譚海 卷之一 水戸家軍器等の事
水戸家軍器等の事
○水戸家用(もちひ)らるゝ諸帳面は皆西(にし)の内紙(うちがみ)也。國産なる故也。扨(さて)勘定濟(すみ)たる帳面反古をば諸役所より經師(きやうじ)の役所へ納(をさむ)る。其役所にて經師數人右の反古を以て毎日諸器物を張立(はりたて)、柹澁(かきしぶ)にてこしらふる也。反古にて張立たる船三人乘らるゝやうに製したるあり。常は疊み仕舞(しまひ)て進退し安き樣にしたるもの也。その外軍器甲冑等に至るまで、紙細工にて仕立(したて)るものあり。享保中日光御社參の御供の大名小屋ふしん懸合(かけあひ)に造るも、日をわたり混雜せし事なるに、水戸家の小屋ばかりは着日已前まで取懸(とりかか)る沙汰なし。其時に臨(のぞみ)て竹木を伐(き)り柱となし、屋根は右紙細工の澁引(しぶびき)にしたる折手本(をりてほん)のやうに長く續(つづき)たる紙を重ねて屋根となし、暫時に小屋出來(しゆつたい)せり。霖雨(りんう)に遇ふても五六日は防(ふせが)るゝ事とぞ。退散の時も居小屋(ゐごや)取崩(とりくず)さず、そのまゝにて立退(たちのき)たる奇特(きどく)の事也と申せし。又同家中鳥銃(つつ)稽古にあるき、鵜鳥(う)の類うち得たるを皆々其役所へ納る、即それを役所にて弓師數人ありてそのはねを矢にこしらゆる事、日々に數千本に至る。矢の出來不出來に構はず、只矢かずの多く出來るため製し貯置(ためおく)事とぞ。
[やぶちゃん注:「西の内紙」もと水戸藩内であった、現在の茨城県常陸大宮市西野内で産した、質はやや粗いものの、非常に丈夫な生漉き(きずき/きすき:楮(こうぞ)・三椏(みつまた)・雁皮(がんぴ)だけを原料にして紙をすくこと)の和紙。明治以降には選挙の投票用紙や印鑑証明用紙に指定されて全国的に知られるようになった。
「反古」現行は「ほご」と読むが、古くは「ほうぐ」「ほうご」「ほぐ」「ほんぐ」「ほんご」などと多様に読んだので、確定出来ない。不要な紙。
「經師(きやうじ)」書画・屛風・襖などの表装を担当する表具師。ここは「役所」とあるから、水戸藩内の公の表具担当者。
「進退し安き樣に」移動(保存管理及び収納引出)させ易いように。
「享保中」一七一六年~一七三六年。
「大名小屋」これは将軍の供をする大名が一時的に休憩するための日差しや雨風を凌ぐための仮小屋であろう。
「ふしん」普請。
「懸合(かけあひ)に造るも」指名された複数の藩が分担して造営したのであるが。
「着日」大名が実際に到着するまさにその日。
「霖雨(りんう)」何日も降り続く長雨。
「退散の時」将軍家御社参が終わって片付けとなった折り。
「居小屋(ゐごや)」前の「大名小屋」に同じい。
「奇特(きどく)の事也と申せし」恐らくは現地の大名小屋管理の担当者に仕舞い方を伝え、何かの折りに再利用なされよと伝えたのである。だからこそそれを聴いた人々が「奇特」無駄のない感心ななされようだと、讃嘆したのである。
「鳥銃(つつ)稽古」読みは私の推定。生きた鳥を狙いとした鉄砲の稽古。
「鵜鳥(う)」読みは私の推定。くだくだしいので、二字で「う」と読んでおく。
「其役所」先の「經師の役所」。
「そのはねを矢にこしらゆる」矢羽は一般には鷲や鷹の羽根が風合いもよく、耐久性があるため最良とされる。「矢の出來不出來に構はず」と述べているように、要は太平の世になって実践で使うことがなくなってしまったが、用意はしておかねばならぬ弓矢の「矢かず」をともかくも安価に(素材仕入れ代がこの場合は全く無料である)「多く」作製し、それを余裕の予備矢として多量に「貯置(ためおく)」ことが出来るというのである。]