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2016/08/03

芥川龍之介 手帳4―10・11

《4-10》

〇山―町―教會の塔○夏蜜柑 バナナ○橋 靑き水 夏みかんをならべ商ふ女(カゴ) 川に浮ぶ家鴨

[やぶちゃん注:字配はママ。これから察するに、今までも出る文中の丸印は芥川龍之介自身のものであることが判る。なお、これ及び以下の幾つかは、単行本「百艸」(大正一三(一九二四)年九月新潮社刊)の「續野人生計事」に収められてある「長崎」(初出未詳)の構想メモである。以下に、全文を引く。

   *

 

     十三 長崎

 

 菱形の凧。サント・モンタニの空に揚つた凧。うらうらと幾つも漂つた凧。

 路ばたに商ふ夏蜜柑やバナナ。敷石の日ざしに火照るけはひ。町一ぱいに飛ぶ燕。

 丸山の廓の見返り柳。

 運河には石の眼鏡橋。橋には往來の麥稈帽子。――忽ち泳いで來る家鴨の一むれ。白白と日に照つた家鴨の一むれ。

 南京寺の石段の蜥蜴。

 中華民國の旗。煙を揚げる英吉利の船。『港をよろふ山の若葉に光さし……』顱頂の禿げそめた齋藤茂吉。ロティ。沈南蘋。永井荷風。

 最後に『日本の聖母の寺』その内陣のおん母マリア。穗麥に交まじつた矢車の花。光のない眞晝の蠟燭の火。窓の外には遠いサント・モンタニ。

 山の空にはやはり菱形の凧。北原白秋の歌つた凧。うらうらと幾つも漂つた凧。

 

   *]

 

Mr.Nagami まん中から分けた髮 金緣の眼鏡(フチなし) 口髮 sinnlich mouth audacious eyes 豐な顋及頰 靑鬚

[やぶちゃん注:「口髮」はママ。旧全集は「口髭」とする。訂しているのであろうが、そうでないとおかしいことは確かである。

Mr.Nagami」永見徳太郎(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は劇作家で美術研究家。生地長崎で倉庫業を営みながら、俳句(号は夏汀)や小説を書く一方、長崎を訪れた芥川竜之介ら著名人と交遊、長崎の紹介に努めた。南蛮美術品の収集研究家としても知られた。芥川龍之介より二歳年上。

sinnlich」ドイツ語で「肉感的な・色っぽい」の意。

audacious」不敵な。]

 
 
 

《4-11》

○石坂の上 Santo-Montani 海 船 兩側の棕櫚(石段二つ) olive 左右花園 右に十字架とクリスト(十字 石 クリスト 銅) 躑躅 薔薇 日本三聖母○平戸やき帽○(Gregorio ⅩⅣ  medal 黃銅 浦上 1591 天正 マリアの像 フランシスコ派の使節○cross のついたContas 黑き木 房の白煤く 繩の笞(平戸) フランシスコ・ザベリヨ

[やぶちゃん注:《4-11》冒頭から上記までは旧全集には完全に不載。前パートに全文を掲げた、やはり「續野人生計事」の「十三 長崎」の構想メモ。

Santo-Montani」ポルトガル語か。ラテン語ととってもよい。「Santo」は英語の“Saint”dで、ポルトガル語・スペイン語・イタリア語などで他の語に冠して聖・聖なる・聖人の意を添える。「Montani」は人名ではなく、恐らくは現存するロマンス諸語(Linguae Romanicae:「ローマ風の言語」の意。ラテン語に由来する言語であるからラテン系・イタリア系とも称される。ポルトガル語・スペイン語・フランス語・イタリア語・ルーマニア語・プロバンス語などの各語を総称する)の一般名詞“montani”(「標高の高い土地」の意)の固有名詞化と思われる。日本二十六聖人殉教地である長崎市西坂の丘(大浦天主堂はそちらに向けて建てられてある。現在は「日本二十六聖人記念館」が建つ)のことを指すか? 大浦天主堂も丘の上に建ち、視覚的にはそちらの可能性も高いか?

「日本三聖母」「三」は不詳。単に「日本」の「聖母」の教会(寺)と言ったら、大浦天主堂を指す。

「平戸やき」三川内焼(みかわちやき)とも称する長崎県佐世保市で生産される陶磁器。ウィキの「三川内焼」によれば、『豊臣秀吉が起こした朝鮮の役の際、各地の大名は秀吉の命により、朝鮮の陶工が来日した。平戸藩藩主である松浦鎮信も多くの陶工を連れ帰った』。慶長三(一五九八)年、『巨関(こせき)という陶工は、帰化して今村姓を名乗った後、平戸島中野村の中野窯で藩主の命により最初の窯入れをした。この中野焼が三川内焼の始まりといわれている。同じく朝鮮から来た陶工の高麗媼は、中里茂左衛門のもとに嫁いだ後』、元和八(一六二二)年に『三川内へ移住した。また、巨関は』この頃、『中野村に陶土がなくなったために陶土を求め、息子の今村三之丞と共に藩内を転々とし』、寛永一四(一六三七)年、『最後に行き着いたのが三川内であ』った。その後の慶安三(一六五〇)年に『中野村の陶工が、平戸藩により三川内に移された』。「唐子(からこ)絵」「透かし彫り」「卵殻手(薄胎)」といった手法が知られる(詳細はリンク先を読まれたい)。「帽」は不詳ながら、前と続いていないと考えるなら、「長崎」の「橋には往來の麥稈帽子」の記憶呼び出しのためのメモの可能性がある。

Gregorio ⅩⅣ  medal」ローマ教皇(在位は一五九〇年十二月から翌一五九一年十月の約十一ヶ月だけ)グレゴリウス十四世(Gregorius XIV 一五三五年~一五九一年)。ウィキの「グレゴリウス14ローマ教皇によれば、ウルバヌス七世のあとを継いだが、『彼は既に修道者として高い評価を得ていた。にもかかわらず在位期間が短かったため、特に大きな事件はなかった。特筆すべきことは』、スペイン王フェリペ世と『マイエンヌ大公の強い勧めを受けてフランスの』アンリ世を『異端・迫害者として破門したことのみである。教皇はさらにフランスへの侵攻を準備させた。フランスではこの行動は歴代の教皇達がとってきたフランスとスペインのバランスをとる政策の放棄とみられた。教皇は選出時にスペイン枢機卿団の後押しをうけた事実があったため、当然反フランス的行動もスペインよりのものと考えられた』とある。

1591」この西暦年は「天正」十九年で、同年中には閏一月八日に天正遣欧使節の豊臣秀吉謁見があり、この年中にキリシタン版聖人伝の一つである「サントスの御作業の内拔書」(ローマ字本)肥前国加津佐(かづざ:現在の長崎県南島原市加津佐町)にで刊行されている。

Contas」元はポルトガル語で「数える」の意で、音写して「こんたつ」、念珠などと訳した。カトリック教会に於いて聖母マリアへの祈りを繰り返し唱える際に用いる、十字架やメダイ・キリスト像などのついた数珠状の祈りの用具である、ロザリオ(ポルトガル語:rosário・ラテン語:rosarium)のこと。本邦では十六世紀にイエズス会宣教師によって伝えられたが、以後の隠れ切支丹の時代まで永く「こんたつ」(マリア賛礼の「アヴェ・マリア」(ラテン語:Ave Maria)の祈禱を口にした数を数えるもの)と呼ばれてきた。「黑き木 房の白煤く」(「煤く」はママ。煤けているの意であろう)はこの実見した「こんたつ」の補足のように私には読める。

「繩の笞(平戸)」「笞」は「むち」でもよいが、「しもと」と読んでおく。これは「オテンペンシャ」(ポルトガル語:Penitencia(悔悛))と呼ばれる、洗礼を授ける役職に就いていた者が持っていたという(tunagu—kokoro氏のブログ「Oratio」の苦行の鞭に拠る)聖具「苦行の鞭」「贖罪の鞭」のことであろう。細縄を束ねたもので、元々である。語源はで、現在は祓いに用いられる。

「フランシスコ・ザベリヨ」フランシスコ・デ・ザビエル(Francisco de Xavier Francisco de Jasso y Azpilicueta 一五〇六年頃~一五五二年)のこと。ウィキの「フランシスコ・ザビエルの「名前について」によれば、生家のハビエル城はナバラ王国(位置その他はウィキの「ナバラ王国を参照のこと)の『ハビエルに位置し、バスク語で「新しい家」を意味するエチェベリ(家〈etxe+ 新しい〈berria〉)のイベロ・ロマンス風訛りである。フランシスコの姓はこの町に由来する。この姓はChavierXabierreなどとも綴られることもある。Xavierはポルトガル語であり、発音はシャヴィエル。当時のカスティーリャ語でも同じ綴りで、発音はシャビエルであったと推定される』。『現代スペイン語ではJavierであり、発音はハビエル』。『かつて日本のカトリック教会では慣用的に「ザベリオ」(イタリア語読みから。「サヴェーリョ」がより近い)という呼び名を用いていた』とある。]

 


 
Cliff House(左)



 
 Belle View(靑板)(右) 途中西洋館 英國々旗○空に菱形の凧二つひるがへる 諏訪祭にも christian influence あり 即 chrtstianity をよせばすぐ商況に關する故(大體住吉祭をとる) 殊にその行列をつくる點○唐人パツチ○ガラシ

[やぶちゃん注:旧全集には頭の「Cliff House(左)」「Belle View(靑板)(右)」がない。やはり「續野人生計事」の「十三 長崎」の構想メモ。

Cliff House(左)」これはやはり、西坂の殉教の丘のことではあるまいか? この芥川龍之介長崎再訪当時、そこに何らかの殉教を顕彰する小さな舎礼拝堂のような小屋が建っていたのではあるまいか? 識者の御教授を乞う。

Belle View(靑板)」「靑板」は不詳であるが、「Belle View」(ベルビュー)は長崎のカトリックと縁の深い、フランス語の“Bellevue”(美しい景色)を、英語の同義の“Beautiful View”と繋げた造語であろう。

「諏訪祭」長崎県長崎市上西山町にある鎮西大社諏訪神社の例祭。毎年十月七日から九日に行われるその例祭は「長崎くんち」として知られる。ウィキの「鎮西大社諏訪神社によれば、『弘治年間より長崎に祀られていた諏訪神社・森崎神社・住吉神社の三社が起源である』。弘治元(一五五五)年に、『長崎織部亮為英が京都の諏訪神社の分霊を、現在の風頭山の麓に奉祀したのが始まりという説と、東松浦郡浜玉町の諏訪神社を勧請した説がある。戦国時代に当地はキリスト教徒の支配地となり、当社を含めて領地内の社寺は全て破壊された。江戸時代に入った後の』寛永二(一六二五)年になって『長崎奉行・長谷川権六や長崎代官・末次平蔵の支援によって松浦一族で唐津の修験者であった初代宮司青木賢清(かたきよ)が、円山(現在は松の森天満宮の鎮座地)に三社を再興し、長崎の産土神とした』。正保四(一六四一)年に『幕府より現在地に社地を寄進され』、慶安四(一六五一)年に遷座している。ウィキの「長崎によれば、その祭りは『龍踊(じゃおどり)」「鯨の潮吹き」「太鼓山(コッコデショ)」「阿蘭陀万才(おらんだまんざい)」「御朱印船(ごしゅいんせん)」など、ポルトガルやオランダ、中国など南蛮、紅毛文化の風合いを色濃く残した、独特でダイナミックな演し物(奉納踊)を特色として』いるとある。

christian influence」キリスト教の影響。

「即 chrtstianity をよせばすぐ商況に關する故(大體住吉祭をとる)」キリスト教性を完全に排除してしまうと、長崎全体への経済的影響が深刻甚大であることから、キリスト教の祭祀と親和性と類似性のあった神道の祭り、特に現在の長崎市住吉町にある住吉神社系の祭形態(「殊にその行列をつくる」点など)を「長崎くんち」では積極的に採用して、隠れ切支丹との融和を図った、という謂いか? 切支丹には詳しくないのでよく判らぬ。識者の御教授を乞うものである。

「唐人パツチ」「ぱっち」は股引(パンツ様の下着)であるが、この語は現行では朝鮮語由来とされている。

「ガラシ」「唐辛子」という語のことか?  ナス目ナス科トウガラシ属トウガラシCapsicum annuum はメキシコ(或いはアンデス)原産で、初めて唐辛子が外地に伝わったのは一四九三年でコロンブスがアメリカ大陸からヨーロッパに持ち帰ったのであった。その後に大航海時代を迎えて、主にポルトガル船によって世界各地に広まった。本邦への唐辛子を持ち込んだのもポルトガルで、十六世紀の半ばに鉄砲やキリスト教と一緒に伝来したのであった。されば「唐辛子」の「唐」は中国の意ではなく、漠然とした海外の国を指す(因みに、朝鮮へ唐辛子を持ち込んだのは豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、加藤清正が持ち込んだともされる)。ともかくも、このメモの雰囲気は、これらの二語がそうした南蛮貿易の中で生まれた語であるとするニュアンスである。]

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