街に死ぬ覚悟 梅崎春生
近ごろあちこちで飛行機が落ちたり、汽車が衝突したりして、たくさんの人が死んでいる。またそういう派手なのではなく、そこらの交番の掲示を見ると、死亡何人、重傷何人と、毎日着々ひき殺されたり、はね飛ばされたりしている。
交通機関に関する限り、現代は乱世時代と呼んでいいだろう。
昔乱世の武士たちは、弓矢や刀剣をとる身として、いかに立派に死ぬべきかを、真剣に考え、修養し、自己訓練をした。
現代における我々も、いかにひかるべきか、いかに立派にはね飛ばさるべきかを、本気で考えるべき時期が来たようである。ぶざまなひかれ方をしてはならぬ。
たとえば下着について。
神風タクシーにはねられて救急車で病院に運ばれる。衣服をぬがされる。その際よごれた下着を着用していては、日ごろのたしなみがしのばれる。外出の際には、さっぱりした下着に坂換えるのが得策というものである。
ところがこれと反対の考え方をする人がいる。私の知人で、外出に際して、下着を全部よごれたのに取換えるのがいる。よごれたのを着ていたら、もしはね飛ばされた時、大いに恥をかくから、精神が緊張して、タクシーやオート三輪に用心するようになるそうだ。自分の廉恥心を利用して、注意力、警戒力を鋭敏にさせるというやり方である。
なるほど。それも一法といえるだろう。
[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年八月二十二日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。
「近ごろあちこちで飛行機が落ちたり、汽車が衝突したりして、たくさんの人が死んでいる」まず、この記事掲載の十日前に、大きな航空機墜落死亡事故が発生している。ウィキの「全日空下田沖墜落事故」から引く。これは『全日本空輸が創業後はじめておこした人身死亡事故(航空事故)で』、一九五八年八月十二日、『東京・羽田空港発名古屋飛行場(小牧空港)行きの全日空25便はレシプロ双発旅客機であるダグラスDC-3(機体記号JA5045)で運航していた。伊豆半島下田市沖上空を飛行中の午後8時30分ごろ、たまたま近傍を大阪発東京行きとして飛行していた同僚機16便に対し、左側エンジンが不調になり停止したこと、これから羽田空港に引き返すことを伝えた後、午後8時55分の通信を最後に消息を絶った』。『翌日になって、伊豆下田沖の利島付近の海上に25便が墜落しているのが発見されたが、乗員3名、乗客30名のあわせて33名全員が犠牲になった。最終的には犠牲者18名の遺体が収容されたが、残りの犠牲者と機体の大部分は収容されなかった。また機体は水深600mの海底に沈んでおり、当時の技術では引き上げることは不可能であった』(下線やぶちゃん)。『当時の航空機にはフライトデータレコーダーやコックピットボイスレコーダーなどといった装備は取り付けられておらず、事故原因が完全に解明されることはなかった。ただし回収されたトイレの扉がロックされた状態であったことから、事故直前に使用していた乗客がいたと思われ、トラブル発生から僅かな時間で墜落したと見られている。また事故原因になったと思われるトラブルについてはエンジンの不調に加え、手動式ジャイロコンパスも不具合になったとの説もあった。また地上からの目撃証言には残された右側エンジンも出火したというものもあった。そのため同時に多数のトラブルが発生したため墜落に至ったとの推測があった。しかしながら、いずれにしても事故原因を解明するには至らなかった。9月2日に運輸大臣に提出された事故調査報告書もこれらの可能性を指摘した上で、原因を特定するのは困難であると結論付けていた』。後に『唱えられた説に、水平儀のポンプが不調になり、操縦士が切り替えに失敗して不作動になり、盲目飛行になり夜の海に墜落したというものがある。当時の全日空は資金に乏しく、所有していたDC-3はアメリカの航空各社から中古機を集めたものであったため、仕様が統一されていなかったという。そのため操縦室の計器板やスイッチ類の配置も機体によって違いがあり、操縦者が戸惑っていたという。左右エンジンのいずれかが作動しなくなった場合に水平儀を回す真空ポンプをスイッチで切り替える必要があったのは、事故当時就航していた9機のDC-3のうち事故機のみであったという(ほかの機体は片方のエンジンが止まっても切り替える必要が無かった)。そのため、操縦者が切替スイッチがどこにあるかがわからず、水平儀を不作動にしてしまったというものである。ただし操縦席部分のサルベージは行われなかったため、真偽は不明である』とある。次の汽車の死亡事故であるが、恐らく、記事の二ヶ月前、一九五八年六月十日午後三時二十八分に発生した「山陰本線列車バス衝突事故」のことと思われる。ウィキの「日本の鉄道事故(1950年から1999年)」により引く。山陰本線八木駅と千代川駅間の『愛田川関踏切で、園部発京都行き普通列車に京都交通の貸切バスが衝突、引きずられ大破し麦畑に転落した。この事故でバスに乗っていた亀岡市立亀岡小学校5年生一行のうち、4名が死亡、38名が重傷、50名が軽傷を負った。列車側も牽引していたC55蒸気機関車が転覆し、客車2両が脱線』した(下線やぶちゃん)。実はこの記事掲載の八日前一九五八年八月十四日午後二時三分にも国鉄山陽本線南岩国駅と岩国駅間の菊池踏切で「特急かもめ米軍トレーラー衝突事故」が発生している(同ウィキによれば、博多発京都行の特急「かもめ」(十両編成)に米海兵隊岩国基地所属の米軍人が運転するトレーラー・トラックが衝突、トレーラーは五十メートル引きずられて大破し、「かもめ」側も『牽引蒸気機関車(C62 4)と1両目客車(ナハフ11 9)が脱線し「く」の字状に転覆した。また後続の客車2両も脱線した』『事故原因はトレーラーの運転手の警報無視による。これは下り貨物列車の通過後、引き続いて上り特急列車が通過する警報が出ていたのを無視して横断を強行したため。また踏切には遮断棒がなく事故現場が緩やかなカーブであったのも災いした』とある)が、この事故では特急の乗員乗客四十三名が重軽傷を負っているものの、死亡者は出ていないので一応、除外はされる。但し、春生の意識の中には当然、想起された事故ではあろう。
「そこらの交番の掲示を見ると、死亡何人、重傷何人と、毎日着々ひき殺されたり、はね飛ばされたりしている」ウィキの「交通事故」によれば、『戦後の高度経済成長期に自動車保有率の上昇と呼応して交通事故が増加し』、本記事のまさに翌年の一九五九年には年間交通事故死者数が一万人を突破、『戦争でもないのに膨大な人数が犠牲となることから、「交通戦争(第一次交通戦争)」と比喩される事となった』とある。
「神風タクシー」ウィキの「神風タクシー」より引く。主に昭和三〇年代(一九五五年~一九六四年)に、『日本で交通法規を無視し、無謀運転を行っていた日本のタクシーを』呼ぶ語(死語)。一九五〇年代(昭和三〇年代前半)になると、『日本はモータリゼーションの進行に伴い、道路渋滞も起き始めた。歩合給を稼ぐために、速度制限無視、急停車、急発進、赤信号無視、強引な追い越しなどを行って、早く客を拾い、あるいは一瞬でも早く目的地に着いて、客回転を上げようと、無謀な運転を行うタクシードライバーが増加した』。『この無謀な運転ぶりを「神風特別攻撃隊」になぞらえて、人々は『神風タクシー』と呼んだ。その命名は誰によるものかは不明だが、「週刊新潮」の記事からと思われる』。『この無謀運転の主な原因は、運転手の固定給の少なさや、ノルマ制などの労働条件であった。これが社会問題になると共に、タクシー労働組合などの運動によって、神風タクシーは基本的に無くなった』。昭和三四(一九五九)年八月十一日に『優良運転者に個人タクシーが初めて認可された。これも神風タクシーが無くなった要因となった』。また同年には、昭和三九(一九六四)年の『東京オリンピック開催が、国際オリンピック委員会総会で決定されたこともあり、国家規模で日本のイメージアップのため、道路交通法が厳しく運用され、神風タクシーは警察の取締りにより厳しく摘発され、その姿を消した』とある。]