幾年故郷来てみれば ――福岡風土記―― 梅崎春生
幾年故郷来てみれば
――福岡風土記――
今度の「故郷に帰る」の係りの本誌の丸山泰治さんが、事前の相談にあたってこぼした。「他の見なら、まだ行ったことがない県でも、すらすらとスケジュールが立つのに、福岡県だけはどうにも手がつかない」
福岡というのは雄大にして複雑な県で、力点があちこちにあり、どこかをぎゅうと押さえれば判るというような簡単な県ではないのである。
私も福岡の出身だが、福岡市とその周辺を知っているぐらいなもので、福岡県全体となると、旅人と、あまり大差がない。
何はともあれ福岡市に直行。そこに待機中のカメラの小石清さんと落合い、行程を相談し、大まかなところを決定した。
第一日日は八月二十二日。福岡市のあちこちを見物というスケジュール。
朝七時、宿舎にて起床。
この旅行のために、ここ一箇月早寝早起の訓練をしたから、七時と言っても別に苦にならない。
朝食に私の注文でオキウトが出る。海藻からつくった博多独特の食物で、私など口になつかしき限りだが、他国人にはこの味は判らないらしい。丸山さんなど一片一片箸でつまんで止めにした。九時、自動車が来る。
福岡市はまん中に那珂(なか)川が流れ、それから東を博多と呼び、西地区を福岡と呼ぶ。博多は町人街、福岡はさむらいの街。その西地区の中央に福岡城がある。戦前までは連隊が占拠していたが、敗戦と共にたちまち平和台と名をかえ、野球場や競技場がつくられた。競技場は四百米トラックが整備中で、なかなか立派なものである。
そこから隣接した大濠公園に向かう。案内して呉れるのは西日本新聞の草場毅君。小学校からの友人で、心易い。
大濠公園は城の濠を中心に整備した公園で、私が中学に入った年につくられた。その頃を思い出しながら、ぶらぶらと歩く。
西公園もすぐ近く。平和台と大濠公園と西公園、この三つをもっと有機的につなげば、おそらく日本一の立体的な公園になるだろうと思うが、今はまだばらばらで統一がない。
西公園に向かう途中、私が生れて中学二年まで過した家がある。荒戸町四番丁。今は東さん御一家が住んでいて、頼んで中を見せてもらう。間取りは昔と同じ。庭にも私の見覚えのある樹がいくつか立っている。玄関前の柿の木。私の幼ない時も、秋になるとこの柿は実をたわわにつけて、私たちを喜ばせた。今でもたくさん実るという。大へんサービスのいい樹だ。あまり大きな樹ではないが、樹齢は五十年以上であろう。「故郷の廃家」という小学唱歌を思い出した。もちろんこの家は廃家でなく、東さん御一族がちゃんと住んでおられるのだけれども。
生れた家というものには、どうも小学唱歌のにおいがあちこちにしみついている。
車にて修猷館(しゅうゆうかん)高校に向かう。私が学んだ頃は修猷館中学と言ったが、今では高校となり、男女共学となった。しかし男子学生は私の頃と同じ帽子をかぶっている。帽子だけが元のままというのが、ちょっと異様な感じであった。
この中学は、政治家や軍人には大物をたくさん出したが、文士というと、豊島与志雄氏亡きあと、私ぐらいなもので、一向にふるわないのである。
安住正夫先生に会う。先生から私は英語を教わった。先生は私を見て、年を取ると梅崎君みたいな高級文学は面倒くさくて読めなくなった、と言われる。いえいえ、何が高級なもんですか。
辞して今度は、博多の街を横断、東公園に向かう。
東公園には、亀山上皇と日蓮上人の銅像が立っているが、この日蓮銅像が異色である。銅像だけの高さは三十五尺。台座まで入れると七十尺で、奈良の大仏を抜く。私は幼ない時、初めてここに連れられて、もう帰ろうよとおやじにせがんだ記憶がある。あまりにも大きいので、怖かったのである。像の前にひざまずき、線香を立て、経を誦(ず)している信者が何人もいた。それから筥崎(はこざき)宮に廻る。
形のいい巨松を撮(と)ろうと、カメラの小石さんと一緒にずいぶん探したが、上記のコースのどこにも見当らなかった。戦前はずいぶんいい松があったのに、どういうわけか、戦後はすっかりあとを絶ってしまった。残念なことである。
博多の街に戻ってぶらぶら歩き。
戦後街筋も変化し、また大きな建物があちこちににょきにょきと建って、私の記憶の博多から大変貌をとげている。それから空を飛び交うジェット横。博多名物は、もう博多人形やにわかせんべいではなく、このジェット機だと言った人があるが、迷惑な名物もあればあったものだ。九州大学を始め各学校も、この狂騒音には手を焼いている由。
午後の汽車で門司に向かう。門司港着。小石さん、指をあげて、
「あ。興安丸だ」
と叫ぶ。
興安丸が夕焼けの海を、今しずしずと出港して行く。
八月二十三日
朝九時半、関門国道事務所門司出張所におもむく。
西村技官から約三十分、国道トンネル工事の説明を聞いた後、門司竪坑(たてこう)からエレベーターでトンネルに降りる。海底六十米の深さである。
自動車道、人道とあって、前者の幅は七米五〇、後者は三米八〇ある。下関の近くまで徒歩で往復したが、なかなか大規模の工事である。これが出来上ると、ずいぶん便利になるだろう。三十三年三月完成の予定だそうである。
辞して和布刈岬に登る。公園になっていて、早柄の瀬戸、門司港が一望に見おろせて、眺望が佳い。厳流島も見える。早柄の瀬戸というのは、本州と九州の最短距離のところで、潮が早い。
国道トンネルはつまり丁度この下を通るのである。
自動車にて八幡。腹がへってきたので、八幡の町をぶらぶら歩き、行き当りばったりに小さなうどん屋に飛び込む。瓢六(ひょうろく)うどんという屋号で、その味推奨するに足る。値段もたいへん安い。東京ではとてもこんな手打ちうどんは食べられない。
腹ごしらえをすませて、八幡製鉄所に向かう。
なにしろ東洋第一の大工場であって、敷地も広大だし、従業員も三万五千人、並び立つ巨大な煙突が七色の煙をはいている。
自動車であちこち案内されたが、やはり花形は熔鉱炉。これも見学したが、こわいみたいなものである。熔鉱炉の中心部は千八百度あるという。そこから熔かされた銑鉄(せんてつ)が、ぎらぎら光りながら、どろどろの小川になって流れてくる。ちょっと近寄ってたばこの火を拝借、というわけには行かない。その流れですら千四百度ある。線香花火の火花を百倍ぐらいにしたような大きな火花が、ばさっばさっと飛んでいる。
写真を撮られるために辛抱したが、ほんとに地獄のように熱かった。
製鉄所の車で戸畑の埠頭(ふとう)まで送っていただく。
連絡船にて洞海湾を若松に渡る。所要時間三分。切符代十円也。
若松港の貯炭場より、石炭を船に積み込む作業。
軽子(かるこ)がもっこにて運ぶという原始的作業だ。それを見て小石さんがカメラに撮っていると、軽子の群のあちこちから、写真に撮ってはだめだ、というような声があがる。彼等は働いているのに、私たちがのんびり眺めたり撮(うつ)したりしているのが、しやくにさわったらしい。
だから早々にして退散。若松の街に行き、紅卯(べにう)という喫茶店でミルクセーキを飲む。若松に来たからには火野葦平親分にあいさつしなくては、と丸山氏、紅卯より電話をかける。ところが親分は、夏期大学講師として佐賀に行き、留守であった。紅卯の美しき女主人も、火野親分の親戚にあたる由。
小雨を冒して、高塔山に登る。ここも山頂は公園になっていて、眺望絶佳の由であるが、小雨のため眼界は煙っている。八幡の製鉄所が真下に見える。
河童(かっぱ)堂というのがあり、河童封じの地蔵尊が本尊で、この地蔵尊の中にあまたの河童が封じてある。地蔵尊の背中に釘が打ち込んであり、そのために河童が出られないのである。よっぽどその釘を引抜いてみようかと思ったが、生憎(あいにく)釘抜きを持って来なかったし、またぞろぞろと河童が出て来たら私の責任にもなるので、残念ながら止めることにした。
下山し、連絡船にて戸畑に戻り、国鉄のディーゼルカーにて福岡に戻る。
今日はあちこちとずいぶん歩き廻ったので、福岡まで一時間半、満員で立ちん坊はすこしつらかった。国鉄職員あるいは組合員とおぼしき一群(駅に着くたびに駅員に通信筒みたいなものを渡していた)が、満員の中に悠々と席をしめ、騒いだりしていたのは、言語道断であった。
八月二十四日。
細雨の中を宿舎発、都府楼に向かう。つまりこれは、昔の鎮西の役所太宰府の跡であって、建物は全然残っていない。大きな礎石があちこちに残っているだけであるが、その礎石の大きさから、昔日の盛観を偲ぶことが出来る。草が茫々(ぼうぼう)と生い茂っている。小学生の頃ここに遠足に来たら、附近の田んぼから、当時の瓦の破片が拾えたが、今ではもうそれも拾いつくしたらしい。
菜の花ばたけに入日うすれ
見渡す山の端かすみ深し
小学唱歌のこの歌を聞くと、私は必ずこの都府楼附近の春色も思い浮べる。そのような地勢であり、風景なのである。
それより観世音寺に向かう。鏡西一の名刹(めいさつ)であり、歴史も古い。
閑寂な境内に入り、右手に国宝の鐘がある。菅原道真の詩に、
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
というのがあるが、これがその鐘であって、国宝になっている。石田住職の許しを得て、私はそれを突いてみた。小雨の筑紫野に、鐘声はしずかに拡って行った。いい音である。
この寺には実に仏像が多い。薄暗い講堂の中に、屋根裏につかえるばかりの巨大な観音像五体を始め、大小さまざまの像があちこちの建物に充満している。石田住職の案内で、私たちは次々に見て廻った。
雨はやんだり、また降り出したり。晴れ間には熊蟬やつくつく法師が啼(な)く。丸山氏は熊蟬の啼き声は初めてらしく、めずらしそうに耳を傾ける。
私たちはこの蟬のことを、わしわしと呼ぶ。東京では聞けない。
ところでここに困ったことがおきた。丸山氏が貴重な金ぶちの眼鏡を落したという。都府楼徘徊(はいかい)中にちがいないというので、車を戻し、草の根を分けて探したが見当らず、千載(せんざい)の恨みを残して、大宰府へと向かう。(後日この眼鏡は、近所の子供に拾われ、石田住職の手を通して、丸山氏の手に戻った由。めでたし)
太宰府天満宮は道真公をまつった神社。丹青の本殿、楼門、廻廊、池、反(そ)り橋など、観世音寺の閑寂にくらべて、すべてきらびやか豪華に出来ていて、したがって、俗臭紛紛といった傾向がないでもない。
裏は梅林になっていて、私たちは茶店で小憩、茶をすすり、梅ガ枝餅を食べた。
ここで私が最も感心したのは、社務所近くにある巨大なく樟(くすのき)で、大きいのなんのって、ちょっと見には丸ビルぐらいある。樹齢千年也という。
千年と一口に言うけれども、千年もひとつところに動かず、そしてこんなに大きくなったということは、大したことである。真似の出来ることではない。
二日市を経て、急行電車にて久留米。昼飯を食べようと適当な店を探したがなし。駅近くの大衆食堂に入る。ここはサービスも悪いし、ひどいものを食わせた。もっとも駅近くの食堂というやつは、どこでもひどいものを食わせるものだから、あながち久留米ばかりを責めるわけには行かないが。
石橋文化センターに向かう。ここはブリヂストンの石橋正二郎氏がつくって、久留米市に寄贈したもの。中央に庭園があり、体育館、美術館、プールがその三方にある。敷地約一万坪で、たいへん立派なものである。美術館では丁度(ちょうど)郷土出身の青木繁、坂本繁二郎両画伯の作品展が開かれていて、たいへんたのしかった。作品もよく集められていた。
二時半、水天宮に向かい、筑後川を眺め、また急行電車にて柳川に向かう。
柳川では、殿様経営にかかるところの料亭「於花(おはな)」に泊る予定であったが、いかなる手違いにや、ぬる茶一杯飲みたるだけで、部屋なしと無情にも追い出さるる。一行三人、無念やるかたなく、近所の若松屋なるうなぎ屋に押し上り、うなぎを食べ、酒を飲む。風貌姿勢プロレスの東富士にそっくりの仲居ありて、名を問えば西の富士と答う。大いに東と張り合っているつもりらしい。柳川はうなぎの名産地だというが、私の舌にはたれが少し甘過ぎた。みりんのかわりに飴を用いるという。値段は安く、東京の半分以下である。
柳川は掘割が縦横に通り、古くてうつくしい町である。
白秋の碑を見る。この碑はたしか長谷健等が、ねばりにねばってこさえ上げたものである。詩碑には詩が彫ってあるだけで、横に廻ってもうしろに廻っても、他には字は一つも彫ってない。さっぱりしたもので、さすがは長谷親分の仕事だけある。
車にて船小屋温泉に向かう。ここは矢部川に沿った含鉄炭酸泉で、風光も明るく、予定外の掘出しものであった。樋口軒に泊る。矢部川を隔てた対岸の堤は、樺の大木が二里もつづいていて、壮観である。
これは植林で、すべて樹齢三百年に及ぶという。
若松屋でうなぎを詰め込んだので、腹いっぱいでお酒では酔わない。ウイスキーを持って来させ、ここの含鉄炭酸泉水に混ぜ、ハイボールにして飲んだ。いささか鉄のにおいが気になるが、そのうち結構酔っぱらってきた。「於花」で追い出されたばかりに、鉄くさいハイボールを飲むことになろうとは、思いがけぬめぐり合わせで、旅情ここにおいていよいよ深まった感がある。
明くれば八月二十五日。行程最後の日である。
いささか二日酔の気味で、つい寝過した。
丸山、小石の両氏は、朝早々と起き出で、そこら一帯を散歩してきたという。
朝食がわりにビールを一本飲み、身仕度して対岸に渡る。
ここの樟並木はうっそうとして、ほとんど日も通さない。
国鉄船小屋駅に行き、汽車で大牟田に行く。ここは有明湾の東岸に位する本県最南端の工業都市であり、三池炭山の所在地である。ここで炭鉱を見ようとのスケジュールだ。
三井鉱山の人に案内されて、第二人工島に行く。
ここではすでに地下の石炭は掘り尽して、今は海底を掘っている。そのための換気坑が必要で、人工島をつくった。第一のはすでに完成、三池港の沖合二キロの地点にあり、初島と名付けられている。第二のが今つくられつつあるところで、防波堤の先を埋立てたへんてつもない島の相である。
戻って会社のクラブで、五高で一緒だった石田朴君(三池鉱業所勤務)より昼飯の御馳走となる。
午後、いよいよ入坑。
入坑するには、やはりふつうの服装では入れない。巻頭のグラビヤにあるような恰好となる。丸山さんも小石さんもそういう恰好になったら、もう鉱夫と見分けがつかなくなった。
人車に乗り、三川鉱の斜坑を、一気に千七百米まで降る。人車というのは、トロッコに天井をつけたもので、遊園地などにある子供電車みたいなものと思えばいい。それが数十台つながって、轟々と斜めにくだって行くのである。
慣れると何でもないだろうが、初めてだとちょっと悲壮な感じがある。人車を降りて、坑内のあちこちを歩く。巨大な地下変電所などがある。温度も、とても暑い坑と涼しい坑がある。
涼しい坑では、つめたい風が吹き抜けていて、気分がいい。
一時間ばかりあちこち歩き、待合所に戻って、上り定期便を待つ。待合所には、八時間の仕事を終えた鉱夫たちが、たくさん群をなして待っている。その人々の動作や表情には、地下で働く人とは思えぬほどの明るさとにぎやかさがある。もっとも明るい気分を保持してないと、とても陽(ひ)のささぬ場所では働けないだろう。
やがて人車が来た。皆乗り込み、轟々と音を立てて登って行く。人車がとまり、真昼の外に出る。
わずか一時間ばかりの入坑であったが、その日の光がありがたかった。地上にうつる自分の影が、実に新鮮であった。冷たい水を貰って、むさぼり飲む。
かけ足の四日間ながら、これで福岡県の大略か上っ面かを、ほぼ見て廻った。
[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年十一月号『小説新潮』初出で、昭和三二(一九五七)年一月現代社刊の単行本「馬のあくび」に再録された(書誌は以下の底本解題の複数記載を参照した)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。文中冒頭の「本誌」の後には「(小説新潮)」、「グラビヤ」の後には「(昭和三十一年十一月号「小説新潮」)」という丸括弧附きのポイント落ち割注が入るが、これは底本全集編者の挿入と思われ、或いは「馬のあくび」では入っているのかも知れないが、初出形を想定して除去した。
今まで通り、馬鹿正直に注を附すことも考えたが、生家附近の町名などは既に注してきたので、今回は気になったものだけをストイックに注した(つもりが、やっぱり長くなった。悪しからず)。
「そこに待機中のカメラの小石清さん」福岡で落ち合ったカメラマンの「小石清」となると、これはかなり知られた(私でさえ知っている)不世出の写真家小石清(こいしきよし 明治四一(一九〇八)年~昭和三二(一九五七)年)のことではあるまいか? ウィキの「小石清」から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『日本の戦前を代表する写真家。戦争のために創作の機会を奪われた末に早世した悲劇の天才として知られる』。『大阪で高級雑貨商の家に生まれる。高等小学校を卒業後の一九二二年に浅沼商会大阪支店技術部に入社して本格的に写真の技術を学んだ。一九二八年に浪華写真倶楽部に入会。一九三一年には大阪にスタジオを開設し、写真家として独立。この間、浪展、国際広告写真展、日本写真美術展などで次々と入選。同年には大阪で行われた独逸国際移動写真展で新興写真に触れ、大いに刺激を受けた』。『一九三二年、写真及び自作の詩を収めた「初夏神経」を浪展に出品、翌年、ジンク板の表紙及びリング閉じにより出版。一九三六年、これまでに培った前衛写真の手法を集大成した解説書「撮影・作画の新技法」を発表』。『一九三八年、政府による写真情報誌「写真週報」の写真を担当。日中戦争に従軍写真家として赴いた際に撮影された写真をまとめた連作「半世界」(一九四〇ねん)でも前衛手法を用いて斬新な表現を試みているが、その後戦時下では小石の前衛手法は制限を余儀なくされた。だがその最中にあっても、一九三九年に南支において現地住民の写真を多数撮影し、『南支人の相貌』と題して雑誌「カメラ」に発表している』。『戦後は福岡県門司市(現在の北九州市門司区)に移り、門司駅付近にカメラ屋「小石カメラ」を創業する一方で門司鉄道管理局嘱託として活動を続けたが』、『ほとんど作品を残せなかった。晩年の小石と話をした中藤敦によれば、小石からは「昔程の作画意欲と夢が喪失した」と感じたという。そして一九五七年、門司駅構内での転倒で頭を打ったことが原因で七月七日に同市の病院で死去した。小石は酒好きだったためにメチルアルコールに手を出して視力を悪化させたのが事故死の原因だといわれている。死の直前には内田百閒の取材に同行して写真を残しており、内田は小石との別れについて「千丁の柳」(『ノラや』(中公文庫)に収録)に記している』。『戦前の小石はあらゆる写真的技術を軽々と使いこなし、芸術写真、新興写真、前衛写真、報道写真と、ジャンルを問わず作品を残している。なかでも、一九三三年に刊行された写真集『初夏神経』は、その装幀、各作品、そして各作品に使われた二重露光、フォトグラム、ソラリゼーションなどのテクニックから考えて、日本の戦前の写真集の一つの到達点ともいえる』とある。もし彼なら(彼であろう)、不慮の死の凡そ一年前の仕事であったことになる。
「オキウト」「おきゅうと」として最近はスーパーでも普通に見かける全国区となった海藻加工食品であるが、元は福岡県福岡市を中心に食べられてきたもので、私の好物でもあり、海藻フリークの私としては注せざるを得ない。ウィキの「おきゅうと」から引くと、漢字では「お救人」「浮太」「沖独活」などとも表記されるそうで、『江戸時代の『筑前国産物帳』では「うけうと」という名で紹介されている』。『もともとは福岡市の博多地区で食べられていたようだが、その後福岡市全体に広がり、さらには九州各地に広がりつつある。福岡市内では、毎朝行商人が売り歩いていた』。『作り方は、原料のエゴノリ(「えご草」、「おきゅうと草」、博多では「真草」とも呼ばれる)』(紅色植物門紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属エゴノリ Campylaephora hypnaeoides)『と沖天(イギス、博多ではケボとも呼ばれる)』(紅藻綱イギス目イギス科イギス連イギス属イギス
Ceramium kondoi)『やテングサ』(紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae に属する海藻類の総称であるが、最も一般的な種はテングサ属マクサ Gelidium elegans)『をそれぞれ水洗いして天日干しする』(状態を見ながら、干しは一回から五回ほど繰り返したりする)。この時の歩留まりは七割程度であるが、『この工程を省くと味が悪くなり黒っぽい色のおきゅうとができるため、手間を惜しまない事が重要である(ただし、テングサは香りが薄れるので自家用の場合は洗う回数を減らすことがある』)。『次に天日干しした』エゴノリと同じく天日干ししたイギス(或いはテングサ類)を、凡そ七対三から六対四の割合で混ぜて、よく叩く。『酢を加えて煮溶かしたものを裏ごしして小判型に成型し常温で固まらせる』。『博多では、小判型のおきゅうとをくるくると丸めたものが売られている』。『おきゅうとの良し悪しの見分け方として、あめ色をして、ひきがあるものは良く、逆に悪いものは、黒っぽいあめ色をしている。また、みどり色をしたものは、「おきゅうと」として売られているが』、全くエゴノリが『使われていないものもあり』、テングサ類が『主原料の場合は「ところてん」であり』、『「おきゅうと」ではない』(これは絶対で、舌触りも異なる)。『新潟県や長野県では』、エゴノリのみを『原料とした』殆んど「おきゅうと」と『製法が同じ「えご(いご)」「いごねり(えごねり)」が食べられている』。「おきゅうと」との『製法上の相違点は』、エゴノリを『天日干しせず、沖天を使用しないところである』。食べ方は、五ミリから一センチの『短冊状に切り、鰹節のうえに薬味としておろし生姜またはきざみねぎをのせ生醤油で食べるか、または芥子醤油やポン酢醤油やゴマ醤油などで食べるのが一般的である。もっぱら朝食の際に食べる』。この奇妙な『語源については諸説あり』、『沖で取れるウドという意味』・『キューと絞る手順があるから』・『享保の飢饉の際に作られ、「救人(きゅうと)」と呼ばれるようになった』・『漁師に製法を教わったため、「沖人」となった』、『などが挙げられる』とある。
「大濠公園」「おおほりこうえん」と読む。
「安住正夫先生」昭和三六(一九六一)年にここにも出る、『西日本新聞』に連載した「南風北風」の第三十三回目の二月五日附分「伊崎浜」にもその名が出る、梅崎春生にとって忘れられぬ修猷館の名物先生のようである(リンク先は私の電子テクスト)。まだ現役で勤務されておられたものかと思われる(としても定年間近であられたか)。
「東公園には、亀山上皇と日蓮上人の銅像が立っている」何故、この二人の銅像なのか?しかも金のかかっていそうな巨大なものが? と、疑問に思って検索してみたところ、駄田泉氏のブログ記事「なぜ亀山上皇像なのか」で氷解。まず建立は日露戦争が始まった明治三七(一九〇四)年で、戦意高揚のために元寇に際して重要な役割を担ったとしてこの二人が選ばれたとあるが、駄田泉(「ダダイズム」のパロディっぽい)氏も記されておられる通り、『蒙古襲来を予見した日蓮はともかく、時の為政者として元寇に対処したのは執権・北条時宗である。なぜ、時宗像ではなく亀山上皇像なのだろうか』と疑問は頻り。以下、引用させて戴く(アラビア数字を漢数字に代え、段落間の行空きを省略させて戴いた)。
《引用開始》
八尋七郎氏という方が一九九二年に『県史だより』に書かれた「亀山上皇銅像について」という文章を最近読む機会があり、疑問が解けた。やはり、最初は「馬に乗る時宗」像建立が計画されていたようなのである。それがなぜ上皇像に変わったのか。このあたりの経緯が『福岡県議会史 明治編下巻 附録』に記されており、八尋氏の一文はこれを紹介したものだ。
県議会史に収録されている原典は福岡日日新聞記者の執筆で、孫引きで申し訳ないが、面白い話なので八尋氏の一文から要約させてもらう。
元寇記念碑(時宗像)建立の計画が持ち上がったのは安場保和知事(在任期間はウィキペディアによると一八八六~一八九二年)の時代だったという。当時の福岡署長だった湯地丈雄が知事に命じられて資金を集めたが、この金を安場知事が第二回衆院選(一八九二年)での選挙干渉に流用してしまった。選挙干渉とは、明治政府よりの政党を勝利させるため、知事自ら警官隊を動員して立憲自由党や立憲改進党の選挙活動等を妨害したという悪質な事件だ。死者さえ出している。
この資金流用は、後々福岡県政の負の遺産となったが、安場の十年後に知事を務めた河島醇(在任期間は一九〇二~〇六年)の時代、日蓮宗の僧侶から願ってもない許可願が出された。それが日蓮像建立のための資金集め。河島知事は許可する代わりに、これ幸いと「像二つ分」の資金集めを持ちかける。ただ、日蓮を迫害した鎌倉幕府の執権では具合が悪いだろうということで、時宗から亀山上皇の像に計画を切り替えたのだという。
建立を巡って巷間伝わっている話とはずいぶん違い、信ぴょう性については分からないが、少なくとも「なぜ亀山上皇なのか」の疑問には十分に答えてくれる内容だとは思う。
《引用終了》
私も十二分に納得出来た。銅像だけに如何にも金(かな)っけ臭いリアリズムがあるではないか。
「三十五尺」十メートル六十一センチ弱。
「七十尺」約二十一メートル二十一センチ。
「興安丸」敗戦後の引き揚げ船として知られるた昭和を代表する船で、この当時も未だナホトカ・ホルムスクと舞鶴の引き揚げ船としても現役で使われていたようである(ウィキの「興安丸」の「戦後」の項を参照されたい)。
「自動車道、人道とあって、前者の幅は七米五〇、後者は三米八〇ある。下関の近くまで徒歩で往復したが、なかなか大規模の工事である。これが出来上ると、ずいぶん便利になるだろう。三十三年三月完成の予定だそうである」関門トンネル国道二号は戦前の昭和十二(一九三七)年に試掘導坑の掘削を開始し、二年後に完了。同年中に本坑掘削に着工して昭和一九(一九四四)年十二月に貫通はしたものの、第二次世界大戦による相次ぐ戦災によって昭和二〇(一九四五)年の六月或いは七月には工事が中断していた。敗戦後の昭和二七(一九五二)年、「道路整備特別措置法」による有料道路として工事を再開、ここで述べられている予定通り、昭和三三(一九五八)年三月九日に開通している(以上はウィキの「関門トンネル(国道2号)」に拠った)。
「和布刈岬」「和布刈」は「めかり」と読み、福岡県北九州市門司区門司にある岬で、この和布刈公園の西直下に「和布刈神事」で知られる和布刈神社がある。ウィキの「和布刈神社」に、『神社名となっている「和布刈」とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える「和布刈神事」(めかりしんじ)が行われる』。和銅三(七一〇)年には『神事で供えられたワカメが朝廷に献上されているとの記述が残って』おり、現在、この神事は『福岡県の無形文化財に指定されている』とある。因みにこの神事、私には中学生の頃に貪るように読んだ松本清張の一作「時間の習俗」以来、耳馴染みの神事である。壇ノ浦に面した海岸に鳥居が建っている。
「早柄の瀬戸」「はやとものせと」と読む。福岡県北九州市門司区と山口県下関市壇ノ浦の間にある水道で、関門海峡の最狭部に当たる(幅は約六百五十メートル)。潮流が最高八ノットに達する航行の難所で、源平の古戦場として知られる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「軽子(かるこ)」魚市場や船着き場などで荷物運搬を業とする人足。縄を編んで畚(もっこ)のようにつくった軽籠(かるこ)と呼ばれる運搬具を用い、これに荷物を載せ、棒を通して担いで運んだところから、この称が出た(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「河童(かっぱ)堂というのがあり、河童封じの地蔵尊が本尊で、この地蔵尊の中にあまたの河童が封じてある。地蔵尊の背中に釘が打ち込んであり、そのために河童が出られないのである」私の電子テクスト火野葦平の「石と釘」の注を参照されたい。「地蔵尊」とあるが、正しくは「虚空蔵菩薩」。公開当時、パブリック・ドメインとしての使用が許可されてあった、参照させて頂いた『大雪の兄』氏の「若松うそうそ」の「カッパ封じ地蔵」の写真(打たれた釘もしっかり見える)も掲げてあるので、是非、ご覧あれ。
「都府楼纔看瓦色/観音寺只聴鐘声」菅原道真の以下の七言律詩の頷聯。
不出門
一從謫落在柴荊
萬死兢兢跼蹐情
都府樓纔看瓦色
觀音寺只聽鐘聲
中懷好逐孤雲去
外物相逢滿月迎
此地雖身無儉繫
何爲寸步出門行
門を出でず
一たび謫落(たくらく)せられて 柴荊(さいけい)に在りしより
萬死(ばんし) 兢兢(きようきよう)たり 跼蹐(きよくせき)の情
都府樓は 纔(わづ)かに 瓦色(ぐわしよく)を看(み)
觀音寺は 只(ただ) 鐘聲(しやうせい)を聽く
中懷(ちうくわい)好し 孤雲を逐ひて去り
外物(がいぶつ) 相ひ逢ひて 滿月 迎ふ
此の地 身(み)に檢繫(けんけい)無しと雖も
何爲(なんす)れぞ 寸步(すんぽ)も門を出で行かん
簡単に語釈する。「柴荊」柴や茨作りの粗末な門を持つ陋屋。「萬死」(無実ながら、帝より)万死に当たる罪(を給い、かく左遷させられたこと)。「兢兢」恐れ慎むさま。「跼蹐の情」身の置きどころのないこの境涯に陥った思い。「觀音寺」太宰府の東方にあった、ここに出る現在の福岡県太宰府市観世音寺にある天台宗清水山(せいすいざん)観世音寺のこと。「中懷」
胸中の思い。「檢繋」束縛。
「梅ガ枝餅」ウィキの「梅ヶ枝餅」によれば、『小豆餡を薄い餅の生地でくるみ、梅の刻印が入った鉄板で焼く焼餅で』、『出来上がると中心に軽く梅の刻印が入るようになっている。その名称は太宰府天満宮の祭神である菅原道真の逸話に由来しており、梅の味や香りがする訳ではない』。『よく饅頭と勘違いされることがあるが、実際は餡』『入りの焼餅である』。『菅原道真が大宰府へ権帥として左遷され悄然としていた時に、安楽寺の門前で老婆が餅を売っていた。その老婆が元気を出して欲しいと道真に餅を供し、その餅が道真の好物になった。後に道真の死後、老婆が餅に梅の枝を添えて墓前に供えたのが始まりとされている』が、『別の説では、菅原道真が左遷直後軟禁状態で、食事もままならなかったおり、老婆が道真が軟禁されていた部屋の格子ごしに餅を差し入れする際、手では届かないため』、『梅の枝の先に刺して差し入れたというのが由来とされており、絵巻にものこっている』とある。
「長谷健」(はせ
けん 明治三七(一九〇四)年~昭和三二(一九五七)年)は小説家・児童文学者。ウィキの「長谷健」より引く。『福岡県山門郡東宮永村下宮永北小路(現・柳川市下宮永町)生まれ。因みに、東宮永小学校は大関琴奨菊の母校でもある。旧姓は堤、本名は藤田正俊』。大正一四(一九二五)年、『福岡師範学校卒業。柳川の城内小学校教師をした』後、昭和四(一九二九)年に『上京、神田区の芳林小学校に勤務。このころからペンネームを長谷健とする』。昭和七(一九三二)年、『浅草区浅草小学校に転勤』。昭和九(一九三四)年には同人誌『教育文学』を、昭和一一(一九三六)年には『白墨』を創刊している。『小学校教師として教育にあたり、文学者としても活動を行う』。昭和一四(一九三九)年、『浅草での教師体験をもとにした『あさくさの子供』を『虚実』に発表し、第九回芥川賞を受賞』した。昭和一九(一九四四)年、『柳川へ疎開し、国民学校に勤務する。同人誌『九州文学』の同人として』五年間を『郷里で過ごした後、再び上京』、『火野葦平の旧宅に同居し、日本ペンクラブ、日本文芸家協会の要職につく。児童文学の著述とともに、北原白秋を描いた』「からたちの花」「邪宗門」などを発表した。本記事発表の一年後、『東京都新宿区西大久保にて、忘年会の帰りに寄った屋台を出て道路を渡ろうとしたところ、タクシーにはねられる交通事故に遭』って死去した、『葬儀委員長は火野葦平が務め』ている。梅崎春生より十一年上。
「船小屋温泉」「ふなごやおんせん」と読む。福岡県筑後市南部にある温泉。源泉温度が十九しかない冷鉱泉。
「第二人工島」「第一のはすでに完成、三池港の沖合二キロの地点にあり、初島と名付けられている」「大牟田の近代化遺産」で各所の往時の写真が見られる。必見!
「人車」「じんしゃ」。]