郵便のことなど 梅崎春生
私が世田谷から練馬に引越して来てもう五年にもなるが、練馬郵便局の郵便の遅配には、ほとほと手を焼いている。引越し当初はそうでもなかったが、一年ぐらい経ってから遅れ始め、そのまま、慢性便秘のような状態となって今日に及んでいる。初めのうちこそやきもきしたり、怒ったり、郵便課長に抗議を申し込んだりしていたが、いくら抗議を申し込んでも向うはあやまるだけで事態は好転しないので、近頃では黙って眺めている。
二月二十日付「読売新聞」、福原麟太郎氏の「暦日なし」という随筆の中に「うちでは最近さきほどの日曜に一枚のはがきも来ず、あまり不思議だから郵便局へ電話をかけてたずねたら云々」という一節があるが、わが練馬局においては郵便が全然来ない日は、二三年前からざらであって、めずらしくも何ともない。二日間続けて来ないことだって、一月の中に二度や三度はある。三日四日無配という日もあって、五日目あたりに厚さ一尺ほどの郵便物をどさりと投げ込んで行く。一休どういうことになっているんだろうと思う。
それから他の局区内の住民の話を聞くと、郵便は午前便と午後便と二度来るそうであるが、私のところは一日一回だけ。大体午後三時頃一遍で、その時刻までに来なきゃ、その日は欠配である。一日に二度来ることが一年に何度かあるが、めずらしいことがあればあるものだと、そんな日は我が家ではお赤飯をたくならわしになっているくらいだ。日曜日の局員の勤務は午前中だけだから、私の家まで廻り切れないらしく、日曜祭日は原則として配達はない。
平常の配達状態がこれだから、昨年末の全逓(ぜんてい)争議による混乱はものすごかった。遅れのひどかったのは、都内では中野、足立、葛飾、練馬だったそうで、五日とか六日とかの遅れ方ではない。配達の順序も混乱していて、つまらないデパートの広告などが割に早く着き、重要なのがなかなかやって来ない。雑誌、単行本、新聞のたぐいは全然遅配。余りのことに郵便課に電話をかけたら、当方で只今取り扱っているのは普通郵便とはがきだけで、雑誌新聞のたぐいには手が廻らなくて、そこらに積み重ねてあるという。ではこちらからいただきに上りたいがと言ったら、取りに来ても、積み重ねたまま整理してないから、むだだとの答えであった。だから私はあきらめた。その中練馬局が郵便や小包だらけになって、人間のいる場所がなくなって、局長や課長や局員は建物の外で執務しなければならなくなるだろう。その日まで待つ他はない。
普通郵便物も大いに遅れた。会合、試写会、告別式の通知などが、ほとんど期日過ぎて到着した。もっとも私は出不精で、いろんなことに義理を欠く傾向があるが、昨年の十二月に限り郵便遅配という大義名分があって、正々堂々と義理を欠くことが出来た。よろこんでいいのか、悲しんでいいのか。
「新潮」の新年号(十二月初めに発行)などが手元に届いたのは、年末から年始にかけてである。アルバイトはも少し早く入っていたらしいが、私の家は午後三時頃の組なので、かく遅れたものだろう。一日に四回も、どさっ、どさっと投げ込まれる日もあって、私たちの眼を見張らせた。しかし雑誌だの単行本だのというものは、毎日少しずつ送られて来るからこそ読む気になるものであって、いっぺんに何十冊と送られて来たら具合の悪いものである。正月ちょっと信州に行き、五日に戻って来たら、また雑誌のたぐいが(年賀状は別にして)二尺五寸ぐらいたまっていた。完全に月遅れ雑誌である。
それですっかり届いたかというと、今日(一月二十三日)に到るまで未着の郵便が若干ある。破損したのか抜き取られたのか判らない。「週刊現代」から十二月五日付はがきで、某菓子店の菓子を送ったと言って来たが、現物は未だに到着しない。途中で誰かに食べられてしまったのだろう。「週刊現代」の方では、私が食ったと思っているだろうから、割の合わない話である。
このような未着をのぞいて、年末年始の突貫工事で一応遅配はおさまったようだが、正月を過ぎてアルバイトが引揚げたとたんに、また遅配が始まった。てきめんなものである。たとえば今日でまるまる三日間、私は一過の郵便物も受取っていない。
どうしてこんなことになるかと言えば、練馬局区内は以前は田畑が大部分を占めていたが、東京都の人口増加につれて急速に家が建ち、郵便量が激増したからである。郵便物が激増すれば、どうすればいいか。配達人を激増させる以外に手はない。ふやさなければ郵便物はたまるにきまっている。これは小学生にも判る理窟だが、実際にはふやされていないらしい。行政機関職員定員法という法律があって、ふやせないのだそうであるが、法律というのは人民を守るためにあるもので、人民を困らせるためにあるのではないと私は思う。政治の貧困と言えば結論として月並だが、生活の不便を私たちに押しっけて平然としているものがどこかにあり、その平然さを支えているどす黒いものがその背後にあり、そいつらと当分対決して行かなければならないことだけは確かだ。
三年ほど前私はメーデー事件の証人となり、通計五日間証言を行なった。証言なんてずいぶんくたびれる仕事で、日当として三百円前後支給されるが、三百円ぐらいではおぎないがつかない。そのメーデー公判で、先般検事側証人渡辺警視が偽証を行なった。真実を述べますと宣誓して、真赤なうそを述べたのだから、もちろんこれは起訴されねばならぬ。ところが検察側は、これを不起訴処分にした。被告団や弁護側が怒るのは当然の話で、偽証しても起訴されないのなら、すねに傷持つ証人は皆自分の都合のいいうそを並べ立てるにきまっている。さらに裁判長が「同証人を不起訴にした検察側の態度は、今後証人として立つ警察官の偽証防止の見地からみて、はなはだ遺憾であった」と見解を述べたら、東京地検公安部長が早速「裁判長がそんな見解を述べるのは、裁判所のいわば越権と言ってよいと思う。不起訴処分には理由があり、メーデー公判自体に影響をおよぼす性質のものでない」との談話を発表した。何が影響をおよぼす性質のものでないのか。大いに影響をおよぼすことは、中学生にだって判ることだ。こういうむちゃなどす黒い談話が平然と語られることに、私たちは強く注意を払わねばならない。
[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年三月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「私が世田谷から練馬に引越して来て」の後には「(昭和三十年転居)」とポイント落ちの割注があるが、これは底本全集編者の挿入と断じて、除去した。なお、本文中で日曜の配達がないという不満が綴られているが、この当時は日曜の郵便配達が普通に行われていた。総務省公式サイト内の「情報通信統計データベース」の昭和四八(一九七三)年版「通信白書」のこちら(PDF)によれば(コンマを読点に代えた)、『郵便の配達は、明治以来毎日行われてきたが』、昭和二六(一九五一)年一月、『事業合理化の見地から一部の局で一時日曜配達の廃止を試みた。その後、我が国においても日曜週休制が普及し、日曜配達の必要性は次第に希薄となり、また日曜日に到着する郵便物も減少してきたため』、昭和四〇(一九六五)年五月から『東京神田局をはじめとして速達郵便を除き、日曜配達休止が試行され』、昭和四三(一九六八)年からは『本実施された』とある(下線やぶちゃん)。ネット上の外のデータでも一九六五年五月九日に東京神田の郵便局が全国に先駆けて一般郵便物の日曜配達を中止した、とする記載を現認出来た。因みに、私は幼稚園児であったが、この時、春生と同じ練馬区大泉学園に住んでいた。
「福原麟太郎」福原麟太郎(明治二七(一八九四)年~昭和五六(一九八一)年)は英文学者で名随筆家としても知られた。
「昨年末の全逓(ぜんてい)争議」「郵政労働運動の戦後史」(PDF)という資料によれば、この前年の昭和三四(一九五九)年十二月の項に、『全逓、団交権再開闘争で時間外拒否闘争。滞貨』(未配達滞留郵便貨物)全二千万通を『超える』とある。
「二尺五寸」七十六センチ弱。
「突貫工事」年末までの二千万通に、膨大な年賀状が加わったことから、完全に郵便システムがマヒしてしまうことを恐れ、推定だが、非組合員とアルバイトが年末年始に不眠不休レベルの作業をこなしたことをかく言っているものと思う。
「行政機関職員定員法」昭和二四(一九四九)年五月三十一日附法律第百二十六号。郵政省は二十六万六百五十五人とある。なお、この法律は翌年の昭和三六(一九六一)年四月一日から「国家行政組織法」となって廃止されている。
「メーデー公判で、先般検事側証人渡辺警視が偽証を行なった」梅崎春生も現場でルポルタージュした(私の電子テクスト「私はみた」及び「警官隊について」などを参照されたい)昭和二七(一九五二)年五月一日の第二十三回メーデーで、皇居前広場に入った一部のデモ隊に対し、警察官が拳銃を発砲、デモ隊に死者一名(都職労の一人で背中から心臓を撃ち抜かれて即死)の他、法政大学生が警棒で殴打されて死亡、警官らによる暴行障害行為によって千人を超える多数の重軽傷者が出た「血のメーデー事件」公判(デモ隊からは千二百三十二名が逮捕され、内、騒擾罪で二百六十二人が起訴された。裁判は検察側と被告人側が鋭く対立したために長期化し、昭和四五(一九七〇)年一月の東京地裁による一審判決は騒擾罪の一部成立を言い渡したものの、昭和四七(一九七二)年十一月の東京高裁による控訴審判決では騒擾罪の適用を破棄、被告の内、十六名が暴力行為等の有罪判決を受けた以外は無罪が言い渡され、検察側が上告を断念して確定)に於いて、警察官の拳銃発射が問題となった。発砲した警視庁第七方面第三中隊五名の内、四名の発砲は不法なもの(銃使用が許容される生命の危険に関わる緊迫したケースではない)であったが、彼らの隊長であった渡辺政雄警視(後に公安二課一係長)は「一人の巡査を助けるために、止むを得ずピストルを撃った」旨の噓の「拳銃発射報告書」をこの四人の巡査に書かせ、その虚偽の報告書に基づいて渡辺政雄警視本人が昭和三二(一九五七)年七月と八月の二回、証人に立って、「五人のものがピストルを撃ったが、それは一人の警官がデモ隊に暴行され、殺されそうになったので、その巡査を助けるためだ。これらの警官はいずれも地面や足もとを狙って撃ったので、危害は加えていない。私は五人の警官に別個に会って、そういう報告を聞いた」と証言した。ところが、後の公判で当の四人の巡査らがそれが噓であったこと認めてしまう。渡辺警視は弁護団から厳しく追及され、「部下の発砲が不法なものであるらしいとわかったので、噓の報告書を部下に書かせた」と、法廷で自ら偽証したことを認めた。弁護団は渡辺警視を偽証罪で告発、裁判長も公正な裁判のために厳正な処分を検察側に要求したが、その結果は渡辺警視は逮捕もされず、不起訴処分となった(以上は『「冤罪と誤判」 前坂俊之著 田畑書店』(一九八二年五月刊)の一部(PDF)他、複数の資料を参照した)。
『東京地検公安部長が早速「裁判長がそんな見解を述べるのは、裁判所のいわば越権と言ってよいと思う。不起訴処分には理由があり、メーデー公判自体に影響をおよぼす性質のものでない」との談話を発表した』この当時の、とんでもない東京地検公安部長の姓名を調べようとしたが、行き当たらなかった。御存じの方は是非、お教え願いたい。その不法にして不道徳な男を永遠に忘れぬよう、名をここに刻したいと思う。]