清されていき、南畝の経済的支柱であった』田沼政権下に勘定組頭となっていた『土山宗次郎も横領の罪で斬首されてしまう。さらに「処士横断の禁(処士は学があるのに官に仕えず民間にいる者。幕府批判を防ぐための策)」が発せられて風紀に関する取り締まりが厳しくなり』、彼の著作板行を引き受けていた版元の蔦屋重三郎や同僚の浮世絵師で戯作者の山東京伝も『処罰を受けた。幸い南畝には咎めがなかったものの、周囲が断罪されていくなかで風評も絶えなかった。ここに出る政治批判の狂歌の作者と目されたことや、『田沼意次の腹心だった土山宗次郎と親しかったことで目を付けられ』『たという話は有名』。但し、『これを機に、南畝は狂歌の筆を置いてしまい、幕臣としての職務に励みながら、随筆などを執筆するようになった』という。寛政四(一七九二)年、四十六歳の『南畝は「学問吟味登科済」が創設されたのを機にこれを受験し、当時小姓組番士だった遠山景晋とともに甲科及第首席合格となる。世間では狂歌の有名人であった南畝は出世できないと揶揄していた』ものの、及第から二年後の寛政八(一七九六)年には支配勘定(勘定所で実務に当たる勘定奉行配下の役人で「勘定」の下に相当した。職務上、筆算の才能が必要なため、任用に際しては吟味(人事査定)が行なわれた実務中堅職で出世ステップとしては重要ポストであった)に任用されている。

「御徒士」「おかち」。幕府・諸藩とも御目見得以下で騎馬を許されぬ軽輩の武士。

「不斗」「ふと」。不図。

「咲て」「わらひて」。

「止ける」「やみける」。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   嫉妬、夢に怪し

    嫉妬(しつと)夢に怪し


Sitto

袖の時雨、裙(もすそ)の露草、草鞋(さうけい)におもく、檜笠(ひがさ)も風に懶(ものう)けれど、たびの物とて捨てはてぬうき世の、花の都を南に北に、文字(もじ)行く天津雁(あまつかり)の、修學院にかゝるや、我が德に入るの門なるべき、岩倉長谷(いはくらながたに)は左につゞき、向ふにちかきを花園(はなぞの)の里といふにぞ、高野川(たかのがは)のよどに散りかゝるかたみを見んと、水かゞみにのぞめば、老法師(らふはふし)の影のみ、やせの山里、物侘(わび)し、薪負ふ疲馬(ひば)の通ひ、大原は名のみに細道の小坂を過ぎて、途中といふこそ旅の道の殊に旅には有りけれ。つたの葉分けのかづら川、水に朽木(くつぎ)の山里や、螢のやどる火打坂、日も暮かゝれば、爰に泊りぬ。主(あるじ)と見えし健(すこや)に若き男なるが、やもめ住みと見ゆ。名を銀七と呼ぶ。言(もの)いひたるさま、山家(さんが)にはよのつね、利口の者也。是よりわかさの案内(あない)とふに、無覺束(おぼつかなき)此の渡りの寺社、林川(りんせん)の古跡を語るに、又、心さかし、と聞く、梢(やゝ)更行(ふけゆ)くまゝ、あす、と、いひて、ころびねぬ。その夜、ふしぎの夢を見たり。縱(たと)へば渺々たる廣野(ひろの)を行く、一里計り來たらんほどの左、皆、なき人の塚おほく、萩(おぎ)薄(すゝき)、生茂(お)ひ茂りたる中に、古く、新たに、たちならびたる卒都婆(そとば)、數ふるに不ㇾ足(たらず)、指を折るに、いとまなし、古墓何世人不ㇾ知姓與名化成路傍土年々春草生(こぼ いづれの よの ひとぞ せいと なを しるや けして ろばうの つちと なる ねんねん しゆんさう おひたり)と夢心ちに吟じもて行く程に、ある標(しるし)の草村(くさむら)より三十計りの女、蕭々(せうせう)とやつれたるが、白き姿に髮を亂し、かひなき聲して祇を呼ぶ。何事にや、と立歸れば、自(みづか)らは今宵、御僧の宿り給ふ火打坂の銀七が妻にて侍り、恥(はぢ)かはしき姿を見え參らす事、一つの願ひあればなり。其の故は、自(わらは)は銀七が隣家(りんか)に與三治と申す者の娘、銀七とは振分髮(がみ)の昔より、はなれぬ中のかたらひの、みどりと花をならべしに、靑き梢(こずゑ)は常盤(ときは)にて、紫(むらさき)早くうつろひ、外(ほか)に夫(をつと)のかよふなれば、思ひのほむら、胸を燒き、泪の雨は淵をなす。此の數々に病ひつきて、狂ひ死に侍る也。一念、猶、安からず。惡(にく)かりし女は、やすやすと命(めい)を取りぬ。されど、夫(をつと)が活き殘りて、やはか、獨りくらすべき、すぢなき者を迎へさせて、詠(なが)めさせんも口惜し、さりとて、自(みづか)ら行きむかひ殺さんとはかれば、三十番神(ばんじん)、守護し給ひ、枕上にちかづく事、かたし。我れふしぎの毒藥を持つ、此の草を夫が口にふくめて給へ、即時に終る命なり、と泪と共に語る。祇、倩(つらつら)きゝて、恨みのつもり、左もあるべし、去乍ら、かりにも出家は人を助くるを以て慈(じ)の第一とし、殺生を罪の最上と聞くに、と、いへば、女、かいとつて、否(いや)とよ、人を助くる御僧なればこそかくは申せ、此の事なして給はゞ、我が妄執(まうしふ)の雲晴れて、くらき黄泉(よみぢ)を放るゝぞや、然らば、人を助け給ふにてなしや、早(はや)、とく賴み參らする、と、彼(か)の毒草をさし出す、みれば、くずかづらのやうにて、め、なれず。祇、又、答ふ。凡そ女に定まれる失(しつ)あり。子なきを嫌ひ、あしき病ひあるを、さり、嫉妬あるを離別す、其の外、五つの障(さは)りあり、三度したがふ諚(おきて)あり、夫に唱(しやう)あり、婦に和(くわ)あり、一たび夫と崇(あが)めたる者の命(めい)を奪ふ事、何の理によりてか、黄泉(よみぢ)を出づべき、燃ゆる火に薪(たきぎ)、猶、焦熱(せうねつ)の道しるべにこそ、只、すべからく憍悋(けうりん)の根(ね)をたち、恨嫉(こんしつ)の葉を切り給へ、と、いへば、靈女、此の理に伏(ふく)したる體(てい)にて、打ちしをれて言語(ごんご)なし。猶、勸化(くわんげ)になれかし、と一首をよむ、

 

   葛の葉の枯れてはさはぐ秋のかぜ

       いつを限りの恨みなるらん

 

といへば、女、打諾(うちうなづ)き、面色(めんしよく)、殊(こと)にうるはしく見えて、

 

   葛のはのかるれば秋もくれ果てゝ

       さはらぬ野べの風しづか也

 

かく、つらぬる、と覺えし、彷彿ときえ失せ、予(わ)れ、又、亡然(ばうぜん)と夢さめぬ。ふしぎの事に思へば、亭主にこまごまかたるに、大きに驚き、身の上の在りこし有樣、一毛(まう)計りもたがはず、と、いひし。夢も能くあへば、あふ物、と我もおどろきぬ。

 

■やぶちゃん注

 今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)のそれを用いた。

・「岩倉長谷(ながたに)」現在の京都府京都市左京区岩倉長谷町。修学院離宮の北直近。

・「花園(はなぞの)の里」現在の上高野山ノ橋町に花園橋という高野川に架橋する橋の名を見出せる。

・「高野川(たかのがは)」修学院の東直近を南流する淀川水系の川。

・「やせの山里」現在の左京区八瀬野瀬町。先の花園橋を東北に遡上した八瀬比叡山口駅附近。

・「疲馬(ひば)」「西村本小説全集 上巻」では右に「ひば」、「疲」の左「つかれ」と左ルルビする。

・「大原」現在の京都市左京区北東部の比叡山西麓高野川上流部の小規模な盆地地帯の名称。ウィキの「大原(京都市)」によれば、古くは「おはら」と読まれ、「小原」とも表記された。かつては山城国愛宕郡に属し、前注した南隣りの八瀬と併せ、「八瀬大原」とも称された。『平安京(京都)と若狭湾を結ぶ若狭街道の中継地点として栄え、また延暦寺に近かったことから、勝林院・来迎院・三千院・寂光院など多くの天台宗系寺院が建立された』。『また、戦争・政争による京都からの脱出のルートとしても用いられ、出家・隠遁の地としても古くから知られていた。惟喬親王や建礼門院をはじめ、大原三寂(常盤三寂)と称された寂念・寂超・寂然兄弟、藤原顕信・西行・鴨長明などの隠遁の地として』も知られる。『中世以後は薪炭の生産地として知られ、独自のいでたちをした大原女が京都まで薪炭を売り歩き、白川女・桂女と並び称された。後には柴漬や茶、麦粉などの特産でも知られるようになった』。

・「つたの葉分け」「葉分け」は、やはり地名に掛けた表現と読みたいが、現在の地図上では似たような地名は現認出来なかった。

・「かづら川」大原から現在の滋賀県に入ると、大津市内を流れる葛川及び葛川を地名の頭に関する複数の町域に入る。

・「朽木(くつぎ)の山里」葛川地区を更に北へ進むと、現在の滋賀県高島市の朽木(くつき)を冠する複数の地域に入る。

・「火打坂」朽木地区の先を地図で調べたが現認出来ない。ロケ地であるだけに、識者の御教授を乞うものである。

・「古墓何世人不ㇾ知姓與名化成路傍土年々春草生(こぼ いづれの よの ひとぞ せいと なを しるや けして ろばうの つちと なる ねんねん しゆんさう おひたり)」「白氏文集 卷二」「續古詩十首 二」の第九句より末尾からに基づく引用である。

 

古墓何代人 

不知姓與名

化作路傍土

年年春草生

感彼忽自悟

今我何營營

 

 古墓(こぼ) 何れの代の人ぞ

 姓と名とを知らず

 化して路傍の土と作(な)り

 年年 春草(しゆんさう)生ず

 彼を感じて忽ち自ら悟る

 今 我れ 何ぞ營營たる

 

最終句の「營營」は、あくせくしゃかりきになって働くいている(馬鹿さ加減)さまの謂い。

・「標(しるし)」卒塔婆であろう。

・「草村(くさむら)」叢。

・「蕭々(せうせう)と」如何にも物淋しげに。

・「かひなき聲」忌み言葉で生きた者のそれではない、如何にも死者の霊らしい声、の謂いであろう。

・「振分髮(がみ)」髪を左右に分けて垂らし、肩のあたりの長さに切りそろえたもの。辞書類では八歳頃までの男女の髪形の一つとする。

・「みどり」色尽くしで、ここは若さの象徴としての「若葉」「新芽」を含意するか。

・「常盤(ときは)にて」永遠不変の両想いで(あると思っていたところが)という反意を含ませるか。でないと、「紫早くうつろひ、外に夫のかよふなれば」と繋がらぬからである。

・「やはか」副詞で「どうして~であろうか」で、ここは反語。

・「すぢなき者」賤しい不義の女。死しても妬心に燃える女から見れば、男が愛する自分以外の女、須らく「不義の女」である。

・「詠(なが)めさせんも口惜し」男に別な女を鼻の下を長くして見つめさせて、なるものか、口惜しい! という亡者となっても、めらめらと燃え上がる嫉妬の思いを指す。

・「三十番神(ばんじん)」銀七は日蓮宗徒であったか。ウィキの「三十番神」(現行では「さんじゅうばんしん」と清音で読む方が一般的か)によれば、『神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた』三十柱の神々を指す。『最澄(伝教大師)が比叡山に祀ったのが最初とされ、鎌倉時代には盛んに信仰されるようになった。中世以降は特に日蓮宗・法華宗(法華神道)で重視され、法華経守護の神(諸天善神)とされた。これは、京都に日蓮宗を布教しようとした日像が、布教のために比叡山の三十番神を取り入れたためである。また、吉田神道も天台宗・日蓮宗とは別の三十番神として「天地擁護の三十番神」「王城守護の三十番神」「吾国守護の三十番神」などを唱えた。吉田兼倶は三十番神信仰が吉田神道から発すると主張した』とある。鎌倉期以降では私は日蓮宗関連で見ることが圧倒的に多い守護神である。

・「恨みのつもり」「つもり」は「積り」。

・「去乍ら」「さりながら」。

・「かいとつて」「掛き取つて」の音便変化で、「掛く」は「一方を他方にことよせる」で「取る」は「自分の側のものとする」、即ち、宗祇が述べた仏法の真理を捻じ曲げ、自分にとって都合のいいようにことよせて、牽強付会させて、の謂いと私はとる。

・「否(いや)とよ」人の言葉を打ち消す、或いは、相手の言葉に同意しない時に発する感動詞。いいえ、違う!

・「くずかづら」葛(くず:マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ Pueraria lobata の別名。ここには「裏見葛の葉」で、葛の葉が容易に風に裏返って裏を見せるところから古来、「恨み」などに掛かる枕詞であることを意識している。クズ属や近縁種及び似たような蔓性の別種で、死に至る強毒を有するものは、私は不学にして知らない。

・「め、なれず」見慣れない。どこか、葛らしくない部分を持っているからこそ宗祇もかく言うのであろう。とすれば、やはり全くの別種か。

・「女に定まれる失(しつ)」女たる存在が宿命的に背負っているところの現実的欠陥と見做されてしまうもの。「子なき」女(子を産めない石女(うまずめ))は「嫌」はれ、「あしき病ひある」女や「嫉妬」心の過剰な女は「離別」される運命にあり、これらは致し方ない、ある種の女の致命的欠陥属性であると言うのであろう。

・「五つの障(さは)り」これは仏語の「五障(ごしょう)」で女性が「女」であるという因縁として持たざるを得ない五種の妨げ。女性は如何に信心堅固であっても、女のままでは梵天王・帝釈天・魔王・転輪王・仏にはなることが出来ないことを指す。これは原始仏教初期から存在する女性差別の思想で、即ち、「変生男子(へんじょうなんし)説」と称し、女は一度、男に転生しないと成仏することは出来ない、或いは、非常に難しい、とするトンデモ思想である。

・「三度したがふ諚(おきて)あり、夫に唱(しやう)あり、婦に和(くわ)あり」所謂、「夫唱婦随」で、夫が言い出して妻が従うこと、の意であろう。これは「関尹子」(周時代の秦 の伝説的思想家関尹子(生没年未詳)の著作とされるもの。関尹子の本名は尹喜 (いんき)で函谷関を守る役人であったことに由来するという。但し、その思想は「荘子」などに断片的に残っているだけでこの「関尹子」という著作は後世の偽作とされる)の「三極篇」の、

天下之理。夫者唱。婦者隨。牡者馳。牝者逐。雄者鳴。雌者応。是以聖人制言行。而賢人拘之。

(天下の理は、夫たる者は唱し、婦たる者は隨ふ。牡たる者は馳せ、牝たる者は逐(お)ふ。雄たる者は鳴き、雌たる者は応ず。是れ以つて聖人は言行を制す。而して賢人は之れに拘はる。)

に基づく(「牡牝」は人以外の獣の、「雄雌」は鳥類の、♀♂)。「三度」というのは、よく判らぬが、中文では「三」は一種の極数であるから、「常に」のニュアンスかも知れぬ。

・「燃ゆる火に薪(たきぎ)、猶、焦熱(せうねつ)の道しるべにこそ」妬心の焰を実際の火炎から地獄の一つである焦熱地獄(一般には生前に殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見の罪を犯したものが落とされるとされる)に繋げ、嫉妬の炎を持つ限り、死してそこへ落ちることを宗祇は彼女に示し諭したのである。

・「憍悋(けうりん)」「憍」は「おごりたかぶること」で、自らの身を非常に勢い盛んな人間であると思い込み、驕(おご)りまた誇り、自らの欲するままに思い上がる心を持つことを指し、「悋」は「悋(ねた)む」と訓じ、嫉妬するの謂いである。確かに「憍」(おご)りなき者には「悋」気(りんき)は生じようはずは、ない。

・「恨嫉(こんしつ)」恨みと嫉妬。

・「勸化(くわんげ)」仏の教えを説いて信仰に向かわせること。

・「つらぬる」連歌を唱和した。

・「在りこし」の「こし」は「來し」或いは「越し」。ありきたったところの半生。

・「一毛(まう)」ほんの僅かなことの譬え。

四月ばか   梅崎春生

 

 エイプリルフールを日本語に訳して、四月ばか、あるいは万愚節という。春の季語として歳時記にものっている。

 だいたいが西洋の風習だから、それを無条件に日本にとり入れるのも妙な話だ。でも日本ではキリスト教徒でもないのがクリスマスを祝ったり、フランスと何の関係もない人がパリ祭に集まって騒いだりしているのだから、四月ばかぐらいは許すべきだろう。かついだりかつがれたりすることは日ごろの緊張の緩和にも役立つ。

 うそをついていいといっても相手にショックを与えるようなうそとか、だまして金を詐取するなんてことはルール違反でよろしくない。あくまで戯れのていどにとどめるべきである。

 だまして金をとる典型に泣き売(ばい)というのがある。二人組で一人が品物(かみそりなど)を持ちしょんぼりしている。もー人がさくらになって近づき、

「こりやすごい品物じゃないか。なに、一本二千円。そりゃ安い。三つばかり売ってくれ」

 てなことをいって、とり巻いた人々の購買欲を刺激して、みな売ってしまうという筋書きだ。たいていの人がその手口を知っていると思うが、東京都内でときどきそれをやっているのを見かける。見ていると結構売れているんだから世の中は広いものだ。

 またにせの大島紬(つむぎ)や琉球紬売りも横行しているらしい。この連中はどこで覚えたのか、あちらの方言を使う。この方言がくせもので、こちらはよく理解できないから何度も聞き返したり、向うも図に乗って手ぶり身ぶりで、

「自分は琉球(あるいは奄美(あまみ)大島)からやってきたものだが、帰りの旅費がなくなったから、この紬を売って金をこしらえたい。安くするから買ってください」

 というようなことがわかってくる。かれらは帯のことをドンバラマキまたはドンバラアテと称する。方言を使用することでリアリティーを出そうとするところなど、泣き売(ばい)以上の知能犯である。数多い読者諸氏の中には、つい同情のあまりにドンバラアテを買った人が三人や五人はいるに違いない。

 わたしの家にドンバラマキ売りがきたのは五年前で、若い女の二人組であった。演技はなかなかうまく、真に迫っていた。でもどうも話がおかしいと演技だけさせて品物は買わなかった。そのことをある雑誌に書いたら、読者からわんさとはがきや手紙がきた。自分のところにもきたとか、自分もやられたとの内容のものばかりである。住所を調べると日本全国にわたっている。たくさんのにせ紬売りが各県をわたり歩いているのである。現在もわたり歩いていることだろう。

 こんな悪質のうそはにくむべきだが、年に一回友人同士でかつぎ合うのは精神衛生上いいことである。わたしはうそは申しません。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第八十八回目の昭和三六(一九六一)年四月一日附『西日本新聞』掲載分。底本(抄録)ではこれが全百回連載の「南風北風」の最後である。

「エイプリルフール」ウィキの「エイプリルフール」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『エイプリルフール(英語: April Fools' Day)とは、毎年四月一日には嘘をついても良いという風習のことである。四月一日の正午までに限るとも言い伝えられている。英語の "April Fool" は、四月一日に騙された人を指す』。『エイプリルフールは、日本語では直訳で「四月馬鹿」、漢語的表現では「万愚節」、中国語では「愚人節」、フランス語では「プワソン・ダヴリル」(Poisson d'avril, 四月の魚)と呼ばれる』。『エイプリルフールの起源は全く不明である。すなわち、いつ、どこでエイプリルフールの習慣が始まったかはわかっていない。有力とされる起源説を以下に挙げるが、いずれも確証がないことから、仮説の域を出ていない』。『その昔、ヨーロッパでは三月二十五日を新年とし、四月一日まで春の祭りを開催していたが一五六四年にフランスのシャルル九世が一月一日を新年とする暦を採用した。これに反発した人々が、四月一日を「嘘の新年」とし、馬鹿騒ぎをはじめた(これ以降は嘘の起源と思われる)』。『しかし、シャルル九世はこの事態に対して非常に憤慨し、町で「嘘の新年」を祝っていた人々を逮捕し、片っ端から処刑してしまう。処刑された人々の中には、まだ十三歳だった少女までもが含まれていた。フランスの人々は、この事件に非常にショックを受け、フランス王への抗議と、この事件を忘れないために、その後も毎年四月一日になると盛大に「嘘の新年」を祝うようになっていった。これがエイプリルフールの始まりである』。『そして十三歳という若さで処刑された少女への哀悼の意を表して、一五六四年から十三年ごとに「嘘の嘘の新年」を祝い、その日を一日中全く嘘をついてはいけない日とするという風習も生まれた。その後、エイプリルフールは世界中に広まり、ポピュラーとなったが、「嘘の嘘の新年」は次第に人々の記憶から消えていった』。『インドで悟りの修行は、春分から三月末まで行われていたが、すぐに迷いが生じることから、四月一日を「揶揄節」と呼んでからかったことによるとする説もある』(この説に従うなら、由来は西洋ではないということになる)。また他に、『イングランドの王政復古の記念祭であるオークアップルデー』(Oak Apple Day)『に由来を求める説がある』とある。

「泣き売」映画「ALWAYS 三丁目の夕日」でも描かれた万年筆(工場が焼けた・倒産して退職金が現物だった等々)が知られるが、私も大学二年の時、下宿していた中目黒駅近くの路地で雨の降る朝方、まんまと引っ掛かった。高級スーツできめたメンズ・ショップの者と称する若者が、背広の仕入れ個数を間違えたが、返品がきかずに困り切っている、五~六万するものだが、三万ぐらいで売りたい、という。路地裏にピカピカの乗用車があって、そこにやはり身なりのいい中年男性が運転席に座り、後部座席で四、五箱の色違いのスーツを見せられた。生地が薄いな、と思ったが、初夏でもあり、私の好きな明るい青のものがあったので、貧乏学生であったから、「今、手元で自由になるのは一万円しかありません」とい答えると、「それじゃ元もとれねえ」とそれまで黙っていた運転手がムッとしながらかなりゾンザイに答え、しかし「しょうがねえな、それでいい」と応じた。金は下宿にあったし、雨が激しくなってきたので、「どうしましょう」というと、また中年はイラっとした感じで車を動かし出し、「どっちだ?」とやはりゾンザイに聴いた。かくして下宿まで送って貰い、一万円で買い、「安くしていただいて」などと平身低頭して、雨の中を車は去った。その日の夕方は晴れた。下宿の部屋の窓の下に同じ中目黒に住む級友が訪ねて来た。その日の昼過ぎに、彼も同じように声を掛けられたという(が、金がないからと彼は断った)。彼曰く、「あやしい」。彼の発案で、町のテーラーに持ち込んで査定して貰おう、という。近くに老人のやっている小さな店があった。見て貰った。「そうだね……せいぜい一万円相当だね」と如何にも憐憫を湛えた目で老テーラーは言った(あれはわざと高値(こうじき)に言ってくれたのだと思う。恐らくは五千円もしない粗悪品だったのだろう。「見て戴いた料金は?」というと、彼は優しく「そんなの貰えないよ」と笑った)。損はしていないが、これで次の仕送りの一ヶ月の間、文庫本一冊も買えなくなったのを考えると、私は急に暗澹となってしまった(実に他愛無くあの頃は大根役者の演技のように「暗澹」となれたものだった)。友人は肩を抱くと、俺の下宿で飲み明かそう、と言った。彼は帰りしな、「剣菱」一升瓶一本を彼の金で買った(彼は授業には半分位しか出て来ず、アンダーグラウンドのカメラマンの助手として、専ら、エロ写真のネガの陰毛を針で突ついて消すアルバイトをしている、と言っていた)。あの他愛のない悲喜こもごもの中で飲み明かした「剣菱」の味は、何とも言えず、美味かったのを覚えている。]

モデル小説   梅崎春生

   モデル小説

 

 作家が小説を書く場合、題材が純然たる空想から発する場合はほとんどない。小説とは世態人情をうつすものだから、どうしても現実の人間や事件にヒントを得て、それを整理したり変形したりしてつくり上げる。

 それが常道だけれども、ときにはモデル問題がおきて名誉毀損の訴えがなされたりする。こんど有田八郎氏が「宴のあと」の件で作者三島由紀夫氏と出版元を訴えたのは、有田氏が悪く書かれているからでなく、プライバシーの権利をおかしているという理由からだ。プライバシーの権利とは私事を知られたくない権利のことだ。

 わたしは割合用心深く、モデルを使っても変形これ努める。でも長いあいだのことだから、ときには尻尾(しっぽ)を出して文句をつけられることがある。

 三年ほど前ある新聞に「つむじ風」という小説を書いた。主人公は松平姓を名乗り、徳川慶喜の曽孫にあたるとのふれ込みの男で、あちこちの家庭に現われてうそをつき、さいごに姿をくらますという筋である。この松平陣太郎にはモデルがあった。Nというふしぎな人物がそれで、果たして連載中に文句をつけにきた。

 そこで私は答えた。松平陣太郎とN君が共通しているのは松平姓を自称すること、よくうそをつくことで、あとは全部フィクションである。しかもこの小説は松平陣太郎の行状記じゃなく、松平姓にたいする諸人の反応が主題だから、N君に迷惑のかかるわけがない。

 それから二三度押し問答があったが、けっきょく話し合いでけりがついた。N君も実際にわたしにもうそをつき迷惑をかけているから、強くは出られなかったのであろう。

 N君はその後芝の増上寺から仏像を何体か盗み出して骨董屋に売り飛ばして足がつき、警察につかまった。

 三島氏は「宴のあと」について政治対人間のドラマを描きたかったのだ、といっている。有田氏はプライバシーの侵犯だと主張する。どういう結果になるか他人ごととは思えない。

 もっともモデルにされることはあまりいい気持のものでない。わたしも三度ばかりモデルにされたことがある。二度は悪く書かれ一度はよく書かれた。

 悪く書かれるともちろん気分がよくない。

 「あの野郎。書きやがったな!」

 と一週間ばかり不愉快である。

 ではよく書かれたらうれしいかというと、それもうれしくない。読み終えたあと妙な違和感が胸に残るのである。

 よく書かれても悪く書かれても不愉快なら、他人をモデルにすることはやめればいいではないか。そう人は考えるかもしれないが、そういかないところに文学の業みたいなものがある。まったく小説家なんて因果な商売だ。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第八十七回目の昭和三六(一九六一)年三月三十一日附『西日本新聞』掲載分。

『有田八郎氏が「宴のあと」の件で作者三島由紀夫氏と出版元を訴えた』「有田八郎」(明治一七(一八八四)年~昭和四〇(一九六五)年)は外交官で旧貴族院議員(勅選)・元衆議院議員であった政治家。ウィキの「宴のあと」によれば、「宴のあと」は三島由紀夫が昭和三五(一九六〇)年に雑誌『中央公論』一月号から十月号に連載、後の同年一一月十五日に新潮社より単行本刊行された長編小説。実在する高級料亭「般若苑」の女将畔上輝井(あぜがみてるい)と元外務大臣で元東京都知事候補(昭和三〇(一九五五)年とこの記事の二年前の昭和三四(一九五九)年の二度、革新統一候補として出馬したが、孰れも落選)であった有田八郎をモデルにした作品。ヒロイン福沢かづ(畔上輝井がモデル)の『行動的な熱情を描き、理知的な知識人の政治理想主義よりも、夫のためなら選挙違反も裏切りもやってのける愛情と情熱で、一見政治思想とは無縁で民衆的で無学なかづの方が現実を動かし政治的であったという皮肉と対比が鮮やかに表現されている』(因みに有田は衆議院議員当選後に畔上輝井と再婚、二度目の都知事選落選後に畔上と離婚している)。『当初、単行本は中央公論社より刊行予定であったが、小説のモデル・有田八郎の抗議を受け、中央公論社の嶋中鵬二社長が二の足を踏んだため、新潮社からの刊行となった。文庫版は新潮文庫で刊行されている。翻訳版はドナルド・キーン訳(英題:“After the Banquet”)をはじめ、世界各国で行われている』。後の昭和三六(一九六一)年三月十五日に『モデルとされた有田八郎からプライバシーを侵すものであるとして、三島と新潮社が訴えられ、長期の裁判沙汰となり、「プライバシー」と「表現の自由」の問題が日本で初めて法廷で争われた。日本ではそこばかりに焦点があてられがちだが、作品の芸術的価値は海外の方で先に認められ』いる、梗概は以下。『保守党御用達の高級料亭「雪後庵」を営む女将・福沢かづは、独身ながら』五十代を『迎え、人生を達観した気持ちで日々過ごしていた。ある日、かづは客として店に来た革新党の顧問で元大臣・野口雄賢に出会い、その理想家肌で気高い無骨さに魅かれてゆく。野口は妻を亡くし独身だった。かづと野口は何度か食事を重ね、奈良の御水取りにも旅し、自然の流れで結婚することとなった』。『野口は、革新党から東京都知事選に立候補することになった。かづは革新党の選挙参謀の山崎素一を腹心としながら、大衆の心を掴むような、金を散財する選挙運動に邁進する。貯めた銀行預金が不足したら、雪後庵を抵当にかけても野口の選挙を支援しようとしていた。しかし、その土着的なやり方を野口に激しく叱責にされた。そして、雪後庵を閉鎖しないなら離婚するとまで野口に言い渡された』。『結局、都知事選は、ライバルの保守党による中傷文書のばら撒きや汚い妨害工作に合い、野口が敗北した。そして野口は政治から離れる決意をし、かづと二人でじじばばのように暮す隠遁生活をはじめようと提案する。しかし、かづは精魂こめて金を使った自分より、汚いやり方で金を使った相手が勝ったことが許せず、宴のあとのような敗北の空虚に耐えられなかった。かづは保守党の記念碑的人物・沢村尹に頼み、この償いに、旧知の間柄でもあった保守党の永山元亀らの金で雪後庵を再開させよう画策した』。『このことを知った野口は、かづに離縁をつきつけた。そして、かづは野口家の墓に入る夢を捨て、雪後庵を再開することの方を選び、野口と別れることを決意した』。この民事訴訟で『三島は、日本で最初のプライバシーの侵害裁判の被告となった。もの珍しさから、「プライバシーの侵害」という言葉は当時、流行語となった』。有田八郎は三島のこの小説が『自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社である新潮社を相手取り、損害賠償』百万円と『謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所で起した。裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、昭和三九(一九六四)年九月に『東京地方裁判所で判決』が出、三島側は八十万円の『損害賠償の支払いを命じられた(ただし謝罪広告の必要はなし)。三島は、芸術的表現の自由が原告のプライバシーに優先すると主張したが、第一審、東京地裁の』『石田哲一裁判長は判決において以下の論述を出した』。『「小説なり映画なりがいかに芸術的価値においてみるべきものがあるとしても、そのことが当然にプライバシー侵害の違法性を阻却するものとは考えられない。それはプライバシーの価値と芸術的価値の基準とはまったく異質のものであり、法はそのいずれが優位に立つものとも決定できないからであるたとえば、無断で特定の女性の裸身をそれと判るような形式、方法で表現した芸術作品が、芸術的にいかに秀れていても、通常の女性の感受性として、そのような形の公開を欲しない社会では、やはりプライバシーの侵害であって、違法性を否定することはできない」』。『石田裁判長は、「言論、表現の自由は絶対的なものではなく、他の名誉、信用、プライバシー等の法益を侵害しないかぎりにおいてその自由が保障されているものである」との判断を示し、「プライバシー権侵害の要件は次の』四点『である」と判示した』。

1・『私生活上の事実、またはそれらしく受け取られるおそれのある事柄であること』。

2・『一般人の感受性を基準として当事者の立場に立った場合、公開を欲しないであろうと認められるべき事柄であること』。

3・『一般の人にまだ知られていない事柄であること』。

4・『このような公開によって当該私人が現実に不快や不安の念を覚えたこと』

三島側は同年十月に控訴するが、この翌年三月に有田が死去したため、昭和四一(一九六六)年十一月、『有田の遺族と三島・新潮社との間に和解が成立した』。『当初、この件で』三島の『友人である吉田健一(父親・吉田茂が外務省時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したものの上手くいかず、吉田健一が有田側に立った発言をしたため、後に両者は絶交に至る機縁になったといわれている』。『三島は、自決』一『週間前に行なった古林尚との対談『三島由紀夫 最後の言葉』において、この裁判で三島は裁判というものを信じなくなったという。法廷で弁護人から、「三島に署名入りで本(有田八郎著『馬鹿八と人はいう』)をやったか」と質問が出たとき、有田は、「とんでもない、三島みたいな男にだれが本なんてやるもんか…(後略)」と答え、弁護人が、「もしやっていらっしゃったら、ある程度三島の作品を認めたか、あるいは書いてもらいたいというお気持があったと考えてよろしいですね?」と念押しされ、「そのとおりですよ」と有田は、断固、本は渡していないと主張したという。ところが、三島は有田から、「三島由紀夫様、有田八郎」と署名された本を貰っていた。それを三島側が提示すると、傍聴席が驚いたという。三島は、あの裁判がもし陪審制度だったら、自分は勝っていただろうと述べている。裁判所の判断は、有田が老体であるとか、社会的地位や名声を配慮して有田に有利に傾き、民事裁判にもかかわらず、刑事訴訟のように、被告は「三島」と呼び捨てにされていたという。ときどき気が付いて「さん」付けになるものの、ほぼ呼び捨てだったという』。『有田八郎から訴えられた際に三島は『宴のあと』について、「私はこの作品については天地に恥じない気持ちを持っている」と主張し、「芸術作品としても、言論のせつどの点からも、コモンセンスの点からも、あらゆる点で私はこの作品に自信を持っている」』『と述べている。またプライバシー裁判においてなされた、三島による『宴のあと』の主題の説明は以下のようにまとめられている』。『人間社会に一般的な制度である政治と人間に普遍的な恋愛とが政治の流れのなかでどのように展開し、変貌し、曲げられ、あるいは蝕まれるかという問題いわば政治と恋愛という主題をかねてから胸中に温めてきた。それは政治と人間的真実との相矛盾する局面が恋愛においてもっともよくあらわれると考え、その衝突にもっとも劇的なものが高揚されるところに着目したもので』、一九五六年に『戯曲「鹿鳴館」を創作した頃から小説としても展開したいと考えていた主題であった。(中略)』『(有田八郎の)選挙に際し同夫人が人間的情念と真実をその愛情にこめ選挙運動に活動したにもかかわらず落選したこと、政治と恋愛の矛盾と相剋がついに離婚に至らしめたこと等は公知の事実となっていた。(中略)ここに具体的素材を得て本来の抽象的主題に背反矛盾するものを整理、排除し、主題の純粋性を単純、明確に強調できるような素材のみを残し、これを小説の外形とし、内部には普遍的妥当性のある人間性のみを充填したもので、登場人物の恋愛に関係ある心理描写、性格描写、情景描写などは一定の条件下における人間の心理反応の法則性にもとづき厳密に構成したものである』とある。

「つむじ風」『東京新聞』昭和三一(一九五六)年三月二十三日号から度年十一月十八日まで連載され、翌年三月に角川書店から単行本が出た、長篇ユーモア小説。登場する今一人の主人公とも言うべき作家加納明治には時に春生自身をも垣間見られる。

「わたしも三度ばかりモデルにされたことがある。二度は悪く書かれ一度はよく書かれた」これは誰の何という小説なのか? 識者の御教授を是非、乞う。]

2016/08/14

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   遁れ終(は)てぬ鰐(わに)の口

    遁不ㇾ終鰐口(のがれはてぬわにのくち)


Wani

 

陸井(くがゐ)九太夫といふ浪人あり。もとは畠山政長が家人(けにん)、弓矢取つて隱れなく、智仁勇(ちじんゆう)ともに兼たり。去る仔細有りて祿を辭し、東關(とうくわん)に赴く。尾州の渡し、黨帆(たうはん/フネ)をうかべ、半ば乘出(のりい)づる時、海上、靜かに、風もふかぬ空、俄かに、波、たゞこゝもとを騷搖(さうえう)して、船をくつがへさんとする事、千度(ちたび)、不ㇾ歸(かへらず)、一所(ところ)に漂泊(ただよ)へば、乘合の面々、色を失ひ、こは淺まし、身をあだ波のもくずと成りなんか、と口説(くど)くもあり、哭(な)くもあり、或は大部小部の經を誦し、七字六字の名號を唱て死を淚の内にまつ、去れども、篙工(かこう)の男、かひがひしく、へいたにあがり、波上詠めすましていはく、魔風の騷がすにも非ず、龍神の祟にてもなし。何樣、惡魚(あくぎよ)の、此の舟の内に見入られたる人あつて、かく所爲(なすわざ)と覺えぬ。何れにても、見入られたる人、是が爲に一人入水し給ふべし。左なくては、數人(すにん)獨(ひとり)も助かる事なし、と、此の見いれをしるには、何にても、めんめん所持の具を一いろづゝ、浪にうかべて、是が喰(くら)ふを以て、證據とす、早く抛(な)げて見給へ、と、いふ。さらば、とて、扇(あふぎ)、鼻紙、櫛(くし)、もとゆひ、或は小刀(こがたな)、目貫(めぬき)、手拭(てぬぐひ)、おもひおもひに投入るゝに、更に取る事、なし。其の乘合の人數(にんず)、都鄙(とひ)の飛脚(ひきやく)、遠近(ゑんきん)の商人(あきんど)、出家、侍なり、下より次第に投げて、侍、陸井(くがゐ)一人になりぬ。此の人に紛(まぎ)らふべくもなし、早く入りて、多き人のうきを止(や)め給へ、と口々にいひ罵(のゝし)る。さらば、こゝろみに、とて、九太夫、かうがひを取りて波に入るゝに、件の惡魚、顯(あらは)れ、是をとる事、速(すみやか)なり、九太夫、思ふ、凡(およそ)士(ものゝふ)は戰場(せんぢやう)の刀劔に臥(ふ)し、主君の命(めい)に代るをこそ本意とはいへ、何ぞ怪しの惡魚の腮(あぎと)にかゝらん事、口惜しき次第かな、と、中間に心を合せ、自(おの)が小袖を取りて雜物(ざふもつ)を包み、人形(ひとがた)に拵へ、洑(うづま)く波上へ抛入るゝに、滔々(たうたう)と波立ちて、盤石(ばんじやく)のごとき鰐(わに)、かの人がたを取りて行くと思へば、浪、又、漸々(ぜんぜん)と治まりぬ。此の時、陸井、塗籠藤(ぬりごめとう)の弓の、山鳥の羽をはいだる大のかりまた引くはへ、切つて、はなつ。命をとらんとしける敵なる間、思ふ矢つぼ不ㇾ違(たがはず)、鰐(わに)のたゞ中を射て、手應(てごた)へしたゝかにしければ、おせや、いそげ、と片時のほどに宮(みや)にあがり、各、萬死(ばんし)を出でゝ一生にのぞむ心ちし、自(おの)が方々(かたかた)へ別れ行きけり。九太夫も危(あやふ)きをのがれ、鎌倉に行きて上杉憲忠に勤仕(きんし)す、一年あまり有りて公用に付きて、洛陽にのぼる。一夕、尾州の宮にとまる。此の家のあるじ、弓數寄(ゆみすき)と見えて、矢屏風(やびやうぶ)ひゞしく、飾りたる矢あまたある中に、九太夫實名をほつて朱を入れたる矢あり。亭主を呼びて、此の矢に少し、みしる所、有り、いかにして所持しけるぞ、と、とふ。主の云く。去々年(をととし)かうかうの事侍りて、旅士(りよし)の鰐を射たる矢也。猛き物の曲(くせ)、外にては死せず。射られたる所に歸り、空しく成る。某(それがし)、はやく見付け、網持ちて引上ぐるに、此の矢たゞ中に射つけてありし、其の鰐の形(かた)ち、大きなる事、二間半、骨高く、而(しか)も工(たくみ)を以て削れるごとく侍るまゝ、庭の泉(いづみ)の橋にいたし置きぬ、と、かたる。九太夫、聞きて、其の時の旅士は我れ也。扨は左にて侍るか、と泉水(せんすゐ)に出でゝ、此の橋の事か、などいひ、指をつくるに、忽ち小指(こゆび)より、血、流れたり。藥治を施すに滴り不ㇾ止(やまず)。次第に疵(きず)いたみ出でゝ、三日といふに、死したり。いかなるものゝ靈(れい)にや有けん、執(しふ)ねき見いれには在りける。

  此の一事、九太夫弟同名彦四郎、ひそか

  に我れにかたりき、あやしさのまゝ、書

  きのこしぬ。

 

■やぶちゃん注

 今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)のそれを用いた。

・「陸井(くがゐ)九太夫」「弟同名彦四郎」孰れも不詳。

・「畠山政長」畠山政長(嘉吉二(一四四二)年~明応二(一四九三)年)が)は守護大名・室町幕府管領で河内・紀伊・越中・山城国の守護。足利氏の一門畠山氏出身。以前に注した通り、従兄畠山義就とお家騒動で争い、それが応仁の乱の元となった。

・「尾州の渡し」所謂、「宮の渡し」「七里(しちり)の渡し」と称せられた、東海道五十三次で知られる宮宿(現在の愛知県名古屋市熱田区)から桑名宿(現在の三重県桑名市)までの海上の渡し。

・「黨帆」辞書類を見ても、「黨」(党)の字の義が何故、「舟」の意となるのか、不詳。識者の御教授を乞う。

・「大部小部の經」唐代の玄奘三蔵が大乗仏教の基礎的教義が書かれている長短様々な「般若経典」を集大成した経典「大般若波羅蜜多経」の中で最も「大部」な「大般若経」(六百巻)を、もっとも「小部」な「般若心経」を指す。

・「七字六字の名號」法華宗の「南無妙法蓮華経」の「七字」の名号及び浄土教念仏宗の「南無阿弥陀仏」の六字名号。

・「篙工(かこう)」「篙」は舟の竿(棹)、「工」はそれを上手く操る者の謂いで、船頭のこと。

・「へいた」「舳板」と書き、和船の船首付近に渡した板を言う。

・「詠めすまして」「ながめすます」とはじっと眺めて、の意。

・「入水」「じゆすい」。

・「此の見いれをしる」「此の見い」ら「れ」たる者「をしる」。

・「一いろ」一種。何でも一品。

・「目貫(めぬき)」太刀・刀の身が柄(つか)から抜けないように、柄と茎(なかご)の穴にさし止める釘。目釘。又は、それを蔽う金具。「目」は穴の意。小太刀なら必ずしも武士とは限らないが、若いか、或いは如何にも陸井より貧しげな浪人者がいたのであろう。

・「うき」「憂き」。

・「かうがひ」「笄」(こうがい:「髪搔(かみかき)」の転じたもの)で、ここでは刀の鞘(さや)に挿しておく、金属性の篦(へら)状のもので、本来、整髪具であるが、中世以降は単なる装飾具に変質した。

・「件」「くだん」。

・「中間」「ちうげん」。

・「鰐(わに)」鮫。

・「塗籠藤(ぬりごめとう)の弓」籐で巻いた重籐弓(「平家物語」等で知られる有名な弓で小笠原流では最高格の弓。赤漆を施した雅びな装飾を持つ。色々な読みがあるが、「しげとうゆみ」「しげどうゆみ」が普通)の、籐の部分を含めた全体を漆で塗り籠めたものを指す。

・「山鳥の羽をはいだる大のかりまた」「はいだる」は「矧(は)ぐ」の音便変化で、鳥の羽根や鏃(やじり)を竹に付けて矢につくることを指し、「大のかりまた」大きな雁股(先が股(やや外に開いたU字型)の形に開き、その内側に刃のある狩猟用の鏃(やじり)。通常では飛ぶ鳥や走っている獣の足を射切るのに用いる)。

・「敵」「かたき」。

・「思ふ矢つぼ不ㇾ違(たがはず)」狙いすましたところの箇所(挿絵から判る通り、鮫の頭部の眉間相当の部分)を違(たが)うことなく。

・「上杉憲忠」(永享五(一四三三)年~享徳三(一四五五)年)は関東管領で足利持氏執事であった上杉憲実の子。永享の乱で主君であった鎌倉公方足利持氏を滅ぼした後、父とともに出家したが、長尾景仲らの要請により還俗、文安五(一四四八)年、関東管領となった。後、持氏の子成氏が公方に就任すると対立、成氏邸で結城成朝(ゆうきしげとも)らに暗殺された。宗祇は憲忠の死去時で満三十四歳で、話自体は応仁の乱以前の相当な昔となる。しかし、これは九太夫弟陸井彦三郎が後に宗祇に語ったとするのであるから問題はない。

・「洛陽」京都。

・「矢屏風」折りたたむ屏風形式の木枠に矢を立てたもの。実用及び装飾家具として使われた。

・「ひゞしく」形容詞「美美(ひび)し」で、「立派だ・美事だ」の意。

・「猛き物の曲(くせ)、外にては死せず」獰猛巨魁の獣(けだもの)の性質(たち)として、自身のテリトリー以外では死をよしとせず。

・「二間半」四メートル五十五センチ。映画の「ジョーズ」などで「人食いザメ」として印象づけられ、日本近海にも棲息する、軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias を例にとると、平均的なホホジロザメの体長は四・〇~四・八メートルで体重六百八十から千百キログラム(♂より♀のほうが大型)で、専門家の意見によれば体長六メートル、体重千九百キログラム程度が最大と見積もられている(ウィキの「ホホジロザメに拠る)とあるから、よく一致するとは言える。

・「指をつくるに、忽ち小指(こゆび)より、血、流れたり。藥治を施すに滴り不ㇾ止(やまず)。次第に疵(きず)いたみ出でゝ、三日といふに、死したり」小さな切り傷を受けて、短期で発症して死に至っていることからは破傷風が疑われるか。

責任   梅崎春生

 

 日光薬師堂の焼失にかんしてある新聞の広告欄に、東照宮宮司の「ごあいさつ」と輪王寺門跡ならびに信徒会会長の名の「火災のお見舞い御礼」が並んで掲載されていた。焼けた建物の名は宮司のは本地堂(鳴竜)となっているが、門跡のは本寺所属「薬師堂」となっている。

 十年ほど前、囲碁の呉対藤沢の対局が輪王寺で開かれ、わたしは観戦記者として日光におもむいたことがある。そのときも輪王寺と東照宮のあいだにごたごたがあるというような話を聞いたが、同一の建物に別々の名がついているなんて、まことにふしぎな話だと思う。

 宮司のあいさつは、管理者としてまことに申しわけがない、ていちょうなお見舞いをいただいて厚くお礼申し上げる、というところまではいいけれど、そのあとにこう書いてある。

「幸い御本殿は御安泰、陽明門その他の社殿、主要建造物はすべて延焼を防止し得ましたこと、不幸中の幸いにて、御参拝には支障なく、平常通りの御奉仕を致して居りますから御諒承いただきたく、ここに謹んで御挨拶申し上げます」

 このごあいさつを読むと、申しわけないという前段よりも後段のほうにウエイトがかかっているように思える。つまりおわびのほうはつけたしで、焼けたのは薬師堂だけで陽明門その他はそっくり残っているから、どしどしと参拝にきてくれ、こちらもサービスにこれ努めるから、ということを言いたいらしい。参詣者が激減するのをおそれているのだ。あいさつとしてはすこし筋が違いはしないか。

「不幸中の幸い」なんて言葉は、はたのものがいう台詞(せりふ)であって、当事者のいうことじゃないような気がする。陽明門その他が残ったことも、なにもあいさつを読まずともわれわれは新聞記事でとっくに承知している。当事者としては、ひたすらあやまり謹慎するだけにとどまるべきなのに、「御参拝には支障なく……」などと余計なことをいうから腹が立つのである。参拝なんかしてやるものかという気分になってくる。焼けた責任はそっちのけにして、参拝者の減ることばかりを心配しなければならないその在り方に問題があるのだろう。

 そこにいくと、九州大学入学試験問題は一応責任を果たしたものといえよう。これを東照宮宮司流にやって、

「他の問題に間違いがなかったのは不幸中の幸いで御入学には支障なく平常通り御奉仕……」

 うんぬんと声明書を出すとたいへんなことになるだろう。間違ったら間違ったと責任をとるのが人間の道である。

 実をいうとわたしも「南風北風」において、せんだってちょいとした間違いをおかした。「記憶術」というくだりで三月十日を招魂祭としたのは陸軍記念日の誤りである。責任をとって筆を折ろうかと思いつめたが(というのはうそだが)、ここに訂正しておわび申し上げる。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第七十九回目の昭和三六(一九六一)年三月二十三日附『西日本新聞』掲載分。

「日光薬師堂の焼失」この年(一九六一年)の三月十五日午後七時五分頃、日光東照宮境内の重要文化財である薬師堂(寛永一二(一六三五)年徳川家光の命で建立された東照宮最大の建物であった)西側から出火し(原因は炭火の不始末とされる)、同堂を全焼、堂内天井に描かれていた狩野安信作の墨絵(長さ十五メートル)の「鳴竜」(「なきりゅう」と読む。手を叩くと、多重反響現象によって特有の残響が聴こえる建造物やその附帯物の絵(特に龍)等に、しばしばこの「鳴き」が附されるが、大元はこの「鳴き龍」の絵(堂)とされる)も焼失した。同絵は五年後の昭和四一(一九六六)年の同薬師堂復元とともに堅山南風によって復画されている。You Tube の「懐かしの毎日ニュース」の『日光東照宮薬師堂全焼 「鳴竜」も焼失』で当時の映画館用ニュースが見られる。

「輪王寺と東照宮のあいだにごたごたがある」この決定的決裂状況については御存じの方も多いと思うのでごく簡単な注に留めておくと、神仏分離令(神仏判然令とも呼ぶ。慶応四(一八六八)年から明治元(一八六八)年までに出された太政官布告・神祇官事務局達・太政官達など一連の国家神道形成のために目論まれた通達群の総称で、これによって忌まわしき廃仏毀釈運動が全国に蔓延した)によって明治四(一八七一)年に栃木県の日光山も分離がなされ、二荒山神社・東照宮・輪王寺の二社一寺に分離されて今日に至っている。二〇一三年七月には東照宮と日光二荒山神社が「平成の大修理」を理由に社寺共通拝観券制度から脱退、輪王寺は共通拝観券の収入によって本堂などの修繕費の半分を賄う計画であったことから、これには反対であったにも拘らず、である。同寺の単独拝観券は拝観料収入全体の一割にも満たないという。――神も仏もありゃしない――とはまさにこのことを言うのである。嘆かわしい対立どころか、神仏も呆れかえるイジメ以外の何ものでもない。以上は、一部で「TravelersMedia」の日光東照宮などの「共通拝観券」が販売停止!!を参考にした。

「十年ほど前、囲碁の呉対藤沢の対局が輪王寺で開かれ」正しくこの十年前の昭和二六(一九五一)年十月二十日から二十二日までの三日間で打たれた呉清源と藤沢庫之助の囲碁戦。日光山輪王寺の「聖跡の間」で行われた。読売社告は七月に掲載され、「全国のファンが久しい間熱望してやまなかったもの」であったという(私は碁の打ち方も知らぬので、「読売新聞社」公式サイト内の呉清源師の「生涯一局」その五に拠った)。

「九州大学入学試験問題この昭和三六 (一九六一)年三月に行われた昭和三十六年度九州大学入学試験の「理科 生物」の問題に出題ミスがあった事件で「九大ダブル・ミス事件」と呼ばれる。ネット上で入手した森峯治氏の文書「温故知新」(第九巻 自 昭和三十六年四月十一日 至 昭和三十六年五月二十日」(ワード文書)によれば、九大入試の第三日(三月五日)の生物学の問題で、ヨード反応によってイネの遺伝的優性・劣性を確かめる問題設定に誤りがあった。さらに、誤った設問のまま既に受験雑誌に九大教授の名で出題されていたことがわかり、問題作成に関わった教授と講師の二人が辞表を提出、この事件によって合格者の発表が一日遅れ、しかも定員枠を少し拡げて合格させるという事態となった。その後、この問題は学内の処理委員会によって処分が検討されたが、その過程で実は驚くべきことに「ダブル」が「トリプル」であったことが判明している。即ち、出題委員でない同大教授が問題を事前に知っており、それを二浪して九大を受験する自分の息子に漏洩し、彼は合格しているという事実までが明らかになってしまったのであった(当該男子生徒の高校での生物の成績は中程度であるのに、九大入試では満点をとっていた、ともある)。なお、当該男子の入学手続は中止され、その教授は直ちに辞表を提出している、とある。

「記憶術」底本ではこの回は割愛されていて、ない。

「招魂祭」死者の霊魂を招き迎えて祀る儀式。靖国神社(旧称は東京招魂社)や各地の護国神社が招魂社と呼ばれていた敗戦前に行われた慰霊祭。靖国神社で行われる春季大祭(四月二十一日から二十三日)にかけての春季例大祭と秋季大祭(十月十七日から二十日)の別祭儀として、現在も残っている。

「陸軍記念日」敗戦前の日本の三月十日にあった記念日。ウィキの「陸軍記念日によれば、これは明治三八(一九〇五)年三月十日に『日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領して奉天城に入城した』ことを記念するものとして翌年から施行された。なお昭和二〇(一九四五)年三月十日は、かの東京大空襲と同日であるが、アメリカは『この陸軍記念日を狙って実施されたという説がある。当時の日本で、この記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布しており、この噂が後になって事実であるかのように出回っていた。日本には事実とする書籍や資料が存在するが、アメリカ側の資料では確認できない』とある。都市伝説の類いか。]

2016/08/13

がんばりましょう!

……私は君らを別に好きでも嫌いでもないのであるが、一曲だけ好きでCDを持ってはをる。……東京タワーで昔 見かけたみやげ物にはりついてた言葉は 「努力」と「根性」! Hey Hey Hey! ……いい言上げではなかったか?! 君らも、そう、人々を元気づけたように、また、それぞれに、旅立つがよろしかろうぞ……(「宗祇諸國物語」の飯尾宗祇より)

怨むのは

怨むのはエネルギの放出に於いて容易く、それを上手い具合に発条にする奴らがゴマンと、いる――しかし……失望は……なかなかに……生きるのには辛いことは残念ながら判然としている――

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   狂歌、憂ひを忘る

    狂歌忘ㇾ憂(うれひをわする)

 

長月廿日あまり、美濃國にめぐり、爰かしこ、と見行く、其(それ)の宵、久里部(くりべ)といふ山里にとまりし、宿にて二十餘(はたとせよ)の修行の僧に、あひやどりしけり。此の僧の云く。御僧を見知り侍り。愚僧は河内(かはち)の百舌鳥(もず)といふ在郷(ざいがう)にて、彌藤次と申す者なり、いつの頃か、公(きみ)、我が宅(たく)に一夜を明かさせ參らせし時、いづこへか通り給ふ、と問しに、紀伊より京にとの給ひし、此の後、人に語りしに、夫こそ當時の名匠宗祇よ、と申せし。我れ、いやしき田夫(でんぷ)ながら、及ばぬ和歌の道をわけて、手習侍れど、本性(ほんしやう)、拙(つたな)き口に、又、公(きみ)がごとき名師(めいし)もなければ、猶、くらきよりくらき道にまよひ、さだかに辨(わきま)へたる事も侍らず、年をふり過ぐるほどに、過ぎしとし妻に別れ、又、いくほどなくて、愛子(あいし)におくれぬ。ひとかたならぬなげきに思ひをかさねけるまゝ、世をあぢきなく思ひとり、此のさまに身をかへ、覺壽(かくじゆ)と申し侍る。此の法の道の始め、善光寺に、と心がけ出で侍ふ。今、爰にて參り會ふ事、多年の愁慕(しうぼ)、相叶ひ侍り。修行の供(とも)して一道の教へを請けたくこそ、と、かたる。誠に南紀を出でし時、さる所にとまりたれ。みぬ人の無常を聞だに哀れは思ふ習ひなるを、その人は心ざまやさしく、いなかうどには珍しく、物うちいひたる、賤しからず、茶ひとつくみたるわざも見所有りし、其の夫(をつと)の、歌にすく、と、いふも又、一ふし有り、無下(むげ)にいやしき人にはあらじ、と氏姓(ししやう)をとへど、此の僧、あからさまにもかたらず。深く包めば、いかなる心にや、と、しひても、とはずなりぬ。歌の事は安き御事に侍り。知りたるを知りたるとして、教へ侍らん、と、いふに、よろこびて、年頃よみ置きし歌どもを懷(ふところ)より取出でゝ點を得る。よめる所のさま、つたなからず、歌はあまたなれば、爰にのこしぬ。明くる朝(あした)より友なひ、そこらの名所、不破、野上、藤川、垂井、其の外、神社佛閣、拜み廻る時、靑野が原をわくれば、漸(やうや)う晩景におよぶ。二人とも腹(はら)淋しく食(しよく)求めたき頃也。祇の云く。覺壽は食とぼしからずや、去れば、身つかれ、足もうらぶれ、心苦しく侍るほどに、狂歌をつゞり侍れど、さがなき事を、と思ひ、かたり參らせずと、それそれ、かゝる時は物忘れに、狂歌こそをかしきわざに侍れ、いかにや、と、とふに、

 

   淋しやと夕のはらのあきかせに

       よはり果てたる蟲のこゑかな

               覺壽

 

といへば、おもしろし、愚僧も申さん、とて、

 

   秋の野のおなかさびしき夕ぐれは

       わらぢも足に喰ひつきにけり

               宗祇

 

と慰みて、里にたどりつきぬ。此の後、七日計り友なひ行きて、祇の見し所に壽のいたらぬ所多ければ、又、相見る迄よ、と、其の心ざすかたへ、行きわかれにけり。

 

■やぶちゃん注

・「長月」旧暦九月。

・「久里部(くりべ)」不詳。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)は「くりめ」とルビするが、これでも不詳。識者の御教授を乞う。

・「河内(かはち)の百舌鳥(もず)」現在も大阪府堺市堺区に「百舌鳥(もず)」を冠する地名が残る。地名の由来は、仁徳天皇が河内(当時は和泉も河内に含まれた)の石津原(いしつのはら)に出向いて陵(みささぎ)の造営場所を決め、造営を始めたところ、突然、野の中から鹿が走り出てきて、人たちに向かってきた。しかし彼らの面前で倒れ込んで鹿は死んでしまった。不審に思って調べてみると、鹿の耳から百舌鳥(もず)が飛び出し、鹿は耳の中を食い裂かれていた。陵墓の人夫らに危害が及ばぬように百舌鳥が鹿を止めたのであった。この働きを讃えてこの地を「百舌鳥耳原(もずみみはら)」と呼ばれるようになったとされ、「仁徳天皇稜」の正式名称は事実、「百舌鳥耳原中陵(もずみみはらのなかのみさざき)」である。但し、これらの伝承は「百舌鳥耳原」という地名が先にあって、それを説明するために後で考え出されたものと考えられており、この辺りは大昔は「石津原(いしづはら)」と呼ばれていたらしい(地名由来以降はQ&Aサイトの回答を参照した)。

・「法の道」「のりのみち」と訓じておく。仏道修行のための行脚。

・「夫(をつと)」男。

・「歌にすく」和歌を創ることを好む。

・「一ふし有り」一つの目立った特徴(属性)として彼が持っているところの大事な彼らしさである。

・「爰にのこしぬ」割愛するの意味か。

・「不破」古代東山道の関所不破関(ふわのせき)。現在の岐阜県不破郡関ケ原町松尾。

・「野上」現在の不破郡関ヶ原町野上。後に出る中山道の垂井宿と関ヶ原宿の間の宿。街道筋の井戸は「野上の七つ井戸」として親しまれた。歌枕。

・「藤川」現在の滋賀県米原市と岐阜県不破郡関ケ原町及び大垣市を流れる藤古川(ふじこがわ)周辺。この川は古くは「関の藤川」と呼び、六七二年に大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(天武天皇)が関ヶ原で戦った壬申の乱ではこの藤古川を挟んで両軍が対峙したと伝えられる。歌枕。

・「垂井」現在の岐阜県不破郡垂井町で中山道五十七番目の宿場垂井宿。大垣・墨俣(すのまた)などを経由して東海道宮宿とを結ぶ脇往還美濃路との追分であったため、西美濃の交通の要衝であった。

・「靑野が原」現在の岐阜県大垣市青野町附近。南北朝の延元三年/暦応元(一三三八)年一月、上洛を目指す北畠顕家率いる南朝の軍勢と、土岐頼遠ら北朝方足利方の軍勢との合戦「青野原の戦い」で知られる。

・「祇の云く。覺壽は食とぼしからずや、去れば、身つかれ、足もうらぶれ、心苦しく侍るほどに、狂歌をつゞり侍れど、さがなき事を、と思ひ、かたり參らせずと、それそれかゝる時は物忘れに、狂歌こそをかしきわざに侍れ、いかにや、と、とふに」ここは直接話法の掛け合いであるが、やや分かりにくい。書き直すと、

 

宗祇「覺壽は食とぼしからずや。」

覺壽「去れば身つかれ、足もうらぶれ、心苦しく侍るほどに、狂歌をつゞり侍れど、『さがなき事を』と思ひ、かたり參らせず。」

と。

宗祇「それそれ、かゝる時は物忘れに、狂歌こそをかしきわざに侍れ。いかにや。」

と、問ふに、

 

である。

・「淋しやと夕のはらのあきかせによはり果てたる蟲のこゑかな」「夕のはら」「夕べの原」(夕暮れ時の曠野原)に「夕べの腹」(夕暮れ時の腹)を掛け、「あきかせ」の「秋風」の「あき」に「飽き」の反語用法である(腹が減って減ってもう)「厭になる」を掛け、「蟲」に淋しき秋の「蟲」と空腹のためにぐーぐー鳴る腹の「蟲」を掛け、「よはり果てたる蟲のこゑ」に空腹のあまり、「よはり果てた」自らの「こゑ」もダブらせている。なお、個人ブログ(ブログ主は男性らしい)「徒然名夢子」の百人秀歌 第58 さびしさに....(良暹法師:りょうぜんほうし)で、「百人一首」で知られる「後拾遺和歌集」の「卷第四 秋上」の良暹法師の一首(三三三番歌)、

 

    題不知(しらず)

 さびしさに宿(やど)をたち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮

 

を解説されているが、その中で本篇のこの狂歌を挙げられ、『この狂歌は、明確に良暹法師の和歌を本歌取しているわけではないが、僕は十分に良暹法師の「さびしさ~」を意識していると思う。というのも比叡山の苦行は、水のような粥と、水だけで千日続くのだ。腹も減るし、苦しくなるのは、この覚寿もよく知っていたのであろう』と評しておられる。歌体からは俄かには賛同しかねるが、面白い見解とは思う。

・「秋の野のおなかさびしき夕ぐれはわらぢも足に喰つきにけり」「おなか」が分からない。掛ける相手は「御腹(なか)」でよいが、元の意味が私には分らぬ。当初は「峰」「丘」、山野の小高い所・尾根の謂いかとも思ったが、それだと歴史的仮名遣は「を」でなくてはおかしい。「秋の野の野中(のなか)淋しき」の音変化かとも考えたが、それもなんだかな、である。識者の御教授を乞う。「わらぢ」は無論、「草鞋」である。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   怪しみ、一心(こころ)に在り

宗祇諸國物語卷四

 

    怪在一心あやしみこゝろにあり)


Ookoumori

人の盛衰は世の常の習ひなれど、應仁の亂れ計り、淺ましきはなし。公家は武威におされ、寺社は戰の爲に多く燒失し、民は盜賊の所行に家命(かめい)を奪はれ、或(あるひ)は親子(しんし)兄弟(けいてい)家門(かもん)自族(じぞく)、國を隔(へだ)て、里をはなれ、身を木がらしに散りわかる、落葉(おちば)の露の命さへ、ながらふべくもなし。爰に七條洞院(とうゐん)の邊(ほと)りに、久我の何がしとやらんの妾(しやう)、小柏(こがしは)とめされし女の住める家あり。かくれてあそび給ひし下の御所なれば、外(ほか)ざまは賤(しづ)のくずやにつゞき、藪ふかく茂りて、竹の戸おろそかに構へたれば、其かたさまの人ならで、わらづとの金玉を不ㇾ知。殿々(でんでん)の莊嚴(しやうごん)、香木異樹(かうぼくいじゆ)をつくし、からの大和の繪をそろへ、庭前の草花、四季を分け、紅白の花、絶ゆる時なく、わくらはにみる人は、仙境蓬莱か、と、たどる、かゝりしかども、納言(なごん)薨じ給ひて後、女に讓り給ひしを、世の亂れに、賊、家財雜具(ざふぐ)を取りはこび、女童(をんなわらべ)の聲たつるを、情なく切りちらし、あるじの女も、左の耳の根より、口わき迄、切られて空しく成る。さのみ深き疵(きず)とはみえねど、かよはき女心に、いたうおびえ入りけん、淺ましきわざ也。此の女の弟盛澤(もりさは)庄太郎とかやいふ者、十九才より赤松の政則につかへて、加賀の領地に居たるが、暇(いとま)申し、洛にのぼりて姉が跡を繼ぐ。牢浪の身といひ、工商の所作(しよさ)にうとければ、憖(なまじ)ひに一所の讓りは請たれども、世渡るたづき、中々に、とめぬ月日の數そへて、垣根のつばな、草しげく、軒の木の葉の重なれど、そをだに拂ふ從者(じうしや)もなし。あれたる宿に雨露繁く、盛澤ひとり住みわびぬ。夜每諸用の爲めに、ともし火を枕下に挑げ臥す、油(あぶら)燈心有りながら、いつとなく、此の火、きゆる。其時しも、必ず、物音騷しく、寢耳(ねみゝ)に入れば、くらく成る。不審(いぶかし)く思ひ、問ひ來るひとり二人にしかじかと語りければ、ひろくいひ罵りて、七條の古御所(ふるごしよ)にこそ、變化(へんげ)、住むなれ、かゝる所には夜に不ㇾ限(かぎらず)、白晝にも出づる物ぞ。葎(むぐら)生(お)ひて、あれたる宿のうれきばかりにも鬼のとよみしおそろしや、さこそあらめと思ひしなれ、と、さまざまにいひはやす程に、いとゞ尋ぬる友もなく、只有長安月夜々訪閑居(ただ ちやうあんのつき やゝ かんきよをよふ)とわびたりし身の上にしられて、物いぶせく成りもて行く、盛澤思ふ。かく有るに、かひなく、壯年を徒(いたづら)にくらし、老いの波をたゝえ、みぎはの松の腰をかゞめて奉公給仕せんに、誰(た)れ、情(なさけ)あつて無益の者を扶持(ふち)すべき、なれば、いづくへも出でん、と、おもふに、折りあしく、此の時しも、變化(へんげ)におそれ逃げ失たり、と、いはれんも口惜し、所詮、化生(けしやう)の實否(じつふ)を見さだめん、但今迄、此方より手を出さねば、我れにわざをなす事なし、今、又、てきたふなれば、しそんじて、あやまつ事もあり、思ひ定む人にしらせて、後の證據に、と一通の置文(おきぶみ)にして奧に狂歌す、

 

   年をへて住みこし里をにげていなば

       いとゞ古御所野とや成りなん

 

こよひは殊更、火を明らかにかゝげ、夢もむすばず、待ちたり。更け過ぐれど、何の子細もなし。いかゞ我が形勢(ぎやうせい)におそれてや、と、火を背(そむ)けて暗き方に寢(いね)たるさまに待ちかけたり、程なく天井より物音あわたゞしく、羽たゝきしておるゝと思へば、燈(ともしび)、きえぬ。心得たり、と飛びつき、落ちたる順道(じゆんだう)を、ひた、と、つかみて、物ひとつ、つかみ得たり。手ぢかく用意したる埋火(うづみび)、片手を持ちて、ともし付け、其の物を見れば、鴟(とび)の大きさしたる蝙蝠(へんぷく)なり。つくづくと思ふに、古きかうもりの、天井に住みて、我がいねたる後、鼬鼠なんど追ひまはして𩛰(あざ)るとて、羽風に燈(ともしび)、きゆるなるべし。然れば、化生(けしやう)といふ迄は、なし。されど、かく大きなる蝙蝠はめづらかならん、と、麻繩(あさなは)をもてつなぎ、人を集めて、みせけるにぞ、各々(おのおの)、驚きける。此の外、猶、おそろしきものゝ住みをらんもしらず、と、いよいよをのゝきてよりつかず、庄太郎は手柄を人に見せたれば、憚(はゞか)る事なく出でゝ、古主(こしゆ)赤松につかへぬ。古御所は其の儘にあれ崩れたれば、果ては農民のすみかとぞなりなん。終(をは)る所を不ㇾ知。

 

■やぶちゃん注

 今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)のそれを用いた。
 
・「在一心(こゝろにあり)」読みはママ。「一心」で「こころ」と訓じている。

・「七條洞院」現在の京都市下京区西洞院附近か。

・「久我」公家の妾らしいから、「こが」。

・「めされし」お呼びにになられた。妾(めかけ)になされた。

・「其かたさまの人ならで、わらづとの金玉を不ㇾ知」ちょっと意味がとりにくいが、そうした公家の名家の方のお妾(めかけ)とは誰も思わず、藁苞(わらづと:周囲の賤民の住居ひいては彼らを差別的に卑小したもの)の中に金や宝玉(公家のお妾を喩えた)が住まっているなどということは、一向に知られていなかった、ということであろう。

・「わくらはにみる人」偶然、たまたま彼女の暮らし振りを目にすることがあった者。

・「たどる」詮索しつつも(そのような賤しい者どもの住まう中にそんな世界があろうなどということはあり得ぬと断ずるが故に、幻しか、変化のものの仕業ではないかと)、思い迷う。( )部分は後に繋がる意識として私が敷衍訳した。

・「納言(なごん)」その妾(めかけ)の主人たる公家を官職で示したもの。

・「賊」先行する中に単漢字「賊」で「ぬすびと」と訓じている箇所がある。一応、それで読んでおくが、「ぞく」でもよい。寧ろ、冷酷無慚な彼らは「ゾク」の音の方がよいかも知れぬ。

・「あるじの女も、左の耳の根より、口わき迄、切られて空しく成る」プレの現実の恐怖の現出である。何よりも恐ろしき物の怪は人に若かず、というホラー正統の流れを汲むものである。

・「盛澤庄太郎」不詳。

・「赤松の政則」赤松政則(享徳四(一四五五)年~明応五(一四九六)年)は加賀半国(加賀国北部半国分)・播磨・美作・備前の守護大名で戦国大名。赤松家第九代当主。嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興、一代で赤松家全盛期を築き上げた中興の英主とされる。管領の細川家に接近、中央政界での影響力を高め、応仁の乱では東軍(細川方)に属し、乱後の明応五(一四九六)年には異例の従三位まで登り詰めた。

・「牢浪の身」浪(牢)人のこと。主家の没落などによって主従関係を断ち、代々の家禄その他の恩典を失った武士を指す。

・「つばな」千茅の花(穂)或いは千茅そのものを指す。単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica のこと。

・「とよみ」「響(とよ)む」で、多くの者(ここは「物の怪」)が大声を上げて騒いでmの意。

・「只有長安月夜々訪閑居」「本朝文粹(ほんちょうもんずい)」「卷第一」の「賦 雜詩」に載る橘在列(たちばなのありつら 生没年未詳:平安中期の官吏・漢詩人。才識抜群とされた)の「秋夜感懷敬獻左親衛藤員外將軍」の末尾の二句。正しくは、「唯有長安月 夜夜訪閑居」で、私は「唯(た)だ有り 長安の月 夜夜(やや) 閑居を訪(おとな)ふ」と訓じたい。

・「いぶせく」気分が晴れず、鬱陶しい。本形容詞には、得体が知れず気味が悪い、の意があるが、とらない。ここはあくまで庄太郎個人の内面的な問題である。

・「但今迄」「ただいままで」と訓じておく。

・「此方」「こなた」。

・「てきたふ」「敵たふ」で、「敵對」の動詞化したもの。「敵対する・手向(てむか)う・対峙する」の意。

・「あやまつ事もあり」「後の證據に」「一通の置文」に「奧に狂歌」まで記すのは、遺書である、辞世である。万一、物の怪と戦って命を落とした時のため、である。

・「いとゞ古御所野とや成りなん」ますますいよいよ古びた御所は曠野(あらの)となってしまうであろう、の意であるが、「いとどふる」で「いとど」(直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目カマドウマ上科カマドウマ科カマドウマ亜科カマドウマ属カマドウマ Diestrammena apicalis 。彼らは翅を持たないので鳴かぬが、江戸時代までは蟋蟀(剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科 Grylloidea のコオロギ類)の一種と見做されて「エビコオロギ」などとも呼ばれ、蟋蟀類の鳴き声を彼らのものと誤認していた)「ふる」(触角を震(ふる))わせてしきりに鳴くような野っ原と化してしまうのだろう、も掛けられているように私は読む。でなくては狂歌にならぬ。

・「順道(じゆんだう)」正規の道筋の意。灯は既に消えているのであるが、残像効果からその怪しい物体が描いた軌跡を記憶に従って暗闇の辿ることを指していると読む。そうすると非常に前後との繋がりがよいのである。

・「埋火(うづみび)」炉や火鉢などの灰に埋めた確実に着火して火を保っている炭火。

・「鴟(とび)の大きさしたる」鳥綱タカ目タカ科トビ属トビMilvus migrans はタカ科Accipitridae の中では比較的大型であり、全長は六十~六十五センチメートルほどで、カラスより一回り大きく、翼開長は一メートル五十から一メートル六十センチほどにもなる(ウィキの「トビに拠る)。一方、哺乳綱ローラシア獣上目翼手(コウモリ)目Chiroptera の内で本邦の本土での最大種はオヒキコウモリ科オヒキコウモリ属オヒキコウモリ(尾引蝙蝠) Tadarida insignis で前腕長五・七~六・五センチメートル、頭胴長で八・四~九・四センチメートル、尾長四・八~五・六センチメートルで尾が長く、和名はそれを引きずることがあることに由来する。体重は三十~四十グラムである。日本では北海道から九州までの広い範囲で確認されているが、記録頭数は少なく、現在は絶滅危惧種。日本では記録の少なさから、当初は迷い込んできただけで繁殖はしていないのではないかという疑いもあったが、一九九六年に宮崎県北部の批榔(びろう)島で集団が確認された後、高知県・京都府・広島県などでも繁殖個体が確認されている(ここはウィキの「オヒキコウモリなどに拠った)。超巨大個体であったとしても、トビほどもあるというのは法螺であり、いれば、それ自体が怪異と言えよう。

・「鼬鼠」これが主語。大きなイタチや大ネズミが大きな蝙蝠を襲って食い物にしようとするのである。本邦のコウモリの主たる摂餌対象は夜行性昆虫である。但し、挿絵を見ると、この蝙蝠なら逆に彼らを食いそうでは、ある。

・「𩛰(あざ)る」鳥獣が餌を求めて獲る。そのまんまのこの漢字、いいじゃないの!

・「終(をは)る所を不ㇾ知」「不ㇾ知」は「しらず」。「その場所(古御所)が遂にはどうなったかは、これ、知らない」の意。怪奇スポットの場所を曖昧するのは、やはり、怪奇談の常道だが、ここはより限定位置として予め、七条洞院をスポッティングしている点で、かえって現実感が添えられてあるのである。

杉山萠圓(夢野久作) 「翡翠を讀んで」

 

[やぶちゃん注:杉山萠圓(はうゑん(ほうえん)は夢野久作(本名は杉山直樹)のペン・ネームの一つ。片山廣子の第一歌集「翡翠」の書評である。

 大正六(一九一七)年四月刊の『心の花』に掲載された(書誌情報は二〇〇一年葦書房刊西原和海編「夢野久作著作集6」の巻末に載る「夢野久作作品年表」に拠った)。初出以外では現在までに採録されたものはないと思われ(西原氏の「夢野久作著作集」でも書誌データのみで本文は載らない)、電子化もこれが最初であると思われる。夢野久作満二十八歳、還俗し、再び福岡香椎村の農園経営に戻った直後の頃で、エンディングのリアリズムは、まさにそうしたのっぴきならない夢野久作の夢野久作たる所以、と見逃してはならぬシークエンスなのである。

 「翡翠」は「かはせみ(かわせみ)」と読み、アイルランド文学の翻訳者としても知られる歌人片山廣子の第一歌集で、佐佐木信綱主宰の結社『心の花』の出版部門である竹柏会出版部から大正五(一九一六)年三月二十五日に『心の花叢書』の一冊として刊行されたものである(私は上記の「翡翠」以外にも、彼女の代表的歌集類及び翻訳と随筆を私のサイト「心朽窩旧館 やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇の「■片山廣子/松村みね子」でオリジナルに公開している。興味のある方は是非、参照されたい)。

 この元データは私のツイッター上での私のこれに関わる書き込みを見られた夢野久作を研究されておられる方が、資料としてお持ちの本書評の画像部分を二〇一六年八月十二日にPDFファイルで無償で提供して下さったものを視認して電子化した。

 踊り字「〱」は正字化した。表題及び署名は底本に反して前後に空行を設けた。署名は「杉 山 萌 圓」と一字空けが施されて、本文ポイント三字上げの下インデントであるがブログでの表示不具合を考えて再現していない(最後の「(香椎園藝場に於て)」も下インデントは同じ)。短歌引用の最初の「何となく眺むる庭の生垣を鳥飛び立ちぬ野に飛びにけり。」の『「』の開始位置は明らかに半角分下がっているが、改行の空けとしても不自然にしか見えないので再現しなかった。引用の「幾千の大木ひとしく靜まりて月の祝福うくるこの時」の歌にだけ最後の句点がないのはママ。

 一ヶ所だけ、冒頭の一文中の「■い表裝」の「■」の字は原本の活字が潰れていて判読が出来ない。(へん)が「にすい」か「さんずい」のように見え、後で歌の趣きを筆者が「滋い沈んだ色彩」と述べていることや、歌集「翡翠」原本の表装はネット上の写真を見る限り、現存物は濃い青か或いは紺色で「しぶい」色には見えることなどから推すと、「しぶい」の意の可能性が高いようには思われる。ここでは、資料提供者の方の意見も伺い、「澁」「歰」「渋」或いは後に出る「滋」ではないか、と推察するに留めることとする。

 なお、引用された「翡翠」からの短歌は総てに亙って原本とは表記が異なっており、一部には問題外の誤字や脱字も認められるので、末尾に全歌の対照表を作って別に掲げた

 また、文中の「竹柏園先生」は『心の花』主宰の佐佐木信綱の別号。「ちくはくゑん」とはべつにこれで「なぎぞの」とも読み、元は同じく歌人であった父弘剛の号であり、門人組織名であった。彼の評「舊衣は破れて新衣未だ成らざる姿」は「翡翠」の信綱の序文(大正五年二月クレジット)の一節に基づいた表現であるが、そのままではない。当該箇所を引く。下線はやぶちゃん。

   *

 自分がこの集を通讀して感じたことを率直にいふと、思ふに著者の歌は、今や岐路に立つてゐる。舊衣を破り捨てて、それに代るべき新しい衣が未だ成つてをらぬといふ狀態にある。固より舊衣は如何に美しとも、それにまさつた新衣だに得なば破り捨てても決して惜しむに足りない。著者の態度は、舊い自己にあきたらないで、而も未だ新たなる信念にそふ歌を得むとして得かねてゐると思はれる。而して著者がその歌風のかかる岐路に立つて、その現在をありのままに曝露しようとした勇氣は、また多とすべきである。而して自分の著者に待つところは、その將來の大成にある。

   *

である。続くその後の、『野口先生の歌はれた樣に「終局の破滅に急ぐ傾向」を帶びて居る』というのも「翡翠」の信綱に先立つ巻頭序文(英文と和文の二種)の詩人野口米次郎(署名は「ヨネ、ノグチ」)の一節に基づく(これも完全な引用ではない)。以下に当該部を示す。下線はやぶちゃん(こちらの全文は私の片山廣子第一歌集「翡翠」に電子済)。

   *

心揚りよろこびを以て吾が常に歌ひしむかしの歌は今いづこにある? 今吾は灰塵となれる廢墟なり。火災と共に吾が生の第三期は始まりぬ。

君も亦君が生の第三期に入りしと吾は信ず。

終局の破滅に急ぐは現代の特色なり。ああ、吾が心の廢墟の上に新しき歌を再び築かばや! 哀愁(かなしみ)と傷痍(きず)より生れいでたる色彩(いろ)と認識(みかた)とを以て、詩人の寂しく大なる城を再び築かばや! 靈妙にして自由なる吾が企圖(おもひ)を行はんためには、吾は理想と夢の歡樂を犧牲にして惜しまざるべし。

吾が友よ、君は吾が言葉を能く理解すべし。

   *

 

 追記。

 因みに、彼女のこの歌集の書評を、今一人、著名な人物がものしている。

 大正五(一九一六)年六月発行の雑誌『新思潮』の「紹介」欄に掲載されたもので、最後に附された括弧書きの署名は「啞苦陀」となっている。「あくだ」、かの芥川龍之介である。片山廣子が処女歌集を龍之介に献本したものと推測される。短いので、参考までに私の芥川龍之介による片山廣子歌集「翡翠」評から引く(リンク先には草稿も電子化してある)。

   *

 

 この作者は、序で佐々木信綱氏も云つてゐる樣に在來の境地を離れて、一步を新しい路に投じ樣としてゐる。「曼珠沙華肩にかつぎて白狐たち黃なる夕日にさざめきをどる」と云ふ樣な歌が、其過去を代表するものとするならば、「何となく眺むる春の生垣を鳥とび立ちぬ野に飛びにけり」と云ふ樣な歌は、其未來を暗示するものであらう。勿論、後者の樣な歌に於ては、表現の形式内容二つながら、この作者は、まだ幼稚である。しかし易きを去つて難きに就いたと云ふ事は、少くとも作者自身にとつて、意味のある事に相違ない。そして同時に又この歌集が、他の心の花叢書と撰を異にする所以は、此處に存するのではないかと思ふ。左に二三、すぐれてゐると思ふ歌を擧げて、紹介の責を完する事にしやう。

 

   灌木の枯れたる枝もうすあかう靑木に交り霜とけにけり。

 

   日の光る木の間にやすむ小雀ら木の葉うごけば尾をふりてゐる。

 

   沈丁花さきつづきたる石だたみ靜にふみて戸の前に立つ。

 

 それから母としての胸懷を歌つた歌に、眞率な愛す可きものが、二三ある。

 

   たゆたはずのぞみ抱きて若き日をのびよと思ふわが幼兒よ。

 

   我をしも親とよぶびと二人あり斯くおもふ時こころをさまる。

 

 野口米次郎氏の序も、内容に適切である。裝幀は淸洒としてゐる。 (啞苦陀)

 

   *

 当時、芥川龍之介未だ二十四歳、片山廣子は龍之介より十四年上の三十八歳、また、この時(大正五(一九一六)年)の二人は、文学者同志の束の間の儀礼的擦れ違いに過ぎなかったものとは思われる。龍之介は同年十二月に塚本文と婚約しており、また、廣子はこの歌集刊行の四年後の大正九(一九二〇)年三月に日本銀行理事であった夫片山貞治郎と死別することとなる。

 ところが、龍之介と廣子は、この八年後の七月の軽井沢で運命の再会をすることとなる。周知の通り、「或阿呆の一生」の「三十七」に出る「越し人」、かの龍之介をして『彼は彼と才力の上にも格鬪出來る女に遭遇した』と言わしめたのが彼女、片山廣子であった。芥川龍之介の絶唱「越びと 旋頭歌二十五首」(大正一四(一九二五)年三月『明星』)も彼女の捧げられたものである。芥川龍之介が最後に愛したのは確かに片山廣子であった、と私は硬く信じて疑わない。それは私のブログ・カテゴリ「片山廣子」その他もろもろで語っているので興味のあられる方は是非、お読み戴きたく存ずる(なお、以上のリンク先は総て私のオリジナルな電子テクストである)。

 

 最後に。

 本電子化の底本データを下さった方に、再度、御礼申し上げるものである。【二〇一六年八月十三日 藪野直史】]

 


     
翡翠を讀んで

       
杉山萠圓

 

 翡翠の一卷を讀み了つて其の■い表裝をぼんやり見つめて居るといろいろの背景の前にいろいろの顏つきが浮み出て來る。

「何となく眺むる庭の生垣を鳥飛び立ちぬ野に飛びにけり。」

「靑白き月の光りに身を投げて舞はばや夜の落葉のをどり。」

「幾千の大木ひとしく靜まりて月の祝福うくるこの時」

 など云ふ快よい滿ち足つた有樣。又は

「春雨や精進のけふのあへものに底の木の芽を傘さして摘む。」

「朝霧の底に夢見る高き木に鶯鳴けばわが心覺む。」

 など云ふ小じんまりした情趣などが眼にちらついて其他の滋い沈んだ色彩を蔽ひかくす樣な氣がする。これは自分の誤解ではあるまいかと思つて二三度くりかへして讀んで見たが矢張り同じ事で、却つて其沈んだ顏つきと浮き立つた背景とが益々はつきりと自分の眼に泌み込んで次第にある一つの顏つきに統一して來る。さうして其輕い華やかな背景に反き乍らじつと眼の前の暗いものを見つめて居る瞳其瞳の光さへ明らかになつて來て靜かに自分の眼と相會ふた時白自分は正に頭の中に翡翠といふ婦人の肖像畫を作り得た心地がした。さうして此女人の表情と背景とが朧氣ならず矛盾して居る理由を察し得て何と無く頭の下るのを禁じ得なかつたのである。

 此矛盾が作者の歌であつた。生命であつた。

「生くるわれと夢見るわれと手をつなぎ歩みつかれぬ倒れて死なむ。」

 又過去と現在と未來であつた。

「くだものと古き心をすてゝ見む鳥やついばむ人や踏みゆく。」

 併せては又其生涯の回顧と煩悶空虛と實在であつた。

「花も見ず息をもつかず急ぎ來しわが世の道を今ふりかへる。」

「つれつれにちひさき我をながめつゝ汝何者と問ひて見つれど。」

 とあるのを見ても疑ふ餘地が無い。

 竹柏園先生のお詞の如く「舊衣は破れて新衣未だ成らざる姿」で又野口先生の歌はれた樣に「終局の破滅に急ぐ傾向」を帶びて居る。さればこそ

「渦卷きに一足入れてかへり見し悲しき顏は忘れ難かり。」

 と云ふ歌が殊に強く自分の腦狸に印象を殘したのであらう。

 併しもう仕方が無い。行く處まで行かねばならぬ。それならば何處ヘゆくか。自分は斯樣思つて再び翡翠を取り上げて豆だらけの手で裏表を撫で乍らぼんやりと外を眺めた。窓の前にはまだ熟せぬ水蜜桃の袋がいくつも葉蔭に並んで居る。遠くの野の低い處に雲雀が鳴いて居る。空も靑黑く地も靑黑い。何時まで眺めても考へがつかないまゝに筆を擱いた。さうして自分も亦此問題を考へねばならぬ者であると深く深く感じた。

          (香椎園藝場に於て)

 

 

■やぶちゃんによる引用歌と原本「翡翠」の当該歌との対照表

 引用中の一ヶ所を除いて総てに附されてある末尾の句点は原歌集にはないので除去して示した。

 最初に本文の引用短歌を出したが、頭に「○」「△」「×」の記号を附した。「○」は「許せる範囲」、「△」は「誤りではないが、転写引用としては問題がある」レベル、「×」は生死にかかわる緊急手術必要、という一種のトリアージとして示したものである。

 矢印(↓)の次の【翡翠】とある次の行の「◎」を附したものが、元歌集「翡翠」の正規表現である。引用の方に私が附した下線部太字は原本と異なる問題箇所である。

 

○何となく眺むる庭の生垣を鳥飛び立ちぬ野に飛びにけり

【翡翠】

◎何となく眺むる春の生垣を鳥とび立ちぬ野に飛びにけり

[やぶちゃん注:「翡翠」巻頭歌。正直、それくらいは誤らずに引用して欲しかった。以下、片山廣子は夢野久作の洞察に富んだ評言には心から感謝し乍らも、引用の杜撰さには少ししょんぼりしたような気がする。]

 

○靑白き月の光りに身を投げて舞はばやの落葉のをどり

【翡翠】

◎靑白き月のひかりに身を投げて舞はばや夜(よる)の落葉のをどり

[やぶちゃん注:「翡翠」の最終歌から十三首前の歌。引用には「夜」のルビがない。頂戴したデータの前後の別な人物の記事ではルビを振った箇所は認められないものの、多量の異なった記号の傍点が沢山認められるから、『心の花』の版組上、ルビが振れなかったとは言わせない。]

 

×幾千の大木ひとしく靜まりて月の祝福うくるこの時

【翡翠】

◎幾千の大木ひとしく靜まりて月の祝福(めぐみ)をうくるこの時

[やぶちゃん注:引用ではルビがなく、おまけに格助詞「を」が脱落しているため、「祝福」は「しゆくふく」と読まれてしまう。

 

×春雨や精進のけふのあへものの木の芽を傘さして摘む

【翡翠】

◎春雨や精進のけふのあへ物に庭の木の芽を傘さしてつむ

[やぶちゃん注:「庭」を「底」とするとんでもない誤りであるが、どう考えても「底」では意味が通らないから、夢野久作の誤りではなく、単なる『心の花』側の誤植・校正ミスであろう。]

 

○朝霧の底に夢見る高き木に鳴けばわが心覺む

【翡翠】

◎朝霧の底に夢みる高き木にうぐひす鳴けばわが心覺む

 

○生くるわれ夢見るわれと手をつなぎ歩みつかれぬ倒れて死なむ

【翡翠】

◎生くる我とゆめみる我と手をつなぎ歩み疲れぬ倒れて死なむ

[やぶちゃん注:「翡翠」の最終歌から十二首前の歌。]

 

○くだものと古き心をすてゝ見む鳥やついばむ人や踏みゆく

【翡翠】

◎くだものと古き心は捨てて見む鳥やついばむ人や踏みゆく

[やぶちゃん注:「翡翠」の最終歌から十一首前の歌。]

 

○花も見ず息をもつかず急ぎ來しわが世の道を今ふりかへる

【翡翠】

◎花も見ず息をもつかずいそぎ來しわが世の道を今ふりかへる

 

つれつれちひさき我をながめつゝ汝何者と問ひて見つれど

【翡翠】

◎つれづれに小さき我をながめつつ汝何者と問ひて見つれど

[やぶちゃん注:引用の「つれつれ」の後半は底本では踊り字「〱」であるので(「〲」では、ない)、かくした。原本でも前の引用の歌の次に配されている一首である。]

 

渦卷きに一足入れてかへり見し悲しき顏は忘れ難かり

【翡翠】

◎渦まきに一足入れてかへりみしかなしき顏はわすれがたかり

人間の生命は地球より重い   梅崎春生

 

 ちかごろいろんな事故があちこちで起り、そのたびに人が死ぬ。踏切事故。ダンプカー。火事の逃げ遅れ。それから相つぐ炭鉱の事故。九州はわたしの故郷なので人ごととは思えない。何十人が死んだという記事を読んだり、泣き伏す遺族のテレビニュースを見たりすると、悲しいというよりむらむらっと腹が立ってくる。どうして人の命がこんなに軽く見られているのだろう。

 人命軽視の風潮は、あるいは戦争の影響かもしれない。あのころ人間の命なんて塵芥(ちりあくた)のごときものであった。きさまたちの命は一銭五厘(当時のはがき代)だと下士官が豪語したり、人間よりも軍馬のほうがはるかに大切であったりした。

 海軍で夜戦をやる。こちらもさんざん沈められて、海面には水兵がたくさん泳いでいる。駆逐艦がそれを拾い上げて廻る。一定の時刻がくると、つまりもうここを離脱せねば翌朝敵機に追いすがられるおそれがある時刻になると、救助を中止して駆逐艦は出発する。そのさいごに拾い上げられたという下士官がその状況をわたしに話してくれた。

「すごいもんだよ。駆逐艦が動きだすと、海面に取り残された全将兵がいっせいにわーっというような声を上げる。うらみというか絶望というか、あの声は一生おれの耳にこびりついて離れないな」

 わたしはその話を聞いたとき、戦争の非人間性に戦慄(せんりつ)した。戦争とはそんなものだと思っても身ぶるいを禁じえなかった。

 いまは戦時とは違う。火事で逃げ遅れて死ぬ。死ぬほうが不注意だとは言わせない。新聞その他によると、たいていの逃げ遅れは、三階か四階の屋根裏みたいなところに寝ている。だから気がついたときはもうおそい。逃げたくても逃げ場がなくて、そのうち煙にまかれて焼け死んでしまう。逃げる気力や体力があるのに焼け死ぬなんて、何という悲惨なことだろう。そんなところに寝ているのが悪いのではない。違反建築をしてそんな部屋をつくり、そこに寝かせたやつが悪いのだ。

 炭鉱事故はもっと悲惨だ。水没事故や爆発事故など偶発的に起ったものではなかろう。必ずそこに危険度や前兆があったに違いない。わたしは炭鉱についてはしろうとだが、何十年という長いあいだ掘りつづけてきたのだから、保安の方法もそれにつれて発達し精密を加えてきたはずだ。それなのにこんな大きな事故が頻発するのは、どこかで手が抜かれているとしか思われまい。戦争中人命を塵芥のごとく見た傾向が、形を変えていまでも残っているのではないか。

 どんな虫けらだって殺そうとすれば必死になって逃げ廻る。ましてわれわれは人間である。他人の手落ちなどでむざむざと死にたくない。わたしたちがナチズムをにくむのはナチズムの世界観じゃなくて、むしろかれらの非人間的なやり方にたいしてである。

 人間の生命は地球より重いのだ。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第七十三回目の昭和三六(一九六一)年三月十七日附『西日本新聞』掲載分。

「相つぐ炭鉱の事故。九州はわたしの故郷なので人ごととは思えない」ウィキの「炭鉱などの炭鉱事故記録によれば、この頃の主な炭鉱事故は事実、福岡県で多く発生していることが判る。

昭和三三(一九五八)年

九月二十五日、福岡県山田市にある池本鉱業大昇炭鉱にてガス爆発が発生。死者十四人。

昭和三五(一九六〇)年

中元寺川の増水によって豊州(ほうしゅう)炭鉱(福岡県)で落盤、死者・行方不明者六十七人。

昭和三五(一九六〇)年

二月一日、北炭夕張炭鉱(北海道夕張市)でガス爆発が発生。死者四十二人。

昭和三六(一九六一)年

三月九日、上清(かみきよ)炭鉱(福岡県)にて坑内火災、死者七十一人。

三月十六日、大辻炭鉱(福岡県)にて坑内火災、救助に入った炭鉱長も巻き込まれ、死者二十六人。

最後に示した事故は驚くべきことに(東京住の梅崎春生がこの事故を知って書いたのではこの掲載には間に合わないと私は思う。これはまさに戦慄すべき偶然だったのではないか?)本記事の前日である。]

2016/08/12

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   釣針、心(むね)を割(さ)く

    釣針割ㇾ心(つりはりむねをさく)

 

老いの今、若き昔し、見聞きし事どもを思ひ出づれば、悲喜も苦樂もさまざまなりし其の中に、我が、國に在りし時、吹飯(ふけゐ)の浦ちかくあそびありきし濱邊の小家に、只今、あるじ、頓死したり、と女子どもの哭き叫ぶ聲あり。折ふし、しれる人の其の家より出たるに、いかにして死せるや、と、とへば、彼(か)の人かたりて、されば、生ける身の死に赴く事、老若(らうにやく)隔てなく、時日(じじつ)定めなし、しかも死のえん、さまざまにて、病ひに臥し、刄(やいば)にかゝり、火に入り、水におぼるゝ事、誰れか、かねて知るべきなれど、此のあるじの頓死ばかり、ふしぎなる事なし。此の者、年來(ねんらい)、魚の釣針(つりばり)を作る事を渡世の業(わざ)とす。大小の魚類に隨つて針の作りやう、品々(しなじな)有り、彼(か)れ、能く、是を丹練して上手なる上、浦々の獵師、津々の遊民、是が針ならでは曾て用ひず。さるものゝ曲(くせ)にて、針壹一本、あつらふるに、月日を越えて隙を入る。然れば、一生此の能あつて、富めるにもあらず、朝飯(あさはん)して夕の糧(かて)なく、心は賢(けん)にたがひながら、首陽(しゆやう)の蕨(わらび)を折り、夜の衾(ふすま)、薄ければ、藁に臥して自ら孫晨(そんしん)が樂しみを眞似たり。然るに今日、俄かに心痛(しんつう)して、四肢をもだへ、大聲を出し、叫びけるが、忽ち、胸もと、二つにさけて、空しくなる。此の破れたる所を見れば、白き釣針、數百本あり。鐵胴(てつどう)の類ひにはあらで、しやれたる骨なれども、釣針に違(たが)ふ事なし。是をおもふに、此の者、一生、細工に工夫し、餘事(よじ)を忘れたる心、凝つて病ひとなり、命をうしなへるか、將(はた)、是(これ)が作れる針にかゝつて、命を取られたる魚(うを)の精靈(せいれい)きそひ來て、身を責めたるか、此のふたつの物、のがるべからず、と、かたる。一目みてこそ信用すべけれ、いざ、と、いへど、此の人、いふ。中々、はづかしき目を外に見せじ、と、妻子、取まかなひて、今は見せ侍らず。我れ、發病より傍(そば)に在りて委しく見侍り、と、いへど、若き心の曲(くせ)とて、しみじみ用ふる事もなかりしに、近き頃、ある書を見れば、惠心僧都(ゑしんそうづ)を火に葬(はうふ)りしに、胸に一もとの蓮花(れんげ)あつて、火に焦(こが)れず、拜まれし、と、この人、不斷念佛の眞實(しんじつ)つもり、淨土の蓮臺に座せんと願ひ給ひし念慮、こりかたまつて如ㇾ此、と、いへり。是をおもへば、善心惡行、各(おのおの)、別なり、と、いへども、こつて、形を顯はす事、おなじ理(ことわり)なるべし、と、ひとり思ひ出でゝ、菩提心のうすき事をなげきけり。

 

■やぶちゃん注

 底本では最後に「宗祇諸國物語卷三」とある。

・「我が、國に在りし時」既に注したが、飯尾宗祇の生国は紀伊とも近江とも伝えられるが、先行する「高野登五障雲」では「南紀は本國なれば」と述べている。

・「吹飯(ふけゐ)の浦」現在、一般には現在の大阪府泉南郡岬町深日(ふけ)の海岸とされ、ここは紀伊国ではないものの、現在の和歌山市の北西十キロメートルほどの直近であるから、紀伊生国説とは矛盾しないと言える。

・「遊民」辞書上は、職業に就かず遊び暮らすのらくら者とするが、ここは趣味として釣りをする者の謂いであろう。

・「さるものゝ曲(くせ)にて」その釣針師の性格上。

・「針壹一本、あつらふるに、月日を越えて隙を入る」たかが釣針一本を誂える(拵える)のにも、一月以上もかけた上、その後には(疲れ切ってか?)次の針作りまでは、これまた長い隙(ひま)、休息をとる、と解しておく。

・「朝飯(あさはん)して夕の糧(かて)なく」金がないので、朝飯を採るだけで、夕飯はなしというありさま。

・「心は賢(けん)にたがひながら」殺生の道具を作ることは仏法の正しき智に違(たが)うのである。

・「首陽(しゆやう)の蕨(わらび)を折り」「史記」列伝の巻頭で知られる伯夷・叔斉の伝承に基づく。武王が暴君であった殷の紂王を滅ぼそうと軍を起こそうとするのを武王の父文王の喪が明けていないと批判して止めようとした。殷が滅んで武王が周を建てたが、二人は周の粟(ぞく)を食(は)むを恥とし、周を遁れ、首陽山(山西省西南部にある山)に隠棲して蕨を採って糧(かて)としたが、遂には餓死した。

・「孫晨」中国の立志伝中の一人。宋の徐子光「蒙求集註」に「三輔決録」から引いて、

 

孫晨、字元公、家貧、織席爲業。明詩書、爲京兆功曹。冬月無被、有藳一束、暮臥朝收。

(孫晨、字(あざな)は元公、家、貧にして席(むしろ)を織りて業と爲(な)す。詩書に明にして、京兆の功曹(こうそう)と爲る。冬月、被(ふすま)無く、藁(わら)一束、有り。暮に臥し、朝(あした)に收む。)

 

と出る。本邦では徒然草の第十八段の終りに、

 

孫晨は、冬の月に衾(ふすま)なくて、藁(わら)一束(つかね)ありけるを、夕(ゆふべ)にはこれに臥し、朝(あした)には、をさめけり。唐土(もろこし)の人は、これをいみじ、と思へばこそ、しるしとどめて世にも傳へけめ、これらの人は語りも傳ふべからず。

 

と出、本筆者もこの「徒然草」を元としつつ、その最後の兼好の如何にもな皮肉な謂いを受け、それを「傳へ」んがために引いたような気も、してこないことはない。

・「しやれたる骨」これは「曝(さ)れ」の転訛した「しやれ(しゃれ)」(「洒落」とは無縁)で長く風雨に曝されて古くなったさまを附加する接頭語由来の語ととる。古びた、動物の骨を削って作った釣針の意。

・「取まかなひて」(床の遺体の)世話をして。

・「若き心の曲(くせ)」若い者にありがちな(理に走って超自然の怪異をなかなか信じない)性質(たち)。

・「しみじみ用ふる事もなかりしに」つくづくと、心からその通りであろうと納得することはなかったのであったが。

・「ある書」本書の種本とも思われる「撰集抄」の「卷八」の「第三四 「惠心僧都臨終の胸の蓮の事」。冒頭部を示す。

   *

むかし、恵心の僧都と云(いふ)人いまそかりけり。智惠さきら並(なら)びなきのみにあらず、澄めるまことの月をも見て、よものうき雲をも心のうちにけし給ふ人になんおはしける。しかれども生(しやう)ある物はかならず死する世のさがなれは、七旬(じゆん)にかたぶき給ひて後、橫川(よかは)にて御みまかりけるに、胸のあひだに靑蓮花三本侍りけり。かたじけなくぞ侍る。

   *

簡単に語注する。「惠心の僧都」平安中期の天台僧であるが、鎌倉新仏教の浄土教成立の元となった「往生要集」の筆者として知られる源信(天慶五(九四二)年~寛仁元(一〇一七)年)。「さきら」「先ら」(「ら」は接尾語か)才気の実際に行動や物として現われたもので、弁舌や筆勢などに使う。「七旬」この「旬」十年を一期とする単位。源信は享年七十六で示寂している。「橫川」比叡山延暦寺を構成する三つの地域である三塔の一つ。円仁の開創。

・「如ㇾ此」「かくのごとし」。

・「こつて」「凝つて」。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   怪異(けい)を話(かた)る

    怪異(けいをかたる)

 

越(ゑつ)の後州(ごしう)に居(ゐ)ける頃、野本外記(のもとげき)といふ士(さむらひ)、昵(むつ)び、日を絶えず往來(ゆきゝ)してかたる。ある夜、所用有り、と、いひこしける程に、彼(か)の館(たち)に行きぬ。外記の云く。こよひ傍輩(はうばい)數(す)十人集まり、百物がたりを始めて、俗説のごとき、怪異(けい)ありやなしや、是をこゝろむ、御坊に賴み侍る一役有り、此の事の作法とて人のいひしは、一間なる所に、其の連衆、こもりゐ、戸の口に、ひし、と鎖をおろし、燈(ともしび)に灯心(とうしん)百筋(もゝすぢ)入れ、靑紙を以て、闇燈(あんどう)に用ゆ。扨、座中のひとりひとり、兩手(りやうしゆ)のおや指を一つ所によせて、しとゞくゝり、働く事を得ざるやうに相はかる、物がたり初めてより、一こと一ことに、燈心、又、一筋づゝ、けす。然るに連衆はいふがごとく、手を結ふによつて、其の事、不ㇾ叶(かなはず)、臆(おく)したる中間、小者を置かんに、自然の時、騷しからん。貴僧は物に動ぜぬ本性なれば、此のふしぎの證據のためながら、此の役、勤めてたうべんや、と、いふに、安き程の事、と、ことうけしぬ。衆中、一間に入りて、いひしごとく、ひとりひとり語るほどに、おどろおどろしき事の品々(しなじな)、中々、氣弱き者は絶入(ぜつじゆ)し啼きも出づべき計り、とりどりに語る程に、曉(あかつき)近くなりて、物語、百にみちければ、灯心一筋になりて、靑き光かうかうと物冷まじ、鼬鼠の、天井に足おとし、蛬蚓の簀子(すのこ)に鳴出(なきい)づるも、すは、物こそ、と、おもふ目づかひ、いろ、外に顯(あらは)る、とかくするに、あけがた近くなれども、怪事なく驚くべき異變もなし。各(おのおの)笑うて、無興(ぶきやう)の事かな。戀(こひ)ならで待つは、うき物、化ものゝ君、ねぶりきざしぬ、いざ、夢に見てあそばん、と、氣を屈して、皆、まろび寢(ね)ぬ。明けはなれ、連衆一人、晨(つと)に起きて見れば、只今切りたると覺しくて、若き女の首、血にそみたる紅粉、名殘(なごり)有りて、枕下(まくらもと)に見ゆ。驚き、座中を起し、かゝる曲者あり、と、いふにぞ。各、目を覺しける、戸、障子、きびしく固め置きたれば、いづち來べき道なし。若(も)し、古き蜘(くも)なんどの誑惑(たぶらか)すにや、能くからめて、ふすべよ、切りくだけよ、など、とりどりに責むるに、かたちかはらず、此の國中に女やきられたる、と尋れど、更に其の事なし。日數ふれども、女のくびにて、かはる事もなし。ふしぎの事にや。

 

■やぶちゃん注

 この百物語絡みの怪異は個人的に慄っとするほど素敵である。特に最後の最後に女の首がそのままで変わらぬとあって截ち切れられるコーダこそが、すこぶる恐ろしく、絶対に、よい。これぞホラーの正道と言えるものである。

・「越(ゑつ)の後州」越後国。

・「野本外記(のもとげき)」不詳。但し、この後の第五巻にも彼の話が出る。本作の情報屋(無論、私がこういう時は特異的に水木しげるの「悪魔くん」のそれである)的存在と言える。

・「闇燈(あんどう)」「行燈(灯)(あんどん)」(読みは唐音)と同じい。「あんどん」は「暗鈍」「闇鈍」とも書く。

・「座中のひとりひとり、兩手(りやうしゆ)のおや指を一つ所によせて、しとゞくゝり、働く事を得ざるやうに相はかる」百物語の規則としては私は他には例を見ない興味深い仕儀であると思う。こりゃ、いいね!

・「自然の時」この「自然」は「しぜん」で、副詞用法の、「万一の事態の起こるさま・ひょっとして」のニュアンスであり、「万一、何かが起った時」の意。必ずしも超自然の怪異とは限らない点に注意。

・「騷しからん」不安であろうと存ずる。

・「冷まじ」「すさまじ」。

・「鼬鼠」「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)では右に「ゆうそ」のルビ、左に「いたちねつみ」のルビを振る。

・「蛬蚓」「西村本小説全集 上巻」では「蚕蚓」とあって右に「さんいん」、左に「きりきりすみゝづ」と振る(「きりきりす」(きりぎりす)の「きり」はそこでは踊り字「〱」)が、字が違う。底本の「蛬」が正しく、これは音は「ク」或いは「キヨウ(キョウ)」で、「こおろぎ」或いは「きりぎりす」を指す(蟋蟀(こおろぎ)と螽斯(きりぎりす)の両者は実は古典では現在の逆、又は、一緒くたである)。言わずもがな乍ら、蚯蚓(みみず)は古来、啼くものと考えられていた(これは現在は土中に潜む螻蛄(けら)の鳴き声を誤認したものと考えられてはいる)。

・「ねぶりきざしぬ」座の連中が皆、眠くなってきた、と言っているのである。ここで彼らは気がつかねばならなかった、睡魔が襲うのは怪異の起こる前兆であることを。それにしても宗祇はどうしていたのであろうか? 彼まで一緒に寝てしまったものか? それでは役に立たぬのだがね、宗祇センセ!

・「氣を屈して」最早、百物語をした上は怪異も起こらぬ、されば、もう怪異を待つまでもない、それを「待つところの意欲・気力がなくなってしまい」という謂い。この全員の意志貫徹喪失も怪異の起こる前兆なのである。

・「明けはなれ」「明け離る」で「夜がすっかり明ける・明け渡る」。

・「晨(つと)」「つとめて」で「百物語を行った、その翌朝」の意。やったでしょ! 古文の授業で! 「何かがあった翌朝」という限定用法だよ。

・「紅粉」「こうふん」。紅(べに)と白粉(おしろい)。脂粉・化粧の謂いだが、ここは鮮血との対比で後者の白粉が主たる意であろう。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   當話、雨より速し

    當話(とうわ)雨より速し


Ameyorimohayasi

文月(ふづき)末、但州(たんしう)二見の浦を見にまかりけり。伊勢におなじ名所有り、過ぎこし春は勢州の其の浦を見しに、秋の今は引きかへて、又、此の國の爰に辿る。能因の、都の霞(かすみ)白川の秋かせとよみしに、はやう替りけり、と俳諧(ざれうた)して過ぐ、

 

  花をひがし月かげ西に二見かな

 

夜ならで白晝に月の發句、人にきけて笑はるべく、我ながら、我、はづかし、よき人の歌をあぢはふこそいくたびも珍しき物にはありけれ。兼輔の、

 

  夕月夜おぼつかなきを玉くしげ

      ふたみの浦は明けてこそみめ

 

とよめるを吟じもて行くに、村雨(むらさめ)しきりなれば、人家求めんと急ぎたどる、爰に一樹の松の下(もと)に、雨やどりする小僧あり。笠松(かさまつ)をかさに着て、雨を凌ぎ給ふよ、と、いひ捨(す)て過ぐる。小僧、言下(ごんか)に、初祖(しよそ)、既に蘆(あし)の葉を履(あしだ)にはきて、水を渡りし、と答へき、利口なる辯舌、生ひさきおもひしられて、いづこの人ぞとはまほしく思へど、雨の足の冷まじきに心ならずにげきぬ

 

■やぶちゃん注

 今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)のそれを用いた。

・「文月」旧暦七月。

・「但州(たんしう)二見の浦」歌枕。現在の兵庫県城崎(きのさき)郡城崎町の城崎温泉の近く円山川のあたりとする説の外、瀬戸内海側の同兵庫県明石市二見町辺りとする説がある。

・「能因の、都の霞(かすみ)白川の秋かせとよみし」「後拾遺和歌集」の「卷第九 羈旅」に載る、能因法師の知られた一首(五百十八番歌)、

 

   陸奥國にまかり下りけるに、

   白川の關にてよみ侍りける

 都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の關

 

を指す。後の「はやう替りけり」は或いは本歌の逸話として人口に膾炙する、行きもしない奥州の白川の関を能因法師はかくも見たように詠んだというのを踏まえ、現実の季節の移ろいはかくも無常に「速し」、としみじみと感じた、と幾分か皮肉を込めて添えたものかも知れぬ。

・「兼輔の」「夕月夜おぼつかなきを玉くしげふたみの浦は明けてこそみめ」は「古今和歌集」の「第九 羈旅歌」の藤原兼輔の一首(四百十七番歌)、

 

   但馬國の湯へまかりける時に、

   ふたみのうらといふ所にとま

   りて、夕さりのかれいひたう

   べけるに、ともにありける人

   人のうたよみけるついでによ

   める

 夕づくよおぼつかなきを玉くしげふたみのうらはあけてこそ見め

 

である。

・「小僧」若き僧侶。

・「笠松」枝が四方に広がっていて笠のように見える松。

・「初祖、既に蘆の葉を履(あしだ)にはきて、水を渡りし、と答へき」この若き行脚僧は禅僧であったのであろう、これは達磨大師に纏わる「一葦渡江(いちゐとかう(いちいとこう)」に基づく謂いであるからである。達磨が行脚の途次、ごく小さなる舟に乗って大河楊子江を渡ったとする故事である。後世、「一葦」(あくまで「一葉(いちよう)、小さな小舟の意)を実際の「一枚の葦(あし)の葉」として、超能力然なる伝説に変じたのは誤りとされる。

・「冷まじき」「すさまじき」。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   富貴、上の慈に寄る

    富貴寄上慈(ふつきかみのじによる)

 

和州よしの山は花の名所にて、舊跡も他の國にすぐれ、代々によみける秀歌、數ふるに絶へたり。日をかさねて、靈佛舊社(れいぶつきうしや)尋ねめぐる、爰に下市(しもいち)といふ所あり、月次(つきなみ)の市日(いちび)定まつて、近國より、衣服、器財、食物(しよくもつ)其の外、種々(しゆじゆ)の珍貨(ちんか)賣買をなすに、一つとして缺(かけ)ず、つどひ集まる事、京都、難波(なには)にひとしく、繁昌、いふ計りなし。此の里に、勝れたる富裕の者あり。眈々(たんたん)たる軒甍(のきいらか)をならべ、高々(かうかう)としたる梁(うつばり)、屋(をく)を潤す。名を鼠(そ)十郎と呼ぶ。彼(か)れが富める來由(らいゆ)をとふに、里人の云く。此の家に三面の大黒天あり、昔し、傳教大師、比叡山開基の時、福神(ふくじん)に祈誓(きせい)し給ふ事有り、我れ此の山をひらきて佛法流布(るふ)、王法(わうはふ)長久の祈願、相比(ひ)し、三千の衆徒(しゆうと)を住せん、と誓ふ。衣食住ともに乏しくて、不ㇾ可ㇾ叶(かなふべからず)。天神地祇、此の願ひを助力し給はゞ、ひとつの瑞を見せしめ給へ、と丹誠をぬきんて給ふ。時に三面(めん)の福神、忽然と出現する、所謂、大黑天、毘沙門、辨才天、合體(がつたい)の一像也。大師よろこび給ひ、此の尊像をうつしとめんと、即時、三體、同じ形像(ぎやうざう)にきざみ給ふ。いかにしてか、此の一體、鼠十郎が家に守り奉る。去る故、此の尊のけんぞくに比して、自が名に鼠(そ)の字を用ゆ、正直にさへ、又、信心堅固の男なりし。常に朝とく起きる事をこのむ、或夏の夜の明けがた、まだ、ほのぐらきに、例のごとく起出で、門をひらき、自ら、水うち、さうぎのほこり拂ひなどして、凉(すゞ)み居(ゐ)るに、見馴ぬ男一人來り。こも包(つゝみ)ひとつ、場(には)へ投げ入れ、遽(あわたゞ)しく逃げ歸る。怪しや、と見る所に、二町も行きぬらん、と思ふ跡より、男、數十人計り、弓、箙(やなぐひ)、鉾(ほこ)、利劔(りけん)を引提げ、北へや行きし、南へや歸りたる、と罵つて、方々へ、わかれ散る。心得ぬ事かな、と、みるに、まだ明けはなれぬ霧の間に見失なひぬ。終日(ひねもす)待てども問ひ來(く)るものなし。包(つゝみ)ながら目代の何がしに訴へたり。其のこも包をひらきたるや、と、卒爾(そつじ)の事に侍れば、包みたるまゝに侍る、と、いふ。何にてかあらん、推量しけるや。金鐵(きんてつ)のわかちは存じ侍らず、慥か、銀の類と見え候、と申す。目代、聞給ひて、それ、解きてみよ、と、是をとくに、黃金の灰吹(はひふき)といふ物、七升(ます)あり。是は、何さま、子細在るべし、と、暫らく目代に預かり置き、盜まれたる主(ぬし)やある、と、三年の程、藏に納めて待つに、近國にも他國にも、とられたる者なし。或夜、目代、怪しき夢を見る、縱(たとへ)ば、三人の異相(いさう)あり。一人は色くろく、耳、大きに、顏(かんばせ)、笑(ゑ)めり。一人は眼、大きに、怖(おそろし)く、いかれる男、今一人は容色(ようしよく)たんごんの女。何れも胴體は定かにみえず、此の三人、詞をおなじうして、いふ。鼠(そ)十郎、年來、我れを信ずる事、僞りなきによつて、七福をけんぞくに持せ遣はす。邪神(じやしん)の禍ひをはらはん爲めに、同じく、けんぞくに兵具(ひやうぐ)を持せ、道を守らせ侍り。正直の餘り、是を汝に訴ふ。更に賊(ぬすびと)の所爲(しよゐ)にあらず。速に渡すべし、と宣ふ下に、夢、覺めたり。驚きて、鼠十郎を召出し、汝、常に信ずる所の神ありや、と、則り、三面の福神を持參し、日比月ごろの信仰を、又、述ぶる、目代、是を拜するに、夢に見し異相(いさう)、少しもたがふ事なし。鼠十郎が信仰に誠ある事を感じ、右の金をかへしあたふ。是よりこそ、かく富み榮えの家となつて、双ぶべきかたもなし、と語る、誠に現當過去(げんたうかこ)の願ひ、ともに至誠心ならば、何ぞ、佛神に、又、納受(なふじゆ)なからん。おもふに、世人、只、正直を忘れ、貪欲の心より逆(さかし)まに祈りて、願ひみちざる時は、佛を恨み、神をさみするによつて、かへつて罰をそふる、つゝしむべく、心を付くべし。

 

■やぶちゃん注

・「下市」現在の奈良県南部の吉野郡下市町(しもいちちょう)。ここに出るように、古く平安の頃より吉野の入り口として栄えて市が立つようになり、日本で最初に商業手形である下市札(しもいちさつ)が発行されており、吉野地方の主要商業地として栄えた。主な地場産業は吉野杉を素材とした杉箸・三宝・神具の生産である。

・「珍貨」珍しい物品・財宝となるような珍奇な品。

・「眈々(たんたん)たる」「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)でもこうなっているが、これは「湛々たる」の誤りであろう(「虎視耽々」で判るように「耽々」には「鋭い目つきで獲物を狙うさま」以外の意味はないからである)。「湛々」には水や露などを多くとどめているの謂いの外に、「重厚なさま」の意があるからである。

・「潤す」利益・恩沢・恵みを与えて豊かにさせる、の意。

・「相比(ひ)し」擬(なぞら)える。等しく合わせる。「相」は対象があることを示す接頭辞。

・「自が名に鼠(そ)の字を用ゆ」「西村本小説全集 上巻」では「鼠」には右の「そ」のルビ、左に「ねづみ」のルビを打つ。

・「さうぎ」「無数・多くあること」の意の仏語「僧祇」か。但し、その場合の歴史的仮名遣は「そうぎ」である。

・「二町」約二百十八メートル。

・「卒爾(そつじ)の事」予期していない突然のこと。俄かなる出来事。

・「目代」室町時代以降のそれは広く代官の意に用いられた。

・「わかち」判別能力。

・「灰吹(はひふき)」煙草盆に付属した筒で灰や吸い殻などを落とし込むもの。通常は竹製であるが、ここは銀製ということになる。

・「たんごん」「端嚴」で「たんげん」とも読み、きちんと整っていて威厳のあるさま。

・「けんぞくに持せ遣はす。邪神(じやしん)の禍ひをはらはん爲めに、同じく、けんぞくに兵具(ひやうぐ)を持せ、道を守らせ侍り」ということは先の場庭(鼠十郎の家の前)に包を投げた者が使者である眷属であり、「跡より、男、數十人計り、弓、箙(やなぐひ)、鉾(ほこ)、利劔(りけん)を引提げ、北へや行きし、南へや歸りたる、と罵つて、方々へ、わかれ散る」というのが、その護衛のための複数の眷属であったことになる。持ち来った男の行動や、後続の男たちの台詞が如何にも不審ではあるが、これは寧ろ、霊意であることを隠してそれを鼠十郎に与えるための一連の現実に見せるところの演技であったということになろう。

・「速に」「すみやかに」。

・「日比月ごろの」「ひごろつきごろの」。永年不断の。

・「金」「かね」。灰吹きが銀製であることから、かく言った。

・「現當過去(げんたうかこ)」「現當」はこの世とあの世で「現世」と「来世」であり、「過去」は過去世で、「前世」の意となって三世を指す。

・「納受(なふじゆ)」仏語で、神仏が人の願いを聞き入れることの意。この「なからん」は言わずもがな、反語である。

・「貪欲」ここは仏語十悪の一つである強い欲望を持つことで、「とんよく」と訓じたい。

・「さみする」既注であるが、再掲する。「褊(さみ)す」などと書き、サ行変格活用動詞で、「侮る・軽んじる」の意。

文学青年   梅崎春生

 

 わたしが二十代のころは、小説に志すということはかなり危険なことであり、気恥かしいことであった。当人は高邁(こうまい)の志をもってやっているつもりでも、世間一般が小説書きなんて碌でなしと思っているから仕方がないのである。だからわたしは両親にもなるべくかくすようにしていたし、親類縁者に会っても絶対にそんな話はしなかった。こそこそと文学の勉強をしていたという感じである。

 わたしはいまでも職業を聞かれて小説を書いています、と答えるのに若干の気おくれを感じる。あのころの気分がいまでもあとを引いているのだろう。

 本紙一月五日号文化欄に劉寒吉さんが「夢の話」という随筆を書いていた。町内の老人たちが集まって、あの寒吉という若いもんは小説にこって家業をおろそかにする、みんなで意見をしようじゃないか、と相談しているのを当の寒吉さんが隣室で小さくなって聞いている。そういう夢をいまでも見るという話である。劉さんの気持はわたしにはよくわかる。

 わたしも若いとき、ある人から、お前も小説はやめて真人間になったらどうか、と真顔で忠告されたことがある。まるで小説はやくざかぐれん隊みたいなものだった。

 思うにあのころの文学青年の風俗もよくなかったらしい。頭を長髪にして和服のふところに小説本の二冊や三冊をぶちこんで歩く。おれたちは芸術にたずさわっているという心意気がそんな形で出てくるのだが、世の人々はそうは見ない。なんてだらしない若者たちかというふうに見る。

 わたしがこどものとき、おふくろといっしょに歩いていたら長髪の男とすれ違った。異様な感じだったのでおふくろに聞いたら、

「あれはシュギシャだよ」

 とのことだった。当時主義者と言えば社会主義者のことである。共産党なんて言葉はこわくて口にも出せなかった。いま思うとあれはシュギシャではなく文学青年だったのかもしれない。

 戦後は文学大繁盛で、ちょっと才能があると両親も力を入れ親類もはげましてくれるらしい。わたしのところにも原稿がときどき送られてくる。このあいだ五十歳ぐらいの女性が原稿を持ってやってきた。その原稿は当人が書いたのかと思っていると、

「実はこれは息子の書いた作品ですが、見込みがあるかどうか判定していただきたいと思いまして――」

 思いつめたようなまなざしだったから、わたしは返答に窮した。戦後はお母さんも変ったものだと思う。

 もっともちかごろの大学の入学試験に、みながみなじゃないだろうが、お母さんがつきそってくるのがいるそうである。息子の独立の精神が弱くなったのか、お母さんの世話焼きの領域がひろくなったのか。どちらにしてもあまり健全な状態じゃないようにわたしには思える。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第七十二回目の昭和三六(一九六一)年三月十六日附『西日本新聞』掲載分。なお、「本紙一月五日号」の箇所は底本では「本紙(西日本新聞)一月五日号(昭和三十六年)」となっている(ポイント落ちは実際にはもっと軽微)。しかし、これは底本全集編者による割注と判断されるので除去した。

「劉寒吉」(りゅう かんきち 明治三九(一九〇六)年~昭和六一(一九八六)年)は小説家。本名は濱田陸一(りくいち)。福岡県小倉市魚町(現在の北九州市小倉北区魚町)で生まれた。生家は旧小倉藩小笠原公の砂糖御用達商人「濱田屋」であった。大正一四(一九二五)年、小倉市立小倉商業学校(現在の福岡県立小倉商業高等学校)を卒業したが、在学中より文学の道に進み、同人誌『悟桐』を創刊、大正一四(一九二五)年に同人誌『公孫樹』を創刊している。昭和一三(一九三八)年には『九州文学』を創刊、昭和五八(一九八三)年十二月号の第四百六十四号で休刊するまで、四十八年間に亙って、この『九州文学』の大黒柱として編集経営に尽力した。北九州地域の文化振興に尽くし、昭和三五(一九六〇)年には小倉郷土会会長に就任、単なる地方の歴史研究の団体とせず、考古学・民俗学・文化財保護などの分野を包含した組織体に改編し、運営に当たった。また、文化財保護の重要性から森鷗外の旧居や柳川市の北原白秋の生家の復元にも尽力した(以上はウィキの「劉寒吉」に拠る)。]

2016/08/11

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   連歌に明くる月影

    連歌に明くる月影


Aki

一とせ秋の半ば、安藝(あき)のいつくしまに詣で、法施(ほつせ)奉りて廻廊(くわいらう)に出で、西の海づらをみわたすに、絶景いふに詞(ことば)たらず、島々、波の間(ひま)にうかみ、遠山(ゑんざん)、霧のあなたに高く、鷗の沖にあそび、雁(かり)の雲に飛びかふ迄、所からめづらに見ゆ、干潟の折は陸地(くがぢ)より社にあゆみ、滿つる時は朱(あけ)の玉垣(たまがき)の最中(もなか)迄、波、蕩々と、しろくいろどり、恰(あだ)かも、此の國ながらの龍城(りうじやう)といつつべし。すゑいそぐべき旅にもあらず。又詣づべきえにしも覺えねば、名殘もさすがに、折ふし、汐もみちて道を絶たれば、今宵は通夜(つや)し侍り、神前にこもりて經多羅尼(きやうだらに)などうち誦(ず)して居るに、望月の淸光(せいくわう)、曇りなく、御戸のわたり迄さし入れば、晝の光りのてりそひて、今にあるか、と、あやまたる。去る折りしも、年たけたる神(かん)なぎ參り、御燈(みとう)を挑(かゝ)げ、禮拜す、しようにゑぼしを傾ふけ、印(いん)、ことごと敷く行ひ、まかでける時、參籠を見付けて、旅僧と覺しきが是におはす、いづこの人ぞ、茶なんどきこしめさば今(こ)よひの御番に勤め侍り、何事も申させ給へ、と念頃(ねんごろ)にかたらふ。愚僧は宮古の者にて、初めて當社に詣で侍り、と、あれば、萬(よろづ)心置かれ侍り、けふ、しも、月の最中(もなか)、神前といひ、旅泊の慰さみに、歌にても發句(ほく)にても、きかさしめ、と望む。予も、いかにもして、と心がけ侍れど、習ひなき口のさもしさに、言語(ごんご)、絶え侍り。かゝる事も申され侍らんや、と、

 

  安藝の宮島(みやじま)の月見るこよひかな  宗祇

 

と吟じけるに、巫主(ぶしゆ)かうべを傾(かたふ)けて、是は詩(からうた)のやうにて左(さ)にも非ず、發句(ほく)にもきこえず。ことば、眞直(ますぐ)にて、をかしきふしもなし。何とぞ直(なほ)し給はんや、と、いへば、されば、文字、少し直し侍れば、發句のやうになり侍る、とて、手跡うつくしく書き給ふ。

 

  秋のみや島の月見るこよひかな

 

と書き給へば、神人、肝をけして、御僧はかゝる達人の、田舍人(いなかうど)をさみし給ふ吟じやうかな、といふ。左には侍らず、我がものいひのあやなきに、まぎらはしくて、と、あひしらひ給ふ。夜と共に兩吟して明くれば、神前の御いとま申し出でゝ行きにけり。

 此の後、ある人、信州善光寺に詣でける、秋

 の半(なかば)、通夜(つや)しける人々、

 連歌せん、とて、發句望みければ、

 

  善光寺(ぜんくわじ)の月見るこよひかな

 

 といひて連衆(れんじゆう)に笑はれけるに、

 さるためしこそあれ、宮島にて祇公のかく在

 りし、とて、又、吟じなほしける。

 

  善光(よきひかり)寺(てら)の月みるこよひかな

 

 又、宗祇の門人、北野聖廟(きたのせいべう)

 の神事の日、發句所望せられて、

 

  二十五日は天神まつりかな

 

 といひければ、一座、更に聞得ず、いかゞ心

 得侍らんや、と、とへば、

 

  二十五(つゝいつゝ)日(ひ)は天神(あまがみ)のまつりかな

 

 と答ふ。これら、みな、宮島の神風、吹きひ

 ろごり、其の夜の月のうつりをのこして、狂

 言するなるべし。

 

■やぶちゃん注

 今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)のそれを用いた。

 

・「所から」場所の様子。「から」は上代語の接尾語で、対象の持つ本性・本来的状態の謂い。現在の接尾語「土地がら」である。

・「いつつべし」ママ。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)でも同じであるが、これは原本の「いひつべし」の翻刻の誤りであろう。

・「經多羅尼(きやうだらに)」「法華経陀羅尼品第二十六」。これは所謂、神秘性の強い祈禱呪文としての陀羅尼とは異なり、それを唱える僧を擁護する特殊で強力なものとされるらしい。

・「神(かん)なぎ」祝(ほうり)などと同階級の、禰宜(ねぎ)よりも下級の神職を指す。

・「御燈(みとう)をかゝげ、禮拜す、しようにゑぼしを傾ふけ」は底本では、

「御燈(みとう)を挑(かゝ)げ、禮拜すしようにゑぼしを傾ふけ」

となっており、「西村本小説全集 上巻」では、

「御灯(ごとう)をかゝげ礼拝(らいはい)すせうにゑぼしをかたふけ」

とあるが、私は底本も「西村本小説全集 上巻」も意味をとることが出来ない。底本の「しよう」は「仕樣」なら歴史的仮名遣が誤りであり、しかし「しよう」では当該する、烏帽前後孰れかに繋がる自然な語句が見当たらない。「西村本小説全集 上巻」の「せうに」でも全く同様である。私の読点配置は実は「禮拜す」で文は切れると考え、「しように」は「ゑぼしを傾ふけ」に係る語句と判断したものである。しかも「西村本小説全集 上巻」を見ると、原本は歴史的仮名遣の誤りが実は非常に多いことが判る。底本は佐々醒雪と巌谷小波が校訂をかなり綿密に行って読み易く改訂されているのであるが、それでも歴史的仮名遣の誤りは、ある。とすれば、この底本の「しように」も原本の「せうに」も実は歴史的仮名遣の誤りであって「しやうに」が正しい表記なのではないか? それならば「正(しやう)に」(間違いがない)或いは「仕樣に」(物事を行うに当たって正しいやり方で)烏帽子を「かたぶけ」(この語は「傾ける」の意の外に「礼拝する」の意がある)た、と極めて問題なく読めるからである。大方の御批判を俟つものではある。

・「ことごと敷く」「ことごとしく」。仰々しく、大袈裟に。

・「御番」「ごばん」。彼はこの日の夜の神社の宿直(とのい)であるらしい。

・「萬(よろづ)心置かれ侍り」いろいろとお気使いもなされ、また、旅中のこととて、御緊張など、なさってもおられることでしょう。

・「習ひなき口のさもしさ」初めての地にして、しかも神聖なる宮島の夜という、慣れぬ場所、慣れぬ刻限のことゆえ、どうも口もこわばって、見苦しいばかりで。

・「巫主(ぶしゆ)」先の「神(かん)なぎ」に同じい。祀りする人の意。

・「をかしきふし」心地よい調子。

・「手跡うつくしく書き給ふ」「書き給へば」ここで句を書き変え、筆で改めて書き直したのは宗祇自身でしかあり得ないのだから、この「給ふ」はおかしい。筆者はここまで宗祇に敬語を用いていない(仮託なのだから当然)。ここは「書きたり」「書きたれば」などと読み換えないと訳せない。

・「神人」「じにん」或いは「じんにん」と読む。ここでは先の「神(かん)なぎ」「巫主(ぶしゆ)」に同じいが、厳密には少し違うと思う。普通は平安から室町にかけて神社に仕えて神事・社務の補助や雑事を担当した下級神職や寄人(よりゅうど)を指す点では一緒だが、彼らは平安末期には僧兵と同様に強訴(ごうそ)などを行なったりした、かなりやくざな存在であるからである(鎌倉以降は課役免除の特権を得るため、本来は神職ではなかった商工人や芸能者が神人となって座を組織して力を持った例も多い)。

・「御僧はかゝる達人の」「の」は同格の格助詞。「で」。

・「さみし」「褊(さみ)す」などと書き、サ行変格活用動詞で、「侮る・軽んじる」の意。

・「あやなき」つまらない。

・「あひしらひ給ふ」この「給ふ」もいらない。「あひしらふ」でよい。現在の「あしらう」の古形で「あへしらふ」とも同源。ここでは、上手くちょこちょこっと取り扱う、適当にあしらっておく、の意。無論、最初の句をかく読み換えることまで総てが、宗祇の最初からの目論みであるが、敢えて都で知られた俳諧連歌の達人であることは最後まで隠しておいたというのである。しかし、糞のような洒落句で、どうもいけ好かぬ。

・「通夜(つや)」ここは寺社に籠って終夜、祈願することを指す。

・「さるためしこそあれ、宮島にて祇公のかく在りし」これは「こそ」已然形で読点で続けるところの逆接用法では、ない。読点は句点とすべきところで、「確か、このような際の好個の例が確かにあった。宮島にて、かの俳聖宗祇先生がこのように(読み換えなさって)句とされたことがあったことじゃて。」という謂いである。

・「北野聖廟(きたのせいべう)の神事の日」現在の京都府京都市上京区にある北野天満宮に纏わる「北野聖廟法楽(ほうらく)和歌」のこと。北野天満宮の月例祭(天神)祭礼は二十五日で、祭神たる菅原道真が和歌を好んだことから、宮中の年中行事に北野聖廟法楽和歌があり、また天神が連歌を好むという伝説から、鎌倉末期より社頭で連歌が興行され、連歌所が設けられて月次会が興行された(ここまでは平凡社「世界大百科事典」に拠る)。以下、個人サイト「悠久」の菅原道真のデータ中の神徳の展開によれば、「法楽」とは、本来は神仏の前に於いて講会を営んで楽を奏して供養することを指すが、北野天満宮に於ける法楽は特に「聖廟法楽」と呼び、有志が寄って和歌や連歌を奉納することを常とした。鎌倉時代の元久元(一二〇四)年、同社社頭に於いて歌合せが行われており、室町時代には同社神前での月次(つきなみ)連歌が恒例となった。天神が生前に進んで冤罪を受け,衆生に代わって悩みを承けたとする「代受苦」の信仰も起こって、神恩奉謝のために貴賤を問わず参集、和歌・連歌を献じては「法楽」とした。足利義満は明徳二(一三九一)年に北野一万句興行を執り行い、また足利義教の夢想の発句による千句通夜興行も有名で、この義教が永享三(一四三一)年に北野会所に於いて連歌会を催したのが、北野天満宮連歌会所の初見で、高山宗砌(そうぜい)が会所奉行に任ぜられている。宗砌の次が能阿(のうあ)、また宗祇も一時、これに任ぜられている。応仁・文明の乱の後、十五世紀末頃に会所奉行は会所別当と改められ、猪苗代兼載(いなわしろけんさい)が任命されている。北野社の正月及び四季に行われる年間計五度の千句連歌の料所として近江国八坂庄があり、連歌会所に属するものに山城国東松崎郷内の田地三町があった。有名な「二条河原落書」に「在々所の歌・連歌」とあるが、各地の連歌の座は天神信仰と深く結ばれており、大和国山辺郡都介(つげ)郷(現在の宇陀郡室生村)の染田(そめた)の天神には南北朝時代から天神講が存在し、名主(みょうしょ)等の連歌会のあったことはよく知られている。文明一二(一四八〇)年の宗祇の「筑紫道記(つくしのみちのき)」には太宰府天満宮の連歌会所のことが見える。また、同じ室町時代に北野天満宮に於いて舞楽が催され、右近馬場に桟敷を設けて勧進猿楽があり、貴賤を問わず見物したという。桃山時代には出雲阿国(おくに)が念仏踊り・歌舞伎踊りを演じたこともあり、京中の町衆の成長につれて、北野社の社頭も庶民の群参する場所の一つになったことが知られる、とある。

・「聞得ず」(句になっていないと)全く理解を示さず。

・「いかゞ心得侍らんや」反語含みで、「一体、どういうつもりなんだ! 訳が分からん!」といった批判である。

・「二十五(つゝいつゝ)日(ひ)は天神(あまがみ)のまつりかな」意味不詳。私は「筒井筒」は「井戸」で水に関わり、「日(ひ)」の神は「天神(あまがみ)」で、御霊(ごりょう)としての怒りの一つである旱(ひでり)を押さえて「井戸」水を枯らさぬ、という含みか? などと考えたが、これ、流石に牽強付会と自認、妻(王朝和歌文学専攻)に聴いてみると、「天神(あまがみ)」は「尼髮」で「尼削(そ)ぎ」、平安頃の少女が髪を肩の辺りで切り揃える「うない髪」「振り分け髪」のことで、知られた「伊勢物語」の「筒井筒」の幼少期のシークエンスに掛けたのではないか? という。何となく納得したが、しかし、どうも完全には肯んじ得ない。識者の御教授を乞うものである。

芥川龍之介 手帳5 (2)

○家庭の主人(兄) 中學の漢文の教師 家庭の犧牲 その弟 その犧牲を免れしもの 主人の長男 主人の妻

[やぶちゃん注:かなり具体的な人物構成メモだが、決定稿にはないと思う。]

 

You say. Religion is declining. But you will tremble if not.

[やぶちゃん注:『あなたは言う。宗教は堕落している(と)。しかし、若し、「そうでない」としたら、あなたはその(誤った認識の)恐ろしさのためにひどく身震いするであろう。』か。]

 

Misunderstanding (so-called) is only the misunderstanding which is convenient to you.

[やぶちゃん注:『所謂――「誤解すること」――というのは、あなたにとって都合が好(よ)い意味に於いてのみ、「誤解すること」に他ならない。』か。]

 

P. S. Inconvenience is the mother of all discovery (as necessity is the father of all invention)  胃弱の爲に胃を知る如し

[やぶちゃん注:『追記。(「必要」は総ての発明の父である如く)「不便(不都合)」は総ての発見の母である。』か。P. S.」は“postscript”の略語で「追伸・追記・後書」の意。元はラテン語の「post」(「後」)+「scriptum」(「書くこと」)で「後に書くこと」を意味する。但し、普通、英語の諺は“Necessity is the mother of invention.”である。

「胃弱の爲に胃を知る如し」この言葉は私には夏目漱石の「こゝろ」の「先生の遺書」の以下の下りを直ちに想起させる(引用は私の初出復元版より。下線やぶちゃん)。

   *

 Kは私より強い決心を有してゐる男でした。勉強も私の倍位(くらゐ)はしたでせう。其上持つて生れた頭の質が私よりもずつと可かつたのです。後では專門が違ひましたから何とも云へませんが、同じ級にゐる間は、中學でも高等學校でも、Kの方が常に上席を占めてゐました。私には平生(へいせい)から何をしてもKに及ばないといふ自覺があつた位です。けれども私が強ひてKを私の宅へ引張つて來た時には、私の方が能く事理を辨(わきま)へてゐると信じてゐました。私に云はせると、彼は我慢と忍耐の區別を了解してゐないやうに思はれたのです。是はとくに貴方のために付け足して置きたいのですから聞いて下さい。肉體なり精神なり凡て我々の能力は、外部の刺戟で、發達もするし、破壞されもするでせうが、何方にしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、能く考へないと、非常に險惡な方向へむいて進んで行きながら、自分は勿論傍(はた)のものも氣が付かずにゐる恐れが生じてきます。醫者の説明を聞くと、人間の胃袋程橫着なものはないさうです。粥ばかり食つてゐると、それ以上の堅いものを消化(こな)す力が何時の間にかなくなつて仕舞ふのださうです。だから何でも食ふ稽古をして置けと醫者はいふのです。けれども是はたゞ慣れるといふ意味ではなからうと思ひます。次第に刺戟を增すに從つて、次第に營養機能の抵抗力が強くなるといふ意味でなくてはなりますまい。もし反對に胃の力の方がぢりぢり弱つて行つたなら結果は何うなるだらうと想像して見ればすぐ解る事です。Kは私より偉大な男でしたけれども、全く此處に氣が付いてゐなかつたのです。たゞ困難に慣れてしまへば、仕舞に其困難は何でもなくなるものだと極(き)めてゐたらしいのです。艱苦を繰り返せば、繰り返すといふだけの功德で、其艱苦が氣にかゝらなくなる時機に邂逅(めぐりあ)へるものと信じ切つてゐたらしいのです。

   *]

 

P. S. This is not only of misunderstanding, but all human relation. For instance; heredity.

[やぶちゃん注:二つ前の「Misunderstanding (so-called) is only the misunderstanding which is convenient to you.」に対するものか。『追記。これは「誤解すること」だけでなく、総ての「人間の交渉」に於いても言えることである。例えば、「遺伝」。』「遺伝」と訳したが、これが「人間の交渉」ではなく「人間関係」なら、寧ろ、「相続」の方が相応しいかも知れない。が、芥川龍之介が強迫的な語として嫌ったものは恐らく日本語の「遺伝」であり、英語で書くというのは、やはり「遺伝」である可能性が高いと私は思う。しかも、直前にある「Inconvenience」を「不都合」(或いは「不自由」「迷惑」)ととるならば、「遺伝」はより自然なものとして私には読める。]

 

Sexual course (from marriage to child-birth) is so vulgar that 人モ犬モ同ジ

[やぶちゃん注:「頗る俗悪であるところの成人男女の性的な過程(結婚から子どもの出生に至る)」。]

 

P. S. So, sodomy or any abnormal sexual course is certainly aristocratic. And eating is also vulgar, so that senins refuse to take any common food. Perhaps senins less like normal sexual course than any abnormal one.

[やぶちゃん注:『追記。そう、同性愛或いは如何なる異常な性的過程に於いても確かに(その属性は寧ろ)貴族的である。そして「食物」というものもまた実に俗悪で、それ故にこそ、仙人たちは如何なる一般の食物もそれを摂ることを拒絶するのである。恐らく仙人たちは、ある種の異常な性的関係よりも通常一般の性的関係の方をこそ、好まない。』か。]

 

○子がひ Do the parent have the right to educate their children?  if not who has it, I wonder.

[やぶちゃん注:「子がひ」「子飼ひ」。『親は彼らの子供たちを教育する権利があるか? 誰がその権限を持つのかについては、私は強い疑念を抱いている。』か。]

 

Ridiculous ナル例 花見の堀部安兵衞 萌黃のメリンスの紋つきを着 白博多の帶をしめ 朱鞘の兩刀をさし白粉 目隈 卷煙草をすふ

[やぶちゃん注:「Ridiculous馬鹿馬鹿しい、可笑しい。]

 

Expression. 沖にや風があるナ、チンコロのやうな波が立つてゐる 身延がへりの男(五十位) 大島の着物 金の指環 着物ほしより長繻絆を出す 毛糸のズボン 毛糸のゲエトル 足袋はだし(何々組の土木屋らし)

[やぶちゃん注:「Expression表現(法)。

「沖にや風があるナ、チンコロのやうな波が立ってゐる」これは大正一六(一九二七)年一月のアフォリズム集貝殼の「十五 修辭學」で使われている(リンク先は私の古い電子テクスト)。

   *

 

     十五 修辭學

 

 東海道線の三等客車の中。大工らしい印絆纒の男が一人、江尻あたりの海を見ながら、つれの男にかう言つてゐた――「見や。浪がチンコロのやうだ。」

 

   *

「江尻」は旧江尻宿で現在の静岡市清水区清水(同市中心部附近)で、東海道本線清水駅附近。なお、この「チンコロ」とは子犬のことであるので、念のため。]

 

Sentimentality. 大阪者 寫眞を見る 妻 子等とうつせるもの 口もとに髭あり 大兵 襟着の紺の上着 茶ベンケイの着物 サツマ下駄(マサよろし) 但し足袋は黑繻子の足袋なり

[やぶちゃん注:「Sentimentality」感傷主義。

「茶ベンケイ」和服の格子縞の一種で、「弁慶格子(べんけいごうし)」「弁慶縞(べんけいじま)」と称する、経緯が同じ幅で双方に二種の色目を交互に用いた一センチメートル以上の太い棒縞を組み合わせた格子縞で「碁盤縞」とも呼ばれるもののうち、茶と紺の二色使いを「茶弁慶」という(紺と浅葱の二色使いは「藍弁慶」)。歯切れのいい印象の男らしい柄という意味から「弁慶」と名付けられたもの(和装ではよくお世話になっている創美苑公式サイト内の「きもの用語大全」の弁慶格子の解説を参照した)。]

 

The Attraction of Christianity for a Japanese. 1) Ӕsthetical side.  2) Ridiculous side.  3) Symbolism. ヤムヲ得ザルヲ知ル

[やぶちゃん注:日本人に対してキリスト教の持つ誘引力。(1)美の側面。(2)馬鹿げた可笑しな側面。(3)象徴性。]

 

○或女中の憤慨 客病臥中(足をくじき) 女の來る前夜 女中に曰「明日ハお前ノ世話ニナラナイヨ。」女中莫迦ニシテヤガルト思フ Jealousy underlies in this affair. For, if the lady were his wife, the maid would not have been so angry.

[やぶちゃん注:最後の英文部分は『嫉妬は或る事実の基礎を構成する。というのも、その女性が彼の妻であったならば、その女中はそれほど怒りはしなかったに違いないからである。』か。]

 

Everything turns on a tautology: he is because he can, and he can because he is. 小説がかける故小説家になる 小説家なる故小説がかける

[やぶちゃん注:『すべての事象はトートロジー(同語反復)を好んで発生させる、例えば、「彼はそうすることが出来るから彼なのであり、そして彼であるからこそ彼はそうすることが出来る」と(いった風に)。』か。]

 

This would is more hell-life than hell because in hell ――たとへば果物が下る。それをとらうとすると上る。しかし world では時にとれる。so much tantalizing. Hell is monotonous, so one is comparatively easy to adapt oneself on hell.

[やぶちゃん注:「This would is more hell-life than hell because in hell」は「この世界というものは、地獄に居ることによって地獄であることよりも、より地獄的状況である。」であり、ネクターのような美味なる果物(くだもの)が下がってくる。それを穫ろうとすると、それは必ずすっと上の手の届かないところに上ってしまう。(その繰り返しであり、例外はない)。ところが現世、現実の我々の世界では、時に容易に果物を穫ることが出来る場合もある。(即ち、地獄での責苦ちうものは)「so much tantalizing. Hell is monotonous, so one is comparatively easy to adapt oneself on hell.「頗るじれったがらせることに満ち満ちている(いや、それが総てである。即ち、翻って考えるならば、)地獄は単調であるから、人は地獄に於いて、自分自身をその環境に適応させることに於いて比較的に容易である。」となって、これはもう、御存知、「侏儒の言葉」の「地獄」(大正一三(一九二四)年三月号『文藝春秋』巻頭初出)の思想のメモである(リンク先は「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版))。

   *

 

       地獄

 

 人生は地獄よりも地獄的である。地獄の與へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の與へる苦しみは不幸にもそれほど單純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外樂樂と食ひ得ることもあるのである。のみならず樂樂と食ひ得た後さへ、腸加太兒の起ることもあると同時に、又存外樂樂と消化し得ることもあるのである。かう云ふ無法則の世界に順應するのは何びとにも容易に出來るものではない。もし地獄に墮ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであらう。況や針の山や血の池などは二三年其處に住み慣れさへすれば格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまふ筈である。

 

   *

私の『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 地獄』も参照されたい。]

 

I write of all defects of mine when I write novels & stories; while I write of all defects of others when I write essays criticism.

[やぶちゃん注:「私は小説類及び物語を書く時には、私は私自身の総ての欠陥について書き、同時に私が随筆や批評を書いく時には、私はあらゆる他人の総ての欠陥について書く。」]

 

〇化銀杏 殺さず その時感激し謝す 後又こだはる 女だんだん發狂す

[やぶちゃん注:「化銀杏」は「ばけいてふ(ばけいちょう)」と読む。シノプシスとして不全な上に不審な箇所があるが、一応、泉鏡花の「化銀杏」(明治二九(一八九六)年鏡花二十三歳の作)である。]

 

○法華經受領品(十六卷)

[やぶちゃん注:「法華經受領品(十六卷)」は「法華經壽量品(第十六卷)」の誤記か誤植である。「壽量品」は「如來壽量品(ぼん)」で、法華経の中でも最も重要な一品(ぽん)とされるもので、その核心は如来(仏)の寿命が無限であり、この宇宙のあらゆる場所に永遠に遍在し、あらゆる生きとし生けるものを生かしている本源的な「法」である「久遠実成の本仏」であって永遠無限の存在であることを語ったもの。]

 

Return of the dear father.

[やぶちゃん注:これに完全に合致する作品や記事はない。芥川龍之介の怪奇談蒐集帳である椒圖志異の二十に(リンク先は私の古い電子テクスト)、

   *

何某と云ふ學生 東京に遊學してありしに人より最中の折を貰ひその折を机の上にのせたるまゝ外出せしが 歸りて蓋をひらくに二つ三つ人の食ひたるやうなり 留守の間には己の部屋に人も入る筈なければ怪しく思ひ居りしに國許の家より電報來りて 父の死を報じ來りぬ 後にてきけば其父死ぬ前にうつゝともなく「伜にあひ最中の折をひらきてすゝめられたれば二三つ食ひぬ」と云ひけるが其日も其時も 恰その最中の折をのこして外出せしに合したりしとぞ、

   *

というのがあるが、これは「死んだ父」の「帰還」では、ない。]

 

Your ideal wife is a woman to be easily deceived. O fie!

[やぶちゃん注:「君の理想的な妻は、これ、容易に騙されてしまう一人の女に過ぎぬ。」「何て、いやらしい!」。]

 

○月の光は日光よりも速に魚を腐らしむ

[やぶちゃん注:私はこの言葉をどこかで実際に聴いたことがあるが、思い出せぬ。識者の御教授を乞う。]

寮費一円   梅崎春生

 

 昭和七年ごろの第五高等学校の寄宿舎費は十六円。うち食費が十五円で寮費が一円であった。食費は一日五十銭に当る。

 ところが紙耆臆氏の話によると、大正十二年ごろで総額五円ですんだというのだから、この十年ばかりの間にインフレが徐々に進んで物価が約三倍になったことがわかる。

 戦後のインフレはありありと実感があるが、戦前のそれはあまりはっきりと頭に残っていない。こどものこととて金を持ちつけなかったせいであろう。

「ちかごろ物価が高くなったねえ」

 とおふくろが嘆息しているのをときどき聞いたことがある。しかし大正末から昭和七年ぐらいまでに三倍になっているとは驚いた。

 そういえば、わたしのときには五厘(または半銭)という銅貨があって立派に流通していた。も少し前には天保銭というのが通用していたそうだが、わたしのころにはもうだめになっていた。使われないままおばあさんの針箱にたくさんしまわれていたりして、わたしはそれを持ち出して日曜学校の献金に持って行ったことがある。五厘が最低の通貨だった。しかしその五厘玉でも駄菓子屋や焼草屋に持って行けば、ちゃんとにっけ玉が買えたし相当量の焼芋が買えた。

 いまの一円じゃ何にも買えない。だいいちあんな吹けば飛ぶようなけちな貨幣は昔にほなかった。

 二銭銅貨というのがあった。江戸川乱歩に同名の初期の作品があったが、これなどは実に堂々たるもので、ずしりと持ちおもりがした。使いでもあった。

 その五厘や二銭銅貨は昭和期に入って少しずつ姿を消していったようである。思うに五厘はインフレのために不用になったものだろうし、二銭は重くてごろごろして持ち歩くのに不便だから廃止になったのだろう。

 その他小額貨幣としては五銭白銅、十銭白銅、ぎざと称する五十銭銀貨などがあった。いまの物価は昭和七年ごろのそれにくらべて約四百倍とのことだから、当時の五十銭はいまの二百円に相当する。しかし昔のぎざ一枚のほうが、いまの百円紙幣二枚よりも使いでがあったような気がするのは、わたしだけだろうか。どうもいまの金は昔のにくらべて逃げ足が早く、あっという間になくなってしまう。

 一定の送金で自分の生活を計画的にいとなむのは、この寮生活がわたしのはじめての経験で、たしか伯父から三十円ずつの送金があったと思う。送られてくる十円紙幣の威厳のあったこと、感じからいえばいまの一万円紙幣にゆうに匹敵した。

 寮費をはらい込むとあとは自分の自由に使えるのだが、何に使っていいのかわからず、はじめの二三カ月はわたしは金が残って仕様がなかった。たまたま使ってもそこらで素うどん(一杯五銭)を食うていどで、余るのも当然である。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第五十四回目の昭和三六(一九六一)年二月二十六日附『西日本新聞』掲載分。熊本五高の追想で直連関。

「紙耆臆」読みも人物も不詳。識者の御教授を乞う。]

グレン・グールド夢

グレン・グールド出演の、ギャラの高そうな、昨日の朝(2016年8月10日曙)の夢――

 

【アリア】

……僕は岡の上の高校にいる(僕が二校目に赴任した横浜の舞岡高校に酷似している、と「夢の中の僕」自身がその時に感じている)……

……僕は見知らぬ成人女性(「夢の中の僕」は「夢の中でありながら」、僕がこれらの条件で「見知らぬ女性」となると、深層心理上は実は僕が見知っている、ある昔の女生徒がモデルである可能性が高い、と感じている「夢の中の僕」を感じた)と二人きりで私たちは……グレン・グールドを待っている……

ここでグレンが演奏して呉れることになっているのである……

夏の夕暮れであった……

街燈が点く頃になっても、しかし、グレンは、来ないのであった……

しかし……夕闇の彼方の稜線から……幽かなピアノの曲が聴こえてくるのであった……
それはあの、彼の最後の「ゴルトベルグ変奏曲」のアリアであった…………

  

【第一変奏】

……その深夜……午前零時を回っている……僕はもう独りであった……

……同じ岡の上の高校の正面玄関前の軒下にグランド・ピアノが置かれてある……

――そこにグレンが――いた――

彼は近づいてゆく僕に気づくと、少し微笑んで――

あの鍵盤を摘み上げるような独特のポーズを以って――

「ある音」を――

「拾い上げ」――

僕に――

「投げた」――――

僕の毀れた脳の中に「聴き知らぬ」美しいメロディが沸騰した――

そうして――

彼は言った。

「君のため、だけに――弾きに来たんだ。」…………

 

【第二変奏】

……そこは見渡す限りの草原……
……高原の……そのまた高みにある……古い貯水場であった(それは四十年も前の大学一年の夏、一度だけ後輩の女子高生と登った、高岡の伏木にある古びたそれの酷似している、とまたしても「夢の中の僕」は感じていた)……

そこにグレンが――

寝ていた――

丈の延びた芝の中に――

グランド・ピアノが置かれていて――

そのピアノの前の愛用の椅子の脇に――

横向きになった黒いコートに身を包んだグレンが――

胎児のように――

眠っている――

その脇に、三頭の黒いスマートな犬が、グレンに頭を向け、「伏せ」の姿勢をして静かにしていた――

私はその犬たちを見ながら、呟いた。

「……ケルベロス……」

……画面はそのまま、それらの光景を俯瞰し出した……それを見ているらしい私(この第三幕のみが一人称視線で私には「私」が見えなかった)は、そのまま上空へとゆっくりと昇ってゆくのであった……

……グレンとピアノとケルベロスの周囲の草が、タルコフスキイの「鏡」冒頭のソロニーツィン演じる医師が草原で風に吹かれる不思議なシークエンスそっくりに靡くのが見えた……

……私はどんどん昇ってゆく……

……何かの音楽が聴こえる…………

また、蜩の声(ね)でここで目醒めた(最後の「音楽」は蜩のそれか)。
午前四時二十七分であった。
 

 
附言しておくと、この随所に特異的に分析家としての覚醒的な「私」が出来(しゅったい)するというのは、夢記述の永年の経験から言って、精神的にはあまりよろしくない状態であるとは言える。昨日書こうと思いながら、躊躇したのは、その箇所が気になったからである。しかし、ストーリー自体がすこぶる印象的であったので、今日、やはり、記しおきたくなったのである。

2016/08/10

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 盜賊、歌に和ぐ

 

    盜賊(たうぞく)歌(うた)に和(やはら)ぐTouzokuutaniywaragu

一とせ上總の國千草(ぐさ)の濱をたどりて、人里を求めんとするに、遠方(をちかた)の葛(くづ)やに煙りのほそくなびくをしるべに、そことなく步む向ふより、むくつけき大のをとこの、色黑く、眼(まなこ)竪(たつ)に切れたるやうなるが、右の手にかたなをぬきながら、會釋もなく近づきよつて、いかに、坊主、酒代(さかで)よこせ、と、いふ。我れは見え侍るまゝの修行者、野に臥し、山を家居(いへゐ)とすれば、人の情(んさけ)に世をわたる乞食の類ひに侍り、身において一物(いつもつ)のたくはへなし、と、いへば、既に衣あり、衣類あり、帶有り、笠あり、油簞(ゆたん)あり。のこらず、わたし通るべし。命計りはたすけなん、と、いふ。扨は赤裸(あかはだか)にてとをれとな、此の上は力なし、我れ、いなむ程ならば、忽ち命をとられなん。予、草庵を出しより、命を風に任せ、身を雲によせて、ありとおもはず、何ぞ名利(みやうり)の爲めにかざる衣服、惜しむ事あらん、と、一衣より始めて、悉く脱ぎ與へて、特鼻褌(とくびこん)計りに成り、誠、增賀聖(ぞうがひじり)の、名利を捨てゝ、赤はだかに成りて都へ歸り上り給ひし、かくや在りけん。さらば通りなん、といへば、賊、猶、あかずや在けん、宗祇の鬚(ひげ)の長く一つかね計りありしを、しとど取りて、法師に似あはぬ鬚顏(ひげづら)、悉く根をぬきて渡せ、箒に結うてつかはんに、嘸(さぞ)つよかん物を、と、いふ。祇は天性(てんしやう)ひげを愛し、一生剃らず、香(かう)をとむるに、ひげにとゞまりて、かをり不絶(たえず)とて、扨なん鬚(ひげ)を愛しぬ。今、此の賊(ぬすびと)に赤裸になされたる事は、露(つゆ)悔ゆる事なくて、鬚をとらんといふにぞ、胸つぶれける。盜人、猶、いらでゝ、早くぬき渡せ、箒(はゝき)にせんと責めけるほどに、

  我が爲に箒計りはゆるせかし

       ちりのうき世を捨てはつる迄

と答へければ、左計(さばか)りおそろしきあらゑびすも、和歌の情(なさけ)は、しる事にこそ、手を打ちて、うい事、申されたり。この體のやさ法師に、何の惡(にく)き所ありて、筋なき物を取るべきと、始めとりたる衣服、返しあたへ、あまつさへ、此の行衞、尚、我がごときの情(なさけ)なき者、出で來べき事、治定也。里ぢかく送り參らせんと、先に立ちて行くに、げにもいひしにたがはず、二、三人、四、五人、山賊どものつれ行くに、二むれ迄、逢ひぬ。され共、此の男の案内(あんない)するを見て、指(ゆび)さすものもなく、本道に出で、賊は暇乞(いとまご)ひて歸る。猛きものゝふの心をも和(やはら)ぐといひし、宜(むべ)なるかな、此の歌、なかりせば、鬚は跡なく、ぬかれ、衣服はもとより返すまじ、行先にてあぶれものゝ刃(やいば)にかけて、命を失ひ、身を損ずる事も有りなんに、神明佛陀(しんめいぶつだ)の感應(かんおう)ある此の道なれば、影にそひて守り給ふにこそ、と有りがたく思ひ侍る。

 

■やぶちゃん注

 最初の方の「右の手にかたなをぬきながら」「ぬきながら」は底本では「ぬぎながら」、男が鬚をせっつく、歌の直前の「早くぬき渡せ」も「早くぬぎ渡せ」となっているのであるが、「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)ではいずれも「ぬき」と清音であり、その方が自然であるので、特異的に訂した。なお、挿絵は今回は「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)のそれを用いた。

・「上總の國千草(ぐさ)の濱」千葉県の南部で東京湾に面した現在の富津(ふっつ)市の下洲(したず)にある千種(ちぐさ)浜と思われる。サイト「グリーンネットふっつ」の「伝統の美学 千種浜地区」に以下のようにある。

   《引用開始》

 下洲・千種浜は室町時代の廻国雑記、歌集未木集などに歌の名所(歌の題材になる場所)として記録され全国的に名が通るようになりました。千種浜の中で場所が特定しにくいのですが「桜井の浜」というところも紹介されていて、浜と同じ名前の桜貝が採れるという趣旨の記事が廻国雑記に出てきます。

 下洲、千種浜の昔を考える時、地形の変化を心に置いておかなければなりません。鎌倉時代、あるいは室町時代まで、小糸川(古代では須恵川と呼ばれていた)の河口が篠部と下洲の間に開けていて、その奥は広く沼地または潟のようになっていたのです。古文書で確認出来ませんが、いつの時代かに常代から人見まで堤防が築かれ、小糸川の付け替えがされたのです。

 義経記(室町時代に成立)で、源頼朝が安房から武蔵、そして鎌倉への北上途中で、須恵川のほとりで源氏の軍勢を待つというくだりがありますが、頼朝が味方する武士を待っていた場所は篠部なのです。

 千種浜は今の金田地区のようなクリークと砂浜が交錯した土地でこれがずーっと飯野あたりまで続いていたのです。

 千種浜が、雅なロマンチックな場所になった背景には、鎌倉時代の親王将軍である宗尊親王が吉野地域を好まれ、奈良の吉野から桜を移植したという伝説の力によるところが大きいようです。(宗尊親王が吉野に来たという史実はありません。吾妻鏡によれば宗尊親王の地方巡行は三島大社や箱根権現などへの参詣だけです。しかし、親王将軍の発議で桜を移植するというような文化的業務は鎌倉幕府が大いに奨励していたはずですから宗尊親王が命じたと言うことは大いにあり得ます。)

 宗尊親王を始めとする親王将軍(宗尊親王追放の後、二代の将軍は宗尊親王の子孫が継いで鎌倉幕府滅亡まで続きます)は日本史の中では極めて低い扱いになっています。北条氏が自らの権威付けのため京都から連れてきて成人して気にくわなくなれば追放する。その捨て駒にすぎないというわけです。

 しかし、結果論でいえば、宗尊親王の周辺の人脈が鎌倉時代の次の時代の特に文化、儀礼、権力者の自画像(思想)を形作っていったようなのです。親王の秘書役として下向してきた上杉氏、血筋から言えば親王に近いという認識を持っていた足利氏、栄尊、夢想礎石などなどです。

 千種浜はそういう思想史の中で歌(田楽、能などの中で歌われるもの、または俳諧、これが転じて茶の湯などに発展)の名所として取り上げられ京都の文化人(今で言えばマスコミ)によって記録、流布されていったわけです。

 また、ここは、ごく近世まで古代的な製塩が盛んだったということです。万葉集の時代からの「藻塩焼く煙」の美学が中世人の詩情を高めたのかも知れません。

   《引用終了》

なお、リンク先には千種の浜の、鬼神も哭する如き残念な現状画像が載る。

・「葛(くづ)や」草葺きの屋根及びその茅屋。

・「眼(まなこ)竪(たつ)に切れたる」猫の眸の如くに奇っ怪であるが、ここは人間離れした目つき、野獣のようなそれという比喩であろう。いや……或いは彼は人ではなく、まことの鬼神の変化垂迹したものであったのかも知れぬ……まさに予定調和として宗祇を守るために――

・「油簞(ゆたん)」既注であるが、再掲しておく。「油單(単)」とも書き、元来は湿気や汚れを防ぐために簞笥や長持ちなどに掛ける覆いで、単(ひとえ)の布又は紙に油をひいたものを指すが、これは外出や旅中の風呂敷や敷物などにも用いられた。

・「特鼻褌(とくびこん)」「西村本小説全集 上巻」では「とくびこん」と右にルビする他、左下方に「ふどし」と左ルビする。「ふんどし」のこと。実際にこう書き、古くは万葉時代は「たふさき(とうさき/とうさぎ)」と訓じた。但し、その頃は現在の褌及び短い下袴或いは猿股のようなものを広く指したと考えられる。

・「增賀聖(ぞうがひじり)」(延喜一七(九一七)年~長保五(一〇〇三)年)は平安中期の天台宗僧。比叡山の良源に師事。天台学に精通して密教修法に長じたが、名利を避けんがために数々の奇行を演じたことでも知られる。大和多武峰(とうのみね)に遁世して修行に勤しんだ。「名利を捨てゝ、赤はだかに成りて都へ歸り上り給ひし彼の裸は」殊に有名で、私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 裸にはまだきさらぎの嵐哉 芭蕉』に注してある。参照されたい。

・「香(かう)をとむる」「香の香を聞(き)く」ことを言っているように思う。

・「この體」「このてい」。この場合は様子・風情で、しかも歌学に於ける表現様式を指すところの「体(てい)」をも掛けていよう。

・「筋なき」道理に合わない・不正な。但し、厳密には「筋なく」とすべきところではあろう。この男が一首の上手さを解ったところの歌学の「筋」も掛けているように思われる。

・「治定」「ぢぢやう(じじょう)」必然である、決まってる、の意であるが、ここも俳諧連歌の助辞の用法(後の俳諧の「切れ字」に相当するもの)で意味・内容を断定することを意味するそれも掛けてある。

・「神明佛陀(しんめいぶつだ)の感應(かんおう)ある此の道」言わずもがな乍ら、「此の道」とは歌道のことである。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   魂、留む、赤間が關

 

宗祇諸國物語卷之三

 

    魂(たましひ)留(とゞ)む赤間が關


Tamasiitodomuakamagaseki

 

延德元年、西國に徘徊し、長州赤間關(あかまがせき)に至る、昏(く)れに及びければ、在家に覗きて宿もとむに、爰なん人の心、かたましく情なくて、修行者(すぎやうじや)に宿かしてたづきのやうなし、若し、心ざす佛事もあらばこそなんど、嘲哢(てうろう)して、とむる者なし。よしや、野山を家とせんに、明けまじき夜かは、霜寒く、露いたくとも、山田の庵(いほ)、求めて身を置かむに、物一夜は、と、ひとりごちて、里を放れ、十餘町過ぎて、岡の外(はづ)れに、一つの庵室(あんしつ)あり。佛の弟子こそ慈(じ)は深けれ。さりとも、出家は否(いな)とは、いはじ、と賴みよりて、あみ戸を嗃(たゝ)く、内より誰ぞ、と、とふ。苦しからぬ旅僧(りよそう)にて侍り。一夜の宿かして給(た)べ、と、いふ。宿の事は在家に申させ給へ、と、されば在家の人ははしたなく、いらへ、とめ侍らず、原野にさまよふ折から、御かたの火の光りを見て、釋氏(しやくし)の門と賴母敷く、𣿖(たど)り寄り侍る。ひらに一夜をといへば、痛(いた)はしながら、存ずるむねあつて、入れ申さず。去るにても、何れの國より、いづこに通り給ふぞ。名をば何と申し侍る、と。もとは都の者ながら、行衞(ゆくゑ)定めぬ修行者、さして住家(すみか)もなき身也。名は申すともいかゞしらせ給ふべきなれど、申さぬもおこがまし、宮古にては種玉庵(しゆぎよくあん)と申す者に侍り、と、いへば、内より、やよ、種玉庵とは宗祇御坊の事にてはなしや、と馥然(あわてゝ)戶を明くる。左の給ふは誰(た)そ、と、見れば細川勝元家來伊駒(いこま)藤四郞茂光(しげみつ)といひしが、發心の體(てい)也。此の人は、京に在りし時、懇昵(こんでい)の朋友、智謀兼備の勇士也しが、跡を隱(かく)して、世には、軍の事、繁きに、命(いのち)を惜しみ逃げ失せたり、と、いひし、扨は遁世の身と成りけるよ、と始めて驚く、庵主(あんしゆ)の云く。こは、思ひかけぬ所にて、あひも逢ひける物かな、扨、宮古にはいかなる事か侍る、と。都には、只、細川、山名の兩家、立わかつて、兩家に心を通(かよ)はす武士(ぶし)、又、東西にわかれ、相支(さゝ)へ、相戰ふ事、日をかさね、月をこえ、年を經るとも、いつ果つべき軍とも不ㇾ見。和殿(わどの)京都に住居(すまゐ)の程、その程の有樣、語り給へ。尓來(しかりしよりこのかた)は、愚僧が見聞を語り、旅宿(りよしゆく)の夜半(よは)を明かし侍らん、と、いへば、庵主の云く。某(それがし)、洛に在りし、世事(せじ)まゝ多かめれど、繁多(はんた)なれば、さし置きぬ。應仁の蜂起より、此の身に、さまかへし事をかたり申さむ。去る寬正六年の頃は、將軍義政公、御壽三十にならせ給ふに、御(おん)家督をつがせ給ふ。若君ましまさず、是によつて、淨土寺の門主義尋(ぎじん)を還俗(げんぞく)なし參らせ。義視(よしみ)と號し、御世繼(よつぎ)と定まりぬ。其の年、將軍の御臺所(みだいどころ)、義尙(よしなほ)公を産(さん)し給ふ。故(このゆゑ)に、密(ひそ)かに山名宗全(そうぜん)を召して、此の御子を能く見立、御家督となし參らせよ、と、あれば、畏(かしこ)まつて領掌(りやうしやう)しぬ。此の事、早く露顯しければ、義政、義視、御中、不和(ふわ)に成りぬ。其の頃、勝元は管領職(くわんりやうしよく)にあつて、威を海内(かいだい)に振(ふる)ふ。宗全もいかめしき大名にて、上の御氣色(おんきしよく)、武士のもてなし、一方ならず、兩勇は必ず諍(あらそ)ふ習ひ、山名、細川、日頃、不和なりし上、義視(よしみ)公より細川を深く賴み、思召しける程に、心々の味方となつて兩家、水火(すゐくわ)の中となり、既に應仁の亂、出で來て、日本國中の武士、又、思ひ思ひの與力(よりき)す。都には兩將を始め、在京の武士、日々に防戰すれば、其の親族、國々にたち分つて、城を構へ、郭(かく)を固(かた)うして、弓矢(きうし)を携へ、甲冑(かつちう)を枕とすれば、寺舍神社も、兵革の爲めに、燒失(やけう)せ、諸民、安堵の思ひをなす事なし、と語り、爰にて、一際、聲を潜め、此所に至りて、身の上の事、有り。五年以前、三月の京軍に、我が父茂忠(しげたゞ)、宗全が方人(かたうど)大内政弘が陣に向つて、大鹿(しか)藤藏、三石加藤次などいふ一騎當千の者を討取(うちと)り、大將の御感に預かりしに、其の晩景(ばんけい)、稍、くらく成りて、旗色(はたいろ)も幽(かす)かに、物の色あひも定かならず、兩陣、東西に退く、爰に政弘が家人岩島兵作といふ者、味方に紛れ居て、某(それがし)が父茂忠が馬の側(そく)につきそふ。暮れ方といひ、老武者(らうむしや)といひ、目も明かになければ、家來と思ひ、心とけ、油斷の所を、頓て馬より切つて落す。首(くび)を取る迄はなくて、切捨(きりす)てに逃失(にげう)ぬ。敵(てき)よ、のがすな、と、大勢、聲々に追ひかへるといへ共、さしもさばかり入りがたき引陣(ひきぢん)の中に、紛(まぎ)れ來る不敵(ふてき)もの、鳥よりも早く、雲よりも輕し、己が陣所(ぢんしよ)に隱れ入る。其の時しも、某(それがし)、紫野(むらさきの)の陣所に有りて、聞くとひとしく、走り歸りぬ。早、事濟(す)て後、爲方(せんかた)なく、敵を聞くに、兵作、と、いふ。此のしわざ、私の意趣(いしゆ)有りて討ちたる、と覺ゆ。其の故は、兩陣入亂れ、引くみ或(ある)は切り結ぶ中には、互に誰れを討ち、たれにうたるべき辨(わきま)へなく、高名も不覺も、只、時の運に乘(じよう)ず。然るに、兵作、數千騎の内にて、我が父を狙ひ討つ事、遺恨、山よりも高く、蒼海(さうかい)、猶、淺し、されども敵の運(うん)、暫し在りて不ㇾ逢、其の後、文明四年、公(きみ)に暇申し、兵作が行衞を尋ぬ。爰に政弘が國の留主居、二尾(を)加賀守といふ者、主を背き、謀叛して、細川に組(くみ)す。是をしづめん爲め、二尾かたへ使あり、兵作、其ひとりにて、數百騎西國に下る、此の事、天のあたへ、と嬉しく、播州の内、とある難所に待請け、忽まち、親の敵を討つ、大勢取りまくといへども、我が運、又、つよくして切ぬけ、京都に歸つて、勝元に復、勤仕(ごんし)す。其の後、世を憤る事のありて、此所に隱遁しぬ。相構へて我に逢うたると語り給ふな。長々敷き物語りに、夜、いたう更行く、祇も休み給へ、我も寢なん、と相友に枕して臥しぬ。暫しゝて、主、おつ、と答へ、太刀、引提げ、走り出づる。いかなる事と不ㇾ知。主、此の後、歸る事なし。とかくするに遠寺の鐘、曉(あかつき)を告げ、野風はげしく、しのゝめになりぬ。眼(まなこ)をひらき、爰を見るに、在りし庵室も見えず、唯、一つの墓の前に、木の根を枕とし、臥したるにぞ在りける。ふしぎやと立より、卒都婆(そとば)を見るに、如幻信士(によげんしんじ)俗名(ぞくみやう)伊駒氏(いこまうぢ)茂光と有り。扨は此の者も討死(うちじに)しける事しるしと、餘念なく廽向(ゑかう)し、里に出でゝ故をとふに、先年の一亂に、此所にて討死しける人なり、と、かたるに、扨は、と、おもひ合せぬ。此のゝち、出でゝ、猶、西國に、おもむく。 

 

■やぶちゃん注

 印象的なコーダの「太刀引提げ」は底本では「太刀引堤げ」となっている。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)では「太刀引さげ」となっている。誤植と断じ、例外的に「提」に訂した。本作の過ぎし日の追憶を茅屋で親しく聴き、目覚めて見れば、家はなく、墓の傍らに臥していたという構成は後の上田秋成の「雨月物語」の「淺茅が宿」のそれとよく似ており、庵の消失は同「青頭巾」を元としてインスパイアした小泉八雲の“JIKININKI”(食人鬼)のエンディングにも近似する(リンク先は私の電子テクスト。後者は英文原文。後者は拙訳もある)。本章は初めて、宗祇(応永二八(一四二一)年~文亀二年七月三十日(一五〇二年九月一日))がその前半生を生きた、応仁の乱の歴史的記載絡みとして現われる。応仁の乱は応仁元(一四六七)年に発生し、文明九(一四七七)年までの約十年間に亙って継続した内乱で、第八代室町幕府将軍足利義政の継嗣争い等、複数の要因が起因となって、室町幕府管領(かんれい)細川勝元の東軍と、室町幕府侍所所司(頭人)山名持豊(出家して山名宗全)ら西軍の有力守護大名が争い、九州等、一部の地方を除く、全国へと拡大した。乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入する契機となり、また、十数年に亘る戦乱によって主要な戦場となった京都は灰燼と帰し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃してしまった(後半はウィキの「応仁の乱」に拠った。応仁の乱の概略は足利義視の注で代えることとする)。なお、挿絵は今回は「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)のそれを用いた。これは東軍の「伊駒藤四郎茂光」の「父茂忠」が討たれるシーンで、左の図の右下(全図中央下やや左)が西軍大内政弘方のヒットマンの「岩島兵作」、彼に太刀を刺されて落馬している顋鬚の男が父「茂忠」、恐らくは、左手上の一騎走らせているのは、父討死の報を聴き、紫野から疾駆する茂光をイメージしたものか。ともかくもこの話柄は応仁の乱を背景にしながらも、実際には私怨を以って卑怯な手段によって父茂忠を討たれた、子茂光の物語であり、されば、以下、応仁の乱前後の歴史的事実や人物注は必要最小限に留めてある。

・「赤間が關」寿永四(一一八五)年の壇ノ浦の戦いによる平家滅亡と安徳天皇入水でしられる山口県下関市の古称。ウィキの「下関市」によれば、「下關」という名称の初見は貞観一一(八六九)年であるが、「赤間(が)關」の名称の初見は元暦二(一一八五)年とある。但し、これを関所の名と捉え、「あかま」(赤間・赤馬)を地名と解するならばさらに『平安時代まで遡ることができる。いずれにしても鎌倉時代に「赤間関」という呼び名が成立し、付属する港湾や関門海峡の長門国側を指す広域地名、更には対岸の豊前国門司関を含めた関門海峡全体の別名としても用いられた』とある(鎌倉幕府による長門探題設置は建治二(一二七六)年)。『元寇をきっかけに赤間関を防衛するために長門守護は長門探題とされて北条氏一門が任ぜられた。北条氏が滅びると長門の御家人であった厚東氏が長門守護とされるが、南北朝の内乱の中で周防国の在庁官人・御家人であった大内氏が南朝方として周防・長門両国を征服、後に北朝方に離反して室町幕府から両国の守護、更に対岸の豊前国の守護にも任ぜられて赤間関を含めた関門海峡両岸を大内氏が支配する体制が』十六世紀中期まで二百年近くも『続くことになる。大内氏は赤間関に代官を設置して直接管理し、港湾の管理・関銭や帆別銭の徴収・明や朝鮮などの外交使節への応対などにあたった』とある。大内義長が長府の長福寺(功山寺)にて自害して大内氏が滅亡するのは、弘治三(一五五七)年のことである。

・「延德元年」一四八九年。宗祇の生年は応永二八(一四二一)年である(没年は文亀二年七月三十日(一五〇二年九月一日))から数え実に六十九歳ということになる。

・「かたましく」「奸し・姧し・佞し」などと書き、「かだまし」とも濁る。動詞「かだむ」の形容詞化したもので、心がねじけているさま。性格が素直でない、の意。

・「修行者(すぎやうじや)に宿かしてたづきのやうなし、若し、心ざす佛事もあらばこそ」「どこの馬の骨とも知れぬ怪しい乞食行脚なんぞに宿を貸したって、金も貰えず、一文の得にもなりゃしねぇ。……まんず、やり損なって、どうしても、供養したく思うておることでもありゃ、これ、別だけんど、な。……へへッツ!」

・「嘲哢(てうろう)」「嘲弄」に同じい。嘲ってからかうこと。

・「明けまじき夜かは」とても夜はそう簡単には明けそうにもないではないか……野宿にて辛抱出来ようとはとても思われぬ、の謂い。「霜寒く、露いたく」とあるから、時節は晩秋から初冬と思われる。

・「物一夜」「ものひとよ」と訓じておく。この「もの」は詠嘆を附加する形式名詞か或いは接頭語で「何としても」「せめても」というニュアンスと思われる。

・「十餘町」一町は百九メートルであるから、一・七キロメートル前後か。

・「あみ戶」竹木や草で編んだ「編み戸」。

・「されば在家の人ははしたなく」この「されば」は宗祇の直接話法と私はとる。応答に用いる感動詞で「さても、そのことでありますが」の謂い。

・「釋氏(しやくし)の門」「釋氏」は釈迦。仏門に同じい。

・「賴母敷く」「たのもしく」。

・「𣿖(たど)り」「𣿖」は「漂」と同字であるようである。漂うように、流れ寄せられるように、或いは、やっとの思いで、辿りついたという謂いか。

・「名は申すともいかゞしらせ給ふべきなれど」「行衞定めぬ」行脚僧なればこそ、無名者であることを旨とし、「俗世での名を申し上げ、それを貴殿がもったいなくもお聴きになられるというのは、如何にも下らなく詮ないこととは存じまするが」。如何にもくだくだしい言い回しであるが、宗祇としても、最早、ここ以外に泊まれそうなところはなく必死なれば、下手下手に出ている感じがよく出ている。

・「宮古」都。

・「種玉庵」宗祇の号であり、彼が文明五(一四七三)年に上京(かみきょう)に結んだ庵名でもある。この地は公家や将軍・管領らが居住した地域で、宗祇は三条西実隆(さんじょうにし さねたか 康正元(一四五五)年~天文六(一五三七)年:作品内時制の延徳元年当時は右近衛権少将、後、永正三(一五〇六)年に内大臣となるが在職わずか二ヶ月で致仕し、永正一三(一五一六)年)には出家している)他の公家や、細川勝元の子で幕府管領として事実上の最高権力者となった細川政元(文正元(一四六六)年~永正四(一五〇七)年)他の室町幕府の上級武士とここで交流した。

・「馥然(あわてゝ)」「西村本小説全集 上巻」も同じ。「馥」は「馥郁(ふくいく)」のそれで、「良い香り・芳しい」の謂いであって、「慌てて」「急に」「俄かに」などの意味はない。不審。さっと芳しい匂いが立ったかのように、うって変わって、の謂いであろうか?識者の御教授を乞う。

・「細川勝元」(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年)幕府管領で応仁の乱の東軍総大将。

・「伊駒藤四郞茂光」後の「父茂忠」ともに東軍ながら、不詳。架空人物か。室町期以降は私の守備範囲でない。実在したり、モデルがあるとされる識者は、何卒、御教授、願いたい。

・「軍」「いくさ」。

・「山名」「山名宗全」山名持豊(もちとよ 応永一一(一四〇四)年~文明五(一四七三)年)。「宗全」は出家後の法号。山名時煕(ときひろ)の子で嘉吉(かきつ)の乱に於いて播磨白旗城に赤松満祐(みつすけ)を討って明徳の乱で失った領地を回復、一族で九ヶ国を領した。管領であった斯波(しば)・畠山家の相続問題に介入、足利将軍家後継問題ではここに語られる通り、義政の妻日野富子に頼られて義尚を擁立、義視を支持する細川勝元と対立して応仁の乱が勃発、彼はこの後(作品内時制)の西軍の陣中に於いて病没している。

・「不ㇾ見」「見えず」。

・「尓來(しかりしよりこのかた)」。この後は。「爾來」に同じい(「西村本小説全集 上巻」は「爾来」)。

・「寬正六年」一四六五年。

・「將軍義政」室町幕府第八代将軍足利義政(永享八(一四三六)年~延徳二(一四九〇)年:在職:文安六(一四四九)年
~文明五(一四七三)年)。

・「淨土寺」現在の京都市左京区銀閣寺町にある、五山送り火の一つとして有名な「大文字」を管理することから「大文字寺」とも称する浄土宗清泰山浄土院の前身。ウィキの「浄土院京都市左京区によれば、まさにこの室町幕府八代将軍『足利義政が山荘(後の慈照寺銀閣)を建てるにあたり、相国寺付近に移され』てしまい、その後、『廃絶した。その浄土寺の跡を引き継ぐに』当たって、江戸の享保年間(一七一六年~一七三六年)に『建てられたのが』、『この寺とされる』とある。

・「義尋(ぎじん)」「義視(よしみ)」足利義視(永享一一(一四三九)年~延徳三(一四九一)年)は第六代将軍足利義教の十男として生まれた。母は小宰相局と呼ばれる家女房。で、当初は正親町三条(おおぎまちさんじょう)実雅の養子にされ、嘉吉三(一四四三)年に出家して義尋(ぎじん)と名乗り、浄土寺門跡となったが、寛正五(一四六四)年十一月、『実子がなかった兄・義政に請われて僧侶から還俗』、『従五位下左馬頭に叙任された。また義政の御台所・富子の妹良子を正室に迎え、今出川の屋敷に住んだため』、『今出川殿と呼ばれた』。翌寛正六年には『参議と左近衛中将に補任され』て『順調に義政の後継者として出世していった』が、同年十一月二十三日に『義政と富子の間に甥義尚が誕生して立場が微妙になったが、義政が後継者を義視に変更しなかったのは大御所として政治を仕切る狙いと、義尚が成長するまでの中継ぎとして義視に予定していたともいわれる』。文正元(一四六六)年九月五日には『義視謀反の噂が立つが、義視は元管領細川勝元に無実を訴え』、翌六日に『義尚の乳父だった伊勢貞親が讒訴の罪を問われ、貞親と季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則ら貞親派が失脚する文正の政変が起こった。計画自体は義視を排除して義尚政権で実権掌握を狙った貞親の勇み足だったが、斯波氏の前当主で政変直前に義敏に家督を奪われた斯波義廉が貞親・義敏らへの対抗策として山名宗全・畠山義就らと接触、義視も義廉・宗全らと通じていたのではないかとされる。また、政変直前に勝元が義政から義視の後見人に任命され、富子が対抗策として義尚の後見人を宗全に頼み、それぞれの派閥が結成され大乱に及んだとする説は『応仁記』のでっち上げで、実際に富子は争乱に関係なかったともいわれる』。応仁元(一四六七)年に『足利将軍家の家督相続問題と畠山氏・斯波氏の家督相続問題などが関係して応仁の乱が発生する。はじめ義視は勝元が率いる東軍に属し』、二月二十四日に『両軍に和睦を呼びかけたりしたが』、五月に『義政が失脚していた貞親を伊勢から京都に呼び戻したため』、孤立、それでも六月に『西軍追討の総大将に任じられると』、『首実検を行ったり』、『幕府奉行衆の内通者を成敗したりしたが』、八月二十三日に『西軍の大内政弘が上洛すると入れ替わるように京都から出奔、西軍の一色義直の分国の一つである伊勢へ下向、さらに北畠教具のもとへ下向する。この事情は明らかでないが、幕府内部で奉公衆が西軍に内通したことに危機感を抱いたための出奔とも、逆に西軍合流を図』って『伊勢へ下向したともされる』。翌応仁二年九月二十二日には『義政の説得で伊勢から帰洛するが、』その後、義政が『貞親を幕府に復帰させたため』、『義政と対立』、十一月『に室町第を脱走して比叡山延暦寺に出奔、ついで山名宗全の西軍に与した。西軍では擬似幕府(西幕府)が創設されて将軍に据え置かれ』、文明元(一四六九)年には『四国・九州の諸大名を味方につけようと奔走している』。文明五年に『宗全と勝元が相次いで死去すると和睦に傾き』、文明八年に『義政が大内政弘に和睦を求める書状を送ると』、『政弘と共に交渉を開始』し、同年十二月に義政と和睦して翌文明九年には『富子へ政弘を通して和睦の仲介料を支払い』、七月に『娘を義政の猶子としたが、義政との溝を埋めることは難しく』、十一月、子の義材(よしき:後の室町幕府第十代将軍義稙(よしたね))を『伴って美濃の土岐成頼のもとに亡命した』。翌年には『成頼と共に正式に義政と和睦したが、美濃に留まり続けた』。長享三(一四八九)年三月二十六日に第九代将軍義尚が『長享・延徳の乱で遠征先の近江で死去すると、義視は義材と共に』四月十三日に『上洛し、娘のいる京都三条の通玄寺に入り、そこで再び出家をして道存(どうぞん)と号した。上洛に先立ち』、長享元(一四八七)年に既に『義材を元服させていたが、義視は義政・富子と和睦を模索し、義材を継嗣の無かった義尚の猶子とするために行ったともされる』。以下、本文内時制の後のこととなるが、延徳二(一四九〇)年一月七日に『義政が病死すると、義視は富子と提携して』七月五日に義材を第十代将軍に擁立、『自らは将軍の父として幕政を牛耳った』。『しかし富子と折りが悪く次第に対立』、『富子は義材の支持には疑問を持ちはじめ、清晃を将軍後継に推していた管領細川政元(勝元の子)に接近した。義視は政元との対立を不利と判断、義材の将軍宣下の儀を政元の屋敷で行なうよう変更するといった懐柔策も示している(ただし政元は将軍宣下の翌日に管領職を辞任している)。それでも政元と富子の反発は義材排除の動き(明応の政変)へとつながることにな』った。『こうして状況が不利になってゆく中』『病に倒れ』、享年五十三で亡くなった。『両親を失った義材は孤立し、一方の政元は富子を始め幕府関係者や諸大名と連携を取り、義視の死から』二年後の明応二(一四九三)年、『義材の河内遠征中に清晃を擁立して義材を廃嫡に追い込ん』だとある。『義視の御影堂は相国寺の大智院(現在は廃絶)に置かれたが、これは足利義満以後の歴代将軍と同じ待遇で』あり、『これはとりもなおさず、義視が将軍の後継者であり、かつ当代将軍(義材)の実父・後見として、実際には足利将軍家の家督を相続することも将軍職に就くこともなかったにもかかわらず、「事実上の将軍家の当主」とみなされ』、『その礼遇を受けていたためであることを物語る』とある。

・「義尙」(寛正六(一四六五)年~長享三(一四八九)年)は室町幕府第九代将軍。前注を参照されたい。

・「管領職(くわんりやうしよく)」誤りではないが、室町幕府のそれは「かんれい」の方が一般的。

・「五年以前、三月の京軍」「京軍」は「きやういくさ(きょういくさ)」。作品内時制の「延德元年」一四八九年から五年前は文明一六(一四八四)年であるが、この辺りから実は、時制上の齟齬が生じており、この茂光が生者でないことが判る仕掛けとなっている。何故なら、文明一六(一四八四)年前後では既にして応仁の乱は終息しており、直後の「我が父茂忠、宗全が方人(かたうど)大内政弘が陣に向つて」というのが、おかしいことに気づくからである。山名宗全は実に作品内時制より十六年も前の文明五(一四七三)年に亡くなっているからである。

・「大内政弘」(文安三(一四四六)年~明応四(一四九五)年)細川と対立した応仁の乱の西軍の主力守護大名。母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘。ウィキの「大内政弘」によれば、『最盛期には周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有し、強大を誇』り、『文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる基礎を築』いたとある。

・「大鹿(しか)藤藏」次の「三石加藤次」、後の「岩島兵作」も併せて、不詳。架空人物か。やはり実在したり、モデルがあるとされる識者は、何卒、御教授、願いたい。

・「晩景(ばんけい)」夕刻。

・「退く」「西村本小説全集 上巻」は「しりぞく」とルビする。

・「頓て」「やがて」。

・「紫野(むらさきの)」現在の京都市北区附近。船岡山の北方にある低い洪積台地に位置し、臨済宗大徳寺派の大本山大徳寺や今宮神社がある。因みに、応仁の乱勃発の応仁元(一四六七)年八月中は大内政弘が船岡山に陣取っている。

・「不ㇾ逢」「あはず」であろう。

・「文明四年」一四七二年。即ち、この叙述から推すなら、茂光の父茂忠が討たれたのは文明三年三月(或いはそれ以前)と読める。ウィキの「応仁によれば、文明三(一四七一)年五月二十一日には西軍の主力を担っていた斯波義廉(しばよしかど)の重臣朝倉孝景が『義政による越前守護職補任をうけて東軍側に寝返った。このことで東軍は決定的に有利となり、東軍幕府には古河公方足利成氏の追討を再開する余裕も生まれた。一方で西軍は擁立を躊躇していた後南朝勢力の小倉宮皇子と称する人物を擁立して西陣南帝としたが、やがて放擲された。同年に関東の幕府軍が単独で成氏を破り、成氏の本拠地古河城を陥落させたことも西軍不利に繋がり、関東政策で地位保全を図った義廉の立場は危うくなった』。文明四(一四七二)年になると、『勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれ始めた。宗全の息子達はかねてから』家督争いから、この応仁の乱を惹起させた張本たる畠山義就(はたけやまよしひろ/よしなり 永享九(一四三七)年?~延徳二(一四九一)年)の『支援に否定的であり、山名一族の間にも厭戦感情が生まれていた。しかしこの和平交渉は山名氏と対立する赤松政則の抵抗で失敗』、三月に『勝元は猶子勝之を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる聡明丸(細川政元)を擁立した後、剃髪した』。五月には『宗全が自殺を図って制止され、家督を嫡孫政豊に譲』るに至っている。そうした乱の厭戦気分の中での、父の仇討であることにも注意する必要があるように私は思う。

・「二尾(を)加賀守」大内政弘の家臣に二尾加賀守弘直という人物がおり、実際に彼は細川勝元に下って主政弘に背いている。

・「待請け」「まちうけ」。

・「勝元に復、勤仕(きんし)す」「復」は「また」。細川勝元は文明五(一四七三)年五月十一日に病死している(一説に山名方による暗殺説もある)。この茂光の語り自体が事実であるとすれば、やはり主君亡き後、応仁の乱この方、相互に信頼を失うような人間力学に、「世を憤る事のありて、此所に隱遁し」たと読むのは自然な感じはするのであるが、しかし、どうか?……直後に「暫しゝて、主、おつ、と答へ、太刀引提げ、走り出づる」というのは……実は――実際には出来なかった父の仇討ちへ出でんとするシーンを茂光の霊が演じている――のではあるまいか?……演じているということは……実は父の仇討は出来なかったと考えられる。茂光は「播州の内、とある難所に」仇兵作を「待請け、忽まち、親の敵を討」ったと言っているのに、「先年の一亂に、此所にて討死しける人なり」という後文がそれを明白に示唆していると言ってよいように私には思われるのである。……こうした――成し得なかった仇討――を――あったこと――として語って、旧友宗祇に父ともどもに回向を願ったのではあるまいか? これは私の印象に過ぎぬ。大方の御批判を俟つものではある。

・「長々敷き」「ながながしき」。

・「如幻信士」よき戒名と私は思う。

五高見参   梅崎春生

 

 熊本の気候は京都に似ている。どちらも海に面していない。周囲を山で囲まれた盆地であるから、夏は暑く冬は寒い。

 わたしが第五高等学校の受験に行ったのは三月十六日である。昼間はあたたかいが夜は底冷えがした。

 鹿児島本線の上熊本駅を降りるとバスに乗り五高前で下車する。五高の門を入って曲りくねった道をしばらく歩くと第二の門に達する。その向うに赤煉瓦の校舎がある。

 五高の敷地は五万坪あって、全国高校の中でも随一の広さを誇っていた。だから運動場その他もたっぷりと余裕があって、こせこせしていない。そこが気に入ってぜひとも合格しようと思い定めた。

 こちらが勝手に思い定めたって、試験というものは水物であり、採点するのは向うさまである。運を天にまかせて、毎日赤煉瓦の教室に通い試験を受ける。午後は竜田山に登ったり、熊本の市街を見物に行ったり、夜は翌日にそなえて勉強する。その夜がしんしんと冷えわたった。

「福岡の夜などとはちょっと勝手が違うな」

 そういう感じがした。

 とにかく四日の試験を終えて福岡にもどる。

「できたか」

 とおやじが聞くから、

「うんまあ」

 と答えたが、あまり自信はない。いらいらと毎日をすごす。

 発表は三月三十一日で、わたしはラジオで聞いた。もうそのころは鉱石ラジオ(レシーバーつき)でなく、みなが聞えるふつうのラジオだったから、ラジオの器械の発達はたいへんなものだったらしい。この型からトランジスターになるまで二十年ぐらいかかっている。

 ラジオで自分の名を呼ばれるのはこれがはじめてで、そのショックは強かった。家中をうろうろ歩き廻り、二階の自分の勉強部屋に行き、うつぶせに寝ころがってやっと気持が落ちついたようである。自分の運命を大きく変える一瞬だということは、十七歳のわたしといえども承知していたから、このように動転したのだろう。

 やがて起き上って日記を取り出して合格したということを書き記し、あとは空白なのである。逆境にあると人間は日記をつけたがるが、楽しくなるとその楽しさに没頭して日記などおろそかにしてしまう。凡夫のあさましさと言うべきだろう。

 この日記は昭和七年版『新文芸日記』といって、巻尾に「現代文士年齢表」というのが出ている。最年長は七十四歳の坪内逍遙で、先日なくなられた村松梢風さんは四十四歳の中堅である。若いところでは平林たい子や伊藤整の二十八歳、吉行エイスケの二十七歳などがある。息子の吉行淳之介が現在三十何歳なのだから、時勢もずいぶん変ったのも当然であろう。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第五十三回目の昭和三六(一九六一)年二月二十五日附『西日本新聞』掲載分。前の公開分から四回分が省略されているので、そこに書かれている可能性が高いと思うのであるが、実は梅崎春生は修猷館中学校を昭和六(一九三一)年に卒業(旧制中学校は五年制)して、続いて官立福岡高等学校(国立九州大学の前身)を受験したものの不合格となり、一年後の翌昭和七年に現在の国立熊本大学の前身である熊本第五高等学校文科甲類(英語)を受験して合格、四月に入学している(ここはその受験シーケンス)。底本別巻の年譜によれば、同級に後の古典学者(記紀神話・古代文学専攻)の西郷信綱(大分県津久見市生まれ。梅崎春生より一つ年下)や後の小説家霜田正次(しもたせいじ:沖縄県国頭(くにがみ)郡今帰仁村(なきじんそん)生まれ。春生より二つ年上)がいたが、『三年進級に落第』、後の劇作家(春生より一つ年上)『木下順二らと同級になる。この4年間、詩作に興を抱き』、『校友会誌「龍南」に毎号発表する』とある。春生は『龍南』の編集員でもあった。そこに載った詩篇類については私が殆んど初出誌に基づき、復元版を翻刻してある(本ブログ・カテゴリ「梅崎春生」内。未読の方は是非、一読を強くお薦めする)。

「三月十六日」水曜日。四日間とあるから、十九日土曜に終了している。

「五高の敷地は五万坪あって、全国高校の中でも随一の広さを誇っていた。だから運動場その他もたっぷりと余裕があって、こせこせしていない」ウィキの「第五高等学校(旧制)」によれば、『旧制高等学校の中では飛びぬけて校地が広く、他の旧制高等学校が2万坪を標準としたのに対し、5万坪の敷地を誇り、陸上用グラウンドと野球用グラウンドを別々に設けるなど、かなり余裕がある使いかたをしていた』とある。調べると、同校の跡地は現在の熊本大学黒髪北キャンパス(熊本市中央区黒髪)に相当することが判る(リンク先は熊本大学公式サイト内の同地区地図)。

「竜田山」現行の表記は「立田山」(たつだやま/たつたやま)であるが、強ち、こう書いても誤りではない(後の引用を参照)。熊本県熊本市のほぼ中央にあり、標高は百五十一・七メートル。黒髪地区の東北直近。参照したウィキの「立田山によれば、『かつては黒髪山と呼ばれていたが、奈良時代に赴任した国司が奈良の龍田を偲んだ歌を詠んだことからこう呼ばれるようになったと』もされるようであり、『黒髪の名前は現在も付近の町名に残っている』とある。

「三月三十一日」木曜日。

「この日記は昭和七年版『新文芸日記』」底本同七巻には梅崎春生の「日記」が抄録掲載されており、昭和七年分もあるが、残念ながら、十月二十日以降しか載っていない。

「村松梢風」村松梢風(明治二二(一八八九)年~昭和三六(一九六一)年:本名・村松義一)は小説家。静岡県生まれ。『電通』の記者を勤める傍ら、「琴姫物語」(大正六(一九一七)年) で滝田樗陰に認められ、情話作者として出発、「正伝清水次郎長」 大正一五(一九二六)年~昭和三(一九二八)年)その他の考証的伝記風作品を多く書いた。新派の演目となり、映画化(初回は戦前の昭和一四(一九三九)年で溝口健二監督)もされた「残菊物語」(昭和一二(一九三七)年)などの小説も多いが、後の「本朝画人伝」「近世名勝負物語」などは克明な人物伝として評価が高い(ここは主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。なお、他の作家は私はそれぞれの小説も幾たりかは読み、辞書程度の情報は概ね知っている(下らぬ受験向け文学史授業の予習のお蔭で)ので敢えて注さない。悪しからず。

「吉行淳之介が現在三十何歳」彼は大正一三(一九二四)年四月生まれだから、記事当時は、満三十五。梅崎春生は四十六になったばかり。]

2016/08/09

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   魔境の兵術

    魔境兵術(まきやうのひやうじゆつ)


Makyounohyoujyutu

或時、志賀の山越にかゝり、此の里の八幡宮に詣で、辛崎のかたへ行く、爰に大津のかたより、廿年(はたとせ)計りの男、人あまたして、からめ來(きた)る。此の男、無正體(しやうたいなく)、たは言をいひさくる聲、かしがまし、後(しりへ)につきて、とふ。此の者、盜賊のたぐひか、將(はた)、主(しゆ)を背(そむ)きて落ち出でたるものか、いたくも搦(から)められけるよ、といへば、年頃の男の云く。此の者、平生(へいぜい)、兵法(ひやうはふ)を好みて手練(しゆれん)、よのつねに、こへたり。過ぎし八日の黃昏(たそがれ)、所用有りて坂本におもむくに、怪(あや)し僧一人有りて云く。汝、兵術(ひやうじゆつ)の望みなきや、と問ふ。思ひよらずの僧の仰せや、といへば、只、我が謂ひに任せ來れ。名師(めいし)に逢はせん、と、いづこに侍るや、と、とへば、こなたへ、と衣の袖にて覆(おほ)ふかと思へば、忽(たちま)ち空中に飛行(ひぎやう)する事、暫(しば)しして、ひとつの高山(かうざん)に至る。巖(いはほ)、我々(がが)として、澗水(かんすゐ)、音、遙か也。一村の杉の、欣々(きんきん)たるに座して、僧、云く、兵術の師、外になし。我れ、則ち師也。いざ、汝が好む所を傳へん。是を持ちて討つてこよ、と利(と)き刀(かたな)の氷のごとくなるを、あとふ。心得ず、怪しや、よのつね手習(てなら)ふ時は、木竹を以する事、しかなり。眞劍のけいこ、あやふし、と、いへば、されば、我れ、此の羽(は)をもつて、あひしらはん。汝は只、其の刄(やいば)もて千度百度(ちたびもゝたび)我をうつべし、其の危きを出でゝ安きに至る、是を深奥の秘術とす、と。双方立ちわかつて切りむすぶ事、暫し、いひしごとく、僧は一所の疵(きず)をも、うけず。度(たび)ごとに、男、打ちまけぬ。猶、兵術の奥旨、至らざる不審を問ふに。答への明かなる事、縱(たと)へば、塵(ぢん)ひらけし鏡(きやう)のごとく、數年の望み、こゝに足(た)んぬ。其の外、よのつねの外の神術、悉く學び得たり。然るに、此の者、家を出でゝ十餘日行方(ゆきがた)しれず、因ㇾ玆(これによつ)て近里隣郷(きんりりんがう)、人を催ふし、手をわかちて尋ね求む、爰に當國信樂(しがらき)のこなた、鴟川(とびかは)といふ所にて稀れに尋ね逢ふ。いかにや、汝は、と言葉をかくるに、心得たりと刀(かたな)をぬいて討ちかゝる、尋ぬる人、大勢なれば、何程の事かは、と棒を持ちて、真中(まんなか)におつ取籠めたるに、飛鳥のかけるごとく、神變(しんぺん)をふるひ、持つ所の棒、寸々に切り折りたり。衆人(しゆじん)、爲方(せんかた)なくて逃げ行くを、此の者、呼び歸して、今は是迄也、我が兵術のすぐれたる所を、各に見せん、とて、かくはしつ、穴賢(あなかしこ)、おそれ給ふな、とて太刀を投出(なげだ)しぬ。扨、此の程はいづこに在しや、と問ふに、唯今の通り、物がたりしぬ。言語(げんご)未だ終らざるに、狂乱して、あら苦し、大事をあからさまに人にかたるな、と師の坊のいひしを、有りのまゝにいひし故、爰に來て責めさいなむぞや、悲し、痛ましや、と叫ぶ。とかく、先づ、家に帰れ、と、いへば、思ひよらずや、己(おの)れらが尋ね來(こ)し故、此の浮目(うきめ)をみる。にくし、恨(うら)めし、とくるひ出で、縱橫(じうわう)にかけり侍るまゝ、取放(とりはな)さじ、とかくは、はからひ侍る、と、かたり捨て、足はやに過ぎ行きぬれば、終はる所を不ㇾ知(しらず)、思ふに、世にいふ、是、天狗といふものゝ業(わざ)なるべし。怪しき事の世には在りける物かな。佛界(ぶつかい)へは入りやすく、魔界(まかい)へは入りがたし、とこそ聞くに、いかなるものゝ魔境(まきやう)に住みて、斯(か)くはふるまひけん。

 

 

■やぶちゃん注

 底本では最後の左端に「宗祇諸國物語卷之二」とある。また、最初の方の「將(はた)、主(しゆ)を背(そむ)きて落ち出でたるものか」の箇所は底本では「背き 落ち出でたるものか」と活字が脱落している。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)によって「て」を補った。「心得たりと刀(かたな)をぬいて討ちかゝる」ここは底本は「心得たりと刀(かたな)をぬいで討ちかゝる」となっている。「ぬいで」(脱いで)で必ずしもおかしくないとは思うが、どうも気になる。「西村本小説全集 上巻」では「ぬいて」とあって気にならずに読めるので、ここは特異的に「ぬいて」(拔いて)と訂した。

・「志賀の山越」京の七口の一つである荒神口から近江に至る志賀越道(しがごえみち)は、街道の別称。御所から比叡山へ向かう際の最短の経路で、鴨川を徒渉、東岸を東やや北へ向かう。

・「此の里の八幡宮」「志賀越道」の滋賀側の終点である大津市滋賀里(しがさと)の八幡神社のことか。

・「辛崎」滋賀県大津市唐崎滋賀里の東北直近の琵琶湖南西岸。大津はそのさらに東北である。

・「一村」「ひとむら」。一叢(ひとむら)。

・「欣々たる」草木が如何にも生き生きとしているさま。

・「此の羽(は)」天狗ならば、直ちに、あの鳥の羽で作った羽団扇を想起するが、本当にそれでよいか? そのような定番アイテムは本文に描出されていないし、別にこの怪しい僧侶は必ずしも鼻が長いなどの天狗の形相を髣髴とさせてもいない。寧ろ、ここは直前で「衣の袖にて覆ふかと思へば」「空中に飛行する」のであってみれば、僧の着た羽衣のような上衣を「羽」と呼んでいると私は読みたい。真剣を団扇であしらうより、軽い袖であしらう方が遙かに絵になるではないか。

・「あひしらはん」「あひしらふ」は現在の「あしらう」の古形で「あへしらふ」とも同源。相手をしよう。

・「其の危きを出でゝ安きに至る」その絶体絶命の火急の危うい一瞬から、すらりと抜け出て、絶対安心の結界に至り在る。

・「奥旨」「あうし(おうし)」で「奥義」に同じい。

・「至らざる不審」その奥義にたどりつけずにいるのは何故かという自分の側の不審。

・「塵(ぢん)ひらけし鏡(きやう)のごとく」細かな塵までも総て拭い去られた鏡(かがみ)のように。

・「催ふし」歴史的仮名遣は正しくは「催(もよ)ほし」である。(人々を)集める。

・「信樂(しがらき)」焼き物で知られる滋賀県南東の山間部の盆地にある現在の甲賀(こうか)市信楽町(ちょう)。

・「鴟川(とびかは)」不詳。識者の御教授を乞う。

・「おつ取籠めたるに」「おつとりこめたるに」四方から棒で以って押し囲み籠めたところが。

・「飛鳥」「ひてう」。

・「かける」「翔ける」。

・「神變(しんぺん)」古くは「じんぺん」と濁った。人間の考えでは理解出来ない不思議な変化(へんげ)術。

「各」「おのおの」。

・「穴賢(あなかしこ)」ここは以下に禁止の終助詞「な」を伴った呼応の副詞で、「どうか決して」「ゆめゆめ」と訳す。

・「取放(とりはな)さじ、とかくは、はからひ侍る、と、かたり捨て」ちょっと判り難い。一応、探索に来て保護せんとする連中と、発狂した若者の掛け合いと読んでおく。即ち、

保護に来た者「見つけた以上はお前の好き勝手におっ放すわけにはいかんぞ!」

発狂した若者「どうして、このように私の意志に反して理不尽な取り扱いをされるのですかッツ?!」

と、言い捨てて――の謂いである。大方の御叱正を俟つ。 

 挿絵は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正した。

行脚怪談袋   芭蕉翁筑前の小佐川を越ゆる事 付 多吉夫婦が靈魂の事 / 行脚怪談袋~了

  芭蕉翁筑前の小佐川を越ゆる事

  
  多吉夫婦が靈魂の事

 

芭蕉備後伯耆の方より、因幡長門を越えて中國を廻國なし、夫れより赤間ケ關より、船にて豐前の小倉に着き、夫れより佐賀の城下に至つて、宿評(しゆくひやう)と云へる儒者の方に數日逗留なし。當所に於て俳諧一流に名を上げ、肥後の國を經て筑後に到り、同國元崎と云へる村に晝休みなすに、其の頃は秋の初め方。未だ暑氣甚だ敷ければ暫らく凌ぎ、扨日も傾きければ、今は暑さも薄くなりし儘、主の者に暇乞ひして、秋月(あきづき)の城下へ至らんと申す。主是聞いて止めて申しけるは、旅人(りよじん)今程より、秋月へ至り給はんとならば、決して無用也。其のゆゑは、當所より秋月の城下へ迄は二里也。半道はかならず夜中にならん、時にまだ秋月よりこなたに、小佐川(をさがは)と云へる川の候が、尤も土橋(どばし)かゝりて、旅人の通行なす事也。然る所去年の半より夜に入り候得ば、此の川上より、いと瘦せがれたる男出で、土橋の上にたゝずみ、河下の方をはるかに見やりて、名殘(なごり)をしげに悲しみ叫ぶ事毎夜也。是を聞く者おぢ恐れずと云ふ事なし、右に付(つき)夜分に及び候へば、誰れ通る者もあらず、諸人の通行の邪魔と成れり。旅人(りよじん)若しも秋月へ至り給はゞ、必らず右の變化に逢ひ給はんと申しければ、ばせをとうて申さるゝは、其の變化は人間を害なすや否哉(いなや)、亭主答へて、只出でゝかなしみ叫ぶのみ、かつて人にはかまひ候はずといふ。芭蕉是を聞きて申されけるは、右の物語の如くんば、つらつらかんが見るに、化生(けしやう)の者なるべし、我れ古人には及ばざれ共、定家の道(みち)をしたひ、俳道發句の道に通じたれば、萬一變化のために怪しき事あらば、秀句をもつて是をさとさん、是鬼神をも和らぐる歌道の妙なり。況んや是等(これら)の變化(へんげ)に於てをや、何條(なんでう)の事かあるべき、我れ諸國をめぐるも、俳道の一語を世上に知らさんがためなり、併し今宵某(それがし)かの小佐川へ至りなば、覺えし俳道を以て件(くだん)の變化を喩(さと)すべしと申されければ、亭主是を聞いて、もしふたゝび旅人(りよじん)の詞のごとく、變化念(ねん)をさつて出でずんば、所の幸ひ通行の悦びたらんと申しければ、芭蕉則ち右の亭主を案内につれ、小佐川ヘいそぎけるに、亭主兎ある松原にて芭蕉に申しけるは、是より此の野邊をば御出であらば、小佐川へ出で申す也。殊更日も暮れがたに成り候得ば、變化の出でるにもはや間も候まじ。我等は是より御暇乞ひ申し立歸り候也。旅人(りよじん)若し變化を御見屆けあらば、又候此方(このはう)へ御歸りあれ、待入り候也。され共能く能く御心付られ候得と申し置きて、亭主は我が家へ歸りける。ばせをは亭主の教へにまかせ、右の野邊を半道程たどり行くに、渡し三十間もあらん川ありて、正面に土橋をかけ渡せり。芭蕉是こそ小佐川成らん、變化はいづれより出でるや、よくよく見屆けんと、彼の土橋の中頃と覺しき所へあがり、川の體を見るに、向ふは古木生茂り、此方は今きたる野邊(のべ)にて、川岸には蘆葭(あしよし)のたぐひの草生茂(おひしげ)り、水の流れは靜かなれども、ふかき事底をしらず、人家にはとほざかれぱ、いとどしづかにして、空は秋の夕暮に、實にも哀れの氣色也。右の枯れあしの中に、破れ損ぜし捨(すて)ふねの在りしを見て、

 

  枯蘆の中に淋しや捨小船  ばせを

 

と吟じつゝ變化の出るをまち居りしに、程なく暮六つにおよび、亥の刻計りにもなりし頃、其の夜は七月四日にて、月もいまだほのくらきに、遙か川上の蘆生茂(おひしげ)りし水中より、靑色(あをいろ)の玉光りを放ちて、二丈計り上へ立ちのぼり、又舞下りなどして、其の玉程なく土橋の上へ來り、ばせをが前に三間(さんげん)ほど向ふへ落ちけるが、一むらの烟りとなりて消え失せるとひとしく、右の所にまぼろしのごとく、一人の男顯れたり。芭蕉扨こそ變化の物よと、能く能く透(すか)し見るに、其の男身には白衣類を着(ちやく)し、頭のかみをみだして、面の色靑ざめ、五體(ごたい)は瘦せおとろへて、見る影もなきが、川下の方を遙かにのぞみ、いと細やかなる手を出して、川下をまねき、糸のごとき聲をあげて、お幸お幸、何とて爰へは來られざるぞ、早此の所へ來(きた)るべしと呼びければ、愚か川下に聲あつて、我等其の所ヘ至り度き事山々なれども、前世の罪科まうしふの雲となりて中(なか)を遮ぎり、其の所へ行く事叶はず。あらなつかしさよと。歎く聲幽かに聞ゆ、是を聞くとひとしく、彼(か)の男いと哀れなる聲を上げて、泣きかなしむ事しきり也。其の音聲いやみあつて二度と聞くべきにあらず、芭蕉もけしからざる事と思ひしが、如何にも仔細あるべき事と、かの怪しき男に向つて申されけるは、扨々心得ぬ事哉。汝異形のすがたにて、夜中と云ひ此の土橋の上ヘ來り、荐(しき)りに泣悲(なきかな)しむ事、案ずるに此の世を去りしものゝ執念と見えたり。抑もいかなる事ぞと詞(ことば)をかくれば、彼の男是を聞いて、芭蕉の方をしげしげと見やりけるが、淚をはらはらと流し答へて申す樣、夫れに御座あるは此の世の人にてましますか、能くもとひくれ給ふ物哉(かな)、我等事は何をか包み申さん、御察しの通り、此の世の陽人(やうじん)に非ず冥途の陰人なり、我れ此の所へ毎夜顯れ、かく悲歎をなす事其のゆゑあり、某は是より一里、秋月の城下の町人、多吉と申す者にて候ひしが、若氣の至りにて。去者(さるもの)の妻と密通なし、人目を忍び、互ひの思ひに二世かけての契約(けいやく)をなせしが、去年(きよねん)夏の事、兎(と)ても秋月にありては、互にそふべき事も能はずと、兩人申し合せて立ちのきしに、後より追手の者懸り、計らずも此の所に於て大勢の者に取りかこまれ、既に繩目(なはめ)の恥を受けたりしに、彼の亭主若い者にて、大いに立服し、某(それがし)は此の川上へ、右の女は此の川下へ連行(つれゆ)き、汝等誠に不屆者也。依(よつ)て兩人ともにしづめにかくる也。されども同じ場所ヘ一所にしづめんも口惜しく、川上川下へ分けてしづめむと、兩人ともに身に大いなる石をせおはせられ、川の上下の深みへ投込(なげこ)まれ、底のもくづとなり果てたり。その死に及んで兩人諸共、かゝる事にて冥途へおもむく段、一つ所に死せん事叶はざりしを殘念よと、思ふ執念深く忘るゝ事なく、靈魂愛じやくの巷(ちまた)にまよひ、われは川下へ行きて、逢はん事を思ふといへども、行かんとすれば、そのくるしき事限りなし、また行かざれば、愛慕の念にくるしむ。川下にても、右のくるしみにや、なつかしく床しとの聲は聞え候得ども、一所にいたる事能はず、我等あまりのゆかしさに、靈魂此の土橋のうへに顯れ、毎夜川下の女を戀慕ひ申し候、哀れ御人(おひと)の御情(なさけ)をもつて、我等を川下へ連行(つれゆ)き、右の女に合せ給はれかし、偏ヘに願ひ存ずる也と、身を震はして戀ひこがれ、悲しげに叫ぶ聲いと物淋しく覺えたり。ばせをは此の由を聞きて、是愛慕の念にほだされて、本來空に歸らずして、靈魂苦しみ迷ふならん、併(しか)し教訓なしてさとらせんと、芭蕉聲をあららげ、彼の化生を呵して申しけるは。汝何の體ありて川下へ至り、女に逢はんとはなげくぞ、既にその方は死せし身の上、魂は天に歸り魄は此の水中にあり。然るに汝左樣にさまよひ出でるは、死後の砌り女を戀ひこがれ、同所に身まからん事の本意(ほい)なさよと思ふ心の故に、其の念のかたまる處の陰氣(いんき)、未だ空(くう)に歸らず、是執念の深きゆゑにして、まさしく人間の陽心にあらず、ほとんど陰鬼の類ひなり。斯くのごとくの上は、何とて望みの如く、右の女に見えらるべき、見えずして苦しむは、汝等がしやばにて邪(よこしま)をなし、且(かつ)非業(ひごふ)の死をとげし、ことごとくうかまざるが故也。あゝ人間の性は空(くう)より來り空に歸る、如斯き上は、仇もなく恨みもなく、愛も無く慕(ぼ)もなし。すみやかに念をひるがヘして、本來空に歸れよ。併(しか)し我が數年功をつみし俳句の利(り)にて、再び汝が執念を、女の執念に合集(がつしふ)させしめんとて、ばせを高らかに、

 

  川上と此の川下や月の友 ばせを

 

と吟じければ、芭蕉の教訓に靈魂感服やなしけん。且つ亦右のいとくにやよりけん。彼の男と見えしは、又一つの陰火と化し、遙か川下へいたると等(ひと)しく、又川しもよりも陰火飛來り、二つの玉(たま)合集(がつしふ)してはまた放れ、はなれては復合ひ、廻り廻る事數度(すど)なりしが、二つの陰火(いんくわ)縺れあうて、遙かの空へ飛去りけり。芭蕉は奇異の思ひをなし、其の後暫く窺ふといへ共、さらに怪しき事なければ、それより元崎へ立歸(たちかへ)り、右の亭主にしかじかと物語り、明晩よりは決して變化出でまじと申しけるが、はたして翌晩より、その時分彼の所を通れど、何の怪異もなきは、不思儀なりとぞ申しける。

 

行脚怪談袋

 

■やぶちゃんの呟き

・「小佐川」不詳。福岡県京都郡みやこ町勝山長川(ながわ)という地名を見出せるが、ここは秋月とは離れ過ぎていて、候補地からは外れる。識者の御教授を乞うが、どうもこれは最後芭蕉の句の読まれた、現在の江東区大島町の小名木(おなぎ)川をフェイクしたものではあるまいか?

・「多吉夫婦」「夫婦」と呼んでやっているところに筆者の優しさが現われている。

・「宿評(しゆくひやう)と云へる儒者」不詳。実際の芭蕉の関係者には似たような名の人物はいないと思う。

・「筑後に到り、同國元崎と云へる村」不詳。築後の秋月から二里前後を地図上で調べたが、それらしい町は現存しない。識者の御教授を乞う。

・「秋月(あきづき)の城下」現在の福岡県朝倉市野鳥にあった、当時は福岡藩支藩秋月藩の藩庁で黒田氏が居城していた秋月城の城下町。

・「半道」「はんみち」で一里の半分、半里のこと。凡そ二キロメートル。

・「三十間」五十四・五四メートル。地図を見る限り、こんなに広い川は現在の秋月より北の二里圏内には、ないように思われる。

・「川の體」「體」は「てい」。様子。

・「枯蘆の中に淋しや捨小船」中村俊定校注「芭蕉俳句集」(一九七〇年岩波文庫刊)には「存疑の部」の一三二番に、

 

枯芦の中にさびしや捨小舟

 

と出る。底本は「芭蕉翁句解参考」(何丸(なにまる)著・文政一〇(一八二七)年刊)で「追加山峰より」の中に出す、と脚注がある。芭蕉にしては平板でショボくさい。

・「暮六つ」「七月四日」とあるから午後八時直前辺り。

・「亥の刻」午後十時前後。

・「二丈」六メートル強。

・「三間」五メートル四十五センチ強。

・「白衣類」個人的には「びやくえのるい」と訓じたい。

・「お幸」「おさき」か「おさち」か「おこう」か。

・「荐(しき)りに」「頻りに」に同じい。

・「契約(けいやく)」かくルビがあるが、個人的には「ちぎり」でよい。

・「床し」何とも言えず心が惹かれるであるが、「行かし」(ゆきたい)の意も強く含む。次の「ゆかしさ」も同じ。そもそもこの形容詞は動詞「行く」の形容詞化したもので「床」は当て字である。

・「併(しか)し教訓なしてさとらせんと」は底本では「併(しか)し教訓なくてさとらせんと」となっている。意味が通らないので、誤植と断じて「く」を「し」に代えた。大方の御叱正を俟つ。

・「見えらるべき、見えずして」「見」は孰れも「まみ」と訓ずる。

・「合集(がつしふ)」発句選集の合集(がっしゅう)に掛けてある。

・「川上と此の川下や月の友」遂に最後は流石に真正の芭蕉の句を持って来た。「續猿蓑」の「龝之部」冒頭の「名月」に出る、

 

  深川の末、五本松といふ所に船をさして

川上とこの川しもや月の友       芭蕉

 

元禄五(一六九二)年或いは翌六年の作とされる。「五本松」とは、現在の江東区大島町で小名木川(家康の命で開鑿された人工の運河)の川端及びその流域に当たる。古来、この「川上」で同じ「月」を眺める、そ「の友」とは、芭蕉の盟友であった俳人山口素堂であろう(他説もあるが、芭蕉が「友」と呼ぶのは私は彼しかいないと思う)。なお、本句は、「泊船集」(風国編・元禄一一(一六九八)年)では、

 

  深川の五本松といふ處に船をさして

川上とこの川しもと月の友       芭蕉

 

の句形で載る。

 

・「不思儀」ママ。

活動写真   梅崎春生

 

 大正年代の福岡市には、映画館は数えるほどしかなかった。中洲に有楽館、コトブキ座、有楽館、バッテン館、名は忘れたがその他一、二館といったていどである。バッテン館はそのころ珍しい洋画専門館だった。

 尾上松之助という目玉の大きな役者の時代はすぎ、わたしたちのころは阪東妻三郎や市川百々之助の全盛時代である。月形竜之助、高木新平などもいた。この稿を書くために、当時の博多の映画館やそのだしものについて、評論家の大井広介氏に電話して教えをこうたが、その精密な記憶には舌をまいた。もっとも大井さんは 『ちゃんばら芸術史』というチャンバラ映画にかんする著書があるくらいで、この道における第一人者だ。

 当時の映画館は階下は椅子席だったが、二階は畳敷きであった。畳敷きだから座ぶとんが必要で、一枚いくらで座ぶとんを貸してくれる仕組みだったと思う。つまり寄席のスタイルだ。

 階下は椅子と言っても一人一人の席が区切られているのではなく、公園のベンチ式で、混んでくると順々送りに詰め込まれ、窮屈なことに相成る。男席と女席と分れていて、いっしょに腰かけてはいけない。暗がりだから痴漢の横行をおそれたのか。

 そして見物席の最後方、一段高いところに警官席があり、いつも制服の警官が腰かけてにらみをきかせている。いまの映画館の自由な雰囲気とは大違いで、なんだか看視づきで拝観を願い上げているような趣きがあった。

 わたしの級友に毎週土曜の夜映画を見に行くというのがいて、大いにあたしをうらやましがらせた。わたしなどはせいぜい一カ月に一度ていどで、それもねだりにねだったあげくしぶしぶつれて行ってもらえた。後年おふくろの話によると、わたしたちの目をごまかして、おふくろはおばあさんといっしょによく映画見に出かけたものだそうだ。なぜぼくたちをつれて行かなかったのかと冗談に責めたら、

「教育上悪いと思ったから」

 との返事だった。

 わたしがいちばん見たかったのはチャンバラ映画で、それについでチャップリンやロイドなどの喜劇(日本では喜劇はほとんどつくられていなかった)、西洋の活劇などである。恋愛ものはにがてであった。もっともこどものくせに恋愛ものが大好きなんていうのは困るだろう。

 ダグラス・フェアバンクスの『ドンQ』などを見たときの感激も忘れがたい。興奮がうちに帰ってからもつづき、寝床に入ってからも、

「おれもあんな具合に強くなりたいな」

 と思うことしきりでよく眠れなかった。いま見れば無声映画ではあるし、たあいない作品だろうと思うが、当時受けた感銘は絶大であった。

 あんなに強い感銘は、もう大人になっては味わえない。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第四十九回目の昭和三六(一九六一)年二月二十一日附『西日本新聞』掲載分。前回の「ごっこ」の「チャンバラ」から「チャンバラ映画」へ。

「中洲」(なかす)は福岡市博多区の、那珂川と博多川に挟まれた中州(中の島)地区。前に注した当時の福日新聞社近くの西中島橋を東北へ渡ったところに当たる。

「バッテン館」「ばってん」は九州に広く分布する逆接の接続詞「(~)だけれど……」で、福岡方言にもある。

「尾上松之助」「目玉の松ちゃん」で知られた二代目尾上松之助(明治八(一八七五)年~大正一五(一九二六)年)は歌舞伎役者・映画俳優・映画監督。本名は中村鶴三(かくぞう)。『日本映画草創期に活躍した時代劇スターであり、日本初の映画スターといわれる。旅役者から牧野省三に認められて映画界に入り、『碁盤忠信 源氏礎』でデビュー。牧野とのコンビで横田商会、日活の』二社で一千本以上の『映画に出演、大きな目玉を向いて見得を切る演技が評判を呼び「目玉の松ちゃん」の愛称で大衆に親しまれた。立川文庫や講談でおなじみの英雄・豪傑・義人・侠客のほとんどに扮しており、トリック撮影を駆使した忍術映画では年少ファンのアイドル的存在となった。後年には、日活大将軍撮影所所長、日活取締役などを兼任して重役スターとなり、公木 之雄(きみき ゆきお)の名で監督作も発表。晩年は社会福祉事業にも貢献した』。詳しい事蹟は以上を引用したウィキの「尾上松之助」を見られたい。

「阪東妻三郎」(明治三四(一九〇一)年~昭和二八(一九五三)年)は私の愛する名優(歌舞伎俳優・映画俳優)である(言わずと知れた俳優田村三兄弟(長男高廣・三男正和・四男亮)の父親でもある)。本名は田村傳吉、サイレント時代には岡山俊太郎名義での監督映画作品がある。『端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ、「阪妻(バンツマ)」の愛称で呼ばれた』。『東京府神田区橋本町(現在の東京都千代田区東神田)の田村長五郎という木綿問屋の次男坊として生まれ、神田で育った。小学校を卒業する頃から家業が傾き始める。兄、姉、母が相次いで亡くなり、父親が事業に失敗して破産』した。『尋常小学校高等科を卒業した後、母や姉が常盤津や長唄の芸事に秀でていたことや芝居が好きだったことから「立身出世の早道」を求め』、十六歳で『成績表片手に芝明舟町にあった十五代目市村羽左衛門の邸へ飛び込むが門前払い』。『落ち込んで帰宅する途中、近くの十一代目片岡仁左衛門の邸に思い切って飛び込んでみたところ、伊東という番頭が取り次いでくれて、「まあ遊んでいろ」と仁左衛門の内弟子を許される』。しかし『仕事は雑用ばかりで、しつけは厳しく、雑用の合間に黒衣着で舞台の見学をしながら狂言のノートをとる毎日だった。師匠について大阪中座で「紙子仕立両面鑑」の序幕の仕込みに出たのが初舞台で、セリフはなかった』。大正七(一九一八)年、『二年辛抱するがうだつが上がらず、因襲と家柄優先の歌舞伎の世界に限界を感じ始め、「一日二回、十日替りの芝居ならもっと修行ができる」と結論。金にもなるということから、ちょうど浅草の吾妻座から声がかかり、沢村宗五郎、吾妻市之丞らの一座に入り、「沢村紀千助」を名乗る』。『下っ端なりに役も付くようになったが物にならず、市之丞に連れられて再び歌舞伎座に戻り、師匠の仁左衛門に顔向け出来ぬ苦しみを味わう。こうしたなか、縁あって神田劇場で中村歌扇や尾上菊右衛門と一座することとなる』。大正八(一九一九)年に『国際活映の沢村四郎五郎一派のエキストラに出演』。『伝統や因襲にこだわる芝居道と違う新天地を活動写真界に見出し』、『「阪東藤助」を名乗り、沢村四郎五郎、實川莚十郎に頼みこんで昼は活動写真、夜は劇場と働いた』。大正九(一九二〇)年六月に『松竹キネマ蒲田撮影所が出来ると、實川莚十郎と一緒に松竹キネマに入るが、このとき行動を共にした森要がまもなく退社したため、これに伴って国活に逆戻りするが、まったく無名のまま脇役を過ごす。国活では「阪東要二郎」を名乗』ったが、翌年には『活動写真の現場でも下廻りばかりで面白くなくなり、国活撮影所で同士だった片岡松花、中村吉松を募って撮影所を飛び出し、「阪東妻三郎」を名乗って「東京大歌舞伎 阪東妻三郎一座」の看板を掲げ、「タンカラ芝居」(東京近郊を巡業する村芝居)に出る。演し物は一番目が「ひらがな盛衰記」、二番目が「本朝二十四孝」の御殿で、阪妻は船人松右衛門と武田勝頼を演じた』。『前景気も良く、「阪東妻三郎大一座」は上州辺りを打って廻り、始めは大入り大受けだった』。大正一一(一九二二)年二十二歳の春、仕打ち(舞台での演技・仕草)の『失敗から一座解散。阪妻は単衣物一枚の上に外套を羽織る惨めな有様で、ようやく生家に戻ったものの妹は死んだあとで、兄は病臥していた』。大正一二(一九二三)年二月に『牧野省三が京都にマキノ映画製作所を結成するにあたり、マキノの重役宮川斉が東京に俳優募集に来たところ、阪妻を眼に止める。阪妻は「これで成功しなければ二度と東京の土は踏まぬ」との一大決心で片岡松花、中村吉松と京都入り、マキノ・プロダクションに入社』、『マキノ・プロに月給六十円の大部屋俳優として転がり込んだ阪妻だが、当初、役柄は敵役、脇役が多かった。「御用、御用」の斬られ役で、斬られては顔を変え、幾度も立ち回りにからんだが、顔が立派で柄も大きいため、どんなに変装しても目立ってしまった』。大正一三(一九二四)年の正月映画「火の車お萬」での環歌子(たまきうたこ 明治三四(一九〇一)年~昭和五八(一九八三)年:阪妻を「妻ちゃん」と呼ぶ盟友)との『共演が当たり役となって、「あいつが出ると目立ってしかたがないから役をつけてしまえ」ということになり』、二川文太郎監督の「怪傑鷹」で高木新平(後注参照)の『相手役の「黒木原源太」という悪役に抜擢される。ところが「白面の美剣士が敵役」というので、観客、批評家を驚かし、これが出世の糸口となる』。『続く日活・松之助映画とマキノの初競作『燃ゆる渦巻』(全四篇)で、途中から阪妻演じる駒井相模守の人気が急上昇。第四篇では主役の林清之助が呆気なく死に、阪妻の相模守が主役になってしまった。この作品でマキノは大いに名声を博し、尾上松之助版を圧倒する評判を得た』。『ちょうどたまたま同じ下宿に、浅草ペラゴロ出身の、これも浪人の身の脚本家寿々喜多呂九平がおり、二人は意気投合。同年、阪妻のために呂九平は『鮮血の手型 前・後篇』(沼田紅緑監督)の脚本を書き下ろし、同作は阪妻の第一回主演作となる』。『『鮮血の手型』は、それまでのやたらと見得を斬る歌舞伎スタイルの立ち回りの旧劇と異なり、阪妻の激しい剣戟とリアルな演出が、映画界に革命的な衝撃を与えた。以後、『恐怖の夜叉』、『討たるる者』、『『江戸怪賊伝 影法師 前・後篇』、『墓石が鼾する頃』と、この寿々喜多呂九平と組んだ、阪妻の人気を不動とした作品群が続き、とりわけて虚無的で反逆的な一連の傑作を、浅草オペラ出身のアナキスト、漠与太平門下生の二川文太郎が監督。なかでも』大正一四(一九二五)年の二川文太郎監督「江戸怪賊伝 影法師 前・後篇」は『大好評で、時代劇俳優の第一人者としての地位は決定的なものとなる』。この年、『全国の熱狂的なファンに応え、阪妻は「自由制作」を標榜し』、二十五歳で『阪東妻三郎プロダクションを京都太秦に設立。今東光を顧問に据え、自ら陣頭に立ち、映画製作を開始』した。それ以降の波乱万丈の事蹟はまた、参照引用したウィキの「阪東妻三郎」を見られたいが、何と言っても、彼が主演した昭和一八(一九四三)年公開の大映製作になる監督・稲垣浩/脚本・伊丹万作の「無法松の一生」は絶品である。

「市川百々之助」(もものすけ 明治三九(一九〇六)年~昭和五三(一九七八)年)は歌舞伎役者・映画俳優・映画監督。ウィキの「市川百々之助によれば、『サイレント映画の時代に「ももちゃん」の愛称で親しまれ、全盛期には阪東妻三郎と人気を二分するチャンバラ俳優であった』『戦後は芸名を百々木直(ももきなお)と』変えている。本名は上田直正。広島県広島市に生まれ。明治四五(一九一一)年に「近江源氏戦陣館(おうみげんじせんじんやかた)」の小四郎で初舞台を踏み、十二歳の時、市川中車の門下となって、「ちんこ芝居」(小青年歌舞伎)の一座を組織し、各地を巡業した。十七歳の大正一一(一九二二)年九月、帝国キネマ演芸小坂撮影所へ入社、同年の中川紫郎監督「異端者の恋」「大江戸の武士」に出演して映画俳優デビューしたが、その直後あたりから、凄まじく人気が上昇、白塗りのメーキャップに派手な殺陣、前髪立ちの小姓に扮し、美男子ぶりを看板にするチャンバラ劇を演じて、大正末期には一番の人気スターとなった。『人気絶頂期には、会社の言うことも監督の言うことも聞かない暴君と化したといわれるが』、昭和五(一九三〇)年頃から『人気が下り坂となり、同年帝キネを退社』、河合映画(後に大都映画に改組)へ移り、自ら主演の剣戟映画を量産している。昭和八(一九三三)年には大都を退社、『日活太秦撮影所に入社』したが、昭和一三(一九三八)年の池田富保監督の「赤垣源蔵」を最後に第二次世界大戦後まで出演記録が途絶える。『当時の読売新聞によると、俳優を引退し、薬屋を営むことにしたという。日活を辞めたあとは女剣劇の一座に加わってしがない旅を続けているうち、いつしか消息を絶ったとも』噂され、『戦後は役らしい役ももらえず、チャンバラのカラミで生きていたとも』されるが、昭和二九(一九五四)年末の東映京都撮影所製作の丸根賛太郎監督・東千代之介主演映画「竜虎八天狗」に『今川蝉阿弥役で出演して映画界に復帰』した。しかし、昭和三六(一九六一)年の工藤栄一監督「八荒流騎隊」の茂兵ヱ役を最後として映画界を去り、事実上、引退した。『晩年は半身不随』となり、『別府温泉で寂しく療養していたといわれる』。生涯に二百本以上の映画に出演したが、その内、百五十本がサイレント映画だったとある。

「月形竜之助」「月形龍之介」(明治三五(一九〇二)年~昭和四五(一九七〇)年)が正しいので注意。本名は門田潔人(もんでんきよと)。ウィキの「月形龍之介」から引く。『戦前から戦後の約半世紀の間時代劇スターとして活躍し、阪東妻三郎、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「七剣聖」と呼ばれた。戦前期はニヒルな剣士役で人気を得、伊藤大輔監督の『斬人斬馬剣』などの名作に主演した。戦後は渋みと風格のある脇役となり、悪役も演じた。戦後の当たり役は水戸光圀で』、十四本の『シリーズ作品がある。晩年はテレビドラマにも出演。生涯に出演した映画は約』五百『本以上に上る』。『宮城県遠田郡小牛田村(現在の美里町)』生まれ。大正九(一九二〇)年六月に牧野省三が設立した日活関西撮影所俳優養成所に第一期生として入り、「中村東鬼蔵」を芸名とした(養成所仲間には次に出る高木新平がいた)。同年九月公開の尾上松之助主演「仙石権兵衛」での端役が映画デビュー作。、大正一三(一九二四)年半ばに「月形龍之介」に改名している(その後、一時期は「月形陽候」とした)。その後独立プロダクションを二度、設立した後、上昭和一七(一九四二)年四月に大映に入社した。この頃から脇役を演じることが多くなったが、黒澤明監督の「姿三四郎」での敵役檜垣源之助役、稲垣浩監督の「無法松の一生」で侠客結城重蔵を演じ、重厚な演技で場面を引き締めている(私はこの二本と次の「透明人間現わる」の彼が好みである)。戦後は一時期、GHQによってチャンバラ映画が禁止されたことから、現代劇に出演、昭和二四(一九四九)年の安達伸生監督・円谷英二(戦争映画関与でホワイト・パージされていた彼の戦後復帰第一作)特殊撮影になる「透明人間現わる」では『あらゆる物質を透明にしてしまう薬品を開発した科学者という、それまでに経験したことがない役どころを演じており、実年齢より大幅に上まわるこの老け役に、抑えた重みのある演技で謎めいた雰囲気を付加することに成功している』とある。

「高木新平」(明治三五(一九〇二)年~昭和四二(一九六七)年)は俳優・映画監督・映画プロデューサー。初期の芸名は「片岡慶左衛門」「片岡慶三郎」。本名は高木慶吉。身のこなしの軽さから「鳥人」と呼ばれた。参照したウィキの「高木新平(及びそのリンク先ウィキ)によれば、長野県下諏訪町生まれで神田英語学校卒。大正九(一九二〇)年にマキノ俳優養成所に入り、牧野省三に師事、大正一二(一九二三)年六月より先の初期芸名名義で映画に出演し始めた。東亜キネマ所属であったが、昭和二(一九二七)年に独立して高木新平プロダクションを設立、監督業も行ったが、翌年にはマキノ・プロダクションに入社した。牧野没後の昭和五(一九三〇)年、帝国キネマ演芸に移籍し、その後は宝塚キネマエトナ映画社に移っているが、昭和十年から第二次世界大戦終結までは出演記録がない(戦時中は近衛連隊に所属した)。 戦後、昭和二四(一九四九)年に東横映画に出演して復活、昭和二九(一九五四)年には黒澤明監督の「七人の侍」で野武士集団の頭目役、三年後の同監督の「蜘蛛巣城」に武将役で出演、その後は新東宝の映画に出た後、昭和三六(一九六一)年には再び、黒澤の「用心棒」(丑寅方の子分役)に出演している。昭和三三(一九五八)年のテレビ・ドラマ「月光仮面」では怪獣「マンモスコング」のぬいぐるみを制作、自らこれを着けてマンモスコングを演じている。昭和四一(一九六六)年のNHK大河ドラマ「源義経」の出演(頼朝挙兵を助けた佐々木四兄弟の父佐々木秀義役)が最後か。

「大井広介」(大正元(一九一二)年~昭和五一(一九七六)年)は「大井廣介」が正しい。文芸評論家で野球評論家でもあった。本名は麻生賀一郎(現在の政治家麻生太郎の父親である麻生太賀吉は従弟)。ウィキの「大井廣介」によれば、『福岡県出身。旧制嘉穂中学校卒業。早くに父を喪ったため、伯父から庇護を受ける』。十八歳で東京に出、昭和一四(1939)年には『文芸同人誌『槐』(えんじゅ)を創刊』、翌年に『同誌の誌名を『現代文学』と改め、平野謙や荒正人、佐々木基一、杉山英樹たちを迎えて文芸時評を執筆』、同誌を昭和十年代の代表的『文芸同人誌に育て上げた』。『同誌は戦後の『近代文学』の礎となったが、大井は『近代文学』から距離を置き、党派性を批判して自由人を標榜。イデオロギーを排し、ゴシップ的手法によって社会批判をおこなった』。『異色の野球評論家としても活躍。『週刊ベースボール』に長期にわたってコラムを連載していた』。『また、「近代文学」の仲間は探偵小説好きが多かったが、大井もミステリ好きで、「田島莉茉子」名義でミステリ』「野球殺人事件」(昭和二六(一九五一)年刊行)『を発表したのは、大井と言われている』。また、一九六〇年代には『雑誌「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」にミステリ時評を発表。死後に『紙上殺人現場』として刊行され』ている。ここに出る「ちゃんばら芸術史」は昭和三四(一九五九)年実業之日本社刊。

「ダグラス・フェアバンクスの『ドンQ』」アメリカの名優ダグラス・フェアバンクス(Douglas Fairbanks 一八八三年~一九三九年)主演のDon Q Son of Zorro(一九二五年公開)。前年公開されたThe Thief of Bagdad(「バグダッドの盗賊」)に続く、彼の主演映画で、やはり彼の主演で脚本も担当したThe Mark of Zorro(「奇傑ゾロ」:一九二〇年公開:後にリメイクされて私も小さな頃によく真似をした「怪傑ゾロ」の話である)の後篇と目される作品。「Movie Walker」のこちらでシノプシスが読める。]

2016/08/08

天皇の語り

行きつけの寿司屋で私に「あんたはどこの球団?」と聴いてくるから、「野球のルールも知りません」と言うと、啞然とされる――
 
「あんたは元高校教師なのに、神奈川の高校野球に興味ないの?!」と驚く爺さんがいる――
 
「オリンピックに興味はなく、テレビもそれを含めて一日に一、二時間しか見ていない」と言うと、「お前は人間か?」みたような視線を送る輩がゴマンといる――
 
いや――実にこの世は総て、つまらぬ……
 
しかし――
今日の天皇の言葉は
実にしみじみと聴いた。
彼は今の政権によって「機関」化されようとする自分を、確かな「人間」として取り戻すために語っている。
 
私は生涯で初めて確かに今の天皇を尊敬した――

博物学古記録翻刻訳注 ■17 橘崑崙「北越奇談」の「卷之三」に現われたる珊瑚及び擬珊瑚状生物

 

――前頭葉挫滅一周年記念――

[やぶちゃん注:「北越奇談」は文化九(一八一二)年に刊行された随筆集で全六巻。越後国の文人橘崑崙(たちばなこんろん)の筆になり、校合・監修・序文は稀代の戯作者柳亭種彦、挿絵はその大部分を、かの葛飾北斎が描いている(崑崙自身が書いた下絵を元にしており、一部には崑崙の自筆も含まれるが、以下の図は崑崙の落款がないので北斎が描き直したものと思われる)。底本は平成二(一九九〇)年野島出版(新潟三条市)刊(第五版)橘崑崙著「北越奇談」を使用したが、恣意的に正字化し、読みは振れるものだけに限った。その代り、読みの一部を本文に出して句読点も増やし、読み易く改変した。一部の歴史的仮名遣の誤りは訂した。踊り字「〱」は正字化した。【2017年8月13日改訂:本年8月4日より「北越奇談」の全電子化注を開始、遂にこの章に辿り着いた。本文を原典と校合して全面改稿し(一部の平仮名を恣意的に漢字化した)、注も再検討し、一部を修正した。本文校訂についての詳細は冒頭を参照されたい。 藪野直史】]

 

    玉石(ぎよくせき)

 頸城郡(くびきごほり)米山(よねやま)の西三里に、土底(どそこ)と云へる濱(はま)あり。此所(このところ)の漁夫(ぎよふ)、三、四月の間(あいだ)、鰈魚場(かれいば)と云へりて、米山の海岸を離るゝこと、八、九里、佐州、荻(おぎ)の間(ま)見渡しなるに、船を放ち、網を下(さ)げ、釣を垂るゝ所、あり。凡(およそ)此の海底、數十尋(すじうぢん)の下、少し小高き島(しま)ありて、奇木奇石を生ずること、擧(あ)げて算(かぞ)ふべからず。「赤珊瑚(あかさんご)」・「黒珊瑚」・「青白琅玕(せいはくらうかん)」・「拂子石(ほつすせき)」・「木賊(とくさ)石」・「海松(うみまつ)」・「海柳(うみやなぎ)」等(とう)なり。左に図するごとし。「黑珊瑚」・「海松」の類(るい)は常に多し。實(じつ)に、交趾(かうち)合浦(がつぽ)とも云へつべき所なり。漁舟(ぎよしう)の網にかゝりて、根より引(ひき)拔けて上がるもの、多し。初め、水を出(いで)たる時は、水垢(みづあか)にて色も分(わか)らず、匂ひ、惡(あ)しく、手にも、執るべからざるがごとし。淸水(せいすい)に浸(ひた)し、よく洗ひ、日に乾(かはか)す時は、潤色光澤(じゆんしよくくはうたく)、其の奇、云ふべからず。又、自然に大風波(たいふうは)のために千切(ちぎ)れ來りて濱に打ち上げ、砂石(しやせき)の中(うち)に拾ひ得たるものは、殊(こと)に、光澤、絶妙なり。「拂子石」・「琅玕」・「木賊石」の類(るい)は稀(まれ)に、上がる。「赤珊瑚」のごときは、今は絶(たへ)てなしと云へり。十ヶ年前(せん)までは、數品(すひん)、日々(ひび)、漁夫の網にかゝり、上がると雖も、其の奇物(きぶつ)なることを知らず。皆、海底に打ち捨てたり。其折(そのおり)までは、たまたま、赤色(せきしよく)なるものもありし、と云へり。其の後(ご)、好事(かうず)の者、漁夫の話(わ)を聞きて、是れを尋ね求(もとむ)るにより、今は、舟ごとに賴むと雖も、其の求むる人、多きが故に、得ること、難(かた)し。故に價(あたひ)もまた、尊(たつと)し。一種、俗に「薩摩貝(さつまがひ)」と云ふ物あり。玉石に類し、「琅玕」に似(にれ)ども、光澤なく、形(かたち)、屈曲過ぎて、不ㇾ雅(が ならず)。初め、水を出る時、淡紅(たんかう)にして愛すべし。風雨に曝(さ)らす時は、即(すなはち)、白し。總(すべ)て珊瑚より以下、皆、海中にある中(うち)は、柔(やはら)かにして、玉石の類にあらざるがごとし。水を離れ、乾く時は、即、金石(きんせき)のごとし。は、海濱に年々(としどし)遊玩(ゆふぐわん)して、已(すで)に五、六品(ひん)を得(う)。以(もつて)、好事の客(かく)にふけるのみ。其の余(よ)、北海(ほくかい)數(す)十里の濱(ひん)、皆、稀に此の奇木玉石を拾ひ得ることありと雖も、風波(ふうは)のために打ち上ぐる物にして、海底より直(たゞち)に引き上げたるはあらじ、と、覺ゆ。

[やぶちゃん注:以下、底本からトリミングして画像補正を加えた図版を示す。図版番号は私が附した。それぞれで出るキャプション及び本文を翻刻したが、読み易くするために句読点及び記号と、読み(推定)・送り仮名・訓読を添えた。字の大きさが有意に小さい箇所は割注と判断して、【 】で括った。本文に出ないものは、以下で先に注した。]

図版

Gyokuseki1

・本文の最後の『風波(ふうは)のために打(うち)あぐる物(もの)にして海底(かいてい)より直(たゞち)に引(ひき)あげたるはあらじとおぼゆ』(私は一部を漢字化しているので異なる)が右端に出る。

・キャプション

珊瑚(さんご)【淡紅赤色。光彩、潤沢。根石付(づき)のところ、少し黑く、其の上、淡綠、次㐧に赤色也(なり)。】

[やぶちゃん注:「次第に赤色也」とは岩礁に附着している仮根(かこん)の上部の箇所は淡い緑色をしているが、上方に行くにしたがってだんだん赤みを帯びて全体に淡いしっとりとした感じの光沢のある紅色へと遷移する、の謂いであろう。]

青白琅玕(せいはくらうかん) 二種(しゆ)

【光彩、可愛(あいすべし)。石上(せきしやう)に生ず。】

[やぶちゃん注:「可愛」愛玩賞美するに最適である。] 

 

図版

Gyokuseki2

・キャプション

木賊石(とくさいし) 清白・黑節

【似琅玕(らうかんに にる)。奇玩(きぐわん)、絶品なり。】

【一根(いつこん)數莖(すうけい)なるもの、玉林(ぎよくりん)のごとし。】

[やぶちゃん注:一つの仮根から有意に複数の細い茎(くき)状のものが突出する個体は、まるで玉石で出来た美しい林を遠望するような趣がある。]

黒珊瑚(くろさんご)

【光沢、潤色。人を、てらす。】

[やぶちゃん注:その潤沢なる光彩を持つ茎状の箇所を近づいて見るならば、その人の顏さえ鏡のように映る、というのであろう。] 

 

図版

Gyokuseki3

・キャプション

海松(うみまつ)【一(いつ)に「鉄樹(てつじゆ)」。】

【潤黑色。葉、似榧(かやに に)、少しく高し。】

[やぶちゃん注:「一に」は「別名で」の意。

「潤黑色」「じゆんこくしよく」か。潤いを持った(光沢のある)黒色であろう。

「榧」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera のこと。本種の葉の表面は濃緑色で光沢があり、革質で硬く、枝に螺旋状に附くが、これとこの「海松」の分岐した細部が似ている、というのである。]

海柳(うみやなぎ)【葉、細長し。】 

 

図版

Gyokuseki4

・キャプション

拂子石(ほつすせき)

【一根、數百莖を生じ、長き物、二、三尺、短(たん)なるもの、四、五寸。太さ、爲銀針(ぎんしんたり)。白玉鮮潔也。高さ、賢實にして折れやすし。机上の絶玩(ぜつぐわん)なり。】

[やぶちゃん注:「二、三尺」六十一センチから九十一センチ弱。

「四、五寸」十二センチから十五センチほど。

「爲銀針」(まさに)銀の針(そのもの)である。

「机上の絶玩なり」机上に飾って愛でるには最上の愛玩品である。] 

 

図版

Gyokuseki5

・キャプション

【海濱(かいひん)の俗、これを「しほごり」といふ。】

「塩凝」、漢名を、しらず。白色、堅實なり。

「菊銘石(きくめいせき)」の似て、麁(あらし)。肥大なるもの、五、六尺。

[やぶちゃん注:「しほごり」「塩凝」は本文には出ない。結構、同定が難しい。まずは、

刺胞動物門花虫綱八放サンゴ亜綱ウミトサカ目 Alcyonacea の一種を考えたが、彼らは炭酸カルシウムの骨軸を持たず、多肉質で軟らかいのでこれに当たらない(同定考証される場合は越後国の沖合(詳細は以下の注を参照)である点にも注意されたい)。なお、

海綿動物門石灰海綿綱 Calcarea に属する種群

は炭酸カルシウムから成る方解石やアラレ石で出来た骨針を持ち、死後も他の海綿と異なり硬いので、それも考えたが、同綱の種群は群体を造っても小さく、高さも直径も十センチメートルほどの淡褐色で、ここに示されたような大きさにはならない。お手上げである。図を最初に見た時には、容易に同定出来ると思ったのだが。識者の御教授を乞う

「菊銘石」この場合は陸で発見され、古くから愛石家に珍重された軟体動物門頭足綱アンモナイト亜綱Ammonoidea の絶滅種群であるアンモナイト類の化石のことであろう。日本や中国では菊の葉を連想することから昔から「菊石(きくいし)」と呼ばれ、生前にキチン質で出来ていた殻の表面部分の殻皮を剥がし、磨きをかけて商品化される(「菊銘石」は現在、代表的な造礁サンゴの一つで塊状或いは半球状の群体を造る刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イシサンゴ目キクメイシ科Faviidae の珊瑚をも指すが、ここはそれとは私はとらない)。

「麁(あらし)」粗い。

「五、六尺」十五センチから十八センチほど。] 

 

図版

Gyokuseki6

・キャプション

琅玕の類か、山中、石髓・乳石盤の類か。其の大なるもの、二、三尺。

俗に「薩广貝(さつまがひ)」と称するもの。水にあるとき、淡紅色。日(ひ)に曝すときは、淡白、堅實なり。

[やぶちゃん注:「山中石髓・乳石盤」やや、おかしな謂いである。海産の珊瑚或いは擬珊瑚様の生物を語っているのに、山中から出土する「石髓」(「玉髄」と同じならば石英の微細な結晶の集合体が岩石の割れ目や空洞を満たして放射状や葡萄状などを成して産したもので、含有する不純物の色によって紅玉髄・緑玉髄などと呼ばれて飾り石にする)或いは「乳石盤」(鍾乳石のことか)であろうか、と疑問文にしてあるからである。但し、筆者がそういったものが海底から出たとしても、陸にあるのだから、海の底にあってもおかしくないと考えたとしても、これは実はおかしくはないとは言える。しかし、石英の変成したものや鍾乳石が普通にしばしば浜辺に漂着したり、漁師の網に掛かるというのはこれまた逆に考え難いことである。そもそもこの図版Ⅵのそれは、そんなものじゃあ、ない(後の「薩摩貝」の注を参照)。]

 

□やぶちゃん注

・「頸城郡(くびきごほり)米山(よねやま)」新潟県中越地方と上越地方との境に位置する山。九百九十二・五メートル。江戸時代に北陸道が再整備された際、米山麓の米山峠には鉢崎関が設置され、出雲崎や佐渡島に向かう旅客を取り締まっていた。ここ(グーグル・マップ・データ)。北国街道一番の難所とされた。

・「三里」十一・八キロメートル弱。

・「土底(どそこ)」新潟県上越市大潟区土底浜。この附近(グーグル・マップ・データ)。

・「三、四月」陰暦なので注意。晩春から初夏である。

・「鰈魚場(かれいば)」カレイ目カレイ科 Pleuronectidae のカレイが多く獲れる海域を指すと考えてよい。場所はずっと南であるが、歌川広重「六十余州名所圖會」に「若狹 漁船 鰈網」の図がある。国立国会図書館デジタルコレクションのカラー画像をで視認出来る。

・「八、九里」三十二~三十五キロメートル強。土底から佐渡へ北へ直進した場合、丁度、その半ばぐらいの距離に当たる。浜から南西へ直進したとも読めるが、船の位置や海域を確認するには直進した方が分かり易いと私は思う。

・「佐州」佐渡国。佐渡ヶ島。

・「荻の間(ま)」これは現在の佐渡市小木(おぎ)のことで、佐渡の南の端、小木半島に位置する。「間」はまさに前に注した通り、土底と小木の中間点を指すのではあるまいか?

・「見渡しなるに」「小木半島」を見渡す位置。半島が海域特定の指標となるのである。

・「數十尋(ぢん)」一尋は六尺(約一・八メートル)であるから百八メートルほどか。

・「赤珊瑚」現行では狭義には、

刺胞動物門花虫綱ウミトサカ(八放サンゴ)亜綱ヤギ(海楊)目サンゴ(骨軸・石軸)亜目サンゴ科 Paracorallium 属アカサンゴ Paracorallium japonicum

を指す(淡紅色のものは日本近海に何種かいるが、太平洋岸の深海に限られ、長崎県五島列島辺りならば、Corallium属ゴトウモモイロサンゴ Corallium gotoense は採れるが、ここでは挙げられない)。

・「黑珊瑚」現行では、

花虫綱六放サンゴ亜綱ツノサンゴ目全指亜目ウミカラマツ科 Antipathidae

に属する珊瑚類を広く指すが、後に「海松」が出るから、筆者橘崑崙は現在の種のレベルで違うある種群、或いは、一定の太さを持った個体を「黒珊瑚」、別なある種群或いは前者よりも有意に背の高い個体を「海松」として区別していたと私は推理する。後の「海松」の注も参照のこと。

・「靑白琅玕(せいはくらうかん)」単に「靑琅玕」ならば、八放サンゴ亜綱共莢(アオサンゴ)目アオサンゴ科アオサンゴ属アオサンゴHeliopora coerulea をまず名指せるのであるが、図版の二種(二種を纏めて出し、ひっくるめてこう呼んでいることからは別種ではなく、成長度の異なる二個体と考えてもよいように私には思われる)は孰れもその形状からアオサンゴではない同種は藍青色の骨格が多数板状に癒着し、骨格は石灰質で硬く、先端は波をうっていて一センチほどの厚さがあるゴツゴツとしてずんぐりした形状だからである(大きなものでは高さ一メートルにもなる群体を造る)。比較的浅海に棲む、

Corallium属シロサンゴ Corallium konojoi

ではなかろうか。同種は東シナ海から日本近海の広い範囲に棲息している。宝石珊瑚としては桃色珊瑚に分類されるものの、白を基調としている。中でも象牙色(淡黄白色)を帯びたものは希少性が高く、細工がより際立ち、仕上がりも美しいことから高値で取引される、と宝石関連の記事にある。図はシロサンゴ Corallium konojoi の枝の形状ともよく一致するように思われる。

・「拂子石(ほつすせき)」これは、

海綿動物門六放海綿(ガラス海綿)綱両盤亜綱両盤目ホッスガイ科ホッスガイHyalonema sieboldi

 である。英名“glass-rope sponge”。柄が長く、僧侶の持つ払子(「ほっす」は唐音。獣毛や麻などを束ねて柄をつけたもので、本来はインドで虫や塵などを払うのに用いた。本邦では真宗以外の高僧が用い、煩悩を払う法具)に似ていることに由来する。深海産。この根毛基底部(即ち柄の部分)には「一種の珊瑚蟲」、

 刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目イマイソギンチャク亜目無足盤族 Athenaria のコンボウイソギンチャク(棍棒磯巾着)科ヤドリイソギンチャク Peachia quinquecapitata

 が着生する。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」のホッスガイの項によれば、一八三二年、イギリスの博物学者J.E.グレイは、このホッスガイの柄に共生するヤドリイソギンチャクをホッスガイHyalonema sieboldi のポリプと誤認し、本種を軟質サンゴである花虫綱ウミトサカ(八放サンゴ)亜綱ヤギ(海楊)目 Gorgonacea の一種として記載してしまった。後、一八五〇年にフランスの博物学者A.ヴァランシエンヌにより本種がカイメンであり、ポリプ状のものは共生するサンゴ虫類であることを明らかにした、とあり、次のように解説されている(アラビア数字を漢数字に、ピリオドとカンマを句読点を直した)。『このホッスガイは日本にも分布する。相模湾に産するホッスガイは、明治時代の江の島の土産店でも売られていた。《動物学雑誌》第二三号(明治二三年九月)によると、これらはたいてい、延縄(はえなわ)の鉤(はり)にかかったものを商っていたという』。『B.H.チェンバレン《日本事物誌》第六版(一九三九)でも、日本の数ある美しい珍品のなかで筆頭にあげられるのが、江の島の土産物屋の店頭を飾るホッスガイだとされている』とある。私は三十五前の七月、恋人と訪れた江の島のとある店で、美しい完品のそれを見た。あれが最後だったのであろうか。私の儚い恋と同じように――(画像は例えばこちら)。私の「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 五 共棲~(2)の2」も参照されたい。

・「木賊(とくさ)石」これは、

ウミトサカ(八放サンゴ)亜綱ヤギ(海楊)目角軸(全軸)亜目トクササンゴ科トクササンゴ属 Ceratoisis のトクササンゴ類

である。英文サイト“Ocean Explorer”Ceratoisis flexibilis の美しい縞を見よ!

・「海松(うみまつ)」こちらは、

六放サンゴ亜綱ツノサンゴ目ウミカラマツ科ウミカラマツAntipathes japonica

に同定しておく。「ツノサンゴ」「クロサンゴ」「マヨケサンゴ」などの異名を持つ。「角珊瑚」「黒珊瑚」の名は硬く黒い骨軸に由来するもので、「魔除珊瑚」は、昔、ヨーロッパでこの類の骨軸から作った御守が魔除けとして使われたことによるとされる。本州中部以南に広く分布し、水深十メートル以深の岩礁に着生する。通常の高さは五十センチメートル内外で、樹状群体を形成するが、時には二~三メートルの高さに及ぶものもある。一本の幹から斜め上方に向けて一平面上に広がった羽状枝を多数出して群体を造る(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

・「海柳(うみやなぎ)」現行では狭義に、八放サンゴ亜綱ウミエラ目ウミエラ(半坐)亜目ヤナギウミエラ科ヤナギウミエラVirgularia gustaviana を別名「ウミヤナギ」と呼ぶが、これは相模湾以南に分布し、一〇メートル以深の砂泥海底に朱色の柄部で以って直立する(長さ三十~四十センチメートル)。発達した骨軸を中心にして、柄上部には紫色の三角形をした葉状体が羽根のようにあって、葉状体上縁には二百以上の大きなポリプが並んでいる。ところが、これと図版の左のそれは全く一致しない。従ってこれは現在の「ウミヤナギ」たるヤナギウミエラVirgularia gustaviana ではないことが判る。寧ろ、これは同じ図版の右手に「海松」として別種として掲げられてあるものとかなり相似的であることが判る。だから、これも、

花虫綱六放サンゴ亜綱ツノサンゴ目全指亜目ウミカラマツ科 Antipathidae に属する珊瑚類の一種と見た方が自然である。

・「交趾(こうち)・合浦(がつぽ)」「交趾」郡(ベトナム語:Giao Chỉ:「こうし」とも読み、「交阯」とも書く)は前漢から唐にかけて、現在のベトナム北部の紅河(水源は中国雲南省)の中下流域に置かれた中国の郡の名。後にこの地域が独立した後も、この地域をかく呼称し続け、日本でも「コーチ・シナ」(英語:cochinchina, cochin china)が永く使われた。「合浦」郡は漢代から唐代にかけて現在の広西チワン族自治区北海市一帯に設置された郡の名。ここは古くから合浦真珠で知られるから、それも含めて、孰れも南海の高級宝石である珊瑚の産地といったニュアンスに匹敵するという謂いである。ちょっと大袈裟。かく呼ばうなら、日本の南西諸島の方がより相応しい。

・「云へつ」ママ。

・「匂ひ、惡(あ)しく」多く珊瑚虫類の生体は海上に揚げると、独特の生臭さがあり、破損して網に掛かったり、近海へ漂着したものなどは、個虫が既に死んでいるか、死にかけているものが多いため、腐敗臭もかなり激しい。私は沖繩の海岸でその強烈さをかつて体験済みである。

・「十ヶ年前」「北越奇談」は文化九(一八一二)年刊行であるから、一八〇〇年前後とすると、寛政中頃から享和辺りである(一八〇一年が寛政十三・享和元年)。

・「舟ごとに賴む」網元ではなく、一人ひとりの舟を持つ漁師を個別に訪ね、珊瑚が獲れたら優先的に直接売ってくれることを依頼する。

・「薩摩貝(さつまがひ)」私は思うに、生体の色といい、コンガラガッた奇体な形状といい、これは珊瑚や鉱物なんぞではなく、クモヒトデの仲間で千メートルほどの深海底に棲息する、

棘皮動物門クモヒトデ(蛇尾)綱カワクモヒトデ(革蛇尾)目テヅルモヅル亜目テヅルモヅル科オキノテヅルモヅルGorgonocephalus eucnemis

或いはその近縁種の死亡個体の触手の断片ではないかと疑っている。何故と言うに、私は数年前、まさに佐渡の水族館で同種の巨大な生個体(標本は何度も見たが、生きたそれを現認したのはその時が初めてだった)を見たことがあるからである。何故、「薩摩」なのかは不詳。生時の色が薩摩芋の皮の赤味と似ているからか? オキノテヅルモヅルについては私の栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻九も是非、ご覧戴きたい。以下の同種の図はそちらで底本とした「国立国会図書館デジタルコレクション」のもの。当時は使用許可制であったが、総て事前に許可書を貰ってある。



Okinotezurumoduru1

 

・「海濱に年々(としどし)遊玩(ゆふぐわん)して」「遊玩(ゆふぐはん)」は賞玩・玩弄に同じい。所謂、毎年毎年、ビーチ・コーミングをして、の意である。

・「ふける」ラ行四段活用の自動詞で「見せびらかす」の意。

・「數十里」二百三十六キロメートル前後。現在の新潟県を沿岸に沿って計測すると二百六十キロメートルほどは確かにある。

・「濱(ひん)」ここのみ、音読みしている。 

 

□やぶちゃん現代語訳

    海産の玉石(ぎょくせき)

 頸城郡(くびきごおり)の米山(よねやま)の西、三里のところに、「土底(どそこ)」という浜がある。

 この場所の漁師は、毎年三月から四月の時期、「鰈魚場(かれいば)」と称する、米山の海岸線から離れること、真北へ八里から九里の、佐渡ヶ島の小木との中間のところ、その小木の半島を見渡せる海上に、船を流しつつ、網を海に下げ降ろし、鰈を始めとして種々の魚介を漁(すなど)る海域がある。

 だいたいからして、ここの海底(うなぞこ)、周囲は深いのであるが、その辺りの数十尋(じん)の下方には、少し小高くなった岩根のあって、そこに奇木・奇石が、びっしりと生えておること、これ、その数を数えるに、枚挙に暇がないほどである。

 「赤珊瑚(あかさんご)」・「黒珊瑚」・「青白琅玕(せいはくろうかん)」・「払子石(ほっつすせき)」・「木賊石(とくさいし)」・「海松(うみまつ)」・「海柳(うみやなぎ)」などがその主たるものである。

 それらは左に図示したような形を成しておる。

 「黒珊瑚」・「海松」の類は常に多く見らるる。

 げに、本邦に於ける「交趾(こうち)・合浦(がっぽ)」――古えより、美しい真珠や珊瑚が獲れると聴き及ぶ、海の彼方、南方の海中の楽園――と言ってもおかしゅうない珍物(ちんもつ)の名所なのである。

 漁師の小舟の網に掛かって、根の部分より引き抜けて、海上へと揚がってくるもの、これ、まことに多い。

 当初、海水から出たばかりの時は、水垢(みずあか)で汚れきっており、その地(じ)色も定かでないほどに穢(きたな)く、加えて何とも言えぬ、ひどい匂いのして、手に執るのも憚られるほど、厭な感じのするものではある。

 ところが、それを陸(おか)に揚げて、清水(しみず)に浸した上、よぅく洗い、陽(ひ)に乾かして見れば、その潤いをもった色彩や光沢、はたまた、その奇体(きたい)な形は、これ、言いようもなく、素晴らしい。

 また、自然に大風(おおかぜ)や大波(おおなみ)のために、海底(うなぞこ)の岩根から千切れ流れてきて、浜にうち揚げられ、砂や石の中に拾い得たそれは、小さくなってはおるものの、自然の力にて、時をかけて磨かれてあればこそ、殊(こと)にその光沢、これ、絶妙である。

 「払子石」・「琅玕」・「木賊石」の類は、ごく稀れに漁の中で揚がる。しかし、「赤珊瑚」のごときは、これ、今はまず、絶えて漁獲されることがない、と伝え聴いておる。

 十年ほど前までは、毎日のようにそれら数品が漁師の網に掛かって揚がったと言うが、それが珍奇なる品として高値(こうじき)で取り引きされるなどということは、野夫(やぶ)のことなれば、全く知らなかったがため、これ、何と、皆、海底(うなぞこ)にうち捨てておったということである。

 その頃までは、ごく、たまに、赤珊瑚のようなるものも揚がったと申す。

 その後(のち)、好事(こうず)の者が、こうした漁師の古い話を聴き知って、これらの奇物(きぶつ)を執拗に訊(たず)ね求めるようになったによって、今は、それぞれ、小舟を持ったる漁師に一人ひとり個別に巡り訪ねては、奇物が揚がったらよろしく、と頼んでおるのであるが、これ、その奇物を求める者の方が多いがために、実際に珍品を得ることは、すこぶる難しい。故にこそ値段もまた、さらにさらに高値(こうじき)となっておる。

 なお一種に、俗に「薩摩貝(さつまがい)」という奇物がある。

 これも玉石に類するもので、先に示した「琅玕」と似てはおれども、光沢をまるで欠いており、またその形も、これ、異様に、ぐにゃぐにゃ、ごちゃごちゃ、と屈曲し過ぎておって、雅(みや)びな感じが全くない。これ、海水から揚がった当初は、淡い紅(くれない)を帯びており、私は可愛らしいと感ずる。但し、浜に漂着して風雨に曝(さら)されてしまったそれは、これ、全く白うなってしもうておる。

 須(すべから)く、珊瑚より以下に掲げた物は、これ皆、海中にあるうちは、手触りは概ね軟らかであって、それは少しも玉石の類ではないようにしか見えぬ。ところが、これら、水を離れ、十分に乾いた時には、まさしくこれ、金石(きんせき)の如くに硬(かと)うなるものなのである。

 私は、海浜に毎年、遊んでは、こうしたものを蒐集しきたって、そうさ、すでに名品と思われるもの、五、六品(ひん)を得た。と申せども、それを売り捌(さば)くというわけではなく、ただこれを以って、好事の客(きゃく)に見せびらかすだけのことで御座る。

 その他(ほか)、この越後北海の数十里に及ぶ浜辺には、どこでも、今は稀れとはなったものの、この奇木・玉石を拾い得ることは、ある。とは申せども、それはたまたま、大風や大波のためにうち上げられた物であって、前に述べたような、海底より、直(ただち)に引き揚げた、欠けたところの少ないほぼ完品に近いものは、これ、望めまい、とは思うておる。

 

チャンバラ   梅崎春生

 

 マメ本とともに禁じられたのはチャンバラ遊びである。このチャンバラもマメ本と同じく、やったからといってさしたる実害のあるものではない。そのときどきのヒロイズムを満足させるだけの話で、少年のヒロイズムをむりに抑圧すると、かえって妙な方向にそれるのじゃないかと思う。

 いまのこどもたちを見ているとチャンバラもやっているようだが、西部劇ごっこのほうが多いようだ。物かげにかくれて、ピストルの形をした木片を手にしてばんばんなどと口々に叫んでいる。撃たれ役にもうまいのがいて、ぱんと撃たれるとぽろりと木片を取り落し、真に迫ったかっこうでどさりと地面に倒れる。

 わたしがこどものときにも、斬(き)られ役のうまいのがいた。そいつは進んで斬り殺されてばかりいた。

 いまのこどものチャンバラや西部劇ごっこは、おおむねその範をテレビから取っている。わたしたちのは映画からだった。当時は映画と言わず、活動写真または略して活動と呼んだ。

 まだトーキーはできていなかったから無声映画であり、弁士がついていた。だからわれわれのチャンバラ遊びのとき口走るのは、これことごとく弁士の口まねなのである。

「東山三十六峰しずかに眠るうしみつどき、突如としておこる剣戟のひびき」

「寄らばきるぞ」

 佐賀地方でスクリーンに近藤勇が出てくると、

「寄んさんな。寄んさんな。寄るぎい虎徹で斬るばんた」

 と弁士がしゃべるというのはこれはうそだろう。だれかの創作だろう。

 いま思うと、チャンバラ遊びそのものが悪いのではなく、弁士の口まねが教育上悪いと認定されて禁止ということになったのかもしれない。

 こどもというものは大人のまねをしたがるもので、幼児のままごとも大人の生活のまねである。まねすることでこどもは知恵がつき、大人になっていくのだ。

 チャンバラ禁止といっても、それは学校内でやっていけないという意味であった。卒業式の日、式がすんだら学校内でチャンバラでも何でもやってよろしい、というおふれが出た。

 だからチャンバラ好きは、大よろこびをして卒業証書を教室に置き、校庭で盛大にチャンバラをやった。わたしはあまりチャンバラ遊びは好きでなかったので、見学する側に廻った。

 名前は忘れたが、ある老先生がそれを見ながら、

「ほう。うまいもんだ。なかなかやるもんじゃのう」

 と感嘆せられた声を、わたしはいまでもはっきり覚えている。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第四十八回目の昭和三六(一九六一)年二月二十日附『西日本新聞』掲載分。家庭の禁制の「豆本」から学校の禁制の「チャンバラ」へ。

「東山三十六峰しずかに眠るうしみつどき、突如としておこる剣戟のひびき」この大元は、阪東妻三郎プロダクション製作で松竹キネマ配給の大正一五(一九二六)二月公開(まさしくこの年に梅崎春生は簀子小学校を卒業している)の無声映画(監督/原作/脚本・志波西果)「尊王」(主演尊皇派と思しい主役竜造寺俊作は無論のこと阪妻(弟隼人との一人二役)で、新撰組絡みの活劇)の一世を風靡した名口上、

 

――時(とき)、恰(あたか)も幕末の頃、絃歌(げんか)さんざめく京洛(けいらく)の夜は更けて、下弦の月の光靑く、東山三十六峰靜かに眠る深き夜の、静寂を破つて突如起る劍戟の響き――

 

のようである。この台詞を探索検証した(五回分ある)「京都クルーズ・ブログ」の「東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時(4)」によれば、これが後に「月形半平太・風雲三条河原」(講談か活弁かは不明)などに流用されて変化したものが、

 

――東山三十六峰、靜かに眠る丑三つ時、突如夜の靜寂を破る劍戟の響き――

 

となり、それが今知られる形となったのではないか、と推理されておられるようである。検証綿密で、且つ、大変面白い。是非、お読みになられんことをお薦めする。]

2016/08/07

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   雷の天災

 

    雷天災(らいのてんさい)

 

水無月半(なかば)、京を出て鞍馬に心ざし、加茂御菩薩池を越え、市原野邊(いちはらのべ)をたどり、大荒木(おほあらぎ)の森の下草かき分け、二町計りを過る時、夏の物とて曇りなく、解くる計りの暑くるし、靑天、俄かにかきくれ、夕立の雨、礫(つぶて)を打つがごとく、いなびかり、間(ま)なく走りて、雷(らい)、山をさき、水、蒼々と湖(うみ)をたゝへたり、前後、家遠く、左右に里みえねば、いかにして晴間(はれま)を待たんと思ひ思ひ、風の追手に隨つて、ころびもて行く、爰にちひさき辻堂あつて、石の地藏、たち給ふ所に及びつきぬ。其の程、猶、雨のをやみもなく、雷らいのひゞきは殊更につよし、速(と)く、雷、鳴り、風吹いて、烈しきとき、席を正して起(た)つ、と孔子は宣(のたま)ひし、身を淸淨(しやうじやう)に、名香をくゆらせて、天意をおそるゝ物といへど、旅途(りよと)の急難にて、身を淸(きよ)むべき水もなければ、雨を以て水とし、くゆらすべき薰(かを)りには、尊前(そんぜん)の抹香(まつかう)ならではなし。經、誦(ず)して居る。此の堂の十間計り向ふなる田の畔(くろ)に三懷(みだき)計りの大の松、梢、十餘間程に、逞しくひろごりたる上へ、雷(らい)、おちたり。其の音、坤軸(こんじく)のくだけて海に入るといふは、かくや有らん、と、おびたゞし、眞黑なる雲の中に、二尺計りの丸(まろ)かれたる火、其の前後、飛行(ひぎやう)すと見えし、大木、二つに裂け、ふすぼりて、きえず。雷火(らいくわ)ととみえしは、又、黑雲につれてのぼりし、とかくする程に、雨、晴れ、風、治まり、又、蒼々(さうさう)たる一天となる。石佛に御暇申し、出でゝ、彼の松のもとに行き見るに、ふすぼりたる木の肌に、大きなる爪跡あつて、獸類(じうるゐ)の、此の木より上りたると見ゆ。夫れ、雷動(らいどう)は天氣の陽(やう)の至りと、地中の極陰(ごくいん)と、二の物、相戰ふ時、鳴動するといふに、爪あとの怖しきをみれば、繪に書けるごとき鬼形(きぎやう)もあるか、と、いぶかし。爰を過ぎて、二の瀨(せ)といふ所に、しれる人を訪(と)ひて、よる。こは珍し、いづこへ、と、とふ。鞍馬にまふず、と、いへば、けふは大雨にて、山河(さんか)、水おほし、とまりて、あすなん、詣で侍れかし、と、いふに、心ならず滯留(たいりう)しぬ。家(や)の主(あるじ)、物がたりて、けふ、近郷に不思議の事、侍り。縱(たとへ)ば、道行く人、主從五人、此の雷(らい)のため、皆一同に絶入(ぜつじゆ)す。雨、やみ、雲、晴れて、在所の者ども集まり、諸(しよ)療手(れうて)をつくし、針灸蘇生の法治(はふぢ)を施(ほどこ)すに、魂(たましひ)二度かへらず、主從ともに空しく成り、一在の者、哀れをなして、先づ、主人を火葬し、一基(き)の主(ぬし)となしぬ。黃昏(たそがれ)の頃、從者どもを葬むらんと、とかく取りまかなふ内、殘る四人ことごとく、息出(いきい)で、夢の覺(さ)めたる如く、扨、主人(しゆじん)は、と問ふ。しかじかの事にて火葬したり、と、いふに、従者共、始めて驚きぬ、爲方(せんかた)なくて、皆々、都へ歸り上り侍る、といふ。祇の云く。是、ふしぎにて不思議ならず。凡そ、人、大驚にあふ時、必らず魂魂(こんぱく)消散(せうさん)す。消散すれば死す。魂魄沈伏(ちんぶく)すれば、又、蘇生す。魂の沈伏をまたずして、かろがろしく火葬しぬる事、其の業(ごふ)のよる所にこそあらめ、と、いふに、各、諾しぬ。

■やぶちゃん注

・「加茂御菩薩池」宗祇仮託に合わせるならば、「かもみどろいけ」或いは「かもみそろいけ」と読んでいる可能性が高い。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)では「みそろいけ」とルビしている。現在の京都市北区上賀茂深泥池町(みどろいけちょう)及び狭間町にある池及び湿地の名で現在は一般的には単に「深泥池」「深泥ケ池」と表記し、読みは「みどろがいけ」「みぞろがいけ」と呼ぶ。ウィキの「深泥池」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、周囲は約一キロ五百四十メートル、面積は約九・二ヘクタールあり、『池の中央に浮島が存在する。この深泥池に流入する河川はないが、松ヶ崎浄水場の配水池より若干の漏水が流入している。周囲は標高二百メートルを下回る小高い山々に囲まれており、南西端のみが開けて低地に面している。その形態から、およそ一万年前までに、池の南西部にできた開析谷(かいせきこく)』(台地の末端部分が断層活動や水流による侵食で崖崩れが繰り返し発生した結果によって生じた谷)『の出口が、鴨川(賀茂川)の扇状地堆積物(砕屑物)によって塞き止められ、自然堤防の原型が造り上がって、深泥池の形状を保ってきたと考えられている』。『なお、この場所には人工の堤防が築かれている。「愛宕郡村志」によれば「古代に於いて用水の為に造築」されたといい、六世紀前後に上述の自然堤防に人工堤防が増築されたものとされる』。『平安時代前期、菅原道真によって編纂された「類聚国史」の中に、「(淳和天皇が)天長六年(八二九年)十月十日、泥濘池に幸(みゆき)し、水鳥を羅(あみ)で猟(かり)す」とある。この「泥濘池」(泥が滞った池)が深泥池を指すものとされる。中期から後期にかけては、「和泉式部続集」に「名を聞けば影だに見えじ みどろ池」、「小右記」に「美度呂池」、「親長卿記」に「美曽呂池」とそれぞれ記されている』。『平安時代末期に編まれた歌謡集「梁塵秘抄」には、「いづれか貴船へ参る道、賀茂川箕里(みのさと)御菩薩池(みどろいけ)、御菩薩坂」とある。この時期から、深泥池は「京の六地蔵巡り」の一か所となり、地蔵信仰の霊地としてあがめられてきた』。『室町時代後期の上杉家本「洛中洛外図」には「みそろいけ」の西側湖畔に「美曽呂関所」と、その横に「ぢさうたう」(地蔵堂)が描かれている』。江戸時代に編まれた書物「洛陽名所集」(明暦四・万治元(一六五八)年)、「扶桑京華志」(寛文五(一六六五)年)、『京羽二重』(貞享二(一六八五)年・振り仮名「みぞろいけ」)、「山州名跡志」(宝永八・正徳元(一七一一)年・振り仮名「みどろいけ」「御ゾロ池」)など『多くの資料中で、引き続き深泥池を「御菩薩池」と記しており、近世までの一般的な表記であったものと推察できる』。『上述の「扶桑京華志」には「御菩薩池、一に深泥池又御泥池と作る」とあり、「深泥池」という名称自体は江戸時代に存在していたと考えられる。池周辺の地は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の所領であったため、「御菩薩池」の名のもとになった地蔵菩薩は、明治時代の神仏分離令で上善寺に移された。この時期を境に現在の「深泥池」という名称が一般化した』。『「深泥池」の読みは、「みどろ(が)いけ」「みぞろ(が)いけ」の二通りが存在し、特段の統一がなされていない。京都市のサイトでは「みぞろがいけ」、京都市交通局の市バス停留所名称では「みどろがいけ」と表記する一方で、京都府のサイトでは両方の読み方を併記している。歴史的にも上述の通り、それぞれの振り仮名が使われ、混用されていた』。『「類聚国史」書中の「泥濘」について、観智院本「類聚名義抄」によると、古訓は「ミソコル」とされる。ミソは「溝」、一般的に人工水路を意味するが、もとは山中から谷に出てくる自然の流れのことを示した。コルは滞る意味の「凝」である。時代を経ていつしか水流が滞り、池の水が泥になった。「大日本地名辞書」(吉田東伍著・冨山房書店)には「御泥池真泥(みどろ)の義也」と記されている。この「泥」(どろ)自体に着目するか、池古来の水流「溝」(みぞ)に着目するかの違いがもとで、両方の読みが残ったと考えられる』。『ちなみに、文化庁に登録されている名称は「みどろがいけ」であり、付近の地名「上賀茂深泥池町」「松ケ崎深泥池端」も、「かみがもみどろいけちょう」「まつがさきみどろいけばた」と読む』。一方、「京童」(明暦四・万治元(一六五八)年)、「都名所車」(正徳四(一七一四)年)、「京城勝覧」(享保三(一七一八)年)、池畔にある『地蔵堂正面の御詠歌額からは、それぞれ「みぞろ池」と記されていることから、地元では「みぞろ(が)いけ」の読みで親しまれてきたことが分かる』とある。なお、このウィキを見ながら、なるほど、と膝を打った。この池周辺地は京都市北区上賀茂本山にある上賀茂神社(賀茂別雷(かもわけいかづち)神社)の所領であったわけで、同神社の祭神は祭祀家賀茂氏の祖神賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)「別雷」は「若雷」或いは「分雷」で、「若々しい力に満ちた神」或いは「強い力で稲妻をも二つに分け裂いてしまうほどの力を持つ神」という意である(雷神ではない)から、このロケーション自体が雷とは親和性があることに気づいたからである。

・「市原野邊」「市原野」は現在の京都市左京区中西部の一地区名。「櫟原野」とも書く。鞍馬寺への参詣の鞍馬街道に沿っており、早くから開けた。「古今著聞集」によれば、この地で盗賊鬼童丸が源頼光を襲って誅されたとし、また、小野小町の終焉の地とも伝えられる小野寺(補陀洛(ふだらく)寺)もある(小学館「日本大百科全書」の織田武雄氏の解説に拠った)。

・「大荒木(おほあらぎ)の森」三省堂「大辞林」によれば、歌枕で、現在の京都市伏見区淀本町の与杼(よど)神社付近の森とするが、もともと場所不詳の「大殯(おおあらき:貴人が死んでから本葬するまでの間、蘇生を考えて遺体を仮に納めて置くこと及びその場所(殯(もがり)の宮)の敬称)を営む浮田(うきた:氏の一つか)の森」をいったものを、平安以降に山城国の歌枕としてしまっ経緯があるとあるから、現在の比定地が方向違いでも問題にする必要はないと言える。

・「二町」二百十八メートル。

・「湖(うみ)」豪雨によって、山道や田圃などがすっかり水没して湖のようになってしまった、というのである。叙述順から見て、深泥ヶ池はずっと後方で、それには比定は不能である。但し、当時、広域にあったであろうそれらの附属した池沼群が溢れ返ったと読むことは可能ではある。

・「席を正して起(た)つ、と孔子は宣(のたま)ひし」不詳。「論語」の「郷党第十」に、

席不正不坐。(席、正しからざれば、坐せず。:座席にある敷物の向きが正しくなっていなければ座らぬ。)

や、

君賜食。必正席。先嘗之。君賜腥。必熟而薦之。君賜生。必畜之。侍食於君。君祭先飯。疾。君視之。東首。加朝服。拖紳。君命召。不俟駕行矣。(君、食を賜へば、必らず、席を正して先づ之れを嘗(な)む。君、腥(せい)を賜へば、必らず、熟(じゆく)して之れを薦(すす)む。君、生(せい)を賜へば、必らず、之れを畜(か)ふ。君に侍食(じしよく)するに、君、祭れば先づ飯(はん)す。疾(や)むとき、君、之れを視れば、東首(とうしゆ)し、朝服(ちやうふく)を加へ、紳(しん)を拖(ひ)く。君、命じて召せば、駕(が)を俟(ま)たずして行く。:下村湖人の「現代訳論語」から引く。「君公から料理を賜わると、必ず席を正し、まずみずからそれをいただかれ、あとを家人にわけられる。君公から生肉を賜わると、それを調理して、まず先祖の霊に供えられる。君公から生きた動物を賜わると、必ずそれを飼っておかれる。君公に陪食を仰せつかると、君公が食前の祭をされている間に、必ず毒味をされる。病気の時、君公の見舞をうけると、東を枕にし、寝具に礼服をかけ、その上に束帯をおかれる。君公のお召しがあると、車馬の用意をまたないでお出かけになる。」。)

この辺りの誤認か。

・「天意をおそるゝ物といへど」宗祇はこの豪雨と雷鳴の天候の急変を理由は分からぬながらも天、神仏が何らかの形で怒っていると認識している。それに潔斎して礼拝誦経などしなくてはならないのであるが、そのための潔斎の清浄な水も、身に焚き込むべき上製の御香もないためにそれが出来ぬことを神仏に対し、不敬となし、恐れているのである。

・「尊前(そんぜん)の抹香(まつかう)ならではなし」粗末な地蔵堂の石地蔵の前の湿った古い安物の抹香以外には何もない。

・「十間」十八メートル十八センチ。

・「三懷(みだき)」大人で三抱えほどの太さ。

・「十餘間」二十九メートル前後。

・「坤軸(こんじく)のくだけて海に入る」既注であるが、「坤軸」は大地の中心を貫き支えているとされた地軸のこと。「NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ」の天明三 (一七八三) 年の浅間山噴火の記録「信州間焼之事」中に、『坤軸といふ物のくだけて、世界一度に泥の海になる時きぬらんと、氣もたましゐもきへはてゝ、腰ぬけ立もあからず』という、ここと酷似した表現がある。しかも、この方が意味が通る。地軸が折れて海の中に沈むのではなく、地軸が折れて世界が総て海に没する、のである。

・「二尺」六十・六センチ。

・「丸(まろ)かれたる火」丸く固まる・丸くなるの意の「丸がる」(自動詞ラ行下二段活用)は、上代語では「丸かる」である。

・「大きなる爪跡あつて、獸類(じうるゐ)の、此の木より上りたると見ゆ」「雷獸」ウィキの「雷獣」を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『雷獣(らいじゅう)とは、落雷とともに現れるといわれる日本の妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、江戸時代の随筆や近代の民俗資料にも名が多く見られる。一説には「平家物語」において源頼政に退治された妖怪・鵺は実は雷獣であるともいわれる』。『雷獣の外見的特徴をごく簡単にまとめると、体長二尺前後(約六十センチメートル)の仔犬、またはタヌキに似て、尾が七、八寸(約二十一から二十四センチメートル)、鋭い爪を有する動物といわれるが、詳細な姿形や特徴は、文献や伝承によって様々に語られている』。『曲亭馬琴の著書「玄同放言」では、形はオオカミのようで前脚が二本、後脚が四本あるとされ、尻尾が二股に分かれた姿で描かれて』おり、『天保時代の地誌「駿国雑誌」によれば、駿河国益頭郡花沢村高草山(現・静岡県藤枝市)に住んでいた雷獣は、全長二尺(約六十センチメートル)あまりで、イタチに類するものとされ、ネコのようでもあったという。全身に薄赤く黒味がかった体毛が乱生し、髪は薄黒に栗色の毛が交じり、真黒の班があって長く、眼は円形で、耳は小さくネズミに似ており、指は前足に四本、後足に一本ずつあって水かきもあり、爪は鋭く内側に曲がり、尾はかなり長かったという。激しい雷雨の日に雲に乗って空を飛び、誤って墜落するときは激しい勢いで木を裂き、人を害したという』。『江戸時代の辞書「和訓栞」に記述のある信州(現・長野県)の雷獣は灰色の子犬のような獣で、頭が長く、キツネより太い尾とワシのように鋭い爪を持っていたという。長野の雷獣は天保時代の古書「信濃奇勝録」にも記述があり、同書によれば立科山(長野の蓼科山)は雷獣が住むので雷岳ともいい、その雷獣は子犬のような姿で、ムジナに似た体毛、ワシのように鋭い五本の爪を持ち、冬は穴を穿って土中に入るために千年鼹(せんねんもぐら)ともいうとある』。『江戸時代の随筆「北窻瑣談」では、下野国烏山(現・栃木県那須烏山市)の雷獣はイタチより大きなネズミのようで、四本脚の爪はとても鋭いとある。夏の時期、山のあちこちに自然にあいた穴から雷獣が首を出して空を見ており、自分が乗れる雲を見つけるとたちまち雲に飛び移るが、そのときは必ず雷が鳴るという』。『江戸中期の越後国(現・新潟県)についての百科全書「越後名寄」によれば、安永時代に松城という武家に落雷とともに獣が落ちたので捕獲すると、形・大きさ共にネコのようで、体毛は艶のある灰色で、日中には黄茶色で金色に輝き、腹部は逆向きに毛が生え、毛の先は二岐に分かれていた。天気の良い日は眠るらしく頭を下げ、逆に風雨の日は元気になった。捕らえることができたのは、天から落ちたときに足を痛めたためであり、傷が治癒してから解放したという』。『江戸時代の随筆「閑田耕筆」にある雷獣は、タヌキに類するものとされている。「古史伝」でも、秋田にいたという雷獣はタヌキほどの大きさとあり、体毛はタヌキよりも長くて黒かったとある。また相洲(現・神奈川県)大山の雷獣が、明和二年(一七六五年)十月二十五日という日付の書かれた画に残されているが、これもタヌキのような姿をしている』。『江戸時代の国学者・山岡浚明による事典「類聚名物考」によれば、江戸の鮫ヶ橋で和泉屋吉五郎という者が雷獣を鉄網の籠で飼っていたという。全体はモグラかムジナ、鼻先はイノシシ、腹はイタチに似ており、ヘビ、ケラ、カエル、クモを食べたという』。『享和元年(一八〇一年)七月二十一日の奥州会津の古井戸に落ちてきたという雷獣は、鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ姿で描かれた画が残されており、体長一尺五、六寸(約四十六センチメートル)と記されている。享和二年(一八〇二年)に琵琶湖の竹生島の近くに落ちてきたという雷獣も、同様に鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ画が残されており、体長二尺五寸(約七十五センチメートル)とある。文化三年(一八〇六年)六月に播州(現・兵庫県)赤穂の城下に落下した雷獣は一尺三寸(約四十センチメートル)といい、画では同様に牙と水かきのある脚を持つものの、上半身しか描かれておらず、下半身を省略したのか、それとも最初から上半身だけの姿だったのかは判明していない』。『明治以降もいくつかの雷獣の話があり、明治四二年(一九〇九年)に富山県東礪波郡蓑谷村(現・南砺市)で雷獣が捕獲されたと『北陸タイムス』(北日本新聞の前身)で報道されている。姿はネコに似ており、鼠色の体毛を持ち、前脚を広げると脇下にコウモリ状の飛膜が広がって五十間以上を飛行でき、尻尾が大きく反り返って顔にかかっているのが特徴的で、前後の脚の鋭い爪で木に登ることもでき、卵を常食したという』。『昭和二年(一九二七年)には、神奈川県伊勢原市で雨乞いの神と崇められる大山で落雷があった際、奇妙な動物が目撃された。アライグマに似ていたが種の特定はできず、雷鳴のたびに奇妙な行動を示すことから、雷獣ではないかと囁かれたという』。『以上のように東日本の雷獣の姿は哺乳類に類する記述、および哺乳類を思わせる画が残されているが、西日本にはこれらとまったく異なる雷獣、特に芸州(現・広島県西部)には非常に奇怪な姿の雷獣が伝わっている。享和元年(一八〇一年)に芸州五日市村(現・広島県佐伯区)に落ちたとされる雷獣の画はカニまたはクモを思わせ、四肢の表面は鱗状のもので覆われ、その先端は大きなハサミ状で、体長三尺七寸五分(約九十五センチメートル)、体重七貫九百目(約三十キログラム)あまりだったという。弘化時代の「奇怪集」にも、享和元年五月十日に芸州九日市里塩竈に落下したという同様の雷獣の死体のことが記載されており』(リンク先に画像有り)、『「五日市」と「九日市」など多少の違いがあるものの、同一の情報と見なされている。さらに、享和元年五月十三日と記された雷獣の画もあり、やはり鱗に覆われた四肢の先端にハサミを持つもので、絵だけでは判別できない特徴として「面如蟹額有旋毛有四足如鳥翼鱗生有釣爪如鉄」と解説文が添えられている』。『また因州(現・鳥取県)には、寛政三年(一七九一年)五月の明け方に城下に落下してきたという獣の画が残されている。体長八尺(約二・四メートル)もの大きさで、鋭い牙と爪を持つ姿で描かれており、タツノオトシゴを思わせる体型から雷獣ならぬ「雷龍」と名づけられている』(これもリンク先に画像有り)。『これらのような事例から、雷獣とは雷のときに落ちてきた幻獣を指す総称であり、姿形は一定していないとの見方もある』。『松浦静山の随筆「甲子夜話」によれば、雷獣が大きな火の塊とともに落ち、近くにいた者が捕らえようとしたところ、頬をかきむしられ、雷獣の毒気に当てられて寝込んだという。また同書には、出羽国秋田で雷と共に降りた雷獣を、ある者が捕らえて煮て食べたという話もある』【2018年8月9日追記:前者は「甲子夜話卷之八」の「鳥越袋町に雷震せし時の事」。但し、原文では「獸」とのみ記し、「雷獸」と名指してはいない。しかし、落雷の跡にいたとあるので、雷獣でよろしい。後者は「甲子夜話卷之二」の「秋田にて雷獸を食せし士の事」で2016年10月25日に電子化注済み。】。『また同書にある、江戸時代の画家・谷文晁(たに ぶんちょう)の説によれば、雷が落ちた場所のそばにいた人間は気がふれることが多いが、トウモロコシを食べさせると治るという。ある武家の中間が、落雷のそばにいたために廃人になったが、文晁がトウモロコシの粉末を食べさせると正気に戻ったという。また、雷獣を二、三年飼っているという者から文晁が聞いたところによると、雷獣はトウモロコシを好んで食べるものだという』。『江戸時代の奇談集「絵本百物語」にも「かみなり」と題し、以下のように雷獣の記述がある。下野の国の筑波付近の山には雷獣という獣が住み、普段はネコのようにおとなしいが、夕立雲の起こるときに猛々しい勢いで空中へ駆けるという。この獣が作物を荒らすときには人々がこれを狩り立て、里の民はこれを「かみなり狩り」と称するという』。『関東地方では稲田に落雷があると、ただちにその区域に青竹を立て注連縄を張ったという。その竹さえあれば、雷獣は再び天に昇ることができるのだという』。『各種古典に記録されている雷獣の大きさ、外見、鋭い爪、木に登る、木を引っかくなどの特徴が実在の動物であるハクビシン』(ネコ(食肉)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata『と共通すること、江戸で見世物にされていた雷獣の説明もハクビシンに合うこと、江戸時代当時にはハクビシンの個体数が少なくてまだハクビシンという名前が与えられていなかったことが推測されるため、ハクビシンが雷獣と見なされていたとする説がある。江戸時代の書物に描かれた雷獣をハクビシンだと指摘する専門家も存在する。また、イヌやネコに近い大きさであるテンを正体とする説もあるが、テンは開発の進んでいた江戸の下町などではなく森林に住む動物のため、可能性は低いと見なされている。落雷に驚いて木から落ちたモモンガなどから想像されたともいわれている。イタチ、ムササビ、アナグマ、カワウソ、リスなどの誤認との説もある』。『江戸時代の信州では雷獣を千年鼬(せんねんいたち)ともいい、両国で見世物にされたことがあるが、これは現在ではイタチやアナグマを細工して作った偽物だったと指摘されている。かつて愛知県宝飯郡音羽町(現・豊川市)でも雷獣の見世物があったが、同様にアナグマと指摘されている』とある。なお、私の電子化訳注「耳嚢 巻之六 市中へ出し奇獸の事」もご覧あれかし。

・「天氣の陽(やう)の至り」天の陽気の元も強まった状態。

・「二の瀨(せ)」現在の京都市左京区鞍馬二ノ瀬町。貴船神社の麓。

・「山河(さんか)」「さんか」はママ。「西村本小説全集 上巻」も清音。

・「心ならず」独りの修行行脚を心掛けている宗祇にしてみれば、いらぬお節介という一面があるのである。だから不本意ながら、である。但し、これは語りのポーズであり、形式上の軽い謂い添えに過ぎない。でなくては、以下の怪奇談話のシーンもしみじみ落ち着いてはこない。

・「主人を火葬」何故、わざわざ火葬にしたのであろうと考えてみる。最後に宗祇(筆者)は「かろがろしく火葬しぬる事」と明白に火葬にした村人らをも暗に批難しているのであるが、それは実は、この主人の遺体が二目と見られぬ奇怪なものであったからではないか? 即ち、彼だけが雷の直撃を受けて黒焦げとなったか、或いは、通電した部分の肉が裂けて焼け、損傷が激しく見るに堪えなかったからこそ火葬にしたのではないか? とすれば、彼が蘇生する気配はないから、村人を批難する謂れはなくなると私は思うのである。なお、最後の注も参照のこと。

・「大驚」「だいきやう(だいきょう)」は大いに驚くの意、驚愕。ここは仮死状態に陥るような激しいショックを受けることを指す。

・「沈伏(ちんぶく)」ここは心身の鎮静の意で用いている。

・「魂の沈伏をまたずして、かろがろしく火葬しぬる事、其の業(ごふ)のよる所にこそあらめ」この部分は実際には村人への批判ではなく、表面上は、「主人の心身が鎮静するのを待たずに、『既に絶命している』と村人らが早合点してしまい、軽々しく早々に仮死状態の遺体を火葬してしまったことは(『残りの従者らが全員、蘇生したことを考えれば、その主人も死んでいなかった、仮死状態であった』と宗祇は確信しているのである)、これ、その主人の前世の業(ごう)に拠る避けられぬ運命であったのであったのであろうぞ。」と火葬にされた男自身の因果応報という表現にはなっている。

芥川龍之介 手帳5 (1)

芥川龍之介 手帳5

 

[やぶちゃん注:現在、この資料は不明であり、新全集は旧全集を底本としている。従ってここは旧全集を底本とした。であるからして、今までのような《5-1》のような表示はない。

 但し、ここまでの新全集の原資料翻刻から推して、旧全集の句読点は編者に拠る追補である可能性すこぶる高いことが判明していることから、本電子化では句読点は除去することとし、概ね、そこは一字空けとした。但し、私の判断で字空けにするとおかしい(却って読み難くなる)箇所は詰めてある。逆に一部では連続性が疑われ、恣意的に字空けをした箇所もある。ともかくも、これは底本の旧全集のままではないということである。

 適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。私の注釈の後は一行空けとした。

 「○」は項目を区別するために旧全集編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。

 本「手帳5」の記載推定時期は、構想メモのある決定稿作品から推すなら、大正七(一九一八)年(「枯野抄」同年十月『新小説』)から「河童」(昭和二(一九二七)年三月『改造』)をまず措定は出来る。]

 

   五

 

社交の foundation lie なり 精々 truth suggest する lie なり 斷じて truth にあらず

 隣人を如何に思ふやを正直に云ふとせよ 社交は必死せん

 最も幸福なる社交の結果は完全に相互を輕蔑する場合に起る 孟子曰大人を見る時は之を藐す この眞理に觸れたるものなり

[やぶちゃん注:foundation」基礎・土台・下塗り。

suggest せる」暗示させる・示唆させる・それとなく感じさせる・思わせる・連想させる・心に浮かばせる。

「孟子曰大人を見る時は之を藐す」「孟子」の「盡心章句下 三十四」の言葉。以下に引く。

 

孟子曰、説大人則藐之、勿視其巍巍然、堂高數仭、榱題數尺、我得志弗爲也、食前方丈、侍妾數百人、我得志弗爲也、般樂飮酒、驅騁田獵、後車千乘、我得志弗爲也、在彼者皆我所不爲也、在我者皆古之制也、吾何畏彼哉。

(孟子曰く、「大人に説(と)くときは、則ち、之れを藐(かろん)じて、其の巍巍然たるを視ること勿かれ。堂、高きこと數仞(じん)、榱題(すいだい)數尺、我れ、志を得るとも爲(せ)じ。食前に方丈・侍妾數百人、我れ、志を得るとも爲じ。般樂(はんらく)して酒を飮み、驅騁(くへい)して田獵(でんらう)し、後車(こうしや)千乘、我れ、志を得るとも爲じ。彼に在る者は、皆、我れの爲ざる所なり。我に在る者は、皆、古への制なり。吾れ、何ぞ彼を畏れんや。」と。)

 

・「巍巍然」見かけ上の「富貴で勢いの盛んなさま」を指すネガティヴな意。

・「榱題」「榱」は垂木で、「題」はその垂木の軒下に出た小口(こぐち)。ここはそれが長く突き出ている豪家の謂い。

・「般樂」大いに遊び楽しむこと。逸楽。

・「驅騁して田獵し」車馬を駆けって田野に狩りをし。

・「後車千乘」後に千台のもの車を従えること。

即ち、「富貴と権勢に富んだ者に対して話を説かんとする時には、その相手の総ての現象的属性を軽く見て説かねばならぬ。その相手の富や権威やそれに付随する諸々の物や者などという下らぬ対象を決して意識してはならぬ。」の意。]

 

○待合の女將着物をうると云ふ 友だちと車にのりてゆく 自動車澤山とまつてゐる ねまきをきてゐる故引返す 銀座通り坂になる 上に春菊をつむ女あり

[やぶちゃん注:これは或いは芥川龍之介の見た夢記述ではあるまいか? 無論、それを構想の素材としようとしたものかも知れぬが。]

 

○⑴鴻門の會⑵阿房の火(封蜀の事)⑶蜀中⑷殺大公⑸九義山

[やぶちゃん注:あの項羽と劉邦の壮大な活劇を芥川龍之介が小説にしていたら、これはまた、とても面白かったろうになぁ! 残念!

「阿房の火」秦の始皇帝が建てた大宮殿阿房宮(あぼうきゅう)は、永く「史記」の秦の滅亡に関する記述から楚の項羽によって焼き尽くされた(その巨大にして豪壮さ故に三ヶ月に亙って火が消えなかったとされる)というのが現代までの定説であった。ところが、「項羽によって焼かれたのは咸陽宮であって、阿房宮は焼かれていない」という説が中国で二〇〇三年に発表されている(ウィキの「阿房宮」に拠る)。

「殺大公」「大公」は「太公」と読み換えるなら、これは劉邦の父劉太公で、彼は彭城の戦いで劉邦が項羽に大敗した際、劉邦の妻呂雉(りょち)とともに項羽に人質として捕らえられ、その後の広武山の戦いの折り、項羽が大釜を用意し、「汝の父親を釜茹でにされたくなければ、潔く私に降伏せよ」と劉邦を脅迫したことを指すのではあるまいか? 因みに参照したウィキの「劉太公」によれば、この時、劉邦は『秦末の動乱の時期に項羽と共に楚の懐王に仕えていた時のことを持ち出し、「我々は義兄弟の契りを交わした間柄だ。つまり私の父は、お前にとっても父だ。釜茹でを執行するのならば、やればよろしい。よく茹で上がったならば、その煮汁を私にも一杯分けてくれ」と、言って全く相手にしなかったという』とある。

「九義山」不詳。所謂、項羽自吻のコーダへと繋がる四面楚歌で知られる、垓下の戦いの前、項羽は滎陽(けいよう:現在の河南省滎陽市)の北の広武山に陣している。「九」と「広(廣)」、「義」と「武」は崩した場合、似ているとは私は思う。]

 

〇三つの寶 Eastern Tales.

[やぶちゃん注:「三つの寶」は大正一一(一九二二)年二月『良婦之友』に初出する芥川龍之介第六番目の童話で、王と王子と王女の西洋風の三幕物の劇である。]

 

○虹霓關

[やぶちゃん注:「虹霓關」とは京劇の題名で、日本語では「こうげいくわん(こうげいかん)」と読む(中国を音写するなら「ホォンニィーグゥァン」か)。「隋唐演義」の一節を素材とした歴史物で、隋末の群雄割拠の頃、揚州(現在の江蘇省揚州市一帯)の要めである虹霓関の守備大将であった夫が反乱軍に殺される。妻の女将東方夫人が夫の仇きとして探し当てた相手は、自分の幼馴染みで腕の立つ美男子王伯党であった。東方夫人は戦いながらも「私の夫になれば、あなたを殺さない」と誘惑する。伯党は断り続けるが、夫人は色仕掛けで無理矢理、自分の山荘の寝室に連れ込み、伯党と契りを結ぼうとする。観客にはうまくいったかに思わせておいて、最後に東方夫人は王伯党に殺されるというストーリーらしい(私は見たことがないので、複数のネット記載を参考に纏めた)。岩波新全集の山田俊治氏の注によれば、芥川龍之介は大正一三(一九二四)年十月に京劇の女形の名優梅蘭芳(メイランファン)の二回目の来日の際に演ぜられた「虹霓關」を観劇している、とある(さらに山田氏は、梅蘭芳の初来日は大正八(一九一九)年であるが、その時ではなかったことは『久米正雄「麗人梅蘭芳」(「東京日日」一九年五月一五日)によってわかる』と記しておられる。ただ、この「虹霓關」観劇の記載は現在の複数の龍之介詳細年譜では記載がない。しかし、宮坂覺氏の新全集年譜の同年十月二十七日の条に龍之介が『演劇新潮』主催の談話会に出席したとあり、その同席者の中にまさに梅蘭芳の名を見出せる。芥川龍之介「侏儒の言葉」に『「虹霓關」を見て』がある。『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「虹霓關」を見て』を参照されたい。]

 

○ほんたうを云ふ時もウソかと思ふ程噓が上手だ

○夢――廣瀨淡窓――旭窓(子) 孫は?――I 夢窓だらう――先生

[やぶちゃん注:これは子供の病氣――一游亭に――(大正一二(一九二三)年八月)の冒頭に使用されている(リンク先は私の詳細注附き電子テクスト。四年前に行ったもので、今回の私の注とはかなり異なるが、それも面白いと思う。参照されたい)。

   *

 夏目先生は書の幅(ふく)を見ると、獨り語のやうに「旭窓(きよくそう)だね」と云つた。落款は成程旭窓外史(きよくそうぐわいし)だつた。自分は先生にかう云つた。「旭窓は淡窓(たんそう)の孫でせう。淡窓の子は何と云ひましたかしら?」先生は即座に「夢窓(むそう)だらう」と答へた。

 ――すると急に目がさめた。蚊帳(かや)の中には次の間(ま)にともした電燈の光がさしこんでゐた。妻は二つになる男の子のおむつを取り換へてゐるらしかつた。子供は勿論泣きつづけてゐた。自分はそちらに背を向けながら、もう一度眠りにはひらうとした。すると妻がかう云つた。「いやよ。多加(たか)ちやん。又病氣になつちやあ」自分は妻に聲をかけた。「どうかしたのか?」「ええ、お腹(なか)が少し惡いやうなんです」この子供は長男に比べると、何かに病氣をし勝ちだつた。それだけに不安も感じれば、反對に又馴れつこのやうに等閑(なほざり)にする氣味(きみ)もないではなかつた。「あした、Sさんに見て頂けよ」「ええ、今夜見て頂かうと思つたんですけれども」自分は子供の泣きやんだ後(のち)、もとのやうにぐつすり寢入つてしまつた。

 翌朝目をさました時にも、夢のことははつきり覺えてゐた。淡窓は廣瀨淡窓(ひろせたんそう)の氣だつた。しかし旭窓だの夢窓だのと云ふのは全然架空の人物らしかつた。さう云へば確か講釋師に南窓(なんそう)と云ふのがあつたなどと思つた。

   *
 
「廣瀨淡窓」(たんそう 天明二(一七八二)年~安政三(一八五六)年)は儒学者で教育者。漢詩人としても知られる。ウィキの「広瀬淡窓」によれば、豊後国日田(ひた:現在の大分県日田市)の人で、『淡窓は号。通称は寅之助のちに求馬(よみはモトメ)。諱は建。字は廉卿あるいは子基。別号に青渓など。死後、弟子たちにより文玄先生とおくり名されたという。末弟に広瀬旭荘』がいる(広瀬旭荘(ぎょくそう:文化四(一八〇七)年~文久三(一八六三)年)も儒学者・漢詩人)。『豊後国日田郡豆田町魚町の博多屋三郎右衛門の長男として生まれる。少年の頃より聡明で、淡窓が』十歳の『時、久留米の浪人で日田代官所に出入りしていた松下筑陰(まつした ちくいん)に師事し、詩や文学を学んだが』、淡窓十三の時、『筑陰が豊後佐伯毛利氏に仕官したため』、師を失なった。十六歳の『頃に筑前の亀井塾に遊学し亀井南冥・昭陽父子に師事したが、大病を患い』、十九歳の『暮れに退塾し帰郷。病は長引き、一時は命も危ぶまれたが肥後国の医師倉重湊によって命を救われる。その後、病気がちであることを理由に家業を継ぐのを諦めて弟の久兵衛に商売を任せ、一度は医師になることを志すが、倉重湊の言葉によって学者・教育者の道を選』んだ。文化二(一八〇五)年には長福寺に初めの塾を開き、これを後の桂林荘・咸宜園へ発展させた。咸宜園は淡窓の死後も、弟の広瀬旭荘や林外、広瀬青邨等』以降、十代の塾主によって明治三〇(一八九七)年まで『存続、運営された。塾生は全国各地から集まり、入門者は延べ』四千人を『超える日本最大級の私塾となった』。また、淡窓は嘉永六(一八五三)年から『晩年まで万善簿(まんぜんぼ)という記録をつけ続けた。これは、良いことをしたら』、白丸を一つ『つけ、食べすぎなどの悪いことをしたら』、一つ、『黒丸をつけていき、白丸から黒丸の数を引いたものが』一万に『なるようにするものだった』。一度目は六十七歳に達成、二度目の万善を目指して継続していたが、七十三歳の八月頃で記録は途絶えている。淡窓の享年は七十五であった。『淡窓の指針である「敬天」とは、人間は正しいこと、善いことをすれば天』『から報われるとする。淡窓の説く』、『この応報論は「敬天思想」といわれ、近年まで主な研究対象になっていた。最近は主に、実力主義教育を採った組織としての咸宜園研究や、淡窓自身の漢詩研究になっている』とある。

「旭窓(子)」前注に出した淡窓の末弟広瀬旭荘はウィキの「広瀬旭荘」では「荘」であるが、「長良川画廊アーカイブズ」の「Web書画ミュージアム」の「広瀬旭窓」ではご覧の通り、「荘」ではなく「窓」とあり、しかも「ひろせきょくそう」とルビしている。なお、彼は淡窓の「末弟」であって「子」ではない訳だが、これでよいのである。何故なら、これは夢記述だからである。

「孫は?――I 夢窓だらう――先生」芥川龍之介が「孫は?」と問うて、「夢窓だらう」とダ洒落ちゃう「先生」は無論、夏目漱石であろう。]

 

don’t speak to a Japanese in such All right, he is always a decendant of gods.

[やぶちゃん注:「決してそのような全的立場に立った信念から日本人に説いてはなりません、彼は常に神々の子孫なのです。」か? キリスト教が渡来した当時の宣教師が後続の宣教師に語りそうな誡めである。]

 

truly. here (this is hell, hell is nowhere but here.) thema.

[やぶちゃん注:『「本当に。ここ(これは地獄である、地獄は何処にもない、しかし、ここ以外には)」というテーマ』か? これは私は直ちに「山間曠野樹下空中、何處(どこ)へでも忽然として現(あらは)れる。云はば目前の境界(きやうがい)が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱(くげん)を現前(げんぜん)するのである。自分は二三年前から、この地獄)じごく)へ堕ちた」と僧が語り出す「孤獨地獄」を想起するのであるが、これは大正五(一九一六)年四月の『新思潮』で古過ぎること、英文で書かれているというのも気にはなる。信徒がまさに地獄絵そのものの拷問を受けた禁教令下の切支丹物の一断片と読むべきか。]

 

Every school is a humbag. We sell our taste, moral,―― our whole personality to school-education merely to get the way of bread-winning.

[やぶちゃん注:「humbag」はママ。これは「humbug」(ぺてん・ごまかし・まやかし・ペテン師・見かけだけのもの)のスペル・ミスではあるまいか? そうだとすると、「あらゆる学校という存在はマヤカシである。我々は、単にパンを勝ち取る方法を取得するためだけに、学校教育に、我々の嗜好や道徳――即ち、ありとあらゆる個人の持ったところの個性を――売り渡してしまう。」の謂いと読める。しかしアフォリズムとしてはパンチが足りない。発表されたものには同様のアフォリズムは見当たらない。筑摩版全集類聚の脚注はこれを「大導寺信輔の半生――或精神的風景画――」(大正一四(一九二五)年)と関連附けている(「四 學校」であろう)が、私は必ずしもこのメモにそれと強い関連性を認めない。確かに、「大導寺信輔の半生」の「學校」の個々のそれを帰納すると、この命題は引き出されはするとは言えるけれども。

 

Family-system is hell. Every member of a family sacrifices oneself more or less for the family. What a disgust !

[やぶちゃん注:「家庭というシステムは地獄である。家族を構成する総てのメンバーは家族のために多かれ少なかれ、自分を犠牲するのである。何と言う、厭わしさ!」。しかし前同様にアフォリズムとしてはパンチがやはり足りない。やや似た雰囲気を持つものは「或阿呆の一生」の、

 

       三 家

 

 彼は或郊外の二階の部屋に寢起きしてゐた。それは地盤の緩い爲に妙に傾いた二階だつた。

 彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰(たれ)よりも愛を感じてゐた。一生獨身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。

 彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か氣味の惡い二階の傾きを感じながら。

 

であろうか。]

多情多恨   梅崎春生

 

 福日から借りてきた三冊のうち一冊はアラビアンナイトで、あとの二冊は題名は忘れたがやはり西洋童話であった。西洋の童話はそれまであまり読んだことがなかったから、わたしは夢中になって読みふけった。夢中にさせるおもしろさが、たしかにそこにはあった。こんなのが自由に読めるのなら、なにも好きこのんでマメ本のかくれ読みなんかしやしない。

 すっかり読み上げて戻しに行く。本と別れるのが寂しい気がする。ナニナニさんは応接間でまた紅茶をごちそうしてくれて、

「しっかり勉強して立派な人間になるんだよ。お父さんによろしく」

 とわたしの頭をなでた。わたしはお礼を言って外に出た。

 あの童話本はナニナニさん個人の所有物だったのか、それとも社の図書室にそなえつけのものだったか、いま思うとどうも後者のような気がするが、しかし新聞社に童話本なんか置いてあるのかしらとも思う。

 そのうちに円本時代がはじまる。

 筑摩版の『現代日本文学年表』を見ると、大正十五年、昭和元年のところに円本時代はじまるという記述がある。わたしが六年生のころだ。

 うちでも円本をとった。『日本文学全集』、『日本大衆文学全集』、『世界大衆文学全集』など。さいごの『世界大衆文学全集』は一円でなく五十銭だった。『日本文学全集』の第一回配本は尾崎紅葉で、まず、巻頭の「多情多恨」から読みはじめたが、いっこうおもしろくない。読んでいるうちにおもしろくなるかと思ったが、いつまでたってもおもしろくならない。うんざりして途中で投げ出してしまった。いま思うと小学六年や中学一年で「多情多恨」をわかろうとはむりな話である。

 そこで『日本文学全集』は敬遠して、もっぱら『日本大衆文学全集』と『世界大衆文学全集』にかじりつく。この二つはよくわかったし、おもしろかった。マメ本のおもしろさの比ではなかった。マメ本の卒業の期にわたしは入っていたのだろう。

 現在わたしの作品がエンタテインメントの要素が強いと批評されるし、また直木賞をもらうようなことになったのも、このころの読書傾向の影響があるのかもしれない。

 円本もまだほかにいろんな種類があったし、五十銭本の全集もたくさん発行された。戦後の全集ブームの比ではなかった。生活も昔のほうが余裕があったのだろう。それに昔は現代ほど娯楽の種類が多くなかったから、いきおい読書に集中したということもある。

 五十銭本の中には探偵小説(日本と西洋の)、『ルパン全集』、『シャーロックホームズ全集』など探偵ものがずいぶん出た。わたしはすでに中学生になっていたが、たちまち探偵ものの魅力にとっつかれてしまった。いまでもわたしは推理小説が好きである。

 わたしも乞われるままに二三、推理小説を書いたが、推理小説というものは南京豆でもかじりながら気楽に読むべきものであって、額に汗してえいえいと書くものではないことがわかったので、このごろは書かない。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第四十七回目の昭和三六(一九六一)年二月十九日附『西日本新聞』掲載分。これはもう完全に前日の続き。

「多情多恨」尾崎紅葉(慶応三(一八六八)年~明治三六(一九〇三)年)の長編小説。明治二九(一八九六)年に『読売新聞』に連載、翌年、刊行。亡妻を慕いつづける青年教師が、最初は嫌いであった友人の妻に何時とはなく魅せられてゆく心理を克明に描いた作品。筋の面白さを捨て、平凡な日常的事件をとらえて人物の心理や性格を言文一致体によって精細に描いた写実的心理的な手法は、二葉亭四迷の「浮雲」を継いで一つの完成を示しているとされ、次代の自然主義文学への架橋となっているという。「源氏物語」や西洋文学にその手法を学んでおり、また、姦通の破局を回避するところに、同時代の深刻小説の傾向に、和して同ぜぬ批判を忍ばせるなど、かなり複雑な構成を持っており、『快腕の大創作』を自称した野心作である(以上、私は昔、誰かと同じく(彼のように少年ではなかったが)飽きて読み捨てた儘であるので、平凡社の「世界大百科事典」の記載を元にした)。

「わたしも乞われるままに二三、推理小説を書いた」昭和三〇(一九五五)年九月号『小説新潮』発表の「十一郎会事件」、昭和三二(一九五七)年一月七日号『週刊新潮』発表の書簡体探偵物「尾行者」辺りを指すか。]

2016/08/06

芥川龍之介 手帳4-19~33 / 手帳4~了

《4-19》

○國書 御仕置仕附

[やぶちゃん注:「國書」は「くにがき」で、旧日本の地方行政単位の各国の公式記録の意味か?

「御仕置仕附」「おんしおきしつけ」と読むか。江戸時代に罪人を法に照らして処罰することを「仕置」と言うから、その「仕置き」を実際にどう「仕附(しつ)け」たか(処理したか)を記す記録か?]

 

〇遊女屋宿泊人帳 ×月×日英人カツテ 八千代 寄合町遊女屋 筑後屋平藏

[やぶちゃん注:底本の新全集では二箇所の「×」の右にママ注記する。

「寄合町」長崎丸山遊郭の内である。]

 

○仕置伺 入牢帳 窂溜諸願伺 無宿平九郎女房殺害に付御仕置伺 御用留 別封留 諸證文帳 犯科帳 唐阿蘭陀申渡 萬延元年埋地日記

[やぶちゃん注:「窂溜」「窂」は牢に同じいが、これは恐らく「らうため(ろうため/ろうだめ)」で牢 内で重病になった者及び十五歳未満の者を入れた施設のことではあるまいか? 江戸では浅草と品川に存在した。

「御用留」「ごようどめ」で、幕府・諸藩の役所や町村の役人の手元で記録された公用の文書控簿を指す。

「別封留」不詳乍ら、他の文書控えとは別にして封をしたものの謂いであるから、重要或いは機密扱いの文書を指すか。

「唐阿蘭陀申渡」「たうおらんだまうしわたし(とうおらんだもうしわたし)」と読む。鎖国時代の限定通商していた中国やオランダ船への通告文書類を指すようである。

「萬延元年」一八六〇年。

「埋地日記」奉行所から命ぜられて長崎の居留地埋立造成実務に当たった庄屋北野織部が残した勤務日誌。受注した安政六(一八五九)年九月から翌萬延元年の歳末に至る本事業の外、附帯事業完了までを詳細に記録する。]

 

115冊――Shocking

[やぶちゃん注:何の書類か不祥。気になる。仕置き帳か。]

 

○燈明臺一件

[やぶちゃん注:「燈明臺」は燈籠型の灯台のこと。]

 

○午十一月三日溜入   無宿

○未正月十八日入牢   平八郎

            申四十才

○右のもの吟味仕候處唐人邪教之爲―忰に付

[やぶちゃん注:「忰に付」意味不明。]

 

《4-20》

○東京圖書館で見べき本 長崎志續篇 長崎實錄大成 長崎港草 長崎夜話 長崎聞見錄(見聞?) 通航一覽 長崎三百年(櫻痴) 天主實義

[やぶちゃん注:「東京圖書館」国立国会図書館の前身である帝国図書館のこと。実際に正式名称を「東京図書館」と呼んだ古い一時期がある(それや詳しい沿革はウィキの「帝国図書館」を参照のこと)。

「長崎志續篇」正篇の「長崎志」は江戸中期の長崎の地役人(享保六(一七二一)年、「御用向幷御書物役」に任ぜられる)であった田辺茂啓(元禄元(一六八八)年~明和五(一七六八)年)が、明和元(一七六四)年から実に三十年の歳月をかけて編纂した「長崎実録大成」(天領の貿易都市長崎の政治・経済・文化・社会を詳しく述べた総合地誌で長崎奉行所に献上されている)。同書はさらに茂啓本人によって明和四年分まで書き継がれ、これが「長崎志正編」(全十六巻)となった。その後、奉行の命令で別人の手によって「長崎志続編」(全十三巻)が書き継がれている、そちらの方。

「長崎實錄大成」前注下線部参照。

「長崎港草」「ながさきみなとぐさ」と読む。長崎の郷土史家熊野正紹(せいしょう ?~寛政九(一七九七)年)による長崎地誌で寛政四(一七九二)年成立。全十五巻。

「長崎夜話」「長崎夜話草(ながさきやわぐさ)」のことであろう。西川如見著で全五巻からなる。自らの長崎の見聞を子の正休に口述筆記させたもの。長崎の由来、海外長崎貿易などに始まり、長崎の風俗・人情・孝子・烈婦などの人物記事、更に特産物・土産物などにまで言及している。享保五 (一七二〇) 年成立。

「長崎聞見錄(見聞?)」「聞見(ぶんけん)」でよい。京の医師広川獬(かい)が 著した長崎の見聞録。広川は寛政二(一七九〇)年と同七(一七九五)年の二回訪れ、それぞれ実に三年間も滞在している。本書の刊行は寛政一二(一八〇三)年。「しょくらとを」(チョコレート)や「かうひい」(コーヒー)の文献上の登場は本書とも言われているようである。

「通航一覽」江戸幕府の命により、大学頭林林復斎らによって編集された歴史書(対外関係史料集)。内容は永禄九(一五六六)年から文政八(一八二五)年頃までの実に二百六十年近くに及ぶもので、全三百五十巻。嘉永六(一八五三)年の復斎による序文があることから、この頃に完成されたと考えられている。国別・年代順に配列されてあり、蝦夷地関係は第七~八の「魯西亞國部」に含まれている。時を同じくして、黒船来航によって、文政以後の外交資料の整理が必要不可欠となった。このため、林鶯渓(復斎の長男であったが父復斎が、復斎の甥で大学頭家(第一林家)の当主であった林壮軒が死去、急遽、復斎が家督を継承することとなり、弟の学斎とともに大学頭家に戻った。それにより鶯渓は第二林家の家督を継承して幕府儒者に任ぜられた。鶯渓は父の没後にも大学頭家を継承していない)と、復斎の片腕として「通航一覧」編纂に参加した幕臣宮崎成身(せいしん)を中心として「通航一覧続輯(ぞくしゅう)」百五十二巻が編纂され、こちらは安政三(一八五六)年に完成している(以上は主にウィキの「通航一覧」に拠った)。

「長崎三百年(櫻痴)」「櫻痴」は「あうち(おうち)」と読み、で政治家で作家でもあった福地源一郎(ふくちげんいちろう 天保一二(一八四一)年~ 明治三九(一九〇六)年)のペンネーム。以下、ウィキの「福地源一郎」によれば、長崎新石灰(しっくい)町で儒医福地苟庵(こうあん)の息子として生まれ、十五歳の時、長崎で通詞名村八右衛門の下、蘭学を学んだ。安政四(一八五七)年に海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って、江戸に出、以後、二年間ほど、イギリスの学問や英語を学び、外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事、万延元(一八六〇)年に御家人に取り立てられ、文久元(一八六一)年には柴田日向守に通訳として随行して文久遣欧使節に参加、ロシア帝国との国境線確定交渉に関わった。慶応元(一八六五)年には再び幕府使節としてヨーロッパに赴き、フランス語を学んで、西洋世界を視察、その時、ロンドンやパリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せ、また、西洋の演劇や文学にも興味を持ち始めた。江戸開城後の慶応四年閏四月(一八六八年五月)には、『江戸で『江湖新聞』を創刊した。翌月、彰義隊が上野で敗れた後、同誌に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に変わっただけではないか。ただ、徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と厳しく述べた。これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、福地は逮捕されたが、木戸孝允が取り成したため、無罪放免とされた。明治時代初の言論弾圧事件であり、太政官布告による新聞取締りの契機となった。その後、徳川宗家の静岡移住に従い自らも静岡に移ったが、同年末には東京に舞い戻り、士籍を返上して平民となり、浅草の裏長屋で「夢の舎主人」「遊女の家市五郎」と号して戯作、翻訳で生計を立て、仮名垣魯文、山々亭有人等とも交流した。その後下谷二長町で私塾日新舎(後に共慣義塾に改名)を開き(後に本郷に移転)、英語と仏語を教えている』。明治三(一八七〇)年、『渋沢栄一の紹介で伊藤博文と意気投合して大蔵省に入り、また伊藤とともにアメリカへ渡航し、会計法などを調査して帰国。翌年、岩倉使節団の一等書記官としてアメリカ・ヨーロッパ各国を訪れ』、明治六(一八七三)年には『一行と別れてトルコを視察して帰国』、明治七(一八七四)年、『大蔵省を辞して政府系の『東京日日新聞』』(現在の毎日新聞の前身)『発行所である日報社に入社(主筆、のち社長)、署名の社説を書き、また紙面を改良して発行部数を増大させた。政治的立場としては漸進主義を唱えて、自由党系の新聞からは御用主義、保守主義と批判されたが、政界に親しくした』。明治八(一八七五)年に『新聞紙条例と讒謗律が発布された際には、その適用について各新聞社が共同で政府へ提出した伺書の起案を行った。また同年には地方官会議で議長・木戸孝允を助けて書記官を務め』ている。明治一〇(一八七七)年に『西南戦争が勃発すると自ら戦地に出向き、山縣有朋の書記役も得て、田原坂の戦いなどに従軍記者として参陣、現地からの戦争報道を行ってジャーナリストとして大いに名を上げた。この東京への帰途に木戸孝允の依頼で、京都で明治天皇御前で戦況を奏上する』。翌明治十一年には『渋沢栄一らとともに東京商法会議所を設立。また下谷区から東京府議会議員に当選し、議長となった』。明治一四(一八八一)年には私擬憲法「国憲意見」を起草、また、「軍人勅諭」の『制定にも関与した。この年、『東京日日新聞』は』一万二千部を『発行するようになる。この頃、下谷の茅町の自宅は池端御殿と称されて、多くの招待客が訪れていた』。明治一五(一八八二)年、『丸山作楽・水野寅次郎らと共に立憲帝政党を結成し、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙等を政治要綱に掲げた。自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、士族や商人らの支持を受けたが、政府が超然主義を採ったため存在意義を失い、翌年に解党した』。『たびたびの洋行以来、親しい市川團十郎や守田勘彌、中村宗十郎などと演劇論を語り、新しい演劇に取り組み』、明治一二(一八七九)年以降は『フランスやイギリスの戯曲や小説を翻案して、河竹黙阿弥や三遊亭圓朝に提供した。その後、演劇改良論を書き始め』、明治一九(一八八六)年の「演劇改良会」の『発起人に加わるなど、次第に演劇改良運動とそれを実践する劇場の開設に執念を燃やすようになる』。明治二〇(一八八七)年以後は歴史著作も執筆、その翌年頃からは『小説も手を染め、政治小説、諷刺小説、ロマンス小説、歴史小説などを執筆』 、明治二十二年十一月には『千葉勝五郎とともに、東京の木挽町に歌舞伎座を開場した。福地はまもなく借金問題により経営から離れ、歌舞伎座の座付作者となって活歴物や新舞踊などの脚本を多数執筆し、市川團十郎らがこれを演じた。代表作に』「大森彦七」「侠客春雨傘」「鏡獅子」「春日局」などがある。明治二十四年から『やまと新聞』に『小説を連載したのをきっかけに、社長の松下軍治に請われて顧問格となって評論活動を続け』た。しかし、明治三六(一九〇三)年に『團十郎が死去すると舞台から手を引き、翌年の』第九回『衆議院議員総選挙に東京府東京市区から無所属で立候補して最下位当選を果たすが、この時には既にかつて福澤諭吉と並び称されたような社会的影響力は失われて』おり、三年後、議員在職中に死去した。歴史読物の「長崎三百年」は明治三五(一九〇二)年の刊行。

「天主實義」前に注した通り、「天學初函」の「天學實義」の誤記であろう。]

 

通航一覽 エケレス語字書和解 不正唐物取扱候一件 異教徒人事帳 志賀九郎助書翰集 華夷重商考 唐方商賣荷物方大意 何番船書籍元帳(新渡書籍) 郷村記 豐後國切支丹宗門親類書 異宗一件書類 邪宗門ノ儀ニ付内密申上候書付 淸文鑑和解 和蘭字彙

[やぶちゃん注:編者は項を新たにしているが、明らかに「東京圖書館で見べき本」の続き。

「エケレス語字書和解」嘉永三(一八五〇)年に編纂に着手されたものの、未完のまま中断されてしまった英和辞書「エゲレス語辭書和解」のことであろう。阿蘭陀通詞であった森山多吉郎や同僚の西吉兵衛らが関わった(未完となったのは開国に向けて政治実務が多忙となったためであった)。

「不正唐物取扱候一件」「仕置例類集」(各奉行から老中に仕置の伺を立てたものの中から、老中が評定所に諮問した事件について、評定所が行なった評議例を整理分類したもの。評定所刑事事件事例集で、裁判の準則としたもの)の中に「二十七 上 出所不正之唐物取扱候部 密買并不正之品と乍存買請又者引請候類・密買之ものを見遁候類・不正之品と乍存世話いたし候類・不正之品と乍存致売買候類・無手板ニ而致売買候類」というのがある(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「異教徒人事帳」不詳。奇妙な名前で、誤記が疑われる。

「志賀九郎助書翰集」長崎稲佐の庄屋志賀九郎助(後に親憲に改名)が息子のロシア語通詞であった志賀浦太郎(親朋:文久元(一八六一)年二月二日にロシア人に頼まれてロシア船に乗って横浜から箱館に行っていた)に宛てた書翰集。文久元年から慶応元(一八六五)年迄と、明治八(一八七五)年一月三日の九郎助の手紙が纏められている。「東京大学史料編纂所」公式サイト内の「長崎県下幕末維新期史料調査」で一部が読める。

「華夷重商考」江戸中期の天文学者西川如見(じょけん 慶安元(一六四八)年~享保九(一七二四)年)が元禄八(一六九五)年に著わした日本初の世界地誌。

「唐方商賣荷物方大意」「阿蘭陀方唐方商賣荷物元拂等大意譯書類(おらんだかたからかたしょうばいにもつもとばらいなどたいいわけしょるい)」という古文書なら、早稲田大学図書館公式サイト内の「古典籍総合データベース」内で読める。

「何番船書籍元帳(新渡書籍)」外国から流入する書籍類を監視管理するためと思われる書籍元帳(しょじゃくもとちょう:書籍名と数量を書き上げたもの)。例えば、国立国会図書館デジタルコレクションの「長崎舶載唐本書籍元帳」で一例を画像で読める。

「郷村記」大村藩が天和元(一六八一)年以来、百八十年をかけて安政の改革の一環として最終的に文久二(一八六二)年に完成させた旧大村藩領東西彼杵地方に対する農村調査記録。全七十九巻。

「豐後國切支丹宗門親類書」安部光五郎氏の論文に「豊後国大分郡玖珠郡キリシタン宗門親類書について」というのがある。

「異宗一件書類」安政三(一八五六)年の密告による「浦上三番崩れ」(ウィキの「浦上三番崩れ」によれば、『浦上村のキリシタンに関する密告があり、密告者の中に棄教した「転び者」が含まれていたことから、この年の』九月十八日に『帳方(隠れキリシタン組織の指導者)吉蔵らキリシタン』十五人が『捕縛された』。『浦上一番崩れ』では、専ら、『訴えた庄屋の不正問題に話が移り、続く浦上二番崩れでは内部の慎重論もあって、「証拠不十分」による関係者の釈放の形で終わっていたのに対し』、『今回は実際に「転び者」による告発があったことから、取調は大規模かつ徹底的に行われ、吉蔵以下役職にあった幹部のほとんどが獄死もしくは拷問によって殺害され、浦上のキリシタン組織は壊滅状態に陥った。にも関わらず、長崎奉行はこの件を村人は先祖代々の教えを禁じられたキリシタンの教えと知らなかったことによって生じた「異宗事件」として処理を行い、キリシタンの存在を公式には認めなかった。なお、長崎県立長崎図書館には『異宗一件』と命名された事件に関する帳簿が現存している。非道な拷問が行われ、転んだまま仏教徒になってしまった人々もいた』とある)に関わる長崎奉行所の資料中に「異宗一件」「異宗徒」という簿冊名を見出せる。

「邪宗門ノ儀ニ付内密申上候書付」同一文字列で浦上四番崩れ絡みの文章を見つけたが、他の記載がリンクしたくない内容なので、敢えて「不祥」としておくことにする。知りたければ、上の文字列で検索すればすぐ見つかる。

「淸文鑑和解」《4-8》で既注。

「和蘭字彙」「おらんだじい」と読む。江戸末期の蘭和辞典で全十三巻。長崎出島のオランダ商館長H・ドゥフがF・ハルマの蘭仏辞典を参考にして長崎通詞らと協力して編纂し、文化一三(一八一六) 年に成立した蘭和辞典「道訳法児馬(どうやくはるま)」を蘭方医で幕府医官桂川甫周(かつらがわほしゅう)が校訂、安政二~五(一八五五~一八五八)年に刊行したもの。桂川は「解体新書」の翻訳にも参加している。]

 

《4-21》

○繪圖 唐船 商船 位牌

○肥前國浦上村百姓共紛敷宗體執行ひ候趣相聞候ニ付追々召捕一件吟味仕候趣左の通に御座候

 高木作右衞門御代官所

 肥前國彼杵郡浦上村山里中野郷字長與道

                 百姓

       巳五月廿七日入牢   吉  藏

  朱枠 ―― 未 ―――― 病死   未五十二才

 右のもの吟味仕候所年曆不相分先祖共より中野郷に住居高三斗七升八合取所農業致し家内八人相暮罷在候所淨土宗村内聖德寺檀家に候所

[やぶちゃん注:一部に読み句読点等を附し、また訓読文にして読み易く書き換えておく。但し、明らかに途中で切れている。

 

○肥前の國、浦上村百姓共(ども)、紛敷(まぎらはしき)宗體(しふたい)、執行(とりおこな)ひ候ふ趣き、相ひ聞き候ふに付き、追々(おひおひ)、召し捕ふ一件、吟味仕まつり候ふ趣き、左(さ)の通りに御座候ふ。

 高木作右衞門御代官所

 肥前の國彼杵(きつき)郡浦上村山里中野郷字(あざ)長與道(ながよみち)

                 百姓

       巳五月廿七日入牢        吉  藏

  朱枠 ―― 未(ひつじ) ―――― 病死   未五十二才

 右のもの吟味仕まつり候ふ所、年曆(ねんれき)、相ひ分らず、先祖共(ども)より中野郷に住み居(を)り、高(たか)三斗七升八合、取る所、農業致し、家内八人、相ひ暮し罷り在り候ふ所、淨土宗、村内、聖德寺檀家に候ふ所、

 

「長與道」ここには隠れキリシタンの秘密の礼拝堂「聖フランシスコ・ザビエル堂」があったという。

「聖德寺」「しやうとくじ(しょうとくじ)」は現在の長崎県長崎市銭座町にある天王山法輪院聖徳寺(寛永三(一六二六)年建立。この寺は山里村及び渕村一帯を管轄しており、所謂、浦上キリンタンの檀家寺であった。かの近代の悲劇「浦上四番崩れ」は、浦上キリンタンがこの寺との関係を絶とうとしたことに始まったとされる。こちらの記事を読まれたい。]

 

○ハンタマルヤ イナツショウ

[やぶちゃん注:「イナツショウ」不詳。]

 

○毎年十一月冬至前後キンタに當り候日をナタリヤと唱へナタリヤは出産と申事の由同日はエス誕生の日にて母ハンタマルヤ流浪中牛小屋に於て出産牛飼桶にて初湯を使ひ候故實ノ由何時もその前夜より佛前へ生魚酒等相備家内一同通夜

[やぶちゃん注:「ナタリヤは出産と申」ナタリアNatalia)は南欧から東欧にかけて広く見られる女性名であるが、これは後期ラテン語の「natele domini(主の誕生日=クリスマス)」の意である。]

 

《4-22》

ガラスサ等三十三篇を一應より定二應又は三應程も唱へ候儀にて飼牛有之候ものは米麥等相當へ當日は猶又同樣備物いたしetc.

[やぶちゃん注:「ガラスサ」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

〇萬事に唱候教文 ガラスサみちみち給ふマリヤおんみに御禮をなし奉りラナルジ樣は御身とともにましまして女人の中に於てわけていわくよみしきなり又御胎内のゼージヨース樣は尊きにてましますリヨースの御母サンタマリヤ樣われらが最後の時惡人なれとつつしんでたのみ奉るあめん

[やぶちゃん注:「ラナルジ」不詳。識者の御教授を乞う。

「ゼージヨース」不詳。識者の御教授を乞う。

「リヨース」イエス・キリストのことらしい。]

 

《4-23》

○天にまします御親さま――われひとにゆるすが如くわれらがとがもゆるして下され われら天道に日々數度相唱候教文

[やぶちゃん注:「數度」「あまたたび」か。

「相唱候教文」「相ひ唱へ候ふ、教への文(ふみ)」。]

 

○邪宗門之儀二付内密申上候書付

[やぶちゃん注:《4-20》で注記した通り、「不祥」としておく。]

 

《4-24》

○浦上の church 石造の唐獅子の水吐き 黑衣の尼 ステエントグラ 藍鼠の明るい柱 白き壁 天井 石柱に貝[やぶちゃん注:ここに以下の貝の図。] 海綿 十字を額にかく爲と云ふ マリア 百合 ばらの造花 像(藍白金) 日本人の女來り十字を切る 拔きて白布をかむる オルガン confessional の赤き布 ラゲ司教 西に向へる stained glass 灼熱して黃赤光焰萬丈たり 牧羊

Kai

[やぶちゃん注:貝は私の守備範囲なのだが、この絵では同定不能である。斧足・腹足類の区別も出来ない。柱とあるから或いは化石でアンモナイトなどの絶滅種かも知れぬ。

confessional」懺悔・告解、或いは「告解室」の意。

「ラゲ」パリ外国宣教会所属のベルギーの神父で、来日して九州各地を布教したエミール・ラゲ(Émile Raguet 一八五四年~昭和四(一九二九)年)。聖書翻訳家で辞書編集者でもあり、文語体による日本語訳聖書を作成、仏和辞典も編纂した。ウィキの「エミール・ラゲによれば、『ベルギーのブレーヌ・ル・コントに生まれる。ボンヌ・エスペランス小神学校で中等教育を終えたあと、トゥールネーの中央神学校に学び』、一八七七年、『パリ外国宣教会に入会し、同年、同会神学校で副助祭に』、一八七九年、『司祭に叙階され、同年』(明治十二年)、『日本に派遣される。最初に長崎県の伊王島、次に平戸で従来の信者に相対した後』、明治二〇(一八八七)年、福岡(博多或いは筑前)で宣教を開始し、後、大分カトリック教会で講演による宣教活動を行い、明治二四(一八九一)年には宮崎カトリック教会を創設、明治二九(一八九六)年、鹿児島で宣教を開始した。明治三五(一九〇二)年、東京市築地教会に「佛和話大辭典」出版を目的として転居、明治四一(一九〇八)年には『同書の売上金により聖フランシスコ・ザベリオ聖堂を鹿児島に建立』した、明治四四(一九一一)年二月に浦上小教区主任となり、大正三(一九一四)年三月に前任者故ピエール・テオドール・フレノ神父(Pierre Theodore Fraineau 一八四七年~一九一一年:浦上・五島・長崎にて布教し、浦上天主堂創建に尽力した)の後を引き継いで、浦上天主堂の建築を竣工させた。大正九(一九二〇)年九月まで同教区に在籍し、東京で天に召された。芥川龍之介の長崎再訪は大正一一(一九二二)年五月十日から五月二十九日であるが、このメモはラゲ司祭を実見しているように感じられる。まだ、その頃には浦上にラゲ司祭はいらっしゃったのかもしれない。]

 

《4-25》

○ドンゴロス 人骨と牛骨 頭骨(毛)(齒) 馬骨(肥料) 糞蠅 骨粉の煙 暗し 天窓の光 支那婦人 人足の小頭――ボウシン 人足とそのやの番頭

[やぶちゃん注:「ドンゴロス」(粗い綿布(デニム)を指す英語“dungaree”(ダンガリー)の転訛と言われる)は俗に言う「南京袋(ナンキンぶくろ)」、麻袋(あさぶくろ)のこと。ジュートなどの麻の繊維を編んで作った袋のこと。

「ボウシン」英語の“boatswain”で「ボーズン・水夫長・商船の甲板(こうはん)長・軍艦の掌帆長」が原義であるが、実は建築現場で現在も作業する職人の班(グループ)を指揮する「班長(世話役)」を「棒心(ぼうしん)」と呼んでおり、この英語がその濫觴である。]

 

○金ギヤマン チイズ入れ 紫へ金すぢ入のコツプ 白へ赤模樣のコツプ 深蒼の德利 桃色金唐草のギヤマン 紫紺の鉢 綠の大コツプ 黑ギヤマンの皿 焦茶ギヤマンの鉢 白の大フラスコ 四十前の紫赤黃褐色(永見家先祖阿蘭陀へ注文してつくる) 白に金唐艸の珈琲茶碗二十人前 靑綠波形の鉢

[やぶちゃん注:「永見」既注であるが、再掲する。劇作家で美術研究家の永見徳太郎(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)。生地長崎で倉庫業を営みながら、俳句(号は夏汀)や小説を書く一方、長崎を訪れた芥川竜之介ら著名人と交遊、長崎の紹介に努めた。南蛮美術品の収集研究家としても知られた。芥川龍之介より二歳年上。]

 

○辰丸事件

[やぶちゃん注:「たつまるじけん」と読む。中国に於ける排日運動の先駆けとなった有名な事件で、明治四一(一九〇八)年二月五日に澳門(マカオ)沖で起きた日本船「第二辰丸」拿捕事件。ウィキの「辰丸事件より引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『マカオのポルトガル人銃砲商が発注した銃器九十四箱、弾薬四十箱及び石炭等を積載して神戸を出た汽船第二辰丸は、マカオ前面の水域において清国』『の巡視船四隻に武器密輸の嫌疑で拿捕され、日章旗を撤去され、広東に回航された。日本側は密輸行為を無視し、領海問題や日章旗問題を口実に中国と強硬な交渉を行い、謝罪と十万円の損害賠償を要求した。しかし、清国政府は革命党の問題に悩まされている最中であり、容易に日本の条件を受け入れなかった。一方、日本では、第一次西園寺内閣が様々な国内事情を抱え、帝国議会、軍部、財界の圧力にさらされており、この局面を挽回しようと南清艦隊を動かして清国政府を威嚇した。この結果、清国政府は三月十五日、辰丸釈放、損害賠償、謝罪礼砲、兵器買収など五ヶ条の要求を受け入れることとなる。ところが事件発生地である広東の民衆はこれに憤慨し、辰丸が釈放される十九日に国恥記念大会を結集し、日貨排斥を決議した。この運動は広東省内にはもちろん、華南、南洋まで及び、不況下の日本への打撃は深刻であった』とある。]

 

《4-26》

奉行 human にて切支丹をゆる十人中一人をゆるす その男怒り奉行を殺す thema.

 

《4-27》

     
failure ― deeply fallen in love ― obstacle

○心中<

     
success ― shallow ― no ob.

[やぶちゃん注:「failure」ここは後の「success」から「失敗(者)」。

obstacle」障害・妨害(者)。

shallow」浅はか・皮相的。]

 

《4-28》

〇上る大路田村千代樣方

[やぶちゃん注:現在の京都市東山区大和大路通か。しかし、当時でも「上ル大路」とは言わないと思う。]

 

○今出川通淨福寺 停車場 上ノ2201

[やぶちゃん注:京都市上京区浄福寺一条上笹屋にある天台宗浄福寺。市バスの直近の停留所名は「今出川浄福寺」である。]

 

《4-29》

○長崎――切支丹地――Leon Parge 天文18  1549――寛永17 1630――20

[やぶちゃん注:「切支丹地」不詳、Leon Parge」人名としか思えないが、不詳、「寛永17  1630」寛永十七年は西暦一六四〇年で不審。「20萬」何の数値か不詳。因みに現在、禁教令直前の頃のキリシタン人口は三十七万人ほど、禁教令以降に殺されたキリシタンは説によって三十万から百万人とされる。]

 

○僧――神――外商 San Phelip は)和英(和蘭の御忠節)

[やぶちゃん注:「外商 San Phelip は」(「外商」と「San Phelip は」の間には有意な空隙がない)不詳。イタリア人のカトリック司祭でオラトリオ会の創設者にして「喜びの聖人」「ローマの第二の使徒」と称されるフィリッポ・ロモロ・ネリ(Filippo Romolo Neri 一五一五年~一五九五年)がいるが、綴りが違う。]

 

○土佐派

[やぶちゃん注:「土佐派」小学館「日本大百科全書」の加藤悦子氏の解説を引く。『大和絵(やまとえ)の伝統を継承して、もっとも長くその主流を占めた画派。数種類流布する「土佐系図」などでは、その画系は平安時代にまでさかのぼるが、鎌倉時代以前の部分は信憑(しんぴょう)性が薄い。画系の祖として確実に知られるのは』文和元/正平七(一三五二)年頃に『絵所預(えどころあずかり)となったと考えられる藤原行光(ふじわらのゆきみつ)(中御門行光(なかみかどゆきみつ))である。また、土佐の呼称は藤原行広(ゆきひろ)(行光の孫か)が文献上の初出である。以後代々絵所預に任じられたりしているが、行広の次代の光弘(みつひろ)、ついで光信(みつのぶ)が輩出するに及んで、土佐派は著しく発展した。光信は宮廷絵所預であった』十五世紀半ばから十六世紀初めまで、『宮廷・幕府などのために絵画活動を行い、室町時代の大和絵制作の中心的存在であった。子の光茂(みつしげ)も、光信を継承して絵所預を務め『桑実寺縁起(くわのみでらえんぎ)』などを残している。しかし室町末期の』永禄一二(一五六九)年に『光茂の長男・光元が戦死したため土佐派は後継者を失い、中央画壇からの後退を余儀なくされた。堺(さかい)に下った同派は、光吉(みつよし)(光茂の弟子か)を中心に町絵師として画系を維持したが、子の光則(みつのり)は』寛永一一(一六三四)年に『京都に移り、同派の再興を企てた。その子光起(みつおき)は』承応三(一六五四)年、遂に『宮廷絵所預に任じられ、同派を復興した。以後、光成(みつなり)、光芳(みつよし)らが出て、江戸時代を通じて大和絵の伝統を遵守した。土佐派は中世における大和絵の担い手として重要な存在であり、また近世においては町絵の新しい興隆を促したことも特筆される』。なお、寛文二(一六六二)年、『同派から出た如慶(じょけい)は住吉派(すみよしは)をおこして、江戸で活躍した』とある。しかしそれにしても、この切支丹関連メモの中に芥川龍之介は何故、「土佐派」と記したのか、よく判らぬ。何の関係もないのかも知れない。]

 

○1 五人組

  (宗門寺

  (宗門帳

 2(

  (宗門人別帳 檀那寺 15才以上 判元見屆役 踏繪

  (死者

 3 制札 500 罰 サカヅリ

[やぶちゃん注:「(」は底本では大きな一つの丸括弧(下部は底本では四行)で、「15才以上」は、これのみ「宗門帳」以下の三行に横書されてある。

「五人組」ウィキの「五人組」より引く。『江戸時代に領主の命令により組織された隣保制度。武士の間にも軍事目的の五人組が作られたが、百姓・町人のものが一般的である。五人与(ぐみ)・五人組合などとも呼ばれた』。『制度の起源は、古代律令制下の五保制(五保の制)といわれる。時代が流れ』、慶長二(一五九七)年、『豊臣秀吉が治安維持のため、下級武士に五人組・庶民に十人組を組織させた。江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのために秀吉の制度を継承し、さらに一般的な統治の末端組織として運用した』。『五人組制度は村では惣百姓、町では地主・家持を近隣ごとに五戸前後を一組として編成し、各組に組頭などと呼ばれる代表者を定めて名主・庄屋の統率下に組織化したものである。これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり、領主はこの組織を利用して治安維持・村(町)の中の争議の解決・年貢の確保・法令の伝達周知の徹底をはかった。また町村ごとに遵守する法令と組ごとの人別および各戸当主・村役人の連判を記した五人組帳という帳簿が作成された』。『実態は、逃散したりして潰れた家や実際の住民構成とはかけ離れた内容が五人組帳に記載されていた場合があったり、また年貢滞納をはじめとする村の中の争議は、村請制の下では五人組ではなく村落規模で合議・責任処理されるのが普通であったため効果としては疑問がある。また、村によっては一つの村内で領主が家ごとに別々(相給)になっているケースがあり、その場合には領主が編成する五人組と村が居住区域をもって定めた五人組(「郷五人組」)が並存するという現象も生じた。しかし五人組制度が存在することによって、間接的に名主・庄屋の権威を裏付け、住民の生活を制約すると同時に町村の自治とりまとめを強化することには役立った。近代的自治法の整備とともに五人組は法制的には消滅したが、第二次世界大戦中の隣組にその性格は受け継がれていた』とある。

「サカヅリ」遠藤周作の「沈黙」に描かれる、かの凄惨を極めた拷問「逆さ吊り」のことであろう。]

 

○轉證文(元和二年)長崎奉行中采女正重義【南蠻誓■】

[やぶちゃん注:【 】内は二行割注。底本では( )内。「■」は底本の判読不能字一字分。

「轉證文」「ころびしやうもん(ころびしょうもん)」。切支丹から転んだことを請け合う證文である。

「元和二年」一六一六年。

「長崎奉行中采女正重義」これは脱字がある。豊後府内藩第二代藩主にして長崎奉行であった竹中采女正(うねめのしょう)重義(?~寛永一一(一六三四)年)。ウィキの「竹中重義」によれば、『徳川秀忠に長崎奉行として抜擢された。幕府の意向に従って過酷なキリシタン弾圧を実施し、穴吊りなど多くの拷問法を考案した。記録上、汚職を咎められ』、『切腹させられたことになってはいるが、事実は重義が秀忠の寵臣であったため、徳川家光に代替わりした時に粛清されたものと思われる』。元和元(一六一五)年に『父重利の跡を継いで藩主となり、配流された松平忠直を府内に迎えている』。寛永六(一六二九)年七月二十七日に『水野守信に代わって長崎奉行に着任する。重義を長崎奉行に推したのは土井利勝で、それまでの長崎奉行は幕府の』三千石級の『旗本から選ばれるのが慣例であり、大名クラスが抜擢されたのは異例であったとされる(幕末まで長崎奉行に任ぜられた万石クラスの人物は重義を入れて』二名のみである)。『重義の時代に壮絶なキリシタンの弾圧が行われ、穴吊りなど多くのキリシタンを殉教や棄教に追い込んだ拷問が考案された。さらに肥前島原藩主松倉重政の勧めで雲仙地獄におけるキリシタンの拷問を開始、多くのキリシタンが殉教した』。寛永八(一六三一)年には『有名な絵踏み(踏絵)が初めて雲仙で行われたという記録が残っている』。寛永九(一六三二)年に『大御所秀忠が卒し、家光が完全に権力を握ると、最初の鎖国令を発した。これと連動するかのように、重義は密貿易など職務上の不正を訴えられた。すでに』寛永六(一六二九)年十月に『書かれた平戸のオランダ商館長の手紙には、「彼が幕府にしか発行できない朱印を勝手に発行して東南アジアとの密貿易に手を貸している」とある。調査の結果』、寛永一〇(一六三三)年二月に『奉行職を罷免され、切腹を命じられ』、翌年二月二十二日に『嫡子源三郎と共に浅草の海禅寺で切腹、一族は隠岐に流罪となった(検死役は前任の長崎奉行で、当時大目付であった水野守信であった)。これにより府内藩竹中氏は改易・廃絶となった』。「通航一覧」に『よると、堺の商人・平野屋三郎右衛門が、己の妾を重義に奪われ』、『挙句に追放になったとして江戸の町奉行に訴え、その際に重義の不正の数々を告げた。取り調べたところ、それに間違いなしとして、重義は処罰されたとある』。また別に「バタヴィヤ城日誌」に『よると、告発者は長崎代官末次平蔵とその他数名の長崎町民で、竹中采女正が唐人の貨物を着服したり、自ら国禁の海外貿易に手を染めているという訴えであったとしている』とある。]

 

○貞享四年切支丹類族改 寺の開帳 慶應元年三月十七日金 17C.

[やぶちゃん注:「貞享四年」一六八七年。

「慶應元年三月十七日金」大浦天主堂での「信徒発見」の新暦での日附及び曜日である。「慶應元年」は前にも述べたが、正しくは改元前なので元治二年である。]

 

○屋根 松 月 雲 三味線 壺庭

[やぶちゃん注:《4-28》からこの《4-29》は旧全集にはない。]

 

《4-30》

○よく見ればゐる竹籔かや葺の雀かな

 白壁や芭蕉玉卷く南京寺

 白壁に芭蕉若葉や南京寺

 白壁に蘇鐡若葉や南京寺

 南海に秋立つ竹

 篁に天下の秋や鳳飢ゆる

 さんたまりあ 鱶

[やぶちゃん注:「南京寺」既に注の中に出したが、再掲しておく。これは長崎の唐寺の命数「長崎三福寺」の一つである東明山興福寺のこと。長崎市寺町にある日本最古の黄檗宗寺院で、山門が朱塗りであるため、「あか寺」とも呼ばれる。古くより中国浙江省及び江蘇省出身の信徒が多いことから、「南京寺」とも称せられた。]

 

《4-31》

[やぶちゃん注:以下の抹消句の中の〔 〕部分は全抹消の前に部分抹消されたものを指す。]

○飢ゆる鳳や天下の竹の秋

 鳳飢ゆる天下の竹〔の〕や秋となり

 石頑は秋立つ竹や〔二三竿〕與可の印

 渇筆や頑石

 竹の秋

 炎天にはたと打つたる根つ木かな

 鳳飢ゆる天下の竹

 板や竹

 竹の秋魚板 支那寺の赤き魚

 磬打てば山房や磬打てば立つ竹の秋

 蕭々と渇筆は秋立つ竹か石頑に

 亞字欄の外や秋立つ竹二本

 酒前茶後秋立つ竹を寫しけり

[やぶちゃん注:最初の句の「鳳」は「おおとり」と訓じ、二句目のそれは「ほう」と音読みしているか。

「石頑」「せきぐわん」(後の「頑石」もひっくり返し)と音読みしているか。硬い岩の意でとっておく。

「與可」は「よか」で、「文与可」「文同」とも称した、蘇軾の従弟で墨竹画の名人の名。

「渇筆」は「かつぴつ(かっぴつ」で、墨汁の含みの乏しい筆。或いは、それを用いてわざとかすれさせた書法や水墨画法「掠(かす)り筆」のことも同時に指す。

「亞字欄」「あじらん」と読み、建物などの欄干で漢字の「亞」の字の形に切り込んだ中国風のものを指す。

 

《4-32》

 菩薩名は心王と申す春の風

 亞字欄の外や秋立つ竹二本

 石頑蕭々と秋立つ竹や石頑に

 酒前茶後秋立つ竹を寫しけり

 石頑蕭々と秋立つ竹や石頑に

 一むらの秋

[やぶちゃん注:「心王」(しいわう(しんのう))は仏教用語で心の作用の主体となる識(しき)のこと。心それ自体。心は個別の精神作用に対して総体を認識する主体であるところから「王」と喩えたものである。「華厳経」の中に「心王菩薩問阿僧祇品」というのもある。]

 

○みどり屋

 平平平平

 七一二三四五六

[やぶちゃん注:意味不明。]

 

《4-33》

○末法の世は世なれども佛たち白蓮夫人に冥加あらせたまへ

 茨城縣西稻敷郡牛久村 小川芋錢

 大森新井宿一二五三 片山廣子

[やぶちゃん注:「白蓮夫人」歌人柳原白蓮(明治一八(一八八五)年~昭和四二(一九六七)年)は、大正から昭和時代にかけて)のこと。「知恵蔵2015」の葛西奈津子氏の解説を引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『本名は柳原燁子(あきこ)』。『東京に生まれる。父は柳原前光(さきみつ)伯爵、母は妾の一人で柳橋の芸妓となっていた没落士族出身のりょう。前光は大正天皇の生母・柳原愛子(なるこ)の兄で、燁子は大正天皇の従妹に当たる。九四年、遠縁に当たる子爵・北小路隨光(よりみつ)の養女となる。九八年、華族女学校に入学。一九〇〇年に、十五歳で北小路家の長男資武(すけたけ)と結婚させられ、その後、妊娠により女学校を退学。長男・功光(いさみつ)を出産するも、〇五年、功光を北小路家に残して離婚し、実家に戻る』。『当時、華族の家庭では体裁が重んじられ、離婚した娘は恥とされて柳原家本邸に入ることができず、前光の正妻・初子の隠居所で読書や短歌をなぐさめとして暮らす。結婚・出産のために断念した学業を再開するため、〇八年、東京・麻布のカナダ系ミッションスクール、東洋英和女学校に寄宿生として編入する。八歳年下の村岡花子と出会い、「花ちゃん」「燁さま」と呼び合う「腹心の友」となる。この頃、佐佐木信綱が主催する短歌結社竹柏会に入門する』。『一〇年、二十五歳年上で九州の炭鉱王、伊藤伝右衛門と見合いし、翌年、後妻として嫁ぐ。年齢・身分・教養のいずれも不釣り合いな、伯爵家と炭鉱王の政略結婚として世間を騒がせ、東京日日新聞では連載で大きく報じられた。花子はこのニュースにショックを受け、燁子と絶交に至る』。『再婚後は「筑紫の女王」と呼ばれたが、生きがいを感じられずに、花子に心情を吐露する手紙を書いている。これをきっかけに親交が再開する。孤独や苦しみを短歌に詠み、竹柏会の機関誌「心の花」に発表し続けた。この頃から、白蓮の号を用いる』。『二一年、社会主義者の宮崎龍介と駆け落ちする。いわゆる「白蓮事件」である。当時は姦通罪が存在し、旧刑法では二年以下の懲役となる行為であった。燁子は伊藤家に対して大阪朝日新聞紙上で絶縁状を発表し、その二日後には大阪毎日新聞紙上に伝右衛門の抗議文が掲載されるなどして、センセーショナルな事件となった。二二年に長男・香織を出産するも、義父が抱える多額の負債もあって、生活は苦しく、龍介が結核に倒れた時期は、文筆で生計を支えた。二五年、長女・蕗苳(ふき)が誕生。三五年以降、歌誌「ことたま」を主宰する』。『四五年、学徒出陣していた香織を米軍による空爆で亡くす。その経験から、「国際悲母の会」を立ち上げ、各地で平和を訴える活動を起こす。緑内障で視力を失いながらも、歌を詠む穏やかな晩年を過ごし』た(私は何故だか知らぬが、彼女が生理的に激しく嫌いである。されば、そのまま元号なども附加せずに引いた。より細かなことはウィキの「柳原白蓮でもお読みいただきたい。これは芥川龍之介の「白蓮事件」を受けた狂歌であるが、実は龍之介はこの後、自死の年の四月上旬、妻文の幼馴染みで文の依頼で龍之介に近づいていた平松麻素子と、帝国ホテルで自殺未遂をするが、その際、白蓮の友人であった麻素子が怖くなって心中計画を漏らし、訪ねて来た白蓮から龍之介は説教を受けて、心中をとりやめている事実がある。まさに少しの間だけ、龍之介の「冥加」には関わったと言えば言える。

「西稻敷郡牛久村」現在は茨城県牛久(うしく)市。

「小川芋錢」(うせん 慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)は画家。本名は小川茂吉。河童の絵をよく描いたことから「河童の芋銭」とも呼ばれる、私の大好きな画家である。

「大森新井宿」現在の東京都大田区の大森駅周辺の旧地名。

「片山廣子」芥川龍之介が最後に愛した才媛で私が追い続けている愛する女性である。ブログ・カテゴリ「片山廣子など是非とも参照されたい。]

芥川龍之介 手帳4-16~18

《4-16》

○ウルユス(たんりういんしやく) 長崎健壽堂 免許蘭方

 阿蘭陀あか萬能膏、井上製(黑に白) 金具磨き紙 玄々堂 紅毛祕傳女悦長命丸 長崎丸山橫山一德齋 蘭方花の露(オランダ美人像) 江戸兩國橫山町二丁目 大和屋源藏 阿蘭陀美人油

[やぶちゃん注:「ウルユス(たんりういんしやく) 長崎健壽堂 免許蘭方」森ノ宮医療学園公式サイト内の「はりきゅうWebミュージアム」の『江戸時代の不思議な名前の薬「ウルユス」に本薬の看板(画像有り)及び薬について以下の記載がある。

   《引用開始》

「ウルユス」看板 松尾健寿堂 明治時代? 46×66cm

 薬の宣伝に用いられた看板です。この「ウルユス」という薬は、江戸時代、文化8年(1811)に発売された我が国最初の洋風名の売薬です。江戸時代にカタカナの商品名とは珍しいものですが、どんな由緒があって名付けられたのでしょうか。

 この言葉、実はオランダ語でも他の西洋語でもありません。「ウ」と「ル」と「ユ」を組み合わせると「空」の字になります。「空」に、「ス」をあわせ、空(から)にする、お腹の中を空にするという効能から命名された緩下剤でした。

 西洋の最新薬を装ってつくられた売薬ですが、上質の「大黄」をふんだんに使った薬で、実際に良く効いたようです。その上、服用法を丁寧に解説した包み紙を用いていたようで、宣伝以外にも、細やかな配慮が凝らされていました。

   《引用開始》

順天堂大学教授(医史学)酒井シヅ氏のカタカナの売薬の始祖「ウルユス」』の解説(PDF)が非常に詳しい。それによれば、『販売元は長崎であるが、長崎と縁はない』とある。「免許蘭方」は持っているのかも知れないが、薬を売るための箔のようなものであろう。

「阿蘭陀あか萬能膏、井上製(黑に白)」ネット検索によれば、「近世日本薬業史研究」(一九八九年: 薬事日報社刊)の中に「あか万能膏 井上屋吉右衛門(堺筋)」という文章断片を管見し得る。

「金具磨き紙 玄々堂」不詳。

「紅毛祕傳女悦長命丸」「長命丸」「女悦丸」は江戸期以降の媚薬(淫薬)として存在する。

「長崎丸山橫山一德齋」不詳乍ら、「丸山」は長崎の旧花街として知られた町(現在の同市丸山町及び寄合町附近)である。

「蘭方花の露(オランダ美人像)」不詳乍ら、ウィキの「ハイドロゾル」hydrosol:「固体粒子が分散している安定な懸濁液」の意。「芳香蒸留水」を指す言葉としても用いられる)に、『福沢諭吉は』明治元(一八六七)年の『科学入門書『訓蒙窮理図解』で、蒸気や蒸留について詳細に解説しており、芳香蒸留水(薔薇水)を「花の露」と呼んでいる』とある。ここも所謂、「バラ水」のことであろう。

「江戸兩國橫山町二丁目 大和屋源藏 阿蘭陀美人油」不詳。「大和屋源藏」を名乗った狂歌師はいるが別人であろう。これも前と似たような芳香性精油であろう。]

 

○正保四年長崎港圖 阿蘭陀人文箱

 南蠻鐡角鍔            >[やぶちゃん注:ここに以下の三文字の記号。]

 チヤルメラ吹きの阿蘭陀人の小柄

[やぶちゃん注:この奇妙な三つの文字は「阿蘭陀」を意味する符牒か?

 

「正保四年」一八六四年。

「南蠻鐡角鍔」南蛮鉄(なんばんてつ)は室町末期に鉄砲や刀の鉄の大量需要に伴い、ポルトガル貿易で輸入した舶載鉄を指し、それを素材として日本の職人が加工した刀の四角形に近い形状の鍔(つば)を指しているものと思われる。]

Syouh4

 

○阿蘭陀船の唐草 風鎭 シーボルド 象牙の阿蘭陀人根付 マリア觀音

[やぶちゃん注:「シーボルド」ドイツの医師で博物学者のフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold 一七九六年~一八六六年)のことであろう。文政六(一八二三)年に長崎オランダ商館の医師として来日、長崎に「鳴滝塾」を開設しれ診療と教育とに当たり、日本の西洋医学発展に影響を与えた。シーボルト事件(文政一一(一八二八)年のシーボルト帰国の際、国禁の日本地図や葵紋付きの衣服などを持ち出そうとして発覚した事件)で翌年に国外追放となったが、安政六(一八五九)年に再来日して幕府の外事顧問を勤めた。

「マリア觀音」ウィキの「マリア観音」から引く。『おもに江戸時代の禁教令によって弾圧を受けたキリシタン(キリスト教徒)達によって信仰の対象とされた聖母マリアに擬せられた観音菩薩像』で、『その多くは中国製の青磁、あるいは白磁の慈母観音像』『であった。慈母観音とは中国発祥の観音菩薩像で、稚児を抱き慈愛に満ちた造形表現となっており、肥前(長崎県)の浦上(現・長崎市浦上)や外海、五島などの潜伏キリシタンは、これに聖母マリアを投影してその像とした。その形状は地域によってさまざまであり、中には菩薩像の胸に十字架を彫刻したり、国内で窯焼きされたものもあったと考えられている。これらの像は、キリシタンとして信仰の灯を絶やさぬよう神(デウス)や聖母マリアへ祈りを捧げるのに使われたという。また、潜伏キリシタンがいた地方でも、平戸などマリア観音が用いられなかった地域もある』。ウィキには最後に『芥川龍之介も蔵していた』とあるが、これは入手経路が全く判然とせず(正規の古美術商や蒐集家などから購入・譲渡されたものであれば、そうはっきりと記すはずであるが、そうした記載はどこにも見当たらない)、一部の他者の追想記事を読む限りでは、龍之介が長崎を再訪した際、長崎のどこかに飾られてあったマリア観音像を芥川龍之介自身がこっそりと懐に入れてしまった(窃盗した)ものである可能性がかなり高いものと私は踏んでいる。]

 

《4-17》

○東坡の墨竹 柱漆をぬりし如し 三四枚の唐紙 鐡翁 木下逸雲の山水の大幅 花鳥の支那屛風 銀はりつけの床 臺灣事件 13疊 10 石燈籠 右手水鉢 松(代官より貰ふ

[やぶちゃん注:どこかの寺院の描写メモと思われるが、私は長崎には生徒の修学旅行引率で一度行ったきりであるので、皆目、見当がつかない。識者の御教授を乞うものである。

「東坡の墨竹」北宋の政治家にして詩人蘇東坡こと蘇軾(一〇三七年~一一〇一年)は墨竹の名手として知られた。墨戯と称して盛んに描いたが、竹は南方の植物であり、そこには彼が受けた流謫に等しい左遷への含みがあろう。

「鐡翁」幕末の長崎で活躍した南画家鉄翁祖門(てつおうそもん 寛政三(一七九一)年~明治四(一八七二)年)のこと。

「木下逸雲」(寛政一二(一八〇〇)年~慶応二(一八六六)年)はやはり幕末の長崎の南画家。前の鉄翁祖門と三浦梧門とともに「長崎三大家」「長崎南画三筆」などと称される。

「臺灣事件」これは「タイオワン事件」(別名・「ノイツ事件)のことか? ウィキの「タイオワン事件」から引いておく。寛永五(一六二八)年に『長崎代官の末次平蔵とオランダ領台湾行政長官ピーテル・ノイツPieter Nuytsとの間で起きた紛争』。『「タイオワン」とは台南安平の当時のオランダ名。台湾では浜田弥兵衛事件(濱田彌兵衛事件)と呼ばれる』。『朱印船貿易が行われていた江戸時代初期、明(中国)は朱元璋以来冊封された国としか貿易を行なっていなかった上に朝鮮の役による影響により日本商船はほぼ中国本土に寄港することはできなかった。そのために中継ぎ貿易として主な寄港地はアユタヤ(タイ)やトンキン(ベトナム)などがあり、また台湾島南部には昔から明(中国)や日本の船などが寄航する港が存在した』。『当時、日本、ポルトガル王国(ポルトガル)、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)、イギリス第一帝国(イギリス)の商人が日本貿易や東洋の貿易の主導権争いを過熱させる時代でもあり』、元和八(一六二二)年には『明(中国)のマカオにあるポルトガル王国居留地をネーデルラント(オランダ)が攻撃した』。『しかし敗退したネーデルラント(オランダ)は対策として台湾の澎湖諸島を占領』、『要塞を築いてポルトガルに備えた。このことに明(中国)は大陸から近い事を理由に澎湖諸島の要塞を放棄することを要請し無主の島である台湾から貿易をすることを求めたため』、二年後の一六二四年(寛永元年)、『ネーデルラント(オランダ)は台湾島を占領、熱蘭遮(ゼーランディア)城を築いて台南の安平をタイオワンと呼び始める。オランダはタイオワンに寄港する外国船に』一〇%の『関税をかけることとした。中国商人はこれを受け入れたが、浜田弥兵衛(長崎代官で朱印船貿易家の』一人『でもある末次平蔵の配下)ら日本の商人達はこれを拒否した。これに対し、オランダはピーテル・ノイツを台湾行政長官に任命し』、一六二七年(寛永四年)、『将軍徳川家光との拝謁・幕府との交渉を求め江戸に向かわせた』。『ノイツの動きを知った末次平蔵も行動に出』、同『年、浜田弥兵衛が台湾島から日本に向けて』十六人『の台湾先住民を連れて帰国。彼らは台湾全土を将軍に捧げるためにやって来た「高山国からの使節団」だと言い、将軍徳川家光に拝謁する許可を求めた。しかし当時の台湾は流行り病が激しく』、皆、『一様に疱瘡を患っていたため』、『理加という者のみを代表として拝謁させ、残りは庭に通すのみの待遇となった。彼らはあまりにも汚れていたため、城の者から』二度と『連れて来ないようにと言われたという話もあり』、『具体的な話が進められたわけではなく、遠路から』労(ねぎら)いの意を含めて、『皆、将軍家光から贈り物を授かり一旦帰国の途に着いた。しかしながら、結果としてノイツの家光への拝謁を阻止することに成功し、ノイツは何の成果もなく台湾に戻った』。翌一六二八年六月(寛永五年五月)、『タイオワン(台南・安平)のノイツは平蔵の動きに危機感を強め、帰国した先住民達を全員捕らえて贈り物を取り上げ監禁、浜田弥兵衛の船も渡航を禁止して武器を取り上げる措置に出た。この措置に弥兵衛は激しく抗議したが』、『それを拒否し続けるノイツに対し弥兵衛は、終に隙をついてノイツを組み伏せ』、『人質にとる実力行使に出た』。『驚いたオランダ東インド会社は弥兵衛らを包囲するも人質がいるため手が出せず、しばらく弥兵衛たちとオランダ東インド会社の睨み合いが続いた。しかしその後の交渉で互いに』五人ずつ、人質を出し合い、『互いの船に乗せて長崎に行き、長崎の港に着いたら』、『互いの人質を交換することで同意、一路』、『長崎に向けて船を出した。無事に長崎に着くと』、『オランダ側は日本の人質を解放、オランダ側の人質の返還を求めた。ところが、長崎で迎えた代官末次平蔵らは』、『そのままオランダ人達を拘束、大牢に監禁して平戸オランダ商館を閉鎖してしまう』。『この事態に対応したのはオランダ領東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン。クーンは状況把握のためバタヴィア装備主任ウィルレム・ヤンセンを特使として日本に派遣したが、平戸藩主松浦隆信と末次平蔵はヤンセンが』三代『将軍徳川家光に会うため江戸へ行くことを許さず、将軍家光の名を騙った返書を作成してヤンセンに渡した。その内容というのは主に、「先住民を捕らえ、日本人の帰国を妨害したことは遺憾である。代償としてタイオワンの熱蘭遮(ゼーランディア)城を明け渡すこと。受け入れれば将軍はポルトガルを憎んでいるのでオランダが貿易を独占できるように取り計らう」というものでヤンセンは将軍に会えないままバタヴィアにこの返書を持ち帰った』。『しかしヤンセンがバタヴィアに戻ると総督クーンは病死しており、彼を迎えたのは新なオランダ領東インド総督であり、かつて平戸オランダ商館で商館長(カピタン)を勤めていたヤックス・スペックスだった。長年日本で暮らし』、『日本と日本人を研究していたスペックスは、これが偽書であることをすぐさま見抜き』、『ヤンセンを再び日本に派遣した』。『以後の具体的な内容を記録するものは日本側に残されていない。長崎通詞貞方利右衛門がオランダ側に語ったのは「平蔵は近いうちに死ぬだろう。」というもので、末次平蔵はこの後、獄中で謎の死を遂げている。当時の日本は鎖国体制に入ろうと外国との揉め事を極力嫌っていたうえ、オランダ側の記録には将軍が閣老達に貿易に関わる事を禁じていたが閣老は平蔵に投資をして裏で利益を得ていたため切り捨てられたらしいことが噂されているなどの記述がある』。『オランダは「この事件は経験の浅いノイツの対応が原因であるためオランダ人を解放してさえくれれば良い」とし、ノイツを解雇』、『日本に人質として差し出した。日本側は、オランダ側から何らかの要求があることを危惧していたが、この対応に安堵し、これが後に鎖国体制を築いた時にオランダにのみ貿易を許す一因ともなった。なお、ノイツは』一六三二年(寛永九年)から一六三六年(寛永十三)年まで日本に抑留されている。寛永一三(一六三六)年のこと、『ニコラス・クーケバッケルの代理として参府したフランソワ・カロンは』、将軍家光との拝謁の際、『銅製の灯架を献上。家光はこれを非常に気に入って返礼として銀』三百『枚を贈った。この時、以前より平戸藩主からノイツの釈放に力を貸すよう頼まれていた老中の酒井忠勝がノイツの釈放を願うとすぐに許可された。カロンが献上した灯架(燈籠)は、その後日光東照宮に飾られ、今も同所に置かれている』。寛永九(一六三二)年に『閉鎖されていた平戸オランダ商館は再開』され、また、寛永一一(一六三四)年には『日本人が台湾に渡ることは正式に禁止され、その後は鄭氏政権』(一六六二年~一六八三年の期間、台湾に存在した政権。清への抵抗拠点を確保するために明の軍人政治家鄭成功(ていせいこう 一六二四年~一六六二年)が台湾を制圧すること形で成立した。清の攻撃によって滅亡するまで二十年強の間、台湾で初めて漢民族政権によって統治が行われた)が『誕生するまでネーデルラント(オランダ)が台湾を統治し』た。安永四(一七七五)年に『オランダ商館の医師として長崎に滞在したスウェーデン人のカール・ツンベルクは、その著書『日本紀行』の中で本事件について触れている』。『ツンベルクは日本人は自尊心が高く、西洋人の滑稽さや不正は忘れて許してくれるが、傲慢な軽蔑的態度は許しがたい罪を犯したとみなすと評したのち、本事件に関するケンペルの『日本誌』の記述を引いて、本事件は日本人商人に対するノイツの扱いが非常に酷かったため、日本君主および国民に対する甚だしい侮辱であると憤慨した侍臣たちによる復讐である、としている』。『日本人は正義の念』篤く、『自負心強く』、『勇敢な国民であるため』、『侮辱を加える者には容赦なく、また、普段は怒りや憎しみの情を表さず、侮辱に対して言い返して自分を慰めるようなことをしないが、憎厭の念を心中にため込み、機が至れば直ちに殺傷に至るような復讐に出ると注意を喚起している』、とある。

 

○文化十四年渡來阿蘭陀女人 平戸港灣圖 咬𠺕肥黑坊 阿蘭陀人 日傘をさしかく 長ぎせる ステツキ 黑服 黑帽 ぺルリ アハタムス像 芳幾の寫眞鏡大象 唐船 魯西亞船 紅毛フランカイの湊萬里鐘響圖浮き畫

[やぶちゃん注:「文化十四年」一八一七年。

「咬𠺕肥黑坊」「咬𠺕肥」は「じやがたら(ジャガタラ)」と読み、マレーのことであが、ここでは黒人であるから、色の浅黒い、南インド出身或いは「パンジャビ」(彼等は言語も宗教も異なるので厳密にはインド人ではない)と呼ばれる北インド地方から移入して来た人物かも知れない。

「ぺルリ」黒船で来日し、幕府に開国を迫った東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry 一七九四年~一八五八年)は嘉永六年六月三日(一八五三年七月八日)に浦賀に入港したが、六月九日(グレゴリオ暦七月十四日)に幕府が指定した久里浜へ廻り、護衛を引き連れ上陸、戸田氏栄と井戸弘道に大統領親書を手渡している。ペリーは長崎に上陸せず、考証も江戸へ向かっているわけだが、これについて、ペリーは日本開国任務が与えられる一年以上前の一八五一年一月に日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出しており、その最後に、『オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき』とあるのが、その主たる理由であった(以上は引用を含め、ウィキの「マシュー・ペリー」に拠った)。

「アハタムス」三浦按針(あんじん)の日本名で知られる徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士で貿易家のウィリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~元和六(一六二〇)のことか? 家康の没後は鎖国体制が強化されたため、存在自体が警戒され、不遇のうちに平戸で没している。この当時、彼の「像」が長崎にあったのだろうか?

「芳幾の寫眞鏡大象」落合芳幾(よしいく 天保四(一八三三)年~明治三七(一九〇四)年は浮世絵師。雅号、一惠斎。江戸浅草生まれ。十八歳で歌川国芳門下となる。これは文久元年一月のクレジットを持つゾウを描いた「寫眞鏡大象圖」という表題の絵である。現在、神戸市中央区山本通りにある「シュウエケ邸」(イギリスの建築家A・N・ハンセルによって明治二九(一八九六)年に設計・建造された邸宅)公式サイト内のの冒頭に掲げられてある絵である。

「紅毛フランカイの湊萬里鐘響圖浮き畫」浮世絵師で歌川派の祖である歌川豊春(享保二〇(一七三五)年~文化一一(一八一四)年)が描いた「浮繪 紅毛フランカイノ湊萬里鐘響圖」のこと。ウィキの「歌川豊春で原図画像を見られる(パブリック・ドメインなので下にも掲げておいた)。

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 さて、この絵については、岡野
Heinrich 圭氏の「西洋都市景観図」(PDFでダウンロード可能)に、『「浮絵紅毛フランカイノ湊萬里鐘響図」永寿堂西村屋極印(1784? Köln, Museum für Ostasiatische Kunst, Inv. Nr.10, 73. 』『リッカー美術館『平木浮世』『絵財団』『東京1975,Taf.13』と詳細データが載り、以下の解説が載る(コンマを読点に代えた)。

   《引用開始》

 透視遠近法を用いて奥行きを表現するという、当時の日本では新しく珍しい手法、この手法による画は「浮絵(うきえ)」と称され、18世紀前半の浮世絵師奥村政信(没1764)が始めて試みて以来、江戸っ子のみならず日本中で珍奇がられ好評だった。「浮世絵類考」(1790/1800/1802/1813―30)に「近来うき画をにしき絵にして書出せり。宝暦の比(ころ)のうき絵に勝れり」(参考:鈴木重三:浮絵の展開と変貌、於:浮絵、東京1975p.記載なし)と評価されたのが18世紀後半の浮世絵師歌川豊春(没1814)だ。豊春は浮世絵の歌川派の祖で、この豊春が、ヴェネツィアを,「フランカイ」とデタラメに銘打って、浮世絵の「浮絵(うきえ)」に描き出して見せたのがこの西洋都市景観図だ。この「フランカイの湊」は、豊春の浮絵の代表作に属する。

 [やぶちゃん注:一部略。]遠近法の、奇妙なる不徹底さ未熟さは、鎖国下の、日本人浮世絵師たる豊春が描いたとすれば、納得が行く。

 帯の如く奇妙な雲は、「豊春雲」と呼ばれて、当時は評判だったという。ということは,せっかく透視遠近法で捉えられた3次元的奥行き感を阻害する「豊春雲」などという代物も,当時の日本人の目には何ら目障りでは無かったということになる。現代の日本人の目にも「豊春雲」はさほど支障にならぬ。ということは,日本人なる人種は,かなりユニークな「視」Sehen を持っているということになるのだろうか。

 

 ところで,時は鎖国時代。場所は江戸。その状況下で、全く見ず知らずのヴェネツィアを、かく正確無比に描き出し得たのは何故か?

 勿論カナレットの油彩画が[やぶちゃん注:ダウンロードして原論文の引用の前を読まれたい。]、当時の長崎に持込まれたことはあり得ない。

 となれば、ヴィセンティーニの銅版画こそが、長崎に舶載され、それが、江戸の浮世絵師豊春の絵心を痛く刺激して、この浮絵「浮絵紅毛フランカイノ湊萬里鐘響図」を描かせたと推理するより他ない。

 豊春も、佐久間象山とか坂本竜馬とか当時の精神的エリートたちと同様に、「異国をば誰でも見てえずらい」とか「異国をば見たいがぜよ」などと心に叫んでいたと思うと愉快ではある。

 しかし私は、豊春の原画となったであろう「ヴィセンティーニ」を、長崎でも東京でも未だ発見できていない。

   《引用終了》]

 

《4-18》

○天學初函 畸人 西學風 辯學遺牘 幾何原本 天學原本 天文畧 代疑篇 三山論學記 唐景教碑附 天主實義 職方外記 同文算指 圏客較義 勾股義 計閑 十慰 交友論 七克 萬物旨原 彌撒祭義 泰西水法 袁度説 教要解畧 聖記百言 二十五言 靈言蠡句 况義 渾蓋通憲門記 明量法義 筒平儀説記 滌平義記 合掌論 滌罪正記 福建通志 圯緯 闢邪集 囊有話 以上三十八部御國禁耶蘇書目

[やぶちゃん注:「天學初函」「東方書店」公式サイトの同書の解説によれば、明万末期の官僚で、徐光啓(一五六二年~一六三三年:暦数学者でキリスト教徒としても知られる)とともにマテオ・リッチ(マテオ・リッチ(Matteo Ricci 一五五二年~一六一〇年:イタリア人イエズス会員でカトリック教会司祭。中国名、利瑪竇(りまとう)。明朝宮廷に於いて活躍した。現地で亡くなり、北京に葬られ、そこが北京で死亡した宣教師の墓地となった)などイエズス会宣教師と親しく、受洗してキリスト教徒となり、ヨーロッパの科学を広く中国に紹介した科学者李之藻(一五六五年~一六三〇年)が中心となって一六二八年に編纂した神学及び科学叢書。「理編」と「器編」に分けられており、マテオ・リッチ、ジュリオ・アレニ(Giulio Aleni 一五八二年~一六四九年:明末の中国で宣教活動を行った、イタリア出身のイエズス会の宣教師)などの宣教師及び徐光啓や李之藻自身の著述・訳書二十点を収録する。「理編」に収録された「西学凡」・「唐景教碑附」・「畸人十篇」・「交友論」「二十五言」・「天学実義」・「辯学遺牘(べんがくいとく)」「七克(しちこく)」・「霊言蠡勺(れいげんれいしゃく)」・「職方外紀」は、いずれも天主教教義を探究する神学著述であり、「器編」に収録された「泰西水法」・「渾蓋通憲図説(こんがいつうけんずせつ)」・「幾何原本」・「表度説」・「天問略」・「簡平儀」・「同文算指前編通編」・「圜容較義(えんようきぎ)」・「測量法義」・「勾股義(こうこぎ)」は水利学・天文学・数学などの専門書であり、「中国天主教第一部叢書」としてその史料価値が高く評価されている、とある。下線の書は上の「三十八部御國禁耶蘇書目」に含まれている。

「畸人」前記「天學初函」の「畸人十篇」と同書であろう。

「西學風」前記「天學初函」の「西学凡」の誤記であろう。前記ジュリオ・アレニが書いた西洋学術紹介書。

「天學原本」不詳。

「代疑篇」楊廷筠編の漢訳神学書と思われる。早稲田大学図書館 「古典籍総合データベース」で原本を視認出来る。

「三山論學記」前記のジュリオ・アレニと明の政府高官との問答記録。キリスト教の立場から理気の説や仏教を批判したもの。

「天主實義」前記「天學初函」の「天學實義」の誤記であろう。

「職方外記」前記「天學初函」の「職方外紀」と同書(誤記?)であろう。

「同文算指」前記「天學初函」の「同文算指前編通編」(算法書)と同書であろう。

「圏客較義」前記「天學初函」の「圜容較義」(天文書)の誤記であろう。

「計閑」不詳。

「十慰」不詳。

「萬物旨原」前記ジュリオ・アレニが一六二八年に刊行した問答形式のキリスト教理論書。

「彌撒祭義」同じくジュリオ・アレニ一六二九年に刊行した神学書。

「袁度説」前記「天學初函」の「表度説」と同書(誤記?)であろう。

「教要解畧」王豊肅著の神学書。

「聖記百言」羅雅谷・徳肋撤による漢訳神学書と思われる。

「靈言蠡句」前記「天學初函」の「霊言蠡勺」の誤記であろう。

「况義」「イソップ物語」の漢訳本。

「渾蓋通憲門記」前記「天學初函」の「渾蓋通憲図説」と同書(誤記?)であろう。

「明量法義」前記「天學初函」の「測量法義」と同書であろう。

「筒平儀説記」前記「天學初函」の「簡平儀」と同書(誤記?)か。

「滌平義記」不詳。

「合掌論」不詳。

「滌罪正記」不詳。

「福建通志」明・清代の福建省の地方誌。

「圯緯」不詳。「いい」或いは「しい」と読むか。

「闢邪集」これは浄土宗学僧杞憂道人による「翻刻闢邪集」であろう。これは明末にマテオ・リッチを始めとするカトリック布教に対抗した明・清代の儒教・仏教側からの論駁書の翻刻集である。小林志保・栗山義久氏共著「排耶書『護国新論』、『耶蘇教の無道理』にみる真宗本願寺派の排耶運動に拠った。

「囊有話」不詳。以上、「不祥」と注した作品について何か御存じの方は、是非、御教授下さると、ありがたい。]

 

○和蘭名醫シイボルト(神農的 鵞ペン

[やぶちゃん注:「神農的」というのは面白い。可食か有毒かを実際に齧って確かめたフィールド派ということか。]

福日図書館   梅崎春生

 

 マメ本という家禁の書を借りてきたのはいいが、それを家の中で読むのは格別の技術を要した。おふくろに見つかってはまずい。

 だから近くの師範学校の運動場に行き土手に腰をおろして読んだり、一度などは家の屋根に登って読みふけったことさえある。かくれて読む関係上読み方にスピードが出て、たいてい一冊を一時間か一時間半で読み上げてしまう。

 作家の倉島竹二郎さんの話によると、かれはこどものときおやじの目を盗んで夜鳴きウドンの味を覚えたそうだ。かくれて食べるのだから大急ぎで食べ、大急ぎで家に戻らねばならない。

「だからどんな熱いウドンでも、他の人なら五分ぐらいかかるところを、ぼくなら一分間でつるつる食べてしまいますよ」

 と倉島さんはいばっていた。

 必要は発明の母というが、早く食べたり読んだりできるのも、その必要があったからである。わたしはいまでも読むのは早い。

 運動場や屋根の上なら見つかるおそれはないが、雨が降ると行くわけにはいかない。家の中でしか読めない。そこで勉強するふりをして、教科書だのノートだのをひろげ、あるいはそれを盾(たて)にしてこつそり読みふける。足音がするとぱっと机の下にかくして教科書に目をそそぐ。

 後年津屋崎療養所でかくれてたばこをのむとき、以前にも同じ経験があったような気がしたが、考えてみるとこのマメ本の盗み読みだったのである。

 ある日不覚にもとうとう見つかってしまった。おふくろが足音を忍ばせてやってきたので気がつかなかったのだ。

 さっそくこっぴどくしかられ、マメ本はすぐ返すようにと厳命された。

 この件についておふくろはおやじと相談したらしい。二三日たっておやじはわたしを呼び、名刺を渡して言った。

「これを持って福日のナニナニさんのとこに行け。本を貸してくれるように頼んでおいたから」

 福日は西日本新聞の前身である。わたしは学校が終ると、その名刺を持ってとことこと福日に出かけた。

 福日の社屋はいまの福岡市渡辺通りではなく、当時は橋口町の川っぷちにあった。木造三階の古風な建物で、受付けでその名刺を渡すと、やがてナニナニさんが出てきた。応接室みたいな部屋に連れて行かれ、そこで紅茶をごちそうになった。紅茶を飲んでいるうちに、ナニナニさんは分厚い童話本を三冊かかえて応接間に戻ってきた。「譚海」やマメ本にくらべてはるかに厚くて読みでがありそうで、わたしは胸がおどった。わたしはナニナニさんにお礼を言い本をかかえて外に出た。三冊のうち一冊はアラビアンナイトだった。

 ナニナニさんの名前はいま思い出そうとしても、どうしても思い出せない。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第四十六回目の昭和三六(一九六一)年二月十八日附『西日本新聞』掲載分。前日の豆本で直連関。

「近くの師範学校」簀子町の西北直近(旧簀子小学校前から一キロ圏内)にあった福岡県福岡師範学校。現在の福岡市中央区西公園及び福岡教育大学附属福岡小学校・中学校所在地に相当する。

・「倉島竹二郎」(明治三五(一九〇二)年~昭和六一(一九八六)年)は作家で囲碁将棋観戦記者。京都府京都市生まれ。昭和四(一九二九)年、慶應義塾大学文学部国文科卒。『三田文学』に作品を発表。昭和一〇(一九三五)年に東京日日新聞社(のちの毎日新聞社)入社して記者として囲碁将棋の観戦記者となった。昭和一三(一九三八)年応召。昭和一八(一九四三)年に退社し、終戦後に作家生活に入ったが、毎日新聞社の要請で再度、観戦記者となっている。将棋六段・囲碁五段の腕前で、著作も将棋関連が多い。梅崎春生より十三歳年上(以上はウィキの「倉島竹二郎」に拠った)。

「津屋崎療養所」現在の福岡県福津市渡(わたり)にある北九州津屋崎病院。大正二(一九一三)年に九州初のサナトリウムとして開設された私立療養所で、当時の名称は肺結核診療施設「津屋崎療養院」が正式か。気になるのは場所が実家や春生が出た福岡県中学修猷館からも遙かに遠いことである(修猷館からでも東北に直線で二十四キロも離れる)。何故、ここなのだろう? 識者の御教授を乞う。

「福日は西日本新聞の前身である」『西日本新聞』は、まさにこの「南風北風」を連載していた新聞(社)である。ウィキの「西日本新聞社」によれば、明治一三(一八八〇)年に、さらにこの前身であった『筑紫新聞』と『筑紫新報』が合併して『福岡日日新聞』と改め、福岡橋口町(後注参照)に福岡日日新聞社(社長・諏訪楯本:彼は実業家団琢磨の実兄)を設立して日刊紙として自社印刷を開始、大正一五(一九二六)年三月に福岡日日新聞社は現西日本新聞社本社所在地(後注参照)に移転したとある。

「福岡市渡辺通り」現在の行政地名は福岡市中央区天神一丁目。旧簀子小学校からは直線で一・七キロほど。

「橋口町」那珂川沿いの、現在の同新聞社社屋の北直近の中央区天神四丁目、西中島橋附近。]

Animalia, Arthropoda, Insecta, Hemiptera, Homoptera, Cicadoidea, Cicadidae, Cicadinae, Cicadini, Tanna, Tanna japonensis Distant, 1892 …… Wachet auf, ruft uns die Stimme BWV 140 ――

2016/08/05

マメ本   梅崎春生

 

 マメ本というのは、そのころ流行した立川文庫ふうの小型本である。わたしたちが読んだのは、ほんものの立川文庫ではなく、九州で発行された亜流本だったかもしれない。後年ほんものの立川文庫を見たとき、どうもこどものとき読んだのと感じが違うという印象を受けた覚えがある。

 小型で紙質も悪かったから定価も安かった。内容は立川文庫に準じて、「真田十勇士」だの「岩見重太郎」だのいろいろ。みなやたらにおもしろかった。先生や家庭で禁じるから、なおのことおもしろく感じられたのだ。大人にやっていけないといわれると、こどもはかえってそれをやりたがるものだ。そして冒険心を満足させる。

 なぜマメ本が禁止されていたかというと、外観が貧弱であったこと、文章が講談口調でところどころエロな描写がなきにしもあらずといった点、つまり卑俗な読み物だったという理由からだろうが、あるいはあまりおもしろくてこどもが夢中になり、学業をおろそかにするという理由もあったのかもしれぬ。

 でもあれは、いま思うとさしたる実害はなかったように思う。ひとしきり読みふけると、あとはあきて卒業するといったていどのしろもので、ありふれた超人(スーパーマン)物語である。こどもは自分なりの欲求不満から自然に超人物語を愛好するもので、いまのこどもがテレビのポパイやスーパーマンを見たがるのと同じ心理である。

 わたしたちはそれを猿飛佐助や水戸黄門の中に見出したのであって、印を結ぶと姿がぱっと消えうせたり、

「予は天下の副将軍なるぞ!」

 と大喝すると悪代官一味がへへっと平伏する。それがたいへんな魅力であった。

 しかしこどもは利口だから自分の夢と現実の差はわきまえていて、忍術のまねをして印を結んで遊ぶけれども、自分の姿は消えないということはちゃんと知っていた。いまのこどもだってそうだろう。スーパーマンのまねをして、屋根の上から飛び出して落っこちて大けがをするということも、ときたまあるかもしれないが、大部分のこどもは別段の害を受けず卒業して、健全な大人の生活に入っていくのである。

 日米未来戦のようなこどもの好戦欲をそそる少年小説よりも、このほうがたあいないおもしろさがあり、かつ結末は勧善懲悪の形になっているのだから、やみくもに禁止すべきではなかったと思う。

 福岡市の簀子(すのこ)町の電車通りに同級生がいて、この手の本をたくさん所蔵していた。わたしは学校の帰りがけにその子の家に行き、一冊ずつ借りて家に戻ってくる。家庭でも禁止しているから、おおっぴらには持って帰れない。隠して持ち帰る。幸いなことにはあの本は小型にできていて隠しやすい。読みやすいために小型にしたのだとこのごろ立川文庫の作者が語っていたが、隠しやすい本でもあった。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第四十五回目の昭和三六(一九六一)年二月十七日附『西日本新聞』掲載分。前回の最後が予告になっている。

「立川文庫」「たつかわぶんこ」と読む。立川(たつかわ)文明堂(大阪市東区博労町。後に南区安堂寺橋通へ移転)が明治四四(一九一一)年から大正一三(一九二四)年にかけて百九十六篇を刊行した「書き講談」による文庫本シリーズ。当時の小学生から商店員らに爆発的なブームを呼んだ。「真田幸村」「猿飛佐助」「霧隠才蔵」等で知られる。装丁は当時刊行されていた小型本叢書の袖珍文庫(三教書院)を模倣し、四六版半裁のクロス装で縦十二・五、横九センチメートルで、標記の定価は一部二十五~三十銭ほどであったが、実際の販価は十銭前後、仕入値は六~七銭だったという。古本に三銭を添えれば新本と交換するという販売法も取り入れて小・中学生を中心に大流行した。詳しくは参照したウィキの「立川文庫」をご覧あれ。]

2016/08/04

芥川龍之介 手帳4-14・15

《4-14》

“Nosta Señora de L’Antigua”

[やぶちゃん注:「ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アンティグア」で、スペイン語で「ラ・アンティグアの聖母」の意。ラ・アンティグア(La Antigua:レオン語(スペインのカスティーリャ・イ・レオン州レオン県とサモーラ県の一部で話されているラテン語から派生したロマンス語の一つ):L'Antiguaは現在のスペインのカスティーリャ・イ・レオン州レオン県エル・パラモ地域の自治体名ではある。調べた限りでは、「海の聖母」の謂いらしい。]

 

Bishop(司教)は普通高座の下 But 遺言して舊信者を發見せし所に葬る 今傍に石碑を立つ(55) 今白蟻あり 早晩改造すべしと云ふ

[やぶちゃん注:先に注した大浦天主堂内に埋葬された、大浦天主堂で「隠れキリシタン」を発見した日本代牧区司教ベルナール・プティジャンについてのメモと思われる。]

 

〇一天泰平富民悦樂 邪法盡滅正法流布

[やぶちゃん注:これは恐らく、切支丹撲滅のために働いた日蓮宗のキャッチ・フレーズかと思われる。]

 

《4-15》

Les quarante neuf bienheureux martyrs

[やぶちゃん注:フランス語で「四十人の新たに祝福されたる殉教者」。これは東ローマ帝国に於ける、現在のアルメニア地方のセバステという町のセバステ湖でなされた皇帝チリニウスの禁教迫害による「セバステの四十聖人殉教者」(Sts. 40 Martyres de Sebaste)のことか?]

 

慶長元年二月五日長崎立山に於て日本二十六聖人殉教ノ圖 元和八年九月十日――司祭二十五名 信者三十名 べネヂクトⅩⅤ(現教主) 白と赤(Carpet) 椅子――赤ぶちの白 黑檀に象牙の Christ 簾下る

[やぶちゃん注:「慶長元年二月五日長崎立山に於て日本二十六聖人殉教ノ圖」は「日本二十六聖人殉教」のメモ。慶長元年十二月十九日(一五九七年二月五日)に、豊臣秀吉の命令によって二十六人のカトリック信者が長崎で磔(はりつけ)の刑に処された事件。ウィキの「日本二十六聖人によれば、『日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった』。『当時は、キリシタン大名やキリシタン(信者)によって寺社が焼き払われ』たり、『僧侶が迫害されてしまったり、逆に仏教を厚く信仰する大名の元ではキリシタンが迫害されてしまう事件が相次いでいた。さらにポルトガル商人によって日本人が奴隷として海外に売られている事例が発覚し、ここに至って豊臣秀吉はバテレン追放令を発布した。ただし、秀吉は南蛮貿易の実利を重視していたため、この時点では大規模な迫害は行われなかった。黙認という形ではあったが宣教師たちは日本で活動を続けることができたし、キリシタンとなった日本人が公に棄教を迫られる事はなかった』。しかし、慶長元(一五九六)年十月に起ったサン=フェリペ号の土佐への遭難漂着事故を契機として、秀吉は同年十二月八日に『再び禁教令を公布した。また、イエズス会の後に来日したフランシスコ会の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して磔の刑に処するよう命じた。ちなみに、二十六聖人のうちフランシスコ会会員とされているのは、スペインのアルカンタラのペテロが改革を起こした「アルカンタラ派」の会員達であった。大坂と京都でフランシスコ会員』七名と信徒十四名、イエズス会関係者三名の合計二十四名が『捕縛された。三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を除外しようとしたが、果たせなかった』。二十四名は『京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて(秀吉の命令では耳と鼻を削ぐように言われていた)、市中引き回しとなった』。西暦一五九七年一月十日には『長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大坂を出発、歩いて長崎へ向かうことになった。また、道中でイエズス会員の世話をするよう依頼され』て『付き添っていたペトロ助四郎と、同じようにフランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコも捕縛された。二人はキリスト教徒として、己の信仰のために命を捧げることを拒絶しなかった』。『厳冬期の旅を終えて長崎に到着した一行を見た責任者の寺沢半三郎(当時の長崎奉行であった寺沢広高の弟)は、一行の中にわずか』十二歳の『少年ルドビコ茨木がいるのを見て哀れに思い、「キリシタンの教えを棄てればお前の命を助けてやる」とルドビコに持ちかけたが、ルドビコは「(この世の)つかの間の命と(天国の)永遠の命を取り替えることはできない」と言い、毅然として寺沢の申し出を断った。ディエゴ喜斎と五島のヨハネは、告解を聴くためにやってきたイエズス会員フランシスコ・パシオ神父の前で誓願を立て、イエズス会入会を許可された』。二十六人が『通常の刑場でなく、長崎の西坂の丘の上で処刑されることが決まると、一行はそこへ連行された(一行は、キリストが処刑されたゴルゴタの丘に似ているという理由から、西坂の丘を処刑の場として望んだという)。処刑当日の』二月五日、『長崎市内では混乱を避けるために外出禁止令が出されていたにも関わらず』、四千人を『超える群衆が西坂の丘に集まってきていた。パウロ三木は死を目前にして、十字架の上から群衆に向かって自らの信仰の正しさを語った。群衆が見守る中、一行が槍で両脇を刺し貫かれて絶命したのは』午前十時頃であった。『処刑終了後、彼らの遺骸は多くの人々の手で分けられ、日本で最初の殉教者の遺骸として世界各地に送られて崇敬を受けた。これはローマ・カトリック教会において、殉教者の遺骸や遺物(聖遺物)を尊ぶ伝統があったためである。日本二十六聖人は近世においては、日本よりもヨーロッパにおいてよく知られていたが、それはルイス・フロイスなどの宣教師たちの報告書によるところが大きい』。彼等は一八六二年(文久二年)六月八日、ローマ教皇ピウス九世によって『列聖され、聖人の列に加えられ』、昭和三七(一九六二)年には、列聖百年を『記念して西坂の丘に日本二十六聖人記念館(今井兼次の設計)と彫刻家の舟越保武による記念碑が建てられた』。二十六人の内、日本人は二十名、スペイン人四名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ一名であり、すべて男性であった、とある。

「元和八年九月十日――司祭二十五名 信者三十名」西暦一六二二年。月日は新暦で旧暦では八月五日。これは「日本二十六聖人殉教」の後の、「元和(げんな)の大殉教」のメモ。ウィキの「元和の大殉教によれば、元和八年八月五日(一六二二年九月十日)に『長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒』五十五名が『火刑と斬首によって処刑された事件である。日本のキリシタン迫害の歴史の中でも最も多くの信徒が同時に処刑された。この事件後、幕府による弾圧はさらに強化されていく。また、オランダ商館員やイエズス会宣教師によって詳細が海外に伝えられたため』、「二十六聖人の殉教」と並んで、『日本の歴史の中で最もよく知られた殉教事件の1つとなっている』。『徳川幕府は豊臣秀吉の禁教令を引き継いでキリスト教を禁止し、司祭や修道士、同宿(伝道士)を捕らえては牢に入れていた。死亡者のうち』、三十三名は『大村領鈴田(大村市)、他の者は長崎(長崎市)の牢獄に数年間つながれていたが、全員の処刑命令が出たことを受け、浦上を経由して西坂に連行され、そこで処刑されることになった』。『処刑されたのは神父や修道士、老若男女の信徒であった。女性や幼い子供が多いのは、宣教師をかくまった信徒の一家全員を処刑したからであった』。『その内訳は、火刑された者が』二十五名で、『その中にはイエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の司祭』九人と『修道士数名が含まれていた。イエズス会員カルロ・スピノラ神父もそのうちの1人であり、彼は数学と科学に精通し』、慶長一七(一六一二)年に『長崎で日本初の月食の科学的観察を行って緯度を測定したことで知られている。また、残る』三十人は斬首に処せられた。『斬首された者の中には、日本人だけでなくスピノラをかくまったことで逮捕・処刑されていたポルトガル人ドミンゴス・ジョルジの夫人・イサベラと彼の忘れ形見である』四歳の『イグナシオもいた』。『なお、この処刑の様子を見ていた修道士で、かつてセミナリヨで西洋絵画を学んでいた者が様子をスケッチし、マカオで完成させた油絵がローマに送られた。これは「元和大殉教図」として知られ、イエズス会本部であったローマのジェズ教会に保管され、今に伝えられている』(リンク先に画像有り)。『この事件の後、迫害はさらに徹底され、弾圧は凄惨なものになっていく』。明治元(一八六八)年になって、ローマ教皇ピウス九世によって五十五人全員が列福されている、とある。

「べネヂクトⅩⅤ(現教主)」このメモをした当時のローマ教皇がベネディクトゥス(ベネディクト)十五世(ラテン語:Benedictus PP. XV 一八五四年~一九二二年:在位:一九一四年九月三日から一九二二年一月二十二日)だというのであるが、これはすこぶる不審である。何故なら、芥川龍之介は生涯に二度、長崎を訪問しているものの(最初は大正八(一九一九)年五月(四日出発で到着は五日、十一日に長崎を発っている)、二回目は大正一一(一九二二)年四月(二十五日出発であったが、京都で半月ほど遊び、五月十日までに長崎着、長崎を発ったのは五月二十九日で、この時は実に二十日近くも滞在している))、ここまでの詳細な記載から明らかにこれらは再訪時のメモであると思われるにも拘らず、だとすると、彼は既にローマ教皇ではなく、「現教主」はピウス十一世(Pius PP. XIであるからである。]

芥川龍之介 手帳4-13

《4-13》

François Solier : avis au Lecteur L’Histoire ecclésiastique des îsles et Royaumes du Japon

[やぶちゃん注:以上はフランス人のイエズス会司祭フランソワ・ソリエー(一五五八年~一六三八年)で、日本に於けるキリスト教布教と迫害の歴史を記した「日本教会史」Histoire ecclésiastique des îles et royaume du Japon 一六二七年)のこと(抹消部「avis au Lecteurフランス語で「序文」の意)。

 

○本蓮寺はChristian church Saint Johan Juans ヨハネ・バティスタなり(墓しらべこはし 文久 慶應) 故にその濱邊から墓石出る事あるべし

[やぶちゃん注:「本蓮寺」再度、注しておく。長崎県長崎市筑後町にある日蓮宗聖林山本蓮寺。本蓮寺公式サイト内の「寺院概要」の歴史によれば、『日本最初のキリシタン大名大村純忠は大村の藩主ですが』、『長崎のこの地にはじめサンラザロ病院(日本で最初のハンセン氏病の病院)が建てられ、それに続いて修道院ができ、サンジョアン・バウチスタ教会ができたのでした』。『純忠の子喜前は加藤清正公と親交があり、法華経の素晴らしさを知ることになります』。『大村領内を見直し、大村の地には本経寺を建て、本経寺の二代目本瑞院日恵上人は本蓮寺を建てるに至ります』。『キリシタンでいっぱいの長崎の布教には、清正公より拝領の兜をかぶり、身を守って活躍したと伝わります』とある。ウィキの「本蓮寺」によれば、天正一九(一五九一)年『来日したポルトガル船の船長ロケ・デ・メロ・ペレイラの寄附によってハンセン病患者のため聖ラザロ病院が建てられ、聖ジョアンバウチスタ教会も併設された』が、慶長一九(一六一四)年に『発布された禁教令により破却され、その後の』元和元(一六二〇)年、『発星院日真の弟子日恵が長崎に来て』、『跡地に一宇を建立』。正保五(一六四八)年(年)、『江戸幕府より朱印状を下付される』。なお、安政二(一八五五)年から四年の間、『長崎海軍伝習所で伝習生頭役を務めた勝海舟が』この寺に『寓居し』てもいる。原爆投下により、全山焼失したが、昭和二九(一九五四)年に再建されている、とある。Saint ヨハネ・バティスタ」の綴りはポルトガル語ならば“São João Baptista”である。

「文久 慶應」「文久」は西暦一八六一年から一八六四年までで、次に元治を挟んで、「慶応」が一八六五年から一八六八年まで。]

 

○トウドのサンタの寺院 師範學校 後の山を唐渡山と云ふ あて字

[やぶちゃん注:これは長崎で最初に建てられた教会「トードス・オス・サントス教会」(現存せず)のことをメモしたものである。現在の長崎市夫婦川町のその跡には臨済宗華嶽山春徳寺が建っている。「長崎県文化振興課」の公式サイト「旅する長崎学」の「ながさき歴史散歩」内の10回 鐘の音が鳴り響く教会ストリートに以下のようにある。十六世紀中頃の『長崎は、日本初のキリシタン大名大村純忠の領地でした。家臣長崎甚左衛門純景が、唐渡山(とうどさん)と呼ばれる裏山にお城を構え、小さな村落があるにすぎませんでした。甚左衛門は、純忠の重臣で、純忠の一字をもらって純景と名乗り、純忠の娘を妻にし、純忠と一緒にキリスト教の洗礼を受けています。この長崎に最初の教会が建ったのは』永禄一二(一五六九)年のことで、『宣教師のヴィレラが甚左衛門から住居として与えられた廃寺をリフォームしたものでした。これが、トードス・オス・サントス教会』(Todos os Santos:ポルトガル語で「諸聖人に捧げられた教会」の意)『で、今は春徳寺となっているこの場所にあったとされます。裏の山を"トードサン(唐渡山)"と呼ぶのは教会の名残だともいわれているんですよ。その後、この場所には、キリシタン学校であるセミナリヨやコレジヨ』(ポルトガル語由来で孰れも神学校のことで、後者は本邦の切支丹が主導したものに冠されたようである)『も移ってきました』。『現在、この春徳寺の庭では、教会時代の遺構として残る生活に欠かせない切支丹井戸と出土した大理石を見ることができます。蓋を開けて中を覗かせてもらいました。徳川幕府の禁教令で破壊されても、奇跡的に残った白い大理石。祈りを捧げた祭壇用なのか、はたまたパンをこねるための調理用なのかはっきりしたことはわかりませんが、教会があった時代の面影を感じることができる貴重なものです』とある。「師範學校」は不審。調べたが、長崎師範学校はこの時期には、この近くにはない。]

 

○私のカナリアよ ありねの銅版 白と茶 文久三年 空色ノニツチ 聖マリア 火花 靑葉 蠟燭 慶應元年3月17日○フロチザン脆いてありしに浦上の女三四人來りて云ふ Where is Maria? 教ふ 子抱けりと女云ふ 舊徒發見

[やぶちゃん注:興味惹かれる不思議な語句の羅列であるが、判るものが少ない。識者の御教授を乞う。

「文久三年」一八六三年。この年、長崎の外国人居留地の埋立工事が完成し、かのグラバー邸が建っている。

「ニツチ」「ニッチ」ならば、西洋建築に於いて厚みのある壁を抉って作った窪み部分、壁龕(へきがん)の意である。彫像や花瓶などを置く。

「慶應元年3月17日」厳密には元治二年(同年四月七日「慶応」に改元)で、グレゴリオ暦では一八六五年であるが、この日付は既に新暦のものである(次注の引用の「信徒発見」を参照)。

「フロチザン」フランス出身のカトリック宣教師ベルナール・プティジャン(Bernard-Thadée Petitjean 一八二九年~一八八四年)のこと。ウィキの「ベルナール・プティジャンによれば、『パリ外国宣教会会員として幕末の日本を訪れ、後半生を日本の布教にささげた』。『大浦天主堂での「隠れキリシタンの発見」(信徒発見)の歴史的瞬間に立ち会ったことで』知られる。『フランス生まれのプティジャンは』、一八五四年に『司祭に叙階され』、一八五九年に『パリ外国宣教会に入会し、日本への布教を志した。当時の日本は、外国人の入国が困難であったため、とりあえず琉球に渡り、那覇で日本語と日本文化を学んだ』。文久二(一八六二)年、『ついに横浜に上陸することができ、翌年長崎に渡った。任務は大浦の居留地に住むフランス人の司牧ということであった。後にプティジャンは日仏通商条約にもとづいて長崎の西坂(日本二十六聖人の殉教地)を見ることができる丘の上に居留地に住むフランス人のために教会を建築する許可を得た。こうして建てられたのが大浦天主堂である』。『プティジャン神父は』明治元(一八六八)年には『日本代牧区司教に任命され』明治六(一八七三)年に『キリシタン禁制が解かれると、長崎を拠点にキリスト教布教や日本人信徒組織の整備と日本人司祭の養成、教理書や各種出版物の日本語訳などに力を注ぎ、明治一七(一八八四)年に『大浦で死去し、大浦天主堂内に埋葬された』。以下、「信徒発見」の項。『大浦天主堂は当時珍しい洋風建築だったので評判になり、近くに住む日本人は『フランス寺』『南蛮寺』と呼び』、『見物に訪れた。プティジャンは訪れる日本人に教会を開放し、自由に見学することを許していた』。『プティジャンが本来居留フランス人のために建てられた天主堂を、興味本位で訪れる日本人に対して解放し』、『見学を許していたのには理由があった。長崎がキリスト教殉教者の土地であることから、未だ信徒が潜んでいるのではないか、もしかすると訪れて来る日本人の中に信者がいるのではないかというわずかながらの期待があったからである』。はたして一八六五年三月十七日(旧暦元治二年二月二十日)の『午後、プティジャンが庭の手入れをしていると、やってきた』十五人ほどの『男女が教会の扉の開け方がわからず難儀していた。彼が扉を開いて中に招き入れると、一行は内部を見て回っていた。プティジャンが祭壇の前で祈っていると、一行の一人で杉本ゆりと名乗る中年の女性が彼のもとに近づき、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」「サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいた。浦上から来た彼らこそ』三百年『近くの間、死の危険を犯してまでキリスト教の信仰を守っていた隠れキリシタンといわれる人々であった。プティジャンは驚き喜んだ』。『プティジャンはこの仔細をヨーロッパへ書き送り、大きなニュースとなった。以後、続々と長崎各地で自分たちもキリシタンであるという人々が名乗り出てきた。プティジャンは見学を装って訪れる日本人信者に対し、秘密裏にミサや指導を行う。しかし堂々とキリスト教の信者であることを表明する者が現れたため、江戸幕府やキリスト教禁教政策を引き継いだ明治政府から迫害や弾圧を受けることに』もなった。以下はウィキの「浦上四番崩れからの引用。しかし、この二「信徒発見」から二年後の慶応三(一八六七)年に『浦上村の信徒たちが仏式の葬儀を拒否したことで信徒の存在が明るみに出た。この件は庄屋によって長崎奉行に届けられた。信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らははっきりとキリスト教信仰を表明したが、逆に戸惑った長崎奉行はいったん彼らを村に返した。その後、長崎奉行の報告を受けた幕府は密偵に命じて浦上の信徒組織を調査し』、七月十四日(旧暦六月十三日)の『深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら』六十八人が『一斉に捕縛された。捕縛される際、信徒たちはひざまずいて両手を出し、「縄をかけて下さい」と述べたため、抵抗を予想していた捕手側も、信徒側の落ち着き様に怯んだと伝えられている。捕縛された信徒たちは激しい拷問を受けた』。『翌日、事件を聞いたプロイセン公使とフランス領事、さらにポルトガル公使、アメリカ公使も長崎奉行に対し、人道に外れる行いであると即座に抗議を行った』。九月(旧暦八月)には『正式な抗議を申し入れたフランス公使レオン・ロッシュと将軍徳川慶喜が大坂城で面会し、事件についての話し合いが行われ』ている。江戸幕府が瓦解すると、一八六八年三月七日(慶応四年二月十四日)、『参与であった澤宣嘉が長崎裁判所総督兼任を命じられ、外国事務係となった井上馨と共に長崎に着任』四月七日(旧暦三月十五日)に『示された「五榜の掲示」の』第三条で『再びキリスト教の禁止が確認されると、沢と井上は問題となっていた浦上の信徒たちを呼び出して説得したが、彼らには改宗の意思がないことがわかった。沢と井上から「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」という厳罰の提案を受けた政府では』五月十七日(旧暦四月二十五日)に『大阪で御前会議を開いてこれを討議、諸外国公使からの抗議が行われている現状を考慮するよう外交担当の小松清廉が主張』、『「信徒の流罪」が決定した。この決定に対し、翌日の外国公使との交渉の席でさらに激しい抗議が行われ、英国公使パークスらと大隈重信ら政府代表者たちは』六時間にも『わたって浦上の信徒問題を議論することになった』。しかし六月七日(旧暦閏四月十七日)、『太政官達が示され、捕縛された信徒の流罪が示された』。七月九日(旧暦五月二十日)、『木戸孝允が長崎を訪れて処分を協議し、信徒の中心人物』百十四名を『津和野、萩、福山へ移送することを決定した。以降』、明治三(一八七〇)年まで『続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなどその過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であった。浦上地区の管理藩である福岡藩にキリシタンは移送され、収容所となった源光院では亡くなったキリシタンの亡霊がさまよっているともいわれた』。『各国公使は事の次第を本国に告げ、日本政府に繰り返し抗議を行なった。さらに翌年、岩倉具視以下岩倉使節団一行が、訪問先のアメリカ大統領ユリシーズ・S・グラント、イギリス女王ヴィクトリア、デンマーク王クリスチャン9世らに、禁教政策を激しく非難され、明治政府のキリスト教弾圧が不平等条約改正の最大のネックであることを思い知らされることになった。欧米各国では新聞がこぞってこの悪辣な暴挙を非難し、世論も硬化していたため、当時の駐米少弁務使森有礼は『日本宗教自由論』を著して禁教政策の継続の難しさを訴え、西本願寺僧侶島地黙雷らもこれにならった。しかし、かつて尊皇攘夷運動の活動家であった政府内の保守派は「神道が国教である(神道国教化)以上、異国の宗教を排除するのは当然である」、「キリスト教を解禁してもただちに欧米が条約改正には応じるとは思えない」とキリスト教への反発を隠さず、禁教令撤廃に強硬に反対し、また長年キリスト教を「邪宗門」と信じてきた一般民衆の間からもキリスト教への恐怖から解禁に反対する声が上がったため、日本政府は一切解禁しようとしなかった。なお、仏教界には廃仏毀釈などで神道、およびその庇護者である明治政府との関係が悪化していたため、「共通の敵」であるキリスト教への敵対心を利用して関係を改善しようという動きも存在していた』。明治六(一八七三)年二月二十四日、『日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放した』が、配流された者の数は実に三千三百九十四名、うち六百六十二名が命を落としていた。『生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし』、明治一二(一八七九)年に『故地・浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てた』のであった。『浦上天主堂の境内の一角には、山口県萩市に配流された信徒らが正座させられ、棄教を迫られた「拷問石」が置かれている。花崗岩の庭の飛び石で、十字架が刻まれている。獄舎では、拷問石の上に太めの茎で編んだ葦簀(よしず)を敷き、全員がその上に座らせられ拷問、説諭を受けた』。『その中でも苛烈を極めたのが』、二十二歳の『女性・岩永ツルへの拷問であった。彼女は腰巻き1枚の裸にされ、冬の寒い風の吹く中、震えながら石の上に正座させられた。夜になると裸のまま牢に帰され、昼にはまた石の上に正座させられた。1週間目には身体が埋もれるほどの大雪となったが雪の中に晒され続け』、十八日目には『雪の中に倒れたが、それでも棄教しなかったため、役人は改宗を諦めた。彼女は』明治六(一八七三)年に『浦上に帰った後』、大正一四(一九二五)年十二月に『浦上の十字会で亡くなるまで、生涯を伝道に捧げた』とある。]

行脚怪談袋 其角猫の戀發句を吟ぜし事 付 たばこ屋長兵衞猫のむくいの事

  其角猫の戀發句を吟ぜし事

  
たばこ屋長兵衞猫のむくいの事

 

其角も其の頃名高き俳人也。生國(しやうこく)は武州江戸下町にて、父は神戸惣庵とて、江戸下町に名を得たる名醫也。一人の男子(なんし)を持ち、幼少より無類の才智そなはりて、父母の寵愛なのめならず、されども彼(かれ)成長するに隨ひて、父が職を好まず、自分の好ける道なればとて、廿一歳の時其揚(きやう)と云へる俳人の門人となり、其の道に出精(しゆつせい)するに隨ひ、俳語諸人に秀でゝ、扨こそ世間に名をあらはしけり。其角が隣家に長兵衞と云へる多葉粉屋(たばこや)ありけり。此の長兵衞がはゝ至つて猫を愛し、誠(まこと)に猫四五疋の内一疋にても見えざれば、下女小者(こもの)に申し付け、あなたこなたと尋ねさせける。長兵衞はうるさき事に思ひけれども、母の至つて秘藏するゆゑ、其の儘指置(さしお)きける、然る所に、右のはゝ風の心ちとありしが次第に差(さし)おもり、醫藥のしるしもあらず重病となりしが、終に養生叶はず空しくなりぬ。その後長兵衞が大切にして嗜なみ置きし鯛の鹽辛(しほから)を、彼の猫夜中(やちう)に殘らず喰ひて後、その壺をじやらして居りけり。長兵衞物音に目をさまして、かの所へ行きて見るに、右の始末故大いに怒り、我れさへも大切にして嗜(たし)なみ置きしを、盜み喰ふとは、畜生(ちくしやう)乍ら餘りにくきやつ也。飼ひ置いて何の益かあらんと、即座にかの猫を繩にてしばり棒をもつて打殺しけり。其角は翌日に至り長兵衞が方へ行き、年久敷く飼ひ置きしねこの、ぬすみ喰ひをなしたるゆゑに、たちまち憎しみをうけ、打殺されし事、猫の身と思ふべからず、人間とても左のごとく、今日まで實正(じつしやう)にて宜(よろ)しく、崇めると雖も、人も明日にもぬすみ、惡徒(あくと)なす處を見付られなば、其のつみを得ん事うたがひなしと、其の心を思ひつゞりて、

 

  うき戀にたへでや猫の盜み喰ひ  其角

 

と口ずさみけり。句體はちがへども、是は此のせつ詠みし發句なり、其後に亭主長兵衞は、右の腕首しきりに痛み出しけるが、うみもやらず只(たゞ)はれ出で、數多(あまた)の外科(げくわ)に見せて、さまざまの良藥を付けると云へ共、其の印し更になくして、後には腕に猫の毛の樣なる物はえ出で、その痛み時どりしてたへがたかりしかば、長兵衞今は起きて居る事もあたはず、病ひの床にふしけるが、實にも不思議なるは、その翌年、かの猫を打ちころしたる月日もたがはず、病死しけり。是を聞く人奇異のおもひをなして、實に實に是(これ)は先達(せんだつ)て打ころせしねこのむくいならんと、皆云ひあへり。尤もねこ一疋にて、かほどの事はあるまじき事なれども、此の長兵衞甚だ殺生をこのみ、あまたの鳥獸(てうじう)をころせし因果ならん。

 

■やぶちゃんの呟き

・「其角」蕉門十哲の第一の門弟とも称せれるも、早くから華街に足を踏み入れて蕉門きっての放蕩児ともされた宝井其角(たからいきかく 寛文元(一六六一)年~宝永四(一七〇七)年)。本名は竹下侃憲(ただのり)。ウィキの宝井其角などによれば、江戸下町の堀江町(現在の東京都江戸川区堀江町(ほりえちょう)。一説に於玉ヶ池(現在の東京都千代田区岩本町附近)とも)で『近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれた。延宝年間』(一六七三年~一六八一年)『の初めの頃、父親の紹介で松尾芭蕉の門に入り』、『俳諧を学ぶ。はじめ、母方の榎本姓を名乗っていたが、のち自ら宝井と改める』。『芭蕉の没後は日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となる。なお、隣接して、荻生徂徠が起居、私塾』蘐園(けんえん:徂徠の別号。「蘐」は「茅(かや)」。住所の茅場町に因む)塾『を開いており、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句がある』。一方、徂徠が厳罰に処した「赤穂事件」では浪士側を公然と支援支持したことでも知られているのが面白い。『永年の飲酒が祟ってか』、享年四十七歳の若さであった。

・「父は神戸惣庵とて、江戸下町に名を得たる名醫」前注通り、名前の地位が事実と異なる。この「神戸」はルビがないが、「こうべ」以外に「がうど(ごうど)」とも読める。

・「なのめならず」「斜(なの)めならず」(「ななめまらず」とも訓ずる)で並一通りでない、格別だ、の意。

・「其揚(きやう)」不詳。芭蕉以前にそのような師がいたというのも少なくとも私は知らない。

・「じやらして」「戯(じゃ)らす」で「じやれる・弄(もてあそ)ぶ」の意。「猫じゃらし」「じゃら」である。

・「うき戀にたへでや猫の盜み喰ひ」これも其角の句ではないしかもこれは幾ら何でもひどい。何故なら、其角と対立していた支考の句だからである。「續猿蓑」の「卷之下」の「春之部」の、「猫 戀 附 胡蝶」のパートの二句目に出る、

 

 うき戀にたえてや猫の盗喰(ぬすみぐひ)

 

で、「たえてや」は「堪へでや」の意の表記の誤りであろう。「句體はちがへども」というのは、この一句の意味は、季節の折りから、猫は恋に忙しく、食欲さえも失うほどに恋い焦がれる。それでも食わずんば、恋どころか、命も危うい。さればこそ、こんな思いもかけぬ深夜に盗み喰いをしているのであろう、されば一つ、許してやろうぞ、という意であろうから、それが、教訓染みて、しかも暗に猫を撲殺した長兵衛を難ずる内容となっているのを言っているのであろう。それにしてもここまで徹底して作者を間違えている事実は、この偽書の筆者が確信犯でこのフェイクを成していることがはっきりしてくる。これは逆に俳諧史に精通している人物が判ってやっているトンデモ本なのだということが見えてくると言えるのである。

・「うみもやらず」パンパンに腫れているのに膿が出る徴候もなく。悪性腫瘍が疑われるか。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   仁王、相撲に現ず

    仁王現相撲(にわうすまふにげんず)


Niousumounigenzu

美濃路修行の折ふし、江州森山を通り侍るに、道の左に觀音堂あり。寺號は聞き忘れ侍り。此門に立ち給ふ仁王を、人、多く集まり、供物(ぐもつ)うづ高く、灯明(とうみやう)かくやくと挑(かゝ)げ、參詣の老若、市をなす。かたへの家によりて問ふ。是はいかなる寺に侍ると、しかじかの寺にて本尊觀音にてましますといふ。本尊を供敬(くぎやう)はなくて、何ぞ仁王をのみ崇むるや、答へ。尤も此の本尊、利生(りしやう)尊(たうと)く、諸願をみてしめ給ふ事の、著(いち)じるきにより、崇め奉る人のなきにはあらず。此の仁王に、頃日(このごろ)、奇異の事侍りて、わきて崇め申すに侍り。去(いん)じ月十五日の暮かたより、朝(あした)迄、二尊ともに、いづちともなく見え給はず、寺守(じしゆ)、驚き、盜人(ぬすびと)の所爲にこそと、さまざま尋ね申せど、行衞なし、其の翌日、又もとの如く左右にたゝせ給ふ。扨は盜み取りて益なければ、返したる物よ、と、いひをりしに、當國(とうごく)膳所(ぜゞ)と申す所の農民、數十人來て、此の仁王を拜し、かへさに當里の者にかたつて、いはく。我が里の八幡の神事、昨日(きのふ)にて侍り。嘉例延年(かれいえんねん)の式に任せ、神前にて若き者集まり、神すゞしめの相撲を催ふす。一在のみか遠近(ゑんきん)の力量(りきりゃう)の者、群をなして集まる事、稻麻竹葦(たうまちくい)のごとく、一在一在、立ちわかつて勝負をあらそふほどに、堅田(かただ)の岩船(いはぶね)、栗本(くりもと)の山崩(やまくづし)などいふ強力(がうりき)の手たれ、立出で、名乘りて祕術をとるに、年々、當所、取負(とりま)けぬ。此の力量を好む者は、我が力を慢(まん)じて、人を笑ふ、爲方(せんかた)なくてある所に、當所かたより健(たくまし)き男二人出でゝ取るに、宵より朝(あした)迄、一度も負くる事なく、當所、數年の恥を淸む。一人は金剛と名乘り、一人は力士と名乘る。明方(あけがた)に、人、皆、退散す。跡にて問ふ、かたがた二人は當所には見馴れ侍らず、いづこの人にやといふ。二人答へて、我れ、森山(もりやま)わたりに住む者也。汝等(なんぢら)、常に我を信ず。よつて一在(いちざい)の恥をすゝぎて得さす、と、かたり、かきけちて失せぬ。誠に年々相撲(すまふ)に取りまくる事、うき事に思ひ、此の仁王尊に步みをはこびけるが、はたしてかくのごとし、と語りしより、世人、信仰のかうべかたむくに侍り、と語りぬ。

 

■やぶちゃん注

・「江州森山」現在の滋賀県南西部(琵琶湖南東岸)に位置する守山市。

・「觀音堂」現在、守山市内で観音を本尊とする寺を探すと、木浜町(このはまちょう)にある天台宗大慈山福林寺(十一面観音立像)、幸津川町(さづかわちょう)にある天台真盛宗日陽山東光寺(十一面観音立像)が確認出来るが、画像を見るに、孰れも現在は山門に仁王像はない。

・「供物(ぐもつ)」読みはママ。

・「かくやく」赫奕(「かくえき」とも読む)。光り輝くさま。

・「諸願をみて」の「みて」は「滿て」で他動詞タ行下二段活用。願いや思いを叶える・実現させる、の意。

・「膳所」琵琶湖最南岸の滋賀県大津市膳所(ぜぜ)。守山市からは南西に直線で十キロメートル圏内。

・「かへさ」「歸さ」。「さ」は時を示す接尾語。

・「我が里の八幡」現在の大津市杉浦町にある若宮八幡神社か。現在は狭義の膳所地区に含まれないが膳所城の南直近にあり、ここは膳所五社(他に石坐神社・和田神社・膳所神社・篠津神社)の一つでもある。

・「嘉例延年(かれいえんねん)の式に任せ」(いつもの)吉例延命長寿の祝儀のしきたりに従って。

・「神すゞしめ」名詞「すずしめ」は「淸しめ」で、神の心を静めて清めること。

・「一在」当神社のある在所。

・「稻麻竹葦(たうまちくい)」現代仮名遣では「とうまちくい」と読む。稲・麻・竹・葦(あし)が群生している様子から転じて、多くの人や物が入り乱れるように群がっているさまや、何重にも取り囲まれているさまを指す。出典は「法華経方便品(ほうべんぼん)」で「稲麻竹葦の人混み」などと使う。

・「堅田」滋賀県大津市北部、琵琶湖西岸の地名。守山の琵琶湖対岸に当たる。

・「岩船」四股名。

・「栗本(くりもと)」近江国(現在の滋賀県)の琵琶湖南東南岸の広域を占めた栗太郡(くりたぐん)は「和名類聚抄」などでは「栗本郡」とも記されている。当初は文字通り、「くりもとぐん」と呼ばれていたものが「くりたぐん」と変化し、表記も「本」に似た「太」に変化したものと考えられる。参照したウィキの「栗太郡によれば、旧郡域は現在の草津市・栗東市の全域、及び大津市の一部と守山市の一部に相当する、とある。

・「山崩(やまくづし)」四股名。

・「慢(まん)じて」得意になって。自惚(うぬぼ)れて。

・「淸む」「きよむ」と訓じておく。鬱憤を晴らしてさっぱりする。

・「一人は金剛と名乘り、一人は力士と名乘る」ウィキの「金剛力士によれば、金剛力士は仏教の護法善神である天部の一つで、サンスクリット語では『Vajradhara(ヴァジュラダラ)と言い、「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」を意味する。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の』二体を『一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には仁王(におう、二王)の名で親しまれている』。なお、一対の仁王のそれぞれを「金剛」と「力士」とに分けて呼称するのは聴いたことがない。四股名としても芸がなく、奇談としてはバレバレのネーミングで、せめて「金阿(こんあ)」と「剛吽(ごううん)」ぐらいにしておいて貰いたかったところ。

・「此の仁王尊に步みをはこびける」金剛「力士」であるから、毎年、この仁王像に今年こそは、と膳所の村人たちが、勝利の祈念のために参詣していたのであった。
 
 挿絵は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正した。

芥川龍之介 手帳4-12

《4-12》

○ベレン―ベトレエム ベレンの國より來しと云ふ 正月元日この親子の像を黑船へのせて拜む 浦上

[やぶちゃん注:「ベレン」「ベトレエム」イエス・キリストの生誕地であるBelén(スペイン語)・Belém(ポルトガル語)、ヘブライ語(ラテン語音写:Bēth Leḥem(ベース・レヘム)/現代口語音写: Beyt Leḥem(ベイト・レヘム)、所謂、ベツレヘムのこと(ヘブライ語で「パンの家」の意)。

「正月元日この親子の像を黑船へのせて拜む 浦上」こういう儀式が禁教令以前にはあったということであろう。しかし正月元日は江戸時代の長崎や浦上の農民らにとっては悪魔の日となった。まさに毎年この正月元旦にマリア像を踏む「絵踏み」が宗門改めとして強制されるようになったからである。参照した中島義雄氏(郵政ユニオン長崎)の『「蘭学事始 200 年」と「信徒発見 150 年」に「転向論」を考える。』(クレジット・二〇一五年二月十八日:PDF版)によれば、『正月の元旦に家族そろって、絵踏みを行った隠れキリシタンたちは帰宅後、神に許しを求めたという』とある。]

 

Saint Polo

[やぶちゃん注:下線はママ。綴りもママであるが、これは聖パウロのことであろうが、彼の名の綴りは英語(Saint が英語)では「Pauloであり、この綴り自体がポルトガル語読みであるから、この綴りはおかしい。或いは切支丹のそれでは発音し易さを考慮してこう綴ったのかも知れない。]

 

○深堀

[やぶちゃん注:「ふかほり」と清音で読む長崎市南西部の地域名で、長崎港南端部に当たる。ウィキの「深堀」によれば、ここの現在の大篭町(おおごもりまち)は『海岸部の赤土・中央部の大篭・山間部の善長』(ぜんちょう)の三集落からなるが、『善長は江戸時代は隠れキリシタンの里で、名所として善長谷教会がある』とある。この「ぜんちょう」という地名は大変、気になる。何故なら「ぜんちょ」という語は「異教徒(この場合、キリスト教徒であるポルトガル人からの謂いになる一方通行の限定義であるので注意されたい。即ち、仏教や神道を信ずる日本人は「ぜんちょ」であり、キリスト教を信ずる日本人は「ぜんちょ」ではないのである)」を意味するポルトガル語“genntio”由来の切支丹の言葉と酷似するからである。ただの偶然と一蹴するにはここが「隠れキリシタンの里」であることから、私にはどうも出来難い。そこで調べてみると、やっぱり、一説として存在することが分かった! Angelique氏の「Hair&Make up angeliqueのブログ」「長崎のルルド。善長谷教会」に、『「善長谷」という地名の由来は、菩提寺六代・賢外普門大和尚が厳しい座禅の修行によって悟りの境地に至ったことで知られる場所で、「禅定谷」と呼ばれるようになり、それが、訛って「善長谷」となったと言われている。また「善長谷部落名起源考」には、異教徒のことをポルトガル語では「ゼンチョ(キリシタン用語)」とあることから「善長あるいは善丁」の語源が生まれたのではないかと考えられ、又その仏教徒の住む谷をゼンチョの谷と呼んだ事が長い間に変遷して、自分たちの住む地名になったのではないかとも言われている』とあるのである。]

 

Saint Ignatio の像として通用せし楊柳觀音像 淨瓶をラツパとす

[やぶちゃん注:「Saint Ignatio」イグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio López de LoyolaInigo Oinaz Loiola バスク語:Ignazio Loiolakoa 一四九一年~一五五六年)はカスティーリャ王国(スペイン語:Reino de Castilla:中世ヨーロッパのイベリア半島中央部にあった王国で、キリスト教国による「レコンキスタ(国土回復運動)」に於いて主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった)領バスク地方(現在のスペイン北部沿岸地方)出身のバスク人修道士でカトリック教会修道会イエズス会の創立者の一人にして初代総長カトリック教会の聖人。

「楊柳觀音像」ウィキの「楊柳観音」によれば、三十三観音(観音が世を救済するに当たって広く衆生の機根(性格や仏の教えを受ける人徳)に応じ、種々の形体を現じるが、これを観音の「普門示現(ふもんじげん)」と称し「法華経観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には観世音菩薩は普く衆生を救うために相手に応じて三十三の姿に変身すると説かれてある)一つ。病苦からの救済を使命とし、『右手に柳の枝を持つことにより楊柳観音と呼ばれる。この観音は画像に描かれる例が多く、絵画では座右の水瓶に柳の枝をさすこともある』。『絵画として描かれたものでは、高麗仏画の遺品が著名である』とある。

「淨瓶」前注引用中の『座右の水瓶』のこと。但し、この芥川龍之介が描写している「楊柳觀音像」(恐らく絵)に模した隠れ切支丹の図像が孰れにあったものか、はたまた現存するのかどうかも判らぬ。識者の御教授を乞う。]

 

Maria. Agnus Dei アニエス 蠟に羊を印すもの 首

[やぶちゃん注:「Agnus Deiイエス・キリストのことを指す表現の一つである「神の子羊」の意のラテン語。 キリスト教神学において、「人間の罪に対する贖い」としてイエスが「生贄」の役割を果たすことを踏まえており、古代ユダヤ教の生贄の習慣にも由来する表現。ウィキの「神の子羊」によれば、『日本語では、ラテン語やイタリア語などの用法に由来するものは「アニュス・デイ」、ドイツ語での用法に由来するものは「アグヌス・デイ」と片仮名書きされることが多い』とある。「蠟に羊を印すもの」から推定すると、封蝋の手紙の封に用いられる封蝋に捺印するためお印璽(いんじ/シーリング・スタンプ)という判子型の、或いは指輪印章(シグネット・リング)の図柄を描写したもののように見受けられるが、「首―9」というのは意味不明。]

 

○高札(天和二年五月 黑崎の先のカシ山 恐らく多數信者のものを集めてかくせしならん(教へ方ガ)

[やぶちゃん注:「高札」これは“Laures Rare Book Database Project & Virtual Library  Christian Artifacts 4: Anti-Christian Decrees(Kōsatsu)”(本文解説付。元は「上智大学キリシタン文庫」のものらしい)で現物画像を確認出来る。そこに電子化された高札の内容を現物画像と比較しつつ、恣意的に正字化して以下に引用する。現物の高札の字配に合わせた(高札は左端にもう一行書かれてあるが、画像では総ては判読出来なかったので外した)。

   *

 

切支丹宗門は累年御制禁

たり自然不審成もの有之は申

出へし御ほうびとして

はてれんの訴人  銀五百枚

いるまんの訴人  銀三百枚

立かへり者の訴人 同斷

同宿幷宗門の訴人 銀百枚

右之通可被下之たとひ同宿幷宗門之内

たりといふとも訴人に出る品により銀五百枚

可被下之隱置他所よりあらはるゝに

おゐては其所之名主幷五人組迄一類ともに

可被處嚴科者也仍下知如件

 

 天和二年五月日

        奉行

   *

特にその邦文解説では密告の報酬額を米に換算しており、その額たるや、莫大なものであったことが判る。必見!

「天和二年」一六八二年。

「黑崎」旧西彼杵郡外海(そとめ)町黒崎村、現在の長崎市赤首町・上黒崎町・下黒崎町・永田町・東出津町・新牧野町に相当する地域。現在でも隠れ切支丹の信仰を持つ人々がいる地域として知られる、切支丹の根強かった地域である。菊池良氏の記事隠れキリシタンは今も長崎にいる。は画像必見! 長崎市公式観光サイト内の「サン・ジワン枯松神社」も参照されたい。それによれば、『日本人伝道師・バスチャンの師であるサン・ジワン神父を祀ってある、日本に三カ所しかないといわれるキリシタン神社。周囲はキリシタン墓地になっている。ここは江戸時代、黒崎地方の隠れ(潜伏)キリシタンが密かに集まりオラショ(祈り)を捧げ伝習してきた聖地。祠の手前にある“祈りの岩”と名付けられた大きな岩があるが、迫害時代にキリシタンたちは悲しみ節の夜にここに来て、寒さに耐えこの岩影でオラショを唱えていたと伝えられている』とある。恐らくこの「カシ山」とは、下黒崎町にあるその「枯松神社」のある山のことと思われる。]

 

○象牙のChrist 壁白 鼠 白 ペンキ 瓦斯 マリアの陶像 半白 黑僧衣

[やぶちゃん注:場所未詳。]

悪役   梅崎春生

 

 大正末期の少年雑誌がなぜ反米的風潮に満ち満ちていたか。太平洋上において日米の利害がそろそろぶつかり合っていたからである。あるいはその予想が徐々にはっきりしてきたからである。大正十一年のワシントン会議がそれに拍車をかけた。

 ではなぜ米国だけが悪役で、イギリスは善玉になっていたのか。これは日英同盟の関係で、イギリスは頼むにたる友邦だという雰囲気がまだ残っていたせいだろう。日英同盟というのは明治三十五年に締結された一種の攻守同盟で、ワシントン会議で破棄されたけれども親英感はまだ薄らいでいなかった。

 当時の少年雑誌の編集方針はどうなっていたか知らないが、男の子は勇ましい物語が好きだろうからと、そういう風潮を利用してぶってきたものらしい。

 最近の少年雑誌を読むと、ヤンキーをぶっ倒せなんていう物語はさすがにのっていない。悪役を引き受けているのは、怪人二十面相式の強盗団とか遊星Xからやってきた邪悪な宇宙人とかで、これらがかつてのアメリカ人の役割を引き受けている。変れば変るものである。

 しかしどうして少年物語には邪悪な仮想敵が必要なのだろうか。そんな疑問がときどき大人の頭をかすめる。大正時代にもそれがかすめて、「赤い鳥」という少年雑誌が大正七年に創刊された。編集は鈴木三重吉である。

 この雑誌は先生も推賞し、おふくろもよしと考えたのだろう。二三号買ってあてがってもらったが、わたしにはいっこうおもしろくなかった。児童文学史的には「赤い鳥」は大きな足あとを残したが売れ行きはさっぱりだったらしく、昭和四年に休刊している。極言すればあの「赤い鳥」は大人の道楽だったのだろう。

 いま思ってもあの雑誌の読み物はなまぬるかった。読んでもカタルシスを感じなかった。いま流行の言葉で言えば、こどもはこどもなりの「欲求不満」があって、無意識裏にそれを晴らすために物語や小説を読む。だからかつてのアメリカ人や現代の二十面相が、どうしても編中に必要なのであろう。

 そう考えるから、わたしはうちのこどもにテレビだのラジオだの雑誌だの好きなものを自由に見せてやる。もちろんあまり極端なのは困るが、いちいち禁止していたんじゃかえって弊害がある。テレビだの小説だのに害されるのは、その子の精神が弱いからである。むしろたくさん与えて抵抗力をつけた方がいい。

「テレビのおかげでうちの子は不良になりました」

 などと泣く親がいても、原則的にはそれはテレビの罪でない。その子の頭の弱さが悪いのである。

 ではわたしのこどものころ、何でもやってよかったかというと、そうでなかった。豆本を読むこととチャンバラごっこをやることは禁止されていた。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第四十四回目の昭和三六(一九六一)年二月十六日附『西日本新聞』掲載分。前回の後半の少年向け親英反米小説から上手く繋がっている。

「大正十一年のワシントン会議」一九二一年十一月から翌年二月六日にかけて行われた、ワシントンD.C.で開かれた第一次世界大戦後の国際軍縮会議。アメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提唱によるが、国際連盟の賛助を得ずに実施された。太平洋と東アジアに権益を持つ、日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計九カ国が参加したが、ソビエト連邦は会議に招かれていない。アメリカ合衆国が主催した初の国際会議であると同時に史上初の軍縮会議で、この会議を中心に形成されたアジア太平洋地域の戦後秩序を「ワシントン体制」と呼んだ。ウィキのワシントン会議(1922年)によれば、日本は『海軍条約を英米と締結する』『満州とモンゴルにおける日本の権益について正式な承認を得る』の二点に特に力を注ぎ、『その他にも太平洋におけるアメリカ艦隊の展開拡大に対する大きな懸念や、南洋諸島・シベリア・青島の権益を維持するべく、非常に積極的な姿勢で会議を主導する目論見だった』が、『日本政府から代表団への暗号電をアメリカが傍受・解読したことで、会議は一転』、『アメリカ有利に進んだ。アメリカは日本が容認する最も低い海軍比率を知り、これを利用してそこまで日本を譲歩させた』。『また、アメリカは日本のヤップ島領有権を認める代わりに、ドイツ帝国から切断して奪い取ったヤップ島のケーブルについて合衆国の使用権および無線通信局・電報局の運営権を無制限に認めさせた』。また、補注によれば、『日本が譲歩せざるを得なかった理由として、対英米との国力比較ではその差が歴然としていたこと、第一次大戦後は世界的に平和を求める趨勢にあり、日本の国民感情もその例外ではなかったこと、そして』対華二十一カ条要求や『シベリア出兵などの政府方針が国際的にはいうに及ばず国内的にも不評だったこと、そして濡れ手に粟の大戦景気が戦後は一転して大恐慌となり、緊縮財政のなか軍事費の削減が不可避となったことの』三点が挙げられる、とある。

「日英同盟」日本とイギリス両国の攻守同盟(二国以上の国が共同して第三国に対する攻撃や防御のために結ぶ軍事同盟)条約。日清戦争後、ロシアの中国進出に対抗するため、明治三四(一九〇一)年一月から交渉を開始、翌年一月に締結された。朝鮮・中国に於ける日本の、中国に於ける英国の、それぞれの利益擁護のために両国のとる行動を承認するとともに、締約国の一方が二ヶ国以上と交戦の場合には他方は参戦の義務を負うものとしてある。

「遊星Xからやってきた邪悪な宇宙人」因みにこれより前、昭和二七(一九五二)年五月に私の好きなSF小説ジョン・W・キャンベル(John Wood Campbell Jr. 一九一〇年~一九七一年)の「影が行く」(原題:Who Goes There?)を原作とした、ハワード・ホークス製作、クリスティアン・ナイビイ監督の映画「遊星よりの物体X」(原題:The Thing from Another World)が日本で公開されている(アメリカでの公開は前年)。映画は明らかに反ソ宣伝的で、すこぶるショボいものであった。後の二本のリメイク版の方が遙かに面白い。]

2016/08/03

芥川龍之介 手帳4―10・11

《4-10》

〇山―町―教會の塔○夏蜜柑 バナナ○橋 靑き水 夏みかんをならべ商ふ女(カゴ) 川に浮ぶ家鴨

[やぶちゃん注:字配はママ。これから察するに、今までも出る文中の丸印は芥川龍之介自身のものであることが判る。なお、これ及び以下の幾つかは、単行本「百艸」(大正一三(一九二四)年九月新潮社刊)の「續野人生計事」に収められてある「長崎」(初出未詳)の構想メモである。以下に、全文を引く。

   *

 

     十三 長崎

 

 菱形の凧。サント・モンタニの空に揚つた凧。うらうらと幾つも漂つた凧。

 路ばたに商ふ夏蜜柑やバナナ。敷石の日ざしに火照るけはひ。町一ぱいに飛ぶ燕。

 丸山の廓の見返り柳。

 運河には石の眼鏡橋。橋には往來の麥稈帽子。――忽ち泳いで來る家鴨の一むれ。白白と日に照つた家鴨の一むれ。

 南京寺の石段の蜥蜴。

 中華民國の旗。煙を揚げる英吉利の船。『港をよろふ山の若葉に光さし……』顱頂の禿げそめた齋藤茂吉。ロティ。沈南蘋。永井荷風。

 最後に『日本の聖母の寺』その内陣のおん母マリア。穗麥に交まじつた矢車の花。光のない眞晝の蠟燭の火。窓の外には遠いサント・モンタニ。

 山の空にはやはり菱形の凧。北原白秋の歌つた凧。うらうらと幾つも漂つた凧。

 

   *]

 

Mr.Nagami まん中から分けた髮 金緣の眼鏡(フチなし) 口髮 sinnlich mouth audacious eyes 豐な顋及頰 靑鬚

[やぶちゃん注:「口髮」はママ。旧全集は「口髭」とする。訂しているのであろうが、そうでないとおかしいことは確かである。

Mr.Nagami」永見徳太郎(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は劇作家で美術研究家。生地長崎で倉庫業を営みながら、俳句(号は夏汀)や小説を書く一方、長崎を訪れた芥川竜之介ら著名人と交遊、長崎の紹介に努めた。南蛮美術品の収集研究家としても知られた。芥川龍之介より二歳年上。

sinnlich」ドイツ語で「肉感的な・色っぽい」の意。

audacious」不敵な。]

 
 
 

《4-11》

○石坂の上 Santo-Montani 海 船 兩側の棕櫚(石段二つ) olive 左右花園 右に十字架とクリスト(十字 石 クリスト 銅) 躑躅 薔薇 日本三聖母○平戸やき帽○(Gregorio ⅩⅣ  medal 黃銅 浦上 1591 天正 マリアの像 フランシスコ派の使節○cross のついたContas 黑き木 房の白煤く 繩の笞(平戸) フランシスコ・ザベリヨ

[やぶちゃん注:《4-11》冒頭から上記までは旧全集には完全に不載。前パートに全文を掲げた、やはり「續野人生計事」の「十三 長崎」の構想メモ。

Santo-Montani」ポルトガル語か。ラテン語ととってもよい。「Santo」は英語の“Saint”dで、ポルトガル語・スペイン語・イタリア語などで他の語に冠して聖・聖なる・聖人の意を添える。「Montani」は人名ではなく、恐らくは現存するロマンス諸語(Linguae Romanicae:「ローマ風の言語」の意。ラテン語に由来する言語であるからラテン系・イタリア系とも称される。ポルトガル語・スペイン語・フランス語・イタリア語・ルーマニア語・プロバンス語などの各語を総称する)の一般名詞“montani”(「標高の高い土地」の意)の固有名詞化と思われる。日本二十六聖人殉教地である長崎市西坂の丘(大浦天主堂はそちらに向けて建てられてある。現在は「日本二十六聖人記念館」が建つ)のことを指すか? 大浦天主堂も丘の上に建ち、視覚的にはそちらの可能性も高いか?

「日本三聖母」「三」は不詳。単に「日本」の「聖母」の教会(寺)と言ったら、大浦天主堂を指す。

「平戸やき」三川内焼(みかわちやき)とも称する長崎県佐世保市で生産される陶磁器。ウィキの「三川内焼」によれば、『豊臣秀吉が起こした朝鮮の役の際、各地の大名は秀吉の命により、朝鮮の陶工が来日した。平戸藩藩主である松浦鎮信も多くの陶工を連れ帰った』。慶長三(一五九八)年、『巨関(こせき)という陶工は、帰化して今村姓を名乗った後、平戸島中野村の中野窯で藩主の命により最初の窯入れをした。この中野焼が三川内焼の始まりといわれている。同じく朝鮮から来た陶工の高麗媼は、中里茂左衛門のもとに嫁いだ後』、元和八(一六二二)年に『三川内へ移住した。また、巨関は』この頃、『中野村に陶土がなくなったために陶土を求め、息子の今村三之丞と共に藩内を転々とし』、寛永一四(一六三七)年、『最後に行き着いたのが三川内であ』った。その後の慶安三(一六五〇)年に『中野村の陶工が、平戸藩により三川内に移された』。「唐子(からこ)絵」「透かし彫り」「卵殻手(薄胎)」といった手法が知られる(詳細はリンク先を読まれたい)。「帽」は不詳ながら、前と続いていないと考えるなら、「長崎」の「橋には往來の麥稈帽子」の記憶呼び出しのためのメモの可能性がある。

Gregorio ⅩⅣ  medal」ローマ教皇(在位は一五九〇年十二月から翌一五九一年十月の約十一ヶ月だけ)グレゴリウス十四世(Gregorius XIV 一五三五年~一五九一年)。ウィキの「グレゴリウス14ローマ教皇によれば、ウルバヌス七世のあとを継いだが、『彼は既に修道者として高い評価を得ていた。にもかかわらず在位期間が短かったため、特に大きな事件はなかった。特筆すべきことは』、スペイン王フェリペ世と『マイエンヌ大公の強い勧めを受けてフランスの』アンリ世を『異端・迫害者として破門したことのみである。教皇はさらにフランスへの侵攻を準備させた。フランスではこの行動は歴代の教皇達がとってきたフランスとスペインのバランスをとる政策の放棄とみられた。教皇は選出時にスペイン枢機卿団の後押しをうけた事実があったため、当然反フランス的行動もスペインよりのものと考えられた』とある。

1591」この西暦年は「天正」十九年で、同年中には閏一月八日に天正遣欧使節の豊臣秀吉謁見があり、この年中にキリシタン版聖人伝の一つである「サントスの御作業の内拔書」(ローマ字本)肥前国加津佐(かづざ:現在の長崎県南島原市加津佐町)にで刊行されている。

Contas」元はポルトガル語で「数える」の意で、音写して「こんたつ」、念珠などと訳した。カトリック教会に於いて聖母マリアへの祈りを繰り返し唱える際に用いる、十字架やメダイ・キリスト像などのついた数珠状の祈りの用具である、ロザリオ(ポルトガル語:rosário・ラテン語:rosarium)のこと。本邦では十六世紀にイエズス会宣教師によって伝えられたが、以後の隠れ切支丹の時代まで永く「こんたつ」(マリア賛礼の「アヴェ・マリア」(ラテン語:Ave Maria)の祈禱を口にした数を数えるもの)と呼ばれてきた。「黑き木 房の白煤く」(「煤く」はママ。煤けているの意であろう)はこの実見した「こんたつ」の補足のように私には読める。

「繩の笞(平戸)」「笞」は「むち」でもよいが、「しもと」と読んでおく。これは「オテンペンシャ」(ポルトガル語:Penitencia(悔悛))と呼ばれる、洗礼を授ける役職に就いていた者が持っていたという(tunagu—kokoro氏のブログ「Oratio」の苦行の鞭に拠る)聖具「苦行の鞭」「贖罪の鞭」のことであろう。細縄を束ねたもので、元々である。語源はで、現在は祓いに用いられる。

「フランシスコ・ザベリヨ」フランシスコ・デ・ザビエル(Francisco de Xavier Francisco de Jasso y Azpilicueta 一五〇六年頃~一五五二年)のこと。ウィキの「フランシスコ・ザビエルの「名前について」によれば、生家のハビエル城はナバラ王国(位置その他はウィキの「ナバラ王国を参照のこと)の『ハビエルに位置し、バスク語で「新しい家」を意味するエチェベリ(家〈etxe+ 新しい〈berria〉)のイベロ・ロマンス風訛りである。フランシスコの姓はこの町に由来する。この姓はChavierXabierreなどとも綴られることもある。Xavierはポルトガル語であり、発音はシャヴィエル。当時のカスティーリャ語でも同じ綴りで、発音はシャビエルであったと推定される』。『現代スペイン語ではJavierであり、発音はハビエル』。『かつて日本のカトリック教会では慣用的に「ザベリオ」(イタリア語読みから。「サヴェーリョ」がより近い)という呼び名を用いていた』とある。]

 


 
Cliff House(左)



 
 Belle View(靑板)(右) 途中西洋館 英國々旗○空に菱形の凧二つひるがへる 諏訪祭にも christian influence あり 即 chrtstianity をよせばすぐ商況に關する故(大體住吉祭をとる) 殊にその行列をつくる點○唐人パツチ○ガラシ

[やぶちゃん注:旧全集には頭の「Cliff House(左)」「Belle View(靑板)(右)」がない。やはり「續野人生計事」の「十三 長崎」の構想メモ。

Cliff House(左)」これはやはり、西坂の殉教の丘のことではあるまいか? この芥川龍之介長崎再訪当時、そこに何らかの殉教を顕彰する小さな舎礼拝堂のような小屋が建っていたのではあるまいか? 識者の御教授を乞う。

Belle View(靑板)」「靑板」は不詳であるが、「Belle View」(ベルビュー)は長崎のカトリックと縁の深い、フランス語の“Bellevue”(美しい景色)を、英語の同義の“Beautiful View”と繋げた造語であろう。

「諏訪祭」長崎県長崎市上西山町にある鎮西大社諏訪神社の例祭。毎年十月七日から九日に行われるその例祭は「長崎くんち」として知られる。ウィキの「鎮西大社諏訪神社によれば、『弘治年間より長崎に祀られていた諏訪神社・森崎神社・住吉神社の三社が起源である』。弘治元(一五五五)年に、『長崎織部亮為英が京都の諏訪神社の分霊を、現在の風頭山の麓に奉祀したのが始まりという説と、東松浦郡浜玉町の諏訪神社を勧請した説がある。戦国時代に当地はキリスト教徒の支配地となり、当社を含めて領地内の社寺は全て破壊された。江戸時代に入った後の』寛永二(一六二五)年になって『長崎奉行・長谷川権六や長崎代官・末次平蔵の支援によって松浦一族で唐津の修験者であった初代宮司青木賢清(かたきよ)が、円山(現在は松の森天満宮の鎮座地)に三社を再興し、長崎の産土神とした』。正保四(一六四一)年に『幕府より現在地に社地を寄進され』、慶安四(一六五一)年に遷座している。ウィキの「長崎によれば、その祭りは『龍踊(じゃおどり)」「鯨の潮吹き」「太鼓山(コッコデショ)」「阿蘭陀万才(おらんだまんざい)」「御朱印船(ごしゅいんせん)」など、ポルトガルやオランダ、中国など南蛮、紅毛文化の風合いを色濃く残した、独特でダイナミックな演し物(奉納踊)を特色として』いるとある。

christian influence」キリスト教の影響。

「即 chrtstianity をよせばすぐ商況に關する故(大體住吉祭をとる)」キリスト教性を完全に排除してしまうと、長崎全体への経済的影響が深刻甚大であることから、キリスト教の祭祀と親和性と類似性のあった神道の祭り、特に現在の長崎市住吉町にある住吉神社系の祭形態(「殊にその行列をつくる」点など)を「長崎くんち」では積極的に採用して、隠れ切支丹との融和を図った、という謂いか? 切支丹には詳しくないのでよく判らぬ。識者の御教授を乞うものである。

「唐人パツチ」「ぱっち」は股引(パンツ様の下着)であるが、この語は現行では朝鮮語由来とされている。

「ガラシ」「唐辛子」という語のことか?  ナス目ナス科トウガラシ属トウガラシCapsicum annuum はメキシコ(或いはアンデス)原産で、初めて唐辛子が外地に伝わったのは一四九三年でコロンブスがアメリカ大陸からヨーロッパに持ち帰ったのであった。その後に大航海時代を迎えて、主にポルトガル船によって世界各地に広まった。本邦への唐辛子を持ち込んだのもポルトガルで、十六世紀の半ばに鉄砲やキリスト教と一緒に伝来したのであった。されば「唐辛子」の「唐」は中国の意ではなく、漠然とした海外の国を指す(因みに、朝鮮へ唐辛子を持ち込んだのは豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、加藤清正が持ち込んだともされる)。ともかくも、このメモの雰囲気は、これらの二語がそうした南蛮貿易の中で生まれた語であるとするニュアンスである。]

芥川龍之介 手帳4―9

《4-9》

〇興福寺 石段-往來-石 門 元和六年立 寶林楢葉千秋茂(赤へ金 古) 東明山 福地明山萬古隆(同上) 悦峯 赤へ金 石垣の上に白壁 雜草―蔦 右傍石碣 鷄 細路大殿と■■を見る

[やぶちゃん注:「興福寺」直前で注したが、再注しておく。長崎市寺町にある日本最古の黄檗宗東明山興福寺。ここに出る山門が朱塗りであるため、「あか寺」とも呼ばれる。古くより中国浙江省及び江蘇省出身の信徒が多いことから、「南京寺」とも称せられた。本堂に相当する大雄宝殿は現在、国重要文化財に指定されている。明の商人が長崎に渡来し始めた頃の元和六(一六二〇)年に中国僧真円が航海安全を祈願して、この地に小庵を造ったことに始まる。「興福寺」公式サイトに詳しい。

「寶林楢葉千秋茂」サイト「碑像マップ」のこちらの同興福寺の大雄寶殿の記載に、『大雄寶殿(二層部分) 隠元禅師書、崇福寺扁額の複製』『航海慈雲(一層部分)』の箇所に、『上聯:寶地初登國師千秋』とあり、また、『興福寺 山門(県有形文化財)』『【竪額】東明山(隠元書) 元禄三年歳次庚午仲秋吉旦 典福重興住持澄一亮・彭城楓山居士劉一元仝建立』『【上聯】寶林橿葉千秋茂』出る人物と同一人と思われる。「楢」は「橿」の芥川龍之介の誤判読であろう。

「福地明山萬古隆」前注に引いた同前のサイト「碑像マップ」の同ページの同じ『興福寺 山門(県有形文化財)』に、先の『【上聯】寶林橿葉千秋茂』に続けて、『【下聯】福地明山萬古隆』とある。

「悦峯」悦峯道章(えっぽうどうしょう 承応三~四・明暦元(一六五五)年~享保一九(一七三四)年)江戸初期の渡来黄檗僧で黄檗宗総本山萬福寺(京都府宇治市五ヶ庄三番割に現存)の八代住持。浙江省杭州府銭塘県生まれ。「道章」は名で、俗姓は顧氏、法名、法賢。貞享三(一六八六)年に日本へ渡り、長崎興福寺住職となった。宝永四(一七〇七)年八月には江戸へ赴き、将軍徳川綱吉に拝謁している。将軍綱吉の側用人で大老格の柳沢吉保の帰依を受け、宝永七(一七一〇)年八月に柳沢家家老薮田重守に招聘され、甲斐国岩窪村に創建された永慶寺の開山となっている(ウィキの「悦峯道章に拠る)。

「石碣」「せきけつ(せっけつ)」と読む。碑(いしぶみ)・石碑のこと。

「細路大殿と■■を見る」岩波旧全集では「細路大殿と鐘樓を見る。」となっており、続けて「石段左折門。實科高等女學校。」と続く。次項がここへ廻り込んでしまっていることが判る。]

 

〇鐘樓

[やぶちゃん注:興福寺鐘鼓楼。個人サイト「へんぼの目」の国指定重要文化財 東明山興福寺に、寛文二~三(一六六三)年の『大火の後』、元禄四(一六九一)年に『再建され、その後もたびたび修理がくわえられています。二階建ての上階は梵鐘を吊り、太鼓を置いてありました。階下は禅堂として使用されました』。『上階は、梵鐘、太鼓の音を拡散させるため、四方に花頭窓を開き、周囲に勾欄をつけてあります。軒回りは彫刻彩色で装飾され、他の木部は朱丹塗りです。長崎県指定有形文化財』とある。]

 

〇石段左折門 實科高等女學校

[やぶちゃん注:「實科高等女學校」現在、長崎市栄町にある私立長崎女子商業高等学校の前身を指すものと思われる。ウィキの「長崎女子商業高等学校によれば、大正一四(一九二五)年四月に長崎商業女学校として興福寺内に開校、翌年に長崎女子商業学校と改称し、昭和一一(一九三六)年には興福寺を離れて市内新町に移転したとある。但し、既に述べた通り、芥川龍之介は生涯に二度、長崎を訪問しているものの、最初は大正八(一九一九)年五月(四日出発で到着は五日、十一日に長崎を発っている)、二回目は大正一一(一九二二)年四月(二十五日出発であったが、京都で半月ほど遊び、五月十日までに長崎着、長崎を発ったのは五月二十九日で、この時は実に二十日近くも滞在している)である。前後の記載から見て、後者の際のメモ書きと推定し得るが、その頃にはまだ「長崎商業女学校」は開校していない。その前身として「實科高等女學校」が存在したものか? 識者の御教授を乞うものである。]

 

〇大寶殿 權―椎雄? 戸―サヤ形格子 赤―黑―金

 外 萬載江山(黑ヘ金 新)

 内 航海慈雲(金へ黑 新)

[やぶちゃん注:「鐘樓」からここにかけての下部に以下の二図。上手は形状から見て、「興福寺鐘鼓楼」を写生したものと見る。下図の右上は「門」、左下が「大宝殿」。キャプションがこれであるから本文も「寶」ではなく、「宝」である可能性が高い。

「權―椎雄?」これは大宝殿の扁額か何かの字を判読しあぐねたメモと思われる。先に示したサイト「碑像マップ」のこちらの同興福寺の大雄寶殿の記載に、『大雄寶殿(二層部分) 隠元禅師書、崇福寺扁額の複製』とあるから、現在ははっきり見える(リンク先参照)それ(「大雄寶殿」の扁額)がくすんでいて、「雄」なのかどうか判らなかったのであろう。

「萬載江山」不詳。江戸前期の黄檗僧に「江山景巴」なる人物はいるが、これは次の「航海慈雲」と対句と考えるなら、豊饒祈願の語句と思われる。

「航海慈雲」これは人名ではなく、渡来者や貿易に従事した信徒が多かったことから考えれば、航海の安全を祈念する扁額と読める。]

Daihouden

 

〇蘇鐡 屋根の草 屋根シツクヒ

[やぶちゃん注:先の個人サイト「へんぼの目」の国指定重要文化財 東明山興福寺の大宝殿正面写真を見ると、現在も左右にソテツが植わっていることが判る。]

 

〇三尊 支那燈籠 濟世法王(群靑へ金) 柱角なり 花御堂 春菊 金盞花 薊 麥 松の綠 げんげ 撫子 あやめ

[やぶちゃん注:「三尊」興福寺大宝殿は正面壇上に本尊釈迦如来、脇侍として準提観音菩薩と地蔵王菩薩を祀る。

「支那燈籠」大宝殿内に吊られた「瑠璃燈」のことであろう。先の個人サイト「へんぼの目」の国指定重要文化財 東明山興福寺に、『上海から運ばれ、本堂内で組み立てられたものです。中国工匠による清朝の精緻な工芸品で、纏龍・人物などの彫刻は巧妙です。燈篭の周りに従来の紙や絹を使わず、ガラスを使用してあります。高さ』二・一八メートル、直径一・三メートルあり、長崎市有形文化財とある。リンク先には写真も掲げられているので必見。

「濟世法王」不詳。「濟世」からは救世観世音菩薩(ぐぜかんぜおんぼさつ)を連想するが、同寺には同像はなく(そもそも救世観世音菩薩は平安時代の法華経信仰から広まった名称であるが、この名は経典には説かれておらず、観音としては正統的な尊像ではないとされる)、そもそも観音菩薩を「法王」とは尊称しない。本尊脇侍の準提観音菩薩を誤認したものか。識者の御教授を乞う。]

 

〇赤―金―群靑―綠靑 埃の句 白壁 石甃

[やぶちゃん注:長崎で詠んだと思われる芥川龍之介の句に「埃の句」は、ない。或いは、中国で大正一〇(一九二一)年の中国行の際に洛陽で詠んだ、

 

 麥埃かぶる童子の眠りかな

 

か、帰国した翌月の八月に詠んだ、

 

 炎天に上りて消えぬ箕の埃

 

を思い出したものかとも思ったが、季節が合わない。]

芥川龍之介 手帳4―8

《4-8》

○譯詞長短話(vol.5) 寛政八年 ○淸文鑑和解 ○踏繪帳

[やぶちゃん注:「譯詞長短話」(やくししちやう(ちょう)たんわ)は、現在、長崎歴史文化博物館所蔵になる、長崎奉行所関係資料の一つで国指定重要文化財である、寛政八(一七九六)年に長崎の東京(トンキン:ベトナム北部、またこの地域の中心都市であったハノイ(河内)の旧称でもある)通事であった魏五左衛門喜輝(一七五七年~一八三四年)が官命によって編纂した通弁書(唐通事養成のための会話テキスト)である。参照した平岡隆二氏のブログ「長崎ノート」の訳詞長短話によれば、『近世長崎が生んだ書物のなかでも、これほど不思議な本はなかなかない。中央に記した漢文の両側には、南京官話・東京語・モウル語・安南語・オランダ語、ポルトガル語などの発音や訳文が「魏氏仮名文字」と呼ばれる独特の仮名文字で付されている。本書に見られる東京語は、福州語を基本としつつ若干のベトナム語が混入した言語と指摘されている。またモウル語はムガル帝国の公用語であったベルシア語とのこと。ピジンなのか、クレオールなのか、ともかく恐るべき書物である』。『長崎唐通事は』、十七世紀に『大陸沿岸から貿易のためにやってきて、やがて長崎に住み着いた人々(住宅唐人と呼ばれる)の末裔で、近世日本きっての多言語集団であった。著者の魏五左衛門は、東京人』であった魏熹(ぎき 一六五九~一七一二年:日本名は五平次、諱は喜宦(きかん))の『子孫で、熹から数えて』四代目に当たる、とある。

「淸文鑑和解」(しんぶんかんわげ)は江戸幕府が長崎の訳官に清の公用語であった満州語の研究を命じて編纂させた、嘉永四(一八五一)年から安政二(一八五五)年にかけて成った辞書で「翻訳清文鑑」とも呼ぶ。

「踏繪帳」正しくは「宗門御改影踏帳(しゅうもんおんあらためかげふみちょう)」と呼ぶ。松平文庫学芸員吉田信也氏の書かれたこちらの頁から引用させて戴く。

   《引用終了》

 島原では当初、毎年正月と7月に宗門改が行われていましたが、後に正月のみに行われるようになります。宗門改は町や村毎に実施されますが、影踏帳は町・村の中の組や名(みょう[やぶちゃん注:肥前国佐賀藩領及び島原藩領の一部(現在の長崎県島原半島一帯)に於ける集落単位の称。現在でも同地方には一部に「○○名」という地名で残っている。])毎に宗派別に作製されます。各檀家の名前、出生地、年齢の書上と押印をし、その人たちが全てキリシタンでないということを檀那寺(だんなでら)が証明したうえで宗門方の役人に届け出る形を取ります。そのため、当時の領内における家族構成や人口などを知る手がかりにもなるのです。

   《引用終了》]

 

○生月發見の Christ, Maria   [やぶちゃん注:ここにその図。後背へのキャプションは「金」。]

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[やぶちゃん注:「平戸市生月町博物館 島の館」公式サイト内の「御神体」の「メダイ」に『キリストやマリア、聖人などの大小の金属製のメダル。大型は御前様として祀られる。なおメダイを初め、金属製の御神体を総じて金仏様と呼ぶ』とある。リンク先には円盤状ではないが、大型の長方形のメダイの画像が載り、後背も確認出来る。

 《4-7》からここまで纏まった切支丹関連の事実メモ。]

 

○松島艦にある寫眞 下關攻擊

[やぶちゃん注:「松島艦」日清戦争及び日露戦争で活躍した旧日本帝国海軍防護巡洋艦「松島」。明治二一(一八八八)年にフランスの地中海の造船所で起工、明治二五(一八九二)年に竣工して回航、明治二七(一八九四)年八月一日の日清戦争開戦の際には連合艦隊旗艦となった。清が保有していた戦艦「鎮遠」と「定遠」の二隻に対抗する軍艦として建造された、松島型(三景艦)のネーム・シップで同型艦は「厳島」と「橋立」である。但し、戦艦としては役立たずの無用の長物的存在で、日露戦争では二線級として扱われて実戦への参加は少なく、専ら、哨戒と掃海業務に従事し、明治四一(一九〇八)年に海軍兵学校第三十五期卒の少尉候補生を乗せて遠洋航海中、寄港した台湾の馬公で爆沈している(単なる事故か。以上はウィキの「松島(防護巡洋艦)」に拠った)。

「下關攻擊」所謂、馬関戦争、四国(しこく)艦隊下関砲撃事件、文久三(一八六三)年と翌文久四・元治元(一八六四)年の前後二回に亙ってイギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊と、尊攘派の長州藩の間に起った武力衝突。戦意発揚のために飾ってあったものであろう。]

 

○大浦の天主堂 St. Juan 寺 ○本蓮寺ノ板扉(切支丹井戸) 大恩寺(家康德川家一代の位牌。――物徂來ノ碑)○崇福寺

[やぶちゃん注:「大浦の天主堂 St. Juan 寺」長崎県長崎市にあるカトリックの大浦天主堂は、教会堂で、文久二(一八六二)年にフランスのパリ外国宣教会宣教師で日本教区長であったジラール神父の命を受けて、横浜にいたフランス人司祭(神父)フューレが長崎に赴任して司祭館と教会堂の建築準備に着手、元治二年一月二十四日(グレゴリオ暦一八六五年二月十九日)に完成して献堂式が挙行され、正式名称として「二十六聖殉教者堂」(慶長元年十二月十九日(一五九七年二月五日)に豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された二十六人のカトリック信者。同年、ローマ教皇ピオ九世によって列聖され、「日本二十六聖人」となっていた。本教会は結果して彼等に捧げられたものとなった)と命名された、日本最古の現存するキリスト教建築物。現在、正面の被爆した聖ヨハネ像やステンド・グラスの同聖人の画が知られるが、本教会が「さん・じゅわん寺」或いは「聖ヨハネ寺」と呼ばれていたことは確認出来なかった(「フランス寺」とは通称された)。思うに、私はこの「St. Juan 寺」は実は「大浦の天主堂」の追記ではなく、分離されて示されてある次の「本蓮寺」のメモではないかと深く疑っている。何故なら、次注で示す通り、「本蓮」は元は「聖ジョアン・バウチスタ教会」だからである

「本蓮寺」長崎県長崎市筑後町にある日蓮宗聖林山本蓮寺。本蓮寺公式サイト内の概要の歴史によれば、『日本最初のキリシタン大名大村純忠は大村の藩主ですが』、『長崎のこの地にはじめサンラザロ病院(日本で最初のハンセン氏病の病院)が建てられ、それに続いて修道院ができ、サンジョアン・バウチスタ教会ができたのでした』。『純忠の子喜前は加藤清正公と親交があり、法華経の素晴らしさを知ることになります』。『大村領内を見直し、大村の地には本経寺を建て、本経寺の二代目本瑞院日恵上人は本蓮寺を建てるに至ります』。『キリシタンでいっぱいの長崎の布教には、清正公より拝領の兜をかぶり、身を守って活躍したと伝わります』とある。ウィキの「本蓮寺によれば、天正一九(一五九一)年『来日したポルトガル船の船長ロケ・デ・メロ・ペレイラの寄附によってハンセン病患者のため聖ラザロ病院が建てられ、聖ジョアンバウチスタ教会も併設された』が、慶長一九(一六一四)年に『発布された禁教令により破却され、その後の』元和元(一六二〇)年、『発星院日真の弟子日恵が長崎に来て』、『跡地に一宇を建立』。正保五(一六四八)年(年)、『江戸幕府より朱印状を下付される』。なお、安政二(一八五五)年から四年の間、『長崎海軍伝習所で伝習生頭役を務めた勝海舟が』この寺に『寓居し』てもいる。原爆投下により、全山焼失したが、昭和二九(一九五四)年に再建されている、とある。

「板扉(切支丹井戸)」本蓮寺境内にある「南蛮井戸」と呼ばれるもの。本蓮寺公式サイト内の境内案内によれば、『南蛮人が堀った井戸なのでこう言います』。『この地は『サンジョアン ・バウチスタ教会』があり、禁令の出た後』、『教会は壊されましたが』、『この井戸は残りました。抜け道があるなど色々な伝説があります。南蛮井戸のすぐそばに離れの一室があります。昔、丁度この場所に『寝返りの間』がありました。『枕返しの間』ともいい、この部屋に寝た人は朝になったら頭と足が逆になるほど寝苦しいと言われている部屋です。住職は毎朝お経をあげるのが日課になっております』とあり、この「板扉」というのはその抜け道と関係がありそうには読める。

「大恩寺」これは皓台寺(こうたいじ:長崎市寺町にある曹洞宗海雲山普昭晧台禅寺)・本蓮寺とともに長崎三大寺といわれる浄土宗大音寺のことではあるまいか? ウィキの「大音寺によれば、慶長一九(一六一四)年に『伝誉関徹の開山により創建された寺で、以後』、『長崎奉行の帰依を得て寺地や堂宇の寄進を受けている。江戸時代には江戸幕府からも朱印状を与えられて隆盛した』とあるから、徳川家一代の位牌があっておかしくはない。

「物徂來」(ぶつそらい)は稀代の儒者荻生徂徠のこと。彼の本姓は物部(ものべ)氏で、かくも通称した。

「崇福寺」「そうふくじ」と読む。長崎市鍛冶屋町にある黄檗宗の寺院。本堂に相当する大雄宝殿、及び第一峰門は国宝建築で、興福寺

(長崎市寺町にある日本最古の黄檗宗寺院。山号は東明山。山門が朱塗りであるため、「あか寺」とも呼ばれる。古くより中国浙江省及び江蘇省出身の信徒が多いことから、「南京寺」とも称せられた。本堂に相当する大雄宝殿は現在、国重要文化財指定)

及び福済寺

(長崎市筑後町にある黄檗宗寺院。山号は分紫山。信徒には福建省の中でも漳州と泉州出身の華僑が多いことから、「漳州寺」「泉州寺」とも称せられた。本堂に当たる大雄宝殿などの建造物は、第二次大戦以前には国宝に指定されていたが、原爆によって焼失してしまった)

とともに唐寺の「長崎三福寺」に数えられる。寛永六(一六二九)年、長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が福州から超然(ちょうねん 一五六七年~正保元(一六四四)年:明末清初に長崎に来日した中国僧で福建省福州府生まれ)を招聘して創建。中国様式の寺院としては日本最古のもので、福建省の出身者が門信徒に多いことから、「福州寺」「支那寺」と称せられた(以上はウィキの「崇福寺長崎市及びそのリンク先のそれぞれのウィキ記載に拠った)。]

 

○慶長十九年より早くつぶる 日蓮宗の僧來る(Christians がこの僧を迫害す 道ふさぎと稱する大笠をかぶりて説教す) 切支丹の祟

[やぶちゃん注:「慶長十九年」一六一四年。この前年の慶長十八年二月に、『幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げた。また合わせて家康は以心崇伝に命じて「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」を起草させ、秀忠の名で』『公布』し、『以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法とな』った、『この禁教令によって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌』慶長十九年九月には『修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放され』ている(以上はウィキの「禁教令に拠る)。さても「慶長十九年より早くつぶ」れたというのは不審ながら(先の引用では同年破却とある)、「日蓮宗の僧來る(Christians がこの僧を迫害す 道ふさぎと稱する大笠をかぶりて説教す)」というのは先の「本蓮寺」の引用と極めてよく一致し、同寺由来の追加記載と読めるように思う。「切支丹の祟」は具体に書かれていないので不詳ながら、先の同寺公式サイトからの引用で、その切支丹絡みの井戸の近くに「寝返りの間」「枕返しの間」という怪奇な部屋が存在し、現在も住職が毎朝、誦経するとあるのが、まさにそれではあるまいか? 切支丹と関係ないのなら、わざわざ井戸の記載にそれを書くはずがないからである。]

乱読   梅崎春生

 

 ちかごろの学生が字を知らないことについて、評論家の杉森久英さんがどこかに書いていた。

「江戸末期のランジュクした文化」

 そのランジュクが正確に書けるのがほとんどいない。乱熟と書いたり卵熱と書いたりするそうである。

 わたしだってランジュクを正しく書けと言われたら、そらでは書けないかもしれない。では書かねばならぬときにはどうするか。字引きをひけばいいのである。辞書はそのためにあるのだ。

 乱熱や卵熱が間違いだという自覚が、いまの若い者には欠如しているらしい。戦後の国語教育のせいもあるだろう。しかしわたしたちでも学校教育で無制限に漢字を教わったわけでもないし、また習った字を全部覚えているわけでもない。実際に書き取りでもさせたらいいかげんのものである。しかし「爛熟」はランジュクである、という文字の感覚だけはしかと保有している。読めさえすれば書くときは前述のごとく辞書を使えばいい。

 その感覚をわたしたちはどこから得たか。教科書からであるが、教育書以外の乱読からも得た。いまの若い者は映画だのテレビだのにうつつをぬかして、乱読の習慣がないのだろうと知り合いのある大学生に話したら、

「そりやむりですよ。乱読しようにもいまの新聞雑誌のたぐいはみんな当用漢字だけで、むつかしい字にはお目にかかれません。だからあなた方先輩たちのように、文字において爛熟するわけにはいかないです」

 との答えだった。そう言われてみるとなるほどそんな気もするが、また何か間違っているような気もする。この間題はいずれあらためて考え直してみようと思う。

 何からこんな問題になったのか。ああそうだ、少年雑誌のことからだった。

 いま回想するに、大正末期の少年雑誌は実に反米的風潮にあふれていた。「日米未来戦」なんていう小説が堂々一年間連載されて、さいごには日本艦隊がアメリカ艦隊をめちゃくちゃにやっつけて、アメリカはわが国に和をこい、太平洋上に平和の光がおとずれるというような筋である。

 題は忘れたけれども、各国の少年が自分の愛機を操縦して世界一周を競争する小説があった。ここでもアメリカ少年は卑劣な悪役で、日本の少年機のガソリンをそっと抜いて飛べなくしたりする。すると日本少年に自分の手持ちのガソリンをわけてくれるのがイギリス少年で、けっきょくどうなるかというと一等は日本の少年、すこし遅れてイギリス機が二着。アメリカ少年は卑きょうなことばかりをしたあげく、天罰のためかどうかしらないが、洋上に不時着してびりに落ちるという結末になっていた。

 わたしたちはそんな小説を胸おどらせながら読んだ。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第四十三回目の昭和三六(一九六一)年二月十五日附『西日本新聞』掲載分。前回の末尾が枕となっている。

「杉森久英」(明治四五(一九一二)年~平成九(一九九七)年)は小説家。石川県七尾市生まれで金沢市で育った。石川県立金沢第一中学校から第四高等学校を経て、昭和九(一九三四)年に東京帝国大学国文科卒業後、旧制埼玉県立熊谷中学校(現在の埼玉県立熊谷高等学校)の教師となったが退職、その後に中央公論社編集部に入社するも、編集者という職に自信を失って再び退職、大政翼賛会文化部や日本図書館協会などを経て、戦後は河出書房に入って『文藝』の編集に従事、昭和二二(一九四七)年には『文藝』編集長に就任している。昭和二八(一九五三)年に短篇「猿」が芥川賞の候補になったのを機に作家専業となり、伝記小説の分野で活躍、昭和三七(一九六二)年には同郷の作家島田清次郎の伝記小説「天才と狂人の間」で直木賞を受賞した(以上はウィキの「杉森久英」に拠った)。

「日米未来戦」冒険小説で一世を風靡した作家宮崎一雨(いちう 明治一九(一八八六)年或いは明治二二(一八八九)年~?)が『少年倶楽部』に大正一一(一九二二)年一月号から翌年二月号まで連載した「小説日米未來戰」であろう。連載終了後の大正十三年八月二十五日には単行本「日米未來戰」(大日本雄弁会刊)が出ている。これは上田信道のサイト内の「大正期における日米未来戦記の系譜」(『児童文学研究』第二十九号(一九九六年一月十一日日本児童文学学会発行)に詳しい。

「各国の少年が自分の愛機を操縦して世界一周を競争する小説」不詳。識者の御教授を乞う。]

2016/08/02

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   隱逸の扉

    隱逸扉(いんいつのとぼそ)

 

常陸の國に入りて、筑波山(つくばさん)、水無能川(みなのせがは)、櫻川(さくらがは)は名のみに、花もなごりなく散過ぎたれど、靑葉のかげ、波をそめ、時鳥の聲、はつかにきこゆるぞ、遊戯(ゆうげ)、猶、春におとらぬ。爰に又、時ならぬ霞山(かすみやま)にわけいれば、木々のこずゑを重て森々(しんしん)としげく、日影も洩れぬしげ山の、陰(かげ)くもりたる夏木立をぞ號(なづ)けてかくは、いふべけむ。里をはなれ、廿四町計り過ぎて、向ふを見やれば、東西南の三方(みかた)ふさがり、北の方を請けたる山鼻の岩(いは)つらに、片よりて、ひとつの柴の庵あり。方二間にたらずと見ゆ。かく立ちはなれたる方にも住(す)めばすむ人の有る哉、誠や西行法師の諸國修行(すぎやう)して、まゝかゝる事を見てしより、たゞにやみなんは、ほひなし、と集めて撰集抄となしけんも宣(むべ)なるかなと、おもひおもひたどりつきぬ。柴の戸おしあけてみれば、ひとりの僧あつて、本尊彌陀の前に首(かうべ)を傾ふけ、掌(たなごゝろ)を合せたり。今、勤行の折りと覺ゆ。云(もの)いひでんには、心、散亂せん、靜まりてこそ、と立ちたるながら、内のさまをみるに、捨つる世といひながら、いかに渡りたる朝夕の習ひにや。土の上に茅(かや)を敷きて座とし、茅を以て壁とす。松の枝を藤絡(から)みて佛壇となし、佛の前には燈明の土器有りて、火は消えたる香爐、徒(いたづら)に煙(けふ)り絶えて、花瓶に松のたちたるのみ、靑し。身にそふる麻ぎぬ、麻の衣の外、又なし。糧(かて)の用意と覺しき器財しかじかなく、石をかなわにし、土釜(とふ)ひとつ置き、ちさき桶(をけ)に竹の柄杓(ひしやく)、硯(すゞり)、筆(ふで)のみ有りて、書捨(かきす)てたる反古(はうご)、少々見ゆ。外(ほか)ざまに住家(すみか)みるだにいぶせく哀れなるに、立寄りたる調度(てうど)の有りさま、殊更に心すみて、いかなる人の德を隱してかくれ住むにや、早く、とはまはし、と思へど、既に一時(じ)計り、此の僧、終(つひ)に身じろく氣色(けしき)なく、合掌の手をゆるめず、さして唱ふる言葉もきこえず。ふしぎやうつぶしながら、寢つきたる物か、今は、ものいひてん、と、ちかくよりて、是や是や、と、いふに、又、答ふ事なし、手に取りつきて、言(もの)いふに、よのつね、ひやゝかにて、生ける身に、やうかはりて覺ゆ、こは、いかに、と腦(なづき)をいらふに、又、寒し、高聲(かうじやう)に言へども、つひに答へず。爰に知んぬ、此の人、往生の素懷(そくわい)をとげぬと、さぞな、命終(みやうしう)も、目出度き事、と思ひしらる。世には類ひなき隱逸の人も有りけり。身をうきものにし、世の常なきを辨(わきま)へて、山野にかくるといへど、又、かくのごとき人を見ず、手にちかき反古(ほうご)どもとりてみれば、類ひなき筆の跡して、歌どもかけり。無常と隱遁の心より外、又、他事なし。山居を卑下(ひげ)して讀めるにや、

 

   草の戸にすむかひありと見えながら

       木の間の月ぞ影くもりける

 

    一所不住の心とおぼしくて、

 

   松にだになるればしとふおもひあり

       奧よりおくの山を尋ねん

 

    元日と前書ありて、

 

   一とせのきのふにくれておどろけば

       ことしもけふの入相のかね

 

    初發心(しよほつしん)の歌か、

 

   名にたてる霞のやまをこゝろ見て

       くらき道こそなげかれにけれ

 

    終焉ちかき頃の歌なるべし、

 

   かぎりあれば泊りの磯に住みはてず

       霞の浦も春はくれ行く

 

此歌を案ずるに、泊の磯隱岐(おき)の國なり。此の人、其の國を離れ來て、爰に隱れたる事、しるし、海上いくばくの道をこえて、此山におりし、故こそ有るらめ、此の後、隱州(いんしう)修行(すぎやう)の次(つい)で、寺により、在家(ざいけ)に入りて、さる僧をしれるや、と、とへど、こなたに名をしらねば、年のほどゝ、その人のかたちとを語るに、定かにしる人なければ、止みぬ。書きのこす反古の中に、名と覺しき事のなかりしも、いつかうに名利を捨てたる人には有りけり。古歌なんども多く、自(みづか)らよめるも多く見え侍れど、事しげゝれば、のこし侍る。扨、彼の庵をくづし、薪(たきゞ)として一ぺんの煙(けむ)りとなし、死骨(しこつ)と本尊の彌陀とをとり奉り出づるとて、

 

   とし月を松ふく風になぐさみて

       つひの行衞も煙りなりけり

 

是より、信州に越えて善光寺に詣で、白骨(はくこつ)ををさめ、ちかきわたりに庵むすびて、念佛する僧の年高きに、此事を語り、本尊を守り參らせよといへば、一僧、打ゑみ、左計(さばか)りかけはなれたる桑門(よすてびと)に、結緣(けちえん)あらまほしく侍る、とて限りなくよろこび、佛をすゑ參らせ、卒都婆(そとば)、新(あらた)にして、無二に吊(とぶら)ふけしきなれば、爰に一夜とまり、能くあつらへつけてまかでぬ。

 

■やぶちゃん注

・「水無能川(みなのせがは)」現在は「男女川」或いは「水無川」と書き、「みなのがわ」と読む。現在の茨城県の筑波山に源を発し、筑波山の南麓で広大な田畑の中を細々と南流して桜川に合流する川。歌枕。

・「櫻川(さくらがは)」現在の茨城県の南西部を流れ、霞ヶ浦に流入する利根川水系の一級河川。桜川市北部の岩瀬地区の鍬柄峠付近にある鏡ヶ池を源として南へ流れ、土浦市のJR土浦駅付近で霞ヶ浦に注いでいる。世阿弥の謡曲「桜川」で有名であり、磯部稲村神社を中心として古くからの桜の名所として知られ、「西の吉野と東の桜川」と並び称される(ウィキの「桜川」に拠る)。

・「はつかに」ほんのちょっと。

・「霞山(かすみやま)」固有名詞ではなく、霞の懸かったとある山、ととる。それが本話柄のしっとりとした味わいのためにも、よい。

・「廿四町」二・六キロメートル強。

・「方二間にたらず」凡そ三メートル六〇センチメートル四方相当。

・「花瓶に松のたちたるのみ、靑し」この描写から、死後、数ヶ月と読む。

・「一時(じ)計り」二時間ほど。

・「腦(なづき)」頭部。

・「いらふ」「弄(いら)ふ」。触れる。

・「さぞな」「さぞ」(副詞「さ」+係助詞「ぞ」)の感動的表現。「なるほど・如何にも」「定めし」。

・「入相のかね」日暮時に撞かれる鐘の音。

・「初發心(しよほつしん)」悟りに向かう菩提心を初めて起こすことであるが、ここは寧ろ、そう心得て、遁世僧となった直後の新発意(しんぼち:出家したての若き僧)の頃の彼を指していると読みたい。

・「泊の磯隱岐(おき)の國なり」隠岐に現在、「泊の磯」に相当する地名はない。鳥取県東伯郡湯梨浜町泊に泊港は存在するが、ここは伯耆であって隠岐ではない。「海上いくばくの道をこえて」とある以上、明らかに隠岐にこの遁世者の故郷はなくてはならぬ。かの隠岐なればこそ、ここはまた、よい。識者の御教授を乞う。

・「事しげゝれば」何かとせねばならぬことが多く、相応の荷もあったので。見る通り、宗祇は彼を火葬になし、その骨を拾い、本尊の阿弥陀像とともに善光寺まで持って行って納め、その庵跡をも崩して焚き上げて追福していることなどを受けているのである。

・「あつらへつけて」(追善供養の儀を改めて)十全に依頼して。

 

 本話、一読忘れ難い。私は怪奇談とは受け取らず、しみじみとしたリアリズムの映像として最後まで読む。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)の解題では殊更に「雨月物語」の「青頭巾」に似ている、とするが、私は青頭巾」を愛することに於いて人後に落ちないつもりながら(リンク先は私の電子テクスト。他に私の教師時代の授業ノート及び正字正仮名遣現代語もある)、本話の方が遙かに自然であり、佳品であると思うている。

行脚怪談袋   嵐雪上州館橋に至る事 付 僧狐に化さるゝ事

  五の卷

 

  嵐雪上州館橋に至る事

  
 僧狐に化さるゝ事

 

此の嵐雪も天和(てんな)年中の誹人なり。生國は上州山田郡依田村のむまれ、父は當むらの百姓にて、河邊喜内(かはべきない)と號す。嵐雪稚名を喜太郎と云ひしが、幼少より才知人に勝れ、衆人のほめものに成り、十四歳の時江戸へ出(い)で、鎌倉河岸(がし)に緣家の者在りしに便りて、能き家職(かしよく)も仕覺えて、江戸に於て一身代を取立てさせんとの父が了簡なり。緣家の者共是(これ)によりて、喜太郎を近所の紺屋へ奉公に遣はし、十四歳より十七歳迄、彼(か)の方に於て其(その)職を覺えさせるに、元來器用なる者故、委敷くその職の道を仕覺え、今は家職の片腕にも成るべき所に、彼の喜太郎右の紺屋の隣家に、嵐丁と云へる俳人あり。能く俳道に達して、門人も數多(あまた)ありけるが、喜太郎も隣家故、隙あれば嵐丁方へ至りしが、後は俳道の附合も覺え。甚だ面白き事に思ひ、其の後は只管(ひたすら)に彼れが方へとのみ行きて、家職の事うとくなりしが、終には是迄覺えたる紺屋の職を捨て、嵐町が門人となる。父母も事を傳へ聞き、こゝろならず思ひしかども、至つて深き志しの由を聞きて、是も一つの藝なるべしと、その儘指置きけるが、はたして喜太郎四五年の内に、あつぱれの俳人となり。評とくを嵐雪と號し、師の嵐丁(らんちやう)は程なくして身まかりしが、嵐雲其の跡をつぎ、宗匠となりしが、又も自分の及ばざるを思ひ、芭蕉翁の門人となり、是よりいよいよ其の道にかしこく、俳力嵐丁に彌(いや)まして、世にその名を顯はしけり。嵐雪ある時古郷をしたひ。今は父母も古人となりしと云へ共、親類の者あれば、上州に至り彼の方(かた)を便り、父母の石碑をも拜せんと。江戸下町を出でゝ、板橋を通り上州へ越え、同國衣までの里、玉川の上館(うへたて)はしにいたる、此の館橋(たてはし)と云へるは、古人北條氏政關東を領せし時分、始めて此の橋を掛けられしより、今に破損等あれば、その領主より修複ある事也。橋の長さ一町にして、らんかんきぼうしありて、いとはなばな敷(し)き橋也。然る所此の橋詰(はしづめ)に旅僧(たびそう)と見えて、高らかに經を讀みていたり。嵐雪が此の所に來る頃は、いまだ早朝にして、日も漸う東海に上るころなれば、霧頻(しき)りに深くして、通る人もあらず。されども僧は一心に經を讀誦(どくじゆ)なし居ける。嵐雪是を見て、此の僧は定めて大願の事にても有るべしと、世捨人の身とて、殊勝さよと取りあへず。

 

  ぎぼうしの傍に經よむいとゞ哉  嵐雪

 

と吟じ、程なく僧の傍に至り見るに、こはいかに彼の僧頭(かしら)と五體(ごたい)を草の蔓(つる)にてくるくるとまかれ、手も後手(うしろで)になして居(ゐ)ける、自分(じぶん)草のつるをとき捨てんとも思はず、只(ただ)目をねむり一心に阿彌陀經を讀誦す。嵐雪其の僧のをかしげなるを、心得ぬ事におもひ、則ち僧に問うて申す樣、貴僧は見れば旅人(りよじん)なるらんが、いまだ人通りさへなき早朝といひ、殊に草蔦(くさつた)の類をもつて身をからめられ、一心に經を讀誦する體、心得ぬ事かなと、高らかに問ふに、僧はなほ一言の返事もせず居たりける故、嵐雪は彌々(いよいよ)不審(ふしん)し、手をとつて僧をゆすぶる。僧是によつて目をひらきて、嵐雲をしかじかと見、その後自分の身に蔦かづらの卷きたるを見、大きに驚く體(てい)なり。嵐雪更に心得ず僧にそのゆゑを問ふ。僧嵐雪に尋ねけるは、その元は何れの人ぞ、旅人(りよじん)なりとことふ。僧又夜あけしやと問ふ、嵐雪しかりと云ふ。其の時僧不思議の思ひをなす氣(げ)にて語りけるは、某は諧國修行の六部なるが、是より下野(しもつけ)の方(かた)へ至らんが爲めに、昨日此の先の野邊(のべ)を、こなたへ急ぎ申す所、日もかたむき空くらくなりしゆゑ、袋(ふくろ)よりだんごを取出し、食せんと存じ候所、傍より大きなる狐飛來り、右の袋をくはへて逃げ行かんと致せしを、我れ追ひかけ、杖を以て彼の狐をしたゝかに打ちのめし、終に袋を取かへし候ひて、其の後團子も食し終り、道二三町も野邊を行く所に、既に日も暮れに及びし故、里へ出でむもはるばるなれば、野宿せんと腕を枕にして、兎(と)ある木陰に休み居(ゐ)しが、先の方より大勢の供廻りを召され、いかにも大名の御入部(ごにふぶ)の如く、行列正しくふり來られ候が、御供の面々我等が休み居(ゐ)しを見て、此の僧は膽(きも)のふときやつ哉、起直りもせず、寢て居る事の無禮さよ、いはゞ慮外者なりと、大勢の面々われを取りまくにより、われらは、道の傍なれば御邪魔にも成るまじと、伏せり居候由を申すと云へ共曾て聞入れられず、大勢をり重なり、我れを高手小手にいましめ、殿の御前(ごぜん)へ引出せり。殿は乘物の戸をひらかせ、甚だいかり給へる顏色(がんしよく)にて、諧國修行の身として、おそるべきを恐れず、禮儀をも知らざるの段、大膽至極(だいたんしごく)なり。此のもの其の分にすべからず、我が前にて首をはね申すべしとの仰せなりしかば、傍の面々敷皮(しきかは)をもち來り、それへ某を乘せ、御駕脇(おかごわき)の人、氷のごとくなる刀(かたな)をぬいで、我れらが後ヘ立ちたり、我等かなしく、ひたすらに詑言(わびごと)なすといへども、たれ聞入(きゝい)れらるゝ者もなければ、今は某もおもひ切り、とても叶はぬ處也と、兩手を合せ目を塞(ふさ)ぎ、一心に阿彌陀經を繰返し、讀誦なせしに、殿は右の太刀取りを呼ばられ、何やらん告げ給ふ樣(やう)にて、手間取り候ひしが、其の後かの太刀取(たちとり)立歸り、我等をばゆすりうごかされ候ゆゑ、據(よんどころ)なく目をひらき見しに、太刀とりにはあらずして其許なり。野邊にはなく此の橋のうへなり、殿を初め大勢の供まはりと見えしは消えうせ、からめられし繩と覺えしは、ケ樣の蔦かづらのたぐひ也。是を思ひ合(あは)するに、昨夕方打ちたゝきし狐のそのはらいせをせんと、かりに大家の供廻りの體(てい)にもてなし、我らをばかし候なりと、おぞけふるひ、扨々(さてさて)ひやひなる目にあひしものかなと語りければ、嵐雪も奇異の思ひをなして行過ぎにけりとぞ。

 

■やぶちゃんの呟き

・「嵐雪」蕉門十哲中の最古参の一人であった服部嵐雪(はっとりらんせつ 承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年:芭蕉より十歳年下)。但し、晩年には芭蕉とは不協和音が多くなって接触が少なかった。なお、本文はまたしても事実と相違することが散見する。ウィキの「服部嵐雪」により引くので比較されたい(一部の記号を変更した)。『幼名は久馬之助または久米之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、寒蓼庵、玄峯堂、黄落庵など。淡路国三原郡小榎並村』(こえなみむら:現在の兵庫県南あわじ市榎列小榎列(えなみこえなみ))出身。『松尾芭蕉の高弟。雪門の祖』。『服部家は淡路出身の武家で、父服部喜太夫高治も常陸麻生藩主・新庄直時などに仕えた下級武士で、長男である嵐雪も一時、常陸笠間藩主の井上正利に仕えたことがある。若い頃は相当な不良青年で悪所(遊里や芝居町)通いは日常茶飯事であった』。延宝元(一六七三)年に『松尾芭蕉に入門、蕉門で最古参の一人とな』った。延宝六(一六七八)年の『不卜編「俳諧江戸広小路」に付句が二句入集したのが作品の初見』。延宝八(一六八〇)年には『同門宝井其角の「田舎之句合」に序を草し、「桃青門弟独吟廿歌仙」に入集、以後「虚栗(みなしぐり)」、「続虚栗」などに作品を採用され』ている。元禄元(一六八八)年には「若水」を刊行し、同年』に『立机して宗匠となり』、同三(一六九〇)年には『「其帒(そのふくろ)」を刊行して俳名を高めた』。しかしやがて自分勝手な俳諧点業を興行したり、芭蕉の「かるみ」の撰集「別座敷」(元禄七(一六九四)年刊)を批判したりしたため、芭蕉の怒りを買った(以上の一文のみはウィキではなく、一九八九年岩波文庫刊堀切実編注「蕉門名句選(上)」の解説を参考にした)。

『作風は柔和な温雅さを特徴とする。芭蕉は嵐雪の才能を高く評価し』、元禄五(一六九二)年三月三日の桃の節句には『「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称えたが、芭蕉の奥州行脚にも嵐雪は送別吟を贈っていないなど、師弟関係に軋みが発生していた』。それでも元禄七(一六九四)年十月二十二日に『江戸で芭蕉の訃報を聞く』や、『その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開き、桃隣と一緒に芭蕉が葬られた膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下にかくねむるらん雪仏」であった。其角と実力は拮抗し、芭蕉をして「両の手に桃と桜や草の餅」と詠んだ程であったが、芭蕉没後は江戸俳壇を其角と二分する趣があった』。『その門流は、雪門として特に中興期以後一派を形成した』。嵐雪自身の辞世の句は、

 

 一葉散る咄(とつ)ひとはちる風の上

 

である。「咄」は禅語で「喝」に同じい。

・「上州館橋」上州館林。現在の群馬県南東部にある館林市(たてばやしし)市内としか思われないが、「館林」を「館橋」と旧称したことを確認出来ないので不審。

・「天和(てんな)年中の誹人なり」「誹人」はママ。問題ない。問題なのは致命的に芭蕉と同様に天和(一六六一年から一六八四年)中の俳人とするトンデモ部分である。

・「生國は上州山田郡依田村」上野国山田郡は現在の群馬県東部に存在した郡であるが、「依田村」というのは確認出来ない。「依」の字を含む村名はなく、あるのは富田村・下新田村である。そもそもが誤りで前注通り、嵐雪の生国は淡路国三原郡小榎並村で全くの方向違いである。ところが、天保六(一八三五)年記とする「芭蕉記」(で画像と活字化したものが読める)には、

   *

                  嵐雪

右生國ハ上州山田郡依田村父ハ百姓にて河部喜門といふ

嵐雪稚名喜太郎といふ先生嵐丁(ランテイ)門人後ニばせを門弟ニ成

   *

とあり、こうした虚説が一部に明確にあったことが判る。

・「父は當むらの百姓にて、河邊喜内(かはべきない)と號す」誤り。前注通り、現行の定説では父は武士で服部喜太夫高治と称した(「喜」の字のみ一致)。前注引用の「芭蕉記」とは一致する。

・「稚名を喜太郎」前注に従えば幼名は「久馬之助」「久米之助」であるが、嵐雪は長男であるから、幼名としては父の「喜」の字を受けてこの名であってもおかしくはないとは言え、前注引用の「芭蕉記」とも一致する。

・「十四歳の時江戸へ出(い)で……」以下の記載は何に拠ったものか不詳。虚説と断じて無視した方が無難である。

・「嵐丁」前注引用の「芭蕉記」には確かにそう出る。しかし事蹟不詳。

・「嵐町」ママ。名は書き換え字をしばしば用いるので、安易に誤植と断ずることは出来なぬ。

・「衣までの里」不詳。識者の御教授を乞う。

・「玉川の上館(うへたて)はし」不詳。識者の御教授を乞う。

・「此の館橋(たてはし)と云へるは、古人北條氏政關東を領せし時分」天正一二(一五八四)年に北条氏政(天文七(一五三八)年~天正一八(一五九〇)年)の子氏直が館林城の長尾氏を攻め、翌年に落城、館林城は北条氏規に与えられ、館林領は北条氏の直轄領となっている。

・「此の橋」本篇のロケーションであるが、不詳。識者の御教授を乞う。

・「一町」約百九メートル。

・「きぼうし」擬宝珠。

・「ぎぼうしの傍に經よむいとゞ哉」またしても嵐雪の句ではない。「續猿蓑」の「卷之下」の「龝之部」の「虫 附鳥」のパートの冒頭に出る、向井去来の才媛の妻で、去来没後に剃髪して「貞松」と称した可南(かな)の、

 

 きぼうしの傍(そば)に經よむいとゞかな 可南

 

という句であるが、この句の「ぎぼうし」は橋の欄干の擬宝珠ではなく、単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ギボウシ属 Hosta を指すと解釈されている(因みに本属の和名は「擬宝珠(ぎぼうしゅ)」の転訛であるが、これはこの植物の莟又は包葉に包まれた若い花序が、柱飾りの擬宝珠に似ることに由来する)。

・「自分(じぶん)草のつるをとき捨てんとも思はず」「自分」はかく底本ではルビを振るが、私は「おのづと」と訓じたいところである。

・「その元」「そこもと」と同じい。武士が用いた二人称。そなた。

・「ことふ」答ふ。

・「六部」「ろくぶ」。「六十六部」の略で、法華経を六十六部書写し、全国六十六ヶ国の国々の霊場に一部ずつ奉納して廻った僧。鎌倉時代から流行した。江戸期には単に諸国の寺社に参詣する巡礼又は遊行聖(ゆぎょうひじり)を広く指した。白衣に手甲・脚絆・草鞋(わらじ)掛けで、背に阿弥陀像を納めた長方形の龕(がん)を背負い、六部笠(藺(い)で作られたもので中央と笠の周囲の縁(へり)を紺木綿で包んだもの)を被った姿で諸国を廻った。但し、江戸期にはそうした巡礼姿で米銭を請い歩いた乞食も多くいた。

・「二三町」二百十九~三百二十七メートル。

・「御入部(ごにふぶ)」領主が、その領地・任地に初めて入ること。入府。

・「其許」「そこもと」。前掲。

・「ひやひなる目」形容動詞の口語形で「非愛」の転訛した「ひやい」であろう。危ない・危険だの意。

 

 にしても、嵐雪も感心するほどに「一心に阿彌陀經を繰返し、讀誦な」したにも拘わらず、狐の妖術が破られ、開明することがなかったのはちょっと不審である。私は気に入らない。

譚海   梅崎春生

   譚海

 

 昔「譚海」という少年雑誌があった。わたしはそれをとつていた。買いに行くのではなく毎月配達されるのである。

 いまなら店員が自転車かスクーターで配達するのだろうが、そのころの配達は相当年配のおっさんで、黒いふろ敷に雑誌を山ほど入れ、それを背負っててくてくと一軒一軒廻り歩いた。あれが大正時代の配達人の風俗だったのだろう。

 この人が冠木(かぶき)門をくぐって庭先に姿を現わすと、わたしたちは声を上げてよろこんだ。

 これは配達人ではないが、お菓子屋さんが同じかっこうで、ときどきやってきた。背中のふろ敷包みをとくと木箱が五段くらいあり、その一つ一つの木箱がさらにたてよこに小さく区切られている。その区切りの中に、各種の菓子が小量ずつ入っている。菓子の形をながめ少しつまんで食べたりして、これをいくら、あれをいくらと注文する仕組みになっていた。つまりこのおっさんは菓子の見本を持ち歩いているのだ。

 このおっさんが姿を現わしても、わたしたちはよろこんだ。サービスにわたしたちに菓子をつまませるからだ。

 でもどちらかというと、本屋のおっさんのほうがわたしにはうれしかった。うちにこどもの本はあまりなく、わたしは活字に飢えていた。

「譚海」は他の少年雑誌、たとえば「少年倶楽部」などより小型でページも薄かった。値段も安かったに違いない。おふくろがこれを選んだのは教育的効果を考えてではなく、主として値段の点からだろうと思う。

 そんな薄い雑誌だから、いくらていねいに読んでも二日もすれば全部読み終ってしまう。読み終るとバックナンバーとして本だなに飾っておく。ときどき取り出してまた再読三読する。あのころの「譚海」にのっていた小説の題名や筋、さし絵の人物の形までわたしは思い出せる。

 うちのこどもが雑誌を買ってくれとせがむ。金を渡すと自分で買ってきて、せっせと読みふけっている。見るといまのこども雑誌には実に漫画が多い。中には巻頭から末尾までオール漫画という極端なものもある。わたしたちのときは漫画はほとんどなかった。あっても、いまのようにどぎつくはなかった。こどもの好尚が時代とともに変ったのだろうか。

 わたしは一概に漫画が悪いとは思わないが、昔の少年小説などにくらべるとお手軽で安直である。努力して読むということがない。努力しないでも向うから押しつけてくるから、受け身のままながめていればいい。ということは、いまのこどもは努力することがきらいだということになる。

 やはりラジオやテレビや映画などで訓練され、娯楽というのは受け身の姿勢で楽しむものだという習慣が、いまのこどもの身についているのだろう。

 いまの若いものは字を知らない、誤字ばかり書くというのもそれと関連がある。

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第四十二回目の昭和三六(一九六一)年二月十四日附『西日本新聞』掲載分。

「譚海」少年少女雑誌が乱立した大正期から戦時期まで存続した博文館の児童雑誌。大正九(一九二〇)年一月の創刊時、児童雑誌総合化の流れの中で、「少年少女」の棲み分けを行わないこと、創作読物を中心とすることなどの編集方針を採用、また戦時中は存続のために成人向科学雑誌に転換を図るなどした。昭和一九(一九四四)年三月廃刊(以上は出版社「金沢文圃閣」公式サイト内の「少年少女譚海」目次・解題・索引[編集復刻版に拠った)。]

2016/08/01

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   高野に登る五障の雲

    高野登五障雲(たかのにのぼるごしやうのくも)

 

Gosyounokumo

 

紀州高野山(かうやさん)は、都卒(とそつ)の内院(ないゐん)を表(へう)し、大師入定の扉(とぼそ)、南面に立ち、燈籠(とうろう)堂、御供所(くうしよ)、求聞持(ぐもんぢ)の行堂(ぎやうだう)、南に尊(たふと)くならびます、松杉の老木、星霜思ひしられ、蒼天に梢を高く、白雲に枝ひろごり、日影の朧にもるゝや、さながら、其の曉(あかつき)と、たどらる。御廟の橋は二間計りと見えて細川、靑々(せいせい)と淺く流るを、惡業深きものは得渡らで、歸る事まゝありとかや、其のこなた十町計りに玉川の水あり。幽(かす)かなるほそみぞ也。此の水、毒ありとて、大師の御詠(ごえい)に、

 

   忘ては汲みやしつらんたび人の

      高のゝ奧の玉川の水

 

此の間、奧の院より大塔(たいたふ)まで一里、道の左右、皆、なき人のしるしとて、木石にきざみ、書殘せる名のみ、幾千萬といふ、數をしらず。大塔、小塔、金堂、大師堂、鎭守の御社(みやしろ)、事每(ことごと)に、信心おこり、物々(ぶつぶつ)に菩提の種(たね)ならぬ、なし。院々(いんいん)谷々(たにたに)のたときさま、日をわたつて語るとも盡くべからず。歌には月、雪、花、燈、松、其曉なとど、よめり。南紀は本國なれば、若かりし時、ちかく詣でしより、發心(ほつしん)の因となりし、我ながら、嬉しき宿世(すぐせ)とおもふ。老の後、北京にのぼりて久しく怠り侍る上(うへ)、東西修行(すぎやう)の志し、出來侍れば、御暇申(おいとまを)しに、去々年(をととし)、詣ず、都、出て、あす、生玉(いくだま)の大坂に至り、天王寺の靈場を拜し、住吉、堺の浦の眺望、爰かしこ、あそびありきて、此の日は三日市といふ迄來て、とまりぬ。紀の見峠にのぼり、東家(とうげ)におるれば、橋本の宿(しゆく)、紀の川渡(わたし)あり、心敬(しんけい)法師、爰を過ぐとて、

 

   水上は白雲たかきよしの山

       梢かげさす花の紀の川

 

といひ捨てし吉野川(がは)の末(すゑ)を越へて、淸水、かね井、紙やの里、かぶろの宿(しゆく)、と數へ行き、日高なれど、あす、登山(とうざん)と志してとまりぬ。相やどりに女の詣でみたり、亭主に山の案内(あない)をとふ。語つて云く。是より十八町行きて四寸石あり。其の末、四十八曲(まがり)の坂をのぼれば、外院(げゐん)の不動、石佛にて覺範(かくはん)の作也。その十町計り行きて左に女人堂あり。夫(それ)につゞきて、内院の不動大師の作にてまします、此の御堂より奧へ一足も入りたまふべからず。必ず怖しき目を見る也。去(いん)じ春の頃も、つくしの人、男二人女三人、登山(とうざん)しけるに、女を女人堂に置きて、殘る二人、入堂する。二人の女は禁斷をおそれて、爰にこもる。一人の女、腹あしき者にて、はるばる心づくしの海上を詣でたるかひなく、寺院の有樣さへ拜まず歸らん事、口惜しくも心うし、すべて女をきらひ給ふ開山の掟こそ心得ね、既に世尊(せそん)も一切の女を生々(しやうじやう)の母と思へ、と説き給ふ、母なくて出世し給ふ權化(ごんげ)も知識も有るべからず、と、いひて、既に山上に入らんとする時、蒼天、俄かにかきくれ、雷電、山を崩すが如く、黑雲、落ちて動搖すると見えし、彼の女、行衞なく失せぬ。同行(どうぎやう)、驚き尋ぬるに跡方(あとかた)なし、後々聞くに和泉(いづみ)の坪坂(つぼさか)の邊(ほと)り、松が枝にふたつにさかれてかゝりしとぞ、誠に遠く思ひ立ちたる志はすしようながら、勿體(もつたい)なく佛をあざむき奉りし我意の所爲こそ、愚かなれと語りければ、皆、舌をまきて、おそる。いつの頃にか、とらんといへる仙女(せんによ)、和州(わしう)の金峰(きんぷ)は、女人、のぼらざる山也。然れ共、我が戒行(かいぎやう)すぐれたれば、何ぞ、よのつねの女にひとしからんと、彼の嶽(たけ)にのぼるに、黑雲、東西に、雨瀝々と車軸をなし、前後闇然(あんぜん)として行先も見えず、是にも猶豫せず空中を招けば、一つの靑龍、雲を蹴立てゝ飛行(ひぎやう)す、是に跨(またが)りてのぼらんとするに、靑龍、おそれ、登り得ずなりけるとかや、通力(つうりき)自在の神仙すら、しか也。況んや、大俗卑賤の女においてをや。うつゝなき所爲には有りける。

 

 

■やぶちゃん注

・「高野」「たかの」と訓じているが、高野山(こうやさん)のこと(引用される空海の和歌でも「たかの」と訓じている)。高野山は高地にある盆地状の中に連山がある、その総称であって、固有の「高野山」という山は存在しない。標高は高野三山と呼ばれる転軸山が九百十五、楊柳山が千八、摩尼山千四メートルで、奥之院の弘法大師御廟に最も近いのは転軸山である。高野山全体の高さは八百から九百メートルほどと表現されるようである。山内の寺院数は現在、真言宗総本山高野山金剛峯寺・大本山宝寿院の他、子院が百十七か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている(ウィキの「高野山」に拠る)。

・「五障」この場合は、原義である狭義の仏説であるところの、女性は女性であるが故に梵天・帝釈天・魔王・転輪聖王(てんりんじょうおう)・仏身の五つの地位は得ることが出来ぬとする考えに基づく絶対の女性差別の思想を指す。それらの障壁をシンボライズするところの妖しい雲である。

・「都卒(とそつ)」「兜率天」の略。兜率天は六欲天の第四天で「内院」と「外院」があり、「内院」は、将来、仏となるべき弥勒菩薩が住して衆生済度のために修行しているところとされ、「外院」は天衆(てんしゅ/てんじゅ:梵天・帝釈天などの天部の諸神)の住む所とされる。

・「内院(ないゐん)」前注参照。

・「表し」表現(象徴)し。

・「大師入定の扉(とぼそ)」承和二年三月二十一日(ユリウス暦八三五年四月二十二日)の寅の刻(午前四時頃)、享年六十二で入定の地とされる「奥の院」の、空海がそこで今も生きて瞑想しているとされる「御廟(ごびょう)」の正面の扉。

・「燈籠(とうろう)堂」「御廟」の手前にある信者らが供える無数の灯明がゆらめく燈籠堂。治安三(一〇二三)年に藤原道長が現在の大きさに拡張したもので、中には千年近く燃え続けているとされる「消えずの火」が二燈ある。

・「御供所(くうしよ)」御供(ごくう)を調え供える場所。

「求聞持(ぐもんぢ)の行堂(ぎやうだう)」衆生に智慧を授ける虚空蔵(こくうぞう)菩薩を祈念する修法「虚空蔵求聞持法」(「ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」という虚空蔵の真言を一定の作法に則って百日間かけて百万回唱える修法。これを修した行者はあらゆる経典を記憶・理解して忘れる事がなくなるとされる)を行道する堂であると同時に、弘法大師は今もそこで同法を修しているとされる御堂である。

・「朧」「おぼろ」。

・「さながら、其の曉(あかつき)と、たどらる」「其の曉」は第一には後に本文にも記されるように歌語の常套句を引いたのではあろうが、私はこれは奥の院の鬱蒼とした厳粛な暗がりの中に朧に射す光りの移ろいを多様に示しながら、その幽かな光はまさ開祖弘法大師が境地に至って入定した、その本邦仏法の暁から曙の光の遷移としてあたかも追体験して辿るかのように感じられるという謂いであろう。

・「御廟の橋」「奥の院」の手前に架かる橋で、橋板は三十七枚(一時期、木製であったが、現在は原型である石製で復元されている)で、これは金剛界曼茶羅の三十七尊に因んでいるとされ、この橋より先が最上級の聖域と崇められている。下を流れる川は(本文では一見、以下で別な流れのように書かれてあるが)「玉川」と呼ばれ、奥の院の裏山に当たる楊柳山よから流れ出る清水が源である。

・「二間」三メートル六十四センチ弱。

計りと見えて細川、靑々(せいせい)と淺く流るを、惡業深きものは得渡らで、歸る事まゝ。

・「十町」一キロ九十一メートル弱。

・「此の水、毒あり」辰砂(赤色硫化水銀)が含まれており、実際に毒性があるとされる。但し、この一首、素直に読むなら、神聖な玉川(御魂の川)の水ということも忘れて、のニュアンスであろう。

・「大塔(たいたふ)」現在、金剛峰寺壇上伽藍の金堂の右後方にある多宝塔。原塔は弘法大師と真然大德の二代で七十年の歳月をかけて完成したと伝えられる、真言密教の根本道場の象徴として建立されたことから、正しくは「根本大塔(こんぽんだいとう」と称し、日本最初の多宝塔とされる。本尊は胎蔵大日如来(現在のそれは昭和一二(一九三七)年に再建されたもの)。

・「道の左右、皆、なき人のしるしとて、木石にきざみ、書殘せる名のみ、幾千萬といふ、數をしらず」これは寺院の伽藍群から「奥の院」に至る参道の周囲の情景であろう。ウィキの「金剛峰寺によれば、『奥の院参道に沿って並ぶ石塔の数は』十万基とも二十万基とも『言われ、皇族から名もない人々まで、あらゆる階層の人々が競ってここに墓碑を建立した。日本古来の信仰では、山中は「他界」であり、死後の魂の行くところであった。高野山周辺には、人が死ぬとその人の頭髪を奥の院に納める「骨上せ」(こつのぼせ)という風習がある。こうした古来の山岳信仰に、弘法大師の永眠する土地に墓碑を建てたいという人々の願いが加わって、この石塔群が形成されたものと思われる。奥の院には上杉謙信・景勝霊屋(たまや)、松平秀康及び同母霊屋、佐竹義重霊屋など、建造物として重要文化財に指定されているものを始め、平敦盛、熊谷蓮生房、織田信長、明智光秀、曾我兄弟、赤穂四十七士、法然、親鸞、初代市川團十郎』など、『古今の様々な人物の墓碑や、関東大震災・阪神淡路大震災・東日本大震災などの大規模な自然災害の犠牲者、太平洋戦争の戦没者らを慰霊する為の供養碑・供養塔がある。また芭蕉』『の句碑もある』とある。

・「南紀は本國なれば」宗祇の生国には近江説以外に紀伊説がある。

・「宿世(すぐせ)」「すぐせ」はママ。「西村本小説全集 上巻」では「すくせ」とルビする。前世からの因縁、の意。

・「北京」「ほくきやう(ほっきょう)」で、奈良を南京と呼ぶのに対して京都のことを指す。

・「生玉(いくだま)」現在の大阪府大阪市天王寺区生玉町にある生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)を「大坂」の最初の代表の礼式場として出したもの。

・「天王寺の靈場」現在の大阪市天王寺区四天王寺にある旧八宗兼学の荒陵山(あらはかさん)四天王寺。聖徳太子建立七大寺の一つとされる。本尊は救世(くせ)観音菩薩。

・「住吉、堺の浦」現在の大阪市住吉区にあった浦と、現在の大阪府堺市にあった浦。

・「三日市」現在の大阪府河内長野市三日市町。

・「紀の見峠」紀見峠(きみとうげ)。現在の大阪府河内長野市と和歌山県橋本市の境にある標高四百メートルの峠で、紀伊国と河内国の境であると同時に高野街道の中継地としてかつては賑わった。「紀伊見峠」とも表記される。

・「東家(とうげ)」現在の和歌山県橋本市東家(とうげ)。紀見峠を南に下った位置にある。

・「心敬(しんけい)法師」(応永三(一四〇六)年~文明七(一四七五)年)は室町中期の天台僧で連歌師。紀伊国生まれ。ウィキの「によれば、『幼いときに出家し、比叡山で修行』。四十五歳頃、『園城寺仏地院に住し、のち京都清水寺付近の十住心院の住持となり、権大僧都、法印に叙せられる。僧正徹に師事して冷泉派の歌人として知られる一方』、永享五(一四三三)年、『「北野社万句」の座に列するなど、連歌作者として次第に時代を代表する存在となる』。『作風は、正徹から受け継いだ新古今風を基礎に、表現対象の凝視と表現主体の沈潜とを重視する独特のもので、「ひえやせたる」風趣のうちに得意な感覚の冴え方を示している。和歌及び連歌の修行を仏道の修行と究極的に同一視する連歌論は、主著』「ささめごと」「老のくり言」「ひとり言」『などに強調され、次代の宗祇、猪苗代兼載、侘び茶の村田珠光ら茶人にも影響を与える。戦乱を避けて晩年を関東で過ごし』た。連歌集・歌集としては「心玉集」「心敬僧都十体和歌」があり、宗祇編の「竹林抄」に入集する連歌七賢の一人で「新撰菟玖波集」には最多数の入集を見る、とある。

・「淸水」橋本宿(東家の西直近)の紀の川の対岸、現在の和歌山県橋本市清水か。

・「かね井」不詳。この前後周辺には近い発音の地名を現認し得ない。識者の御教授を乞う。

・「紙やの里」現在の和歌山県伊都郡高野町大字西郷字神谷か。

・「かぶろの宿(しゆく)」現在の和歌山県橋本市学文路(かむろ)か。しかしとすると前の「神谷」は位置が遙かに高野山に近く順序がおかしい。

・「十八町」一キロ九百六十四メートル弱。

・「四寸石」高野町大字西郷字神谷にある弘法大師の足跡とされる「四寸岩」のことと思われる。

・「覺範(かくはん)」この条件では不祥である。識者の御教授を乞う。

・「和泉(いづみ)の坪坂(つぼさか)」不詳。識者の御教授を乞う。

・「すしよう」「素性」で本心から思ってのこと、の謂いか。

・「とらんといへる仙女(せんによ)」これは仏教説話上の尼僧「都藍尼(とらんに)」のこと。「本朝神仙伝」によれば、大和吉野山の麓に住み、仏法を学ぶとともに仙術も習得し、ここに書かれてあるように女人禁制とされていた金峰山(きんぷせん:奈良県吉野郡吉野町で修験道の道場金峯山寺(きんぷせんじ)がある)に自分の術の力で登ってみせると宣言して挑戦したが、雷に遇うなどして果たせなかったとする(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

・「うつゝなき」正気でない。気違いじみた。

 挿絵は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正した。

行脚怪談袋   芭蕉備前の阿川(あがは)にて難儀事 付 何と無く仇を報ずる事

 

行脚怪談袋下目錄

 

一芭蕉備前の阿川にて難儀事
  何と無く仇を報ずる事

 

一嵐雪上州館僑に至る事
  僧狐に化さるゝ事

 

一其角猫の戀發句吟ぜし事
  
煙草屋長兵衞猫の報いを請くる事

 

一芭蕉筑前の小佐川を越ゆる事
  
多吉夫婦靈魂の事

 

 

行脚怪談袋下

  四の卷

  芭蕉備前の阿川(あがは)にて難儀事
  
何と無く仇を報ずる事

扨芭蕉は岡山の荊口が方を立出で、備後伯耆の方(かた)へと急ぎしに、備前岡山の先に丑まど云へる所あり。此の丑まどを越ゆれば、阿川と云ふ川あり、此の川は上は同國曾根川(そねがは)續き、下は海へ連なる、左程の大川にはあらざれども、波あらく瀨早し、然るに、備前より備後へ渡る海道なれば、旅人を通さんがために、所の者ども船を出して船わたしする、此の時ばせを此の所の渡し場へ來かゝり、ふねに乘りてむかふの岸へわたらん事を思ふに、未だ早朝の事なりしが、乘合の旅人もなし、船も岸へ着きて船頭とてもをらず、芭蕉思ふ樣(やう)は、いまだ早朝なれば渡し初まらずと覺ゆる也。此の岸に立ち居んも如何(いかゞ)なり、いづれへなりとも暫く休足(きうそく)なさんと、彼是(かれこれ)と見合す所に、酒屋と覺しき家只一軒見世をひらきありしかば、是幸ひとばせをは其(その)見勢(みせ)へ立寄りて申しけるは、我等は此の渡しを越える者なるが、いまだわたしも始まらずと覺え候間、始まる頃まで、此の見世に休足させ給はれと、則ち右の店の端に腰打ちかけ、渡しの方を見やりてぞいたりける。然る所に渡し場の船頭共と見えて、凡そ十四五人彼の酒やへどろどろとおし入り、酒を所望して出させて、いづれも數盃のみしゆゑ、大勢の事なれば、洒代多分なり、かの者共代物を拂ふ時に及びて、三百錢程も不足也。洒やの主(あるじ)此の不足なるが故に、合點なさずして申す樣、其許達には前々(まへまへ)より多分の酒代(さかだい)借りられ、甚だ迷惑也。其の上今日(けふ)も早朝より來(きた)られ、復候三百錢からんとの事、存じの外(ほか)なる事、且つまた早朝よりも斯く代物(だいもつ)の不足有りては、其の日一日の不吉なり。是非に三百文を出され候得、左(さ)なきに於ては、我等其許達の船頭へ、此の頃のかけを申し達し、すぐに寄らばともかくも、萬一には、諸人を渡して船頭より取らるゝ船賃を、引取り申さんと甚だ立腹をなしければ、船頭共は大きに困り入り、三百文出し度きには一錢もなし。又遣はさねば頭(かしら)の者へ訴られん事を恐れて、すべきやうなく見えけるが、其の中に一人、芭蕉が唯一人默然として居たるをちらりと見やり、殘りの十四人の者へ何やらさゝやきけるが、程(ほど)もあらせず芭蕉が側へづかづかと來り、さも大へいに立はだかりばせをに向ひて申す樣は、我等は當(たう)渡りの船頭どもなるが、今(いま)思はずも酒をのみ過ごし、代錢(だいせん)三百文不足なり。右に付近頃無心(こゝろなき)には候得共、御持合せあらば、三百文我等に御借(か)し給はれかし、何分賴み入ると、差つけがましく申しければ、芭蕉は是を聞きて、何れにも知らざる者、殊更借しくれよとは嗤(わら)はんとの事、然るうへは何のよしみもなき者どもなれば、無益の事に思ひ、殊更諸國修行の事、路錢(ろせん)とても貧しく遣ひ切りし故、三百文をくれん事は詮なき事と、則ち答へて申す樣は、我等は諸國修行の身、最も貧家(ひんか)の者なれば、路錢とても不自由也。據所なき御所望、有合せだに致しなば否(いな)とは申すまじきが、右の通りに候得ば、此の儀に於ては御斷り申し候と言ふ。彼の者共是を聞いて、無法にも大きにいかり、諸國修行も致さるゝ者が、多分の貯へなしと云うてなるものか、殊に人體(じんたい)より姿かつかうと云ひ、賤しき人とは見えず、然らば三百錢位ゐなき事は有るべからず、無きと申さるゝは僞りなり、我等も男なり。斯く申し出しては、是非乞ひ請けでおくべきや、愈々(いよいよ)借されすんばケ樣にして貰ひかゝると、大の男が尻引(しりひつ)からげ、熊の如きの腕をさしのぶ。ばせを大きに驚きしに、懷中へ手を入れさがし出さんとする、芭蕉彌(いよいよ)驚き、こは狼藉也とふりはなすに、殘りの十四人の者共も、おなじく腕をまくりて、ばせをへ取つて懸らんとする氣色(けしき)也。酒屋の亭主旅人の難義を見て、急ぎ中へわけ入り、彼の者共を押止(おしとゞ)め申しけるは、其許達は、興さめたるふるまひを致さるゝ物哉(かな)、誰れ人か未だ見す知らずの者に、大切なる金錢をくれるものあらんや、無體至極(むたいしごく)也と云へども、かの者ども曾(かつ)て聞き入れず、亭主ももてあましけるが、扨(さて)了簡(れうけん)なし、彼らに向ひて申す樣、其許等わづか三百文にて、斯(か)くみだれに及ぶ事、旅人の手前氣の毒千萬也、右に付三百文不足の處は、明日迄相待ち申すべし、右によりしづまりめされよと申しければ、大勢の者ども此の詞を聞き、然る上は明日まで待ちくれ候へと約束し、彼の者共は渡しの方へ出で行きけり。亭主後にて芭蕉に申すは、扨々不埒なる者共にて候。併し貴公の貸しあたへられざるを、此の上心にもかけ、渡し場のせついかなる僻事(ひがごと)か致し申さん、隨分心を付け給へとぞ申しける。ばせをも尤もなりとて答ふ。扨渡し場も始まり、彼是の旅人(りよじん)便船なせば、芭蕉も同じく汀へ至り、かの船に乘りけり。其の船頭はあやにくと、ばせをに錢(ぜに)を借りかけし男也。芭蕉は是はとは思ひけれども。早船も二三間(げん)河中(かはなか)へ出でければ、何知らぬふりにて乘りいたりしに、案の如くに彼(か)の船頭は、後(あと)より來りし外の船の船頭をまねきて、そのふねに大勢の乘合を移し。芭蕉一人此の船に殘し置き、川半へなると、船頭芭蕉が首を押へ、汝先刻能くも我等にかの錢を貸さゞりしぞ、其の御禮斯くの如くと、既に又懷中の物を取らんとす、ばせをあわやとおもひしが、遉(さす)が發句狂歌に名を得たる頓智才覺のもの、大いに笑ひて申しけるは、我等こそ諸國を修行の貧者(ひんしや)、何一文もたくはへあらん。されども我れに無心懸けられ、我れ貧によつてあたへざる事、げにも情なきに似たり。依之(これによつて)貴殿へ右然るべき金まうけ教へ申さん。その手段は、今(いま)晝(ひる)のうちに、岡山家の侍といつはり、京都四條の芝居の役者ども兩人、備後の方に越えんとて、此所の渡し場へかゝるべし。此の役者兩人して懷中に金子五百兩貯へたり。是我等岡山の城下より、此の後迄(あとまで)同道なして來るゆゑ。能く知り侍る所也。足下(そくか)何卒此者を待請けて、唯兩人船へのせ、ケ樣に川中に至らんせつ、如何敷(いかゞし)き申し事なれ共、右兩人ともに討殺(うちころ)し、彼の金子をうばひ取り、死がいは此の川へはめ給はゞ、誰れ知る者なく、手もぬらさず、幸福の身と成り給はん。かく告げし我等にも、此の先の何某(なにがし)と云へる方に待つべき間、金子二三十兩も給はば候へ、最早おし付(つけ)此の渡しヘ來(きた)るべし、何卒ケ樣に成して仕とげ給ふべし、我等三百文を用立てざる替りなりと、其の役者兩人の侍に出立(たちいで)し恰好衣類の色迄の、誠しやかに告げければ、邪欲貪取りの船頭、此事を實事(じつごと)と思ひ、大いに悦び、ばせをがえり元をはなし、却つて一禮して申す樣、御人には能くこそ告げ給へり。我れ人間と生れ、ケ樣の船頭なす事心うく思ひ、何卒樂の身の上とならん事を思へども、金子なければ是非もなき事也。何分いか樣の儀を成しても、金子を得んと思ふ所、夫れこそ一段の事なり。もし首尾よく仕とぐる事あらば、足下の宿(やど)へ尋ね行き、此の一禮申すべし、延引ならば惡(あし)かるべし。早速元の渡し場へ歸り侍ち出づるべしと、ばせををいぎ向ふの岸に上げ、自分はあわてたる體(てい)にて急ぎ其の船をこぎ戾し、元の渡し場へ立歸(たちかへ)る。ばせをからきさいなんをのがれ。岸へ上るや否や早足(はやあし)に其の所を立去り、備後の三吹(みふき)の方に至る。扨かの船頭は元の渡し場へ歸り、皆々は又も渡すに、自分は右の了簡有れば、曾て船を出さず、かの侍來るや否やと窺ふ所に、芭蕉が詞にたがはず案の如く衣類より恰好、我がまつ侍兩人來り、けんぺいに船を呼寄する、得手に帆と、かの船頭は己れが船をこぎ寄せ。右の侍兩人のみを乘せて、かひがひ敷く棹さし、則ち舟をこぎ出す程もあらせず、船川中にいたりし頃、彼の船頭は仕すましたりと、棹を打捨てゝづかづかと來(き)て、左右の手にさむらいの胸ぐらをつかみ、侍とは僞り誠は京都の役者にして、兩人金子五百兩を所持なしたらん。此方へ渡すべしと、既に懷中に手を入れんとするに、右の侍は大いにいかり、汝不屆千萬(ふとどきせんばん)なる者かな。我等はたれとかおもふ。岡山の家中にて名を得し相澤又七米澤(よねざは)民部(みんぶ)と云ふ者也。然るを役者抔と云ひなすのみか、却つて五百兩のきん子を所持なすがゆゑに、うばひ取らんとの事共、其の分にしてなり難し、言語同斷の賊(ぞく)、武士の手なみ是見よと、兩人船頭の兩手を取り、やはらの手にて彼の者を打落し。ねぢふせ上へのし懸り、兩人が刀の下緒(さげを)をつるべ、あはや繩となし、かの船頭を高手小手にいましめ、刀の胸打(むねうち)に。はつしはつしと打伏(うちふ)せ。その後船の艗(とも)に立ちあがり、此の船の船頭、我等にふとゞきをなす故により、斯くのごとくにいましめたり。外(ほか)の船頭來り、此のふねを向ひの岸へ着くべしと、高聲(かうじやう)に呼(よば)はる。此の詞に外のせん頭ども大いに驚き、急ぎ彼のふねへ入替り、あなたの岸へつけたり。其の後兩人の侍は此の渡しの船頭を呼付け。かの船頭が委細の手段(しゆだん)を語り、何樣(なにさま)ふとゞき成る次第なれば、其の分に成りがたしと云ふ。船頭も大きにおどろきしが、され共我が寄子(よせこ)の者なれば、色々にあやまり、夫れにても叶はねば、近所の町人どもを賴みて扱ひに懸け、樣々(さまざま)の事にて、船頭よりあやまり證文を出し、漸(やうや)く貰ひ受けしも、右體の無法者故、所追放にぞなしたり。右此の侍はばせを岡山より渡し手前まで同道なして來りしゆゑ。岡山の武士と知れしが、態(わざ)と役者なりとかのせん頭へ告げ、其の上にも五百兩の金を所持なせし抔と、跡方(あとかた)もなき啌事を言ひ聞かせ、彼等にケ樣の無法をさせ、却つて難儀を請けさせて、自分へ樣々(さまざま)ゆすりをいたせし仇(あだ)を、報ずべき頓そくの氣てん也。扨またばせをは、備後の三吹に至り、とある野邊を通りしに、頃は春の半、其の日はいと空も長閑(のどか)にて、暖氣(だんき)を催(もよ)ふし、右の原の傍に蕗の薹の賑々敷(にぎにぎし)く出でたるを見て、其の上阿川(あがは)にてせん頭の我れにひどくもあたりしを、だましすかし來れるよしをふくみ、強力なる船頭と云へども、頓智の志しには相手にたゝずと、

  投入れや梅の相手に蕗の薹

と一句を吟ず。是自分を梅にたとへ、船頭をふきにたとへたる也。此の物語りかのせん頭の事も、ばせをのちに聞及び、廻國をはりて後に、門人へ是を咄せりと。扨々此の物語り、ばかばか敷(し)き事どもなり。ばせをこけにしたる噺(はな)しなり。

■やぶちゃんの呟き

・「備前の阿川(あがは)」不詳。現在の牛窓(次注)を越えた西にも東にもこの名を持つ河川はない(河川の旧称も管見したが、ない)。そもそもが「岡山の荊口が方を立出で、備後伯耆の方(かた)へと急ぎしに、備前岡山の先に丑まど云へる所あり。此の丑まどを越ゆれば、阿川と云ふ川あり、此の川は上は同國曾根川(そねがは)續き、下は海へ連なる、左程の大川にはあらざれども、波あらく瀨早し、然るに、備前より備後へ渡る海道なれば、旅人を通さんがために、所の者ども船を出して船わたしする」という叙述自体が奇異である。ここで芭蕉は「岡山の荊口が方を立出で、備後伯耆の方へと急」いだというのなら西に備中を横断して備後へ、或いは北に中国山地を山越えして伯耆へ向かわねばならないのに、岡山のずっと手前、東の牛窓を越えるというのは山陽道を戻ってしまっていることになるからである。そもそもが仮託の偽書なれば、同定すること自体に意味はあまりないのであるが、これほどひどい地理的矛盾は私には不可解にして不快である。「曾根川(そねがは)」(河川の旧称も管見したが、ない)という河川も当然の如く、現認出来ないのである。識者の御教授を乞う。この注の末も参照のこと。

・「丑まど」牛窓。岡山県南東部の旧邑久(おく)郡。現在は瀬戸内市内。直線で岡山の西南西二十一キロメートルに位置する。

・「二三間(げん)」三・七~五・五メートル弱。

・「右然るべき」「みぎ(、)しかるべき」。

・「邪欲貪取り」ママ。「り」がなければ「じやよくどんしゆ」(「貪取」は貪(むさぼ)り取ること)でリズムがよい。「どんとり」では如何にもお洒落でない。

・「えり元」襟元。

・「延引ならば惡(あし)かるべし」ぐずぐずしていていると(彼等が別な船に乗って渡ってしまって襲う機をあたら逃してしまうので)よろしくない。

・「三吹(みふき)」この地名も不祥。宿をとる以上、宿場でなくてはならないが、備後にはこのような宿駅はない。

・「けんぺいに」「權柄」。傲慢・尊大なさま。

・「得手に帆」「江戸いろはかるた」にある故事成句「得手に帆を揚ぐ」。「得手に帆を掛ける(上げる)」などとも称する。「得手」とは、最も得意とすることを意味し、追い風に帆を揚げるように「得意とすることを発揮できる絶好の機会に恵まれ、それを逃がすことなく利用し、自分の思うように事態を進めさせようとすること」を指す。

・「程もあらせず」大した手間も時間かけずに、間もなく。

「仕すましたり」「しすましたり」。まんまと思う通りにやり遂げたもんだ。

・「相澤又七」不詳。

・「米澤(よねざは)民部(みんぶ)」不詳。

・「やはら」柔術。

・「刀の下緒(さげを)」刀の鞘を着物の帯に結び付け、鞘が帯から抜け落ちないようにし、同時に不意に差している刀を奪われないようにするための鞘に装着して用いる紐のこと。素材は絹や皮革(主に鹿革)が用いられた。解いた長さは通常は約七尺強(二メートル二十センチメートル)あるので、人を縛って拘束するのに用いるには充分な長さがある。

・「つるべ」「連るぶ」で、本来は並べ連ねるの意であるから、二三重に重ねて強靭な拘束用の縛り紐となし、の謂いととっておく。

・「あはや」これは感動詞ではなく、「足速(あはや)」(スピードの速いこと)の副詞的用法で、「あっという間に」の意でとっておく。

・「高手小手」「たかてこて」と読む。両手を後ろに回して、首から繩をかけ、二の腕から手首まで厳重に縛り上げてしまうこと。

・「刀の胸打(むねうち)」棟打(むねう)ち。我々は通用、「峰打ち」と言っているが、正しくは「むねうち」である。

・「艗(とも)」舳(へさき/とも)に同じい。中国では船の船首に想像上の水鳥である鷁(ゲキ:白い大形の鳥で風によく耐えて大空を飛ぶとされた)の形を置いて飾りとしたことによる。

・「此の渡しの船頭」舟渡しの船頭の元締め。

・「かの船頭」悪心を起こして二人の侍を襲った船頭。

・「其の分に成りがたし」この場合の「其の分」とは、罪咎(つみとが)として軽く許し得る許容範囲で、それを逸脱している、最早、問答無用の斬り捨て御免のレベルである、と言っているのであろう。

・「寄子(よせこ)」元締めが纏めて支配している正規の人足としての配下の船頭の一人の謂いであろう。

・「所追放」これは私刑であると判断出来るので、所属する水主(かこ)集団及び居住地からの追放措置である。

・「跡方(あとかた)もなき」事実無根の。

・「啌事」「そらごと」(空言・虚言)と読ませていようが、用法としては誤りで、「啌」(音は「カウ(コウ)」には「叱る・怒る声」「漱(すす)ぐ」「喉の塞がる病い」の意以外にはない。

・「頓そく」「頓」智「即」妙の略か。但し、本来は「即妙」は「当意即妙」(素早くその場面に適応して機転を利かすこと)が正しく、「頓智即妙」という四字熟語は常用四字熟語ではない。

・「氣てん」機転。

・「強力」「がうりき」。力の強いこと。

・「投入れや梅の相手に蕗の薹」またしても芭蕉の句ではない。「續猿蓑」「卷之下」の「春之部」の、「梅  附柳」の五句目に出る、伊賀蕉門の一人で藤堂藩士であった友田良品(りょうぼん ?~享保一五(一七三〇)年)の、

 投入(なげいれ)や梅の相手は蕗のたう  良品

で、「投入」は古華道で自然に限りなく似せて花を生ける手法を指す(現在の壺形・筒形の背の高い花器に生けた「投げ入れ」は近代の用語である)。参照した伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「續猿蓑 巻之下 春の部脚注」によれば、句意は『投入れに梅の花を使うとすれば、相棒にフキノトウを使うと投入れに似つかわしい』とある。余り、面白い句とは思われない。

・「ばせをこけにしたる噺(はな)しなり」やや気になる。前で「扨々此の物語り、ばかばか敷(し)き事どもなり」と書いた話柄全体を批判した上で、かく言った場合、これは俳聖芭蕉自身を「虛仮(こけ)にした」(馬鹿にした)とんでもない話だ、という意でとれるからである。即ち、偽書を書いて筆者自身が、自分が書いた(素材は如何にも別な人物で幾らもありそうではあるから彼の純粋な創作ではない可能性が高い)このトンデモ咄を自ら空言だと否定するという、入れ子的でメタな捩じれを持った発言だからである。さればこそ、先に述べた地理矛盾の不信もやはり確信犯なのかと疑われてくるのである。

水泳正科   梅崎春生

   水泳正科

 

 わたしの学んだ簀子(すのこ)小学校では、夏になると水泳を正科とした。日本広しといえども、水泳を正科とするような幸福な学校はあまり多くないだろうと思う。あれは体操の時間を水泳にすり替えたのだろうか。もっとも全校生徒でなく六年生だけだったけれども。

 教室で着物を脱ぎ水泳の支度をして、行列して黒田別邸の下におもむく。そこで泳ぎの練習をするのである。六年生だから、さすがにフリチン(あまり上品な言葉じゃないが)ということはない。男生徒はふんどし、女生徒は海水着をそれぞれ教室でつける。「福岡県の地理」の俯瞰(ふかん)図によると簀子町、大工町の浜もずっと埋め立てられているようであるが、当時は自然の海岸線だった。学校のすぐ裏まで波打ちぎわが迫っていた。だからわたしたちは裸のまま泳ぎ場まで直行した。

 六年生のとき、わたしたちの教室は新校舎にあった。上級学校志望者を集めた男女混合組である。簀子小学校は戦災にあって旧校舎は燃えてしまったらしい。読者の藤原さんという女性からの来信によると、

「いまは旧校舎はなく立派な鉄筋の三階建で、昔の新校舎、講堂がございます。生徒数も増し、いまでは大濠のかまぼこ兵舎を使っているようです」

 とあるから新校舎は焼け残ったらしいが、なにしろ建ってから四十年近くになるから、あの建物も相当に古びたことだろう。

 わたしたちの時は全校生徒数が八百人だったが、いまでは鉄筋三階のほかにかまぼこ兵舎まで使っているというから、生徒数も相当なものだろう。

 わたしたちは男も女も着物を着て登校していた。筒袖に兵児(へこ)帯をしめて袴は着用しない。洋服を着てくる子はほとんどいない。あの学区がほとんど商人町や漁師町から構成されていたせいだろうと思う。わたしも着物で通っていた。洋服のほうが着物より活動的だが、ある点では着物のほうがずっと便利なこともある。海水浴の用意をするときなど洋服だといちいちズボンを脱がねばならぬが、着物だと帯さえとけば前がはだけて、手早く用意がはかどるのである。

 で教室で海水浴の用意するときは、皆うれしそうにがやがやしている。だれだって勉強よりも海水浴のほうがうれしい。

 女生徒のA子というのがうれしさに手もとが狂ったのか、はらりと腰巻きを落っことした。それっとばかりわれわれ男生徒は目をさらのようにして、とは言い過ぎになるが、目をふだんより少し大きくしてそこらを見きわめようとしたが、瞬間横にいたB子が向うむきのままパッと自分の腰巻きをひろげて、われわれの視線からA子の姿体を遮断した。わたしたちはがっかりした。

 われわれ男生徒はその日二々五々帰りながらB子の機敏にして適切な処置に感嘆し、同時にA子の豊麗な下半身を見そこなったことを大いに残念がったのである。

 ああ、なつかしい少年の日々よ!

 

[やぶちゃん注:「南風北風」連載第三十四回目の昭和三六(一九六一)年二月六日附『西日本新聞』掲載分。前日分「伊崎浜」との連関性を記憶の中の郷里での海水浴の思い出を経て、少年期の性の目覚めを絡めて心地よい。

「水泳正科」教科科目の中に、「体操」(「体育」)ではなく、「水泳」という正課授業が六年生にのみ存在したということである。

「簀子(すのこ)小学校」梅崎春生(大正四(一九一五)年二月十五日福岡県福岡市簀子町(すのこまち)生まれである。私が若い頃から彼に強い親近感を持つのは彼の誕生日が私と同じだからでもある)は大正一〇(一九二一)年に現在の福岡県福岡市中央区大手門にあった福岡市立簀子小学校に入学、昭和二(一九二七)年に卒業し、前に出た福岡県(立)修猷館中学校に入学している。簀子小学校は大正元(一九一二)年に大名尋常高等小学校から分離して開校、当該地に移転、当時は「簀子尋常小学校」が正式名称である。現在は平成二六(二〇一四)年九月に福岡市立舞鶴小学校・福岡市立大名小学校・福岡市立舞鶴中学校と統合し、小中連携の「福岡市立舞鶴小中学校」に変わって百二年の歴史に終止符を打った(ウィキの「福岡市立簀子小学校」に拠る)。「簀子」という地名は、かつてこの附近に内陸に在りながら、潮の満ち引きが判る「簀子石」なるものが存在した(現在は消失)ことに由来するという。山田孝之氏のブログ「Y氏は暇人」の「陸地から潮の満ち引きがわかる簀子(すのこ)石」の考証が詳しく、面白い。必見。

「黒田別邸」福岡県中央区舞鶴(簀子小学校東南角から東へ六百メートルほどの位置)にあった「黑田家濱町(はまのまち)別邸」。旧福岡藩主黒田家が敷地約三千坪の別邸を構えていた。但し、調べる限りでは別邸が作られてそれ自体が機能したのは明治維新以後のようで、「福岡市中央区」公式サイト内の黒田家別邸跡碑によれば、『別邸は大正になって大修築が行われ』、『福岡城内の門や櫓もいくつか敷地内に移されて、豪壮な構えを見せてい』たが、昭和二〇(一九四五)年の福岡大空襲(後注参照)で『消失してしま』った、とある。この濱町も以下の簀子町や大工町と同様、『の北側が海岸で、美しい砂浜が続いていたことからその名が付』いたが、やはり内陸化してしまい、『現在、昔の砂浜には那の津通り』(なのつどおり)が走っている、とある。

「簀子町」福岡城跡北直近の現在の福岡県福岡市中央区大手門三丁目附近。簀子地区として名が残る。前注した通り、ここで春生は生まれた。

「大工町」現在の福岡市中央区大手門二丁目附近(簀子町の東。その東には魚町・浜町と続いた)。当時の地図を見ると、孰れの町も北は海に接している。梅崎春生の言う通り、現在は埋め立てによって内陸化してしまっている。

「簀子小学校は戦災にあって旧校舎は燃えてしまったらしい」恐らくは昭和二〇(一九四五)年六月十九日から翌六月二十日にアメリカ軍によって行われた福岡県福岡市市街地を標的とした福岡大空襲によるものと思われる。これにより、千人以上が死亡・行方不明となっているが、ウィキの「福岡大空襲」に『戦後の調査によれば、市内でもとりわけ奈良屋・冷泉・大浜・大名・簀子の5校区の被害が激しく死傷者の9割を占め簀子校区は2軒を残して全ての家屋が全焼する』『など、あたり一帯は瓦礫ばかりの焼け野原と化した』とあるからである(下線やぶちゃん)。

「大濠のかまぼこ兵舎」現在の中央区大濠(おおほり)の大濠公園内児童公園附近(福岡城跡の西直近の大濠池の西岸)にあったGHQの兵舎。福岡市博物館のアーカイブズのこちらで昭和三〇(一九五五)年撮影の写真が見られる。]

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