文学青年 梅崎春生
わたしが二十代のころは、小説に志すということはかなり危険なことであり、気恥かしいことであった。当人は高邁(こうまい)の志をもってやっているつもりでも、世間一般が小説書きなんて碌でなしと思っているから仕方がないのである。だからわたしは両親にもなるべくかくすようにしていたし、親類縁者に会っても絶対にそんな話はしなかった。こそこそと文学の勉強をしていたという感じである。
わたしはいまでも職業を聞かれて小説を書いています、と答えるのに若干の気おくれを感じる。あのころの気分がいまでもあとを引いているのだろう。
本紙一月五日号文化欄に劉寒吉さんが「夢の話」という随筆を書いていた。町内の老人たちが集まって、あの寒吉という若いもんは小説にこって家業をおろそかにする、みんなで意見をしようじゃないか、と相談しているのを当の寒吉さんが隣室で小さくなって聞いている。そういう夢をいまでも見るという話である。劉さんの気持はわたしにはよくわかる。
わたしも若いとき、ある人から、お前も小説はやめて真人間になったらどうか、と真顔で忠告されたことがある。まるで小説はやくざかぐれん隊みたいなものだった。
思うにあのころの文学青年の風俗もよくなかったらしい。頭を長髪にして和服のふところに小説本の二冊や三冊をぶちこんで歩く。おれたちは芸術にたずさわっているという心意気がそんな形で出てくるのだが、世の人々はそうは見ない。なんてだらしない若者たちかというふうに見る。
わたしがこどものとき、おふくろといっしょに歩いていたら長髪の男とすれ違った。異様な感じだったのでおふくろに聞いたら、
「あれはシュギシャだよ」
とのことだった。当時主義者と言えば社会主義者のことである。共産党なんて言葉はこわくて口にも出せなかった。いま思うとあれはシュギシャではなく文学青年だったのかもしれない。
戦後は文学大繁盛で、ちょっと才能があると両親も力を入れ親類もはげましてくれるらしい。わたしのところにも原稿がときどき送られてくる。このあいだ五十歳ぐらいの女性が原稿を持ってやってきた。その原稿は当人が書いたのかと思っていると、
「実はこれは息子の書いた作品ですが、見込みがあるかどうか判定していただきたいと思いまして――」
思いつめたようなまなざしだったから、わたしは返答に窮した。戦後はお母さんも変ったものだと思う。
もっともちかごろの大学の入学試験に、みながみなじゃないだろうが、お母さんがつきそってくるのがいるそうである。息子の独立の精神が弱くなったのか、お母さんの世話焼きの領域がひろくなったのか。どちらにしてもあまり健全な状態じゃないようにわたしには思える。
[やぶちゃん注:「南風北風」連載第七十二回目の昭和三六(一九六一)年三月十六日附『西日本新聞』掲載分。なお、「本紙一月五日号」の箇所は底本では「本紙(西日本新聞)一月五日号(昭和三十六年)」となっている(ポイント落ちは実際にはもっと軽微)。しかし、これは底本全集編者による割注と判断されるので除去した。
「劉寒吉」(りゅう かんきち 明治三九(一九〇六)年~昭和六一(一九八六)年)は小説家。本名は濱田陸一(りくいち)。福岡県小倉市魚町(現在の北九州市小倉北区魚町)で生まれた。生家は旧小倉藩小笠原公の砂糖御用達商人「濱田屋」であった。大正一四(一九二五)年、小倉市立小倉商業学校(現在の福岡県立小倉商業高等学校)を卒業したが、在学中より文学の道に進み、同人誌『悟桐』を創刊、大正一四(一九二五)年に同人誌『公孫樹』を創刊している。昭和一三(一九三八)年には『九州文学』を創刊、昭和五八(一九八三)年十二月号の第四百六十四号で休刊するまで、四十八年間に亙って、この『九州文学』の大黒柱として編集経営に尽力した。北九州地域の文化振興に尽くし、昭和三五(一九六〇)年には小倉郷土会会長に就任、単なる地方の歴史研究の団体とせず、考古学・民俗学・文化財保護などの分野を包含した組織体に改編し、運営に当たった。また、文化財保護の重要性から森鷗外の旧居や柳川市の北原白秋の生家の復元にも尽力した(以上はウィキの「劉寒吉」に拠る)。]
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