北條九代記 卷第九 時賴入道諸國修行 付 難波尼公本領安堵
○時賴入道諸國修行 付 難波尼公本領安堵
時賴入道の政道、理非分明にして、奉行、頭人、評定衆、其掟、少(すこし)は古風に立歸るかと見えしかども、諸國の守護、地頭等(ら)は、猶も私欲非義の事あり。訴論、更に絶遣(たえや)らず。時賴入道、是を歎き、頭人、評定衆を集めて宣ひけるは、「諸國無道の科人(とがにん)を罪罸(ざいばつ)に行ひし事、數百人なり、三浦泰村父子叛逆(ほんぎやく)より以來(このかた)、是程に人多く損じたる事はなし。奉行、頭人、評定衆の奸曲(かんきよく)なるが致す所、其罪、既に我が愚にして、下(しも)の歎(なげき)を知らざるに起れり。萬民を惱(なやま)し、惡徒を損ず。
我、何の面目ありてか諸人に見(まみ)えて、國家を治むと云ふべき。然るに時賴入道が天下の執政たる事は、時宗未だ幼稚なるに依(よつ)て、代官として暫く諸事を綺(いろひ)はべりき、時宗、幸(さいはひ)に、今、成長して、しかも執政の器量に當り給へり。外には學問を好み、内には道德を嗜(たしな)み、進みては仁を專(もつぱら)とし、退(しりぞ)きては行(かう)に失(しつ)あらんことを悔省(くひかへりみ)て、賢君子の德、備(そなは)れり。今は早(はや)、世の中の事、心易く存(ぞん)ずるなり。我が愚案を以て、久しく諸人を苦むべきは、天道の譴(せめ)、遁(のがれ)難し。向後の事は、太郎時宗に讓り侍る。將軍家の執政として、頭人、評定衆の邪(よこしま)を禁じ、泰時(やすとき)の政理(せいり)に從ひて、國家を治め給へ」とて、涙をぞ流されける。暫(しばらく)ありて、また、宣ひけるは、「某(それがし)が愚の一つに依(よつ)て、現當(げんたう)二世を失はんとす。佛神の冥慮(みやうりよ)、誠(まこと)に恐るべし。父祖の善惡は、必ず子孫に報ゆ、と云へり。因果の道理、遁(のが)るまじければ、我が愚を以て、多少の人を損害せし故に、子孫の後榮(こうえい)も賴(たのみ)なし。未來もさこそ悲(かなし)かるべけれ」とぞ宣ひける。是を承りし輩(ともがら)は、只、理に屈して申すべき言葉なく、坐(そゞろ)に涙を催しけり。時賴入道は天臺、法相(ほつさう)、律、三家の智識に逢(あ)うて佛法の奧義を極め、又大覺禪師に謁し、その外、數多(あまた)の禪師に相看(しやうかん)して、心地(しんぢ)を大悟(たいご)せられたり。實(じつ)に理世安民(りせいあんみん)の爲にや、諸人の中にして、かく仰のありける殊勝(しゆしよう)さよと、心ある人は申合へり。その後は一室に閉籠(とぢこも)り、親しきにも對面無し。靑砥(あをとの)左衞門尉藤綱、二階堂信濃入道と只二人計(ばかり)、常は參りてはべりしが、幾程なく時賴禪門、死に給ひけり。二階堂入道悲(かなしみ)に堪(たへ)ず、後世の御供せんとて自害致されけり。左馬頭時宗、歎(なげき)の色深く、樣々の佛事をなし給ふ。鎌倉中は云ふに及ばず、諸國の貴賤、是を歎く事、赤子(せきし)の母を喪(うしな)ふが如し。實(まこと)には然らず。世にはかく披露して、二階堂入道、只(たゞ)一人を召倶(めしぐ)し、密(ひそか)に鎌倉を忍び出で、貌(かたち)を窶(やつ)して、六十餘州を修行し給ふ事三ヶ年、在々所々の無道殘虐を聞出さんが爲とかや。中にも哀(あはれ)なりける事は、或時、攝津國難波(なには)の浦に至り給ふ、世渡る業(わざ)の苦しさは何國(いづく)も同じ事ながら、殊更、難波の蘆の屋の鹽汲(しほくむ)海郎(あま)の暇(いとま)なみ、營む事の易からぬ、身の有樣こそ哀(あはれ)なれと、愈(いよいよ)、心に感慨し給ふ。日、既に西に傾きて、人の往來(ゆきゝ)も稀々(まれまれ)なり、鳴送(なきおく)る蜩(ひぐらし)の聲も遠近(をちこち)淋しき暮に及びて、とある所の家に立寄り、宿を借(か)らんと見給ふに、昔はさもありける人の住荒(すみあら)しけん跡と見えて、垣(かい)、間疎(まばら)に、軒、傾(かたぶ)き、時雨(しぐれ)も月も漏るらめや、さこそ侘しき草の戸差(とざし)、露深く閉ぢられて、いとゞ袂は霑(ぬる)る計(ばかり)なるに、立入りて宿を借り給ひければ、年闌(た)けたる尼公(にこう)の、杖に縋(すが)りて出でられ、「御宿(おんやど)借し奉るべき事は易けれども、佗(わび)て住(すむ)なる賤(しづ)の伏屋(ふせや)、藻鹽草(もしほぐさ)ならでは敷忍(しきしの)ぶべき物もなく、磯菜(いそな)より外には進(まゐ)らすべき設(まうけ)も候はねば、中々、御宿參せても甲斐(かひ)なくこそ」と聞えけるを、「さりとては日も早(はや)、暮(くれ)過ぎたり。來方(こしかた)遙(はるか)に、往前(ゆくさき)も覺束(おぼつか)なし、枉(まげ)て一夜を明させて給(た)べ」と云佗(いひわ)びてぞ留(とゞま)り給ひける。旅寢の床(とこ)に秋深(ふ)けて、浦風(うらかぜ)渡る浪の音、夜寒(よさむ)の衣、袖冴(さ)えて、夢も結ばず、明(あか)されたり。朝朗(あさぼらけ)の霧間(きりま)より起出(おきい)で給へば、主(あるじ)の尼公、手つがら飯匙(いひがひ)とる音して、椎の葉を折敷(をりし)きたる上に飯盛りて持出でたり。甲斐甲斐しくは見えながら、斯(かゝ)る業(わざ)なんどに馴れたる人とも見えねば、覺束なく覺えて、「などや御内に召仕(めしつか)はるゝ人は候はぬやらん」と問ひ給へば、尼公さめざめと打泣(うちな)きて、「左(さ)候へばこそ。尼は親の讓(ゆづり)を得て、この所の一分の領主にて候ひしが、夫(をつと)にも子にも後(おく)れて、便(たより)なき身と成果(なりは)て候ひし後、惣領某(ないがし)と申す者、關東奉公の權威を以て、重代相傳の所帶を押取(おさへと)りて候へども、京、鎌倉に參りて訴訟申すべき代官も候はねば、此二十年、家、衰へて窶(やつやつ)しく、麻(あさ)の衣の淺ましく、樵積(こりつ)む柴のしばしばも存(ながら)へ住むべき心地もなく、袖のみ濡るゝ露の身の、消えぬ程とて世を渡る、朝食(あさげ)の煙(けぶり)の心細さ、只、推量(おしはか)り給へ」とありければ、抖藪(さう)の聖、熟々(つくづく)と聞給ひ、「其(それ)は御痛(おんいたは)しき御事なり。押領(おふりやう)せられし人の御名をば誰とか申し候ぞ」と問はれたり。尼公、申されしは、「その先は、右大將賴朝卿、平家追罸の時、難波の六郎左衞門と申せし者、梶原景時の手に屬(しよく)して、軍功を抽(ぬきん)でたりしかば、勸賞(けんじやう)行はれて賜(た)びたりける所領なるを、尼が世迄は斷絶なく相傳して、夫(をつと)にて候難波三郎兵衞尉、身罷りて、世を嗣ぐべき子さへ打續(うちつゞ)きて死に候へば、尼が身の置所なく、悲しさは限(かぎり)もなし。何しに命の存(ながら)へて憂目を三保の浮海松(うきみる)の、今は寄邊(よるべ)もなき所に、尼が爲には小舅(こじうと)にて候、瓜生(うりふの)權(ごんの)頭に、押領せられ、斯る有樣に潦倒(おちぶ)れて、甲斐なき身と成果てて候ぞや」とて涙にのみぞ咽(むせ)びける。聖は餘(あまり)に哀(あはれ)と覺えて、笈(おひ)の中より小硯(こすゞり)取出(とりいだ)し、卓の上に立ちたりける位牌の裏に一首の歌をぞ書かれける。
難波潟潮干(しほひ)に遠き月影のまたもとの江に澄まざらめやは
聖(ひじり)は尼公に暇乞して、「もし鎌倉殿に對面申す事あらば、忘置(わすれお)かず披露して參らせん」と白地(あからさま)に云ひ置きて、宿を立出で給へば、尼公も名殘惜(をし)げに見送り奉りぬ。斯(かく)て時賴禪門、諸國抖藪(とそう)畢(をは)りて鎌倉に歸り給ふ。軈(やが)て、彼の位牌を召出し、瓜生が所帶を沒收(もつしゆ)して、尼公が本領に副(そへ)て賜りけり。是のみなず、諸國の間に三百四餘人の非道の者を記して歸られ、皆、各々、召上せて、賞罸正しく行はれ、先代忠勤の家督を相續せしめ給ひけり。是に依(よつ)て、諸國の武士共、近年、鎌倉の奉行、頭人の私欲奸曲なるに恨(うらみ)を含みし輩(ともがら)、一朝に憤(いきどほり)を散じ、望(のぞみ)を達して、時賴禪門を慶賀し進(まゐら)せたり。邪曲(じやきよく)の奉行、頭人に媚諂(こびへつら)ひける者共、身を抱き、先非を悔いて、正道に入りける有難さよ。靑砥左衞門申しけるは「この事、今十年とも御沙汰なかりせば、叛逆(ほんぎやく)の者、多かるべし、誠に貴(たうと)き賢才(けんさい)かな」と感じ奉りけるとかや。
[やぶちゃん注:くどいが、最初に再度、述べおく。前章注の冒頭で述べた通り、この時頼諸国回国譚は素人が「吾妻鏡」を見ても判然とする通り、あり得ない笑止千万な話である。
ともかくも私は糞狸爺北条時頼が大嫌いである。
本章の後半の難波の尼公との邂逅譚は「太平記」巻三十五「北野通夜物語の事 付 靑砥左衛門が事」に基づく。このシークエンスが優れているのは参考元自体が「平家物語」などを参考にして、よく書けているからである(無論、「北條九代記」の筆者の書き換えも上手い)。冒頭に当該箇所を引いておく。同章はかなり長いが、以下は見るように、泰時逝去(「太守逝去」がそれ)から、世が乱れることを簡単に述べて枕とし、一気に時頼の諸国回国に繋がっている。底本は「新潮日本古典集成」の山下宏明校注「太平記 五」(昭和六三(一九八八)年刊)を参考底本としつつ、読点を適宜追加し、恣意的に漢字を正字化し、記号の一部を変更した。一部、読みも追加してある。
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しかるに太守逝去の後、父母を背き、兄弟を失はんとする訴論(そろん)出で來て、人倫(じんりん)の孝行、日に添うて衰へ、年に隨ひてぞ廢(すた)れたる。一人(いちじん)正しければ萬人それに隨ふ事、分明(ぶんみやう)なり。しかるあひだ、なほも遠國の守護・國司・地頭・御家人、如何なる無道猛惡(ぶだうもうあく)の者有りてか、人の所領を押領(あふりやう)し、人民百姓を惱すらん。みづから諸國を囘りて、これを聞かずは叶ふまじとて、西明寺(さいみやうじ)の時賴禪門(じらいぜんもん)、ひそかに貌(かたち)を窶(やつ)して六十餘州を修行したまふに、ある時、攝津國難波(せつつのくになには)の浦に行き至りぬ。鹽汲(く)む海士(あま)の業(わざ)どもを見たまふに、身を安くしては一日も叶ふまじきことわりをいよいよ感じて、すでに日暮れければ、荒れたる家の、垣間(かきま)、まばらに、軒(のき)、傾(かたぶ)いて、時雨(しぐれ)も月もさこそ漏らめと見へたるに立ち寄りて、宿を借りたまひけるに、内より年老たる尼公(にこう)一人出て、「宿を貸したてまつるべき事は安けれれども、藻鹽草(もしほぎさ)ならでは敷く物もなく、磯菜(いそな)より外はまゐらすべき物も侍らねば、なかなか宿を借したてまつても甲斐(かひ)なし」とわびけるを、「さりとては日もはや暮れはてぬ。また問ふべき里も遠ければ、まげて一夜を明かしはべらん」と、とかく言ひわびて留(とま)りぬ。旅寢の床(ゆか)に秋深(ふ)けて、浦風寒くなるままに、折り焚く葦の通夜(よもすがら)、臥しわびてこそ明かしけれ。朝に成りぬれば、主(あるじ)の尼公、手づから飯匙(いひかひ)取る音して、椎(しひ)の葉折り敷きたる折敷(をつしき)の上に、餉(かれいひ)盛りて持ち出で來たり。甲斐甲斐(かひかひ)しくは見へながら、かかるわざなんどに馴(な)れたる人とも見えねば、おぼつかなく覺えて、「などや御内(みうち)に召し仕はるる人は候はぬやらん」と問ひたまへば、尼公、泣く泣く、「さ候へばこそ、われは親の讓りを得て、この所の一分の領主にて候ひしが、夫(をつと)にも後(おく)れ、子にも別れて、たより無き身と成りはて候ひし後、惣領(そうりやう)なにがしと申す者、關東奉公の權威を以つて、重代相傳(じゆうだいさうでん)の所帶を押さへ取りて候へども、京・鎌倉に參りて訴訟申すべき代官も候はねば、この二十餘年、貧窮(ひんぐう)孤獨の身と成りて、麻の衣(ころも)のあさましく、垣面(かきも)の柴のしばしばも、ながらふべき心地(ここち)はべらねば、袖のみ濡(ぬ)るる露の身の、消ぬ程とて世を渡る。朝食(あさけ)の煙(けぶり)の心細さ、ただ、推し量(はか)り給へ」と、くはしくこれを語りて、淚にのみぞ咽(むせ)びける。抖擻(とそう)の聖、つくづくと是を聞きて、あまりに哀れに覺えて、笈(おひ)の中より小硯(こすずり)取り出だし、卓(しよく)の上に立てたりける位牌(ゐはい)の裏に、一首の歌をぞ書かれける。
難波潟(なにはがた)鹽干(しほひ)に遠き月影(つきかげ)のまたもとの江にすまざらめやは
禪門(ぜんもん)、諸國抖擻ををはつて、鎌倉に歸りたまふとひとしく、この位牌を召し出だし、押領(あふりやう)せし地頭が所帶を沒收(もつしゆ)して、尼公が本領の上にそへてぞこれをたびたりける。このほか到る所ごとに、人の善惡を尋ね聞きて、くはしくしるし付られしかば、善人には賞を與へ、惡者には罰を加へられける事、あげてかぞふべからず。されば、國には守護・國司、所には地頭・領家(りやうけ)、威(ゐ)有りて驕らず、隱れても僻事(ひがごと)をせず、世、淳素(じゆんそ)に歸し、民の家々、豐かなり。
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本文と重ならない箇所(一部例外有り)を「・」で簡単に注しておく。
・「身を安くしては一日も叶ふまじきことわり」己が一人の身の安楽ということを考えたとすれば、一日として生きて行くことはかなわない(現実世界での「安楽」は「絶対に」「ない」からである)という、この世の道理。
・「領主」参考底本の山下宏明の頭注に『「領主」は「地頭」が正しい。もともと一人の地頭が統轄していた荘や郷を複数で相続するため、分散したそれぞれの地頭。小地頭』とある。「小地頭」とは「子地頭」とも書き、鎌倉時代に地頭職の分割相続によってその一部分を持つこととなった地頭のことで、「半分地頭」「三分二(さんぶに)地頭」などとも呼ばれた。同じ誤りを「北條九代記」もしているので、ここに注しておく。
・「訴訟申すべき代官」幕府の御方へ訴訟を起こし申し上げるにしても、その代理となって呉れる者。この「代官」は官職ではなく、訴訟の起こすために京の六波羅探題や鎌倉に行って実際に訴訟を行うための代理人である。
・「抖擻(とそう)の聖」修行僧・行脚僧の意(本来は「一所に定住している僧」の対語で非定在性の行脚を修行の本分とする僧を指す)。本文の「抖藪」(とそう)」及び頭陀袋の「頭陀」に同じい。梵語の漢訳で、衣食住に対する欲望を払いのけて身心を清浄にすること、また、その修行。或いは、雑念をはらって心を一つに集めること。
・「卓(しよく)」参考底本の山下宏明の頭注に『仏壇の、本尊の前に置いて花や燭などを供える机。よみは宋音』とある。「宋音」は宋以降の漢字音で、現在の「唐音」と同じ。室町時代には「唐音」は「宋音」と呼ばれ、現在でも「唐宋音」とも呼ばれる。遣唐使の中止によって一時、途絶えた形になった日中間の交流が、平安末から鎌倉初期に再開、その後も室町・江戸を通じて盛んになって禅宗の渡来僧や留学僧及び民間貿易の商人たちによってもたらされた、比較的新しい中国語音である(一部、ウィキの「唐音」に拠った。リンク先の唐音の例が勉強になる)。
以下、本文注に入る。
「頭人」狭義には評定衆を補佐して訴訟・庶務を取り扱った引付衆の長官を指すが、ここは結果的に引付衆全体を指すと読むべきであろう。
「其掟」「そのおきて」。
「三浦泰村父子叛逆(ほんぎやく)」宝治元(一二四七)年六月五日の三浦氏が滅ぼされた宝治合戦(ほうじかっせん)であるが、「父子」というのはややおかしい気がする。泰村には景村・景泰・三浦駒孫丸などの子はいるが、合戦の表舞台には出て来ず、実際、年齢も若かったものと思われ、寧ろ、宝治合戦に於ける三浦方の主戦派はプレの宮騒動にも確信犯で加担していた弟の三浦光村である。彼は、最後まで優柔不断であった兄泰村に合戦の敗因はあると考えていたに違いなく、その死にざま(一族が頼朝の法華堂内で一気自刃した)も幕府方が検分出来ぬように自身の顔をずたずたに斬り刻んだ後に自害している強者であった。ここは彼の執念のためにも「三浦兄弟叛逆」とすべきところである。
「奸曲」心に悪だくみのあること。
「惡徒を損ず」(好き好んでやったのではないが、一見、残虐に)悪い輩を(数多く重く)罰することとなった、罰せざるを得なかった、そういう最悪の事態に自らを追い詰めてしまったのだ、というニュアンスであろう。しかし文脈上はやや不自然である。
「綺(いろひ)はべりき」「いろふ」は「関わる・口出しする・干渉する」の意。執権を退いたものの、引き続き、執権の実務にいろいろと口出しをして参ったのであった。
「現當(げんたう)二世」ここは表向きは現実社会の現在と未来の事実の状態を指しながら、しかし後文への因果応報の、業としての父子への応報、北条氏滅亡への予感をも含んでいる(「子孫の後榮(こうえい)も賴(たのみ)なし。未來もさこそ悲(かなし)かるべけれ」)。まあ、しかしここは歴史的事実を知っている後世の本作者の筆が、言わずもがなに滑った感じではある。時頼が嫌いな私としては、私が彼以降の北条の関係者だったら、「こいつに言われたくないよ!」という気はする。
「坐(そゞろ)に」知らず知らずのうちに。
「法相(ほつさう)」法相宗は唐の玄奘(げんじよう)が伝えた護法・戒賢の系統の唯識説を、その弟子の窺基(きき)が大成したもので、一切の存在・事象を五位百法に分類し、すべての実在の根源は「阿頼耶識(あらやしき)」にあるとするもの。日本へは白雉四(六五三)年に道昭により初めて伝えられ、その後もさらに三度、伝来されている。元興寺・興福寺を中心に奈良時代に盛んに行われた。現在の本山は興福寺と薬師寺。「慈恩宗」「唯識宗」とも呼ぶ。
「律」中国で興った仏教の一宗。戒律を絶対の拠り所として受戒を成仏の要因と考える。日本へは天平勝宝六(七五四)年、鑑真によって伝えられた。本山は唐招提寺。
「智識」有徳の高僧。
「大覺禪師」蘭渓道隆。
「相看(しやうかん)」対面。
「心地(しんぢ)を大悟(たいご)せられたり」悟りの境地に達せられた。
「理世安民(りせいあんみん)」絶対正当な、真の仏法に基づく道理を以って世を治め、人民総てを心の底から安んじさせること。
「仰」「おほせ」。
「二階堂信濃入道」既注であるが再掲しておくと、政所執事二階堂行実(嘉禎二(一二三六)年~文永六(一二六九)年)のこと。彼は文永二(一二六五)年に鎌倉幕府政所執事で引付衆となって、文永五(一二六八)年に従五位下で信濃守に叙爵されているが翌年には死去しており、引付衆であったのはたった四年であった。北条時頼は安貞元(一二二七)年生まれで弘長三(一二六三)年没(ここでは生きていることのなってはいるが)であるから、彼が引付衆となったのも、信濃守になったのも、孰れも歴史上は時頼が死んだ後であり、この二人回国の相手が二階堂行実という設定自体が如何にもな噴飯物であることが判るのである。
「二階堂入道悲(かなしみ)に堪(たへ)ず、後世の御供せんとて自害致されけり」言うまでもないが、こんな事実はない。前注参照。
「攝津國難波(なには)の浦」現在の大阪市中央区の海浜地帯の広域古名。
「草の戸差(とざし)」粗末な戸。教育社版の増淵勝一氏の訳は『戸をとざし』とするが、採らない。底本は「とざし」のルビであり(「と」「さし」ではない)、しかも「露深く閉ぢられて」がそれを受けるのであれば、ここは扉・戸の意の名詞でなくてはならないからである。
「年闌(た)けたる」だいぶ年をとった。
「尼公(にこう)」尼君。
「伏屋(ふせや)」棟の低い小さな家。粗末な家。みすぼらしい家。
「藻鹽草(もしほぐさ)」塩を作るために焼く海藻。古くは神馬藻(ほんだわら:不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ホンダワラ Sargassum fulvellum)などの海藻類を簀子に並べ、海水を注ぎ掛けて塩分を多く含ませた上で、乾燥、さらにそれを焼いて水に溶かし、その上澄みを煮詰めて塩を製した。
「敷忍(しきしの)ぶべき物」寝床として敷くに適した物。
「磯菜(いそな)」神馬藻(ホンダワラは食える。私は好物である)や鹿尾菜(ひじき:ホンダワラ科ホンダワラ属ヒジキ Sargassum fusiforme)のように岩礁帯に生え、食用となる海藻類。
「飯匙(いひがひ)」杓文字(しゃもじ)。
「椎の葉を折敷(をりし)きたる上に飯盛りて持出でたり」「太平記」の「椎(しひ)の葉折り敷きたる折敷(をつしき)の上に、餉(かれいひ)盛りて持ち出で來たり」の「折敷」(おしき:薄く剝いだ木の板を折り曲げて四方を囲った盆)を消失させて、より貧家のリアリズムの宿を描いて秀逸。「餉(かれいひ)」は一度軽く煮た米を保存出来るように干したもの。
「この所の一分の領王」この辺りを管轄した惣地頭(先の「太平記」の山下氏の頭注に、『一分地頭の上位に発って軍役などを統轄する、一族の惣領地頭』とある)。先の「太平記」の注も参照のこと。
「惣領」夫の一族の惣領。
「所帶」官職や所領。
「樵積(こりつ)む柴のしばしばも存(ながら)へ住むべき心地もなく」前半は「しばしば」もを引き出すための序詞的表現。樵(きこり)が切り出し、それを截ち切り、小枝のように細かになったそれを積み上げた柴(しば)、「しばしば」、暫く短い間だけでも生き永らえて住もうという気力さえなくなってしまい。
「抖藪(さう)の聖」行脚の僧。先の「太平記」の「抖擻(とそう)の聖」の私の注を参照されたい。
「難波の六郎左衞門」「北條九代記」の筆者が以下をもとに創出した架空の人物であろう。歌舞伎や錦絵では、実在したとされる平清盛の家来難波(なんばの)三郎経房(源義平を処刑した人物で、仁安二(一一六七)年に平家一門で布引の箕面滝(みのおたき/みのおのたき/みのおだき:現在の大阪府箕面市の「明治の森箕面(みのお)国定公園」内にある滝)に訪れた際に落雷により落命したとされる)その子の六郎経俊(父と混同された伝承が残る)をモデルとした、難波六郎経遠・難波六郎常任・南場六郎、難波六郎・難波六郎常利・難波六郎経俊などが知られていた。五代目徳左衛門氏のブログ「難波一族」の「難波六郎とは何者か?」を参照されたい。「梶原景時の手に屬(しよく)して」とあり、景時は平家の出身であり、彼の家来であったとすれば元平家方の武士であったとしても少しもおかしくはない。
「勸賞(けんじやう)」「かんじやう(かんじょう)」と読んでもよい。所謂、論功行賞。功労を褒めて官位・領地・物品を与えること。
「難波三郎兵衞尉」前の「難波の六郎左衞門」を参照。
「憂目を三保の浮海松(うきみる)の」「三保」憂き目を見るの「み」を掛け、「三保の」「松」(原)を引き出してさらに、その浜辺に漂着する「浮き」(ダメ押しで「憂き」をたたみ掛ける)「海松(みる)」(緑色植物亜界緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile 。本海藻は「海松布」と書いて「みるめ」とも呼ぶので、またしても「憂き目」を「見る」が掛けられるようになっている)で、テツテ的に「憂き目を見る」の多重化がなされており、リズムとともに優れた章句と思う。
「小舅(こじうと)」ここは亡き夫の兄弟。
「瓜生(うりふの)權(ごんの)頭」一応、調べては見たが、不詳。やはり架空人物であろう。
「潦倒(おちぶ)れて」は落魄(おちぶ)れた様子。「窮途潦倒(きゅうとろうとう)」(辛い境遇の中で落ちぶれた様子・行き詰まって望みが叶わずにがっかりしている様子)などと使う。
「卓」先の「太平記」に従い、「しよく(しょく)」と読んでおく。前の「太平記」注参照。
「難波潟潮干(しほひ)に遠き月影のまたもとの江に澄まざらめやは」――難波(なにわ)潟の引き潮で今は遠くにある海の水面(みなも)を照らして輝いている月の光(もともとの尼君の領地、その正当な一分地頭としての所有権を譬える)が、また元通り、満ち満ちた入り江のすぐ眼前に曇りなく美しいその月の姿を映さないはずがあろうか、いや、必ず、潮の満ちて、皓々たる美しき栄えある月光が貴女の面前にたち現われれるであろう――予祝の和歌である。
「白地(あからさま)に」はっきりと。
「召上せて」「めしのぼせて」。召喚して鎌倉に出頭させ。]
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