烏鷺近況 梅崎春生
どうも碁について書くと、自慢話になる傾向がある。
それは私だけでなく、自分の余技について語る時、たいていの人はそうなってしまうようだ。まれには卑下の形をとることもあるが、それは自慢の裏返しなので、慇懃(いんぎん)無礼というのと同じ形式である。
人間は、自分の余技について語る時、何故必ず自慢話になってしまうか。
余技とは、専門以外の芸の謂(い)いであり、つまり専門以外であるから、自分の力量について、誤算する傾きを生ずるのだろう。人間は誤算する場合、たいてい自分の都合のいいように誤算するものだ。だから正直なところを語っているつもりでも、はたから見れば自慢話ということになる、ということも考えられるだろう。
それからもう一つ、人間が余技において自慢するのは、本業においては自慢しにくいという事情にもよるらしい。
私の場合で言えば、どうだ、おれの小説はうまかろうと、人に語ったり物に書いたりするわけには行かないということがある。内心ではそう思っていても、それを外には出せないのである。比較的謙譲な私ですら、内心奥深くではそう思っているのであるから、私以外の大部分の同業者、また同業者以外の連中も、ほんとは本職において威張りたいのである。
ところが、本職において威張るのは、周囲の事情が許さないから、余儀なくその余技において威張るということになる。メンスのかわりに鼻血を出すようなもので、つまり余技自慢は抑圧から生ずるものであり、代償性のものなのである。
それからもう一つ、余技が碁や将棋の場合は、どうせこれは遊びであるから、競争心や敵慌心(てきがいしん)がないと面白くない。競争心がないところに、勝負の面白さはない。だから余技を語る時に、実際以上に自分を強しとし、実際以下に相手をけなしつければ、その相手はなにくそと奮起し、次の勝負が面白くなるだろう。余技自慢というのは、そういう効用も持っている。
私が今まで碁を打った相手で、一番打ちにくかったのは、故豊島与志雄氏である。
打ちにくかったというのは、豊島さんが強かったという意味ではない。その頃の私と実力はおっつかっつか、幾分私の方が強かったかも知れない。
何故打ちにくかったか。それは豊島さんに全然競争心、または敵愾心というのがなかったからである。
相手が競争心を持たないのに、こちらばかりが競争心を燃え立たすということは、至難のわざであり、不可能のことである。
では豊島さんはやる気がないのかと言えば、それはそうでない。大いにやる気はあったのである。いつか一遍泊りがけで遊びに行った時、夜中の十二時になっても一時になっても離してくれないので、弱ってしまったことがある。
つまり豊島さんの碁は、相手に打ち勝とうという碁ではなく、石を並べることそれ自身が面白いのだ。相手があっても、ひとりで並べても、同じようなもので、人間の碁というよりは、仙人の碁に近い。
私はと言えば、相手に打ち勝つことを唯一の楽しみとする棋風だから、やはり仙人棋客とは打ちにくかった。
現在文壇囲碁会というのがあり、私もそれに属しているが、年に数回囲碁会が開かれる。一昨日もそれが日本棋院で行われた。
私も出席して、力戦敢闘して、賞品をもらった。私がもらったのは、高級ウイスキーだ。
参考までに他に成績の良かった人たちの賞品をあげると、大岡昇平二段格がシロップ、高田市太郎三段がビスケット、三好達治初段が並級ウイスキー、ここらが目ぼしいところで、尾崎一雄二段などは全敗で、手拭一本しか貰えなかった。
賞品が全然ないのも張合いがないし、また沢山あり過ぎても困る。この程度が適当というところであろう。
この会も、その前の会においても、大岡二段格は大いに敢闘、好成績をとった。
昨年某新聞に、私は文人囲碁の面々について書き、大岡二段格については、
「大岡初段は、互先の碁は不得手のようで、われわれと打つと、大岡初段の石はとかく俘虜(ふりょ)となる傾向がある。対局態度は坂田栄男九段にそっくりで、典型的なぼやき型である。ただ違うところは、坂田九段がぼやきながら勝つに反し、大岡初段はぼやきながら負けるのである」
この私の昨年の評価は、訂正する必要があるように思う。この前の碁会では、大岡初段は久しぶりに出席、相変らずぼやきながらも面々をなぎ倒し(私も不覚にもなぎ倒された)全戦全勝、優等賞を小脇にかかえて揚々と帰って行った。昨年はそれほど強いと思わなかったのに、今年は俄然(がぜん)強くなったのは、あるいは人にかくして猛勉強をしたせいかも知れない。そこで衆目の一致するところ、大岡初段は二段格ということに格上りをした。
三好達治初段もいい成績を振ったが、前述の某新聞の碁随筆において、私は三好初段のことを、
「風格正しき碁を打つ三好達治初段」
と書いたが、これも取消した方がよさそうだ。
自分の書いた文章を取消したり訂正したり、あまりそういうことをしたくないのだが、やはり事実に反したことを書いたことには、責任を持たねばならない。
では、どこを取消すかというと「風格正しき」という部分であって、この前の碁会で対局して見たら、三好初段の碁は一向に風格正しくはないのである、相手の目に指を突込んでくるような、猛烈なけんか碁であった。
では、何故昨年「風格正しき」などと書いたかというと、それまで私はあまり三好初段と手合わせしたことがなく、したがってその棋風をよく知らなかった。だからその文章を書くにあたって、私はその棋風を、三好初段の詩業から類推したのである。
「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ」
この詩人が、一目上りの碁になると、俄然人が変ったようになるんだから、判らないものであるという他はない。
もっとも碁風とか棋風とかは、その人の性格と一致しているかどうか、性格という言葉の解釈にもよるけれども、一致してないことの方が多いようだ。
たとえば、女は男よりおとなしい(いやいや、そうではないぞと言う人もあるだろうが)とされているが、碁においては、女の碁打ちというのは、猛烈なけんか碁が多いのである。女流専門棋士からアマチュア女流にいたるまで、大体そういうのが多い。だから碁風でもってその人の性格を忖度(そんたく)したり、その人の性格からその棋風を類推したりす
ることは、たいへん危険で誤りが多いという結果になる。その誤りをおかしたという点で、私は前述某新聞の文章の一部を、訂正し取消す。
では最後に、私の棋風はと言えば、これも私の性格とは正反対で、相当に荒っぽいのである。定石通り打って地を囲い合うというのではなく、敵の陣地の中に打ち込んでむりやりに荒すのが好きで、またそういうけんかが得意である。けんかという点では、文壇碁会の面々におくれをとらない。
どうしてそんなけんかが得意になったかというと、大学生時代に毎日碁会所通いをしたからで、またその碁会所にけんか碁の得意な老人がいて、それからもまれたせいである。碁会所流と言えば、けんかが上手で、手の早見えがする。私の碁も、形において欠けるところがあるが、力闘型で早見えがする方だ。
いつか某新聞で新聞碁(素人の)を打った時、日本棋院の塩入四段が観戦記で、私のことを次のように書いた。
「素人(しろうと)で梅崎サンだけ打てれば、何処へ出しても恥かしくないし、田舎へでも行けば立派な先生格である。だが若し人に教えるとすれば、適任者でないかも知れない。よい力はしているが、まだ形が整備しない点が多いからである。少し本を読んだり専門家のコーチを受けたりしたならば、強さが増すことと思う。云々」
私もあまり自慢はしたくないのだけれども、専門家の塩入四段がそう書いているんだから仕方がない。田舎に行けば先生格になれるというのはありがたいことだ。その中に小説の方がだめになれば、田舎に行って、碁の師匠として余生を送ろうかとも思う。もっとも弟子がつくかどうかは不明であるけれども。
[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年七月号『新潮』初出(書誌は以下の底本解題に拠る)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。私はスポーツを含み、勝負事に一切興味関心がない。碁は愚か、将棋の金銀の駒の動かし方も知らない。されば、「烏鷺」以外、ここでは知ったかぶりの囲碁用語及び棋士の注をつけるのは一切止めとする。無論、よく知っている作家連中の注も附さない。
「烏鷺」「うろ」と読み、原義の「カラスとサギ」から転じて「黒と白」、そこから更に碁の異名となった。
「高田市太郎」(明治三一(一八九八)年~昭和六三(一九八八)年)はジャーナリスト。滋賀県生まれ。米国ワシントン大学卒業、東京日日新聞社に入社、米英など諸外国特派員・ニューヨーク支局長・渉外部長・欧米部長・編集局次長・編集局顧問などを歴任した(全く私の知らない人物なので「はてなキーワード」を参照した)。]
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