甲子夜話卷之二 6 白川侯御補佐のとき狂歌
白川老侯御補佐の時は、近代の善政と稱す。何者か作けん、世に一首の歌を唱、
どこまでもかゆき所に行とゞく
德ある君の孫の手なれば
此時武家の面々へ、尤文武を勵されければ、太田直次郎【世に呼て寢惚先生と云、狂歌の名を四方の赤良と云へり】といへる御徒士の口ずさみける歌は、
世の中に蚊ほどうるさきものはなし
ぶんぶ(文武)といふて夜もねられず
時人もてはやしければ、組頭聞つけ、御時節を憚ざることとて、御徒士頭に申達し、呼出して尋ありければ、答申には、何も所存は無一御座二候。不斗口ずさみ候迄に候。強て御尋とならば天の命ずる所なるべしと言ければ咲て止けるとぞ。
■やぶちゃんの呟き
「白川侯」寛政の改革を推進した陸奥白河藩第三代藩主松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政一二(一八二九)年)。第十一代征夷大将軍徳川家斉の代、天明七(一七八七)年六月に老中上座、翌年三月、将軍輔佐を兼務。寛政五(一七九三)年七月、将軍輔佐及び老中等御役御免、寛政元(一七八九)年に隠居。
「唱」「うたふ」。
「德ある君の孫」松平定信は御三卿の田安徳川家の初代当主徳川宗武の七男で、第八代将軍徳川吉宗の孫に当たる。
「太田直次郎」「大田」が正しい。天明期を代表する文人で狂歌の名人として知られた御家人大田南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)のこと。彼は勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚でもあった。ウィキの「大田南畝」によれば、『名は覃(ふかし)。字は子耕、南畝は号で』『通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別号、蜀山人、玉川漁翁』(たまがわぎょおう)、『石楠齋、杏花園、遠櫻主人』(えんおうしゅじん)、巴人亭(はじんてい)、風鈴山人(ふうれいさんじ)、四方山人(よもさんじん)など多数ある。『山手馬鹿人(やまのてのばかひと)も南畝の別名とする説がある。狂名、四方赤良』(よものあから)。『また狂詩には寝惚(ねぼけ)先生と称した』とある。当時、『商人文化が隆盛を極める一方、農村は飢饉などにもよって疲弊していた』ことから、『これを改めるべく』、天明七(一七八七)年に『寛政の改革が始まると、田沼寄りの幕臣たちは「賄賂政治」の下手人としてことごとく粛清されていき、南畝の経済的支柱であった』田沼政権下に勘定組頭となっていた『土山宗次郎も横領の罪で斬首されてしまう。さらに「処士横断の禁(処士は学があるのに官に仕えず民間にいる者。幕府批判を防ぐための策)」が発せられて風紀に関する取り締まりが厳しくなり』、彼の著作板行を引き受けていた版元の蔦屋重三郎や同僚の浮世絵師で戯作者の山東京伝も『処罰を受けた。幸い南畝には咎めがなかったものの、周囲が断罪されていくなかで風評も絶えなかった。ここに出る政治批判の狂歌の作者と目されたことや、『田沼意次の腹心だった土山宗次郎と親しかったことで目を付けられ』『たという話は有名』。但し、『これを機に、南畝は狂歌の筆を置いてしまい、幕臣としての職務に励みながら、随筆などを執筆するようになった』という。寛政四(一七九二)年、四十六歳の『南畝は「学問吟味登科済」が創設されたのを機にこれを受験し、当時小姓組番士だった遠山景晋とともに甲科及第首席合格となる。世間では狂歌の有名人であった南畝は出世できないと揶揄していた』ものの、及第から二年後の寛政八(一七九六)年には支配勘定(勘定所で実務に当たる勘定奉行配下の役人で「勘定」の下に相当した。職務上、筆算の才能が必要なため、任用に際しては吟味(人事査定)が行なわれた実務中堅職で出世ステップとしては重要ポストであった)に任用されている。
「御徒士」「おかち」。幕府・諸藩とも御目見得以下で騎馬を許されぬ軽輩の武士。
「不斗」「ふと」。不図。
「咲て」「わらひて」。
「止ける」「やみける」。