五高見参 梅崎春生
熊本の気候は京都に似ている。どちらも海に面していない。周囲を山で囲まれた盆地であるから、夏は暑く冬は寒い。
わたしが第五高等学校の受験に行ったのは三月十六日である。昼間はあたたかいが夜は底冷えがした。
鹿児島本線の上熊本駅を降りるとバスに乗り五高前で下車する。五高の門を入って曲りくねった道をしばらく歩くと第二の門に達する。その向うに赤煉瓦の校舎がある。
五高の敷地は五万坪あって、全国高校の中でも随一の広さを誇っていた。だから運動場その他もたっぷりと余裕があって、こせこせしていない。そこが気に入ってぜひとも合格しようと思い定めた。
こちらが勝手に思い定めたって、試験というものは水物であり、採点するのは向うさまである。運を天にまかせて、毎日赤煉瓦の教室に通い試験を受ける。午後は竜田山に登ったり、熊本の市街を見物に行ったり、夜は翌日にそなえて勉強する。その夜がしんしんと冷えわたった。
「福岡の夜などとはちょっと勝手が違うな」
そういう感じがした。
とにかく四日の試験を終えて福岡にもどる。
「できたか」
とおやじが聞くから、
「うんまあ」
と答えたが、あまり自信はない。いらいらと毎日をすごす。
発表は三月三十一日で、わたしはラジオで聞いた。もうそのころは鉱石ラジオ(レシーバーつき)でなく、みなが聞えるふつうのラジオだったから、ラジオの器械の発達はたいへんなものだったらしい。この型からトランジスターになるまで二十年ぐらいかかっている。
ラジオで自分の名を呼ばれるのはこれがはじめてで、そのショックは強かった。家中をうろうろ歩き廻り、二階の自分の勉強部屋に行き、うつぶせに寝ころがってやっと気持が落ちついたようである。自分の運命を大きく変える一瞬だということは、十七歳のわたしといえども承知していたから、このように動転したのだろう。
やがて起き上って日記を取り出して合格したということを書き記し、あとは空白なのである。逆境にあると人間は日記をつけたがるが、楽しくなるとその楽しさに没頭して日記などおろそかにしてしまう。凡夫のあさましさと言うべきだろう。
この日記は昭和七年版『新文芸日記』といって、巻尾に「現代文士年齢表」というのが出ている。最年長は七十四歳の坪内逍遙で、先日なくなられた村松梢風さんは四十四歳の中堅である。若いところでは平林たい子や伊藤整の二十八歳、吉行エイスケの二十七歳などがある。息子の吉行淳之介が現在三十何歳なのだから、時勢もずいぶん変ったのも当然であろう。
[やぶちゃん注:「南風北風」連載第五十三回目の昭和三六(一九六一)年二月二十五日附『西日本新聞』掲載分。前の公開分から四回分が省略されているので、そこに書かれている可能性が高いと思うのであるが、実は梅崎春生は修猷館中学校を昭和六(一九三一)年に卒業(旧制中学校は五年制)して、続いて官立福岡高等学校(国立九州大学の前身)を受験したものの不合格となり、一年後の翌昭和七年に現在の国立熊本大学の前身である熊本第五高等学校文科甲類(英語)を受験して合格、四月に入学している(ここはその受験シーケンス)。底本別巻の年譜によれば、同級に後の古典学者(記紀神話・古代文学専攻)の西郷信綱(大分県津久見市生まれ。梅崎春生より一つ年下)や後の小説家霜田正次(しもたせいじ:沖縄県国頭(くにがみ)郡今帰仁村(なきじんそん)生まれ。春生より二つ年上)がいたが、『三年進級に落第』、後の劇作家(春生より一つ年上)『木下順二らと同級になる。この4年間、詩作に興を抱き』、『校友会誌「龍南」に毎号発表する』とある。春生は『龍南』の編集員でもあった。そこに載った詩篇類については私が殆んど初出誌に基づき、復元版を翻刻してある(本ブログ・カテゴリ「梅崎春生」内。未読の方は是非、一読を強くお薦めする)。
「三月十六日」水曜日。四日間とあるから、十九日土曜に終了している。
「五高の敷地は五万坪あって、全国高校の中でも随一の広さを誇っていた。だから運動場その他もたっぷりと余裕があって、こせこせしていない」ウィキの「第五高等学校(旧制)」によれば、『旧制高等学校の中では飛びぬけて校地が広く、他の旧制高等学校が2万坪を標準としたのに対し、5万坪の敷地を誇り、陸上用グラウンドと野球用グラウンドを別々に設けるなど、かなり余裕がある使いかたをしていた』とある。調べると、同校の跡地は現在の熊本大学黒髪北キャンパス(熊本市中央区黒髪)に相当することが判る(リンク先は熊本大学公式サイト内の同地区地図)。
「竜田山」現行の表記は「立田山」(たつだやま/たつたやま)であるが、強ち、こう書いても誤りではない(後の引用を参照)。熊本県熊本市のほぼ中央にあり、標高は百五十一・七メートル。黒髪地区の東北直近。参照したウィキの「立田山」によれば、『かつては黒髪山と呼ばれていたが、奈良時代に赴任した国司が奈良の龍田を偲んだ歌を詠んだことからこう呼ばれるようになったと』もされるようであり、『黒髪の名前は現在も付近の町名に残っている』とある。
「三月三十一日」木曜日。
「この日記は昭和七年版『新文芸日記』」底本同七巻には梅崎春生の「日記」が抄録掲載されており、昭和七年分もあるが、残念ながら、十月二十日以降しか載っていない。
「村松梢風」村松梢風(明治二二(一八八九)年~昭和三六(一九六一)年:本名・村松義一)は小説家。静岡県生まれ。『電通』の記者を勤める傍ら、「琴姫物語」(大正六(一九一七)年)
で滝田樗陰に認められ、情話作者として出発、「正伝清水次郎長」 大正一五(一九二六)年~昭和三(一九二八)年)その他の考証的伝記風作品を多く書いた。新派の演目となり、映画化(初回は戦前の昭和一四(一九三九)年で溝口健二監督)もされた「残菊物語」(昭和一二(一九三七)年)などの小説も多いが、後の「本朝画人伝」「近世名勝負物語」などは克明な人物伝として評価が高い(ここは主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。なお、他の作家は私はそれぞれの小説も幾たりかは読み、辞書程度の情報は概ね知っている(下らぬ受験向け文学史授業の予習のお蔭で)ので敢えて注さない。悪しからず。
「吉行淳之介が現在三十何歳」彼は大正一三(一九二四)年四月生まれだから、記事当時は、満三十五。梅崎春生は四十六になったばかり。]
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