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2016/08/29

胸に残る強い郷愁――熊本と私――   梅崎春生

   胸に残る強い郷愁

    ――熊本と私――

 

 昨年の秋、熊本に寄った。ある旅行雑誌の頼みで、鹿児島県坊津にルポルタージュを書きに出かけ、その帰途である。東京から鹿児島行きは富士航空で、大分に降り鹿児島に着陸した。今思うと両空港ともこの間事故をおこしたところだ。私は割合飛行機を信用するたちだが、こんなに続出してはうかうかと乗れないような気がする。

 同行は女房。銅婚式のつもりで、まだ見ない南九州を見せたいとの気持があった。鹿児島から汽車で、夜遅く熊本着。熊本城近くのいこい別荘。(この宿は清潔でサービスも行き届いていた。)宿料はめっぽう安い。旅行のため鉄道弘済会員の名を一時もらっていたせいもあろう。

 私は熊本には昭和七年から十一年の四年間いた。五高の生徒としてである。丁度(ちょうど)青春の花が開こうとしていた時期だし、生れて初めて親元を離れて生活したせいもあり、私はその四年間がたいへん楽しかった。形成などと言うと大げさになるが、いろんなことを覚え(いいことだけでなく悪事も含む)それが私の将来を決定したと言っても言い過ぎではない。ふつう高校は三年だが、つい遊び過ぎて落第し、四年在学ということになった。落第した時はつらかったが、今となっては友達が増えた勘定で得をしたと思っている。木下順二なども後期の方の同級である。

 でも、あれから三十年経つから、知り合いはほとんどない。街の形も大いに変っている。藤崎神宮から子飼橋に至る道、昔は上通町で酒を飲み、放歌高吟して戻ったものだが、その頃は暗い道筋で「赤提灯」という売春宿が一軒あっただけだ。私も一度そこに泊り、朝起きて二階から道を見おろすと、五高の教授や生徒らが続々と登校して行く。私はびっくり仰天して二階の隅に身をひそめ、正午頃まで蟄居(ちっきょ)していたことがある。それにこりて、もうここには二度と泊らなかった。

 その道筋が今は大繁昌で、いろんな売屋が並び、昔日の面影はない。この道だけでなく、熊本総体が変ってしまったようだ。

 翌日、車を呼んで阿蘇に向かう。

「今日は好か天気ですばい」

 運転手が言う。私も阿蘇に何度か登ったけれども、いつも曇ったり雨が降っていたりして、うまく行かなかった。四年ほど前NHKの海野君と登山した時も雷雨で、視界茫として何も見えなくて、案内した手前、私は面目を失した。その時の経験を本紙(熊本日日新聞)に連載した「てんしるちしる」の冒頭にくり込み、いささかの弁解となした。

 で、昨年の登山は成功であった。大津街道あたりからも阿蘇の姿や噴煙がはっきりと眺められた。坊中から頂上まで一気に自動車でかけ登る。火口に達すると、噴煙がまっすぐ上っている。風が全然ないのである。火口にぼこぼこ立つ泡も見え、火口壁の奇怪な肌や色も眼のあたりに見えた。こんな好天気に恵まれたのは初めてである。草千里まで降りて、運転手君を交えて昼飯を食べた。草千里には黒服の高校生や中学生が、ばらばらに散らばって遊んでいたが、まるで散乱する鴉(からす)のように見えた。

 熊本に戻り、博多行きの汽車まで時間があったので、上通町の「フロイント」に行く。この店はたしか昭和六年開業だから、ほぼ私の入学時に重なる。三十年の年月がこの店を大きくしていた。ここまで仕立てるには、なみなみならぬ苦労があったのだろう。

「お互いに齢をとりましたね」

 てなあいさつをマダムと交し、コーヒーを飲んで駅に向かった。一年に一度くらいは熊本に行ってみたいと思っている。熊本には四年しかいなかったけれど、かなり強烈な郷愁があるのだ。

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年四月三日附『熊本日日新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭の「昨年」の後にはポイント落ちで「(昭和三十八年)」という割注が入るが、これは底本全集編者によす挿入と断じて、除去した。ここにまず書かれた鹿児島の坊津行は雑誌『旅』(当時の刊行元は日本交通公社)の取材旅行で、昭和三八(一九六三)年十月、熊本・福岡にも立ち寄っており、春生が述べている通り、妻の恵津さんを同伴している。この短いエッセイを読んでも判る通り(初めの航空機事故の話に始まり、売春宿「赤提灯」のエピソード、阿蘇登山に至るまで)、これが二年後の遺作となってしまった名作「幻化」(リンク先は私の『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注』PDF一括縦書版。ブログ版分割がよろしければこちらで)のいろいろなシークエンスに繋がっていることからも知れるように、「幻化」執筆の動機となる重要な旅であった。「幻化」のこちらのオリジナル注でも引いたが(リンク先はブログ版の当該部)、以下は非常に印象的なので再掲しておく。『読売新聞』のネット上の二〇一五年十一月二十四日附の山内則史記者の記事『梅崎春生「今はうしなったもの、二十年前には…」』には(ここでは再訪を十一月としている)、未亡人恵津さん(取材当時九十二歳)の回想として、『「きれいな所だから一緒に行かないか、カメラマン代わりで、と誘われました。坊津の海があまり美しく、船の陰でもいいから1泊したいと私が言ったら、役場に聞いて宿を見つけてきた。梅崎にとって戦争が終わった解放感と自然の美しさは、一つになっていたのでしょう」』と記し、『坊津の港、沖の島々、東シナ海まで見晴らせる坊津歴史資料センター輝津館で、恵津さんの描いた日本画と出会った。ダチュラの白に照り映える、花の下の乙女。件(くだん)の紀行文で梅崎は、宿の主人に請われて一筆書いたと記している』。『〈坊ノ津二十年を憶へば/年々歳々/花相似たれども/我れのみ/老いたるが如し〉』。但し、この時、既に春生には変調が起こっていた。旅の前々月の八月には蓼科の山荘で吐血(底本全集には続けて『養生不十分で苦しむが、やがて回復』とはある)、この旅から二ヶ月後の同年十二月には同年譜によれば、『夏の吐血後の不摂生がたたり』、『武蔵野日赤病院に入院する』とある。この時、既に肝臓疾患(肝炎或いは肝硬変)を発症していたものと推定され、翌昭和三九(一九六四)年一月には『肝臓ガンの疑いで東大病院に転院』、三月まで『治療につとめる』とある。翌昭和四〇(一一九六五)年七月十九日午後四時五分、梅崎春生は肝硬変のために満五十歳の若さで白玉楼中の人となった。

「藤崎神宮」「ふじさきじんぐう」と清音で読む。現在の熊本県熊本市中央区にある藤崎八旛宮(ふじさきはちまんぐう)のこと。熊本市域の総鎮守として信仰を集める。詳細は「藤崎八旛宮」公式サイト或いはウィキの「藤崎八旛宮」を見られたい。

「子飼橋」「こかいばし」と濁らない。JR熊本駅の東北三・九キロメートルの白川が北に大きく蛇行した部分に架かる橋。「幻化」にも登場する(ここここ。リンク先は私のブログ版。後者のシークエンスはその光景とともに「幻化」の印象的な回想シーンの一つである。そこの私の注も参照されたい)。個人サイト「熊本市電写真館」の「子飼」のページが、よい。旧五高の雰囲気も現在の熊本大学内にある「五高記念館」の写真で偲ばれる。

「上通町」「かみとおりちょう」と清音で読む。現在の熊本県熊本市中央区上通町。当時から商店街で今もアーケード街として知られる。ウィキの「上通」を参照されたい。先に電子化した梅崎春生のエッセイ「さつま揚げ」にも登場している。

「四年ほど前NHKの海野君と登山した時も雷雨で、視界茫として何も見えなくて、案内した手前、私は面目を失した」先に電子化した梅崎春生の「デパートになった阿蘇山」(『週刊現代』連載の「うんとか すんとか」第六十三回目。昭和三六(一九六一)年七月九日号掲載分)に顛末が語られてある。この記事の四年前の昭和三五(一九六〇)年の春のことであった。

「てんしるちしる」昭和三六(一九六一)年六月から翌年四月まで連載した小説。ここでは「本紙(熊本日日新聞)に連載した」とあるが『中国新聞』他、数紙に連載したもの。但し、沖積舎版全集には不載で、私は未読である。

「大津街道」江戸時代に加藤清正によって拓かれ、熊本藩の参勤交代に用いられた、肥後国熊本(現在の熊本県熊本市)と豊後国鶴崎(現在の大分県大分市鶴崎)を結ぶ全長約百二十四キロメートル(三十一里)に及ぶ豊後街道(肥後国熊本城の札の辻から阿蘇・久住を経、豊後国鶴崎に至る)の内、熊本市から菊池郡大津町(阿蘇外輪山のずっと手前)に至る部分を大津街道と呼ぶ(ここはウィキの「豊後街道」に拠った)。

「坊中」(ぼうちゅう)は現在の大分県大分市の大分駅から熊本県熊本市西区の熊本駅に至る豊肥(ほうひ)本線の阿蘇駅附近の地名。阿蘇坊中。この当時は熊本県阿蘇郡阿蘇町(まち)であった(現在は阿蘇市黒川)。同駅は大正七(一九一八)年一月二十五日に「坊中」駅として鉄道院が開設したが、昭和三六(一九六一)年三月二十日に「阿蘇」駅に改称している(ウィキの「阿蘇駅」に拠る)。従ってこの記事当時は既に「阿蘇」駅であるが、梅崎春生の熊本五高時代、ここは「坊中」駅であった。

 

『上通町の「フロイント」』試みに検索してみたら、関係あるかないか不明であるが、熊本県熊本市中央区上通町に「フロイントビル」なるビルが現存する。]

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