切手集め 梅崎春生
近ごろうちの娘と息子が、切手の収集にこり出した。別段それでもうけようとの気持ではないらしく、友だちが集めているから自分も集めたいという単純な動機のようで、間もなく熱がさめるだろうと思うが、切手を買ってくれ買ってくれと、毎日うるさいことだ。
私は昔から、物を散ずる趣味はあっても、集める趣味は一度も持ったことがない。だから、集める人の気持がよくわからない。
世界中に数が限定されているもの、たとえば埴輪とか印籠とか、今後生産される可能性のないもの、それらを集めたいというのなら、ぼんやりとわかる。究極は一堂に集められるという限界があるからだ。
切手集めも、古切手集めにはその一面があるが、切手であれば何でも集めようというのは、私には解せない。つまり切手なんてものは、過去から将来にわたって、ほとんど無限の数と種類にわたって生産されてゆく。無限のものの一部分を集めたって、それは無意味である。集める人の気が知れぬ。
こけし人形を集めてやに下っている人があるが、あれなんかどういうつもりだろう。こけしなんて、芸術的価値は零だし、観光地、温泉場があれば、そこで必ず生産されているんだから、集めても集めても果てしがないだろう。
そんな徒労をあえてするというのも、その人の精神が頽廃しているせいだろう。うちの子供たちも、早くあきてくれるといいが。
[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年六月二十七日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。]

