好きな作家 梅崎春生
配達される郵便に混って、毎日一つか二日に一つぐらい、アンケートの葉書がある。往復はがきで、その復の方に答をしたためて返送する仕組みだ。私はたいていそれに答えない。理由は二つある。一つはたいていその質問が答えにくくできている。もう一つは、返事をしても金をくれない(まれにはくれるところもある)からである。
アンケートでも答えないが、面と向かっての質問で困らさせるのは、好きな作家、尊敬する作家はだれか、という問いだ。
私には好きな作家はいない。きらいな作家はいる。もちろんその人間でなく、作品がきらいな作家のことだ。これは指を折って、次々に名前を上げることができる。そのきらいな作家をのぞいた残りが、好きな作家とならないか。それはならない。その残りの中で、私が関心を持たない作家がずいぶんいるからだ。関心がないことは、好きということとずいぶん違う。
では、それをのぞくと、どうなるか。だんだん数は減ってくるが、それらの作家に私は関心を持っている。それも一様の関心ではなくて、関心の強弱がある。
では、強い関心を持っている作家が、好きな作家といえないか。
それはいえない。関心と好悪とは別ものである。
好きな作家はいないぐらいだから、ましていわんや、尊敬する作家なんか、古今東西、一人もいない。尊敬という感情を、物心ついて私はだれにも持ったことはない。
[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年一月十四日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。
底本では以下、「M式二十一箇条」まで、「宇宙線」という総標題パートにあるが、調べる限り、この「宇宙線」は『毎日新聞』のコラム欄の標題であって彼の附したそれではない(以下、この注は略す)。]