行脚怪談袋 嵐雪上州館橋に至る事 付 僧狐に化さるゝ事
五の卷
嵐雪上州館橋に至る事
付僧狐に化さるゝ事
此の嵐雪も天和(てんな)年中の誹人なり。生國は上州山田郡依田村のむまれ、父は當むらの百姓にて、河邊喜内(かはべきない)と號す。嵐雪稚名を喜太郎と云ひしが、幼少より才知人に勝れ、衆人のほめものに成り、十四歳の時江戸へ出(い)で、鎌倉河岸(がし)に緣家の者在りしに便りて、能き家職(かしよく)も仕覺えて、江戸に於て一身代を取立てさせんとの父が了簡なり。緣家の者共是(これ)によりて、喜太郎を近所の紺屋へ奉公に遣はし、十四歳より十七歳迄、彼(か)の方に於て其(その)職を覺えさせるに、元來器用なる者故、委敷くその職の道を仕覺え、今は家職の片腕にも成るべき所に、彼の喜太郎右の紺屋の隣家に、嵐丁と云へる俳人あり。能く俳道に達して、門人も數多(あまた)ありけるが、喜太郎も隣家故、隙あれば嵐丁方へ至りしが、後は俳道の附合も覺え。甚だ面白き事に思ひ、其の後は只管(ひたすら)に彼れが方へとのみ行きて、家職の事うとくなりしが、終には是迄覺えたる紺屋の職を捨て、嵐町が門人となる。父母も事を傳へ聞き、こゝろならず思ひしかども、至つて深き志しの由を聞きて、是も一つの藝なるべしと、その儘指置きけるが、はたして喜太郎四五年の内に、あつぱれの俳人となり。評とくを嵐雪と號し、師の嵐丁(らんちやう)は程なくして身まかりしが、嵐雲其の跡をつぎ、宗匠となりしが、又も自分の及ばざるを思ひ、芭蕉翁の門人となり、是よりいよいよ其の道にかしこく、俳力嵐丁に彌(いや)まして、世にその名を顯はしけり。嵐雪ある時古郷をしたひ。今は父母も古人となりしと云へ共、親類の者あれば、上州に至り彼の方(かた)を便り、父母の石碑をも拜せんと。江戸下町を出でゝ、板橋を通り上州へ越え、同國衣までの里、玉川の上館(うへたて)はしにいたる、此の館橋(たてはし)と云へるは、古人北條氏政關東を領せし時分、始めて此の橋を掛けられしより、今に破損等あれば、その領主より修複ある事也。橋の長さ一町にして、らんかんきぼうしありて、いとはなばな敷(し)き橋也。然る所此の橋詰(はしづめ)に旅僧(たびそう)と見えて、高らかに經を讀みていたり。嵐雪が此の所に來る頃は、いまだ早朝にして、日も漸う東海に上るころなれば、霧頻(しき)りに深くして、通る人もあらず。されども僧は一心に經を讀誦(どくじゆ)なし居ける。嵐雪是を見て、此の僧は定めて大願の事にても有るべしと、世捨人の身とて、殊勝さよと取りあへず。
ぎぼうしの傍に經よむいとゞ哉 嵐雪
と吟じ、程なく僧の傍に至り見るに、こはいかに彼の僧頭(かしら)と五體(ごたい)を草の蔓(つる)にてくるくるとまかれ、手も後手(うしろで)になして居(ゐ)ける、自分(じぶん)草のつるをとき捨てんとも思はず、只(ただ)目をねむり一心に阿彌陀經を讀誦す。嵐雪其の僧のをかしげなるを、心得ぬ事におもひ、則ち僧に問うて申す樣、貴僧は見れば旅人(りよじん)なるらんが、いまだ人通りさへなき早朝といひ、殊に草蔦(くさつた)の類をもつて身をからめられ、一心に經を讀誦する體、心得ぬ事かなと、高らかに問ふに、僧はなほ一言の返事もせず居たりける故、嵐雪は彌々(いよいよ)不審(ふしん)し、手をとつて僧をゆすぶる。僧是によつて目をひらきて、嵐雲をしかじかと見、その後自分の身に蔦かづらの卷きたるを見、大きに驚く體(てい)なり。嵐雪更に心得ず僧にそのゆゑを問ふ。僧嵐雪に尋ねけるは、その元は何れの人ぞ、旅人(りよじん)なりとことふ。僧又夜あけしやと問ふ、嵐雪しかりと云ふ。其の時僧不思議の思ひをなす氣(げ)にて語りけるは、某は諧國修行の六部なるが、是より下野(しもつけ)の方(かた)へ至らんが爲めに、昨日此の先の野邊(のべ)を、こなたへ急ぎ申す所、日もかたむき空くらくなりしゆゑ、袋(ふくろ)よりだんごを取出し、食せんと存じ候所、傍より大きなる狐飛來り、右の袋をくはへて逃げ行かんと致せしを、我れ追ひかけ、杖を以て彼の狐をしたゝかに打ちのめし、終に袋を取かへし候ひて、其の後團子も食し終り、道二三町も野邊を行く所に、既に日も暮れに及びし故、里へ出でむもはるばるなれば、野宿せんと腕を枕にして、兎(と)ある木陰に休み居(ゐ)しが、先の方より大勢の供廻りを召され、いかにも大名の御入部(ごにふぶ)の如く、行列正しくふり來られ候が、御供の面々我等が休み居(ゐ)しを見て、此の僧は膽(きも)のふときやつ哉、起直りもせず、寢て居る事の無禮さよ、いはゞ慮外者なりと、大勢の面々われを取りまくにより、われらは、道の傍なれば御邪魔にも成るまじと、伏せり居候由を申すと云へ共曾て聞入れられず、大勢をり重なり、我れを高手小手にいましめ、殿の御前(ごぜん)へ引出せり。殿は乘物の戸をひらかせ、甚だいかり給へる顏色(がんしよく)にて、諧國修行の身として、おそるべきを恐れず、禮儀をも知らざるの段、大膽至極(だいたんしごく)なり。此のもの其の分にすべからず、我が前にて首をはね申すべしとの仰せなりしかば、傍の面々敷皮(しきかは)をもち來り、それへ某を乘せ、御駕脇(おかごわき)の人、氷のごとくなる刀(かたな)をぬいで、我れらが後ヘ立ちたり、我等かなしく、ひたすらに詑言(わびごと)なすといへども、たれ聞入(きゝい)れらるゝ者もなければ、今は某もおもひ切り、とても叶はぬ處也と、兩手を合せ目を塞(ふさ)ぎ、一心に阿彌陀經を繰返し、讀誦なせしに、殿は右の太刀取りを呼ばられ、何やらん告げ給ふ樣(やう)にて、手間取り候ひしが、其の後かの太刀取(たちとり)立歸り、我等をばゆすりうごかされ候ゆゑ、據(よんどころ)なく目をひらき見しに、太刀とりにはあらずして其許なり。野邊にはなく此の橋のうへなり、殿を初め大勢の供まはりと見えしは消えうせ、からめられし繩と覺えしは、ケ樣の蔦かづらのたぐひ也。是を思ひ合(あは)するに、昨夕方打ちたゝきし狐のそのはらいせをせんと、かりに大家の供廻りの體(てい)にもてなし、我らをばかし候なりと、おぞけふるひ、扨々(さてさて)ひやひなる目にあひしものかなと語りければ、嵐雪も奇異の思ひをなして行過ぎにけりとぞ。
■やぶちゃんの呟き
・「嵐雪」蕉門十哲中の最古参の一人であった服部嵐雪(はっとりらんせつ 承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年:芭蕉より十歳年下)。但し、晩年には芭蕉とは不協和音が多くなって接触が少なかった。なお、本文はまたしても事実と相違することが散見する。ウィキの「服部嵐雪」により引くので比較されたい(一部の記号を変更した)。『幼名は久馬之助または久米之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、寒蓼庵、玄峯堂、黄落庵など。淡路国三原郡小榎並村』(こえなみむら:現在の兵庫県南あわじ市榎列小榎列(えなみこえなみ))出身。『松尾芭蕉の高弟。雪門の祖』。『服部家は淡路出身の武家で、父服部喜太夫高治も常陸麻生藩主・新庄直時などに仕えた下級武士で、長男である嵐雪も一時、常陸笠間藩主の井上正利に仕えたことがある。若い頃は相当な不良青年で悪所(遊里や芝居町)通いは日常茶飯事であった』。延宝元(一六七三)年に『松尾芭蕉に入門、蕉門で最古参の一人とな』った。延宝六(一六七八)年の『不卜編「俳諧江戸広小路」に付句が二句入集したのが作品の初見』。延宝八(一六八〇)年には『同門宝井其角の「田舎之句合」に序を草し、「桃青門弟独吟廿歌仙」に入集、以後「虚栗(みなしぐり)」、「続虚栗」などに作品を採用され』ている。元禄元(一六八八)年には「若水」を刊行し、同年』に『立机して宗匠となり』、同三(一六九〇)年には『「其帒(そのふくろ)」を刊行して俳名を高めた』。しかしやがて自分勝手な俳諧点業を興行したり、芭蕉の「かるみ」の撰集「別座敷」(元禄七(一六九四)年刊)を批判したりしたため、芭蕉の怒りを買った(以上の一文のみはウィキではなく、一九八九年岩波文庫刊堀切実編注「蕉門名句選(上)」の解説を参考にした)。
『作風は柔和な温雅さを特徴とする。芭蕉は嵐雪の才能を高く評価し』、元禄五(一六九二)年三月三日の桃の節句には『「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称えたが、芭蕉の奥州行脚にも嵐雪は送別吟を贈っていないなど、師弟関係に軋みが発生していた』。それでも元禄七(一六九四)年十月二十二日に『江戸で芭蕉の訃報を聞く』や、『その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開き、桃隣と一緒に芭蕉が葬られた膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下にかくねむるらん雪仏」であった。其角と実力は拮抗し、芭蕉をして「両の手に桃と桜や草の餅」と詠んだ程であったが、芭蕉没後は江戸俳壇を其角と二分する趣があった』。『その門流は、雪門として特に中興期以後一派を形成した』。嵐雪自身の辞世の句は、
一葉散る咄(とつ)ひとはちる風の上
である。「咄」は禅語で「喝」に同じい。
・「上州館橋」上州館林。現在の群馬県南東部にある館林市(たてばやしし)市内としか思われないが、「館林」を「館橋」と旧称したことを確認出来ないので不審。
・「天和(てんな)年中の誹人なり」「誹人」はママ。問題ない。問題なのは致命的に芭蕉と同様に天和(一六六一年から一六八四年)中の俳人とするトンデモ部分である。
・「生國は上州山田郡依田村」上野国山田郡は現在の群馬県東部に存在した郡であるが、「依田村」というのは確認出来ない。「依」の字を含む村名はなく、あるのは富田村・下新田村である。そもそもが誤りで前注通り、嵐雪の生国は淡路国三原郡小榎並村で全くの方向違いである。ところが、天保六(一八三五)年記とする「芭蕉記」(こちらで画像と活字化したものが読める)には、
*
嵐雪
右生國ハ上州山田郡依田村父ハ百姓にて河部喜門といふ
嵐雪稚名喜太郎といふ先生嵐丁(ランテイ)門人後ニばせを門弟ニ成
*
とあり、こうした虚説が一部に明確にあったことが判る。
・「父は當むらの百姓にて、河邊喜内(かはべきない)と號す」誤り。前注通り、現行の定説では父は武士で服部喜太夫高治と称した(「喜」の字のみ一致)。前注引用の「芭蕉記」とは一致する。
・「稚名を喜太郎」前注に従えば幼名は「久馬之助」「久米之助」であるが、嵐雪は長男であるから、幼名としては父の「喜」の字を受けてこの名であってもおかしくはないとは言え、前注引用の「芭蕉記」とも一致する。
・「十四歳の時江戸へ出(い)で……」以下の記載は何に拠ったものか不詳。虚説と断じて無視した方が無難である。
・「嵐丁」前注引用の「芭蕉記」には確かにそう出る。しかし事蹟不詳。
・「嵐町」ママ。名は書き換え字をしばしば用いるので、安易に誤植と断ずることは出来なぬ。
・「衣までの里」不詳。識者の御教授を乞う。
・「玉川の上館(うへたて)はし」不詳。識者の御教授を乞う。
・「此の館橋(たてはし)と云へるは、古人北條氏政關東を領せし時分」天正一二(一五八四)年に北条氏政(天文七(一五三八)年~天正一八(一五九〇)年)の子氏直が館林城の長尾氏を攻め、翌年に落城、館林城は北条氏規に与えられ、館林領は北条氏の直轄領となっている。
・「此の橋」本篇のロケーションであるが、不詳。識者の御教授を乞う。
・「一町」約百九メートル。
・「きぼうし」擬宝珠。
・「ぎぼうしの傍に經よむいとゞ哉」またしても嵐雪の句ではない。「續猿蓑」の「卷之下」の「龝之部」の「虫 附鳥」のパートの冒頭に出る、向井去来の才媛の妻で、去来没後に剃髪して「貞松」と称した可南(かな)の、
きぼうしの傍(そば)に經よむいとゞかな 女可南
という句であるが、この句の「ぎぼうし」は橋の欄干の擬宝珠ではなく、単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ギボウシ属 Hosta を指すと解釈されている(因みに本属の和名は「擬宝珠(ぎぼうしゅ)」の転訛であるが、これはこの植物の莟又は包葉に包まれた若い花序が、柱飾りの擬宝珠に似ることに由来する)。
・「自分(じぶん)草のつるをとき捨てんとも思はず」「自分」はかく底本ではルビを振るが、私は「おのづと」と訓じたいところである。
・「その元」「そこもと」と同じい。武士が用いた二人称。そなた。
・「ことふ」答ふ。
・「六部」「ろくぶ」。「六十六部」の略で、法華経を六十六部書写し、全国六十六ヶ国の国々の霊場に一部ずつ奉納して廻った僧。鎌倉時代から流行した。江戸期には単に諸国の寺社に参詣する巡礼又は遊行聖(ゆぎょうひじり)を広く指した。白衣に手甲・脚絆・草鞋(わらじ)掛けで、背に阿弥陀像を納めた長方形の龕(がん)を背負い、六部笠(藺(い)で作られたもので中央と笠の周囲の縁(へり)を紺木綿で包んだもの)を被った姿で諸国を廻った。但し、江戸期にはそうした巡礼姿で米銭を請い歩いた乞食も多くいた。
・「二三町」二百十九~三百二十七メートル。
・「御入部(ごにふぶ)」領主が、その領地・任地に初めて入ること。入府。
・「其許」「そこもと」。前掲。
・「ひやひなる目」形容動詞の口語形で「非愛」の転訛した「ひやい」であろう。危ない・危険だの意。
にしても、嵐雪も感心するほどに「一心に阿彌陀經を繰返し、讀誦な」したにも拘わらず、狐の妖術が破られ、開明することがなかったのはちょっと不審である。私は気に入らない。