乱読 梅崎春生
ちかごろの学生が字を知らないことについて、評論家の杉森久英さんがどこかに書いていた。
「江戸末期のランジュクした文化」
そのランジュクが正確に書けるのがほとんどいない。乱熟と書いたり卵熱と書いたりするそうである。
わたしだってランジュクを正しく書けと言われたら、そらでは書けないかもしれない。では書かねばならぬときにはどうするか。字引きをひけばいいのである。辞書はそのためにあるのだ。
乱熱や卵熱が間違いだという自覚が、いまの若い者には欠如しているらしい。戦後の国語教育のせいもあるだろう。しかしわたしたちでも学校教育で無制限に漢字を教わったわけでもないし、また習った字を全部覚えているわけでもない。実際に書き取りでもさせたらいいかげんのものである。しかし「爛熟」はランジュクである、という文字の感覚だけはしかと保有している。読めさえすれば書くときは前述のごとく辞書を使えばいい。
その感覚をわたしたちはどこから得たか。教科書からであるが、教育書以外の乱読からも得た。いまの若い者は映画だのテレビだのにうつつをぬかして、乱読の習慣がないのだろうと知り合いのある大学生に話したら、
「そりやむりですよ。乱読しようにもいまの新聞雑誌のたぐいはみんな当用漢字だけで、むつかしい字にはお目にかかれません。だからあなた方先輩たちのように、文字において爛熟するわけにはいかないです」
との答えだった。そう言われてみるとなるほどそんな気もするが、また何か間違っているような気もする。この間題はいずれあらためて考え直してみようと思う。
何からこんな問題になったのか。ああそうだ、少年雑誌のことからだった。
いま回想するに、大正末期の少年雑誌は実に反米的風潮にあふれていた。「日米未来戦」なんていう小説が堂々一年間連載されて、さいごには日本艦隊がアメリカ艦隊をめちゃくちゃにやっつけて、アメリカはわが国に和をこい、太平洋上に平和の光がおとずれるというような筋である。
題は忘れたけれども、各国の少年が自分の愛機を操縦して世界一周を競争する小説があった。ここでもアメリカ少年は卑劣な悪役で、日本の少年機のガソリンをそっと抜いて飛べなくしたりする。すると日本少年に自分の手持ちのガソリンをわけてくれるのがイギリス少年で、けっきょくどうなるかというと一等は日本の少年、すこし遅れてイギリス機が二着。アメリカ少年は卑きょうなことばかりをしたあげく、天罰のためかどうかしらないが、洋上に不時着してびりに落ちるという結末になっていた。
わたしたちはそんな小説を胸おどらせながら読んだ。
[やぶちゃん注:「南風北風」連載第四十三回目の昭和三六(一九六一)年二月十五日附『西日本新聞』掲載分。前回の末尾が枕となっている。
「杉森久英」(明治四五(一九一二)年~平成九(一九九七)年)は小説家。石川県七尾市生まれで金沢市で育った。石川県立金沢第一中学校から第四高等学校を経て、昭和九(一九三四)年に東京帝国大学国文科卒業後、旧制埼玉県立熊谷中学校(現在の埼玉県立熊谷高等学校)の教師となったが退職、その後に中央公論社編集部に入社するも、編集者という職に自信を失って再び退職、大政翼賛会文化部や日本図書館協会などを経て、戦後は河出書房に入って『文藝』の編集に従事、昭和二二(一九四七)年には『文藝』編集長に就任している。昭和二八(一九五三)年に短篇「猿」が芥川賞の候補になったのを機に作家専業となり、伝記小説の分野で活躍、昭和三七(一九六二)年には同郷の作家島田清次郎の伝記小説「天才と狂人の間」で直木賞を受賞した(以上はウィキの「杉森久英」に拠った)。
「日米未来戦」冒険小説で一世を風靡した作家宮崎一雨(いちう 明治一九(一八八六)年或いは明治二二(一八八九)年~?)が『少年倶楽部』に大正一一(一九二二)年一月号から翌年二月号まで連載した「小説日米未來戰」であろう。連載終了後の大正十三年八月二十五日には単行本「日米未來戰」(大日本雄弁会刊)が出ている。これは上田信道のサイト内の「大正期における日米未来戦記の系譜」(『児童文学研究』第二十九号(一九九六年一月十一日日本児童文学学会発行)に詳しい。
「各国の少年が自分の愛機を操縦して世界一周を競争する小説」不詳。識者の御教授を乞う。]