甲子夜話卷之二 10 元日の雪、登場のとき輕卒の人の事
2―10 元日の雪、登場のとき輕卒の人の事
述齋林子云ふ。當元日【文政壬午】朝、雪降出しける折節登城せしに、ある歷々の人、松重の直垂をくゝり、金作りの梨子地紋鞘の兩刀いかめしく帶して、布衣の從者をさへ具し、爪折の朱傘をさゝせて、同じく登りしが、雪ふる故にや、其さま殊に輕率に走る斗に歩み、御門々々に松飾のある中央をば通らず、少しも路の捷ならんやうにと斜めに行く体たらく、眞に見苦しく、其身柄不相応に覺へし。入ルニ二公門ニ一鞠躬如とも見ゆれば、心あるべきこととて語られき。
■やぶちゃんの呟き
「述齋林子」儒学者林大学頭(だいがくのかみ:昌平坂学問所長官。元禄四(一六九一)年に第四代林信篤(鳳岡(ほうこう))が任命されて以来、代々林家が世襲した)述斎(はやし
じゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。羅山を始祖とする林家(りんけ)第八代当主。父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)。述斎は号の一つ。晩年は「大内記」と称した。ウィキの「林述斎」によれば、寛政五(一七九三)年に林家第七代『林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政の改革)』。『述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうもんほうこう)』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した』とある。松浦静山に本「甲子夜話」の執筆を勧めたのは、親しかったこの林述斎であった。
「當元日【文政壬午】」文政の壬午(みずのえうま)は文政五年で西暦一八二二年。この雪の降った旧暦一月一日はグレゴリオ暦の一月二十三日に相当する。「甲子夜話」の中で年月日まで特定出来る記事内容は特異点である。
「松重の直垂」「まつがさねのひたたれ」。紫と緑の糸で織った襲(かさね)の色目の松重(これは折り色であって襲(かさね)の色目ではない。経糸(たていと)が「青」で緯糸(よこいと)が「紫」のもの。ウィキの「直垂」によれば、『諸大名は禁じられた色を避けるために経緯(たてよこの糸)の色を変えた織色(玉虫)を好み、紫と緑の糸で織った松重、紫と黄色で織った木蘭地など、渋く上品な「織色」に趣味を競った』とある。
「くゝり」絡げ上げて括り。上品な直垂をかくするのは如何にもみっともない。
「金作りの梨子地紋鞘」(きんづくりのまきゑなしぢもんざや」。金蒔絵の梨地紋の鞘。「梨地」蒔絵の地の一種。漆の塗面に金銀の梨地粉を蒔いて、その上に梨地漆を塗って粉を被った後、粉が露出しない程度に研(と)いだもの。見た目が梨の肌に似ているところからかく呼ぶ。
「兩刀」太刀と脇差。
「帶して」「たいして」。
「布衣」「ほい」。幕府が制定した服制の一つで、幕府の典礼儀式に旗本下位の者が着用する狩衣の一種。特に無紋(紋様・地紋の無い生地)を指す。なお、幕府より布衣の着用を許されると、六位相当叙位者と見做されたことから、当該格の旗本の呼称ともなった。ここはあくまで前者の服装のこと。
「爪折の朱傘」「つまをりのしゆがさ」。和傘で傘を開いた際の傘の蔽い部分の円周上に出る骨の先(爪)を内側に曲げて垂らした(折った)長柄傘の一種。古くは宮中参内の際に使われ、「参内傘」「壺折り傘」とも称した。
「其さま殊に輕率に走る斗に歩み」「斗に」は「ばかりに」と訓ずる。滑らないように、速く辿りつこうと(例の情けない直垂を絡げた格好で)如何にも身分の軽い民衆のするような動きで、武士大名としての荘重さを全く以って欠いているさまを揶揄批判しているのである。
「少しも路の捷ならんやうに」「捷」(しよう)。原義は「速い」であるが、ここは近道の意。
「体たらく」「ていたらく」
「眞に」「まことに」。
「其身柄不相応に覺へし」その態度・行動は凡そ、その知れる御仁の身分役職官位には頗る不相応なものと感じた。
「入ルニ二公門二一鞠躬如」「公門に入るに、鞠躬如(きくきゆうじよ(きっきゅうじょ)」確かに、世には王公の門に入らんとする時には毬の如くに身を屈(かが)め、謹み畏まる、などとは言うし、一見、皮肉に言えば、まさにその御仁のそれは、そのようにして御座ったとも見えぬことはない(がしかし、あまりにも滑稽無慚であった)、というのである。順接の接続助詞「ば」で繋げているところが、これまた二重に皮肉に聞こえる。
「心あるべきこと」よくよく心するべきこと。誰が見ているか分かりませぬ故、という誡めをも含む。