蓼科秋色 梅崎春生
八月二十七日
蓼科(たてしな)高原に来て、もう月余になる。来た当初はニッコウキスゲの花盛りだったが、立秋の頃からだんだん秋の草にかわり、今は吾亦紅(われもこう)、松虫草、ゲンノショウコなどが色とりどりに咲いている。毎年ここに来て、帰る頃になると私はたいへん植物通になって、これは何の木、あれは何の花と、全山ほとんどの花卉(かき)を弁別出来るようになるが、帰京して冬を越し、次の年の夏にやって来ると、もうすっかり忘れてしまっていて、
「あれ、何という名の花だったっけ」
「あれはニッコウキスゲよ」
というような具合で、また初歩から覚え直さねばならぬことになる。身を入れて覚え込まないせいだろう。
虫の名もそうだ。私の山小屋の庭には各種の虫がいて、これはマイマイカブリ、これはゴマダラカミキリと、現在はすらすらと名前を呼べるが、来年になるとすっかり忘れ果て、子供を呼んで、
「これ、何という虫か知ってるか?」
と忘れたという顔では訊ねない、ためしに訊ねているんだ、という顔で訊ねることになるだろう。子供はおやじと違って、記憶力が確かだから、
「これはアカハナカミキリ」
「それはマツノキクイムシ」
と即座に答える。そうか、よく覚えていたな、と私は子供の頭を撫でてやりながら、ついでに自分もしっかり覚え込む。毎年その繰返しである。
夏休みもあと数日しか残っていないから、小学三年生の息子が、宿題の自由研究をまだやってない、どうしたらよかろう、と騒いでいるから、アリジゴクの研究でもやれと命じたら、手伝って呉れという。
私の山小屋の軒下にアリジゴクがたくさん巣をつくっている。いつか何かの雑誌で、軽井沢に蟻がいるかいないかが問題になっていたことがあったが、わが蓼科には蟻はたくさんいる。蟻がいるからアリジゴクがいるのであって、また逆に言えば、アリジゴクがいるから蟻がいるということにもなる。
アリジゴクの巣と書いたが、これはじょうご型の砂のくぼみで、蟻がそこに落ち込むと、這い上れない。もう少しで這い上れそうになると、くぼみの一番底からアリジゴクが鋏を出して、ばさっばさっと砂の具合を調節するからたちまち蟻はずり落ちて、力尽きて鋏にはさまれ、アリジゴクの餌食となってしまう。なんとも憎たらしい虫で、その状況を眺めていると、蟻をそこに投げこんだのが自分であるにもかかわらず、義憤がむらむらと起って来るからふしぎなものだ。
その鋏で砂を調節しているところを、移植ごてでごそっとすくい上げ、五匹のアリジゴクを捕獲した。ブリキの菓子箱いっぱいに砂を張り、その中に入れる。すると彼等は砂にもぐつて、巣をつくり始める。
アリジゴクの世界にも働き者となまけものがあって、働き者は三十分もあれば巣をつくり終えるが、なまけものはなまけなまけやるから、半日ぐらいかかる。蟻をつかまえて来て、早く出来たものから御褒美に、一匹ずつ入れてやる。半日もかかった奴には、何もやらない。蟻を入れてやるのは、蟻に対して残酷な気がしないでもないが、観察のためだから仕方がない。
子供も一所懸命に観察し、何かせっせと書きつけていた。昼寝している間に、そっとそれをのぞくと、次のように書いてあった。
イ、からだの色はうす茶色で、砂の色によくにている。
ロ、足が六ぽんと、大きなほさみがあり、すきとおっている。
ハ、どうたいには、九つのふしがあり、ふしには毛がはえている。
ニ、前にはすすまなくて、うしろだけにすすむ。そしてうらがえしにすると、すぐもとにもどる。
ここまで書いてくたびれて、昼寝ということになったらしい。
[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年十月号『風報』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「八月二十七日」の後には「(昭和三十五年)」とポイント落ちの割注があるが、これは底本全集編者の挿入と断じて、除去した。
「ニッコウキスゲ」単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ゼンテイカ(禅庭花)Hemerocallis
dumortieri var. esculenta 。一般には「ニッコウキスゲ(日光黄萓)」の方が通り名としてはより知られている。忘れっぽい梅崎先生みたような人のために総てに以下のような画像リンクを張っておく。グーグル画像検索「Hemerocallis dumortieri var. esculenta」。
「吾亦紅(われもこう)」双子葉植物綱バラ目バラ科バラ亜科ワレモコウ属ワレモコウ Sanguisorba officinalis。ウィキの「ワレモコウ」によれば、『草地に生える多年生草本。地下茎は太くて短い。根出葉は長い柄があり、羽状複葉、小葉は細長い楕円形、細かい鋸歯がある。秋に茎を伸ばし、その先に穂状の可憐な花をつける。穂は短く楕円形につまり、暗紅色に色づく』とあり、この名は「源氏物語」にも『見える古い名称である。漢字表記においては吾木香、我毛紅、我毛香など様々に書かれてきたが、「〜もまた」を意味する「亦」を「も」と読み、「吾亦紅」と書くのが現代では一般的で』、『名の由来には諸説あるが』、植物学者『前川文夫によれば木瓜文(もっこうもん)』(日本の家紋の一種で瓜紋(かもん・うりもん)ともいう。卵の入った鳥の巣の様子に似ているとされる)『を割ったように見えることからの命名と』する『ほか、「我もこうありたい」の意味であるなど、様々な俗説もある』と記す。グーグル画像検索「Sanguisorba officinalis」。
「松虫草」双子葉植物綱キク亜綱マツムシソウ目マツムシソウ科マツムシソウ属マツムシソウ Scabiosa japonica 。グーグル画像検索「Scabiosa japonica」。
「ゲンノショウコ」双子葉植物綱フウロソウ目フウロソウ科フウロソウ属ゲンノショウコ Geranium thunbergii 。グーグル画像検索「Geranium thunbergii」。
「マイマイカブリ」昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目食肉亜(オサムシ)亜目オサムシ上科オサムシ科オサムシ亜科マイマイカブリ属マイマイカブリ Damaster blaptoides Kollar 。グーグル画像検索「Damaster blaptoides Kollar」。
「ゴマダラカミキリ」鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ科フトカミキリ亜科ゴマダラカミキリ属ゴマダラカミキリ Anoplophora malasiaca 。グーグル画像検索「Anoplophora malasiaca」。
「アカハナカミキリ」多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ科ハナカミキリ亜科アカハナカミキリ
Aredolpona succedanea 。グーグル画像検索「Aredolpona
succedanea」。
「マツノキクイムシ」多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科カワノキクイムシ亜科マツノキクイムシ Tomicus piniperda 。グーグル画像検索「Tomicus piniperda」。
「アリジゴク」先の梅崎春生「アリ地獄」の私の注を是非、参照されたい。グーグル画像検索「アリジゴク」。]