甲子夜話卷之二 8 富士馬の事
2-8 富士馬の事
先年【寛政己未】御馬預鶴見淸五郎の宅に立寄たるに、出逢て物語に及ぶ。予云ふ、先年旅路蒲原の驛にて聞しは、富士の麓に馬を産す。其馬の始は賴朝卿の放たれし種の蕃生せしにて、今も尚其性神駿にして、山谷を飛行し迅速なる事常に異りと。其後の旅行に原の驛に宿せしに、岩本内膳正に仰て、此馬を取て乘用となさしめらるゝ迚、これを繋ぎをく處などしつらへたるを見たり。此事思出しかば、取らせられし馬の何かゞなりしや、果して駿逸にやと尋しに、鶴見云は、我も其頃見しまゝにて、預ならねば其後は知らず。見し頃には彼駒の三歳の時にて有しが、長三尺ばかり、犬の大なるが如し。父馬は三尺にもこへ四尺にも及なん、少しく大なりしと語る。因其性はいかにと問に、殊に勝れたるとは覺えず。常馬に違ふことなし。仙南の産に比すれば、劣れること多しと答ふ。然ば先年聞しはひが言にてやありし。
■やぶちゃんの呟き
「寛政己未」「つちのとひつじ」は寛政一一(一七九九)年。第十一代将軍徳川家斉の治世。「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜(十七日)であるから、二十二年前で、静山の隠居は文化三(一八〇六)年であるから、未だ平戸藩第九代藩主現役の頃の話柄である。
「御馬預」「おんうまあづかり」は幕府実用需要分及び諸大名以下へ下賜するための御馬及び御馬具の修繕を掌った役職。
「鶴見淸五郎」不詳。
「蒲原の驛」東海道五十三次十五番目の宿場である蒲原(かんばら)宿のこと。現在の静岡県中部の静岡市清水区内。
「蕃生」「はんせい」と読み、繁殖に同じい。
「常に異り」「つねにことなれり」。
「原の驛」江東海道五十三次十三番目の宿場である原(はら)宿。現在の静岡県沼津市内。ウィキの「原宿(東海道)」によれば、『宿場として整備される以前は浮島原と呼ばれ、木曾義仲討伐のために上洛する源義経が大規模な馬揃えを行ったことで知られていた』とある。
「岩本内膳正」幕臣で寛政一一(一七九九)年当時、西丸側衆であった岩本正利のことか。なお、彼の娘の「お富」は一橋徳川家の第二代当主徳川治済(はるさだ/はるなり)の側室であった。
「仰て」「おほせて」。将軍が主語主体であろう。
「預ならねば」私の担当の御馬ではなかったので、の謂いか。
「長三尺」「長」は「たけ」で馬の場合は、馬の場合は蹄(ひづめ)から背までの高さを指す。九十一センチ弱。「犬の大なるが如し」は言い得て妙。
「四尺」一メートル二十一センチ。
「及なん」「およびなん」。
「因」「よつて」。
「問」「とふ」。
「常馬」「つねのうま」。
「仙南」仙台藩の南部を表わす地名。仙台は古えから馬産に適した土地として知られ、駿馬を輩出したが、特に伊達政宗が兵馬育成に熱心に取り組み、藩内の産馬の改良や増産訓練に努め、第四代藩主綱村の代には馬政の大綱「仙台藩産馬仕法」を定め、勘定奉行支配の下に「馬生産方」という役方を配置し、二歳駒の登録、馬市の開設などを行って、仙台藩における産馬事業は藩行政の大きな柱となった(以上は「仙台藩における馬の歴史(馬政史)、宮城県の馬政史について」(PDFファイル)に拠った)。
「然ば」「しからば」。
「聞し」「ききし」。
「ひが言」間違い。