宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 千變萬化
千變萬化
越後に居し時、ある夜、雨のつれづれ、野本外記、音づれ、なにはの物がたりし侍り。外記の云く。凡そ此の世に生をうる物、胎、卵、濕、化(け)の四つに限る。此の内に化生(けしやう)は神變にひとしく、形ち、自在を顯す物としれたれば、不思議、却(かへつ)てふしぎならず。胎、卵、濕の三つは、各(おのおの)、定まりあり。其の中にして、希に異形あるこそ、誠にふしぎに侍れ。祇は日本國中、ひろく巡り給へば、をかしき物も珍しき物も見給はん、と、此の國にも、ある百姓の娘に目の一つある者あり、と、いふ。祇、さも有なん、東國にて手の三つ有る男を見し、二つは常のごとく、今ひとつは背に有りて、指のならびは右の手におなじ。又、飛驒(ひだ)の國にて、女の髮の二丈にあまるあり。俗に、髮の長きは毒蛇の相なり、と、いふほどに、己れも、うるさくおもひて、能きほどに切りて捨(すつ)れど、一夜の内に、もとのごとくなるとぞ、上野佐野(かんづけさの)の西には、女のくびに、釣瓶(つるべ)の繩を卷きたるほどにふとき筋あり。是も俗に、ろくろくびとかや、いふ。あはぢの國には、面に大きなる口ひとつあつて目も鼻も耳もなき者あり。食類(しよくるゐ)、よのつね、五人ほど、おほく食ふ、と、いふ。讃岐(さぬき)には手足の指、各、三つゞ生れつきたるあり。是らは皆、賤しきものゝ類ひ人ちかく見侍り。此の外、よき人の家にもさまざまの不具の人、有り、と聞けど、みぬきはゝかたるにたらず。人間ならぬ者にも、天性(てんしやう)の外(ほか)、生れつくもの、多し。是も讃州(さんしう)に、一頭(づ)にして四足(そく)四翼(よく)の鷄(にはとり)あり。豐前にては三足の犬を見たり。若狹(わかさ)にては鰤(ぶり)とやらんいふ魚の、跡先(あとさき)に首あつて尾のなきを釣りたり。阿波(あは)に馬に角(つの)生(お)たるを三疋迄、見たり。其のわたりには珍しともいはず。播磨(はりま)にて猫二疋、橫ばら、ひとつにとぢつきて、二疋一度に起臥(おきふし)するあり。是は生(むま)るゝ時、おや猫、穢血(ゑけつ)をくらはず、暫し捨て置たるおこたり也と、いひし。さもあらんか、又、人畜の外、非情の類ひにも多し。つの國、川尻(かはじり)の北に、椿の花の、赤白黃紫(しやくびやくくわうし)の四色に咲分けたるあり。實を取りて外に植うれども、生(お)ひつかず、と、いひし、陸奧(むつ)の仙臺に、赤白に染分けたる桃の花、在りし、珍らしく見しが、漸(やうや)う此の頃は世に多くなり侍れば、後々(のちのち)は目にたつべくもなし。伊豆の北條(ほうでう)にて、七葉(えふ)の松をみたり。五葉三葉は世におほし。是さへ、ことやうなりかし。同所に栢(かや)の菓(このみ)を松に結びし事あり。此の外、少し計りのけぢめどもかぞふるにいとま非ず。
■やぶちゃん注
・「野本外記」「怪異(けい)を話(かた)る」で既出の「情報屋」。
・「胎、卵、濕、化(け)の四つ」通常の仏教上の生物学では、これを「四生(ししょう)」と称する。「胎生」と「卵生」は現行の認識とほぼ同じと考えてよいが、「湿生」は湿気から生ずることで、例えば蚊や蛙がこれに相当すると考えられ、「化生(けしょう)」とは、それ自体が持つところの、一般的には人知の及ばない、超自然的な力によって忽然と生ずることを指す。天人や物の怪の誕生、死者が地獄に生まれ変わることなどをも広汎に指す。
・「目の一つある者あり」実際の奇形とすれば、先天奇形の単眼症(cyclopia:サイクロピア)である。また、民俗社会の「一つ目」の象徴性についてなら、私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で『柳田國男「一目小僧その他」』の電子化注を行っているので、そちらも参照されたい。
・「手の三つ有る男」多手(肢)症。実際に奇形(結合胎児ではなく)として存在するが、正常位置にない三本目の腕は意志によって動かすことが困難な場合が多い。
・「二丈」六メートル強。但し、この話は「一夜の内に、もとのごとくなる」で眉唾。
・「上野佐野(かんづけさの)」現在の群馬県高崎市内の旧佐野村地区。
・「女のくびに、釣瓶(つるべ)の繩を卷きたるほどにふとき筋あり。是も俗に、ろくろくびとかや、いふ」これは轆轤首伝承ではしばしば聴くもので、単に頸部の皺が色素沈着を起こして赤黒くなっているのを、首が外れる(切れて飛翔するタイプの中国系の飛頭盤型)或いは延びる箇所と気味悪がったに過ぎぬ。
・「面に大きなる口ひとつあつて目も鼻も耳もなき者あり」先に示した先天性奇形の単眼症(cyclopia:サイクロピア)の変形型では絶対にあり得ないことではないが、通常の食物を食し、しかもその量が成人の五人分も食すというのであるから、全くの眉唾である。
・「手足の指、各、三つゞ生れつきたるあり」四肢欠損児はサリドマイド児や合指(複数指が癒着したもの)など、それほど稀な奇形ではない。逆の多指症もやはり同様である。
・「賤しきものゝ類ひ人ちかく見侍り」「たぐひびと」で結合した語句か。続く部分からも、賤民に特に業(ごう)によって奇形が起こるとする誤った仏教的差別認識が強く臭う。
・「みぬきはゝかたるにたらず」見ぬ際(実見し得ぬ高貴な家柄の内輪の事柄)は語るに足らぬ、空言である。
・「人間ならぬ者」人間以外の外の動物。
・「天性(てんしやう)の外(ほか)」本来の正常な状態以外の形状。
・「一頭(づ)にして四足(そく)四翼(よく)の鷄(にはとり)」二羽の結合奇形であろうが、これは摂餌もままならず、生育し得ないと思われる。或いは、成鳥になる過程かなった後に、何らかの羽根状及び脚状の腫瘤や腫瘍が形成され、それが別な対の羽、後肢に見えただけかとも思われる。
・「三足の犬」これは普通に奇形として出現する。
・「鰤(ぶり)とやらんいふ魚の、跡先(あとさき)に首あつて尾のなき」双頭で尾部を持たないブリ(条鰭綱スズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ
Seriola quinqueradiata というのであるが、プラナリア(Planaria:動物界扁形動物門渦虫(ウズムシ)綱三岐腸(ウズムシ)目 Tricladida に属するウズムシ類。頭部に三つの切れ込みを入れると三つの頭を再生させる)じゃあるまいし。
・「馬に角(つの)生(お)たる」伝説上に角を持った馬の話があり、角質化した皮膚腫瘤が角状になるというのはあり得ぬことではない。しかしここで宗祇が「三疋迄、見たり」というのは、民俗風習か何かで、馬の頭に何かを被せたものを誤認したと見る方が自然である。「其のわたりには珍しともいはず」というのが却ってそれである可能性が深く疑われることを、よく示していると言える。
・「猫二疋、橫ばら、ひとつにとぢつきて、二疋一度に起臥(おきふし)するあり」猫の先天性結合胎児奇形。
・「穢血(ゑけつ)をくらはず、暫し捨て置たるおこたり也と、いひし」「穢血」は胎児に附着した後産の胞衣(えな)などのことであろう。母猫が、それを食べ嘗めて、双生児の小猫を綺麗にしてやらず、そのままに放置していたから、そのままに弾きが横腹の部分で癒着してしまったのだ、とまことしやかに説明しているのである。
・「非情の類ひ」仏教では人間と動物を「有情(うじょう)」とし「山川草木」は非情とする。
・「つの國、川尻(かはじり)の北」摂津国で「川尻」に相当する現在の地名は、大阪府豊能郡豊能町川尻と、同地の十六キロメートル西方の兵庫県宝塚市下佐曽利川尻があるが、前者か。識者の御教授を乞う。
・「椿の花の、赤白黃紫(しやくびやくくわうし)の四色に咲分けたるあり」挿し木にすれば普通に生ずる。稀なケースではない。
・「赤白に染分けたる桃の花、在りし、珍らしく見しが、漸(やうや)う此の頃は世に多くなり侍れば、後々(のちのち)は目にたつべくもなし」既にこの文章を記している時制に於いて、もう少しも珍しくなっている、と宗祇本人が述べている通り、これも全く以って今は珍しくも何ともない。
・「伊豆の北條(ほうでう)」現在の伊豆の国市韮山一帯。
・「七葉(えふ)の松」伊豆では確認出来なかったが、調べてみると、新潟県新発田市上館加治山に伝わる伝説に「七葉の松」というのがあった(個人サイト「登山日記 静かな山へ」の「要害山~箱岩峠」を参照されたい)。通常の松は二葉。
・「五葉」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属ゴヨウマツ Pinus
parviflora は和名の通り、五葉。
・「三葉」現に私の家の居間に、二十年も前に京都の寺で拾った三葉の松の葉(千切ったのでは断じてない)が飾ってある。
・「栢(かや)」マツ目イチイ科カヤ属カヤ
Torreya nucifera はご覧の通り、マツ目ではあるが、マツにカヤの実は生えない。たまたま直近にカヤの木があって、枝が混成していたか、或いは松の洞(うろ)などの中にたまたまカヤの種子が落ちて根付き、成長して実をつけたものか。
・「けぢめ」本来は、ある物と他の物との相違・区別の謂いであるが、ここでは、次第に移り変わってゆく対象物の、前と後の相違、の意も含んでいる。
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