宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 秀句問答
宗祇諸國物語卷五
京都に侍りし時、大炊御門信宗(おほひのみかどのぶむね)公の御所に、折々參り侍り。或日、御歌物がたりに、夜更る迄侍りて、其夜は御所にあかしぬ。御内に若侍、多し。中に飯島造酒、草尾杢工丞といふ在り、飯島は武藏の國兒玉黨(こだまたう)が族(やから)也。草尾は御家相傳の侍なりしが、二人ともに歌に志し有りて、當話戯語(たうわげご)をなす。こよひ、祇と襖一重を隔てゝいねたり。ねながらの戯(たは)ふれと聞えて、草尾がいふ。何と、飯島は關東の武(ぶ)、弓矢(きうし)の家に生れながら、いかにや、名字も名も賤しき食物(しよくもつ)をつぎ給ふといへば、答ふ。愚かのいひ事や、世の中の寶(たから)の最上、食類に過ぎず。貴(たと)より賤しき迄、此の樂しみつくる時、命(のち)、更に、むなし。空しくば、萬寶(ばんぱう)、何の益かある、殊に軍場に兵糧(ひやうらう)を以て第一とす。去るによつて昔しより、猛き武士に食類の名をつく人多しと、いへば、こは珍し、うけ給はらん、と、いふ。あらあら語り侍らん、と數ふるこそおかしけれ。まづ、大友の眞がも、藤原の煮方(にかた)、江豚(いるかの)臣、石首魚山丸(いしもちのやままる)、肴上田村丸(さかなうへのたむらまる)、相馬鱒門(さうまのますかど)、米喰俵藤太(こめかみのたはらのとうだ)、多田饅頭(ただまんぢう)、渡部源五鮒(ふな)、肴金時(さかなのきんとき)、薄身貞光(うすみのさだみつ)、浦部椎茸(うらべのひたけ)、八幡鱈尾(はちまんたらを)、鱧次郎(はもじろう)、鱰三郎(しいらさぶらう)、珍膳(ちんぜん)八郎、かまぼこの御曹司、武藏坊辨當(むさしばうべんたう)、源九郎はうはん汁、ひたち坊貝藻(かいさう)、鱸(すゞき)三郎、弟の鰈(かれひ)の六郎、砂糖兄弟、紫蘇冠者義仲(しそのくわんじやよしなか)、紫蘇四天王(しそがしてんなう)に、うま井、干鮻(ひぐち)、蓼(たで)、根芋(ねいも)、煮〆(にしめ)、高梨子(たかなし)、鯛等貞文(たいらのさだぶみ)、粘(あめ)の貞任(さだたう)、畠山(はたけやま)の精心(しやうじん)物重忠(しげたゞ)、鯣鮫(さはらの)十郎、腸義盛(わたのよしもり)、佐々木餅綱(もちつな)同四郎蛸綱(たこつな)、※(えぶな)源八[やぶちゃん字注:「※」=「魚」+「子」。]、岡鮭(おかさけ)四郎、粥板蠣(かゆのいたがき)、鹽漬(しほづけ)になすの與一、其外、熊谷平(くまがやら)山が一の谷のせんじちや、梶原(かぢはら)が二度懸鯛(にどのかけだい)、或は、このしろに籠り、又、魚鱗(ぎよりん)、鶴翼(くわくよく)の備へ、太刀に鯰尾(なまずを)あり、矢に蕪(かぶら)あり、武のすぐれたるを大こんの兵(つはもの)といひ、智謀あるを葡萄(ぶだう)の達者と、ほむ、猶、數ふるに詞(ことば)たへたり、と、いふ。さてさて、いへば、いはるゝ物かな、と笑ふ。飯島の云く。和殿は數代(すだい)御家にあつて文を學(がく)し、和歌に遊ぶ。何ぞゆへなき草木(さうもく)を名字と名とに顯す、歌人は草木に便(たよ)りありや否や、と、とふ。答ふ。見給はずや、古今(こきん)の序に、やまと歌は人の心をたねに蒔きて萬(よろづ)の物の葉とぞなれりける。野の中にある人、言草(ことぐさ)しげき物なれば、蒜(ひる)の事、菊の事につけて、いひ出せる也。花になく鶯菜(うぐひすな)、水にすむ川柳(かはやなぎ)、いづれか歌によまざりける。力をも入れずして、城菖(あやめくさ)を引拔き、目にあぶなき鬼薊(おにあざみ)をも哀れとおもはせ、男(を)松女(め)松の枝をも和(やはら)げ、高き椵(もみ)の木の梢をもなびかするは、歌也。此の歌、赤土(あかつち)のひらきはじめける時よりや、はへ出でけむ。しかありて、世にはびこる事、久かたの雨ふりには、下てるもみぢにはじまり、あら鍬の土をほりては、苣(ちさ)のをの實植(みうゑ)よりぞ、おこりにける。白茅(ちがや)なる神代には、餅(もち)つゝじのねばつきて、苔(こけ)の下道、分けがたかりけらし、人の世となりてぞ、鼠尾草(みそはぎ)のあたり、葱(ひともじ)はよみける。【下略】或は萬葉金葉詞花前栽(しくわのぜんさい)、皆、植物に名づく。又、歌人をいはゞ、橘諸枝(たちっばなのもろえ)、柿本人丸(かきのもとのひとまる)、山邊赤草(やまべのあかぐさ)、猿丸猿(さるまるのさる)すべり、藍(あゐ)の仲丸、在原水葱平(ありはらのなぎひら)、文屋康稗(ぶんやのやすひえ)、樹貫之(きのつらゆき)、棟柑子躬垣(あふちかうじのみつね)、實生忠岑(みばえのたゞみね)、坂上苔則(こけのり)、竹の深藪(ふかやぶ)、木友則(きのとものり)、源下刈(みなもとのしたかり)、清原元菅(もとすげ)、藤原荻風(をぎかぜ)、山椒右大臣(さんしやうのうだいじん)、大納言鷄頭(けいたう)、參義竹村(さんぎたけむら)、茅原(かやはらの)左大臣、平枯森(たひらのかれもり)、源の橡賴(とちより)、大江苣人(ちさと)、春道椿(はるみちのつばき)、參議葱(さんぎひともじ)、定家蔓(ていかかづら)、從(じゆ)二位(ゐ)刈穗(かりほ)、後京極石菖(ごきやうごくせきしやう)、僧には花山遍照(くわざんのへんせう)、草生法師(さうせいはふし)、木仙(きせん)法師、白蓮(びやくれん)、農人(のうにん)、女には小野小松(をのゝこまつ)、泉樒(いづみしきみ)、伊勢が櫻(さくら)、紫(むらさき)が藤(ふじ)、赤染蓬(あかぞめのよもぎ)、蘇枋内侍(すはうのないし)、芹少納言(せいりせうなごん)、大二の山歸來(さんきらい)、議同梔子母(ぎどうさんしのはゝ)、二條院茶木(ちやのき)、或ひは和歌を守りの住吉の神は姫松(ひめまつ)にまじはり、玉津島(たまつしま)の御社(みやしろ)は蘆邊(あしべ)の波にたゝせ給ひ、伊勢の濱荻、三輪の杉、立田(たつた)の紅葉(もみぢ)に、難波の梅、いづれか、植物にあらざる、此外、指を折るにいとまなし、と、わらひて止みぬ。しどけなきたはふれなれど、きゝし當座(たうざ)のをかしさにかき付けぬ。
■やぶちゃん注
冒頭の一文中の「御所に、折々參り侍り」の「參り」は底本では「來り」となっているが、「御所」なのにおかしい。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)は「参り」となっており、自然に読める。特異的に訂した。同じく後の「定家蔓(ていかかづら)」は底本では「定家(ていか)、蔓(まんまん)」となっているのであるが、これでは一向に洒落になってこない(とわたしは思う)。やはり、「西村本小説全集 上巻」によって特異的に訂した。今一つ、変えた箇所があるが、それは注で述べる。なお、今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」のそれを用いた。
・「大炊御門信宗(おほひのみかどのぶむね)公」大炊御門信宗(明徳二/元中八(一三九一)年~応仁二(一四六八)年?)は公卿。ウィキの「大炊御門信宗」によれば、応永二五(一四一八)年一月従三位となり、公卿に列し、応永二六(一四一九)年三月、陸奥権守を兼任。応永二八(一四二一)年、正三位権中納言、応永三二(一四二五)年、従二位権大納言に叙任される。永享元(一四二九)年、右近衛大将を兼ね、さらに左近衛大将に転じる。永享四(一四三二)年一月正二位に昇り、八月内大臣に任じられたが、十一月には左大将を辞任し、翌年十月には内大臣も辞任している。嘉吉二(一四四二)年一月には従一位に昇叙、享徳二(一四五三)年に『出家したが、その後の消息は明らかでない』。彼は『後土御門天皇の養外祖父であることから』、文明一二(一四八〇)年一月二十六日に『太政大臣を追贈された。『宣胤卿記』によれば、当日は信宗の十三年忌に当たるという』とある。宗祇より二十一年上である。
・「飯島造酒」「西村本小説全集 上巻」に「いひじまみき」とルビ。不詳。
・「草尾杢工丞」「西村本小説全集 上巻」に「くさをもくのぜう」とルビ。不詳。「杢工丞」(木工丞)は土木関連職由来の通称や名で、必ずしも珍しいものではない。
・「兒玉黨(こだまたう)」ウィキの「児玉党」によれば、『平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一つ。主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に入西・秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた』。武蔵一円の同族武士団の集団名数である武蔵七党(諸本で異なり、横山党・猪俣党(いのまた)・児玉党・村山党・野与(のいよ/のよ)党・丹(たん)党・西(にし)党・綴(つづき)党・私市(きさい)党の九党の内)の『一つとして数えられる児玉党は諸々の武士団の中では最大勢力の集団を形成していた。本宗家の家紋(紋章)は、軍配団扇紋であるが、随身・随兵して行くことで諸氏による派生紋・続葉紋が生まれた。その後、時代の流れと共に各地へ散らばってゆく。児玉党をはじめとする武蔵七党の各武士団・諸氏族は蒙古襲来(元寇)に備えるため鎌倉幕府の命により西方遠くは、安芸国・九州(最西は、小代氏の肥後国・野原荘)まで及びその防備につくため下向し土着してゆく』。『氏祖は、藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能が藤原伊周の失脚により武蔵国に下向し、その子息の有道惟行が神流川の中流部にあった阿久原牧を管理し、ここに住して児玉党の祖となった』有道(ありみち)氏である。『子孫の多くは神流川の扇状地に広がって、猪俣党と共に児玉の条里地域を分けていた。牧に発し、子孫が条里地域に広がっている』。『児玉党の本宗家は、初めは児玉氏(平安時代後期から末期)、次に庄氏(平安時代末期から鎌倉時代初期)、そのあとを本庄氏(鎌倉時代前期から室町時代)が継いだ。この』三『氏族の内、庄氏は戦国時代の備中国で華々しい活躍を見せる事となる。また、本庄氏は東国における戦国時代の遠因となった五十子の戦い、つまり、その最前線地に立つ事となった』。『児玉(遠峰)氏は児玉郡の阿久原牧を運営しながら河内庄(河内村)を本拠地としたが、庄氏の時代となると、北方へ移り、児玉庄』『(栗崎村)を本拠地とした。本庄氏は北堀村を拠点としながらも児玉庄を引き継いだと考えられる』。『古い本などでは、児玉党を「武蔵七党中、最大にして最強の武士団」と書いているが、集団の規模が大きかった為に滅びにくかったと言うだけの事であり、負け戦も少なくはない。但し、他の武蔵国の中小武士団と比べれば、長続きしたのも事実である。南北朝以降は弱体化し、党の本宗家たる本庄氏も小田原征伐で没落し、事実上解体している。弱体化の遠因は南朝廷側についた事と、本庄氏の拠点が武蔵国北部の国境付近、台地上であり、戦国時代ではその地理上、激戦区の一つと化してしまった事が挙げられる』とある。
・「當話戯語」当意即妙な戯(ざ)れ言を上手く詠み込むこと。
・「大友の眞がも」大伴家持の「やかもち」を鴨に代えたパロディ。以下、原則、パロディ元を示すにとどめる。中には同定を誤っているものもあると思う。識者の御教授を乞うものである。
・「藤原の煮方(にかた)」藤原鎌足の「かまたり」の「か」「た」をパロッたか。
・「江豚(いるかの)臣」廷臣蘇我入鹿。
・「石首魚山丸(いしもちのやままる)」石上麻呂か。「石首魚(いしもち)」は条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目ニベ科シログチ属シログチ Pennahia argentata、或いは同じニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii を指す。
・「肴上田村丸(さかなうへのたむらまる)」坂上田村麻呂。
・「相馬鱒門(さうまのますかど)」平将門。彼は母の県犬養春枝女(あがたのいぬかいのはるえのむすめ)の出身地相馬御厨(そうまのみくり)で育ったことから「相馬小次郎」とも称したと伝える。
・「米喰俵藤太(こめかみのたはらのとうだ)」藤原俵藤太秀郷。「俵」から「米」に洒落た。
・「多田饅頭(ただまんぢう)」多田源氏の祖源満仲。彼は実際に多田満仲(ただのまんじゅう)とも音で呼ばれる。
・「渡部源五鮒(ふな)」源頼光四天王の筆頭渡辺綱。
・「肴金時(さかなのきんとき)」頼光四天王の一人、坂田金時。
・「薄身貞光(うすみのさだみつ)」頼光四天王の一人、碓井(うすい)貞光。「薄身」は鯛や鮭の脇腹の薄い身の部分を指す。通人はここを美味とする。
・「浦部椎茸(うらべのひたけ)」頼光四天王の一人、卜部季武(うらべのすえたけ)。
・「八幡鱈尾(はちまんたらを)」源八幡太郎義家。
・「鱧次郎(はもじろう)」源義綱。義家の同腹の弟。京都の賀茂神社で元服したことから「賀茂次郎」と称した。
・「鱰三郎(しいらさぶらう)」源義綱のやはり同腹の弟源新羅三郎義光。通称は近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことに由来する。
・「珍膳(ちんぜん)八郎」源鎮西八郎為朝。
・「かまぼこの御曹司」鎌倉の御曹司で源頼朝か。しかし、彼を「鎌倉の御曹司」とは逆立ちしても呼ばないが。
・「武藏坊辨當(むさしばうべんたう)」武蔵坊弁慶。
・「源九郎はうはん汁」源九郎判官義経。「判官(ほうがん)」に「芳飯(ほうはん)」を掛けた。芳飯は室町から戦国にかけて流行した飯料理の一つ。ウィキの「芳飯」によれば、『飯の上に野菜や魚を刻んで乗せ、その上から味噌汁を注いで食べたもの』、或いは『具材をそれぞれの持ち味に合せた下味で煮て飯に乗せ、夏には冷した汁、冬には温めた汁をかけたとも』、『煮たり焼いたりした野菜や魚を飯に乗せて汁をかけたともいう』。『食べやすい上に見た目も綺麗なことから人気を博し、特に上流階級で流行した』。『室町期に僧たちが食べ始めた「法飯」が起源とされ』、『僧たちの間では精進料理として肉類を用いず』に『野菜のみを具として食べられていた』。『また、中国にはスープを飯にかける』「泡飯」という料理があり、『日本の室町期にあたる時代から食べられていたため、日本の芳飯は中国から伝来したものとも考えられている』。『後世のちらし寿司』や丼(どんぶり)物、『茶漬けの原型になったとも見られている』とある。
・「ひたち坊貝藻(かいさう)」常陸坊海尊。
・「鱸(すゞき)三郎」鈴木三郎重家。義経の忠臣で、衣川の戦いで義経と最期をともにした。
・「弟の鰈(かれひ)の六郎」鈴木重家の弟亀井重清(しげきよ)。同じく衣川で兄とともに自害した。
・「砂糖兄弟」義経郎党の兄佐藤継信(屋島の戦いで討ち死)と、浄瑠璃「狐忠信」で知られる弟佐藤忠信(都落ちする義経に同行するも、宇治の辺りで別行動をとり、京に隠れ潜んでいたが、潜伏先の中御門東洞院を知られて襲撃されて自害した)。
・「紫蘇冠者義仲(しそのくわんじやよしなか)」源木曾冠者義仲。
・「紫蘇四天王(しそがしてんなう)」木曽義仲四天王。
・「うま井」義仲四天王の一人、今井兼平。「美味い」に掛けた。
・「干鮻(ひぐち)」義仲四天王の一人、樋口兼光。先に出した「グチ」、条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目ニベ科シログチ属シログチ
Pennahia argentata の干物に掛けた。
・「蓼(たで)」義仲四天王の一人、楯親忠(たてちかただ)。
・「根芋(ねいも)」義仲四天王の一人。根井行親(ねのいゆきちか)。
・「煮〆(にしめ)」大江広元の五大孫の兵部丞公広なる人物に始まる西目氏がいるが、これか?
・「高梨子(たかなし)」高梨高信・高梨忠直など、木曾義仲傘下の高梨氏がいるが、建久元(一一九〇)年に頼朝上洛の際の御家人の中には「高梨次郎」の名が見えることから、鎌倉時代も御家人として存続していた(ウィキの「高梨氏」に拠る)。言わずもがな、「梨」の実に掛けたもの。
・「鯛等貞文(たいらのさだぶみ)」平中物語で知られる好色家として知られる歌人平貞文。
・「粘(あめ)の貞任(さだたう)」安倍貞任。
・「畠山(はたけやま)の精心(しやうじん)物重忠(しげたゞ)」畠山重忠。彼の別名「庄司次郎」を「精進」(物:料理)に掛けた。
・「鯣鮫(さはらの)十郎」佐原(さわら)十郎義連(よしつら)。三浦義明の子で三浦氏の本拠相模国衣笠城の東南の佐原(現在の神奈川県横須賀市佐原)に居まっていたことから佐原氏を称した。スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科サワラ族サワラ属サワラ Scomberomorus niphonius に掛けた。
・「腸義盛(わたのよしもり)」和田義盛。
・「佐々木餅綱(もちつな)」後に佐々木高綱を「同」として出しているところからは、後の「承久の乱」で官軍に属して梟首された高綱の兄佐々木広綱(佐々木定綱嫡男)か? しかし「廣(広)」と「餅」では繫がらぬ。不審。
・「同四郎蛸綱(たこつな)」宇治川の梶原景季との先陣争いで知られる佐々木四郎高綱。
・「※(えぶな)源八」(「※」=「魚」+「子」)海老名源八季貞のことであろう。頼朝の挙兵時には大庭景親に属して敵対したものの、後に許され幕府御家人となっている。根拠地は相模国の高座郡で現在の神奈川県海老名市に当たる。一見、「海老名」でそのままエビで使えばよいと思われるが、それでは洒落にならないのである。
・「岡鮭(おかさけ)四郎」義朝以来の源氏の忠臣岡崎義実。
・「粥板蠣(かゆのいたがき)」平安末期の清和源氏義光流の武将板垣兼信。甲斐源氏武田信義三男。板垣氏の始祖。言わずもがな、「甲斐」を「粥」に掛けた。
・「鹽漬(しほづけ)になすの與一」那須与一。「那須」を「茄子」に読み換え、その塩漬けとしたもの。
・「熊谷平(くまがやひら)山が一の谷のせんじちや」熊谷直実。言わずもがな、彼は寿永三(一一八四)年二月の「一ノ谷」の「戦陣」で、「先陣」を争った同僚の「平山」季重ともども討死しかけ、さらに少年武将「平」敦盛の首を泣く泣く斬っている。個人的には諧謔の度が過ぎる洒落で、ちょっと厭な感じがする。
・「梶原(かぢはら)が二度懸鯛(にどのかけだい)」梶原景時。ウィキの「梶原景時」によれば、一ノ谷の戦いで、当初、景時が源義経の侍大将、土肥実平が源範頼の侍大将になっていたが、これが孰れもそれぞれが全く気が合わず、所属を交替、範頼の大手軍に替わった景時は嫡男景季及び次男景高らと『生田口を守る平知盛と戦い、大いに奮戦して「梶原の二度駆け」と呼ばれる働きをした。合戦は源氏の大勝に終わ』ったとあり、この「二度駆け」を「二度懸鯛」(昔の正月飾り。二尾の鯛の尾を奉書紙で包み、双方の喉を藁繩で繋いだものを竈の上や門松などに掛けたもの)に掛けた。当然、祭祀が終われば、食されたものと思われるから(神人共食は古祭儀の基本)、おかしくない。
・「このしろに籠り」「此(こ)の城に籠り」に新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus に掛けた。
・「魚鱗(ぎよりん)、鶴翼(くわくよく)」本邦に於ける戦闘の陣形を示す語で対称的な陣形である。ウィキの「陣形」より引く。「魚鱗(ぎょりん)」は、『中心が前方に張り出し両翼が後退した陣形。「△」の形に兵を配する。底辺の中心に大将を配置して、そちらを後ろ側として敵に対する。戦端が狭く遊軍が多くなり、また後方からの奇襲を想定しないため駆動の多い大陸平野の会戦には適さないが、山岳や森林、河川などの地形要素が多い日本では戦国時代によく使われた。全兵力を完全に一枚の密集陣に編集するのではなく、数百人単位の横隊(密集陣)を単位として編集することで、個別の駆動性を維持したまま全体としての堅牢性を確保することから魚燐(うろこ)と呼ばれる』。『多くの兵が散らずに局部の戦闘に参加し、また一陣が壊滅しても次陣がすぐに繰り出せるため消耗戦に強い。一方で横隊を要素とした集合のため、両側面や後方から攻撃を受けると混乱が生じやすく弱い。また包囲されやすく、複数の敵に囲まれた状態のときには用いない。特に敵より少数兵力の場合正面突破に有効である。対陣のさいに前方からの防衛に強いだけでなく、部隊間での情報伝達が比較的容易なので駆動にも適する』。『実戦では、武田信玄が三方ヶ原の戦いに於いてこの陣形で徳川家康と戦闘し、これを討ち破っている。家康は後の関ヶ原の戦いで西軍の鶴翼に魚鱗をもって対峙した』。「鶴翼(かくよく)」とは、『両翼を前方に張り出し、「V」の形を取る陣形。魚鱗の陣と並んで非常によく使われた陣形である。中心に大将を配置し、敵が両翼の間に入ってくると同時にそれを閉じることで包囲・殲滅するのが目的。ただし、敵にとっては中心に守備が少なく大将を攻めやすいため、両翼の部隊が包囲するまで中軍が持ち堪えなくてはならないというリスクも孕んでいる。そこで中央部本陣を厚くし、Y字型に編成する型がある。完勝するか完敗するかの極端な結果になりやすいため、相手より兵数で劣っているときには通常用いられない。こちらの隙も多く、相手が小兵力でも複数の方向から攻めてくる恐れのある場合には不利になる。部隊間の情報伝達が比較的取りにくいため、予定外の状況への柔軟な対応には適さない』。『実戦では、徳川家康が三方ヶ原の戦いにおいてこの陣形で武田信玄と戦闘し、惨敗している。第四次川中島の戦いでは、武田信玄の本隊が別働隊が帰ってくるまでの間、車掛の陣形で襲い掛かる上杉謙信の軍勢を鶴翼の陣形で凌いだ』。
・「鯰尾(なまずを)」鎌倉時代中期の刀鍛冶で、正宗と並ぶ名工とされ、特に短刀作りの名手として知られた田口吉光(あわたぐちよしみつ)の作刀中、彼の特異とした焼き直しの代表格として、小薙刀を磨り上げて脇差に直した名物「鯰尾藤四郎(なまずおとうしろう)」があり、この名はその姿が鯰の尾を連想させるような、「ふくら」(刀の切先のカーブしている部分)がふっくらしている姿が鯰の尾に似ていることに由来するという。豊臣秀頼が好んで差したと伝えられる(以上は主にウィキの「粟田口吉光」に拠った)。
・「蕪(かぶら)」鏑(かぶら)矢。
・「大こんの兵(つはもの)」「大こん」は「大魂」か?
・「葡萄(ぶだう)の達者」武道の達者。
・「數ふるに詞(ことば)たへたり」「たへたり」は「たえたり」(絶えたり)ではあるまいか? 説明する言葉がなくなってしまうほどに多く例はある、と私は読むからである。
・「蒜(ひる)の事、菊の事」対句になっている意味がよく判らぬ。「蒜」は葱・大蒜(にんいく)・野蒜(のびる)など百合の仲間(単子葉植物綱ユリ目ユリ科 Liliaceae)の多年草の古名であるが、これらは食用となり、精もつく代わりに、臭いが強く、下賤の物として気品のある雅びな菊に対称させたものか。
・「鶯菜(うぐひすな)」双子葉植物綱フウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種コマツナ Brassica rapa var. perviridis 。
・「川柳(かはやなぎ)」双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ヤナギ目ヤナギ科ヤナギ属ネコヤナギ Salix gracilistyla 。
・「城菖(あやめくさ)」単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属アヤメ Iris sanguinea 。
・「鬼薊(おにあざみ)」双子葉植物綱キク目キク科アザミ属オニアザミ Cirsium borealinipponense 。
・「椵(もみ)」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科モミ属モミ Abies firma 。「西村本小説全集 上巻」は「樅」となっている。
・「赤土(あかつち)のひらきはじめける時よりや、はへ出でけむ」過去推量の助動詞を用いているところからは、原初、神代の時代の、噴火して積もり積もった赤土から最初の植物が萠え初めた頃のことを語っているものか。
・「あら鍬」荒鍬。農事の初めに最初の土の粗(あら)起こしに使う鍬。
・「苣(ちさ)のをの實植(みうゑ)」キク目キク科アキノノゲシ属チシャ(萵苣・苣) Lactuca sativa はレタスのこと。地中海沿岸・西アジア原産であるが、本邦では古くから栽培されてきた。「をの實」はレタスの実を「麻実/苧実」(をのみ(おのみ)、即ち「麻の実」(バラ目アサ科アサ属 Cannabis の種子)に譬えたものが? 但し、レタスの種子は滴形であるのに対し、麻の実は丸い粒子状で、かなり異なる。識者の御教授を乞う。
・「白茅(ちがや)なる神代」茅(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica )の生い茂っていた神代(かみよ)の昔。
・「餅(もち)つゝじ」ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属モチツツジ Rhododendron macrosepalum 。ウィキの「モチツツジ」によれば、『花の萼や柄、葉(両面)、若枝、子房、果実に腺毛が多く見られ、そこから分泌される液滴によって粘着性を持つ。野外ではここに多くの昆虫が粘着してとらえられているのが観察される。この腺毛は花にやってくる、花粉媒介に与る以外の昆虫を捕殺して、花を昆虫に食害されるのをふせぐために発達したものらしく、実験的に粘毛を剃ると、花は手ひどく食害される』。『また、ここに捕らえられた昆虫を餌とする昆虫も知られる』とあり、『花柄の粘りが鳥もちなどに似ているとして、名前の由来となっている。また、餅が由来として餅躑躅と書かれる場合もある』とある。
・「鼠尾草(みそはぎ)」フトモモ目ミソハギ科ミソハギ属ミソハギ Lythrum anceps 。
・「葱(ひともじ)」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ネギ Allium fistulosum 。
・「【下略】」は底本原本の割注をかく表現したもの。読者の飽きをしっかりと見据えた原著者の感覚が凄いと私は思う。
・「前栽(ぜんさい)」「千載和歌集」を庭の植え込みの意の「前栽(せんざい)」に掛けた。
・「橘諸枝(たちっばなのもろえ)」橘諸兄。
・「柿本人丸(かきのもとのひとまる)」柿本人麻呂。これは特異的にまんまで捻られていない。
・「山邊赤草(やまべのあかぐさ)」山部赤人。
・「猿丸猿(さるまるのさる)すべり」猿丸太夫。
・「藍(あゐ)の仲丸」阿倍仲麻呂。
・「在原水葱平(ありはらのなぎひら)」在原業平。「水葱」は「菜葱(なぎ)」「みずなぎ」は単子葉植物綱ツユクサ目ミズアオイ科ミズアオイ属ミズアオイ Monochoria korsakowii、或いは同じミズアオイ属のコナギ Monochoria vaginalis var. plantaginea を指す。
・「文屋康稗(ぶんやのやすひえ)」文屋康秀。
・「樹貫之(きのつらゆき)」紀貫之。
・「棟柑子躬垣(あふちかうじのみつね)」凡河内躬恒。ここは「楝」(おういち:ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach の別名)「柑子」(こうじ:バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属コウジ Citrus leiocarpa 或いは近縁の柑橘類の総称)の二種が掛けられてある。
・「實生忠岑(みばえのたゞみね)」壬生忠岑。
・「坂上苔則(こけのり)」坂上是則(これのり)。
・「竹の深藪(ふかやぶ)」清原深養父。
・「木友則(きのとものり)」紀友則。
・「源下刈(みなもとのしたかり)」源順(したごう)。
・「清原元菅(もとすげ)」清原元輔。
・「藤原荻風(をぎかぜ)」藤原興風。
・「山椒右大臣(さんしやうのうだいじん)」「小倉百人一首」の「三条右大臣」の名で知られる藤原定方。
・「大納言鷄頭(けいたう)」大納言公任で藤原公任のこと。
・「參義竹村(さんぎたけむら)」参議小野篁(たかむら)。
・「茅原(かやはらの)左大臣」河原左大臣源融(とおる)。
・「平枯森(たひらのかれもり)」平維盛(これもり)。
・「源の橡賴(とちより)」源俊頼。
・「大江苣人(ちさと)」大江千里。
・「春道椿(はるみちのつばき)」「小倉百人一首」に所収される平安前期の官人で歌人の春道列樹(はるみちのつらき)。
・「參議葱(さんぎひともじ)」「小倉百人一首」に「参議等」の名で所収される平安前期から中期にかけての公家で参議であった歌人源等(みなもとのひとし)。
・「定家蔓(ていかかづら)」藤原定家。リンドウ目キョウチクトウ科キョウチクトウ亜科 Apocyneae 連テイカカズラ属テイカカズラ Trachelospermum asiaticum 。ウィキの「テイカカズラ」によれば、『和名は、式子内親王を愛した藤原定家が、死後も彼女を忘れられず、ついに定家葛に生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説(能『定家』)に基づく』とある。
・「從(じゆ)二位(ゐ)刈穗(かりほ)」この「從二位」は実は底本では「從(じゆ)一位」となっているのであるが、どうもこれでは人物同定出来なかった。「西村本小説全集 上巻」を見ると、ここは「従二位(しうにゐ)」となっており、これで眼から鱗であった。これは「小倉百人一首」に「従二位家隆」の名で所収される鎌倉初期の公卿で歌人の藤原家隆のことで、この名「家隆」は有職(ゆうそく)読みでは「かりう(かりゅう)」とも呼ばれるのである。而して、特異的に本文を訂した。
・「後京極石菖(ごきやうごくせきしやう)」「小倉百人一首」に「後京極摂政前太政大臣」の名で所収される九条良経。
・「花山遍照(くわざんのへんせう)」僧正遍昭。「花山僧正」とも号した。これもまんま(僧名は「遍照」とも書く)で芸がない。
・「草生法師(さうせいはふし)」素性(そせい)法師。
・「木仙(きせん)法師」喜撰法師。
・「白蓮(びやくれん)」寂蓮法師。
・「農人(のうにん)」能因法師。
・「小野小松(をのゝこまつ)」小野小町。
・「泉樒(いづみしきみ)」和泉式部。
・「伊勢が櫻(さくら)」三十六歌仙の伊勢。それに地名の「伊勢」を掛けて、さらに伊勢神宮神領の境界を成す神域に入るための禊(みそぎ)をする神聖な川とされる宮川の、京や東国方面からの入口となる「桜の渡し」(下の渡し)を掛けたものであろう。
・「紫(むらさき)が藤(ふじ)」紫式部と「源氏物語」の「紫」の所縁(ゆかり)の「藤」、源氏の母「藤」壺や、「若紫」(紫の上)なども連想するように仕掛けてもある。
・「赤染蓬(あかぞめのよもぎ)」赤染衛門。キク目キク科キク亜科ヨモギ属 Artemisia indica 変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii は染料(黄色みのある草色)とする。
・「蘇枋内侍(すはうのないし)」周防内侍。「蘇枋」はマメ目マメ科ジャケツイバラ亜科ジャケイツイバラ連 Caesalpinieae ジャケツイバラ属スオウ Caesalpinia sappan 。
・「芹少納言(せりせうなごん)」清少納言。
・「大二の山歸來(さんきらい)」「小倉百人一首」に「大弐三位(だいにのさんみ)」の名で所収される藤原賢子(かたいこ/けんし)。藤原宣孝の娘で母は紫式部。「山歸來」は単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属ドブクリョウ Smilax glabra、或いはシオデ属サルトリイバラSmilax chinaを指す。
・「議同梔子母(ぎどうさんしのはゝ)」「小倉百人一首」に「儀同三司母(ぎどうさんしのはは)」として所収される高階貴子(たかしなのきし/たかこ)。「儀同三司」は息子藤原伊周の官職であった「准大臣」の唐名。「梔子」はリンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシGardenia jasminoides のこと。
・「二條院茶木(ちやのき)」二条院讃岐。
・「和歌を守りの住吉の神は姫松(ひめまつ)にまじはり」現在の大阪府大阪市住吉区住吉にある住吉大社周辺は白砂青松の風光明媚なことから、万葉の時代から歌枕として知られ、平安時代以降は歌道を志しす者が必ず参拝する和歌の神として崇敬されているが、中でも「古今和歌集」の「卷第十七 雜歌上」のよみ人知らずの歌(九〇五番歌)、
我見ても久しくなりぬ住吉の
岸の姫松いく代へぬらむ
があり、この歌は現在でも神楽の曲として歌われていると住吉大社の公式サイト内の解説にもあるから、この「まじはり」とは、そうした神が姫松に感応交合し、豊饒とミューズの霊感を産み出すとでもいうのであろうか。
・「玉津島(たまつしま)の御社(みやしろ)」和歌山県和歌山市和歌浦にある玉津島神社(「玉津嶋神社」とも書く)も古来より和歌の神様を祀る神社として尊崇されてきている。