モデル小説 梅崎春生
モデル小説
作家が小説を書く場合、題材が純然たる空想から発する場合はほとんどない。小説とは世態人情をうつすものだから、どうしても現実の人間や事件にヒントを得て、それを整理したり変形したりしてつくり上げる。
それが常道だけれども、ときにはモデル問題がおきて名誉毀損の訴えがなされたりする。こんど有田八郎氏が「宴のあと」の件で作者三島由紀夫氏と出版元を訴えたのは、有田氏が悪く書かれているからでなく、プライバシーの権利をおかしているという理由からだ。プライバシーの権利とは私事を知られたくない権利のことだ。
わたしは割合用心深く、モデルを使っても変形これ努める。でも長いあいだのことだから、ときには尻尾(しっぽ)を出して文句をつけられることがある。
三年ほど前ある新聞に「つむじ風」という小説を書いた。主人公は松平姓を名乗り、徳川慶喜の曽孫にあたるとのふれ込みの男で、あちこちの家庭に現われてうそをつき、さいごに姿をくらますという筋である。この松平陣太郎にはモデルがあった。Nというふしぎな人物がそれで、果たして連載中に文句をつけにきた。
そこで私は答えた。松平陣太郎とN君が共通しているのは松平姓を自称すること、よくうそをつくことで、あとは全部フィクションである。しかもこの小説は松平陣太郎の行状記じゃなく、松平姓にたいする諸人の反応が主題だから、N君に迷惑のかかるわけがない。
それから二三度押し問答があったが、けっきょく話し合いでけりがついた。N君も実際にわたしにもうそをつき迷惑をかけているから、強くは出られなかったのであろう。
N君はその後芝の増上寺から仏像を何体か盗み出して骨董屋に売り飛ばして足がつき、警察につかまった。
三島氏は「宴のあと」について政治対人間のドラマを描きたかったのだ、といっている。有田氏はプライバシーの侵犯だと主張する。どういう結果になるか他人ごととは思えない。
もっともモデルにされることはあまりいい気持のものでない。わたしも三度ばかりモデルにされたことがある。二度は悪く書かれ一度はよく書かれた。
悪く書かれるともちろん気分がよくない。
「あの野郎。書きやがったな!」
と一週間ばかり不愉快である。
ではよく書かれたらうれしいかというと、それもうれしくない。読み終えたあと妙な違和感が胸に残るのである。
よく書かれても悪く書かれても不愉快なら、他人をモデルにすることはやめればいいではないか。そう人は考えるかもしれないが、そういかないところに文学の業みたいなものがある。まったく小説家なんて因果な商売だ。
[やぶちゃん注:「南風北風」連載第八十七回目の昭和三六(一九六一)年三月三十一日附『西日本新聞』掲載分。
『有田八郎氏が「宴のあと」の件で作者三島由紀夫氏と出版元を訴えた』「有田八郎」(明治一七(一八八四)年~昭和四〇(一九六五)年)は外交官で旧貴族院議員(勅選)・元衆議院議員であった政治家。ウィキの「宴のあと」によれば、「宴のあと」は三島由紀夫が昭和三五(一九六〇)年に雑誌『中央公論』一月号から十月号に連載、後の同年一一月十五日に新潮社より単行本刊行された長編小説。実在する高級料亭「般若苑」の女将畔上輝井(あぜがみてるい)と元外務大臣で元東京都知事候補(昭和三〇(一九五五)年とこの記事の二年前の昭和三四(一九五九)年の二度、革新統一候補として出馬したが、孰れも落選)であった有田八郎をモデルにした作品。ヒロイン福沢かづ(畔上輝井がモデル)の『行動的な熱情を描き、理知的な知識人の政治理想主義よりも、夫のためなら選挙違反も裏切りもやってのける愛情と情熱で、一見政治思想とは無縁で民衆的で無学なかづの方が現実を動かし政治的であったという皮肉と対比が鮮やかに表現されている』(因みに有田は衆議院議員当選後に畔上輝井と再婚、二度目の都知事選落選後に畔上と離婚している)。『当初、単行本は中央公論社より刊行予定であったが、小説のモデル・有田八郎の抗議を受け、中央公論社の嶋中鵬二社長が二の足を踏んだため、新潮社からの刊行となった。文庫版は新潮文庫で刊行されている。翻訳版はドナルド・キーン訳(英題:“After the Banquet”)をはじめ、世界各国で行われている』。後の昭和三六(一九六一)年三月十五日に『モデルとされた有田八郎からプライバシーを侵すものであるとして、三島と新潮社が訴えられ、長期の裁判沙汰となり、「プライバシー」と「表現の自由」の問題が日本で初めて法廷で争われた。日本ではそこばかりに焦点があてられがちだが、作品の芸術的価値は海外の方で先に認められ』いる、梗概は以下。『保守党御用達の高級料亭「雪後庵」を営む女将・福沢かづは、独身ながら』五十代を『迎え、人生を達観した気持ちで日々過ごしていた。ある日、かづは客として店に来た革新党の顧問で元大臣・野口雄賢に出会い、その理想家肌で気高い無骨さに魅かれてゆく。野口は妻を亡くし独身だった。かづと野口は何度か食事を重ね、奈良の御水取りにも旅し、自然の流れで結婚することとなった』。『野口は、革新党から東京都知事選に立候補することになった。かづは革新党の選挙参謀の山崎素一を腹心としながら、大衆の心を掴むような、金を散財する選挙運動に邁進する。貯めた銀行預金が不足したら、雪後庵を抵当にかけても野口の選挙を支援しようとしていた。しかし、その土着的なやり方を野口に激しく叱責にされた。そして、雪後庵を閉鎖しないなら離婚するとまで野口に言い渡された』。『結局、都知事選は、ライバルの保守党による中傷文書のばら撒きや汚い妨害工作に合い、野口が敗北した。そして野口は政治から離れる決意をし、かづと二人でじじばばのように暮す隠遁生活をはじめようと提案する。しかし、かづは精魂こめて金を使った自分より、汚いやり方で金を使った相手が勝ったことが許せず、宴のあとのような敗北の空虚に耐えられなかった。かづは保守党の記念碑的人物・沢村尹に頼み、この償いに、旧知の間柄でもあった保守党の永山元亀らの金で雪後庵を再開させよう画策した』。『このことを知った野口は、かづに離縁をつきつけた。そして、かづは野口家の墓に入る夢を捨て、雪後庵を再開することの方を選び、野口と別れることを決意した』。この民事訴訟で『三島は、日本で最初のプライバシーの侵害裁判の被告となった。もの珍しさから、「プライバシーの侵害」という言葉は当時、流行語となった』。有田八郎は三島のこの小説が『自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社である新潮社を相手取り、損害賠償』百万円と『謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所で起した。裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、昭和三九(一九六四)年九月に『東京地方裁判所で判決』が出、三島側は八十万円の『損害賠償の支払いを命じられた(ただし謝罪広告の必要はなし)。三島は、芸術的表現の自由が原告のプライバシーに優先すると主張したが、第一審、東京地裁の』『石田哲一裁判長は判決において以下の論述を出した』。『「小説なり映画なりがいかに芸術的価値においてみるべきものがあるとしても、そのことが当然にプライバシー侵害の違法性を阻却するものとは考えられない。それはプライバシーの価値と芸術的価値の基準とはまったく異質のものであり、法はそのいずれが優位に立つものとも決定できないからであるたとえば、無断で特定の女性の裸身をそれと判るような形式、方法で表現した芸術作品が、芸術的にいかに秀れていても、通常の女性の感受性として、そのような形の公開を欲しない社会では、やはりプライバシーの侵害であって、違法性を否定することはできない」』。『石田裁判長は、「言論、表現の自由は絶対的なものではなく、他の名誉、信用、プライバシー等の法益を侵害しないかぎりにおいてその自由が保障されているものである」との判断を示し、「プライバシー権侵害の要件は次の』四点『である」と判示した』。
1・『私生活上の事実、またはそれらしく受け取られるおそれのある事柄であること』。
2・『一般人の感受性を基準として当事者の立場に立った場合、公開を欲しないであろうと認められるべき事柄であること』。
3・『一般の人にまだ知られていない事柄であること』。
4・『このような公開によって当該私人が現実に不快や不安の念を覚えたこと』
三島側は同年十月に控訴するが、この翌年三月に有田が死去したため、昭和四一(一九六六)年十一月、『有田の遺族と三島・新潮社との間に和解が成立した』。『当初、この件で』三島の『友人である吉田健一(父親・吉田茂が外務省時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したものの上手くいかず、吉田健一が有田側に立った発言をしたため、後に両者は絶交に至る機縁になったといわれている』。『三島は、自決』一『週間前に行なった古林尚との対談『三島由紀夫
最後の言葉』において、この裁判で三島は裁判というものを信じなくなったという。法廷で弁護人から、「三島に署名入りで本(有田八郎著『馬鹿八と人はいう』)をやったか」と質問が出たとき、有田は、「とんでもない、三島みたいな男にだれが本なんてやるもんか…(後略)」と答え、弁護人が、「もしやっていらっしゃったら、ある程度三島の作品を認めたか、あるいは書いてもらいたいというお気持があったと考えてよろしいですね?」と念押しされ、「そのとおりですよ」と有田は、断固、本は渡していないと主張したという。ところが、三島は有田から、「三島由紀夫様、有田八郎」と署名された本を貰っていた。それを三島側が提示すると、傍聴席が驚いたという。三島は、あの裁判がもし陪審制度だったら、自分は勝っていただろうと述べている。裁判所の判断は、有田が老体であるとか、社会的地位や名声を配慮して有田に有利に傾き、民事裁判にもかかわらず、刑事訴訟のように、被告は「三島」と呼び捨てにされていたという。ときどき気が付いて「さん」付けになるものの、ほぼ呼び捨てだったという』。『有田八郎から訴えられた際に三島は『宴のあと』について、「私はこの作品については天地に恥じない気持ちを持っている」と主張し、「芸術作品としても、言論のせつどの点からも、コモンセンスの点からも、あらゆる点で私はこの作品に自信を持っている」』『と述べている。またプライバシー裁判においてなされた、三島による『宴のあと』の主題の説明は以下のようにまとめられている』。『人間社会に一般的な制度である政治と人間に普遍的な恋愛とが政治の流れのなかでどのように展開し、変貌し、曲げられ、あるいは蝕まれるかという問題いわば政治と恋愛という主題をかねてから胸中に温めてきた。それは政治と人間的真実との相矛盾する局面が恋愛においてもっともよくあらわれると考え、その衝突にもっとも劇的なものが高揚されるところに着目したもので』、一九五六年に『戯曲「鹿鳴館」を創作した頃から小説としても展開したいと考えていた主題であった。(中略)』『(有田八郎の)選挙に際し同夫人が人間的情念と真実をその愛情にこめ選挙運動に活動したにもかかわらず落選したこと、政治と恋愛の矛盾と相剋がついに離婚に至らしめたこと等は公知の事実となっていた。(中略)ここに具体的素材を得て本来の抽象的主題に背反矛盾するものを整理、排除し、主題の純粋性を単純、明確に強調できるような素材のみを残し、これを小説の外形とし、内部には普遍的妥当性のある人間性のみを充填したもので、登場人物の恋愛に関係ある心理描写、性格描写、情景描写などは一定の条件下における人間の心理反応の法則性にもとづき厳密に構成したものである』とある。
「つむじ風」『東京新聞』昭和三一(一九五六)年三月二十三日号から度年十一月十八日まで連載され、翌年三月に角川書店から単行本が出た、長篇ユーモア小説。登場する今一人の主人公とも言うべき作家加納明治には時に春生自身をも垣間見られる。
「わたしも三度ばかりモデルにされたことがある。二度は悪く書かれ一度はよく書かれた」これは誰の何という小説なのか? 識者の御教授を是非、乞う。]