芥川龍之介 手帳5 (3)
○父と妻と私通す (父は馬喰)子(杣)木曾ヨリカヘリ 戸外ニ内ノ容子ヲ知リ 近邊(二町)の男に(ウスノロ)事情をきき 家ニカヘリ 怒ラズ着物を出サセ去ル 行方不明
[やぶちゃん注:「馬喰」「ばくらふ」(博労)。牛馬の売買や周旋をする者。
「杣」「そま」。樵(きこり)。
「二町」約二百十八メートル。]
○或悲劇の beginning 夫ハ母ノ情人タルヲ知ル 妻(藝者)ハ父ト關係アルヲ知ル
○火つけをした男は月夜にゆけば首にかげなし
○「逃ゲタンデス」相手煙草をのみながら 「ソノ日ニ?」「エエソノ日ニ」少シ間ヲ置キ 前ノ續きを忘れしやうに 「逃ゲタンデセウ」
○安太郎 アザ名靑ヤス ウスノロノ男(カセノの杣)男ぶりよし 近所の大百姓ノ妻ト通ズ ソノ家ノ惣領靑安トソツクリナリ
○妾 旦那の子をその死後に主人の如く育つ 田中ノ例
[やぶちゃん注:「田中」これはかなり知られた誰かを指すように思われるが、不詳。]
○鼻カラ煙草ヲノム人 山本
○決算報告書(半期) 株式名簿の株數のへるのを印刷所へ刷らせる(五十圓) 十番と下らぬ大株主を父とする故
○政治 議員(市會) A金アリ B金ナシ BAノ運動員ヲ買收シAノ運動員ノ宅ニBヲムカヘソコニ町の有志ヲ(靑年會の口利等)ムカへ投票ヲ買フ Aハ又Bノ運動員ヲ買收シ旅行或ハ病氣サス
○有志權者の葬式に立つ
○寺と議員との關係 僞日蓮主義者 決して日蓮だけ偉くない
○同じ小學校出の職工 同じ高商出の資本家 職工の會合(文藝團) 袴羽織にて着席す
○江州の百姓 大阪に出 荒物屋をひらきかたはら投機事業をやり 成巧せず 相場をやり最初よく後に大分すり economics を知れば儲ると思ひ 本をよみ socialist となる
[やぶちゃん注:「成巧」はママ。]
○近所同盟 家賃ネアゲ反對 三軒加ハラズ 二圓上ゲル 家賃ヲ――圓ニス 三軒モ恩典ニ浴ス オヤヂ一人大ニ怒ル
○平井兵粮ゼメ
[やぶちゃん注:織田家武将であった羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの一つである、天正六(一五七八)年から天正八(一五八〇)年にかけて行われた織田氏と別所氏の三木(みき)合戦に於いて、別所氏が播磨三木城(現在の兵庫県三木市)に籠城した際、秀吉が行った兵糧(ひょうろう)攻め。別名「三木の干殺(ひごろ/ほしごろ)し」と呼ばれる。]
○文久二年三月 「わたしや葛西の源兵衞堀河童の伜でございます」 黑衣 胡瓜をかじる ○源兵衞さんの伜の河童ござる 河童に御馳走するならば 胡瓜にお酒に尻ご玉 それでおしまひでごんざります
[やぶちゃん注:「文久二年三月」は一八六二年で幕末。この三月二十四日には坂本龍馬は土佐を脱藩、翌四月二十三日には薩摩藩尊皇派らの粛清事件である寺田屋騒動が、八月二十一日には薩摩藩主島津久光の行列が英国人を斬殺した生麦事件が、十一月十二日には高杉晋作らによる外国公使襲撃事件が発生している。]
○鼻の下の長くなる話 Shirt を學ぶ
[やぶちゃん注:「Shirt」は、男子用のワイシャツ・婦人用のシャツ型のブラウス・下着・肌着・シャツの意であるが、「學ぶ」というのとしっくりこない。別に“nightshirt”、長いシャツ型の寝巻きの意があるから、西洋式にこれを着て寝ることを学んだ、という謂いか?]
○男女小穴の家へとまり男去り女他の男と會する話 馬を持つて迎ひに來る等
[やぶちゃん注:唐突に「小穴」と書かれると盟友の画家小穴隆一かと思うが、どうも以下が繋がらない。或いは夢記述の断片かとも思われないことはない。]
○小林の話 船の中の話
[やぶちゃん注:呼び捨てで呼ぶ「小林」は不詳。]
○參謀本部の地圖を見る 濶葉樹 針葉樹 水田 乾田に從ひ鳥の匀を感ずる sportsman.
[やぶちゃん注:「濶葉樹」「くわつえふじゆ(かつようじゅ)」で「闊葉樹」とも書き、広葉樹の旧称。
「乾田」は「かんでん」で、排水が良く、灌漑を止めると、畑に転用出来る田のこと。
「に從ひ鳥の匀を感ずる sportsman.」意味不詳。全くの机上で日本陸軍参謀本部外局の陸地測量部(現在の国土地理院の前身の一つ)作成の地図を見ているうちに、そのいろいろな地図記号を見ているだけで、自然の匂い、鳥の匂いが実際に感じられてくるような錯覚に陥る運動選手を主人公とする掌篇或いはアフォリズムの構想か。]
〇或漢學者漢和大字典へンサン中漢字の腹につまりし夢を見る
○法域を護る人人の喜劇化
[やぶちゃん注:「法域」は仏法の法域という謂いか? さすれば、中国であろうか?]
○支那の長沙邊に stage をとり militarism ノ doramatization.
[やぶちゃん注:長沙(チャンシャー:現在の中華人民共和国湖南省長沙の省都)辺りを舞台とした軍国主義の戯曲化作品(或いは脚色作品)。]
○ Waitress et Ambitious boy. WハBニヨリ save BハWニヨリ damn サル
[やぶちゃん注:「タイス」と「Paphnusius」(不詳)。女給と大望を抱いた少年。WはBにより押さえつけられ、BはWにより罵られる。
「タイス」(Thaïs)はジュール・マスネ作曲の三幕七場の「抒情喜劇(comédie lyrique)」とエンタイトルされたオペラの一つで、芥川龍之介が愛したアナトール・フランスの小説「舞姫タイス」(Thaïs:一八九〇年)を原作にしたルイ・ギャレのフランス語の台本(リブレット)にマスネが作曲したものか(初演は一八九四年)。或いはGoogle
ブック検索で“The
Dublin Review”の「第
19~20 巻36ページ」として出る書物の画像の中の注に“Paphnusius and Thais”という作品タイトルを見出せるが、これか?(どなたか、リンク先の画像を和訳して戴けると助かる)]
○ Applause――二つの手の鳴る音 その effect. dangerous and disgusting.
[やぶちゃん注:「Applause」拍手。「disgusting」胸の悪くなるような。実に厭な。]
〇ヤスケ 白ツ子 八街小説
[やぶちゃん注:「白ツ子」アルビノ(albino)。
「八街小説」これは或いは現在の千葉県八街(やちまた)市を舞台にした小説の謂いではあるまいか? とすれば草稿断片「美しい村」(大正一四(一九二五)年頃と推定)と関わるか?(八街と「美しい村」の関係性は『千葉日報』のこちらの記事を参照されたい)]
○親戚關係に地主あるゆゑ地主方となる 妹の離緣 小地主から嫁をもらつたもの 損德ニヨリ親戚ニソムクモノ 損德ニヨラズ親戚ニソムクモノ
○箱根土地株式會社 鍛冶屋村(炭 橋 小マヘノ竹 屋根萱 薪) ウレレバ地價上る ソレニモ關ラズ反對スル 吉濱村ヲ示威運動ス 鍛冶屋ノ總代 議員承知シ村ノモノニシカラレ辭職ス 示威運動ニ出ル時ハ出ヌモノニ六圓金ヲカケル
○表向キハヨケレド内輪ハクルシキ地主ノコマル事 ドチラトモツカズ金バカリニカカルモノ 紛擾ヲ避ケル爲改革派ヲ退治セントスル地主
[やぶちゃん注:この一連(のものとして私はこの三項を読む)妙に生々しいリアルな記載で、もしや、と思い、調べてみたところ、これは恐らく、事実メモである可能性が極めて高いように思われてきた。以下の注を参照されたい。
「箱根土地株式會社」は実在した会社で、西武鉄道グループのデベロッパーであった西武鉄道の元親会社「国土計画(コクド)」の前身である「箱根土地(はこねとち)」のこと。大正八(一九一九)年四月設立で会社所在地は下谷区北稲荷町であった(後の昭和一九(一九四四)年に「国土計画興業株式会社」に、平成四(一九九二)年に「株式会社コクド」に社名変更)。参照したウィキの「箱根土地」によれば、『軽井沢・千ヶ滝別荘地(長野県軽井沢町)や箱根強羅、芦ノ湖近辺の別荘地分譲、東京・目白の文化村などの郊外住宅地分譲、現在の国立市における大規模宅地開発事業など、戦前期を通じて東京やその周辺で大規模な不動産開発を多数行った』とある。ウィキのフラットな記載を見ても、箱根・湯河原・軽井沢の大規模なリゾート開発を相当にこなしており、ここに記されるような戦略は日常茶飯にこなしていそうな土地会社である。
「鍛冶屋村」「吉濱村」この二つの村(地区)名も湯河原温泉で有名な神奈川県南西部の湯河原町(ゆがわらまち)に実在した。ウィキの「湯河原町」によれば、明治二二(一八八九)年に町村制施行によって旧「吉浜村」と「鍛冶屋村」が合併されて「吉浜村」となっている。同ウィキによれば、「鍛冶屋」地区は新崎川(にいざきがわ)の『川砂に多く混ざる砂鉄を利用して鉄器や刀鍛冶などが盛んだったといわれる地区』であり(だから「炭」「竹」「薪」が腑に落ちる。但し「小マヘノ」は不詳。「小前」は江戸時代に本百姓ではあるものの、特別の権利・家格を持たない百姓や、或いは小作人層を指しす語であったし、単に「小さいこと」「格や程度が低いこと」の意もあるのでよく判らぬ)、「吉浜」地区は『砂浜(吉浜)から箱根町・小田原市の境にまで伸びる地区』とある。ウィキの「箱根土地」を見ると、昭和一〇(一九三五)年の項に『湯河原町との温泉譲渡交渉が決裂』とある。無論、これは芥川龍之介没後であるが、交渉決裂という以上は相当な長い期間の交渉の末とも読め、そうしたワン・シーンの切り取りがこのシークエンスと見ても、少しも不思議ではない。さらに言えば、この情報は現地の人間でなくては知り得ない細部(家の様子など)を持っているように思われ、これらの情報提供者は、かの「トロツコ」の原型を芥川龍之介に提供(というより「奪われた」といべきか)した、湯河原出身の力石平三ではなかったか? と私は思うのである。]
○臺灣の山奧 熟蕃二人 トロツコ 豚の腿 男子 600に賣れる 水牛を飼ふ子供(M)
[やぶちゃん注:「熟蕃」「じゆくばん(じゅくばん)」と読む。これには二つの意味があり、普遍的に教化されて帰順した原住の人々(「生蕃(せいばん:中央の教化に従わない原住の人々)の対語)の他に、第二次大戦前の日本統治時代の台湾に於ける高山(こうざん)族(台湾先住民族の総称で、古代にインドネシア方面から渡来したとされ、九部族に分かれる。日本統治時代には高砂(たかさご)族と呼ばれた)の中で、漢民族に同化していたものを指して用いた限定用法があり(この限定用法では「生蕃」も同高山族の中で漢民族に同化していなかった人々を限定的に指す)、ここは後者。
「600に賣れる」単位は不詳だが、この記載は人身売買の匂いが私には、する。
「M」情報提供者のイニシャルか。]
○鼠島 教會 島民鷄をかふ 饅頭うりの婆を斷る 婆猫をすてる 猫鷄を食ふ(蒲原)
[やぶちゃん注:「鼠島」この名を持つ島は複数あるが、次に「教會」とあることから、長崎港の入口にある「鼠島」の通称で親しまれていた旧「皇后島」(現在は埋め立てによって陸続きとなってしまった)のことではるまいか? みさき/michito氏のブログ「みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”」の「ねずみ島(皇后島)の今昔」に「長崎市史」から引用(一部、混入する新字体の漢字を正字化した)、『鼠島は往時野鼠の發生多く作物悉く其の食ひ盡す處となつたので其の稱を得たと云ふ。又其の地戸八浦の西北に當るを以て子角(ネスミ)嶋と唱へた。外人等はフイセルアイランドと稱すと云ふ。又皇后島と稱す。昔三韓征伐の途此の島に繿を繫け給ひしにより後人皇后島と稱し、その音によりて佝僂嶋と書くものがあるのは誤である』。『安政二年二月外國人遊步場として本島を外人に開放した。蓋當地に於て否日本に於ける一般外人上陸開放の嚆矢であらう』。『明治三十六年七月』『瓊浦遊泳協会を組織し』『遊泳術教授に努むると共に一般人の海事思想普及上進に努めて居る』とあるそうである。「フイセルアイランド」とは恐らく、オランダ商館員であったヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセル(Johan Frederik van Overmeer Fisscher 一八〇〇年~一八四八年)に因むものであろう。文政三(一八二〇)年にオランダ東インド会社一等社員として来日し、長崎出島のオランダ商館に務め、文政一二(一八二九)年に離日後、一八三三年にアムステルダムで見聞録を出版、日本の紹介に尽くした。著作に「日本風俗備考」「フィッセル参府紀行」がある。
「蒲原」この島が長崎のそれなら、恐らくは芥川龍之介に師事し、芥川龍之介編になる「近代日本文芸読本」の編集を始めとして多くの仕事を手伝った、長崎出身の小説家蒲原春夫(明治三三(一九〇〇)年~昭和三五(一九六〇)年)と見てよいと思う。昭和二(一九二七)年に「南蛮船」を刊行、芥川の没後は長崎で古本屋を営んだ。]
○猫の一生 都會の猫は鼠をまづしとす 肉 刺身 鹽 餓ゑると反對に鼠をとらず
[やぶちゃん注:これは「貝殼」(大正一六(一九二七)年一月『文藝春秋』)の冒頭の「猫」の構想メモ。以下に当該章を総て引く(リンク先は私の古い電子テクスト)。
*
一 猫
彼等は田舍に住んでゐるうちに、猫を一匹飼ふことにした。猫は尾の長い黑猫だつた。彼等はこの猫を飼ひ出してから、やつと鼠の災難だけは免れたことを喜んでゐた。
半年ばかりたつた後、彼等は東京へ移ることになつた。勿論猫も一しよだつた。しかし彼等は東京へ移ると、いつか猫が前のやうに鼠をとらないのに氣づき出した。「どうしたんだらう? 肉や刺身を食はせるからかしら?」「この間Rさんがさう言つてゐましたよ。猫は鹽の味を覺えると、だんだん鼠をとらないやうになるつて。」――彼等はそんなことを話し合つた末、試みに猫を餓ゑさせることにした。
しかし、猫はいつまで待つても、鼠をとつたことは一度もなかつた。そのくせ鼠は毎晩のやうに天井裏を走りまはつてゐた。彼等は、――殊に彼の妻は猫の橫着を憎み出した。が、それは橫着ではなかつた。猫は目に見えて瘦せて行きながら、掃き溜めの魚の骨などをあさつてゐた。「つまり都會的になつたんだよ。」――彼はこんなことを言つて笑つたりした。
そのうちに彼等はもう一度田舍住ひをすることになつた。けれども猫は不相變少しも鼠をとらなかつた。彼等はとうとう愛想をつかし、氣の強い女中に言ひつけて猫を山の中へ捨てさせてしまつた。
すると或晩秋の朝、彼は雜木林の中を歩いてゐるうちに偶然この猫を發見した。猫は丁度雀を食つてゐた。彼は腰をかがめるやうにし、何度も猫の名を呼んで見たりした。が、猫は鋭い目にぢつと彼を見つめたまま、寄りつかうとする氣色も見せなかつた。しかもパリパリ音を立てて雀の骨を嚙み碎いてゐた。
*]
○head light に照らされたる葬用自動車
[やぶちゃん注:下方の一項は芥川龍之介の死後、最初の全集で公開された怪奇談集「凶」(執筆自体は末尾クレジットに従うなら、大正十五(一九二六)年四月の作)の冒頭に載る奇談である。短いので私の電子テクスト(リンク先)より、その箇所のみを以下に引く(但し、読み(リンク先のそれは総ルビ)は一部に限った)。
*
大正十二年の冬(?)、僕はどこからかタクシイに乘り、本郷通りを一高の橫から藍染橋(あゐそめばし)へ下らうとしてゐた。あの通りは甚だ街燈の少い、いつも眞暗な往來である。そこにやはり自動車が一臺、僕のタクシイの前まへを走つてゐた。僕は卷煙草を啣へながら、勿論その車に氣もとめなかつた。しかしだんだん近寄つて見みると、――僕のタクシイのへツド・ライトがぼんやりその車を照らしたのを見ると、それは金色(きんいろ)の唐艸(からくさ)をつけた、葬式に使ふ自動車だつた。
*]
○苦痛と悲哀の表情筋の發達せざる爲、上つ方は氣品ある顏をなす
○Africa の島の酋長の妻
○Mohamedan の天幕の人にあふ 東より來る 熱からう(兄弟よ)
[やぶちゃん注:「Mohammedan」(イスラム教)の別綴り。]
○ヒマラヤに Italy の植物學者 菓子器やける
○ボンベイ 海紅 洗濯屋
○Mohamedan の寺の前の池 池のまはりに人集りまはりては仆る。最後にのこりしものを宗教上の先達 椰子
[やぶちゃん注:「仆る」「たふる」。倒れるの意。]
○Indian. 蟻にてもかける
[やぶちゃん注:意味不詳。何らかの民族伝承的行為か。砂絵か?]
○Misfortune of women. ⑴go-between ニ校長ナル ⑵女ノ選擇權ナシ(婦人小説)
[やぶちゃん注:「Misfortune of women.」女性の不幸。「go-between」仲人(なこうど)か。]
○上野――しのの井(朝)――松本〔――島々(馬車)〕――白骨(夕)――乘鞍――白骨――阿房――平湯(夕)――高山(夕)――宮峠――下呂(ゲロ)(夕)――中山七里――金山峠――金山(夕)――電車――岐阜
[やぶちゃん注:「(ゲロ)」は「下呂」のルビ。以下、私が行ったことがあって、また、脳内の地図上で確かに認知出来る場所は原則、注をしなかった。
「しのの井」篠ノ井。長野県長野市篠ノ井布施高田にある現在のJR東日本の信越本線「篠ノ井」駅。
「阿房」これは現在の岐阜県高山市と長野県松本市の間にある松本市の「安房」(あぼう)峠のことであろう。国道百五十八号が通り、標高は千七百九十メートル。
「平湯」「ひらゆ」と読む。現在の岐阜県高山市の奥飛騨温泉郷にある平湯温泉。
「宮峠」「みやとうげ」と読む。岐阜県北部にある高山盆地の南縁で分水界を成す飛騨山地の鞍部に位置する峠(高山市南部)。標高
七百七十五メートル。高山と美濃を結ぶ益田街道上にあって古来交通の要衝を成す。現在は国道四十一号線が通る(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「中山七里」「なかやましちり」と読む。岐阜県にある飛騨川中流の渓谷。ウィキの「中山七里」によれば、『岐阜県下呂市を流れる木曽川支流の飛騨川の中流に沿って、下呂市三原の帯雲橋(たいうんきょう)から同市金山町金山の境橋にかけて続く、全長約』二十八『キロメートルの渓谷。急峻な山地を飛騨川が浸食してできた渓谷で、奇岩や怪石が数多くあり、また春は桜や岩つつじ、夏はホタル、秋は紅葉と、四季折々の風景に富む観光名所となっており、「屏風岩」「羅漢岩」「孝子の池」などが有名である』。『名称の「中山七里」は、豊臣秀吉の武将で飛騨一国の国主となった金森長近が、五つもの峠を越える旧道がいかにも不便なことから』、天正一四(一五八六)年に『秀吉の許しを得て下呂と飛騨高山を結ぶ飛騨街道の建設に着手、険しい山中の飛騨川沿いの難所を約七里にわたって開いたことに由来する』とある。
「金山峠」「かまやまとうげ」であろうが、不詳。中山七里から金山へは峠を越える必要はなく、益田街道か高山本線を南へ下れば、普通にすぐ着く。不審。
「金山」旧岐阜県益田郡金山町(かなやまちょう)。現在、下呂市。]
○小穴のコマ(獨樂)の話
[やぶちゃん注:盟友の画家小穴隆一の談であろう。]
○軍曹 右の上膊に貫通創 國へはひれりと思ひほつとす
○髓操の教師 その子中學に入る 校長の子も入る 二人とも下手 六時目髓操 4 or 5年生來て見る 二人とべず 二人殘す 殘しても飛べず かへり遲し 校内運動場にある木馬を獨り習ふ爲 その旨を妻 夫に語る 子供轉校したしと云ふ