諸國百物語 附やぶちゃん注 始動 / 諸國百物語卷之一 一 駿河の國板垣の三郎へんげの物に命をとられし事
諸國百物語 附やぶちゃん注
[やぶちゃん注:カテゴリ「諸國百物語 附やぶちゃん注」を創始し、全百話の電子化注を開始する。
「諸國百物語」は第四代将軍徳川家綱の治世、延宝五(一六七七)年四月に刊行された、全五巻で各巻二十話からなる、正味百話構成の真正の「百物語」怪談集である。この後の「百物語」を名打った現存する怪談集には実は正味百話から成るものはないから、これはまさに怪談百物語本の嚆矢にして唯一のオーソドックスな正味百物語怪談集と言えるのである。但し、著者・編者ともに不詳である(以下に示す「序」によれば信州諏訪の浪人武田信行(たけだのぶゆき)なる人物が旅の若侍らと興行した百物語を板行したとするが、仮託と考えてよい)。ウィキの「諸国百物語」によれば、『伝本はきわめて少数であり、現存する完本は東京国立博物館の蔵本が唯一』とし、特徴としては「諸国」とある通り、『地域を特定せず、北は東北地方から南は九州まで日本各地の怪異譚を扱っていることである』。『本書の内容は、それ以前に刊行された怪談集から引き写したとみられる話も多く、中でも』寛文三(一六六三)年の作者不詳の「曾呂利物語」『からの採用といわれる話は』二十一話にも及び、他にも先行する「沙石集」「奇異雜談集」「因果物語」「宿直草」などの古書を出所とする話も多い。以上の記載でも参考にさせて頂いた、基礎底本(後述)の太刀川清氏の解題によれば、『本書の怪異は幽霊が圧倒的に多く、全体の三分の一を占める』とあればこそ、十二分に怪異を味わって戴けるものと存ずる。
底本は昭和六二(一九八七)年国書刊行会刊の「叢書江戸文庫」の第二巻太刀川清氏校訂「百物語怪談集成」に所収するそれを基礎底本としつつ、私のポリシーに従い、概ね漢字を恣意的に正字化して示すこととする(底本は新字旧仮名遣仕様)。読みは私が振れると判断したもの、或いは難読と判断したものに限った(一部に歴史的仮名遣の誤りがあるがママとし、原則、注記しなかった)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。本文は平仮名が多く、そのために却って読みにくくなっている箇所があるので、読点を私が一部に追加し、また、直接話法箇所は改行を施して読み易くした。一部に添えられてある挿絵は基礎底本に載ものをトリミングし、汚れを除去して各標題の後に示した。目録下の底本編者の附した丸括弧入りのノンブルは省略した。注は怪異をかったるくさせぬよう、なるべくストイックを心掛けることとするが、若い読者をターゲットとする注なれば、識者には言わずもがなの注も多かろうとは存ずる。悪しからず。今日から百日後は本年11月30日……その夜の怪異が今から楽しみである……【2016年8月23日始動 藪野直史】]
諸國百物語序
そもそも此百物語の出所を尋ぬるに、信州諏訪と云ふ所に武田信行といへる浪人あり。ある夜、雨中のつれづれに、伴なふ旅の若侍(わかさぶらひ)三四人よりあひ、四方山(よもやま)の咄をするついで、信行いへるやうは、昔より百物語と云ふことをすれば、かならずその座に不思議なる事ありといへり。いざ、こよひ語りて心見んとて、をのをの車座になみゐて、眞中に燈心百筋たてゝ、灯(ともしび)をとぼし、さて、咄をはじめ、順々にまわし、咄ひとつにて燈心一すぢづゝのぞきけるほどに、すでに咄も九十九になり、燈心も今一すぢとなり、何とやらん物すごき折ふし、座敷の天井へ大磐石(だいばんじやく)などのおつるごとく、おびたゞしき音して灯もきへければ、をのをのおどろきけるに、信行、さはがず、心得たり、といふまゝにとつておさへ、ばけ物はしとめたり。大きなる人の股(もゝ)にてあるぞ、火をともせといへば、手に手に灯をたてゝこれをとれば、その座につらなりし侍(さぶらひ)の股をとりふせゐたりけり。みなみな、どつと笑ひて退出しけり。そのとき執筆(しゆひつ)の書きしるしたる咄の書(しよ)を、今梓(あづさ)にちりばめ、世にひろめて老若男女(ろうにやくなんによ)のなぐさみ草とす。當時(そのとき)すでに百物語と云ふ雙紙(さうし)あれども、わらんべのもてあそび草にして、出所(しゆつしよ)正しからず。今、此雙紙は、その國々の諸人も聞きおよび、見及びたる咄の證據たゞしきをあつめ、五卷として諸國百物語と名付くると、しか云ふ。
[やぶちゃん注:「梓(あづさ)にちりばめ」その百話を書物に鏤(ちりば)め。上梓すること。「梓」は落葉高木の木大角豆(きささげ:シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata)の別名で、中国で本種を版木として用いたことに由来する。
「出所(しゆつしよ)正しからず」その話の出所(でどころ)がどれも正確でなく、話柄の一部にも事実は思われない不審な箇所が多い、というのである。本書の筆者の格別の自負が窺える附言である。
なお、以下に全十巻分の目録が並ぶが、それぞれ各巻の頭に配することとした。]
諸國百物語卷之一目錄
一 駿河の國板垣の三郎へんげの物に命をとられし事
二 座頭旅にてばけ物にあひし事付タリ三小鍛冶(こかぢ)が銘の刀(かたな)の事
三 かわちの國くらがり峠道珍(どうちん)天狗に鼻はぢかるゝ事
四 松浦伊豫(まつうらいよ)が家にばけ物すむ事
五 木屋(きや)の介五郎が母夢に死人(しびと)をくいける事
六 狐山伏にあだをなす事
七 蓮臺野二つ塚(つか)のばけ物の事
八 後妻(うはなり)うちの事付タリ法花經の功力(くりき)
九 京東洞院(ひがしのとうゐん)かた輪車(わくるま)の事
十 下野の國にて修行者亡靈にあひし事
十一 出羽の國杉山兵部が妻かげの煩(わづらい)の事
十二 するがの國美穗が崎女の亡魂の事
十三 越前の國永平寺の新發意(しんぼち)が事
十四 せつちんのばけ物の事
十五 敦賀のくに亡靈の事
十六 栗田源八ばけ物を切る事
十七 本能寺七兵衞が妻の幽靈の事
十八 殺生をして白髮(はくはつ)になりたる事
十九 會津須波(あいづすは)の宮(みや)首番(しゆばん)と云ふばけ物の事
二十 尼が崎傳左衞門湯治してばけ物にあひし事
諸國百物語卷之一
一 駿河の國板垣の三郎へんげの物に命をとられし事
するがの國の住人に儀本(よしもと)といふ人あり。あるよのつれづれに、家の子らうどうをあつめ、しゆゑんゆふけうをせられし折ふし、儀本、仰せられけるは、
「たれにてもあれ、此内に、せんげんの上のやしろまで、こよひ行きたらんや」
と、の給へば、日ごろ手がらをいふものども、おゝしといへども、是れは、きこゆるましやうのすむ所なれば、たやすく見て參らんといふもの、一人もなし。こゝに甲斐の國の住人板垣の三郎とて、代々ゆみやをとりてかくれなく、ぶゆうのほまれある人ありけるが、
「それがし參らん」
と申す。儀本、なのめならずおぼしめし、すなはちしるしを給はりければ、板垣は御前(ごぜん)をたち、大かうの人なれば、物のてともせず、すぐに淺間へまいられける。ころは九月中旬のことなれば、月さへわたる森のうち、嵐はげしき落葉のおと、すさまじき山みちを、心ぼそくもすぎゆきて、上のやしろの御まへに、しるしを立てをき、歸られける。かゝる所へ、いづくともなく白きねりのひとへきぬをかづきたる女ばうに行きあひたり。扨(さて)は、おとにきく、へんげの物、我を心みんとおもふにやと、板垣、はしりかゝつて、かづきのきぬを引きのけて見ければ、まなこは一眼(いちがん)にて、ふりわけがみの下よりもならべる角は、かずをしらず、うすけしやうに、かねくろくつけ、おそろしきこと、たとへていはんかたもなし。されども板垣はさわがずして、なにものなればとて、腰の刀に手をかくれば、けすがごとくに、うせにけり。板垣はしづかに立ちかへり、儀本の御まへに參り、
「しるしをたておき歸り候ふ」
と申し上げれば、御前の人々、
「板垣なればこそ、つゝがなくかへり候ふ」
と、をのをの、かんじあひけり。
「扨(さて)めづらしき事はなかりけるか」
と、御尋ね有りければ、
「いや、なに事も御座なく候ふ」
と申し上げる所に、さしもくまなき月の夜、にわかにそらかきくもり、ふる雨、しやぢくのごとく、はたゝがみなり、おびただし。一座の人々、儀本をはじめ、けうをうしなふ所に、こくうより、しわがれたる聲にて、
「いかに板垣さんげせよ」
と、たからかに、よばはりける。その時、御まへなる人々、
「見申されたる事あらば、御前にて有りのまゝ申し上げられよ」
と、をのをの申されけるゆへ、板垣このていならば、とてもいのちはあるまじとおもひ、淺間にての有りさま、のこらず申し上げけれども、雨風なをもやまずして、いかづち、おびたゞしくなり、時々、いなびかり、殿中にみちみちて、すさまじきこと、いふばかりなし。
「いかさま此ていならば、板垣をとられんとおもふぞ、いそぎ長持へ入れよ」
とて、板垣を長持に入れ、をのをの、まわりに番をしけるに、やうやう、そらはれ、夜もあけゆくほどに、板垣を長持より取り出ださんとてあけゝれば、中には、なにも、なし。
「是れはいかなることぞ」
と、おのおの、ふしんをなして儀本に、かくと申し上げる所に、こくうより二三千人の聲として、一度に、どつと、わらひけるを、はしり出でてみければ、板垣がくびを、ゑんの上へおとして、そのすがたはみへずなりにける、となり。
[やぶちゃん注:「曾呂利物語」(冒頭注参照)巻一巻頭「板垣の三郎高名の事」に基づく。原典では「駿河の國大森、今川藤(いまがはふじ)」を主人(城主)とするが、コンセプトは全く変わらない。挿絵の右キャプションは「いたがき參郎へんげの物にあふ事」であろう。『東京学芸大学紀要』湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」によれば、江本裕氏の指摘として、『「儀本」には今川義元、「板垣の三郎」には武田信玄の重臣板垣三郎佐衛門信形が想起されるとする。なお、板垣が化物と遭遇したという「千本」の上の社(不明)は、『諸国百物語』には「浅間」とある。現在の静岡浅間神社(静岡市)のことか。この浅間神社については、信玄と義元がそれぞれ当社との関わりを重視していた(『静岡県の地名』日本歴史地名大系、平凡社)。本話は、信玄の家臣板垣三郎が、府中の今川義元のもとで、その勇者ぶりを示すために肝試しに出かけた話か』と記しておられる。
「らうどう」「郎等」。
「しゆゑんゆふけう」「酒宴遊興」。
「せんげん」後に出る「淺間」で、概ね、富士山を信仰崇拝の対象とする浅間(せんげん)信仰に基づく、各地の山や周辺一帯の地域で最高地点に近い箇所にそれを祀った。
「ましやう」「魔性」。
「ぶゆうのほまれ」「武勇の譽れ」。
「なのめならず」「斜めならず」で「格別な気勢なりと」。
「しるし」後日、そこに行ったことを確かに示すために遺留し置く証拠となる物品。
「大かう」「大功」(既に非常な勲功を立てていること)或いは「大巧」(非常に武勇に長けていること)。
「物のてともせず」文法的構造に不審があるが、「物ともせず」の意でとっておく。
「白きねりのひとへきぬ」真白な上質の練糸で織った絹織の単衣(ひとえ:裏を打っていない衣)。
「かづきたる」被っている。
「女ばう」「女房」。
「心みん」「試みん」。
「うすけしやう」「薄化粧」。
「かね」「鉄漿(かね)」。お歯黒。
「なにものなればとて」校訂者の太刀川清氏がここに会話記号を附さなかった意図は私は判る。怪異は場合によっては最初に言上げすることによって負けることがあるからで、ここも私は心内語ととりたい。
「さしも」副詞で「その時まであれほどにすっきりと」。
「しやぢく」「車軸」。
「はたゝがみなり」「霹靂神(はたたがみ)鳴り」鳴り轟く雷鳴(神鳴り)の意の一語の名詞としてとる。その方が朗読のリズムに合い、怪異の勘所を崩さぬからである。
「けうをうしなふ」「けう」は「興」であろうが、だとすると歴史的仮名遣は誤りで「きよう」である。しかし、ある意味、主人が物好きでやらねばよいのにやってしまった座興の興の余裕が驚くべき雷鳴によって失われるの謂いとしては自然である。或いは、「興」が忽ち、「消えてなくなる・ふっとんでしまう」の「消失(けう)す」が頭にあってかく記してしまったものとも読める。
「こくう」「虛空」。
「さんげ」「懺悔(さんげ)」。原義は仏教で過去の罪悪を悔いて神仏などの前に告白をし、その許しをこうことであるが、ここは我ら(変化(へんげ)のもの)に遇ったことを、主人に「包み隠さずに打ち明けること」を指している。近世中期以後に濁音化して「ざんげ」となった。
「てい」「體(てい)」。様子・状態。
「ふしん」「不審」。
「そのすがた」物の怪の姿であるが、実体として見えていた訳ではないから、物の怪の気配が辺りの急速な鎮静静寂化とともに消え失せたと読むべきであろう。]