悪酒の時代――酒友列伝―― 梅崎春生
悪酒の時代
――酒友列伝――
私が酒を飲みだしたのは、十代の末期、学生の頃であるが、今考えると、飲み出したというほど大げさなものでない。何かというと街に出て、おでん屋かどこかで、わいわい騒いだり歌ったり、それで他愛なく酔っぱらって、かついだりかつがれたりして帰る程度のもので、なにも切に酒を欲して飲むといった飲み方ではなかった。もっとも十代や二十代の初期くらいの年頃で、生理的に身体が酒を欲する、あるいは精神が切に酩酊(めいていい)を欲する、などというのは先ず異例のことだろう。
私はその頃、酒は飲んでも、酒の味は判らなかった。ただ酩酊の味だけを少し知っていた。現在でも私は、酒の味はよく判らない。甘口と辛口、濃い薄いが弁別出来る程度で、もっぱら酩酊専門である。やはり飲み始めの頃の飲み方が、一生を決定してしまうものらしい。
なんだか若い頃は、酒を飲めるということがたいへん得意で、酒の飲めぬ友達を軽蔑したり、おれは酒飲みの血筋だから一升酒はらくにいけると大言壮語してみたり、いろいろ威張ってはいたが、今にして当時の私の酒の腕前をかえり見ると、文壇囲碁会の位に直すと、さしずめ大岡昇平二段格といったところで、広言の割には実力がともなわなかったようである。
私の腕前がおのずから輝き出したのは、戦争でそろそろ酒がなくなりかけてからのことである。
外国の山登りの言葉に、何故山に登るかと問われて、そこに山があるからだというのがあるが、現在の私の心境もややそれに近い。何故酒を飲むか。そこに酒があるからである。
ところが当時、つまり戦争中(昭和十七年以降)の私の心境は、今の心境と正反対であった。すなわち、何故酒を飲むか。そこに酒がなかったからである。
戦争が進行してゆくにつれ、だんだん物資が少なくなる。酒もその例外でない。個人には配給制度になり、店には割当制となる。その割当量もだんだん減って行く。
商人の良心、あるいは悪心というやつが、そうなると露骨に出て来るようになる。良心的な店は、客の都合やふところ具合を考えて、なるべく免税点(一円五十銭)以内で、客を満足させようとする。つまり貧しい酒飲みにとっては、肴というものはあまり必要でない。乏しいふところで酔うには、肴を犠牲にしてその分だけ飲みたい、ということになる。商人の側からすれば、割当の酒量はきまっているから、それをフルに活用して、つまり肴と抱き合わせにして、一儲けしたいというところなのである。
かくして酒を飲むということは、楽しみにあらずして、闘いということになって来た。
折角儲(もう)けのチャンスなのに、それを押さえて良心的営業をすることは、これは並たいていのことでない。すなわち戦争遂行につれて、良心的な店は寥々(りょうりょう)たるものになった。その良心的な店を探すのが一仕事で、またその店が今日は休みか開店か、今日は如何なる種類の酒を飲ませるか、ということを探るのが一仕事であった。そしてその良心的な店の前には、午後五時(六時?)の開店をひかえて、行列が出来るようになった。
私の手元に昭和十八年の日記があるが、それを読むと、酒の記事がほとんどを占めている。一週間の中五日は酒を飲んでいる。飲むだけではなくて、必ず酩酊している。酩酊せざるを得ないのは、時代のせいで鬱屈したものがあったからである。乏しい給料で、そんなに酩酊出来たというのも、数少ない良心的飲屋のおかげであり、そこで出した焼酎やドプロクや泡盛のおかげである。当時の私たちは、ビールや清酒は軽蔑して、あるいは敬遠して、これを近づけなかった。それらが酩酊をもたらすには、多額の金を必要としたからである。
日記に、店の名がいくつも出て来る。笠原。堀留。タルウ(太郎という名の沖縄読み)。はるみ。のろくさ。ゆんべ呼んだ子。飯塚。その他。
本当の名のもあれば、私たちがつけたのもある。たとえば「のろくさ」というのは本郷の餌差町にあって、至極良心的な店だったが、主人夫婦の動作がにぶくて、皆をいらいらさせ、そしてこういう名がついた。飯塚というのは新潮社の近くにあって、ドブロクを飲ませた。そこで製造して売る。官許ということになっていて、ここもまことに繁昌(はんじょう)、大行列が出来た。店の前で行列をつくると、警察なんかがうるさいので、近くのしろがね公園というところに集結、定刻になると四列縦隊をつくり、ああ堂々の大行進を開始する。多い時は千名を越す状態だったかと思う。ここのドブロクは実力があった。焼酎が混ぜてあるという定連の話であった。
飯塚酒場は、今でもある。元の場所で、ドプロクは製造していないが、こぢんまりと営業している。今でもこんな安い店は、東京でもざらにはなかろう。ここで五百円飲み食いするには骨が折れる。この間私は新潮に「飯塚酒場」という小説を書き、ここのおばあさんに見せたところ、ぷっとふくれた。飯塚のドブロクには焼酎が混ぜてあった、という箇所が気に入らなかったのである。
「焼酎なんか混ぜるもんですか。うちのは、つくり方がよかったから、よく利(き)いたんですよ」
おばあさんはそう言って大いにむくれた。この飯塚のおばあさんとおじいさんの昔話は、いつ聞いても面白い。ここで昔話を聞こうと思ったら、まずおじいさんに話しかけるといい。おじいさんが話し出す。おばあさんは遠くでじっと聞き耳を立てている。おじいさんがちょっと間違ったことでも言うと、
「おじいさん。そりやあ違いますよ。そうじゃなくて、こうですよ」
とおばあさんが割り込んでくる。そうなれば話はとめどもなくなって、そのとめどもない話を肴にして、六本か七本飲み、てんぷらだの山かけなどをいくつかおかわりをしても、五百円紙幣からおつりが来るのである。ここで腰を落ちつけると、梯子(はしご)がきかない。
ここのドブロク時代に、私は一夜に四回行列に並んだことがある。一回に二本ずつ飲ませるから、計八本。あそこの徳利は大きくて一合二勺ぐらい入ったから、一升近く飲んだことになる。さすがにその夜は、まっすぐに歩いて帰れなかった。坂なんかは這って登った。
そういう飲んだくれの生活をつづけていて、十九年にいきなり海軍に引っぱられ、てんでアルコールのない生活に入れられたわけだが、アルコールを断たれたということにおいて大へんつらかったかというと、そうでもなかった。まだアル中の域に達していなかったせいでもあるが、兵隊生活そのものがつらくて、思いをアルコールに馳(は)せる暇がなかったからである。断たれるつらさにかけては、酒は到底たばこの敵ではない。
戦争の最末期には、急ごしらえの下士官になっていたから、すこしは余裕がつき、他の下士官などからすすめられて、燃料アルコールなんかを飲んだ。その頃燃料アルコールを飲むのは法度(はっと)になっていたけれども、かくれて飲んだ。あちこちの基地で、アルコールを飲んで失明した者があるという噂も聞いたが、その頃の私にはそれがよく納得出来なかった。つまり私は、アルコールに、メチルとエチルとがあるということを知らなかったのである。アルコールというからには、どれもこれも同じだと思っていたのだ。海軍航空用二号アルコールというのを、ずいぶん飲んだが、これがメチルかエチルであったか、今もって私は知らない。眠がつぶれなかったところをみると、メチルではなかったんだろう。
石油としか思われないにおいのものを、一度鹿児島の谷山基地で飲んだが、その翌日は眼やにがどっきり出た。どうもあいつはメチルだったに違いない。湯呑み一杯で止めたから、失明をまぬかれたものらしい。
どうも我が酒歴をふり返ると、悪酒の歴史ばかりで、戦争時代が過ぎると、今度はカストリ時代とくる。
それまでにずいぶん口を慣らして置いたから、カストリというのも、それほど飲みにくいものではなかった。ただカストリの酩酊の仕方は正常な酒にくらべると、螺旋(らせん)状にやって来る。ふつうの酒の酔い方を針金とするならば、カストリのは有刺鉄線である。だからそれでずいぶん失敗したけれども、その頃のかずかずの失敗は、思い出すだに自己嫌悪のたねとなるばかりで、書く気持にはなれない。
私には酒友というのはいない。元来がひとり酒である。ひとりで飲む分にはペースが乱れないが、たくさんの人と一緒に飲むと、どうも調子が悪い。
戦後派という言葉が出来た頃、いわゆる戦後派の人たち、あるいは近代文学派の人たちは、あまり酒類を愛好しなかったようだ。(今はそうでもない。)椎名麟三も、今は大酒を飲むようであるが、私が知り合ったその頃は、全然飲まなかった。そして瘦せていた。野間宏も瘦せていた。
何の会合の流れだったか記憶にないが、そこらでいっぱいやろうというわけで、椎名、野間、埴谷雄高その他二三名で、新宿のある飲屋に入ったところ、先客が五六人いて、河盛好蔵、井伏鱒二、その他中央線沿線在住の作家評論家が、ずらりと並んでカストリか何かを飲んでいた。私たちはその傍で、一杯ずつぐらい飲み、すぐに飛び出して他の店に行った。他の店に行って、異口同音に発したのは、
「あいつら、肥ってやがるなあ」
という意味の嘆声であった。それほどさように、当時の戦後派の肉体は、やせ衰えていて、彼等のボリュームに完全に圧倒されたのである。私は今、当時の野間や椎名の身体や風貌を思い出そうとしてうまく思い出せないのであるが、その時の皆の嘆声だけは、ありありと思い出すことが出来る。それから十年経った今はどうであるか。十年の問にこちらの肉体はずいぶんふくらんで、野間、椎名、武田泰淳、中村真一郎と並べてみても、堂々たる体格ぞろいで、中央棟沿線をはるかにしのぐだろう。今思うと、あの時の中央線沿線にしても、私たちの眠から見たからこそ肥っているように見えたので、その実はそれほどでもなかったのだろう。中肉中背か、それ以下だったかも知れない。
とにかくあの頃は、肥っているということはうしろめたいことであり、あるいは悪徳ですらあった。新聞の投書欄か何かで、外食券食堂の女中さんが肥っているのはけしからぬ、という意味の記事を読んだ記憶がある。肥ったって瘦せたって、当人の勝手である筈であるが、それがそうでなかった時代があったということは、いつまでも記憶されていていい。
カストリという酒について、私は法廷に立って、証言したことがある。
私の友人にMという男がいて、その頃私はMの住んでいる家にころがり込んで、同居していたわけだが、そのMがカストリを飲み、柿ノ木坂において通行の女性をおびやかし、金品を強要しようとして、とらえられた。それで裁判になった。昭和二十二年のことである。
公判はたしか東京地裁の十二号法廷というところで、今メーデー裁判が開かれているのと同じ部屋であったと思う。だだっ広い法廷で、裁判官席の前に証人席がある。この間メーデー事件の証人に立った時、どうもこの場所に前にも立ったことがあるという感じがしたが、考えてみるとそれだったのである。
裁判長が私に聞いた。Mがこんな犯行をしたのは、友人として貴下はどう思うか。私は答えた。それはカストリという酒のせいである。
そして私は、カストリという酒を飲んでその酔い方、頭のしびれ方、ぎすぎすした気持になって何かいたずらでもやりたくなるという特徴、そんなものについてるると証言した。最後に裁判長が私に聞いた。貴下のその証言は、科学的に根拠のあることか。私は答えて曰く。科学的根拠はないが、もっぱら私の体験に即して申し上げたのです。よろしい、というわけで、私の証言は済んだ。Mは執行猶予になった。私の証言がどのくらい力があったのか判らない。私の前に伊藤整が証人に立ち(Mは伊藤整の弟子であったから)その証言がきいたのかもしれない。私は伊藤証言を聞くことはできなかった。(法廷の規則でそうなっている。)だから後日、どんな証言だったかをMから聞いた。なんでも私小説家の運命、破滅型と調和型、そんなことについて伊藤整は大弁論をふるったらしいのである。かねてから考えていたことをMにあてはめて証言したのか、Mの行動を合理化するためにあみ出したのか、知らないけれども、その弁論を聞けば私も勉強になっただろうと、今思っても残念である。
Mは執行猶予中に、また同じような犯行をして、ついに実刑を科せられた。二度目となれば、私のカストリ説もききそうにないので、拱手傍観せざるを得なかった。やはりMは破滅型だったのであろう。
さいわい私は破滅せず、今日までどうにか生きて来た。酒は相変らず飲んでいる。が、もう歳も歳なので(というほどでもないが)悪酒に手を出さず、わざわざ悪酒に手を出さずとも良酒が巷(ちまた)にあふれているので、それを毎夜静かに飲み、時には飲み過ぎて二日酔をしたりして、毎日を過している。
今年の正月の某新聞から、今年は何をやりたいかとアンケートを求められ、どうも酒を飲み過ぎて二日酔をする傾向があるから、最後の一本をやめることにする、と答えたら、友人からそんなこと可能かどうかという抗議を受けた。これは可能である。我が家で飲む場合、最後の一本をつけさせ、それを飲まずに台所の料理用に下げ渡してしまう。料理用なら爛冷しで結構だし、むだにはならない。爛冷しが毎日一合ずつ出る勘定だから、料理にもじゃんじゃん使えて、料理そのものが旨くなる。二日酔はしないし料理は旨くなるし、一挙両得というものである。
が、実際には、最後の一本をつけさせ、それを下げ渡すのが惜しくて惜しくて、ついそれを飲んでしまい、毎朝二日酔の状態にあるというのが、私の実状のようである。酒の乏しい時代に酒飲みとなったものだから、酒惜しみの根性がどうしても抜けきれないものらしい。
[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年十二月号『小説新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。
「寥々(りょうりょう)たる」元来は、もの淋しいさまであるが、ここはそうした店が殆んど少なくなって感覚的に荒涼と淋しくなったというのみでなく、そうした店が実際に仕舞た屋になって眼前にその荒れた様が見えるという謂いでなくてはならない。そうでなくては、その後に「その良心的な店を探すのが一仕事で」とあるのが屋上屋になってしまうからである。現実のリアルな映像的表現を梅崎春生はここでしているのである。
「本郷の餌差町」現在の東京都文京区小石川にあった。旧町名の「えさし」とは、古く慶長年間(一五九六年~一六一五年)のこと、鷹狩りの鷹の餌となる小鳥を刺し捕えることを司った「御餌差衆(えさししゅう)」の屋敷が置かれたことに由来する。
「海軍航空用二号アルコール」「ア号燃料」と呼ばれたアルコール。高志氏のブログ「国民年金の花柳な生活」の「ア号燃料」によれば、『原料は主としてサツマイモだったが、玉蜀黍を始め種々の雑穀類も使われた』とあるので、幸いにしてエチルであった(因みに、メチル・アルコールは木材由来による木酢液の蒸留・石炭或いは天然ガスの部分酸化で製造した一酸化炭素に酸化銅―酸化亜鉛/アルミナ複合酸化物を触媒として高圧高温状態で水素を反応させて製造する。なお、別に戦時中に航空機燃料として試作されたものの、効率が異様に悪く実用化に至らなかった「松根油」は、テレピン油等を含んだ油状物質でアルコールではない)。梅崎春生「幻化」の「白い花」の冒頭の回想シークエンスに「海軍航空用一号アルコール」というのが出てはくる。二号があるのだから、一号もとうぜんあるのであろうが、こちらは「幻化」の注を附した際(リンク先はそれ)にもよく判らなかった。再度、識者の御教授を乞うものである。
「メチル」「カストリ」ウィキの「メタノール」(メチルアルコール:methyl alcohol)の「各国の中毒における事例」の「日本」によれば、戦前の昭和八(一九三三)年に『メタノールで増嵩しした粕取り焼酎の飲用から』三十名以上の『死者が出たほか、第二次世界大戦後の混乱期には安価な変性アルコールを用いた密造酒によるメタノール中毒もしばしば起きた』。『エタノールは酒税の課税対象となるが、エタノールにメタノールなどを加えた変性アルコールは非課税であり、これらは安価であった。このエタノールにメタノールが混入された変性アルコールを蒸留して、すなわち、"メタノールとエタノールの沸点は異なるので、適切な温度で蒸留したら分離できるだろう"という目論見で、変性アルコールを加熱・蒸留してエタノールを分離しようとしたものを密造酒として供することが横行した。しかし、メタノール-エタノール混合溶液は共沸混合物であり、メタノールとエタノールの沸点が異なっていても、混合溶液となったものを単純に加熱してメタノールを取り除くことは不可能で(共沸)、この結果、メタノールを除去できていない変性アルコールがカストリ酒となって広く出回り、中毒事故が多発した。メタノールとエタノールは沸点が異なっていても、その混合溶液を蒸留してエタノールだけを得ることは不可能であるので、留意が必要である』。『失明者が多く出たことから、メタノールの別称である「メチルアルコール」を当てて「目散るアルコール」や、その危険性を象徴してバクダン等と呼ばれた』とあるのであるが、私が以前に読んだもの(書名失念。発見次第、明記する)によれば、「バクダン」とは先の引用可能な海軍航空機用燃料(或いは素材)である「ア号燃料」に引用できないようにするためにガソリンを混入したものが戦後に闇市に出回り、火をつけてガソリンを燃やし飛ばして飲料用にしたが、ガソリンが溶け込んでいて(航空用ガソリンは有鉛ガソリンで強い毒性を持つ)、混入したそれを多量に飲むと危ないところから、そうした処理をしたものを「バクダン」と呼んだという確かな記憶がある。これは教員時代の先輩からも実話として聴いたから、かなり確かなものである。「カストリ」は原義は新酒の粕を蒸籠で蒸留して取る焼酎であるが、ここはそれとは全く無縁な粗悪な密造焼酎の俗称である。
「河盛好蔵」(かわもりよしぞう 明治三五(一九〇二)年~平成一二(二〇〇〇)年)はフランス文学者で評論家。ウィキの「河盛好蔵」によれば、大阪府堺市生まれ。京都帝国大学仏文科を卒業後、関西大学でフランス語を教え、昭和三(一九二八)年、学校騒動(前年十月に起った理事排斥で千二百名の学生が同盟休校した学生紛争)で関西大学を辞職して渡仏、ソルボンヌ大学に学び、昭和五(一九三〇)年に帰国、堺の生家でジャン・コクトーの「山師トマ」を翻訳、その後、上京してファーブルの「昆虫記」を三好達治と共訳した。昭和六(一九三一)年には立教大学教授に就任、昭和一八(一九四三)年までフランス語を教えた。同年、随筆「新釈女大学」がベストセラーとなっている。『戦後は東京教育大学教授、共立女子大学教授を歴任し、主にモラリスト文学を研究』したとある。
「M」以下、最後には「Mは執行猶予中に、また同じような犯行をして、ついに実刑を科せられた。二度目となれば、私のカストリ説もききそうにないので、拱手傍観せざるを得なかった。やはりMは破滅型だったのであろう」(「拱手」は「きょうしゅ」と読み、両手を組み合わせること・手をこまぬくこと。転じて、手を下さず何もしないでいることの意)とこのエピソードを結んでいるのであるが、当初、この人物は梅崎をして「破滅」してしまったと呼ばしめた作家であり、これらの強姦未遂と思しい犯罪及びその実刑刑期も終えているであろうことから、個人情報と本人の名誉のためにも、調べずに注も附さないつもりでいたであるが、ところが試みにちょっと調べてみたところが、実は本人がそれを小説にして発表している事実、当人は既に故人となっており、「破滅」どころか作家として永く生きたことを知るに至り、これは名前も出して注してよい(寧ろ、梅崎春生が「破滅型」と評したことへの反論となる)と考えるに至った。この「M」とは作家八匠衆一(はっしょうしゅういち 大正六(一九一七)年~平成一六(二〇〇四)年)である。ウィキの「八匠衆一」によれば、北海道旭川市生まれで本名は松尾一光(「まつお」で「M」である)。日本大学芸術科卒で、名古屋の同人誌『作家』に「未決囚」(これがその自身の強姦未遂事件をモデルとした小説である)を発表、これがまさに昭和三〇(一九五五)年の直木賞候補となっている(梅崎春生はこの前年の下半期第三十二回直木賞を「ボロ家の春秋」で受賞している。但し、春生は自身、純文学作家としての強い矜持を持っていたことから、受賞辞退も真剣に考え、多くの友人作家に相談をしていたことは特記してよい)。昭和三三(一九五八)年には「地宴」で作家賞、昭和五七(一九八二)年には「生命盡きる日」で平林たい子文学賞受賞している(梅崎春生の逝去は昭和四〇(一九六五)年)。ウィキには最後にわざわざ『梅崎春生と親しかった』とまで記されているのであるが、不審なのは、この春生の文章は、その「未決囚」の翌年の発表になるものである点であり、八匠衆一はウィキの著書リストを見ても晩年まで作品を書いており、作家として「破滅」なんぞしてはいないのである(満八十七歳で逝去した破滅型作家というのは奇妙である)。なお、彼はこの「M」であり、小説「未決囚」が自分が起こした強姦未遂事件をモデルとしていること、彼が後も作家として精力的に活動し続けたことは、個人ブログ(ツイッターHN:pelebo)「直木賞のすべて 余聞と余分」の『一度どん底まで落ちて。彼に小説を書く道がのこされていて、ほんとよかった。 第34回候補 八匠衆一「未決囚」』に、詳細に書かれてあり必読である。そこには、ここで春生が「Mは伊藤整の弟子であった」と記している通り、伊藤整も、そして梅崎春生も登場する。それによれば、梅崎春生はこれよりずっと以前の昭和二四(一九四九)年五月号『新潮』に発表した「黄色い日日」で「八匠衆一」を「竹田春男」という名で登場させていたこと、さらには何と! 八匠衆一はその「未決囚」の中で、主人公「松井田」(八匠衆一)が、かつての友人「竹田」(梅崎春生)の書いた「黄色い日日」を読んで、ある感慨を述べる、というシークエンスがあるという驚天動地の事実を知った。これは実に面白い! その感懐は『あの頃は竹田も危険だったのだ。その危険を避けるために彼は自分から離れてゆかねばならなかったのだ。(引用者中略)しかし、もう一つ松井田には釈然としないものが残っていた。仮りにそうであっても、そういう状況をつくり出したのは竹田だといえないこともなかった。が、竹田が意識してそんな状況をつくり出したわけでもなかったし、彼は自分の至らなさを責めるより他に仕方がなかった。』と引用されてある。これは小説であるから何とも言えぬが、梅崎春生と八匠衆一はこの事件を契機に疎遠になったのかも知れないし、実際にはずっと仲が良かったのかも知れない(わざと「M」のことを意地悪く掛けるのはかえって親しかった故の作家仲間の悪戯とも読めるのである)。識者の御教授を乞うものではある。]