行脚怪談袋 其角猫の戀發句を吟ぜし事 付 たばこ屋長兵衞猫のむくいの事
其角猫の戀發句を吟ぜし事
付たばこ屋長兵衞猫のむくいの事
其角も其の頃名高き俳人也。生國(しやうこく)は武州江戸下町にて、父は神戸惣庵とて、江戸下町に名を得たる名醫也。一人の男子(なんし)を持ち、幼少より無類の才智そなはりて、父母の寵愛なのめならず、されども彼(かれ)成長するに隨ひて、父が職を好まず、自分の好ける道なればとて、廿一歳の時其揚(きやう)と云へる俳人の門人となり、其の道に出精(しゆつせい)するに隨ひ、俳語諸人に秀でゝ、扨こそ世間に名をあらはしけり。其角が隣家に長兵衞と云へる多葉粉屋(たばこや)ありけり。此の長兵衞がはゝ至つて猫を愛し、誠(まこと)に猫四五疋の内一疋にても見えざれば、下女小者(こもの)に申し付け、あなたこなたと尋ねさせける。長兵衞はうるさき事に思ひけれども、母の至つて秘藏するゆゑ、其の儘指置(さしお)きける、然る所に、右のはゝ風の心ちとありしが次第に差(さし)おもり、醫藥のしるしもあらず重病となりしが、終に養生叶はず空しくなりぬ。その後長兵衞が大切にして嗜なみ置きし鯛の鹽辛(しほから)を、彼の猫夜中(やちう)に殘らず喰ひて後、その壺をじやらして居りけり。長兵衞物音に目をさまして、かの所へ行きて見るに、右の始末故大いに怒り、我れさへも大切にして嗜(たし)なみ置きしを、盜み喰ふとは、畜生(ちくしやう)乍ら餘りにくきやつ也。飼ひ置いて何の益かあらんと、即座にかの猫を繩にてしばり棒をもつて打殺しけり。其角は翌日に至り長兵衞が方へ行き、年久敷く飼ひ置きしねこの、ぬすみ喰ひをなしたるゆゑに、たちまち憎しみをうけ、打殺されし事、猫の身と思ふべからず、人間とても左のごとく、今日まで實正(じつしやう)にて宜(よろ)しく、崇めると雖も、人も明日にもぬすみ、惡徒(あくと)なす處を見付られなば、其のつみを得ん事うたがひなしと、其の心を思ひつゞりて、
うき戀にたへでや猫の盜み喰ひ 其角
と口ずさみけり。句體はちがへども、是は此のせつ詠みし發句なり、其後に亭主長兵衞は、右の腕首しきりに痛み出しけるが、うみもやらず只(たゞ)はれ出で、數多(あまた)の外科(げくわ)に見せて、さまざまの良藥を付けると云へ共、其の印し更になくして、後には腕に猫の毛の樣なる物はえ出で、その痛み時どりしてたへがたかりしかば、長兵衞今は起きて居る事もあたはず、病ひの床にふしけるが、實にも不思議なるは、その翌年、かの猫を打ちころしたる月日もたがはず、病死しけり。是を聞く人奇異のおもひをなして、實に實に是(これ)は先達(せんだつ)て打ころせしねこのむくいならんと、皆云ひあへり。尤もねこ一疋にて、かほどの事はあるまじき事なれども、此の長兵衞甚だ殺生をこのみ、あまたの鳥獸(てうじう)をころせし因果ならん。
■やぶちゃんの呟き
・「其角」蕉門十哲の第一の門弟とも称せれるも、早くから華街に足を踏み入れて蕉門きっての放蕩児ともされた宝井其角(たからいきかく 寛文元(一六六一)年~宝永四(一七〇七)年)。本名は竹下侃憲(ただのり)。ウィキの「宝井其角」などによれば、江戸下町の堀江町(現在の東京都江戸川区堀江町(ほりえちょう)。一説に於玉ヶ池(現在の東京都千代田区岩本町附近)とも)で『近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれた。延宝年間』(一六七三年~一六八一年)『の初めの頃、父親の紹介で松尾芭蕉の門に入り』、『俳諧を学ぶ。はじめ、母方の榎本姓を名乗っていたが、のち自ら宝井と改める』。『芭蕉の没後は日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となる。なお、隣接して、荻生徂徠が起居、私塾』蘐園(けんえん:徂徠の別号。「蘐」は「茅(かや)」。住所の茅場町に因む)塾『を開いており、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」
の句がある』。一方、徂徠が厳罰に処した「赤穂事件」では浪士側を公然と支援支持したことでも知られているのが面白い。『永年の飲酒が祟ってか』、享年四十七歳の若さであった。
・「父は神戸惣庵とて、江戸下町に名を得たる名醫」前注通り、名前の地位が事実と異なる。この「神戸」はルビがないが、「こうべ」以外に「がうど(ごうど)」とも読める。
・「なのめならず」「斜(なの)めならず」(「ななめまらず」とも訓ずる)で並一通りでない、格別だ、の意。
・「其揚(きやう)」不詳。芭蕉以前にそのような師がいたというのも少なくとも私は知らない。
・「じやらして」「戯(じゃ)らす」で「じやれる・弄(もてあそ)ぶ」の意。「猫じゃらし」「じゃら」である。
・「うき戀にたへでや猫の盜み喰ひ」これも其角の句ではない。しかもこれは幾ら何でもひどい。何故なら、其角と対立していた支考の句だからである。「續猿蓑」の「卷之下」の「春之部」の、「猫 戀 附 胡蝶」のパートの二句目に出る、
うき戀にたえてや猫の盗喰(ぬすみぐひ)
で、「たえてや」は「堪へでや」の意の表記の誤りであろう。「句體はちがへども」というのは、この一句の意味は、季節の折りから、猫は恋に忙しく、食欲さえも失うほどに恋い焦がれる。それでも食わずんば、恋どころか、命も危うい。さればこそ、こんな思いもかけぬ深夜に盗み喰いをしているのであろう、されば一つ、許してやろうぞ、という意であろうから、それが、教訓染みて、しかも暗に猫を撲殺した長兵衛を難ずる内容となっているのを言っているのであろう。それにしてもここまで徹底して作者を間違えている事実は、この偽書の筆者が確信犯でこのフェイクを成していることがはっきりしてくる。これは逆に俳諧史に精通している人物が判ってやっているトンデモ本なのだということが見えてくると言えるのである。
・「うみもやらず」パンパンに腫れているのに膿が出る徴候もなく。悪性腫瘍が疑われるか。