諸國百物語卷之一 三 河内の國闇峠道珍天狗に鼻はぢかるゝ事
三 河内の國闇峠(くらがりとうげ)道珍天狗に鼻はぢかるゝ事
河内の國くらがり峠と云ふ山のをくに、十二、三町ほど行けば、山中に宮あり。此みやに道珍と云ふ人、たゞ一人すまひしける。この道珍、五十一の年まで、つゐにおそろしきと云ふことをしらず。あわれ、ちとおそろしき事にもあひたき、などゝ思ひ、人にも抗言(かうげん)しける。ある時、今口(いまくち)と云ふ在所へ非時に行きけり。折ふし雨ふり、つれづれなるまゝに、日ぐれがたまで咄しゐてかへりけるが、山のをく、七、八町ほどゆけば、道に石橋(いしばし)あり。はじめは此橋になにもなかりけるに、もどりには、死人、よこたをれ、ゐけり。道珍ふしぎにおもひけれども、おそろしきことしらぬ人なれば、死人(しびと)の腹をふみてとをりけるに、此死人、道珍がすそをくわへて、引きとむる。道珍、此死人の腹をふみたるゆへに、口ふたがりて引きとむる、とおもひて、又、腹をふみければ、口、あきぬ。道珍、おもひけるは、此死人、ひんなるゆへに寺へもゑやらず、こゝにすてたるとみへたり。さらば、うづめてとらせん、とて、死人を引きをこし、せなかにおひて、わが屋に歸りて、おもふやう、此死人、すそをくわへて引きたるとがあれば、そのくわたいに、こよひは、しばりをき、夜あけてうづめん、とおもひて、さし繩をぬひて、松の木に死人をしばりつけ、道珍は、ねやに入りて、ねにければ、夜半のころ、門のほとりより、「道珍、道珍」とよぶ聲、きこへける。道珍、目ざめ、ふしぎにおもひ、
「夜ふけて此山中にたづねきたるものはなに物ぞ」
ととへば、
「なにとてわれをしばりけるぞ。□□□繩をとくべし」[やぶちゃん注:判読不能字の右には校訂者による『(はやくカ)』という推定補注が附されてある。]
と云ふ。道珍いよいよふしぎにおもひ、お□□せずしてゐけるに[やぶちゃん注:判読不能字の右には校訂者による『(ともカ)』という推定補注が附されてある。]、
「ぜひ繩をとかずは、それへ行ぞ」
といひもあへず、繩をふつふつときるをとしければ、さしもがうなる道珍も心すごくなり、ひごろたしなみける大わきざしをとり出だし、戸かきがねをかため、身をちゞめて居たりける。かゝる所に、はや戸をあけ來る。道珍、かなわぢ、とやおもひけん、脇指をぬき、なんどの口にまちいたり。かの死人、こゝかしことたづぬるを、道珍よこさまより、てふどきれば、死人、かたうできられてうせにけり。きりたる手を取りあげ見ければ、針のごとくなる毛はへ、なかなかおそろしき手也。道珍、此手を大事として長持に入れをきけるに、その夜もほのぼのとあけぬ。いつも道珍が母、かの宮へ里より毎朝さんけいせらるゝに、此朝、いつよりはやう來たり、道珍、いまだ、ねてゐたりしを、たゝきおこせり。道珍、目さめ、いそひでおき、
「いつより、けさは、はやく御まいり候ふ」
と申せば、母、かたりけるは、
「こよひ、ゆめみあしかりしが、ゆふべ、なにごともなかりけるか」
と、とふ。道珍、はじめをはりの事ども物がたりしければ、母おどろきたるふぜいにて、
「その手をみせ給へ」
といふ。道珍、見せ申す事なるまじきよし申せば、ぜひとも、と所望し給ふゆへに、ぜひなく取り出だし見せければ、母はかた手をぬき入れ、かた手にて件(くだん)の手をひつたくり、
「是れこそ、わが手なり」
とて、けすがごとくにうせにけり。今まではれやかなるそら、にわかにくらやみとなり、こくうに鬨(とき)のこゑをつくりて、どつと、わらひける。さしもがうなる道珍も、氣をうしなひ、絶死(ぜつじ)しける。その間に、まことの夜あけて、いつものごとく、母、みやへさんけいせられ、道珍が所に來たり、道珍が死してゐけるを見ておどろき、里へをりて、人をともなひ來たり、氣つけなどのませ、いろいろとしければ、しばらく有りて道珍、いきかへり、いかゞ、とゝへば、はじめをわり、しかじかの事ども、物がたりしけり。それより道珍、日本一のをくびやうものとなりけるとなり。是れも、道珍、あまりにかうまん有りけるゆへ、天狗のなすわざなりける、となり。
[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻二の「七 天狗の鼻つまみの事」に基づく、完全な同話。但し、主人公を『參河の國』の『道心』とし、年齢も示さず、挿絵ではマッチョでかなり若く見える(「五十一」では剛腕さや傲慢さが生きにくいから原話の方がよい)。また社のある場所を『平岡の奥』とすること、また後半に登場する重要な役割の「母」も原話では縁者でなく、単に『老女』となっている。挿絵の右キャプションは「道珍しびとのはらをふむ事」。この底本の挿絵は擦れと汚損がひどいので外側の枠を除去するなど、私が恣意的に大幅な補正を行っている。
「河内の國闇峠(くらがりとうげ)」今の暗峠(くらがりとうげ)。奈良県生駒市西畑町と大阪府東大阪市東豊浦町との境にある峠。標高四百五十五メートル。ウィキの「暗峠」によれば、この不吉に響いて、ここでのロケーションとしては最適の名称「くらがり」の『起源は、樹木が鬱蒼と覆い繁り、昼間も暗い山越えの道であったことに由来している。
また、「鞍借り」、「鞍換へ」あるいは「椋ケ嶺峠」といったものが訛って「暗がり」となったとする異説もある。上方落語の枕では、「あまりに険しいので馬の鞍がひっくり返ることから、鞍返り峠と言われるようになった」と語られている』とある。
「道珍」実は底本ではこれに「どうちん」とルビを振る。読みを附さなかったのは、敢えて振る必要を感じなかったことに加え、歴史的仮名遣は正しくは「だうちん」だからである。
「天狗に鼻はぢかるゝ事」「鼻彈ぢ」くで、これは軽くは「軽くいなしてからかう」の謂いであるが、ここではもっと強い、所謂、「鼻を折る」(驕った高慢な心を挫(くじ)く・得意がっている者を凹(へこ)ませて恥をかかせる)と完全な同義として用いている。原話と同じく「傲慢」な主人公に「天狗」と「鼻」を絶妙に上手く掛けてあるのである。
「十二、三町」一キロ三百から四百キロメートルほど。
「宮」神仏習合であるから、この道珍なる僧はこの山中の社僧である。話柄から判る通り、神主・堂守を兼ねた独居ということになる。
「抗言(かうげん)」相手に逆らって言い張ること及びその台詞自体を指す。
「今口」不詳。現行の暗峠の周辺に似たような地名を見出せない。識者の御教授を乞う。
「非時」夕食(だから帰りが夜)。僧侶の食事は「齋(とき)」と呼ぶが、本来の仏教の基本戒律に於いては、僧や修行者は正午を過ぎての食事を禁じており、午前に一度だけの正式な食事を「斎食(さいじき)」「斎・時食(とき)」「おとき」と称し、それが正しい唯一の正式に許された食事の意の「時(とき)」なのである。しかしそれでは実際には体が持たないため、時間外の摂食を「非時食(ひじじき)」「非時(ひじ)」と称して許し、早くから僧も夕食を摂るのが普通になったのであるが、この二つの呼び名が孰れも時刻に関わる呼称であったことから、仏家に於いては食事のことを「とき」と呼ぶようになった。ここは或いは麓で何か法会などがあって彼が出向き、そこで供された精進料理、施食(せじき)ででもあったのかも知れぬ。毎夜、こうして夕食を摂っていたわけではあるまい(いや、傲慢不遜なる坊主ならそれもありか)。
「七、八町」七百六十四~八百七十二メートル。
「よこたをれ、ゐけり」「橫斃れ、居けり」。
「すそをくわへて」「裾を銜(くは)へて」。歴史的仮名遣の誤り。
「此死人の腹をふみたるゆへに、口ふたがりて引きとむる」「此」は「これ」と読んでおく(原文にはご覧の通り、「此」の後の読点はないから、「此の」と下へ続けて読ませている可能性もあるけれども私はとらない)。腹を踏んだから、単に物理的に開いていた顎が閉じて、裾を銜えた結果、死人(しびと)が意志で銜えて引き留めたよう見えたに過ぎぬ。
「此死人」ここは「このしびと」。
「とが」「咎・科(とが)」。道珍はあくまで現実主義者であるから、死人のくせに僧衣を穢したと考えたのであろう。死体であってもそうなってしまった事実は罪ととったのである。
「くわたい」「科怠」。とがむべき怠慢。怠けてすべき行い(ここではするべきでない僧衣を穢すという行い)をしない結果として発生した過失。ただ、死体に「怠慢」は流石に「ない」と思うが、ね。
「しばりをき」「縛り置き」。
「さし繩」「差し繩・指し繩」で「捕り繩」のこと。太刀の鞘に付けた組紐のことで、本来は刀を帯びる際に腰に結び付ける繩である。「帯取(おびとり)」「足緒(あしお)」などとも呼ぶ。
「ぬひて」「縫ひて」ではおかしい。これは「拔きて」の語記ではあるまいか。
「ねや」「閨(ねや)」。
「お□□せずしてゐけるに」推定補注通り、「音もせずして居けるに」ととってよい。夜半の訪問者という怪しい者に、凝っと音をさせぬように用心して聴き耳を立てていたところが。ここぐらいまではまだ道珍は、死人を装った生きた盗賊の類いなどを可能性においており、物の怪と思っているわけではないと私は思う。
「行ぞ」「ゆくぞ」。
「繩をふつふつときるをと」優れたSE(サウンド・エフェクト)。ここがまず、ホラーの最初のクライマックスである。
「さしもがうなる」「然(さ)しも剛(がう)なる」「然しも」は副詞(〔副詞「さ」に助詞「し」「も」が付いた語)で、「程度が並ではないことを誰もが認めているさま・あれほどの」今も「さしもの」と同様、多くの予想に反した結果について用いる。
「心すごくなり」慄っとするほど恐ろしくなり。
「ひごろたしなみける大わきざし」「日頃、嗜みける大脇差」。「嗜む」は「愛用している」の意。
「戸かきがね」「戸掛き金」。
「かなわぢ」ママ。「かまわじ」。
「なんど」「納戸」(「なん」は唐音)。本来は衣類・家財・道具類を仕舞い置く部屋で屋内の物置部屋を指すが、中世以降は寝室にも用いられた。ここは後者で「寝間(ねま)」である。
「てふどきれば」「丁(ちやう)ど斬れば」の誤り。一般知られる、物が強くぶつかり合うこと、或いは太刀を打ち下ろした際などのオノマトペイアである「ちやうと(ちょうと)」は、古くは「ちやうど」と表記した。「ハッシ!」と斬りつけたところ。
「はじめをはりの事」昨夜の一部始終(但し、ここも変化(へんげ)の物の怪のフェイクで、実際には世は明けていないのであるが)。
「見せ申す事なるまじきよし申せば」これは母を疑っているのではなく、それがあまりにまがまがしいものであるから、母を驚かせまいと気遣ったのである。
「母はかた手をぬき入れ、かた手にて件(くだん)の手をひつたくり」拘った描写に注目。母の、一方の片腕は袂に隠れて見えないのである。
「けすがごとくにうせにけり」「消すが如くに失せにけり」。驚くべき短時間、瞬く間に姿を消失したさまを、かく言った。
「こくう」「虛空」。
「絶死(ぜつじ)」気を失うこと。後の「道珍が死してゐける」も同様。失神しているのであって死んだのではない。
「をくびやうもの」「臆病者」。歴史的仮名遣では「おくびやうもの」が正しい。
「かうまん」「高慢」。]
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