マメ本 梅崎春生
マメ本というのは、そのころ流行した立川文庫ふうの小型本である。わたしたちが読んだのは、ほんものの立川文庫ではなく、九州で発行された亜流本だったかもしれない。後年ほんものの立川文庫を見たとき、どうもこどものとき読んだのと感じが違うという印象を受けた覚えがある。
小型で紙質も悪かったから定価も安かった。内容は立川文庫に準じて、「真田十勇士」だの「岩見重太郎」だのいろいろ。みなやたらにおもしろかった。先生や家庭で禁じるから、なおのことおもしろく感じられたのだ。大人にやっていけないといわれると、こどもはかえってそれをやりたがるものだ。そして冒険心を満足させる。
なぜマメ本が禁止されていたかというと、外観が貧弱であったこと、文章が講談口調でところどころエロな描写がなきにしもあらずといった点、つまり卑俗な読み物だったという理由からだろうが、あるいはあまりおもしろくてこどもが夢中になり、学業をおろそかにするという理由もあったのかもしれぬ。
でもあれは、いま思うとさしたる実害はなかったように思う。ひとしきり読みふけると、あとはあきて卒業するといったていどのしろもので、ありふれた超人(スーパーマン)物語である。こどもは自分なりの欲求不満から自然に超人物語を愛好するもので、いまのこどもがテレビのポパイやスーパーマンを見たがるのと同じ心理である。
わたしたちはそれを猿飛佐助や水戸黄門の中に見出したのであって、印を結ぶと姿がぱっと消えうせたり、
「予は天下の副将軍なるぞ!」
と大喝すると悪代官一味がへへっと平伏する。それがたいへんな魅力であった。
しかしこどもは利口だから自分の夢と現実の差はわきまえていて、忍術のまねをして印を結んで遊ぶけれども、自分の姿は消えないということはちゃんと知っていた。いまのこどもだってそうだろう。スーパーマンのまねをして、屋根の上から飛び出して落っこちて大けがをするということも、ときたまあるかもしれないが、大部分のこどもは別段の害を受けず卒業して、健全な大人の生活に入っていくのである。
日米未来戦のようなこどもの好戦欲をそそる少年小説よりも、このほうがたあいないおもしろさがあり、かつ結末は勧善懲悪の形になっているのだから、やみくもに禁止すべきではなかったと思う。
福岡市の簀子(すのこ)町の電車通りに同級生がいて、この手の本をたくさん所蔵していた。わたしは学校の帰りがけにその子の家に行き、一冊ずつ借りて家に戻ってくる。家庭でも禁止しているから、おおっぴらには持って帰れない。隠して持ち帰る。幸いなことにはあの本は小型にできていて隠しやすい。読みやすいために小型にしたのだとこのごろ立川文庫の作者が語っていたが、隠しやすい本でもあった。
[やぶちゃん注:「南風北風」連載第四十五回目の昭和三六(一九六一)年二月十七日附『西日本新聞』掲載分。前回の最後が予告になっている。
「立川文庫」「たつかわぶんこ」と読む。立川(たつかわ)文明堂(大阪市東区博労町。後に南区安堂寺橋通へ移転)が明治四四(一九一一)年から大正一三(一九二四)年にかけて百九十六篇を刊行した「書き講談」による文庫本シリーズ。当時の小学生から商店員らに爆発的なブームを呼んだ。「真田幸村」「猿飛佐助」「霧隠才蔵」等で知られる。装丁は当時刊行されていた小型本叢書の袖珍文庫(三教書院)を模倣し、四六版半裁のクロス装で縦十二・五、横九センチメートルで、標記の定価は一部二十五~三十銭ほどであったが、実際の販価は十銭前後、仕入値は六~七銭だったという。古本に三銭を添えれば新本と交換するという販売法も取り入れて小・中学生を中心に大流行した。詳しくは参照したウィキの「立川文庫」をご覧あれ。]
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