母を語る 梅崎春生
私の母貞子は千九百初年、古賀家から梅崎家に嫁して来た。おやじが陸軍少尉か中尉のころで、裕福な娘時代を過したので、やっとこ少尉ややりくり中尉の貧乏生活にはおどろいたらしい。しかしよく貧乏に耐えて、六子をなした。みな男ばかりだから、その苦労察するにあまりある。負けずぎらいというべきだろう。
負けずぎらいで気位が高く、快活で遊び好きであった。他人にはどう見えたか知らないが、子供の私にはそう見えた。ただ学校で一番にならなきゃ承知しないようなところがあって、おかげで私は小学生の時は首席で通した。中学校になると、学課もおふくろに手に余るようになって、たちまち私の成績は下落した。大学まで下落のし放しである。
あれはいつのころだったか、おふくろは私に向かって、趣味として謡曲をやろうか俳句にしようかと、相談を持ちかけたことがある。いささか文学づいていた私は、俳句の方をやりなさいと切に勧めたが、結局おふくろは謡曲の方をえらんだ。
いま憶測すると、そのころの福岡には、久保よりえという名流俳人や杉田久女という異色俳人がいて、いまから修業しても、その下風に立たざるを得ないという事情があったのではないか。それでおふくろは謡曲の道を選んだ。そしてかなりのところまで行った。
終戦後上京して、その道で生計を立てたのも、才能が充分あったからに違いない。お弟子さんもたくさん出来た。いま、この道を弟信義がついでいる。
大人になって一度だけしかられたことがある。戦争の責任をとって天皇は退位せよ、と文章に書いた時だ。発表されるや否や、おふくろは飛んで来て、昼寝している私に向かって、こんこんと戒めた。私は困って〝ハイ、ハイ〟と頭を下げるだけであった。
そのおふくろは十余年前に死んだ。ルポルタージュを書きに遠出していた私ははせ帰って、やっと死目にあえた。
[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年四月二十三日附『朝日新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。
「久保よりえ」(明治一七(一八八四)年~昭和一六(一九四一)年)「久保より江」が正しい。旧姓、宮本・郷里の愛媛県松山で夏目漱石・正岡子規に接して句作を始めた。上京後、府立第三高女を卒業、医学博士で歌人・俳人でもあった久保猪之吉と結婚、福岡に移り住み(夫が明治四〇年(一九〇七)年に京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学福岡医科大学)教授となったことによる。彼は本邦最初の耳鼻咽喉科専門医でもある)、高浜虚子に俳句を、服部躬治(もとはる)に和歌を学んだ。柳原白蓮らとも交友があった(白蓮は猪之吉を愛し、より江に嫉妬したとも言われる)(以上は講談社「日本人名大辞典」他に拠った)。梅崎春生の母貞子は昭和二九(一九五四)年三月十五日、享年六十四で子宮癌のために亡くなっている。
「杉田久女」(明治二三(一八九〇)年~昭和二一(一九四六)年)鹿児島県生まれの俳人。旧姓、赤堀。旧制小倉中学(現在の福岡県立小倉高等学校)の美術教師杉田宇内(うない)と結婚、明治四二(一九〇九)年、夫の任地である福岡県小倉市(現在の北九州市)に移った。私は彼女のフリークで、全句集(リンク先はPDF版)他を電子化しており、ブログでも彼女の全句と著作を公開作業中である。
「それでおふくろは謡曲の道を選んだ」因みに、この頃の福岡で謡曲(謠)の師匠というと、作家の夢野久作が真っ先に浮かぶ。私は夢野久作もフリークで、ブログで幾つかの作品を電子化している。
「弟信義」梅崎家の五男。観世流能楽師(シテ方)。]