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« 交友について   梅崎春生 | トップページ | 諸國百物語卷之一 四 松浦伊予が家にばけ物すむ事 »

2016/08/26

ヌカゴのことなど   梅崎春生

 

 私はヌカゴの味に秋を感じる。もちろん松茸や栗やサンマにも感じるけれど、近ごろ彼らは罐詰などになり、一年中食えるから、それほど強くは感じない。ああ、これが今年の松茸か、というようなもんである。ヌカゴの罐詰には、まだお目にかかったことがない。

 ヌカゴは零余子と書いて、自然薯(じねんじょ)や山芋の実(正確には肉芽)である。東京人はあまり食べないし、店でも売っていない。いや、一度だけ下高井戸の八百屋で売っているのを見て、私は買い占めて一人で食べた。なつかしい味がした。

 どうしてヌカゴに秋の味を感じるか。私の育った家(福岡)に生垣があって、それに蔓(つる)が巻きついて、秋になるとヌカゴがたくさん粒をつける。それを採っておふくろに煮てもらって食べる。その味の記憶がいまでも残っているからだろうと思う。とり立ててうまいというものではない。もさっとして素朴な味である。

 そのころはヌカゴが自然薯の実だとは知らなかった。知ったのは、その家を引っ越した後である。知ってりゃ自然薯を掘り出して、うまいうまいと食べたのに、といま思って残念である。

 東京に来て、前記八百屋のときだけで、ずっとヌカゴの味に接しなかった。ところが世田谷から練馬に引っ越して来ると、畠があちこちにあり、山芋を栽培している。秋になるとヌカゴが実る。その時節になると、私は袋を用意して、散歩に出かける。誰もいない畠から勝手にヌカゴを取るのは気がひけるので、農夫のいる畠を探す。声をかける。

「この山芋の実、売ってくれませんか」

 彼らは売ろうとしない。ただでくれる。

「ああ、そんなものなら、いくらでも持っていきな」

 しめたとばかり畠に踏みこみ、袋にどっさり詰めて帰る。彼らが栽培するのは、根を売るためなので、実なんか問題にしないのだ。食べることを知らないのもいる。ある若い農夫が私に反問した。

「それ、どうするんだね。子供の玩具にでもするのかい」

 かくして獲得したヌカゴを、醤油で薄味に煮て、つまようじで一粒一粒つき刺して食べながら、もって酒の肴とする。大して栄養のあるものではなかろうが、味が軽くて、前菜としては好適である。山本健吉の歳時記(さいじき)によると、

「とって炒(い)ったり、茹(ゆ)でて食べるが、(ヌカゴ飯)にもする」

 とあるが、私にはやはり薄味に煮たのがいい。郷愁と原料がただであることが、さらに酒の味を倍加させる。

 次は、椎(しい)の実。これも東京ではあまり見かけない。子供のときは近くに椎の実があったし、また果物屋でも売っていた。一升でいくらだったか覚えてないが、栗よりははるかに安かった。拾って来たり買ったりして、焙烙(ほうろく)で焙(あぶ)って食べると、香ばしくて甘い味がする。一昨年だったか、「西日本新聞」での連載随筆の中で、椎の実が食べたいというようなことを書いたら、読者から続々として椎の実が送られてきた。南は鹿児島から北は対馬産まで。大げさに言うと、うちは椎の実だらけになった。とても私一人では食べられない。家族に強制して食わせたり、来る人来る人に進呈したりした。これはめずらしいと喜んで受け取る人もあれば、迷惑そうに受け取る人もある。椎の実に執するのに個人差があるらしい。つまり幼ないときに食べたか食べなかったかによるのだろう。

 送られてきた椎の実は、送られてきた土地によって、大小や形に変化があるのは面白かった。一番見事だったのは対馬のもので、これは大粒で格別の甘みがある。椎の実は対馬に限る。

 椎の実にそえたあちこちの便りでは、九州ではいまでも椎の実を売っているそうである。行商人もいるということだ。

「椎の実はいらんか」

 というような呼び声をかけて、売り歩く。椎の実の問屋など、どうせありそうに思えぬから、どこかで勝手に拾ってきて、売って歩くのだろう。そう言えば私の子供のときも、椎の売り屋さんがいたように思う。そのころ私たちは椎の実は食べられるが、ドングリを食うと血を吐いて死ぬ、と教えられていた。しかし戦争末期や敗戦直後には、ドングリ粉の混ったパンを食べさせられたから、血を吐いて死ぬとはうそだったに違いない。でも、死なないにしても、ドングリは決してうまいものではない。

 それからヒシの実。私の両親が佐賀の出身で、秋になるとよくヒシの実が送られてきた。佐賀の町は縦横に堀割があって、そこにヒシが群生している。これも東京では売っていない。栗よりもずっとうまい、と言う人もいる。私のおやじもそうだった。若い青いうちはなまで食えるが、老熟すると茹(ゆ)でなきゃ食べられない。

 ただ栗と違うところは、栗はかんたんに皮がむけるのに、ヒシにはするどい棘(とげ)がある。つまりヒシ形にとがっている。それを口に入れて、歯で割れ目をつけて、中身を押し出す。その作法がむつかしい。うっかりすると口の中にトゲがささる。盆からつまみ取るときも、用心しないと手にささる。南京豆みたいに、ぽいぽいと口に運ぶわけにはいかない。苦心して食べるところに、そのうま味があって、私はそれを食べるたびに、秋の夜長という言葉を感じた。子供のくせに、生意気なことを感じたものだと、いまは思う。

 どうも人間というものは、子供時分に食べたものを食べたくなる時期があるらしい。だいたい私がいま、そんな年齢なのである。

 

[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年十一月号『随筆サンケイ』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。私は本篇を読んで何故、私が梅崎春生を偏愛するかがすこぶる腑に落ちた気がした。何故なら「ヌカゴ」(ムカゴ)も「椎の実」も「ヒシの実」もどこれもこれも私の大好物だからである。この三つが大好物だという人間は私と同じ世代には寧ろ、いや、極めて、稀だと思う。「ヌカゴ」は小学生の頃、裏山で、よく母と採った。「椎の実」は今でも、見つけると必ず拾って食べる。「ヒシの実」の美味さは小学校二年生の夏に母の実家のあった鹿児島の大隅町岩川の山間(やまあい)の沼で採って食べて以来、忘れ難い私の神の食物だ。二十数年前、タイはスコータイの寺院門前の道端で、老婆が竹を編んだ籠に入れた黒焼きにしたそれを売っていた。「チップチャン」(タイ語で「蝶」の意)という名の十九歳のガイドの娘さんが、私が「ヒシだ! ヒシだ!」と歓喜して叫んでいるのを見るや、「ヒシ」という日本語を手帳にメモした後、ポケット・マネーでそれを一籠買って、私にプレゼントして呉れたのが今も忘れられない。……「どうも人間というものは、子供時分に食べたものを食べたくなる時期があるらしい。だいたい私がいま、そんな年齢なのである」……私は今、五十九歳……「子供時分に食べたものを食べたくなる時期があるらしい。だいたい私がいま、そんな年齢なのである」……

「ヌカゴ」「零余子」珠芽とも書く。ウィキの「むかご」によれば、『植物の栄養繁殖器官の一つ』で、『主として地上部に生じるものをいい、葉腋や花序に形成され、離脱後に新たな植物体となる』。『葉が肉質となることにより形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられ、前者はオニユリ』(単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium)などで、後者はヤマノイモ科(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科 Dioscoreaceae)の種などで見られ、『両者の働きは似ているが、形態的には大きく異なり、前者は小さな球根のような形、後者は芋の形になる』。『食材として単に「むかご」と呼ぶ場合、一般には』ヤマノイモ(ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモDioscorea japonica)やナガイモ(ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea batatas)などの『山芋類のむかごを指す。灰色で球形から楕円形、表面に少数の突起があり、葉腋につく。塩ゆでする、煎る、米と一緒に炊き込むなどの調理法がある。また零余子飯(むかごめし)は晩秋・生活の季語である』とある。なお、「ぬかご」という読みもあり、梅崎春生の訛りではない。「零余子」という表記については、私が恐らく最もお世話になっている、かわうそ@暦氏のサイト「こよみのページ」の日刊こよみのページ スクラップブック (PV 415 , since 2008/7/8)の「零余子」の解説中に、『零余子の「零」は数字のゼロを表す文字にも使われるように、わずかな残りとか端といった小さな量を表す文字ですが、また雨のしずくという意味や、こぼれ落ちるという意味もあります』。『沢山の養分を地下のイモに蓄えたその残りが地上の蔓の葉腋に、イモの養分のしずくとなって結実したものと言えるのでしょうか』とあり、私の中の今までの疑問が氷解した。

「椎の実」ブナ目ブナ科クリ亜科シイ属 Castanopsis の樹木の果実の総称。ウィキの「シイによれば、シイ属は主にアジアに約百種が分布するが、日本はこの属の分布北限で、ツブラジイ(コジイ)Castanopsis cuspidate :関東以西に分布。果実は球形に近く、次のスダジイに比べ小さい)とスダジイ(ナガジイ/イタジイ)Castanopsis sieboldii :シイ属中、最北に進出した種。大木では樹皮に縦の割れ目を生じる。福島県・新潟県佐渡島にまで生育地を広げた。果実は細長い。琉球諸島のスダジイを区別して亜種オキナワジイ(Castanopsis sieboldii ssp. lutchuensis)とする場合がある。沖縄では伝統的に「イタジイ」の名が和名として用いられてきたが、両者が共存する地域ではこの「スダジイ」が海岸近くに、先の「コジイ(ツブラジイ)」が内陸に出現することが多い)の二種が自生する。他に日本では本シイ属に近縁のクリ亜科『マテバシイ属(Lithocarpus)のマテバシイ(Lithocarpus edulis)もこの名で呼ばれている』(このマテバシイ Lithocarpus edulis も生食可能である。果実の形状は前の「シイ」より遙かに「ドングリ」である)。同ウィキには『果実の椎の実は、縄文時代には重要な食料であったと言われている。近年では子供のおやつに用いられた。現在でも博多の放生会や八幡(北九州市)の起業祭といったお祭りでは炒った椎の実が夜店で売られている』とある。春生の郷里福岡周辺との強い親和性が窺われる。

「ヒシの実」一年草の水草で葉が水面に浮く浮葉植物(後述引用する通り、完全な「浮草」ではないので注意)であるフトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ(菱) Trapa japonica の果実。本邦では同属のヒメビシ Trapa incisa、及び変種オニビシ Trapa natans var. japonicaも植生する。ウィキの「ヒシ」より引いておく。『春、前年に水底に沈んだ種子から発芽し、根をおろし茎が水中で長く伸びはじめ、水面に向かって伸びる』。『よく枝分かれして、茎からは節ごとに水中根を出し(これは葉が変化したものともいわれる)、水面で葉を叢生する』。『葉は互生で、茎の先端に集まってつき、三角状の菱形で水面に放射状に広がり、一見すると輪生状に広がるように見える』。『上部の葉縁に三角状のぎざぎざがある』。『葉柄の中央部はふくらみがあって、内部がスポンジ状の浮きとなる』。『その点でホテイアオイに似るが、水面から葉を持ち上げることはない。また、完全な浮き草ではなく、長い茎が池の底に続いている』。『花は両性花で、夏から秋の』七 ~十月に『かけて、葉のわきから伸びた花柄が水面に顔を出して、花径約』一センチメートルの『白い花が咲く』。『萼(がく)、花弁、雄蕊は各』四個。『花が終わると、胚珠は』二『個あるが一方だけが発育し大きな種子となる。胚乳はなく、子葉の一方だけが大きくなってデンプンを蓄積し食用になる。果実を横から見ると、菱形で両端に逆向きの』二『本の鋭い刺(とげ。がくに由来)がある』。『秋に熟した果実は水底に沈んで冬を越す』。『菱形とはヒシにちなむ名だが』、葉の形に由来する、実の形に由来する、という両説があって、はっきりしない』。平地の溜め池、『沼などに多く、水面を埋め尽くす。日本では北海道、本州、四国、九州の全国各地のほか、朝鮮半島、中国、台湾、ロシアのウスリー川沿岸地域などにも分布する』。『ヒシの種子にはでん粉』が約五十二%も含まれており、茹でるか、蒸して食べると、『クリのような味がする。アイヌ民族はヒシの実を「ペカンペ」と呼び、湖畔のコタンの住民にとっては重要な食糧とされていた』とある。]

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