四月ばか 梅崎春生
エイプリルフールを日本語に訳して、四月ばか、あるいは万愚節という。春の季語として歳時記にものっている。
だいたいが西洋の風習だから、それを無条件に日本にとり入れるのも妙な話だ。でも日本ではキリスト教徒でもないのがクリスマスを祝ったり、フランスと何の関係もない人がパリ祭に集まって騒いだりしているのだから、四月ばかぐらいは許すべきだろう。かついだりかつがれたりすることは日ごろの緊張の緩和にも役立つ。
うそをついていいといっても相手にショックを与えるようなうそとか、だまして金を詐取するなんてことはルール違反でよろしくない。あくまで戯れのていどにとどめるべきである。
だまして金をとる典型に泣き売(ばい)というのがある。二人組で一人が品物(かみそりなど)を持ちしょんぼりしている。もー人がさくらになって近づき、
「こりやすごい品物じゃないか。なに、一本二千円。そりゃ安い。三つばかり売ってくれ」
てなことをいって、とり巻いた人々の購買欲を刺激して、みな売ってしまうという筋書きだ。たいていの人がその手口を知っていると思うが、東京都内でときどきそれをやっているのを見かける。見ていると結構売れているんだから世の中は広いものだ。
またにせの大島紬(つむぎ)や琉球紬売りも横行しているらしい。この連中はどこで覚えたのか、あちらの方言を使う。この方言がくせもので、こちらはよく理解できないから何度も聞き返したり、向うも図に乗って手ぶり身ぶりで、
「自分は琉球(あるいは奄美(あまみ)大島)からやってきたものだが、帰りの旅費がなくなったから、この紬を売って金をこしらえたい。安くするから買ってください」
というようなことがわかってくる。かれらは帯のことをドンバラマキまたはドンバラアテと称する。方言を使用することでリアリティーを出そうとするところなど、泣き売(ばい)以上の知能犯である。数多い読者諸氏の中には、つい同情のあまりにドンバラアテを買った人が三人や五人はいるに違いない。
わたしの家にドンバラマキ売りがきたのは五年前で、若い女の二人組であった。演技はなかなかうまく、真に迫っていた。でもどうも話がおかしいと演技だけさせて品物は買わなかった。そのことをある雑誌に書いたら、読者からわんさとはがきや手紙がきた。自分のところにもきたとか、自分もやられたとの内容のものばかりである。住所を調べると日本全国にわたっている。たくさんのにせ紬売りが各県をわたり歩いているのである。現在もわたり歩いていることだろう。
こんな悪質のうそはにくむべきだが、年に一回友人同士でかつぎ合うのは精神衛生上いいことである。わたしはうそは申しません。
[やぶちゃん注:「南風北風」連載第八十八回目の昭和三六(一九六一)年四月一日附『西日本新聞』掲載分。底本(抄録)ではこれが全百回連載の「南風北風」の最後である。
「エイプリルフール」ウィキの「エイプリルフール」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『エイプリルフール(英語: April Fools' Day)とは、毎年四月一日には嘘をついても良いという風習のことである。四月一日の正午までに限るとも言い伝えられている。英語の "April Fool" は、四月一日に騙された人を指す』。『エイプリルフールは、日本語では直訳で「四月馬鹿」、漢語的表現では「万愚節」、中国語では「愚人節」、フランス語では「プワソン・ダヴリル」(Poisson d'avril, 四月の魚)と呼ばれる』。『エイプリルフールの起源は全く不明である。すなわち、いつ、どこでエイプリルフールの習慣が始まったかはわかっていない。有力とされる起源説を以下に挙げるが、いずれも確証がないことから、仮説の域を出ていない』。『その昔、ヨーロッパでは三月二十五日を新年とし、四月一日まで春の祭りを開催していたが一五六四年にフランスのシャルル九世が一月一日を新年とする暦を採用した。これに反発した人々が、四月一日を「嘘の新年」とし、馬鹿騒ぎをはじめた(これ以降は嘘の起源と思われる)』。『しかし、シャルル九世はこの事態に対して非常に憤慨し、町で「嘘の新年」を祝っていた人々を逮捕し、片っ端から処刑してしまう。処刑された人々の中には、まだ十三歳だった少女までもが含まれていた。フランスの人々は、この事件に非常にショックを受け、フランス王への抗議と、この事件を忘れないために、その後も毎年四月一日になると盛大に「嘘の新年」を祝うようになっていった。これがエイプリルフールの始まりである』。『そして十三歳という若さで処刑された少女への哀悼の意を表して、一五六四年から十三年ごとに「嘘の嘘の新年」を祝い、その日を一日中全く嘘をついてはいけない日とするという風習も生まれた。その後、エイプリルフールは世界中に広まり、ポピュラーとなったが、「嘘の嘘の新年」は次第に人々の記憶から消えていった』。『インドで悟りの修行は、春分から三月末まで行われていたが、すぐに迷いが生じることから、四月一日を「揶揄節」と呼んでからかったことによるとする説もある』(この説に従うなら、由来は西洋ではないということになる)。また他に、『イングランドの王政復古の記念祭であるオークアップルデー』(Oak Apple Day)『に由来を求める説がある』とある。
「泣き売」映画「ALWAYS 三丁目の夕日」でも描かれた万年筆(工場が焼けた・倒産して退職金が現物だった等々)が知られるが、私も大学二年の時、下宿していた中目黒駅近くの路地で雨の降る朝方、まんまと引っ掛かった。高級スーツできめたメンズ・ショップの者と称する若者が、背広の仕入れ個数を間違えたが、返品がきかずに困り切っている、五~六万するものだが、三万ぐらいで売りたい、という。路地裏にピカピカの乗用車があって、そこにやはり身なりのいい中年男性が運転席に座り、後部座席で四、五箱の色違いのスーツを見せられた。生地が薄いな、と思ったが、初夏でもあり、私の好きな明るい青のものがあったので、貧乏学生であったから、「今、手元で自由になるのは一万円しかありません」とい答えると、「それじゃ元もとれねえ」とそれまで黙っていた運転手がムッとしながらかなりゾンザイに答え、しかし「しょうがねえな、それでいい」と応じた。金は下宿にあったし、雨が激しくなってきたので、「どうしましょう」というと、また中年はイラっとした感じで車を動かし出し、「どっちだ?」とやはりゾンザイに聴いた。かくして下宿まで送って貰い、一万円で買い、「安くしていただいて」などと平身低頭して、雨の中を車は去った。その日の夕方は晴れた。下宿の部屋の窓の下に同じ中目黒に住む級友が訪ねて来た。その日の昼過ぎに、彼も同じように声を掛けられたという(が、金がないからと彼は断った)。彼曰く、「あやしい」。彼の発案で、町のテーラーに持ち込んで査定して貰おう、という。近くに老人のやっている小さな店があった。見て貰った。「そうだね……せいぜい一万円相当だね」と如何にも憐憫を湛えた目で老テーラーは言った(あれはわざと高値(こうじき)に言ってくれたのだと思う。恐らくは五千円もしない粗悪品だったのだろう。「見て戴いた料金は?」というと、彼は優しく「そんなの貰えないよ」と笑った)。損はしていないが、これで次の仕送りの一ヶ月の間、文庫本一冊も買えなくなったのを考えると、私は急に暗澹となってしまった(実に他愛無くあの頃は大根役者の演技のように「暗澹」となれたものだった)。友人は肩を抱くと、俺の下宿で飲み明かそう、と言った。彼は帰りしな、「剣菱」一升瓶一本を彼の金で買った(彼は授業には半分位しか出て来ず、アンダーグラウンドのカメラマンの助手として、専ら、エロ写真のネガの陰毛を針で突ついて消すアルバイトをしている、と言っていた)。あの他愛のない悲喜こもごもの中で飲み明かした「剣菱」の味は、何とも言えず、美味かったのを覚えている。]