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« 乱読   梅崎春生 | トップページ | 芥川龍之介 手帳4―9 »

2016/08/03

芥川龍之介 手帳4―8

《4-8》

○譯詞長短話(vol.5) 寛政八年 ○淸文鑑和解 ○踏繪帳

[やぶちゃん注:「譯詞長短話」(やくししちやう(ちょう)たんわ)は、現在、長崎歴史文化博物館所蔵になる、長崎奉行所関係資料の一つで国指定重要文化財である、寛政八(一七九六)年に長崎の東京(トンキン:ベトナム北部、またこの地域の中心都市であったハノイ(河内)の旧称でもある)通事であった魏五左衛門喜輝(一七五七年~一八三四年)が官命によって編纂した通弁書(唐通事養成のための会話テキスト)である。参照した平岡隆二氏のブログ「長崎ノート」の訳詞長短話によれば、『近世長崎が生んだ書物のなかでも、これほど不思議な本はなかなかない。中央に記した漢文の両側には、南京官話・東京語・モウル語・安南語・オランダ語、ポルトガル語などの発音や訳文が「魏氏仮名文字」と呼ばれる独特の仮名文字で付されている。本書に見られる東京語は、福州語を基本としつつ若干のベトナム語が混入した言語と指摘されている。またモウル語はムガル帝国の公用語であったベルシア語とのこと。ピジンなのか、クレオールなのか、ともかく恐るべき書物である』。『長崎唐通事は』、十七世紀に『大陸沿岸から貿易のためにやってきて、やがて長崎に住み着いた人々(住宅唐人と呼ばれる)の末裔で、近世日本きっての多言語集団であった。著者の魏五左衛門は、東京人』であった魏熹(ぎき 一六五九~一七一二年:日本名は五平次、諱は喜宦(きかん))の『子孫で、熹から数えて』四代目に当たる、とある。

「淸文鑑和解」(しんぶんかんわげ)は江戸幕府が長崎の訳官に清の公用語であった満州語の研究を命じて編纂させた、嘉永四(一八五一)年から安政二(一八五五)年にかけて成った辞書で「翻訳清文鑑」とも呼ぶ。

「踏繪帳」正しくは「宗門御改影踏帳(しゅうもんおんあらためかげふみちょう)」と呼ぶ。松平文庫学芸員吉田信也氏の書かれたこちらの頁から引用させて戴く。

   《引用終了》

 島原では当初、毎年正月と7月に宗門改が行われていましたが、後に正月のみに行われるようになります。宗門改は町や村毎に実施されますが、影踏帳は町・村の中の組や名(みょう[やぶちゃん注:肥前国佐賀藩領及び島原藩領の一部(現在の長崎県島原半島一帯)に於ける集落単位の称。現在でも同地方には一部に「○○名」という地名で残っている。])毎に宗派別に作製されます。各檀家の名前、出生地、年齢の書上と押印をし、その人たちが全てキリシタンでないということを檀那寺(だんなでら)が証明したうえで宗門方の役人に届け出る形を取ります。そのため、当時の領内における家族構成や人口などを知る手がかりにもなるのです。

   《引用終了》]

 

○生月發見の Christ, Maria   [やぶちゃん注:ここにその図。後背へのキャプションは「金」。]

Cmzou

[やぶちゃん注:「平戸市生月町博物館 島の館」公式サイト内の「御神体」の「メダイ」に『キリストやマリア、聖人などの大小の金属製のメダル。大型は御前様として祀られる。なおメダイを初め、金属製の御神体を総じて金仏様と呼ぶ』とある。リンク先には円盤状ではないが、大型の長方形のメダイの画像が載り、後背も確認出来る。

 《4-7》からここまで纏まった切支丹関連の事実メモ。]

 

○松島艦にある寫眞 下關攻擊

[やぶちゃん注:「松島艦」日清戦争及び日露戦争で活躍した旧日本帝国海軍防護巡洋艦「松島」。明治二一(一八八八)年にフランスの地中海の造船所で起工、明治二五(一八九二)年に竣工して回航、明治二七(一八九四)年八月一日の日清戦争開戦の際には連合艦隊旗艦となった。清が保有していた戦艦「鎮遠」と「定遠」の二隻に対抗する軍艦として建造された、松島型(三景艦)のネーム・シップで同型艦は「厳島」と「橋立」である。但し、戦艦としては役立たずの無用の長物的存在で、日露戦争では二線級として扱われて実戦への参加は少なく、専ら、哨戒と掃海業務に従事し、明治四一(一九〇八)年に海軍兵学校第三十五期卒の少尉候補生を乗せて遠洋航海中、寄港した台湾の馬公で爆沈している(単なる事故か。以上はウィキの「松島(防護巡洋艦)」に拠った)。

「下關攻擊」所謂、馬関戦争、四国(しこく)艦隊下関砲撃事件、文久三(一八六三)年と翌文久四・元治元(一八六四)年の前後二回に亙ってイギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊と、尊攘派の長州藩の間に起った武力衝突。戦意発揚のために飾ってあったものであろう。]

 

○大浦の天主堂 St. Juan 寺 ○本蓮寺ノ板扉(切支丹井戸) 大恩寺(家康德川家一代の位牌。――物徂來ノ碑)○崇福寺

[やぶちゃん注:「大浦の天主堂 St. Juan 寺」長崎県長崎市にあるカトリックの大浦天主堂は、教会堂で、文久二(一八六二)年にフランスのパリ外国宣教会宣教師で日本教区長であったジラール神父の命を受けて、横浜にいたフランス人司祭(神父)フューレが長崎に赴任して司祭館と教会堂の建築準備に着手、元治二年一月二十四日(グレゴリオ暦一八六五年二月十九日)に完成して献堂式が挙行され、正式名称として「二十六聖殉教者堂」(慶長元年十二月十九日(一五九七年二月五日)に豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された二十六人のカトリック信者。同年、ローマ教皇ピオ九世によって列聖され、「日本二十六聖人」となっていた。本教会は結果して彼等に捧げられたものとなった)と命名された、日本最古の現存するキリスト教建築物。現在、正面の被爆した聖ヨハネ像やステンド・グラスの同聖人の画が知られるが、本教会が「さん・じゅわん寺」或いは「聖ヨハネ寺」と呼ばれていたことは確認出来なかった(「フランス寺」とは通称された)。思うに、私はこの「St. Juan 寺」は実は「大浦の天主堂」の追記ではなく、分離されて示されてある次の「本蓮寺」のメモではないかと深く疑っている。何故なら、次注で示す通り、「本蓮」は元は「聖ジョアン・バウチスタ教会」だからである

「本蓮寺」長崎県長崎市筑後町にある日蓮宗聖林山本蓮寺。本蓮寺公式サイト内の概要の歴史によれば、『日本最初のキリシタン大名大村純忠は大村の藩主ですが』、『長崎のこの地にはじめサンラザロ病院(日本で最初のハンセン氏病の病院)が建てられ、それに続いて修道院ができ、サンジョアン・バウチスタ教会ができたのでした』。『純忠の子喜前は加藤清正公と親交があり、法華経の素晴らしさを知ることになります』。『大村領内を見直し、大村の地には本経寺を建て、本経寺の二代目本瑞院日恵上人は本蓮寺を建てるに至ります』。『キリシタンでいっぱいの長崎の布教には、清正公より拝領の兜をかぶり、身を守って活躍したと伝わります』とある。ウィキの「本蓮寺によれば、天正一九(一五九一)年『来日したポルトガル船の船長ロケ・デ・メロ・ペレイラの寄附によってハンセン病患者のため聖ラザロ病院が建てられ、聖ジョアンバウチスタ教会も併設された』が、慶長一九(一六一四)年に『発布された禁教令により破却され、その後の』元和元(一六二〇)年、『発星院日真の弟子日恵が長崎に来て』、『跡地に一宇を建立』。正保五(一六四八)年(年)、『江戸幕府より朱印状を下付される』。なお、安政二(一八五五)年から四年の間、『長崎海軍伝習所で伝習生頭役を務めた勝海舟が』この寺に『寓居し』てもいる。原爆投下により、全山焼失したが、昭和二九(一九五四)年に再建されている、とある。

「板扉(切支丹井戸)」本蓮寺境内にある「南蛮井戸」と呼ばれるもの。本蓮寺公式サイト内の境内案内によれば、『南蛮人が堀った井戸なのでこう言います』。『この地は『サンジョアン ・バウチスタ教会』があり、禁令の出た後』、『教会は壊されましたが』、『この井戸は残りました。抜け道があるなど色々な伝説があります。南蛮井戸のすぐそばに離れの一室があります。昔、丁度この場所に『寝返りの間』がありました。『枕返しの間』ともいい、この部屋に寝た人は朝になったら頭と足が逆になるほど寝苦しいと言われている部屋です。住職は毎朝お経をあげるのが日課になっております』とあり、この「板扉」というのはその抜け道と関係がありそうには読める。

「大恩寺」これは皓台寺(こうたいじ:長崎市寺町にある曹洞宗海雲山普昭晧台禅寺)・本蓮寺とともに長崎三大寺といわれる浄土宗大音寺のことではあるまいか? ウィキの「大音寺によれば、慶長一九(一六一四)年に『伝誉関徹の開山により創建された寺で、以後』、『長崎奉行の帰依を得て寺地や堂宇の寄進を受けている。江戸時代には江戸幕府からも朱印状を与えられて隆盛した』とあるから、徳川家一代の位牌があっておかしくはない。

「物徂來」(ぶつそらい)は稀代の儒者荻生徂徠のこと。彼の本姓は物部(ものべ)氏で、かくも通称した。

「崇福寺」「そうふくじ」と読む。長崎市鍛冶屋町にある黄檗宗の寺院。本堂に相当する大雄宝殿、及び第一峰門は国宝建築で、興福寺

(長崎市寺町にある日本最古の黄檗宗寺院。山号は東明山。山門が朱塗りであるため、「あか寺」とも呼ばれる。古くより中国浙江省及び江蘇省出身の信徒が多いことから、「南京寺」とも称せられた。本堂に相当する大雄宝殿は現在、国重要文化財指定)

及び福済寺

(長崎市筑後町にある黄檗宗寺院。山号は分紫山。信徒には福建省の中でも漳州と泉州出身の華僑が多いことから、「漳州寺」「泉州寺」とも称せられた。本堂に当たる大雄宝殿などの建造物は、第二次大戦以前には国宝に指定されていたが、原爆によって焼失してしまった)

とともに唐寺の「長崎三福寺」に数えられる。寛永六(一六二九)年、長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が福州から超然(ちょうねん 一五六七年~正保元(一六四四)年:明末清初に長崎に来日した中国僧で福建省福州府生まれ)を招聘して創建。中国様式の寺院としては日本最古のもので、福建省の出身者が門信徒に多いことから、「福州寺」「支那寺」と称せられた(以上はウィキの「崇福寺長崎市及びそのリンク先のそれぞれのウィキ記載に拠った)。]

 

○慶長十九年より早くつぶる 日蓮宗の僧來る(Christians がこの僧を迫害す 道ふさぎと稱する大笠をかぶりて説教す) 切支丹の祟

[やぶちゃん注:「慶長十九年」一六一四年。この前年の慶長十八年二月に、『幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げた。また合わせて家康は以心崇伝に命じて「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」を起草させ、秀忠の名で』『公布』し、『以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法とな』った、『この禁教令によって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌』慶長十九年九月には『修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放され』ている(以上はウィキの「禁教令に拠る)。さても「慶長十九年より早くつぶ」れたというのは不審ながら(先の引用では同年破却とある)、「日蓮宗の僧來る(Christians がこの僧を迫害す 道ふさぎと稱する大笠をかぶりて説教す)」というのは先の「本蓮寺」の引用と極めてよく一致し、同寺由来の追加記載と読めるように思う。「切支丹の祟」は具体に書かれていないので不詳ながら、先の同寺公式サイトからの引用で、その切支丹絡みの井戸の近くに「寝返りの間」「枕返しの間」という怪奇な部屋が存在し、現在も住職が毎朝、誦経するとあるのが、まさにそれではあるまいか? 切支丹と関係ないのなら、わざわざ井戸の記載にそれを書くはずがないからである。]

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