宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 老栖(らうせい)は古猿(こゑん)の宿り
老栖(らうせい)は古猿(こゑん)の宿り
愛宕(あたご)山に詣でゝ、峯ごしに高雄、栂尾(とがのを)にこゝろざし、行く道の中間より、月の輪、遠からず、と、きけば、柴の翁(おきな)に道をたづねて、觀音の靈場を拜す。かたへに、怪(あや)しの庵室(あんしつ)あつて、いたう年たけたる僧ひとり住めり。とへば、御堂の承仕法師(しようじはふし)、俗に、火ともし、と、いふ者なり。かゝる幽谷の人倫たえたる所に、晝さへあるに、夜なんど、さぞ物すごく、あぢきなき思ひあらん、と、いへば、左も覺え侍らず、わかくより此所に住みて、古來稀れ也といふ此の齡迄、さしてふしぎも見え侍らず、なれぬ程は、鹿、狼(おほかみ)の聲もけうとく、村猿(むらさる)の數千つゞき、狐火(きつねび)の幽(かす)かにともしけつなんど、心よき物にも侍らず、されど、おもひ入りて、佛につかふまつる身を、いかゞ、けだ物も心なくては、と、たのもしく自(みづか)らおもひあがりて年月をふるほどに、中古ののちは、此の獸類(じうるゐ)も馴(な)れしたしみて、己が友とひとしくなつきぬ。我れ、また、かれらが來ぬ時は、松のあらしの物さびて、須磨の浦に時雨(しぐれ)聞く心ち、し侍る。物はなるゝ程こそ、うゐうゐ敷く、是をおもふに、生死出離(しやうじしゆつり)の道、曠劫(くわうごふ)より馴染(なれそ)めて、出がてに、まよひ來ぬるは、理(ことわ)りにこそ侍れ。始め、獸(けだもの)、おそろしく、ねんじ兼たる時、終焉をとらば、中々、世におもひのこす事は有るまじきを、今はこれらの獸さへ、かはゆく覺えて、心苦し、世にある人の財寶にみち、子孫多く、時めくは、いかばかり、と推量られ侍る、と、いふも、すせう也。去る折しも、猿の大きなるが、ふたつつれて、覆盆子(いちご)のうるはしきを一つかね宛(つゝ)持ち來り、庵(いほ)にいらんとせしが、祇のあるを見て、足はやにかへるを、主の法師手うつてよび返すに、いちごをさゝげ、庭をさらず遊ぶ。あるじの云く、見給へ、かくの如く、山野の菓(くだもの)を、かはるがはる持ちはこびて、我れに親しんずるを、と、いふにぞ、實(げ)に往生の期(ご)に思ひや出でん、と迄、苦しがりし理(ことわ)り、と、おもひしりぬ。此の後、あるじ緣(えん)に出でゝ手をうつに、目なれぬ獸類、雲霞(うんか)のごとく、鳥類、又、群りて、梢に羽を休む。此の時、主の僧、一つの猪(ゐのしゝ)に跨(またが)つて、庵(いほ)の外に出でけるが、彷彿と消えて、行きがたなし。只、むすび捨てたる庵計りぞ殘りける。
■やぶちゃん注
底本では末尾に「宗祇諸國物語卷四終」とある。
・「愛宕(あたご)山」現在の京都府京都市右京区の北西部、山城国と丹波国の国境にある山で標高九百二十四メートル。信仰の山としても知られる。
・「高雄」京都府京都市右京区梅ヶ畑(うめがはた)にある標高四百二十八メートルの山で、中腹に真言宗高雄山神護寺(じんごじ)があり、ここはその寺を指す。
「栂尾(とがのを)」現在の右京区梅ヶ畑栂尾町にある、明恵の寺として知られる真言宗栂尾山高山寺(こうざんじ/こうさんじ)。
・「月の輪」現在の京都市右京区嵯峨清滝月ノ輪町にある天台宗鎌倉山(かまくらやま/けんそうざん)月輪寺(つきのわでら/がつりんじ)。本尊は阿弥陀如来であるが、十世紀に遡ると考えられている平安中期の古式の木造十一面観音立像の外、平安後期の木造千手観音立像や木造聖観音立像がある。
・「承仕法師(しようじはふし)、俗に、火ともし、と、いふ者なり」仙洞 (せんとう)・摂家・寺院などの雑役を務めた者で僧形 であったが、妻帯は随意であった。単に承仕とも呼ぶ。灯明を守る堂守。
・「古來稀れ也といふ此の齡」「齡」は「よはひ」と訓じておく。杜甫の「曲江」の「人生七十古来稀」に基づく謂いである。
・「けうとく」「氣疎く」で、気味が悪くの意。
・「村猿(むらさる)」群猿。
・「たのもしく」(かえって)頼もしいものにも感じられるように。直には「自(みづか)らおもひあがりて」を修飾していると読む。前の「けだ物も心なくては、と、」を受けると読んでも問題はない。述懐の意味上は同等である。
・「中古ののちは」棲みついてから後、今までの期間の半ば頃には。
・「うゐうゐ敷く」歴史的仮名遣は「うひうひしく」が正しい。(遁世者としてははなはだ)気恥ずかしく。
・「出がてに、まよひ來ぬる」「出がてに」「いでがてに」これは自身のことを指す(「がてに」は本来は「~しにくく・~しかねて」の意の上代語「かてに」(補助動詞「かつ」(~できる・~に堪える)の未然形「かて」+打消の助動詞「ず」の上代の連用形「に」)であったものが、後世、「かてに」の「かて」を「難(がた)し」の語幹と誤認にし、濁音化したものである)。遁世者は須らく厭離穢土の心であるべきでありますが、しかし、やはりこの世の情愛というものからは鮮やかに出離することは難く、このように迷ったままに棲みきたっておることは。
・「ねんじ兼たる時」こらえかねるに至った折りには。「終焉をとらば、中々、世におもひのこす事は有るまじきを」と、さらに「念じ」て我慢して参ったのですが。
・「推量られ」「おしはかられ」。
・「すせう」「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)も同じ。本性の意の「素性」であろうか。しかし、だとすると、歴史的仮名遣は「すしやう」でなくてはならない。識者の御教授を乞う。
・「此の後、あるじ緣(えん)に出でゝ手をうつに、目なれぬ獸類、雲霞(うんか)のごとく、鳥類、又、群りて、梢に羽を休む。此の時、主の僧、一つの猪(ゐのしゝ)に跨(またが)つて、庵(いほ)の外に出でけるが、彷彿と消えて、行きがたなし。只、むすび捨てたる庵計りぞ殘りける」私はこのエンディングが好きだ。上田秋成の「靑頭巾」や、それをインスパイアした小泉八雲の「食人鬼」のそれと比した時(孰れも私の電子テクスト。後者は拙和訳。英語原文はこちら)、私は――「喝!」なんどの怪しげな一声によって、悟ったんだか、何だか分らずに、ただの骨の山となるのよりも――この猪に跨って、山中へと消えて行く、生き物たちへの愛敬(あいぎょう)を捨てられずに現世の山野を永遠に彷徨っているこの僧を――確かに――選ぶ。
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