芥川龍之介 手帳4-16~18
《4-16》
○ウルユス(たんりういんしやく) 長崎健壽堂 免許蘭方
阿蘭陀あか萬能膏、井上製(黑に白) 金具磨き紙 玄々堂 紅毛祕傳女悦長命丸 長崎丸山橫山一德齋 蘭方花の露(オランダ美人像) 江戸兩國橫山町二丁目 大和屋源藏 阿蘭陀美人油
[やぶちゃん注:「ウルユス(たんりういんしやく) 長崎健壽堂 免許蘭方」森ノ宮医療学園公式サイト内の「はりきゅうWebミュージアム」の『江戸時代の不思議な名前の薬「ウルユス」』に本薬の看板(画像有り)及び薬について以下の記載がある。
《引用開始》
「ウルユス」看板 松尾健寿堂 明治時代? 46×66cm
薬の宣伝に用いられた看板です。この「ウルユス」という薬は、江戸時代、文化8年(1811)に発売された我が国最初の洋風名の売薬です。江戸時代にカタカナの商品名とは珍しいものですが、どんな由緒があって名付けられたのでしょうか。
この言葉、実はオランダ語でも他の西洋語でもありません。「ウ」と「ル」と「ユ」を組み合わせると「空」の字になります。「空」に、「ス」をあわせ、空(から)にする、お腹の中を空にするという効能から命名された緩下剤でした。
西洋の最新薬を装ってつくられた売薬ですが、上質の「大黄」をふんだんに使った薬で、実際に良く効いたようです。その上、服用法を丁寧に解説した包み紙を用いていたようで、宣伝以外にも、細やかな配慮が凝らされていました。
《引用開始》
順天堂大学教授(医史学)酒井シヅ氏の『カタカナの売薬の始祖「ウルユス」』の解説(PDF)が非常に詳しい。それによれば、『販売元は長崎であるが、長崎と縁はない』とある。「免許蘭方」は持っているのかも知れないが、薬を売るための箔のようなものであろう。
「阿蘭陀あか萬能膏、井上製(黑に白)」ネット検索によれば、「近世日本薬業史研究」(一九八九年: 薬事日報社刊)の中に「あか万能膏 井上屋吉右衛門(堺筋)」という文章断片を管見し得る。
「金具磨き紙 玄々堂」不詳。
「紅毛祕傳女悦長命丸」「長命丸」「女悦丸」は江戸期以降の媚薬(淫薬)として存在する。
「長崎丸山橫山一德齋」不詳乍ら、「丸山」は長崎の旧花街として知られた町(現在の同市丸山町及び寄合町附近)である。
「蘭方花の露(オランダ美人像)」不詳乍ら、ウィキの「ハイドロゾル」(hydrosol:「固体粒子が分散している安定な懸濁液」の意。「芳香蒸留水」を指す言葉としても用いられる)に、『福沢諭吉は』明治元(一八六七)年の『科学入門書『訓蒙窮理図解』で、蒸気や蒸留について詳細に解説しており、芳香蒸留水(薔薇水)を「花の露」と呼んでいる』とある。ここも所謂、「バラ水」のことであろう。
「江戸兩國橫山町二丁目 大和屋源藏 阿蘭陀美人油」不詳。「大和屋源藏」を名乗った狂歌師はいるが別人であろう。これも前と似たような芳香性精油であろう。]
○正保四年長崎港圖 阿蘭陀人文箱
南蠻鐡角鍔 >[やぶちゃん注:ここに以下の三文字の記号。]
チヤルメラ吹きの阿蘭陀人の小柄
[やぶちゃん注:この奇妙な三つの文字は「阿蘭陀」を意味する符牒か?
「正保四年」一八六四年。
「南蠻鐡角鍔」南蛮鉄(なんばんてつ)は室町末期に鉄砲や刀の鉄の大量需要に伴い、ポルトガル貿易で輸入した舶載鉄を指し、それを素材として日本の職人が加工した刀の四角形に近い形状の鍔(つば)を指しているものと思われる。]
○阿蘭陀船の唐草 風鎭 シーボルド 象牙の阿蘭陀人根付 マリア觀音
[やぶちゃん注:「シーボルド」ドイツの医師で博物学者のフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von
Siebold 一七九六年~一八六六年)のことであろう。文政六(一八二三)年に長崎オランダ商館の医師として来日、長崎に「鳴滝塾」を開設しれ診療と教育とに当たり、日本の西洋医学発展に影響を与えた。シーボルト事件(文政一一(一八二八)年のシーボルト帰国の際、国禁の日本地図や葵紋付きの衣服などを持ち出そうとして発覚した事件)で翌年に国外追放となったが、安政六(一八五九)年に再来日して幕府の外事顧問を勤めた。
「マリア觀音」ウィキの「マリア観音」から引く。『おもに江戸時代の禁教令によって弾圧を受けたキリシタン(キリスト教徒)達によって信仰の対象とされた聖母マリアに擬せられた観音菩薩像』で、『その多くは中国製の青磁、あるいは白磁の慈母観音像』『であった。慈母観音とは中国発祥の観音菩薩像で、稚児を抱き慈愛に満ちた造形表現となっており、肥前(長崎県)の浦上(現・長崎市浦上)や外海、五島などの潜伏キリシタンは、これに聖母マリアを投影してその像とした。その形状は地域によってさまざまであり、中には菩薩像の胸に十字架を彫刻したり、国内で窯焼きされたものもあったと考えられている。これらの像は、キリシタンとして信仰の灯を絶やさぬよう神(デウス)や聖母マリアへ祈りを捧げるのに使われたという。また、潜伏キリシタンがいた地方でも、平戸などマリア観音が用いられなかった地域もある』。ウィキには最後に『芥川龍之介も蔵していた』とあるが、これは入手経路が全く判然とせず(正規の古美術商や蒐集家などから購入・譲渡されたものであれば、そうはっきりと記すはずであるが、そうした記載はどこにも見当たらない)、一部の他者の追想記事を読む限りでは、龍之介が長崎を再訪した際、長崎のどこかに飾られてあったマリア観音像を芥川龍之介自身がこっそりと懐に入れてしまった(窃盗した)ものである可能性がかなり高いものと私は踏んでいる。]
*
《4-17》
○東坡の墨竹 柱漆をぬりし如し 三四枚の唐紙 鐡翁 木下逸雲の山水の大幅 花鳥の支那屛風 銀はりつけの床 臺灣事件 13疊 10疊 石燈籠 右手水鉢 松(代官より貰ふ
[やぶちゃん注:どこかの寺院の描写メモと思われるが、私は長崎には生徒の修学旅行引率で一度行ったきりであるので、皆目、見当がつかない。識者の御教授を乞うものである。
「東坡の墨竹」北宋の政治家にして詩人蘇東坡こと蘇軾(一〇三七年~一一〇一年)は墨竹図の名手として知られた。墨戯と称して盛んに描いたが、竹は南方の植物であり、そこには彼が受けた流謫に等しい左遷への含みがあろう。
「鐡翁」幕末の長崎で活躍した南画家鉄翁祖門(てつおうそもん 寛政三(一七九一)年~明治四(一八七二)年)のこと。
「木下逸雲」(寛政一二(一八〇〇)年~慶応二(一八六六)年)はやはり幕末の長崎の南画家。前の鉄翁祖門と三浦梧門とともに「長崎三大家」「長崎南画三筆」などと称される。
「臺灣事件」これは「タイオワン事件」(別名・「ノイツ事件)のことか? ウィキの「タイオワン事件」から引いておく。寛永五(一六二八)年に『長崎代官の末次平蔵とオランダ領台湾行政長官ピーテル・ノイツ(Pieter Nuyts)との間で起きた紛争』。『「タイオワン」とは台南安平の当時のオランダ名。台湾では浜田弥兵衛事件(濱田彌兵衛事件)と呼ばれる』。『朱印船貿易が行われていた江戸時代初期、明(中国)は朱元璋以来冊封された国としか貿易を行なっていなかった上に朝鮮の役による影響により日本商船はほぼ中国本土に寄港することはできなかった。そのために中継ぎ貿易として主な寄港地はアユタヤ(タイ)やトンキン(ベトナム)などがあり、また台湾島南部には昔から明(中国)や日本の船などが寄航する港が存在した』。『当時、日本、ポルトガル王国(ポルトガル)、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)、イギリス第一帝国(イギリス)の商人が日本貿易や東洋の貿易の主導権争いを過熱させる時代でもあり』、元和八(一六二二)年には『明(中国)のマカオにあるポルトガル王国居留地をネーデルラント(オランダ)が攻撃した』。『しかし敗退したネーデルラント(オランダ)は対策として台湾の澎湖諸島を占領』、『要塞を築いてポルトガルに備えた。このことに明(中国)は大陸から近い事を理由に澎湖諸島の要塞を放棄することを要請し無主の島である台湾から貿易をすることを求めたため』、二年後の一六二四年(寛永元年)、『ネーデルラント(オランダ)は台湾島を占領、熱蘭遮(ゼーランディア)城を築いて台南の安平をタイオワンと呼び始める。オランダはタイオワンに寄港する外国船に』一〇%の『関税をかけることとした。中国商人はこれを受け入れたが、浜田弥兵衛(長崎代官で朱印船貿易家の』一人『でもある末次平蔵の配下)ら日本の商人達はこれを拒否した。これに対し、オランダはピーテル・ノイツを台湾行政長官に任命し』、一六二七年(寛永四年)、『将軍徳川家光との拝謁・幕府との交渉を求め江戸に向かわせた』。『ノイツの動きを知った末次平蔵も行動に出』、同『年、浜田弥兵衛が台湾島から日本に向けて』十六人『の台湾先住民を連れて帰国。彼らは台湾全土を将軍に捧げるためにやって来た「高山国からの使節団」だと言い、将軍徳川家光に拝謁する許可を求めた。しかし当時の台湾は流行り病が激しく』、皆、『一様に疱瘡を患っていたため』、『理加という者のみを代表として拝謁させ、残りは庭に通すのみの待遇となった。彼らはあまりにも汚れていたため、城の者から』二度と『連れて来ないようにと言われたという話もあり』、『具体的な話が進められたわけではなく、遠路から』労(ねぎら)いの意を含めて、『皆、将軍家光から贈り物を授かり一旦帰国の途に着いた。しかしながら、結果としてノイツの家光への拝謁を阻止することに成功し、ノイツは何の成果もなく台湾に戻った』。翌一六二八年六月(寛永五年五月)、『タイオワン(台南・安平)のノイツは平蔵の動きに危機感を強め、帰国した先住民達を全員捕らえて贈り物を取り上げ監禁、浜田弥兵衛の船も渡航を禁止して武器を取り上げる措置に出た。この措置に弥兵衛は激しく抗議したが』、『それを拒否し続けるノイツに対し弥兵衛は、終に隙をついてノイツを組み伏せ』、『人質にとる実力行使に出た』。『驚いたオランダ東インド会社は弥兵衛らを包囲するも人質がいるため手が出せず、しばらく弥兵衛たちとオランダ東インド会社の睨み合いが続いた。しかしその後の交渉で互いに』五人ずつ、人質を出し合い、『互いの船に乗せて長崎に行き、長崎の港に着いたら』、『互いの人質を交換することで同意、一路』、『長崎に向けて船を出した。無事に長崎に着くと』、『オランダ側は日本の人質を解放、オランダ側の人質の返還を求めた。ところが、長崎で迎えた代官末次平蔵らは』、『そのままオランダ人達を拘束、大牢に監禁して平戸オランダ商館を閉鎖してしまう』。『この事態に対応したのはオランダ領東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン。クーンは状況把握のためバタヴィア装備主任ウィルレム・ヤンセンを特使として日本に派遣したが、平戸藩主松浦隆信と末次平蔵はヤンセンが』三代『将軍徳川家光に会うため江戸へ行くことを許さず、将軍家光の名を騙った返書を作成してヤンセンに渡した。その内容というのは主に、「先住民を捕らえ、日本人の帰国を妨害したことは遺憾である。代償としてタイオワンの熱蘭遮(ゼーランディア)城を明け渡すこと。受け入れれば将軍はポルトガルを憎んでいるのでオランダが貿易を独占できるように取り計らう」というものでヤンセンは将軍に会えないままバタヴィアにこの返書を持ち帰った』。『しかしヤンセンがバタヴィアに戻ると総督クーンは病死しており、彼を迎えたのは新なオランダ領東インド総督であり、かつて平戸オランダ商館で商館長(カピタン)を勤めていたヤックス・スペックスだった。長年日本で暮らし』、『日本と日本人を研究していたスペックスは、これが偽書であることをすぐさま見抜き』、『ヤンセンを再び日本に派遣した』。『以後の具体的な内容を記録するものは日本側に残されていない。長崎通詞貞方利右衛門がオランダ側に語ったのは「平蔵は近いうちに死ぬだろう。」というもので、末次平蔵はこの後、獄中で謎の死を遂げている。当時の日本は鎖国体制に入ろうと外国との揉め事を極力嫌っていたうえ、オランダ側の記録には将軍が閣老達に貿易に関わる事を禁じていたが閣老は平蔵に投資をして裏で利益を得ていたため切り捨てられたらしいことが噂されているなどの記述がある』。『オランダは「この事件は経験の浅いノイツの対応が原因であるためオランダ人を解放してさえくれれば良い」とし、ノイツを解雇』、『日本に人質として差し出した。日本側は、オランダ側から何らかの要求があることを危惧していたが、この対応に安堵し、これが後に鎖国体制を築いた時にオランダにのみ貿易を許す一因ともなった。なお、ノイツは』一六三二年(寛永九年)から一六三六年(寛永十三)年まで日本に抑留されている。寛永一三(一六三六)年のこと、『ニコラス・クーケバッケルの代理として参府したフランソワ・カロンは』、将軍家光との拝謁の際、『銅製の灯架を献上。家光はこれを非常に気に入って返礼として銀』三百『枚を贈った。この時、以前より平戸藩主からノイツの釈放に力を貸すよう頼まれていた老中の酒井忠勝がノイツの釈放を願うとすぐに許可された。カロンが献上した灯架(燈籠)は、その後日光東照宮に飾られ、今も同所に置かれている』。寛永九(一六三二)年に『閉鎖されていた平戸オランダ商館は再開』され、また、寛永一一(一六三四)年には『日本人が台湾に渡ることは正式に禁止され、その後は鄭氏政権』(一六六二年~一六八三年の期間、台湾に存在した政権。清への抵抗拠点を確保するために明の軍人政治家鄭成功(ていせいこう 一六二四年~一六六二年)が台湾を制圧すること形で成立した。清の攻撃によって滅亡するまで二十年強の間、台湾で初めて漢民族政権によって統治が行われた)が『誕生するまでネーデルラント(オランダ)が台湾を統治し』た。安永四(一七七五)年に『オランダ商館の医師として長崎に滞在したスウェーデン人のカール・ツンベルクは、その著書『日本紀行』の中で本事件について触れている』。『ツンベルクは日本人は自尊心が高く、西洋人の滑稽さや不正は忘れて許してくれるが、傲慢な軽蔑的態度は許しがたい罪を犯したとみなすと評したのち、本事件に関するケンペルの『日本誌』の記述を引いて、本事件は日本人商人に対するノイツの扱いが非常に酷かったため、日本君主および国民に対する甚だしい侮辱であると憤慨した侍臣たちによる復讐である、としている』。『日本人は正義の念』篤く、『自負心強く』、『勇敢な国民であるため』、『侮辱を加える者には容赦なく、また、普段は怒りや憎しみの情を表さず、侮辱に対して言い返して自分を慰めるようなことをしないが、憎厭の念を心中にため込み、機が至れば直ちに殺傷に至るような復讐に出ると注意を喚起している』、とある。]
○文化十四年渡來阿蘭陀女人 平戸港灣圖 咬𠺕肥黑坊 阿蘭陀人 日傘をさしかく 長ぎせる ステツキ 黑服 黑帽 ぺルリ アハタムス像 芳幾の寫眞鏡大象 唐船 魯西亞船 紅毛フランカイの湊萬里鐘響圖浮き畫
[やぶちゃん注:「文化十四年」一八一七年。
「咬𠺕肥黑坊」「咬𠺕肥」は「じやがたら(ジャガタラ)」と読み、マレーのことであが、ここでは黒人であるから、色の浅黒い、南インド出身或いは「パンジャビ」(彼等は言語も宗教も異なるので厳密にはインド人ではない)と呼ばれる北インド地方から移入して来た人物かも知れない。
「ぺルリ」黒船で来日し、幕府に開国を迫った東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry 一七九四年~一八五八年)は嘉永六年六月三日(一八五三年七月八日)に浦賀に入港したが、六月九日(グレゴリオ暦七月十四日)に幕府が指定した久里浜へ廻り、護衛を引き連れ上陸、戸田氏栄と井戸弘道に大統領親書を手渡している。ペリーは長崎に上陸せず、考証も江戸へ向かっているわけだが、これについて、ペリーは日本開国任務が与えられる一年以上前の一八五一年一月に日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出しており、その最後に、『オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき』とあるのが、その主たる理由であった(以上は引用を含め、ウィキの「マシュー・ペリー」に拠った)。
「アハタムス」三浦按針(あんじん)の日本名で知られる徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士で貿易家のウィリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~元和六(一六二〇)のことか? 家康の没後は鎖国体制が強化されたため、存在自体が警戒され、不遇のうちに平戸で没している。この当時、彼の「像」が長崎にあったのだろうか?
「芳幾の寫眞鏡大象」落合芳幾(よしいく 天保四(一八三三)年~明治三七(一九〇四)年は浮世絵師。雅号、一惠斎。江戸浅草生まれ。十八歳で歌川国芳門下となる。これは文久元年一月のクレジットを持つゾウを描いた「寫眞鏡大象圖」という表題の絵である。現在、神戸市中央区山本通りにある「シュウエケ邸」(イギリスの建築家A・N・ハンセルによって明治二九(一八九六)年に設計・建造された邸宅)公式サイト内のこちらの冒頭に掲げられてある絵である。
「紅毛フランカイの湊萬里鐘響圖浮き畫」浮世絵師で歌川派の祖である歌川豊春(享保二〇(一七三五)年~文化一一(一八一四)年)が描いた「浮繪 紅毛フランカイノ湊萬里鐘響圖」のこと。ウィキの「歌川豊春」のこちらで原図画像を見られる(パブリック・ドメインなので下にも掲げておいた)。
さて、この絵については、岡野Heinrich 圭氏の「西洋都市景観図」(PDFでダウンロード可能)に、『「浮絵紅毛フランカイノ湊萬里鐘響図」永寿堂西村屋極印(1784? Köln, Museum für
Ostasiatische Kunst, Inv. Nr.10, 73. 』『リッカー美術館『平木浮世』『絵財団』『東京1975,Taf.13)』と詳細データが載り、以下の解説が載る(コンマを読点に代えた)。
《引用開始》
透視遠近法を用いて奥行きを表現するという、当時の日本では新しく珍しい手法、この手法による画は「浮絵(うきえ)」と称され、18世紀前半の浮世絵師奥村政信(没1764)が始めて試みて以来、江戸っ子のみならず日本中で珍奇がられ好評だった。「浮世絵類考」(1790/1800/1802/1813―30)に「近来うき画をにしき絵にして書出せり。宝暦の比(ころ)のうき絵に勝れり」(参考:鈴木重三:浮絵の展開と変貌、於:浮絵、東京1975p.記載なし)と評価されたのが18世紀後半の浮世絵師歌川豊春(没1814)だ。豊春は浮世絵の歌川派の祖で、この豊春が、ヴェネツィアを,「フランカイ」とデタラメに銘打って、浮世絵の「浮絵(うきえ)」に描き出して見せたのがこの西洋都市景観図だ。この「フランカイの湊」は、豊春の浮絵の代表作に属する。
[やぶちゃん注:一部略。]遠近法の、奇妙なる不徹底さ未熟さは、鎖国下の、日本人浮世絵師たる豊春が描いたとすれば、納得が行く。
帯の如く奇妙な雲は、「豊春雲」と呼ばれて、当時は評判だったという。ということは,せっかく透視遠近法で捉えられた3次元的奥行き感を阻害する「豊春雲」などという代物も,当時の日本人の目には何ら目障りでは無かったということになる。現代の日本人の目にも「豊春雲」はさほど支障にならぬ。ということは,日本人なる人種は,かなりユニークな「視」Sehen を持っているということになるのだろうか。
ところで,時は鎖国時代。場所は江戸。その状況下で、全く見ず知らずのヴェネツィアを、かく正確無比に描き出し得たのは何故か?
勿論カナレットの油彩画が[やぶちゃん注:ダウンロードして原論文の引用の前を読まれたい。]、当時の長崎に持込まれたことはあり得ない。
となれば、ヴィセンティーニの銅版画こそが、長崎に舶載され、それが、江戸の浮世絵師豊春の絵心を痛く刺激して、この浮絵「浮絵紅毛フランカイノ湊萬里鐘響図」を描かせたと推理するより他ない。
豊春も、佐久間象山とか坂本竜馬とか当時の精神的エリートたちと同様に、「異国をば誰でも見てえずらい」とか「異国をば見たいがぜよ」などと心に叫んでいたと思うと愉快ではある。
しかし私は、豊春の原画となったであろう「ヴィセンティーニ」を、長崎でも東京でも未だ発見できていない。
《引用終了》]
*
《4-18》
○天學初函 畸人 西學風 辯學遺牘 幾何原本 天學原本 天文畧 代疑篇 三山論學記 唐景教碑附 天主實義 職方外記 同文算指 圏客較義 勾股義 計閑 十慰 交友論 七克 萬物旨原 彌撒祭義 泰西水法 袁度説 教要解畧 聖記百言 二十五言 靈言蠡句 况義 渾蓋通憲門記 明量法義 筒平儀説記 滌平義記 合掌論 滌罪正記 福建通志 圯緯 闢邪集 囊有話 以上三十八部御國禁耶蘇書目
[やぶちゃん注:「天學初函」「東方書店」公式サイトの同書の解説によれば、明万末期の官僚で、徐光啓(一五六二年~一六三三年:暦数学者でキリスト教徒としても知られる)とともにマテオ・リッチ(マテオ・リッチ(Matteo Ricci 一五五二年~一六一〇年:イタリア人イエズス会員でカトリック教会司祭。中国名、利瑪竇(りまとう)。明朝宮廷に於いて活躍した。現地で亡くなり、北京に葬られ、そこが北京で死亡した宣教師の墓地となった)などイエズス会宣教師と親しく、受洗してキリスト教徒となり、ヨーロッパの科学を広く中国に紹介した科学者李之藻(一五六五年~一六三〇年)が中心となって一六二八年に編纂した神学及び科学叢書。「理編」と「器編」に分けられており、マテオ・リッチ、ジュリオ・アレニ(Giulio Aleni 一五八二年~一六四九年:明末の中国で宣教活動を行った、イタリア出身のイエズス会の宣教師)などの宣教師及び徐光啓や李之藻自身の著述・訳書二十点を収録する。「理編」に収録された「西学凡」・「唐景教碑附」・「畸人十篇」・「交友論」・「二十五言」・「天学実義」・「辯学遺牘(べんがくいとく)」・「七克(しちこく)」・「霊言蠡勺(れいげんれいしゃく)」・「職方外紀」は、いずれも天主教教義を探究する神学著述であり、「器編」に収録された「泰西水法」・「渾蓋通憲図説(こんがいつうけんずせつ)」・「幾何原本」・「表度説」・「天問略」・「簡平儀」・「同文算指前編通編」・「圜容較義(えんようきぎ)」・「測量法義」・「勾股義(こうこぎ)」は水利学・天文学・数学などの専門書であり、「中国天主教第一部叢書」としてその史料価値が高く評価されている、とある。下線の書は上の「三十八部御國禁耶蘇書目」に含まれている。
「畸人」前記「天學初函」の「畸人十篇」と同書であろう。
「西學風」前記「天學初函」の「西学凡」の誤記であろう。前記ジュリオ・アレニが書いた西洋学術紹介書。
「天學原本」不詳。
「代疑篇」楊廷筠編の漢訳神学書と思われる。早稲田大学図書館 「古典籍総合データベース」で原本を視認出来る。
「三山論學記」前記のジュリオ・アレニと明の政府高官との問答記録。キリスト教の立場から理気の説や仏教を批判したもの。
「天主實義」前記「天學初函」の「天學實義」の誤記であろう。
「職方外記」前記「天學初函」の「職方外紀」と同書(誤記?)であろう。
「同文算指」前記「天學初函」の「同文算指前編通編」(算法書)と同書であろう。
「圏客較義」前記「天學初函」の「圜容較義」(天文書)の誤記であろう。
「計閑」不詳。
「十慰」不詳。
「萬物旨原」前記ジュリオ・アレニが一六二八年に刊行した問答形式のキリスト教理論書。
「彌撒祭義」同じくジュリオ・アレニ一六二九年に刊行した神学書。
「袁度説」前記「天學初函」の「表度説」と同書(誤記?)であろう。
「教要解畧」王豊肅著の神学書。
「聖記百言」羅雅谷・徳肋撤による漢訳神学書と思われる。
「靈言蠡句」前記「天學初函」の「霊言蠡勺」の誤記であろう。
「况義」「イソップ物語」の漢訳本。
「渾蓋通憲門記」前記「天學初函」の「渾蓋通憲図説」と同書(誤記?)であろう。
「明量法義」前記「天學初函」の「測量法義」と同書であろう。
「筒平儀説記」前記「天學初函」の「簡平儀」と同書(誤記?)か。
「滌平義記」不詳。
「合掌論」不詳。
「滌罪正記」不詳。
「福建通志」明・清代の福建省の地方誌。
「圯緯」不詳。「いい」或いは「しい」と読むか。
「闢邪集」これは浄土宗学僧杞憂道人による「翻刻闢邪集」であろう。これは明末にマテオ・リッチを始めとするカトリック布教に対抗した明・清代の儒教・仏教側からの論駁書の翻刻集である。小林志保・栗山義久氏共著「排耶書『護国新論』、『耶蘇教の無道理』にみる真宗本願寺派の排耶運動」に拠った。
「囊有話」不詳。以上、「不祥」と注した作品について何か御存じの方は、是非、御教授下さると、ありがたい。]
○和蘭名醫シイボルト(神農的 鵞ペン
[やぶちゃん注:「神農的」というのは面白い。可食か有毒かを実際に齧って確かめたフィールド派ということか。]