昔の町 梅崎春生
昨年秋、九州旅行の途次、博多駅に下車した。ふと思い立った気ままな旅で、福岡では少年時代のあとを、熊本では高等学校、鹿児島では軍隊の陣地のあとなど、そんなものを見て歩こうという予定であった。義務も責任もない、気楽なひとり旅である。
博多駅前でタクシーをひろい、黒門橋からずっと伊崎の方に入ったお寺の前で止めてもらった。掘割の橋をわたり、荒戸町に入る。小学校中学校時代を過した家が、荒戸町四番丁にある。旧師範学校の運動場から、東へ二軒目の家だ。その家が今もって健在であるかどうか、焼失していないか、それは判らなかった。歩がそこに近づくにつれて、なんだか身内がじんじんと湧き立ってくるような気がした。
師範学校の運動場の土手に登り、あたりをずっと見渡した時、いきなり三十年前の風景を眼前にして、突然涙が出そうになった。ポプラや栴檀(せんだん)の木のたたずまいも、昔のままだし、そのひとつひとつの枝ぶりにも、はっきりと手ごたえのある記憶があった。子供たちがたくさん遊んでいたが、それらも三十年前と全く同じである。五分間ばかり私はそこに佇(た)ち、あかずその景色に眺め入っていた。その五分間の感じは、どうも文章では書けそうもない。
私の家は、焼け残っていた。私の家と言っても、もう今は他人の家で、見知らぬ表札がかかっている。内部を見せて貰いたいと思って玄関にまで入ったが、案内を乞う元気がどうしても出ず、そのまま外に出た。表から見ると、思っていたよりも案外小さな家である。よほど大きな家に住んでいた記憶が、完全に裏切られた。庭の柿や蜜柑(みかん)の木などの丈も、記憶の中のそれとくらべると三分の一ぐらいしかない。子供は子供なりに自分の身長で大きさをはかっていたのだろう。
そこから西公園の通りに出、港町、簀子町、大工町ととうとう天神町まで徒歩で歩いた。夜は西日本新聞の木村節夫先輩から、おいしいフグと酒を御馳走になり、大へん酩酊(めいてい)した。昔の町を歩き廻った関係上、酒席の間でも私はいくらか感傷的になっていたと思う。
この次福岡に行く時は、修猷館(しゅうゆうかん)を見ようと思っている。どうも私は人見知りをするたちだし、卒業後二十年余り経つので、修猷館には手懸りがない。それでつい昨秋は行きそびれた。
[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年四月刊『修猷』八十六号初出(同誌は修猷館高校発行の学校誌と思われる)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。このエンディングの記事で『修猷』に載せるというのは如何にもシャイな梅崎春生らしい。春生の感傷に水を差したくないので、注は控える。幸い、殆んどの地名については過去の私の注で考証しているのでそちらを参照されたい。]