進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第五章 野生の動植物の變異(2) 一 昆蟲類の變異
一 昆蟲類の變異
[變異と適應]
[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。学術文庫版ではこの図は省略されてしまっている。以下、キャプションを電子化する。
【右図外】
地方的變種の例
1「こひをどしてふ」中部ヨーロツパ産
2同南部ヨーロツパ産
3同北部ヨーロツパ産
【左図外】
季節的變種の例
4「あかまだら」夏形
5同冬形
變異の例
6789「はなばち」の一種、
雌雄二形、
10蝶の一種雌
11同雄
【図下部外】
水中生活に適する動物の例 12 13「かげろふ」の幼蟲と成蟲 14「まつもむし」
水中生活に適する植物の例 15 16「ひし」とその實 17「うめばちも」の一種
以下の注で本図の生物の同定を試みるが、図自体がモノクロ(色彩変異が判別出来ない)な上に外国のものらしく、種までの正確な同定は困難である。
「こひをどしてふ」本邦産の、
昆虫綱双丘亜綱有翅下綱長節上目鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科タテハチョウ亜科タテハチョウ族タテハチョウ族 Aglais 属コヒオドシ(小緋縅)Aglais
urticae
のヨーロッパ産の別種、或いは同族か同属の仲間、或いは近縁種、或いは丘先生が執筆された当時は近縁種とされた別種と思われる。但し、図の三つともに前翅前縁にある紋様はコヒオドシ Aglais urticae のそれとよく一致する。なお、本種コヒオドシ Aglais urticae には「姫緋縅(ヒメヒオドシ)」の別名もある(ある学術データでは、これをアカタテハ属コヒオドシとし、学名を Vanessa urticae f. connexa とするのであるが、“f.”(品種)というのは解せないので採らない)。ウィキの「コヒオドシ」及びグーグル画像検索「Aglais urticae」をリンクさせておく。
「あかまだら」タテハチョウ科サカハチチョウ属アカマダラ Araschnia levana 。ウィキの「アカマダラ」によれば、分布は日本『国内では北海道のみで、渓畔に多いサカハチと違い平地・低山地にも広く生息する』。『国外では中央~東ヨーロッパの低地に広く分布し、その分布範囲を西ヨーロッパにも広げつつある』とし、本種は『春型と夏型で全く外見が異な』り、『夏に生まれたものは黒地に白の模様でイチモンジチョウ』(タテハチョウ科イチモンジチョウ亜科イチモンジチョウ族オオイチモンジ属イチモンジチョウ Limenitis camilla 。同種も固有のかなり異なった個体色彩変異(季節変異は不明瞭とどの記載にもあるからこれは地域変異か)を持つ。ウィキの「イチモンジチョウ」の画像を参照されたい)『を小型にしたような姿であり、春型にあるようなオレンジ色が見られない。これは幼虫時代の日照時間の長さが影響する(日を短くして飼育すると春型になる)』とある。ウィキの「アカマダラ」の画像で、その別種としか思えない季節二形が、よく判る。必見。
「はなばち」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科 Apoidea に属する蜂類の内、幼虫の餌として花粉や蜜を蓄える種群の総称。私にはこの図ではこれ以上の同定は不能である。
「かげろふ」有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea上目蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeroptera の仲間。幼虫は総て水生。現在、二十三科三百十属二千二百から二千五百種が確認されており、この図からさらに限定することは私には出来ない。
「まつもむし」狭義には有翅下綱節顎上目カメムシ目カメムシ亜目タイコウチ下目マツモムシ上科マツモムシ科マツモムシ亜科マツモムシ属マツモムシ Notonecta triguttata を指すが、本邦だけでも三属(マツモムシ属・Anisops属・Enithares属)九種が棲息するから、本図のそれはマツモムシ属
Notonecta、或いはマツモムシ亜科 Notonectidae のレベルで留めておくのが無難であろう。
「ひし」フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica 或いは近縁種(本邦でもヒメビシ Trapa incisa・変種オニビシ Trapa natans var. japonica が植生する)。
学名
「うめばちも」「梅鉢藻」或いは「梅花藻」と表記する「ウメバチモ」は、日本固有種であるキンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ属バイカモ亜属イチョウバイカモ変種バイカモ Ranunculus nipponicus var. submersus の別名であるから、この図のそれはバイカモ亜属
Batrachium のバイカモ類の一種としておくのがよい。
「雌雄二形」典型的な性的二形の例を示したものであろうが、もっと極端に異なった全く違う生物に見えるもの種(昆虫類でも数多くある)を示した方がよかったとは思う。一枚図版で処理しようとしたために、却って性的二形の実体の驚愕が伝わってこないのは遺憾である。]
凡そ如何なる動植物の種類でも、標本を數多く集めて之を比較して見ると、一として總べての點で全く相同じきもののないことは、今日の研究で十分に解つて居るが、その互に相異なる點の性質によつては、特別の機械を以て精密に測らなければ解らぬやうなこともある。身長の差違、體重の差違等でも、天秤や物指しを用ゐなければ、明には知れぬが、況して體面の屈曲の度とか凸凹の深淺の割合とかの相違を調べるには、特にそのために造られた複雜な器械を用ゐなければならぬ。たゞ彩色・模樣等の相違は眼で見ただけでも一通りは解るから、野生動植物の變異性のことを述べるに當つては先づ模樣の變化の著しい例を第一に擧げてみよう。それには我が國何處にも普通に産する小形の黄蝶などが最も適切である。[やぶちゃん字注:最後の一文中の「どこにも」は底本では「どにこも」となっている。錯字と断じて特異的に訂した。]
注ぎに掲げたのは黃蝶の圖であるが、翅は一面に美しい黃色で、たゞ前翅の尖端の處だけが黑色である。幼蟲は荳科の雜草の葉を食ふもの故、この蝶は到る處に澤山居るが、春から夏へ掛けて多數を採集し、之を竝べて見ると、翅の黑い處の多い少いに著しい變化があり、或る標本ではこの圖の(左上)のものの如く前翅の端が大部分黑く、後翅の緣も黑い程であるが、また他の標本ではこの圖の(右下)[やぶちゃん字注:これは「右上」或いは「右上と右下」とするべきである。]のものの如く翅は前後ともに全く黃色ばかりで、黑い處が殆どない。それ故、初めはこの蝶には幾種もあると思ひ、實際黑色の部の多少によつて之を數種に區別し、各種に一々學名を附けてあつたが、岐阜の名和氏、橫濱に居たプライヤー氏などの飼養實驗によつて、悉く一種内の變化に過ぎぬことが判然したので、今では之に種々の變化を現す黃蝶といふ意味の學名が附けてある。
[やぶちゃん注:「荳科」「マメか」。普通のマメ目マメ科 Fabaceae のこと。
「名和氏」ギフチョウ(アゲハチョウ科ウスバアゲハ亜科ギフチョウ族ギフチョウ属ギフチョウ Luehdorfia japonica)の再発見者(命名者)として知られる昆虫学者名和靖(安政四(一八五七)年~大正一五(一九二六)年)。美濃国本巣郡船木村字十五条(現在の岐阜県瑞穂市重里)生まれ。
「プライヤー氏」イギリスの動物学者ヘンリー・プライアー(Henry James Stovin Pryer 一八五〇年~明治二一(一八八八)年)。明治四(一八七一)年に中国を経て来日、横浜の保険会社に勤務する傍ら、同地で急逝するまで、昆虫類(特に脈翅目類(蝶・蛾))や鳥類を採集・研究した。単なるコレクターではなく、蝶を飼育して気候による変異型を明らかにした研究は高く評価されている。主著は日本産蝶類の初の図鑑「日本蝶類図譜」(一八八六年~一八八九年。本書の英文には和訳が添えられており、採集地に敬意を表した彼のナチュラリストとしての見識が窺える)、ブラキストン線で知られる、北海道に滞在したこともあるイギリスの貿易商で博物学者トーマス・ライト・ブレーキストン(Thomas Wright Blakiston 一八三二年~一八九一年)との共著「日本鳥類目録」(一八七八年~一八八二年)がある。
「今では之に種々の變化を現す黃蝶といふ意味の學名が附けてある」以下に注するように、現行のキチョウの学名は“Eurema hecabe”であるが、これはリンネの命名によるものであるから、このような意味がこの種小名にあるはずはない(これはギリシア神話に登場するイリオスの王プリアモスの妻女王ヘカベー(ラテン語:Hecuba)の名由来であると思うが、この女王にはそのような伝承はない。或いは、彼女が十九人もの子を産んだことに由来するか? ウィキの「ヘカベー」を参照されたい)。不審。或いは、以前に別な種小名(シノニム)があったものか? 識者の御教授を乞う。因みに属名はギリシャ語の「発見・発明」の意の“heurema”の語頭の“h”を省略したもの)。]
[黃蝶の變化
(翅端の黑き部分の有無多少を示す)]
[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。本種は普通に見られる、
鱗翅目Glossata亜目Heteroneura下目アゲハチョウ上科シロチョウ科モンキチョウ亜科キチョウ属キチョウ Eurema hecabe
であるが、ウィキの「キチョウ」によれば、『従来「キチョウ」とされていた種は、キチョウ(ミナミキチョウ、南西諸島に分布)とキタキチョウ(Eurema
mandarina、本州~南西諸島に分布)の』二種に『分けられることになったが、外見による識別は困難』とする。前翅長は二〇~二七ミリメートルで、『近縁のモンキチョウ』(モンキチョウ属モンキチョウ Colias erate)『よりもやや小さい。翅は黃色で、雄の方が濃い色をしている。前翅、後翅とも外縁は黑色に縁どられ、裏面に褐色の斑点がある。夏型と秋型があり、前者は外縁の黑帯の幅が広いが、後者は黑色の縁が先端に少し残るか、もしくはない。成虫は年に』五、六回『発生し、越冬も行う。早春には活発に飛び回る姿が見られる』とある。]
黃蝶のみに限らず、蝶類は一體に甚だ變異の多い動物で、目本に普通な「べにしゞみ」といふ奇麗な小蝶も、採集の時と場所とに隨つて、紅色の著しいものもあり、また黑色の勝つたものもある。また揚羽蝶(あげはてふ)の中には産地によつて後翅から後へ出て居る尾のやうなものが有つたり無かつたりする種類もある。他の昆蟲類とても隨分變異が著しい。或る甲蟲類では翅が有つたり無かつたりする程の甚だしい變異を一種内に見ることがある。また昆蟲類の變異は成蟲に限る譯ではなく、隨分幼蟲や蛹などにも盛な變異があり、或る學者の調によると、一種の蛾の幼蟲に十六通りも變異があつた場合がある。今日昆蟲學者と稱して昆蟲を採集する人は世界中に何萬人あるか知らぬが、多くはたゞ新種らしきものを發見し記載することばかりに力を盡し、この面白い變異性の現象を學術的に研究する人は、西洋でも比較的甚だ少い。
[やぶちゃん注:「べにしゞみ」アゲハチョウ上科シジミチョウ科ベニシジミ亜科ベニシジミ属ベニシジミ Lycaena phlaeas 。ウィキの「ベニシジミ」によれば、『春に日当たりの良い草原でよく見られる小さな赤褐色のチョウである。成虫の前翅長は』一・五センチメートルほどで、『前翅の表は黒褐色の縁取りがあり、赤橙色の地に黒い斑点がある。後翅の表は黒褐色だが、翅の縁に赤橙色の帯模様がある。翅の裏は表の黒褐色部分が灰色に置き換わっている。時に白化する場合もある』。『成虫は年に』三~五回ほど、『春から秋にかけて発生するが、特に春から初夏』、四月から六月にかけて『多く見られる。春に発生する成虫(春型)は赤橙色の部分が鮮やかだが、夏に発生する成虫(夏型)は黒褐色部分が太く、黒い斑点も大粒になる』とある。
「揚羽蝶(あげはてふ)」アゲハチョウ上科アゲハチョウ科 Papilionidae に属するアゲハチョウ類。世界で五百五十種ほどが知られる。
「或る甲蟲類では翅が有つたり無かつたりする程の甚だしい變異を一種内に見ることがある」甲虫類(鞘翅(コウチュウ)目 Coleoptera)に限定され、しかも「翅が」退化したのではなく、「無」いとなると、昆虫の苦手な私には直ぐには浮かばない(性的二形で♀の翅が退化していて飛べない種なら、例えば鞘翅目多食(カブトムシ)亜目ホタル上科ホタル科ホタル属ヒメボタル Luciola parvula がいる)。識者の御教授を乞う。
「調」「しらべ」。]