寮費一円 梅崎春生
昭和七年ごろの第五高等学校の寄宿舎費は十六円。うち食費が十五円で寮費が一円であった。食費は一日五十銭に当る。
ところが紙耆臆氏の話によると、大正十二年ごろで総額五円ですんだというのだから、この十年ばかりの間にインフレが徐々に進んで物価が約三倍になったことがわかる。
戦後のインフレはありありと実感があるが、戦前のそれはあまりはっきりと頭に残っていない。こどものこととて金を持ちつけなかったせいであろう。
「ちかごろ物価が高くなったねえ」
とおふくろが嘆息しているのをときどき聞いたことがある。しかし大正末から昭和七年ぐらいまでに三倍になっているとは驚いた。
そういえば、わたしのときには五厘(または半銭)という銅貨があって立派に流通していた。も少し前には天保銭というのが通用していたそうだが、わたしのころにはもうだめになっていた。使われないままおばあさんの針箱にたくさんしまわれていたりして、わたしはそれを持ち出して日曜学校の献金に持って行ったことがある。五厘が最低の通貨だった。しかしその五厘玉でも駄菓子屋や焼草屋に持って行けば、ちゃんとにっけ玉が買えたし相当量の焼芋が買えた。
いまの一円じゃ何にも買えない。だいいちあんな吹けば飛ぶようなけちな貨幣は昔にほなかった。
二銭銅貨というのがあった。江戸川乱歩に同名の初期の作品があったが、これなどは実に堂々たるもので、ずしりと持ちおもりがした。使いでもあった。
その五厘や二銭銅貨は昭和期に入って少しずつ姿を消していったようである。思うに五厘はインフレのために不用になったものだろうし、二銭は重くてごろごろして持ち歩くのに不便だから廃止になったのだろう。
その他小額貨幣としては五銭白銅、十銭白銅、ぎざと称する五十銭銀貨などがあった。いまの物価は昭和七年ごろのそれにくらべて約四百倍とのことだから、当時の五十銭はいまの二百円に相当する。しかし昔のぎざ一枚のほうが、いまの百円紙幣二枚よりも使いでがあったような気がするのは、わたしだけだろうか。どうもいまの金は昔のにくらべて逃げ足が早く、あっという間になくなってしまう。
一定の送金で自分の生活を計画的にいとなむのは、この寮生活がわたしのはじめての経験で、たしか伯父から三十円ずつの送金があったと思う。送られてくる十円紙幣の威厳のあったこと、感じからいえばいまの一万円紙幣にゆうに匹敵した。
寮費をはらい込むとあとは自分の自由に使えるのだが、何に使っていいのかわからず、はじめの二三カ月はわたしは金が残って仕様がなかった。たまたま使ってもそこらで素うどん(一杯五銭)を食うていどで、余るのも当然である。
[やぶちゃん注:「南風北風」連載第五十四回目の昭和三六(一九六一)年二月二十六日附『西日本新聞』掲載分。熊本五高の追想で直連関。
「紙耆臆」読みも人物も不詳。識者の御教授を乞う。]