行脚怪談袋 芭蕉翁筑前の小佐川を越ゆる事 付 多吉夫婦が靈魂の事 / 行脚怪談袋~了
芭蕉翁筑前の小佐川を越ゆる事
付 多吉夫婦が靈魂の事
芭蕉備後伯耆の方より、因幡長門を越えて中國を廻國なし、夫れより赤間ケ關より、船にて豐前の小倉に着き、夫れより佐賀の城下に至つて、宿評(しゆくひやう)と云へる儒者の方に數日逗留なし。當所に於て俳諧一流に名を上げ、肥後の國を經て筑後に到り、同國元崎と云へる村に晝休みなすに、其の頃は秋の初め方。未だ暑氣甚だ敷ければ暫らく凌ぎ、扨日も傾きければ、今は暑さも薄くなりし儘、主の者に暇乞ひして、秋月(あきづき)の城下へ至らんと申す。主是聞いて止めて申しけるは、旅人(りよじん)今程より、秋月へ至り給はんとならば、決して無用也。其のゆゑは、當所より秋月の城下へ迄は二里也。半道はかならず夜中にならん、時にまだ秋月よりこなたに、小佐川(をさがは)と云へる川の候が、尤も土橋(どばし)かゝりて、旅人の通行なす事也。然る所去年の半より夜に入り候得ば、此の川上より、いと瘦せがれたる男出で、土橋の上にたゝずみ、河下の方をはるかに見やりて、名殘(なごり)をしげに悲しみ叫ぶ事毎夜也。是を聞く者おぢ恐れずと云ふ事なし、右に付(つき)夜分に及び候へば、誰れ通る者もあらず、諸人の通行の邪魔と成れり。旅人(りよじん)若しも秋月へ至り給はゞ、必らず右の變化に逢ひ給はんと申しければ、ばせをとうて申さるゝは、其の變化は人間を害なすや否哉(いなや)、亭主答へて、只出でゝかなしみ叫ぶのみ、かつて人にはかまひ候はずといふ。芭蕉是を聞きて申されけるは、右の物語の如くんば、つらつらかんが見るに、化生(けしやう)の者なるべし、我れ古人には及ばざれ共、定家の道(みち)をしたひ、俳道發句の道に通じたれば、萬一變化のために怪しき事あらば、秀句をもつて是をさとさん、是鬼神をも和らぐる歌道の妙なり。況んや是等(これら)の變化(へんげ)に於てをや、何條(なんでう)の事かあるべき、我れ諸國をめぐるも、俳道の一語を世上に知らさんがためなり、併し今宵某(それがし)かの小佐川へ至りなば、覺えし俳道を以て件(くだん)の變化を喩(さと)すべしと申されければ、亭主是を聞いて、もしふたゝび旅人(りよじん)の詞のごとく、變化念(ねん)をさつて出でずんば、所の幸ひ通行の悦びたらんと申しければ、芭蕉則ち右の亭主を案内につれ、小佐川ヘいそぎけるに、亭主兎ある松原にて芭蕉に申しけるは、是より此の野邊をば御出であらば、小佐川へ出で申す也。殊更日も暮れがたに成り候得ば、變化の出でるにもはや間も候まじ。我等は是より御暇乞ひ申し立歸り候也。旅人(りよじん)若し變化を御見屆けあらば、又候此方(このはう)へ御歸りあれ、待入り候也。され共能く能く御心付られ候得と申し置きて、亭主は我が家へ歸りける。ばせをは亭主の教へにまかせ、右の野邊を半道程たどり行くに、渡し三十間もあらん川ありて、正面に土橋をかけ渡せり。芭蕉是こそ小佐川成らん、變化はいづれより出でるや、よくよく見屆けんと、彼の土橋の中頃と覺しき所へあがり、川の體を見るに、向ふは古木生茂り、此方は今きたる野邊(のべ)にて、川岸には蘆葭(あしよし)のたぐひの草生茂(おひしげ)り、水の流れは靜かなれども、ふかき事底をしらず、人家にはとほざかれぱ、いとどしづかにして、空は秋の夕暮に、實にも哀れの氣色也。右の枯れあしの中に、破れ損ぜし捨(すて)ふねの在りしを見て、
枯蘆の中に淋しや捨小船 ばせを
と吟じつゝ變化の出るをまち居りしに、程なく暮六つにおよび、亥の刻計りにもなりし頃、其の夜は七月四日にて、月もいまだほのくらきに、遙か川上の蘆生茂(おひしげ)りし水中より、靑色(あをいろ)の玉光りを放ちて、二丈計り上へ立ちのぼり、又舞下りなどして、其の玉程なく土橋の上へ來り、ばせをが前に三間(さんげん)ほど向ふへ落ちけるが、一むらの烟りとなりて消え失せるとひとしく、右の所にまぼろしのごとく、一人の男顯れたり。芭蕉扨こそ變化の物よと、能く能く透(すか)し見るに、其の男身には白衣類を着(ちやく)し、頭のかみをみだして、面の色靑ざめ、五體(ごたい)は瘦せおとろへて、見る影もなきが、川下の方を遙かにのぞみ、いと細やかなる手を出して、川下をまねき、糸のごとき聲をあげて、お幸お幸、何とて爰へは來られざるぞ、早此の所へ來(きた)るべしと呼びければ、愚か川下に聲あつて、我等其の所ヘ至り度き事山々なれども、前世の罪科まうしふの雲となりて中(なか)を遮ぎり、其の所へ行く事叶はず。あらなつかしさよと。歎く聲幽かに聞ゆ、是を聞くとひとしく、彼(か)の男いと哀れなる聲を上げて、泣きかなしむ事しきり也。其の音聲いやみあつて二度と聞くべきにあらず、芭蕉もけしからざる事と思ひしが、如何にも仔細あるべき事と、かの怪しき男に向つて申されけるは、扨々心得ぬ事哉。汝異形のすがたにて、夜中と云ひ此の土橋の上ヘ來り、荐(しき)りに泣悲(なきかな)しむ事、案ずるに此の世を去りしものゝ執念と見えたり。抑もいかなる事ぞと詞(ことば)をかくれば、彼の男是を聞いて、芭蕉の方をしげしげと見やりけるが、淚をはらはらと流し答へて申す樣、夫れに御座あるは此の世の人にてましますか、能くもとひくれ給ふ物哉(かな)、我等事は何をか包み申さん、御察しの通り、此の世の陽人(やうじん)に非ず冥途の陰人なり、我れ此の所へ毎夜顯れ、かく悲歎をなす事其のゆゑあり、某は是より一里、秋月の城下の町人、多吉と申す者にて候ひしが、若氣の至りにて。去者(さるもの)の妻と密通なし、人目を忍び、互ひの思ひに二世かけての契約(けいやく)をなせしが、去年(きよねん)夏の事、兎(と)ても秋月にありては、互にそふべき事も能はずと、兩人申し合せて立ちのきしに、後より追手の者懸り、計らずも此の所に於て大勢の者に取りかこまれ、既に繩目(なはめ)の恥を受けたりしに、彼の亭主若い者にて、大いに立服し、某(それがし)は此の川上へ、右の女は此の川下へ連行(つれゆ)き、汝等誠に不屆者也。依(よつ)て兩人ともにしづめにかくる也。されども同じ場所ヘ一所にしづめんも口惜しく、川上川下へ分けてしづめむと、兩人ともに身に大いなる石をせおはせられ、川の上下の深みへ投込(なげこ)まれ、底のもくづとなり果てたり。その死に及んで兩人諸共、かゝる事にて冥途へおもむく段、一つ所に死せん事叶はざりしを殘念よと、思ふ執念深く忘るゝ事なく、靈魂愛じやくの巷(ちまた)にまよひ、われは川下へ行きて、逢はん事を思ふといへども、行かんとすれば、そのくるしき事限りなし、また行かざれば、愛慕の念にくるしむ。川下にても、右のくるしみにや、なつかしく床しとの聲は聞え候得ども、一所にいたる事能はず、我等あまりのゆかしさに、靈魂此の土橋のうへに顯れ、毎夜川下の女を戀慕ひ申し候、哀れ御人(おひと)の御情(なさけ)をもつて、我等を川下へ連行(つれゆ)き、右の女に合せ給はれかし、偏ヘに願ひ存ずる也と、身を震はして戀ひこがれ、悲しげに叫ぶ聲いと物淋しく覺えたり。ばせをは此の由を聞きて、是愛慕の念にほだされて、本來空に歸らずして、靈魂苦しみ迷ふならん、併(しか)し教訓なしてさとらせんと、芭蕉聲をあららげ、彼の化生を呵して申しけるは。汝何の體ありて川下へ至り、女に逢はんとはなげくぞ、既にその方は死せし身の上、魂は天に歸り魄は此の水中にあり。然るに汝左樣にさまよひ出でるは、死後の砌り女を戀ひこがれ、同所に身まからん事の本意(ほい)なさよと思ふ心の故に、其の念のかたまる處の陰氣(いんき)、未だ空(くう)に歸らず、是執念の深きゆゑにして、まさしく人間の陽心にあらず、ほとんど陰鬼の類ひなり。斯くのごとくの上は、何とて望みの如く、右の女に見えらるべき、見えずして苦しむは、汝等がしやばにて邪(よこしま)をなし、且(かつ)非業(ひごふ)の死をとげし、ことごとくうかまざるが故也。あゝ人間の性は空(くう)より來り空に歸る、如斯き上は、仇もなく恨みもなく、愛も無く慕(ぼ)もなし。すみやかに念をひるがヘして、本來空に歸れよ。併(しか)し我が數年功をつみし俳句の利(り)にて、再び汝が執念を、女の執念に合集(がつしふ)させしめんとて、ばせを高らかに、
川上と此の川下や月の友 ばせを
と吟じければ、芭蕉の教訓に靈魂感服やなしけん。且つ亦右のいとくにやよりけん。彼の男と見えしは、又一つの陰火と化し、遙か川下へいたると等(ひと)しく、又川しもよりも陰火飛來り、二つの玉(たま)合集(がつしふ)してはまた放れ、はなれては復合ひ、廻り廻る事數度(すど)なりしが、二つの陰火(いんくわ)縺れあうて、遙かの空へ飛去りけり。芭蕉は奇異の思ひをなし、其の後暫く窺ふといへ共、さらに怪しき事なければ、それより元崎へ立歸(たちかへ)り、右の亭主にしかじかと物語り、明晩よりは決して變化出でまじと申しけるが、はたして翌晩より、その時分彼の所を通れど、何の怪異もなきは、不思儀なりとぞ申しける。
行脚怪談袋終
■やぶちゃんの呟き
・「小佐川」不詳。福岡県京都郡みやこ町勝山長川(ながわ)という地名を見出せるが、ここは秋月とは離れ過ぎていて、候補地からは外れる。識者の御教授を乞うが、どうもこれは最後芭蕉の句の読まれた、現在の江東区大島町の小名木(おなぎ)川をフェイクしたものではあるまいか?
・「多吉夫婦」「夫婦」と呼んでやっているところに筆者の優しさが現われている。
・「宿評(しゆくひやう)と云へる儒者」不詳。実際の芭蕉の関係者には似たような名の人物はいないと思う。
・「筑後に到り、同國元崎と云へる村」不詳。築後の秋月から二里前後を地図上で調べたが、それらしい町は現存しない。識者の御教授を乞う。
・「秋月(あきづき)の城下」現在の福岡県朝倉市野鳥にあった、当時は福岡藩支藩秋月藩の藩庁で黒田氏が居城していた秋月城の城下町。
・「半道」「はんみち」で一里の半分、半里のこと。凡そ二キロメートル。
・「三十間」五十四・五四メートル。地図を見る限り、こんなに広い川は現在の秋月より北の二里圏内には、ないように思われる。
・「川の體」「體」は「てい」。様子。
・「枯蘆の中に淋しや捨小船」中村俊定校注「芭蕉俳句集」(一九七〇年岩波文庫刊)には「存疑の部」の一三二番に、
枯芦の中にさびしや捨小舟
と出る。底本は「芭蕉翁句解参考」(何丸(なにまる)著・文政一〇(一八二七)年刊)で「追加山峰より」の中に出す、と脚注がある。芭蕉にしては平板でショボくさい。
・「暮六つ」「七月四日」とあるから午後八時直前辺り。
・「亥の刻」午後十時前後。
・「二丈」六メートル強。
・「三間」五メートル四十五センチ強。
・「白衣類」個人的には「びやくえのるい」と訓じたい。
・「お幸」「おさき」か「おさち」か「おこう」か。
・「荐(しき)りに」「頻りに」に同じい。
・「契約(けいやく)」かくルビがあるが、個人的には「ちぎり」でよい。
・「床し」何とも言えず心が惹かれるであるが、「行かし」(ゆきたい)の意も強く含む。次の「ゆかしさ」も同じ。そもそもこの形容詞は動詞「行く」の形容詞化したもので「床」は当て字である。
・「併(しか)し教訓なしてさとらせんと」は底本では「併(しか)し教訓なくてさとらせんと」となっている。意味が通らないので、誤植と断じて「く」を「し」に代えた。大方の御叱正を俟つ。
・「見えらるべき、見えずして」「見」は孰れも「まみ」と訓ずる。
・「合集(がつしふ)」発句選集の合集(がっしゅう)に掛けてある。
・「川上と此の川下や月の友」遂に最後は流石に真正の芭蕉の句を持って来た。「續猿蓑」の「龝之部」冒頭の「名月」に出る、
深川の末、五本松といふ所に船をさして
川上とこの川しもや月の友 芭蕉
元禄五(一六九二)年或いは翌六年の作とされる。「五本松」とは、現在の江東区大島町で小名木川(家康の命で開鑿された人工の運河)の川端及びその流域に当たる。古来、この「川上」で同じ「月」を眺める、そ「の友」とは、芭蕉の盟友であった俳人山口素堂であろう(他説もあるが、芭蕉が「友」と呼ぶのは私は彼しかいないと思う)。なお、本句は、「泊船集」(風国編・元禄一一(一六九八)年)では、
深川の五本松といふ處に船をさして
川上とこの川しもと月の友 芭蕉
の句形で載る。
・「不思儀」ママ。