芥川龍之介 手帳4―9
《4-9》
〇興福寺 石段-往來-石 門 元和六年立 寶林楢葉千秋茂(赤へ金 古) 東明山 福地明山萬古隆(同上) 悦峯 赤へ金 石垣の上に白壁 雜草―蔦 右傍石碣 鷄 細路大殿と■■を見る
[やぶちゃん注:「興福寺」直前で注したが、再注しておく。長崎市寺町にある日本最古の黄檗宗東明山興福寺。ここに出る山門が朱塗りであるため、「あか寺」とも呼ばれる。古くより中国浙江省及び江蘇省出身の信徒が多いことから、「南京寺」とも称せられた。本堂に相当する大雄宝殿は現在、国重要文化財に指定されている。明の商人が長崎に渡来し始めた頃の元和六(一六二〇)年に中国僧真円が航海安全を祈願して、この地に小庵を造ったことに始まる。「興福寺」公式サイトに詳しい。
「寶林楢葉千秋茂」サイト「碑像マップ」のこちらの同興福寺の大雄寶殿の記載に、『大雄寶殿(二層部分) 隠元禅師書、崇福寺扁額の複製』『航海慈雲(一層部分)』の箇所に、『上聯:寶地初登國師千秋』とあり、また、『興福寺 山門(県有形文化財)』『【竪額】東明山(隠元書) 元禄三年歳次庚午仲秋吉旦 典福重興住持澄一亮・彭城楓山居士劉一元仝建立』『【上聯】寶林橿葉千秋茂』出る人物と同一人と思われる。「楢」は「橿」の芥川龍之介の誤判読であろう。
「福地明山萬古隆」前注に引いた同前のサイト「碑像マップ」の同ページの同じ『興福寺 山門(県有形文化財)』に、先の『【上聯】寶林橿葉千秋茂』に続けて、『【下聯】福地明山萬古隆』とある。
「悦峯」悦峯道章(えっぽうどうしょう 承応三~四・明暦元(一六五五)年~享保一九(一七三四)年)江戸初期の渡来黄檗僧で黄檗宗総本山萬福寺(京都府宇治市五ヶ庄三番割に現存)の八代住持。浙江省杭州府銭塘県生まれ。「道章」は名で、俗姓は顧氏、法名、法賢。貞享三(一六八六)年に日本へ渡り、長崎興福寺住職となった。宝永四(一七〇七)年八月には江戸へ赴き、将軍徳川綱吉に拝謁している。将軍綱吉の側用人で大老格の柳沢吉保の帰依を受け、宝永七(一七一〇)年八月に柳沢家家老薮田重守に招聘され、甲斐国岩窪村に創建された永慶寺の開山となっている(ウィキの「悦峯道章」に拠る)。
「石碣」「せきけつ(せっけつ)」と読む。碑(いしぶみ)・石碑のこと。
「細路大殿と■■を見る」岩波旧全集では「細路大殿と鐘樓を見る。」となっており、続けて「石段左折門。實科高等女學校。」と続く。次項がここへ廻り込んでしまっていることが判る。]
〇鐘樓
[やぶちゃん注:興福寺鐘鼓楼。個人サイト「へんぼの目」の「国指定重要文化財 東明山興福寺」に、寛文二~三(一六六三)年の『大火の後』、元禄四(一六九一)年に『再建され、その後もたびたび修理がくわえられています。二階建ての上階は梵鐘を吊り、太鼓を置いてありました。階下は禅堂として使用されました』。『上階は、梵鐘、太鼓の音を拡散させるため、四方に花頭窓を開き、周囲に勾欄をつけてあります。軒回りは彫刻彩色で装飾され、他の木部は朱丹塗りです。長崎県指定有形文化財』とある。]
〇石段左折門 實科高等女學校
[やぶちゃん注:「實科高等女學校」現在、長崎市栄町にある私立長崎女子商業高等学校の前身を指すものと思われる。ウィキの「長崎女子商業高等学校」によれば、大正一四(一九二五)年四月に長崎商業女学校として興福寺内に開校、翌年に長崎女子商業学校と改称し、昭和一一(一九三六)年には興福寺を離れて市内新町に移転したとある。但し、既に述べた通り、芥川龍之介は生涯に二度、長崎を訪問しているものの、最初は大正八(一九一九)年五月(四日出発で到着は五日、十一日に長崎を発っている)、二回目は大正一一(一九二二)年四月(二十五日出発であったが、京都で半月ほど遊び、五月十日までに長崎着、長崎を発ったのは五月二十九日で、この時は実に二十日近くも滞在している)である。前後の記載から見て、後者の際のメモ書きと推定し得るが、その頃にはまだ「長崎商業女学校」は開校していない。その前身として「實科高等女學校」が存在したものか? 識者の御教授を乞うものである。]
〇大寶殿 權―椎雄? 戸―サヤ形格子 赤―黑―金
外 萬載江山(黑ヘ金 新)
内 航海慈雲(金へ黑 新)
[やぶちゃん注:「鐘樓」からここにかけての下部に以下の二図。上手は形状から見て、「興福寺鐘鼓楼」を写生したものと見る。下図の右上は「門」、左下が「大宝殿」。キャプションがこれであるから本文も「寶」ではなく、「宝」である可能性が高い。
「權―椎雄?」これは大宝殿の扁額か何かの字を判読しあぐねたメモと思われる。先に示したサイト「碑像マップ」のこちらの同興福寺の大雄寶殿の記載に、『大雄寶殿(二層部分) 隠元禅師書、崇福寺扁額の複製』とあるから、現在ははっきり見える(リンク先参照)それ(「大雄寶殿」の扁額)がくすんでいて、「雄」なのかどうか判らなかったのであろう。
「萬載江山」不詳。江戸前期の黄檗僧に「江山景巴」なる人物はいるが、これは次の「航海慈雲」と対句と考えるなら、豊饒祈願の語句と思われる。
「航海慈雲」これは人名ではなく、渡来者や貿易に従事した信徒が多かったことから考えれば、航海の安全を祈念する扁額と読める。]
〇蘇鐡 屋根の草 屋根シツクヒ
[やぶちゃん注:先の個人サイト「へんぼの目」の「国指定重要文化財 東明山興福寺」の大宝殿正面写真を見ると、現在も左右にソテツが植わっていることが判る。]
〇三尊 支那燈籠 濟世法王(群靑へ金) 柱角なり 花御堂 春菊 金盞花 薊 麥 松の綠 げんげ 撫子 あやめ
[やぶちゃん注:「三尊」興福寺大宝殿は正面壇上に本尊釈迦如来、脇侍として準提観音菩薩と地蔵王菩薩を祀る。
「支那燈籠」大宝殿内に吊られた「瑠璃燈」のことであろう。先の個人サイト「へんぼの目」の「国指定重要文化財 東明山興福寺」に、『上海から運ばれ、本堂内で組み立てられたものです。中国工匠による清朝の精緻な工芸品で、纏龍・人物などの彫刻は巧妙です。燈篭の周りに従来の紙や絹を使わず、ガラスを使用してあります。高さ』二・一八メートル、直径一・三メートルあり、長崎市有形文化財とある。リンク先には写真も掲げられているので必見。
「濟世法王」不詳。「濟世」からは救世観世音菩薩(ぐぜかんぜおんぼさつ)を連想するが、同寺には同像はなく(そもそも救世観世音菩薩は平安時代の法華経信仰から広まった名称であるが、この名は経典には説かれておらず、観音としては正統的な尊像ではないとされる)、そもそも観音菩薩を「法王」とは尊称しない。本尊脇侍の準提観音菩薩を誤認したものか。識者の御教授を乞う。]
〇赤―金―群靑―綠靑 埃の句 白壁 石甃
[やぶちゃん注:長崎で詠んだと思われる芥川龍之介の句に「埃の句」は、ない。或いは、中国で大正一〇(一九二一)年の中国行の際に洛陽で詠んだ、
麥埃かぶる童子の眠りかな
か、帰国した翌月の八月に詠んだ、
炎天に上りて消えぬ箕の埃
を思い出したものかとも思ったが、季節が合わない。]