宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 遁れ終(は)てぬ鰐(わに)の口
陸井(くがゐ)九太夫といふ浪人あり。もとは畠山政長が家人(けにん)、弓矢取つて隱れなく、智仁勇(ちじんゆう)ともに兼たり。去る仔細有りて祿を辭し、東關(とうくわん)に赴く。尾州の渡し、黨帆(たうはん/フネ)をうかべ、半ば乘出(のりい)づる時、海上、靜かに、風もふかぬ空、俄かに、波、たゞこゝもとを騷搖(さうえう)して、船をくつがへさんとする事、千度(ちたび)、不ㇾ歸(かへらず)、一所(ところ)に漂泊(ただよ)へば、乘合の面々、色を失ひ、こは淺まし、身をあだ波のもくずと成りなんか、と口説(くど)くもあり、哭(な)くもあり、或は大部小部の經を誦し、七字六字の名號を唱て死を淚の内にまつ、去れども、篙工(かこう)の男、かひがひしく、へいたにあがり、波上詠めすましていはく、魔風の騷がすにも非ず、龍神の祟にてもなし。何樣、惡魚(あくぎよ)の、此の舟の内に見入られたる人あつて、かく所爲(なすわざ)と覺えぬ。何れにても、見入られたる人、是が爲に一人入水し給ふべし。左なくては、數人(すにん)獨(ひとり)も助かる事なし、と、此の見いれをしるには、何にても、めんめん所持の具を一いろづゝ、浪にうかべて、是が喰(くら)ふを以て、證據とす、早く抛(な)げて見給へ、と、いふ。さらば、とて、扇(あふぎ)、鼻紙、櫛(くし)、もとゆひ、或は小刀(こがたな)、目貫(めぬき)、手拭(てぬぐひ)、おもひおもひに投入るゝに、更に取る事、なし。其の乘合の人數(にんず)、都鄙(とひ)の飛脚(ひきやく)、遠近(ゑんきん)の商人(あきんど)、出家、侍なり、下より次第に投げて、侍、陸井(くがゐ)一人になりぬ。此の人に紛(まぎ)らふべくもなし、早く入りて、多き人のうきを止(や)め給へ、と口々にいひ罵(のゝし)る。さらば、こゝろみに、とて、九太夫、かうがひを取りて波に入るゝに、件の惡魚、顯(あらは)れ、是をとる事、速(すみやか)なり、九太夫、思ふ、凡(およそ)士(ものゝふ)は戰場(せんぢやう)の刀劔に臥(ふ)し、主君の命(めい)に代るをこそ本意とはいへ、何ぞ怪しの惡魚の腮(あぎと)にかゝらん事、口惜しき次第かな、と、中間に心を合せ、自(おの)が小袖を取りて雜物(ざふもつ)を包み、人形(ひとがた)に拵へ、洑(うづま)く波上へ抛入るゝに、滔々(たうたう)と波立ちて、盤石(ばんじやく)のごとき鰐(わに)、かの人がたを取りて行くと思へば、浪、又、漸々(ぜんぜん)と治まりぬ。此の時、陸井、塗籠藤(ぬりごめとう)の弓の、山鳥の羽をはいだる大のかりまた引くはへ、切つて、はなつ。命をとらんとしける敵なる間、思ふ矢つぼ不ㇾ違(たがはず)、鰐(わに)のたゞ中を射て、手應(てごた)へしたゝかにしければ、おせや、いそげ、と片時のほどに宮(みや)にあがり、各、萬死(ばんし)を出でゝ一生にのぞむ心ちし、自(おの)が方々(かたかた)へ別れ行きけり。九太夫も危(あやふ)きをのがれ、鎌倉に行きて上杉憲忠に勤仕(きんし)す、一年あまり有りて公用に付きて、洛陽にのぼる。一夕、尾州の宮にとまる。此の家のあるじ、弓數寄(ゆみすき)と見えて、矢屏風(やびやうぶ)ひゞしく、飾りたる矢あまたある中に、九太夫實名をほつて朱を入れたる矢あり。亭主を呼びて、此の矢に少し、みしる所、有り、いかにして所持しけるぞ、と、とふ。主の云く。去々年(をととし)かうかうの事侍りて、旅士(りよし)の鰐を射たる矢也。猛き物の曲(くせ)、外にては死せず。射られたる所に歸り、空しく成る。某(それがし)、はやく見付け、網持ちて引上ぐるに、此の矢たゞ中に射つけてありし、其の鰐の形(かた)ち、大きなる事、二間半、骨高く、而(しか)も工(たくみ)を以て削れるごとく侍るまゝ、庭の泉(いづみ)の橋にいたし置きぬ、と、かたる。九太夫、聞きて、其の時の旅士は我れ也。扨は左にて侍るか、と泉水(せんすゐ)に出でゝ、此の橋の事か、などいひ、指をつくるに、忽ち小指(こゆび)より、血、流れたり。藥治を施すに滴り不ㇾ止(やまず)。次第に疵(きず)いたみ出でゝ、三日といふに、死したり。いかなるものゝ靈(れい)にや有けん、執(しふ)ねき見いれには在りける。
此の一事、九太夫弟同名彦四郎、ひそか
に我れにかたりき、あやしさのまゝ、書
きのこしぬ。
■やぶちゃん注
今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)のそれを用いた。
・「陸井(くがゐ)九太夫」「弟同名彦四郎」孰れも不詳。
・「畠山政長」畠山政長(嘉吉二(一四四二)年~明応二(一四九三)年)が)は守護大名・室町幕府管領で河内・紀伊・越中・山城国の守護。足利氏の一門畠山氏出身。以前に注した通り、従兄畠山義就とお家騒動で争い、それが応仁の乱の元となった。
・「尾州の渡し」所謂、「宮の渡し」「七里(しちり)の渡し」と称せられた、東海道五十三次で知られる宮宿(現在の愛知県名古屋市熱田区)から桑名宿(現在の三重県桑名市)までの海上の渡し。
・「黨帆」辞書類を見ても、「黨」(党)の字の義が何故、「舟」の意となるのか、不詳。識者の御教授を乞う。
・「大部小部の經」唐代の玄奘三蔵が大乗仏教の基礎的教義が書かれている長短様々な「般若経典」を集大成した経典「大般若波羅蜜多経」の中で最も「大部」な「大般若経」(六百巻)を、もっとも「小部」な「般若心経」を指す。
・「七字六字の名號」法華宗の「南無妙法蓮華経」の「七字」の名号及び浄土教念仏宗の「南無阿弥陀仏」の六字名号。
・「篙工(かこう)」「篙」は舟の竿(棹)、「工」はそれを上手く操る者の謂いで、船頭のこと。
・「へいた」「舳板」と書き、和船の船首付近に渡した板を言う。
・「詠めすまして」「ながめすます」とはじっと眺めて、の意。
・「入水」「じゆすい」。
・「此の見いれをしる」「此の見い」ら「れ」たる者「をしる」。
・「一いろ」一種。何でも一品。
・「目貫(めぬき)」太刀・刀の身が柄(つか)から抜けないように、柄と茎(なかご)の穴にさし止める釘。目釘。又は、それを蔽う金具。「目」は穴の意。小太刀なら必ずしも武士とは限らないが、若いか、或いは如何にも陸井より貧しげな浪人者がいたのであろう。
・「うき」「憂き」。
・「かうがひ」「笄」(こうがい:「髪搔(かみかき)」の転じたもの)で、ここでは刀の鞘(さや)に挿しておく、金属性の篦(へら)状のもので、本来、整髪具であるが、中世以降は単なる装飾具に変質した。
・「件」「くだん」。
・「中間」「ちうげん」。
・「鰐(わに)」鮫。
・「塗籠藤(ぬりごめとう)の弓」籐で巻いた重籐弓(「平家物語」等で知られる有名な弓で小笠原流では最高格の弓。赤漆を施した雅びな装飾を持つ。色々な読みがあるが、「しげとうゆみ」「しげどうゆみ」が普通)の、籐の部分を含めた全体を漆で塗り籠めたものを指す。
・「山鳥の羽をはいだる大のかりまた」「はいだる」は「矧(は)ぐ」の音便変化で、鳥の羽根や鏃(やじり)を竹に付けて矢につくることを指し、「大のかりまた」大きな雁股(先が股(やや外に開いたU字型)の形に開き、その内側に刃のある狩猟用の鏃(やじり)。通常では飛ぶ鳥や走っている獣の足を射切るのに用いる)。
・「敵」「かたき」。
・「思ふ矢つぼ不ㇾ違(たがはず)」狙いすましたところの箇所(挿絵から判る通り、鮫の頭部の眉間相当の部分)を違(たが)うことなく。
・「上杉憲忠」(永享五(一四三三)年~享徳三(一四五五)年)は関東管領で足利持氏執事であった上杉憲実の子。永享の乱で主君であった鎌倉公方足利持氏を滅ぼした後、父とともに出家したが、長尾景仲らの要請により還俗、文安五(一四四八)年、関東管領となった。後、持氏の子成氏が公方に就任すると対立、成氏邸で結城成朝(ゆうきしげとも)らに暗殺された。宗祇は憲忠の死去時で満三十四歳で、話自体は応仁の乱以前の相当な昔となる。しかし、これは九太夫弟陸井彦三郎が後に宗祇に語ったとするのであるから問題はない。
・「洛陽」京都。
・「矢屏風」折りたたむ屏風形式の木枠に矢を立てたもの。実用及び装飾家具として使われた。
・「ひゞしく」形容詞「美美(ひび)し」で、「立派だ・美事だ」の意。
・「猛き物の曲(くせ)、外にては死せず」獰猛巨魁の獣(けだもの)の性質(たち)として、自身のテリトリー以外では死をよしとせず。
・「二間半」四メートル五十五センチ。映画の「ジョーズ」などで「人食いザメ」として印象づけられ、日本近海にも棲息する、軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias を例にとると、平均的なホホジロザメの体長は四・〇~四・八メートルで体重六百八十から千百キログラム(♂より♀のほうが大型)で、専門家の意見によれば体長六メートル、体重千九百キログラム程度が最大と見積もられている(ウィキの「ホホジロザメ」に拠る)とあるから、よく一致するとは言える。
・「指をつくるに、忽ち小指(こゆび)より、血、流れたり。藥治を施すに滴り不ㇾ止(やまず)。次第に疵(きず)いたみ出でゝ、三日といふに、死したり」小さな切り傷を受けて、短期で発症して死に至っていることからは破傷風が疑われるか。